【衝撃】卑弥呼の墓はここにあった!?歴史から抹消された「宇佐神宮」のヒミツ【ゆっくり解説】
Vložit
- čas přidán 18. 04. 2023
- 今回は、卑弥呼の墓はここにあった!歴史から消された神社「宇佐神宮」について紹介させて頂きます。
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#ゆっくり解説 #歴史 #卑弥呼
卑弥呼関連での動画で一番辻褄があって、ワクワクしました。
宇佐神宮に何度かお参りしましたが、毎回上宮よりも下宮の荘厳さと威厳に圧倒されていました。
下宮には上宮を超える何かが祀られていると思うので、卑弥呼を祀っているのかなと思いました。
下宮は食事を作る場所だったらしいですよ❗😄
山門郡は「やまかど」ではなく、「やまと」と読みます。父が福岡県山門郡大和町(現柳川市大和町)出身なのでね。
ちちくりまわすぞ
今回の作品は相当レベルが高かった💝💝
大許山の禁足地にある古代の巨石遺跡に触れてないのがちょっと残念です。
宇佐神宮に行ったひとならわかりますが、比売大神が頂上で祭祀を行っていたとする大許山を拝む場所が設置され
今も祭祀が行われている非常に地味ながら最重要の場所です。
動画にあるように、比売大神を宗像三神と示す史料は存在せずまるで後付けで謎に包まれています。
記紀に書かれていない歴史、記紀編纂時に焚書された書物と天皇家の言い伝えだけあるのでしょう。
現在の宇佐神宮が建立され四拍手なのは、出雲大社と同じく封じ込めでしょうね。
それでも天皇が皇祖神にご神託、となると宇佐神宮が本来の皇祖神が眠る場所だと知ってるからです。
比売大神が、記紀にでてくる天照大御神のモデルでしょう。
アマテラス以外に説明がつきません。
その人が大陸からは卑弥呼と呼ばれた女王でしょうね。
御隠れになった年の日食は九州でしか見えません。これが決定的です。
宇佐神宮は、どなたを封じ込めたのでしょうか?
宇佐市というと、宇佐市の高校生が胸にでっかくUSAって書いたユニフォームで野球してたら海の向こうのUSAから「勝手にうちの国の名前つかってんじゃねーよ」みたいなクレームがきて、
それで当時の宇佐市長が「建国二百年たらずの赤ちゃん国がなんですって?こちとら一千年以上前からUSAやってんですけど」って資料とともに送り付けたら静かになった話大好き。
ていうか日本人はみんなこの動画観るべき
だがベースボールとアルファベットは向こうが先だな、漢字かカナで表記すれば完全勝利だった。
昔から卑弥呼または台与の墓ではないかと言われていますが、掘るしかないですね。
宇佐神宮と卑弥呼、邪馬台国の関係についての動画をよく見るのですが、こちらの動画は踏み込んだ内容でとても面白かったです。
余談ですが、転勤で宇佐に住んだ際、和気姓の方が結構いらっしゃって感動しました。
日食は九州じゃなくて北陸でしか見えなかったんじゃなかった?
それに早朝で余り多くの人は気がつかないんじゃないのかな?
そもそも北陸だし
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確かにそうです。
248年(神功皇后摂政49年)9月5日/福島や新潟で早朝に皆既日食になったとする。(諸説有り!より)
ただこれはコンピュータに計算用のデータを天文研究者等が用意したものです。当たり前ですが…。
鎌倉時代に限らずですが古代は特に天体異常が散見されています。鈴木敬信氏も同様の見識をImmanuel Velikovskyの著作翻訳の中で語っています。
古代から天体の動向は記録されていますが、この年の日蝕は下記の二つです。
☀1月??日/乙未。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
☀2月1日/己未。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
前年の247年(神功皇后摂政48年)
☀2月1日/庚午。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
この前の年はありません。
245年(神功皇后摂政46年)
☀4月1日/壬子。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
☀10月1日/戊寅。又日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
この年は二回生じています。
宇佐神宮がある場所は、明治になるまで「豊前国」(北九州あたりから宇佐まで)と呼ばれていました。そして豊後高田から宮崎県の手前までが「豊後国」です。
そして、この二つを合わせて「豊の国(とよのくに)」です。
豊の国、つまり台与の国。そして豊後国の東は海があります。確か魏志倭人伝には邪馬台国の東は海と書いてあったと思います。
結論として、私は北九州から大分県にかけてが邪馬台国であり、宇佐神宮は卑弥呼の墓の上に社が建てられているのだと思っています。
確か高木彬光氏も宇佐神宮は卑弥呼の墓の上に建っていると言われてような
私のおじが宇佐出身の辛島姓で先祖代々天皇家の皇室警察(?)だったそうでおじも警察官でした。宇佐神宮へ子供の頃みなで連れて行って貰った時改修(昭和)で広い広い境内全てが緋色もすがすがしく、目にも燃えるばかりに見えました。そして祭りの大広場の中心からの打ち上げ花火の素晴らしさが今でも忘れられません。その10年程経ったあと親戚の大伯父が考古学に詳しく、お家に伺った時に棚にあった『邪馬台国…』という本を借りて読んだところ(昭和の終わり頃)推理小説でしたが、邪馬台国の場所を宇佐神宮と結論されていたのを読んでズドンと撃ち抜かれたようになりました。
プラスしますが、小学生の時から大阪の生駒山の麓に住んでいた私は遊び場がもうすぐ山で大昔は大阪は生駒山まで海であったために貝塚がそこらじゅうにあり郷土博物館辺りの山をちょっと掘れば土器の欠片や石器が出てきたりしたので良い遊び場でした。小学生3年の夏休み、大人に混じって郷土博物館の勉強会に出て宿題に古代の地理、伝承等をまとめて出した時に倭国大乱や東征についても聞いた覚えがあります。
辛島氏は宇佐秦氏の長です。
八幡宮を宇佐に作った名門
です。馬術に優れた武の一族
で地元では、有名です。
卑弥呼と天皇家との関りは分かりませんが、困ったことがあったら卑弥呼に聞けというような伝承が天皇家にあったのかもしれませんね。
出雲大社も掘ったら伝承通りの巨大柱遺跡が出たので、宇佐神宮も卑弥呼の墓が出てきてもおかしくないと思います。式年遷宮とかないんですかね~🤔
興味深かったです👍卑弥呼の一代目は宇佐の宮の姫巫女の豊玉姫。魏に使いを送り、八本の幡(八幡)を貰い受けた。との話もあります。「出雲と蘇我王国」斎木雪舟
著が出典です😮
高木彬光さんの推理小説「邪馬台国の秘密」では、そのものズバリ、宇佐に邪馬台国があったとありました。
ネタバレというより、どうして宇佐に邪馬台国があったか、そこへの洞察がメインなので、興味のある方はどうぞ。
なお、ちょうど50年前の作品で、神津恭介が入院中に手に入る数少ない資料だけで推理するというベッドディテクティブ(日本語では、安楽椅子探偵)物です。
私も父が面白いぞぅと…で、夢中で読みました👍
私も古田氏の邪馬台国はなかったと同様、高木彬光氏の改稿「邪馬台国の秘密」に魅力を感じます。
卑弥呼の墓は宇佐神宮だよ。
古事記によると、日向を発った神武天皇が宇佐に立ち寄った記述があります。
宇佐が卑弥呼(=天照大神)の墓とすると、東征の成功を先祖に祈願したのかな、と想像してます。
宇佐神宮のもあったのですね!ありがとうございます🙇
宇佐神宮といえば、神武東征の伝説で日向国を出発して最初に宇佐神宮に立ち寄る話がありますね。
って事は宇佐神宮には神武天皇の一族にとって重要な人物が祀られていて、祈祷や神託を受けてから奈良橿原の地を目指したって妄想も膨らみます。
ただ東に国を移すなら、橿原に拘らず海路でもっと東に向かっても良いですもんね。
卑弥呼の末裔と、神武東征春、出雲の、國譲り、とは風ようのことがあったと考えるほうが
普通だろう⁉️‼️。卑弥呼春軍事的に 、臣下になったと言える‼️。あるいは、反抗して、
消滅させられたか⁉️
それは疑問だが
神武東征は、あっただろう‼️
暦の解釈
利用次第だ‼️。
と思う‼️。
孝謙・称徳天皇の代、宇佐八幡神託事件の際には天皇が神託の内容を確認するために使者を送るほど
大きな影響力を持ってましたからね。
この内容は、邪馬台国、卑弥呼に関係する内容が私の考えとほぼほぼ一致します。
神武東征のおり、宇佐と北九州市の岡田宮に立ち寄っています。
これは先祖の邪馬台国一族の居る知などに立ち寄り兵を集めたり準備したものと考えられます。
今回の動画の中で「八幡大神」の話がありましたが、岡田宮のあるところは北九州市「八幡東区」で「八幡」の地名に関連性を感じます。岡田宮には旧邪馬台国の一部が邪馬台国衰退の折に移住していたと思われます。
さらに卑弥呼は通常日田市にいたと考えていますが、日田と宇佐を繋ぐ途中に渓谷があり、「耶馬渓」といいます。漢字は違いますが。「やばけい」そして「やまたいこく」とこれも関連性を感じます。
宇佐神宮の奥宮 大元神社=卑弥呼の墓、という説があります。
改修の時内側が朱に塗られている石棺(甕棺との説も)を見たという話も封殺されたとか!
大元神社は謎に包まれていますよね。
初めて宇佐神宮に参った際に、何故か気になり、大元神社にあがりました。とても!強くひかれました。
九州に住んでましたが、宇佐神宮さえ、ろくに知りませんでした。私の知識を全て越えてた😅動画、大変勉強になりました。
仏教はざっくり社会で勉強しますが、神社は勉強してないような、、
義務教育で是非こういう話を教えてください
日本書紀には、神功皇后が山門(やまと)の「土蜘蛛」の「女首長」である「田油津媛(たぶらづひめ)」を討ったとありますよね。「たぶらづ」とは「たぶらかす」だともいわれており、『魏志倭人伝』の卑弥呼の記述に似ている。ついでに、偶然かもだが「蜘蛛」と「八雲」と「八幡」の八繋がり、クモ繋がりとかも気になる。
後継者のトヨ(イヨ?)という名も豊後の豊と少なからず関係あるかもと思ってますwww
私も母方の祖先が大分県宇佐付近なので卑弥呼の墓は宇佐神宮を一生推していきたいと思います。頑張れ‼️
勉強になりました👮
宇佐神宮は卑弥呼さまの墓ならロマンを感じマンモス🙋
宇佐神宮は作家の半村良氏も邪馬台国があった所って書いてるのを思い出しました
聖地保存説って書いてたけど、とても説得力があった気がします
半村良がですか?イーデス・ハンソンですか
宇佐神宮の巫女は三代目ヒミコです☺️酷い殺され方をしたので神社を建てて諫めました。過去世で繋がりのある方々は沢山転生してますから、各々の役割を全うすることで次の世界へ行けるのが今世。楽しみましょう✨
248年(神功皇后摂政49年)9月5日/福島や新潟で早朝に皆既日食になったとする。(諸説有り!より)
ただこれはコンピュータに計算用のデータを天文研究者等が用意したものです。当たり前ですが…。
鎌倉時代に限らずですが古代は特に天体異常が散見されています。鈴木敬信氏も同様の見識をImmanuel Velikovskyの著作翻訳の中で語っています。
古代から天体の動向は記録されていますが、この年の日蝕は下記の二つです。
☀1月??日/乙未。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
☀2月1日/己未。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
前年の247年(神功皇后摂政48年)
☀2月1日/庚午。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
この前の年はありません。
245年(神功皇后摂政46年)
☀4月1日/壬子。日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
☀10月1日/戊寅。又日有蝕{太陽蝕}之。(朱書-志、第24-5行5)
この年は二回生じています。
この地域は薦神社、八面山巨石信仰などいろいろと謎の多い場所があります。これらを繋げると真相にたどり着くかもしれませんが、そうさせないよう意図的に隠されている気もします。
えー、サファリは宇佐市なんですが…w 後、博多には応神天皇を祀った三大八幡宮の一角、筥崎宮があります。箱崎のご祭神は応神天皇と神功皇后と玉依毘売(神武天皇の母)。ここは博多祇園山笠(櫛田神社)の際、箱崎に白砂を貰いに行くわけですな。
豊前豊後は、古来よりとよの国と呼ばれている。
トヨの国
邪馬台国と耶馬溪
御存じかも知れませんが、高木彬光という推理作家が「邪馬台国の秘密」という小説を書いています。小説仕立てでは有りますがその内容は明らかに学術的歴史書と言っても過言では無い驚きの理論で邪馬台国は宇佐神宮を含む宇佐市周辺と断定し、卑弥呼は比売大神だと断言しています。かなり昔の小説ですが復刻盤も出ていますから興味のある方は読んでみればかなり面白いと思います。
卑弥呼の日蝕は247年3月24日という説もあります。ちょうど日没の時に皆既になりますので、この世の終わりかと思えるような恐ろしさです。
対して248年9月5日の日蝕は、皆既が終わってから太陽が昇って来るのであまり恐ろしさはありません。
宇佐神は何故 “紫”の輿に乗る事ができたのだろう。
伊勢を神宮にしたのは藤原で、今の伊勢の地位を確立したのは明治政府。歴代天皇は母体となる神社は各々 違っていた。
宇佐神宮は年2回参拝しております。
やはり豊前国怪しげな感じですね。
ご機会あれば田川にある香春神社等も取り上げて頂ければと思います。
きっと、新しい発見があると思います。
宇佐神宮は面倒臭いから
御許山の大元神社しか行かない
宇佐神宮の御神体までは行けないが
行けたという不思議な話を聞いた事がある
邪馬台国と卑弥呼絡みは
まるで見てきたかのように自説を展開するのが一斉に湧くのが面白い😂
宇佐神宮に『皇室関係者』が内密に毎年参拝しているらしい
卑弥呼の後を継いだ台与(とよ)は豊国(豊前、豊後)の福岡県側に豊比売を祀る神社があります。
私の母親の先祖が宇佐八幡宮を護って来た一族だそうです。天皇の側室の子が元です。元総理の麻生太郎もその一族と聞いています。家紋も丸に十六花弁の菊の紋章です。
麻生太郎はカトリック教徒ですよ。
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キリシタン大名大友宗麟によって、北部九州は教化されました、現在でもその影響は少なからず残っています。
宇佐神宮は、秦王国の宮と
言われています。
秦氏の辛島氏を中心に
秦一族が守ってきたの
でしょう。地元では、
辛島氏と大神氏が有名です。
宇佐八幡宮のそばの川には 大山椒魚が いましたね
大元山は 分水嶺で 南の豊後に 雨水は流れていきます
宇佐神宮より古い香春神社や古宮八幡宮や豊日別宮など豊前豊後には謎多き神社がありますね。宇佐神宮の元宮は大隅国(霧島市)隼人町の鹿児島神宮(正八幡宮)から来たという説もあります。姫島の比売語曾神社も新羅との関わりがありますね。宗像大社は道主貴や裏伊勢とも呼ばれ比売神や天照大神との関連性を伺わせます。
その1
比売大神は宗像三女神のことです。姫氏(きし)の神様です。
姫氏というのはなじみのない氏族かも知れませんが、伊都国の王も邪馬壱国の卑弥呼も壱與も狗奴国の卑弥弓呼も姫氏です。
弥生時代の王族です。姫氏の歴史は古く遡れば中国の周王朝にたどりつきます。周の皇帝が姫氏なのです。
周の太伯(たいはく)と虞仲(ぐちゅう)が国を出て上海のあたりに句呉(こうご)という国をつくります。句呉は19代目に当たる王が国名を呉に変えます。
呉の最後の王が臥薪嘗胆の故事で有名な夫差です。呉王夫差は越王勾践と激しく争いますが最終的には負けてしまい自決します。BC473年のことです。
其の支庶、海に入りて倭と為る(夫差の王族が海を渡って倭国に行きました)以来中国では倭国のことを東海姫氏国といいます。
夫差の王族は有明海に入り山門(やまと)で上陸します。そこから発展していくのですが王族は二つに分かれます。
一方は山門から菊池あたりまで行き狗奴国をつくります。もう一方は北上して伊都国や奴国をつくります。
ちなみにライバルの越はBC306年に楚によって滅ぼされます。越から逃げてきた人たちは半島を経由して山陰地方に入り北陸地方に行って
コシのクニ(高志、古志,越)をつくります。倭国に来ても呉越同舟とはいかないようです
そして半島南部の卓淳国から物部氏の集団が九州にやってきます。この時、物部を率いたのが饒速日命です。
物部は遠賀川流域の鞍手を中心に発展していき、やがて奴国と戦うようになります。これが倭国大乱です。
大乱に勝利した物部は奴国の土地の大半を奪い邪馬壱国を作ります。しかし王にはなれませんでした。
王には姫氏の血を引く老女、卑弥呼が共立されます。卑弥呼が死ぬと男王が立ちますが,これを不服としてまた内乱が起こります。
そして姫氏の血を引く13歳の女の子、壱與が王になって収まります
これで物部は思い知ったことでしょう「物部では王になれない、姫氏でないと王になれない」と。
そこで姫氏との混血を図ったのだと思います。神話で大国主命が多紀理比売命や市杵島比売命を娶ったという話がそのことを連想させます。
その2に続く
その2
邪馬壱国から100年後のAD368年1月7日籐大臣(とうのおとど)が肥前国水上の賊徒、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を退治するという事件が起ききす。
沈輪は三方河池を構え一方が口というところにいます(環濠集落?)籐大臣は昼のうちに賊徒を皆退治するも夜になっても沈輪の行方が知れず
松明で河池を照らし潜んでいた沈輪が出てきたところを首をはね茅を集めて焼きました。この後、籐大臣は高村に御宮を建てて(今の大善寺玉垂宮です)
政事を行いました。賊徒を退治しただけなら、めでたしめでたしという話ですけど御宮を建てて、政事を行ったということは、クーデターではないかと思います
殺された桜桃沈輪は実は「謎の4世紀」の王様で、その王を殺して自分が新しい王になった、ということだろうと思います。
籐大臣は物部保連といいます。この地を治めた後AD390年にお亡くなりになり高良玉垂命と諡(おくりな)され高良大社に祀られます。
高良玉垂命には9人の皇子がいますが、おそらく斯礼賀志命(しれがしのみこと)が後を継がれそのあと讃、珍、済、興、武の倭の五王へとつづきます。
倭の五王は積極的に中国に朝貢しますが、中国に行く使者たちは有明海を出入りします。水沼に皇都があるからです。
この王たちが水沼君です。そして水沼君が奉斎する神が宗像三女神です。兎狭津彦、兎狭津媛は水沼君が祀る三女神を祖神として祀りました
宇佐神宮は最初、宗像三女神だけを祀っていたのです。
その3に続く
麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類(本社:宇佐市)が、「卑弥呼」というワインと「HIMIKO」というブランデーを出してますな…(^^)
これだけの事言っておいて大元神社に一切触れてないとは。
御許山の奥の院ですか
宇佐神宮も薦神社も山は
どうでも良いみたい。
周防灘の方向に礼拝するし
池や水を大切にしてません?
地元の方によれば今の宇佐神宮は宮司に色々と問題ありで とても残念な状態だそうですね。
北九州と伊勢にある夫婦岩は、イザナキイザナミ神ですね
丹(朱)はどう説明できるのでしょうか?それがものすごく気にかかって
るのですが。
その皆既日食って、九州では見られなかったのではないですか?
宇佐は豊にあるので日女神とは豊玉姫のことでしょう。
豊城入彦は豊来入彦のことで、豊から来て大和に入った人のこと。
宇佐家の伝承本に書いてあります。
都市伝説 昔からの カップルといくと別れる 女の神様三人いて 選らんだカップルは結婚できる 別れたい♀はわざと♂を連れて行き この♂と別れますようにと不思議と別れると、、、
某小説家の方が宇佐神宮は卑弥呼のお墓で、伊勢神宮はお仏壇では!とのコト!
比売大神はなんでも大元山という宇佐神宮の奥の宮に当たるところから招来した伝承を聞いたことがありますね(宇佐神宮からもその山は見えます)
ただ、山頂は立ち入り禁止になってますから、何かいわれがあるかもですね
宇佐神宮の「金が出る」のご神託は、当時の宇佐神宮がいろんな人脈や情報網を各地にもっていたからできたことだ!との話を聞きました。
あらかじめ金のありかを知っていて、ご神託が出せた という説です。
ありがちな話ですよね~
これで得をしたのは百済王氏だったので渡来人の秦氏とつながりがあるのでしょうか。
宇佐神宮は秦王国などで
秦氏ネットワークがあります。
銅、水銀、金の情報はあります
壹與と「トヨ」と読むのか「イヨ」と読むのかによるが、宇佐周辺は墓前豊後国、その前は豊国。これをなんと読むのか?
何れにせよ、邪馬台国と関係する宇佐神宮と思ったほうが、ロマンがあると思います。
その推測通りならワクワクするよね。
現在でも天皇家は宇佐神宮を重視しているのだろうか?
天皇家は宇佐神宮を重視したくても、神社本庁は宇佐神宮を蔑ろにしているという事実……。
宇佐市民だがなんか嬉しいw
邪馬台国、宇佐神宮説面白かったです✨
色々考えさせられました。
思い浮かんだことを書いてみました!
稲作とともに進んだ文化・人・技術が到来したら、それを持ち込んだ人力ある人を神と崇めたかもしれないし(海人族の技術力も高かったらしいし、大陸と海を使った交流しやすい九州北部が力を持つのは必然)。
また、当時の中国の内乱で敗れ逃げてきた皇族もいたかもしれない。天孫降臨も、そのような見目麗しい人がいきなり現れて神と思ったかもしれない(少なくとも身分が高いと思わせられただろう。言葉が違ったらなおさら自分達と同じ存在とは思えない。アジア圏ならそこまで顔貌が変わらないので怪物とは思わないだろう)。
邪馬台国についても、そもそも、男王達に認められ共通の女王になる人は、中国王朝の血筋だったとか、よほど特殊な能力がない限り難しい気がする。
卑弥呼が天照だとして、両親がイザナミ、イザナギとして、中国から国造りに派遣され、その子の卑弥呼が渡来の言葉しか使えなかったなら、弟が通訳(邪馬台国の言葉が使える前提)していた可能性もある(中国から封号をもらうという考えがある時点で中国の力を知り従属している意識があった集団?)。
宇佐神宮を卑弥呼の墓としてみるとして、廟というのは中国的な感じがしますし(大宮司が大神氏から渡来の民を祖とすると言われる宇佐氏(中津市の薦神社池守)に変わった時にそう書かれたのか?)
卑弥呼は基本表に出なかったようだから、三女神だったり?(3人であれば優れた政治もできそう)。
宇佐氏の家系図では、はじまりが天三降尊だけど、三女神にしても三がキーワード😳
皇室に古くから信仰させる理由は神仏習合もあるだろうし、ウサツヒコと神武天皇をもてなしたウサツヒメは、中臣氏の遠祖である天種子命の妻になったからかもしれない。その後も宇佐氏は源や平氏(清盛の娘など)、有力貴族の娘をもらっているらしい。
そもそも、日本の縄文文化は一度、鬼界カルデラ噴火等で壊滅的になっていたので、弥生時代はその後周辺国から移り住んだ人々が異文化を持ち込み育んで行った可能性もあり、土着の文化はどれくらい残っているんだろうという印象(縄文の血が純粋にのこってるのは沖縄くらいと聞いたことがある..。あとは混血で遼東半島あたりのDNAがちらほらなど)。
もし日本の火山の位置を把握しや日本統一を目指すならどこに都をつくるか?中国からの攻め込みに強い場所はどこか。九州は交易の要としながら、瀬戸内海を使って物資を運べる安全な平野がある場所。
九州は阿蘇山、雲仙、桜島、鶴見岳など、危ない火山があるから、火山や津波の影響の少ない畿内に行くのはわかる気が..(日本統一を目指す良い位置のためかもしれませんが)。
以上、色んな連想しちゃいました😂
「八幡神=応神天皇」と言われるようになったのは、平安時代に入ってからだという説もあるので、謎が多くとても興味を惹かれますね。
若い頃、宇佐の駅前で「はるばる来たぜ~アメリカ(USA)~♪」なんて動画を撮っていた私は、なんてバチ当たりなことをしたんだろう、って反省しています。
応神天皇説は正直無理があると思ってます。
"USAの隣は豊前長洲"ですからね😂
皆既日食は九州でしか見られなかったではなく九州では見られなかったが正解です、戦後の歴史学者には気を付けましょう。
博多湾沿岸から筑紫平野~豊前までが女王国の勢力範囲なので可能性はあります。
北九州市付近は女王国の範囲ではないので、飯塚・田川経由で往来してたのでしょう。
宇佐神宮、よく行ってたなあ。
秋に行くと赤とんぼやお香の香りがしました。よく不思議な風🍃にクルクル身体中に巻かれました。
ちなみに、宇佐神宮の周りには宇佐風土記の丘の周りに3世紀前期の赤塚古墳など宇佐神宮の近くに沢山の古墳がありますよ。
宇佐神宮自体も前方後円墳だと言われている。
神武東征と関わる場所もあり、
ウサツヒコ、ウサツヒメがおもてなしをしたと言われます。
関東にないと知名度下がるよな、テレビ局がおいそれと行けないのと
テレビマンに関東東北人が多いから関東しか知らないってのもあるか
うちの近くです。
神仏習合で、神社に附属する寺が「神宮寺」、逆に寺院に付属する神社が「鎮守社」ですね。
有名どころの世界遺産で言えば、栃木の日光東照宮の「神宮寺」が輪王寺、
奈良の興福寺の「鎮守社」が春日大社といった具合に、日本宗教の基盤に神仏習合の痕跡が残ってる
宇佐のある地域は、元々は古代出雲の支配地域だった可能性の方が高いと思うけどね。
秦氏を一時的に留め置く場所にしたり、大神氏と神職として派遣したりしてるから抹消はしてないとは思うし、中臣・藤原氏にしてみたら所縁の地でもある訳だしね。
卑弥呼は日の巫と見た場合、巫は神様をその身に降ろして言葉を伝える事(神託)ができる人物ですね。ちなみに、その言葉を受けて皆で話し合って実行していく責任者が統治王ですね。
中臣というならアマノコヤネとその妻のヒメガミの墓がセットで宇佐神宮の下にあると考えた方が記紀的には順当に思われます。
偉いからお伺いを立てに行くのではなく、中臣氏と近縁の卜部氏が常駐して占いをしていたとか。
宮中の神事は中臣が牛耳っていたといいますし。
大分の県北には耶馬溪町という土地もあるのも偶然ではないのかも
高木彬光の「邪馬台国の秘密」というミステリー小説では、邪馬台国=宇佐だった。以来ずっとそれを信じている。笑 ただ、あの辺り、海流が速そうで、魏志倭人伝で言うような豊穣の海的イメージは湧かない。まだ有明の方がそれっぽい。
宇佐は神宮とは別に、秦氏の東方進出の拠点となっていたとも言われる。瀬戸内海の反対側にある住吉大社との繋がりがどうなっているのかも興味ある。いづれにしても、5世紀頃の話のような気がするので、卑弥呼の時代ではないとおもう。
秦氏がユダヤ系だとすると、宇佐に神輿(アーク)の起源があるというのはしっくりくる。そもそも、ヤハタという言葉もなんとなくヘブライ語っぽい。
関サバ関アジで有名なところなんだけどな。海流が早いからこそ豊穣の海なのでは?私も高木彬光派ですが。
八幡宮=ヤハタという事で秦氏が日本に持ち込んだ神様という説もありますね。
この時一緒に持ち込まれた神様が大市比賣大神と言われています。
大市比賣大神は伏見稲荷の宇迦之御魂大神の母にあたります。
また、奈良県の箸墓古墳の別の名前が大市墓と言われているのですが、何故その様に言われているのか謎です。
秦氏は秦国に取り込まれた製鉄技術を持つタタール人で、そのたたら製鉄の技術を持つ集団のことを「秦氏」として日本に招聘したのだとか。
そして、その氏神として「八幡神社」があるので、製鉄絡みの土地には必ず八幡神社が建立されている。
また、鉄の使い道としてメインは武器だったために、尚武の神様としても信仰されているのだとか。
日本刀とたたら製鉄は切っても切れない仲だしね。
八幡=ヤハタ=ヤハウェ説もあります
凄く面白かったけど、出雲大社(たいしゃ)読みが惜しかった
「二礼二拍手一礼」って昔は「二礼二拍手一拝」って言ってたのからいつの間にか変化してる気が…
拝まないでお辞儀だけになっちゃってるのはおかしいのでは…とか、またマスゴミの謎の配慮か?とか思ってしまう…
拝んでないと言う事にさせたいのかな?
宇佐神宮の元々の神である比売神は、宗像三神でいいと思います。
誓ひによって須佐男命は天照大神の装身具の玉を噛み砕き息を吐き出して男神を得ます。その長子の一族が天孫となり、東征します。
玉を噛み砕いたのは財力にものを言わせた事を意味すると思います。
一方天照大神は須佐男命の剣を噛み砕き(ワイルド!)吹きかけた息から三女神が生まれます。剣を噛み砕いたのは武力で制圧した事を意味します。
宗像三女神は朝鮮半島からの航路の守り神として海の民に信仰されますが、宇佐では須佐男命の娘たちとして信仰されていたのではないでしょうか?
天照と須佐。これは巫女卑弥呼と実際に政治をした弟王の関係を暗示します。
天孫系が東征して大和に移ったのち、九州に残った本家が卑弥呼の邪馬台国だったと考えるのも自然です。
古代王朝に最も遠い継体天皇が即位した時、反乱を起こした磐井一族がその本家で、大王一族は磐井と言う氏族だったのかもしれません。磐井も須佐男命も濡れ衣を着せられて追放されます。
本家を凌駕し貴族政治を拡張する大和朝廷に対し、九州の武士たちは元寇を単独で撃退するほど強力になり、拠り所としてかつての九州王朝の残滓である宇佐に謎のスーパー武神である八幡を勧請します。元寇で神風を起こしたと言うこの武神はヤハタ。つまり満州民族などの騎馬民族の軍制である八旗に起源があると思われる外来神ですが、箔を付けるため九州に縁の深い応神天皇と母の神功皇后(明治まではれっきとした15代天皇だった)を祭り、さらに菩薩に習合(死後のアフターケア)して全国の武士たちの信仰を集めます。
結局宇佐八幡神宮は常に歴史の敗者の立場に置かれながら、逞しく姿を変えて立ち上がり、朝廷も無視出来ない勢力に成り上がって来たのです。
記紀にでてくる宇佐と元宮の薦神社、今も毎日祭祀が行われている御許山の元宮の説明が全くつかないですよ。
九州の有明海に渡来した呉の末裔に、姫氏(ヒメウジ)がいます。=比咩氏
宗像三女神でも玉依姫でも女神ですらなく、比咩氏の神様で比咩大神だったりして😂
石川・福井・岐阜の境にある白山。日本三霊山ともいわれてます。加賀一之宮は白山比咩神社といいます。全国に多数ある白山大明神の総本山です。古事記に一回だけ出てくる神様ですが。
誤字多すぎ。
高木彬光先生の『邪馬台国の秘密』にありましたね。
肥の国(肥前肥後)の巫女=ヒミコ
後継者は臺與(とよ)=豊の国(豊前豊後)とヒントがありすぎるのにw
「肥の国」はもともと「火の国(阿蘇・島原)」で「日の国」ではありませんよ
あと「トヨ」じゃなくて「イヨ」だったら「豊の国」を速吸媛(ハヤスイヒメ)の速吸瀬戸で隔てて東隣の「伊予の国(エヒメ)」になっちゃいますね
「伊予の国」の南隣には「波多の国(秦王国)」もありますよ
でもこれって所詮は語呂合わせの言葉遊びで残念ながら考古学的な成果はいまのとこ全く有りません
@@user-bi3en6gj6w レスどうもです
仰るように阿蘇が一宮の火の国熊本ですが、熊本北部の米どころ菊池氏を滅ぼしての地位でして肥沃な肥の国で間違いありません・・その菊池氏は八女と連合を組んで朝鮮征伐に反対したことで政治の主流から外れ、おまけに南北朝でやらかし、一族の墓すらまともに残っていません
逆を言うと当時は中央政権に対する影響力を持っていたわけです
@@user-bi3en6gj6w では蘇は何を意味しているでしょえか❓
宇佐神宮の近く(ちょっと遠いが)耶馬溪ってのもある。
菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台ですね
真っ平な地図上の論理で語る人が多いような。長年九州に住んでいると、西と東で違う気がする。鹿児島本線と日豊本線の違いと言うか。伊都国を考えると、近隣に強い勢力が有ったと思える。適地は筑後平野。宇佐からは遠すぎる。神武東征を考えると、日向・宇佐・岡田宮と日豊本線上りで山陽本線と言うルート。なぜか現福岡市あたりに寄ってない。古来から大陸との交流が有っただろうに。敵対勢力だから寄ってないのかも。
宇佐八幡宮の八幡神は、応神天皇のご神霊で、実在した応神天皇が神武天皇ではなかったのでは?とする説があったような。神武東征で宮崎県の高千穂峡(高天原)から、奈良に移動するときに、大分県の宇佐エリアを通って(逆?)本州に移動したのでは?とする説があったのではないでしょうか?現、天皇家は、伊勢神宮は表向き大切にしてますが、何か大事な決断をするときには、宇佐八幡宮にお参りに行ってのは、応神天皇(=神武天皇)が初代天皇ではないかと。
せっかく面白いのに誤字脱字が多くて残念ですw
よく皆既日食と岩戸隠を同一視する人いるけど、皆既日食なんて一時間ぐらいで終わるし、数十年おきに起きているし、農業が伝わって天文観測もしているはずで当時の人も周知の事実ではないかな😅弥生時代は太陽活動の極端な低下が原因の小氷期が来ていて平均気温が5℃ぐらい下がり、その為大陸、半島、列島で食料をめぐって大きい争いがありました。岩戸隠れはこの混乱を神話化したものだと思います。
道鏡の話も書いて欲しかったです😅
あと4拍手の所ももう一個突っ込んで欲しかった😅
現在の作法は
官製神社の習い。
神道の流れは
大和のみ成ら不也。
その3
古代史を研究しているとあることに気づきます
それは古代史の大まかなあらすじと神話のあらすじはよく似ているということです。
ですから神様のモデルになった人物が誰かだいたいわかります。
宗像三女神のモデルは壱與姉妹です。壱與は女二人男一人のきょうだいです。宗像三女神も三女神とは言いますが実は一柱は男の神様です。
神仏図会を見ますと湍津嶋姫は衣冠束帯姿で髭を生やした男として描かれています。また宗像大社の辺津宮の千木は外削ぎで御祭神が男の神様であることを示しています。
須佐之男命のモデルは狗奴国の卑弥弓呼です。狗奴国が邪馬壱国を攻めたことを神話では須佐之男命が高天ヶ原で乱暴狼藉をはたらいたと書いています。
この時は邪馬壱国が高天ヶ原になっています。卑弥呼の時代に皆既日食があって、このことが天照大御神の岩戸隠れのお話になっているので
卑弥呼が天照大御神だと考えがちですが氏族が違います。卑弥呼は姫氏ですが天照大御神は秦氏の神様です。
秦氏というのは秦の始皇帝の圧政から逃れてきた人たちが馬韓の東に住むことを許され斯盧国をつくります。それが新羅へと発展してゆくのですが
そこから九州の香春岳(かわらだけ)に銅の採掘にやってきたのが秦氏です。秦氏は香春から京都(みやこ 今の行橋市)さらに宇佐のあたりまで住んでいました。
この京都が天照大御神の神京だといわれますので、やはり天照大御神は秦氏の神様です。
香春岳に香春大社があって、そこには辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおまのみこと)と子供の忍骨命(おしほねのみこと)が祀られています。
子供が忍骨命ということで、このかたが天照大御神のモデルではないかと思います。息長という名前ですので天智系天皇の祖神だと思われます。
しかし、このかたには邪馬壱国の時代のエピソードが無いので卑弥呼のエピソードを天照大御神のエピソードとして転用したのだと思います。
その4に続く
福岡博多にも那珂遺跡群の一つ那珂八幡古墳が存在する。規模は宇佐八幡と比較にならないが、前方後円墳の真上に社殿が鎮座してる。
1号主体部の大部分が社殿の真下にあるため、規模・副葬品は未だ不詳、古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり両河川即ち、福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられている。大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差はあるが、同じ時期のものと推定され、初期大和政権との関係が注目されてるとか。那珂八幡宮の屋根には十六弁菊の菊花文があり、天皇家と縁の神社かも知れないね。
祭神
八幡神(応神天皇)
神功皇后(応神天皇の母)
玉衣姫(神武天皇の母)
この神社の祭祀が始まった時期は不詳
特に神功皇后は夫の仲哀天皇崩御の際に後の意思をつぎ熊襲・三韓征伐で福岡の香椎宮や糟屋の宇美八幡など縁の神社だし、応神天皇出産時に「糟屋の地でお産みになられ」それが縁で、産みが(宇美)に宇美八幡と呼ばれる由縁とか、また出産前の妊婦さんが安全祈願にこられ神社の石を持ち帰り無事出産後は新な石を奉納し御礼参りをするとかね。
祭神:応神天皇・神功皇后
玉衣姫・住吉大神・イザナミの命
長々と福岡・博多の宣伝しときます……ww
那珂八幡宮は実物大ガンダムを展示してる
福岡ららぽーと近くだよ‼️
神託をしたのは、アークではなかたったか。神輿は、宇佐からだ。
ウサといえば、ウサギ。そうだ、大国主が卑弥呼のパパだな。
宇佐神宮を語る上で熊本県にある菱形神社は外せませんよ😊
確かに菱形八幡宮の裏山の洞窟は応神天皇の宇佐ヘ繋がっているという伝説がありますね。菱形八幡宮の池の湧水も応神天皇の産まれた産湯と言われている。
じぶんは邪馬台国と大和政権は同じ説。
卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫命。その時代はまだ祭政一致でやっていた。
とよは、豊鍬入姫命で、崇神天皇による政教分離により、斎宮になった。
大和政権は連合国家で、大陸の使者が来たのは、九州の直轄地。半島への足場として大きな都市が築かれていた。
・・そんな個人的妄想。
邪馬台国と大和政権が別ものだとしても、東進よりは、西進して邪馬台国を併呑したというほうが、自然に思える。
いくら幻想郷と現実の世界の巫女は違うとは言っても、巫女(霊夢)が神社神宮の事を知らないのには違和感しかない
だから魔理沙マリサ先生さんは大学の講師先生さん並みみたいです!それでも霊夢レイムは女子大生みたいです!
宇佐神宮は卑弥呼じゃないんだよなあ。
山門という古くからの地名は筑前・筑後・肥後の三箇所にあります。いずれサンモンでもなくヤマカドでもなく、ヤマトと読むのが正解です。学者たちは上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)という、文字通り特殊な法則を以ってそれら九州のヤマトと大和盆地のヤマトを区別したがりますが、詭弁にすぎません。いっそイチャモンと言ったほうがよいかもしれませんけどね😆
え~っと、道教じゃなくて道鏡。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。
八幡の幡はハタ・・・・・秦氏との関係も?
中国の周の姫もありW、、稲作が大陸から伝わったのは長江流域の稲作をできる人が移り住んできたんだよ(農業ナメンナヨ)宇佐神宮は中国の出先機関なので大事な事はお伺いしたわけで、以後日本が独立性を持つことで宇佐神宮は、、、
子供の頃から初詣は宇佐神宮でした。
ほうじょうやだね。