【日本人の源流】「出雲と東北」知られざる血脈とは?【ゆっくり解説】

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Komentáře • 197

  • @66gotan
    @66gotan Před 9 měsíci +16

    「戸を閉める」ことを「戸をたてる」っていうの岩手県の雫石町でも同じだわ。びっくりした。

  • @user-hp8zn8me8p
    @user-hp8zn8me8p Před 9 měsíci +20

    私は島根県出身の父と福島県出身の母の間に生まれ、岩手県出身の人と結婚しました。
    出雲と東北がこんなに身近だとは驚きでした。
    そうしたら、私の子供達は縄文人のDNAが残っている割合が多いんですかね?

    • @yukko8826
      @yukko8826 Před 8 měsíci +3

      もうそのルーツだけでも誇りを持って良いですよ💞
      茂木誠さんが、未知の世界へ危険を冒して踏み出す縄文気質の人達が、今の世界が崩壊した後にきっと新たな生き方を開拓してくれると思う、みたいな事を仰ってました。

    • @nintama18
      @nintama18 Před 8 měsíci +1

      @@yukko8826 自分は出雲の出身だが、ルーツを基にした選民思想は危険だと思っている。
      出自・民族は、本人がどう努力しても、生まれた後に変える事はできない。
      そして出自や民族を理由とした差別が、これまでどれだけの悲劇を生んできたか。

    • @yukko8826
      @yukko8826 Před 8 měsíci

      @@nintama18 樣、
      これを選民思想と受け取るとは驚きです。
      自分のルーツに誇りを持ち自己肯定感を高める事が差別につながるなんて、「運動会で徒競走は足の遅い子への差別になるから全員手を繋いでかけっこすべき」派みたいな考え方ですよ。
      他者と比較して誰かを貶める事によって「自分たちだけが優秀で価値がある、だから他者を滅ぼしても良い」というのが選民思想でしょ。

    • @user-jk6ed9ux1t
      @user-jk6ed9ux1t Před měsícem +1

      ​@@nintama18 そもそも 選民思想を履き違えてる

  • @oma8056
    @oma8056 Před 8 měsíci +6

    出雲の人の会話を現地で聞いた。単語そのものは広い意味での東北方言とは異なる点があるものの、イントネーションは南東北の方言に近いものがあった。
    また出雲地方、特に大社町周辺の農村風景は宮城県のそれにそっくり。
    気候、風土はその地方の気質を作ると自分は思う。
    それは当然話し方にも現れると思う。

  • @user-ry9ri5ko5b
    @user-ry9ri5ko5b Před 9 měsíci +22

    東北人(ズーズー圏ではない)だけど出雲そば好きだからなんか嬉しい。

  • @user-yu2lh7bx1o
    @user-yu2lh7bx1o Před 9 měsíci +12

    私の父親は新潟県刈羽郡高柳村(現柏崎市)の出身です。今も、ずーずー弁を喋って居ます。生まれ故郷を誇りに思っている様です。

  • @user-fy7fi1qc9w
    @user-fy7fi1qc9w Před 9 měsíci +14

    ネゴシックスの言葉を聞いた時、『アレ?東北出身?』と思ってたら島根の人と聞いた記憶がある。
    ちな東方東北出身です。

  • @user-yp5fk2cp6o
    @user-yp5fk2cp6o Před 9 měsíci +29

    四隅突出型墳丘墓は現在の出雲周辺だけでなく、日本海を北上するように広く分布していますね。
    それも興味深いです。

  • @omeguflower1897
    @omeguflower1897 Před 9 měsíci +18

    鳥取出身ですがこの動画を見て島根が羨ましいと思いました笑
    あと出雲の人は「いずも」じゃなくて
    「えずも」っ発音です。

  • @yngkz23
    @yngkz23 Před 8 měsíci +9

    わたしは出雲の血筋が濃いのですけど、東北は憧れの土地です。

    • @aiueoaiueo00
      @aiueoaiueo00 Před 2 měsíci +5

      私も東北の血が割と濃いですが、出雲はどこか惹かれるものがあります。
      いつか行きてぇーーー

  • @user-yb1yt5gw9d
    @user-yb1yt5gw9d Před 8 měsíci +9

    そういえば母の里がオロチ神話の地ズバリなんですが
    まあ辺境の地で他の土地との交流もほぼ無かっただろうなという感じですが
    村人の顔立ちがホリが深くて外国人風なんですよね。
    自分もそうですが。父が沖縄なのでその縄文遺伝子かと思ってましたが母方もそうなのかも知れないですね。

  • @user-cm2of9ll7p
    @user-cm2of9ll7p Před 8 měsíci +7

    出雲を出た誇り高き人々が東北に定着したという理論に、納得しました。

  • @user-zh4ic3go1w
    @user-zh4ic3go1w Před 9 měsíci +17

    出雲弁
    わー(あなた)がわー(私)にわー(あなた)って言うけん、わー(私)もわー(あなた)にわー(あなた)って言うだがな。って言う言葉遊びがある。
    わーのイントネーションが微妙に違う。
    中国でなぜ日本人が倭人と言われたと言う説に、わーわー言ってたからという説があるが、まさに当てはまる。

  • @user-dc6qf7cp7c
    @user-dc6qf7cp7c Před 8 měsíci +7

    三内丸山遺跡を見ても分かるように縄文時代には青森・北海道に高度な縄文文明が有りました。
    彼等が寒冷化によって南下移動した先が出雲だと思います。縄文以来の王家が出雲に移動し、弥生時代においても日本海の中心地として栄えたと考えています。

  • @zoob6510
    @zoob6510 Před 9 měsíci +10

    鹿児島の一部も東北と似てるっていうから日本の最南端から北上していったんじゃないのかな
    出雲でも九州から攻めてきたとか出雲口伝にあるようなのでそこで混ざってさらに一部が東北へ
    出雲も海洋国家で九州も国の行き来は陸上からは厳しいとこが結構あって縄文時代から数百キロも移動していたのを考えると
    古代の海上交易はかなりの規模があったと思われ

  • @kooota7455
    @kooota7455 Před 9 měsíci +11

    大国主は越の国にきれいな娘がいると聞いて会いに行ってるしね。
    ほかにも大国主の子が国譲りの際に諏訪(長野)に逃げたって話もあるし、つながりは多かったと思う。

    • @ubon2k
      @ubon2k Před 3 měsíci

      その大国主の子は、最後の縄文王国だった諏訪で戦い軍門に下した事で、諏訪と勢力圏だった関東圏が弥生時代を受け入れた、らしい。 つまり長野から関東以外、西日本から北陸繋がりで東北までは先に出雲の勢力圏で農耕をやっていた、という説があるね。

  • @namaco-umai
    @namaco-umai Před 9 měsíci +7

    同じ「古代の浪漫」を追求する動画でもここのコメ欄はどのコメントも教養高く(一部除く)知る興奮を味わえ有意義だ。
    どのコメントも大変興味深い(一部除く)

  • @user-nh6co2zd2v
    @user-nh6co2zd2v Před 9 měsíci +12

    出雲は大和朝廷ができるまでの日本の首都と勝ってに思いこんでいる、島根出身の私です。
    ずーっと今のままで、チョー田舎であって欲しい。

  • @user-po5nj6qw5f
    @user-po5nj6qw5f Před 9 měsíci +11

    遺伝子型が東北と出雲の関連性とかもありましたが。
    最近見てきたのだと、治療における、抗生物質の使用量の都道府県別の差とか、
    病気関連とかのデータを厚労省とかのデータで見たことあって。
    花粉症になりやすいかとか、40歳以上での大腿骨骨折とかも。
    島根だけ、近隣府県とは異なる傾向があって、そして島根は東北の人の傾向に近かったことがありますよ。
    これを見た時は、遺伝子の類似性を感じたなぁ。

    • @user-sv4db8zq1m
      @user-sv4db8zq1m Před 8 měsíci +1

      体格も出雲地方は周辺と違うそうですね。

  • @user-qy4sj6bk5s
    @user-qy4sj6bk5s Před 9 měsíci +36

    とても興味深い考察の動画でした。
    参考になる事が山盛りです。
    ただし、未だに東北地方が本州西部(関東以西)より後発地域との決めつけが有るように思います。
    私は近畿地方出身なんだけど、昔は太平洋地域より日本海方面が人口も多く産物も豊かだった証拠が有ります。
    東北地方は国創り神話(弥生時代)以前の縄文時代には日本列島の中心地だとの研究発表も有りますよ。
    三内丸山遺跡を始めとする縄文時代の遺跡群は北・東日本の方が多く発見されている。
    東北地方の言語や血筋が山陰地方や日本海方面に伝播したと考えてもおかしくない。
    仮に国創り神話時代の出雲地方の文化や人が東北地方に伝わったならば、鉄剣も伝わった筈だが、未だに東北地方では発見はされていないようだから。
    私は、温暖な気候だった縄文時代の中頃の東北地方の縄文人や文化が、縄文時代晩期の寒冷化で西日本の日本海側に移住が有ったのではないかと推測します。

    • @user-rn6xp3mr7n
      @user-rn6xp3mr7n Před 9 měsíci +2

      縄文時代は、西日本と東日本では、生活様式が違っていたそうです。
      東日本は集団生活をしたので、大きな村を作り、西日本は家族単位だったので、小規模の集落でした。
      小規模とはいえ、農業、交易は盛んでした。

    • @user-eo8dh2kw7o
      @user-eo8dh2kw7o Před 9 měsíci +14

      私は東北人なので、気持ち的には東北人が出雲人化した「東北→出雲ルート」だったらいいなと思う反面、現実的に考えたら「東北→出雲ルート」はありえないんじゃないかと考えてます。
      東北と出雲に遺伝子の類似性が見られるなら、なぜその間の地域に連続性が見られず、出雲だけが飛び地になっているのか?
      東北と出雲間を陸路で渡ったのなら、その間に必ず遺伝子を残すはずで、関東〜中部までの間に遺伝子の類似性がないのはおかしいんです。
      なら、陸路じゃなくて海路を取ったらどうなるか?
      東北から出雲へ行くのに、日本海に船を出したとして、日本列島沿岸には対馬海流があって、南下しようにも海流に押し戻されてしまいます。
      もっと遠洋に出て、オホーツクから南下するリマン海流に乗ったとしても、出雲に着岸する前にやっぱり北上する対馬海流に乗ってしまって東北に押し戻されるので、長い船旅が文字通り水の泡になるんですよね。
      逆周りで太平洋から漕ぎだそうとしても、やっぱり北上する海流のせいでそもそも東北から南下するのは難しいんですよ。
      東北から出雲へ、陸路を取った痕跡がなく、海路を行くのはほぼ不可能。
      「出雲から船を出してみたら、なんかそんなにたいして船を漕ぐ労力もなく勝手に気がついたら東北に流れ着いちゃったからそのまま東北人化しました」が自然な流れだと思います。

    • @user-xn8ik6uu5m
      @user-xn8ik6uu5m Před 9 měsíci +1

      同じ近畿地方出身者として、同じ考えをお持ちの方で頼もしく思います。

    • @user-yb1yt5gw9d
      @user-yb1yt5gw9d Před 8 měsíci +4

      素晴らしい視点です。縄文を語るのに海流との因果関係は重要な論点だなと思いました。

    • @Sage-kf7eg
      @Sage-kf7eg Před 8 měsíci

      むかしから国土という概念があったわけではない。青森県の三内丸山と北海道道南は同じ文化圏。
      北九州と朝鮮半島南部はこれもおなじ文化圏の時期がある。海洋民が居住する地域がひとつのかたまり?
      地中海におけるフェニキア人の土地は港ごとに点在してたように縄文人、倭人の領域も日本海沿岸、大陸沿岸に点在していてそこでは共通の言語で話すことができたはず。よって出雲と東北がモザイク状だとしてもまったく不思議ではない。粛慎にしてもかなり後世まで言葉が通じてたくらいだから同族?公用語だったんでは?ってくらい。

  • @user-tx6xc4om6n
    @user-tx6xc4om6n Před 9 měsíci +14

    熊本の天草弁にもイントネーションが似ていると思います。古代の親潮ルート、近代の北前船の影響があると思います。

  • @user-ly3us4fh6j
    @user-ly3us4fh6j Před 9 měsíci +5

    出雲市在住者です。初見の内容もあり、興味深く見させて頂きました。面白かったです❤

  • @jardins-du-cosmos
    @jardins-du-cosmos Před 9 měsíci +6

    逆に出雲に東北から来た可能性もあるけれど、気候変動もあり何とも言えないね
    海洋移動が今の陸行より盛んだったなら別に言語の類似性は変でもない
    出雲や大和、高千穂などの神話が残る地だけを見て居ては片手落ちな気がしますね

  • @user-jd7gb2xt5h
    @user-jd7gb2xt5h Před 9 měsíci +8

    三内丸山にあったとされるタ搭と出雲大社にあったとされる搭には何となく類似性は感じてしまうよな(笑)

  • @user-og3ob3gnbre8e
    @user-og3ob3gnbre8e Před 9 měsíci +12

    出雲地方には「出雲7音」といい、あいうえおの中間に音があります。
    WONSI(E)YU FERATA→ が おんしゅう ふらた→雲州 平田 的に。
    取り上げていただき感謝です。

  • @user-lr2td5gk9b
    @user-lr2td5gk9b Před 9 měsíci +7

    同じ島根でも石見地方とは方言が違いますね😂イントネーションで出雲の人はすぐわかります😊

  • @user-dr8nv6px2c
    @user-dr8nv6px2c Před 9 měsíci +14

    東北出身だけど、戸をたてる、て出雲弁でも言うんだ🤔
    出雲口伝では、東北地方に住んでた時もあったようだしね。

  • @suiseibank
    @suiseibank Před 9 měsíci +6

    徳川家康が江戸に幕府を開くまでは、関東地方の人達もズーズー弁を話していたという話もある。関東地方に先祖代々住んでいる人達(例えば神主とか)のDNAを調べてみると意外と出雲の人達との共通点があるかも。

  • @user-xm5yh9bu8z
    @user-xm5yh9bu8z Před 9 měsíci +8

    17:30
    青森の津軽出身です。
    津軽弁で「じょっぱり」という方言があって、強情、意地っ張り、頑固者という意味です。
    そのまま津軽人の気質をあらわす言葉なので、霊夢ちゃんの説は大いにあり得るかも!などと思いましたwwwww

    • @aaaa-st9qp
      @aaaa-st9qp Před 9 měsíci +1

      出雲だと「きこ」ですね。頑固者は「きこな」かな。

    • @user-nc4us7hv3b
      @user-nc4us7hv3b Před 9 měsíci

      @@aaaa-st9qp 頭に「ほんにあーさんは…」が付きますね(笑)

    • @oma8056
      @oma8056 Před 8 měsíci

      ​@@aaaa-st9qp
      「きこな」に似てるとすれば、「きかない = 強い」があります。
      北東北の広範囲で使われます。
      参考までに「じょっぱり」は津軽弁に限らず、青森県内の他の地方、秋田、岩手の一部でも使います。
      「情を張る」という意味で、強情さを意味しています。

    • @user-dw2rz2tt5e
      @user-dw2rz2tt5e Před 8 měsíci

      強情っぱり、というのは標準語にあるのでは。あれ、標準語ではないのかな??

  • @tetsumiyokoyama823
    @tetsumiyokoyama823 Před 9 měsíci +5

    全国ネットのニュースでは、青森地元民のインタビューに於いて字幕が出る事が多いが、東北南部に住んでいる人も字幕がないと訳が分からない。

  • @user-dd9yu2bi6w
    @user-dd9yu2bi6w Před 9 měsíci +9

    島根半島にウップルイ(十六島)とか本当に歴史の不思議を感じます。

  • @conanhoshi4337
    @conanhoshi4337 Před 9 měsíci +17

    私は島根県出身で、両親もご先祖様も知っている限り皆、島根県人、母方は出雲源氏の血筋。 アメリカで遺伝子検査を受けたら、フィンランドとイヌイットの遺伝子が入っていると検査結果が出て『あだん!』と驚きました。 だんだん

    • @kats0087
      @kats0087 Před 9 měsíci +3

      フィンランドとイヌイットの遺伝子であれば、彼らと日本人の大多数を占める弥生系日本人はアルタイ語族という共通の祖先を持つので、日本人には高頻度で現れると思いますよ。ただ東北人や南九州人は縄文系日本人比率が他の地域より多いので、上記アルタイ系遺伝子の出現率は小さくなると考察します。

  • @snd999xxx
    @snd999xxx Před 9 měsíci +10

    戸をたてるは、宮城の田舎でも使われていたね。閉めるの意味。

    • @user-pg7rb1cg3u
      @user-pg7rb1cg3u Před 24 dny

      山形の祖父も「戸🚪をたてる」と言ってました。

  • @hirohidehirai9358
    @hirohidehirai9358 Před 9 měsíci +11

    昔は、日本海側が「表日本」だったんですよね、大陸/半島からの技術・文化の流入はマズ日本海側(地点は色々)に入り、それから反対側に広がっていく。
    と同時に、日本海側の海岸の地域相互間が、先ずは船による交流が行なわれていた、そうして、出雲(当時は先進地)→東北へ人が移り住んで行ったかと。

  • @user-vy4ug8ru4c
    @user-vy4ug8ru4c Před 9 měsíci +16

    日本語って、オーストロネシア語族系の【縄文語】にアルタイ語族系の【渡来系弥生語】が混合した
    【クレオール言語】だとする説がありますよね。インド・ヨーロッパ語族は一つの言語から複数に分かれた
    言語らしいですが日本語はその逆で、”複数の言語から一つの言語” が生まれたらしいですよ!

    • @arerugen
      @arerugen Před 9 měsíci

      文法は北方系、語源は南方系。
      思うに大陸と列島を行き来する海洋交易民の文法に列島各地に定住する南方由来の言葉をはめていって形成された交易ビジネス言語が大和言葉の基礎になったんだと思う。
      当時の支配者たちが盛んに歌を読み、それが政治だったのは、歌読みによる言語の形成こそが秩序形成の基礎だったから。

  • @user-kh8wu6dg1j
    @user-kh8wu6dg1j Před 9 měsíci +62

    ズーズー弁と言うよりは津軽弁と言った方が良い気がするけど、津軽弁だけが東北の言葉の中では唯一独特だからね、津軽弁だけは東北の人間でもなに言ってるかさっぱりわからないんだから

    • @user-gi8ql3bb4n
      @user-gi8ql3bb4n Před 9 měsíci +8

      しかも、海に近い地域なら英語より分からない。津軽海峡フェリーに乗った時、船員さんに話しかけられたが何にも分からなかった。

    • @user-qq1se5pp9x
      @user-qq1se5pp9x Před 9 měsíci +5

      古事記にある長脛彦の話し、古代は日本海が表日本、津軽外三群史のビッキガモ(幼いチンチン)の南下の伝承、沖縄の祝儀料理に昆布が使用される。等東北から出雲へが正解かも?

    • @まめ田まめ汰
      @まめ田まめ汰 Před 8 měsíci +9

      青森県民ですが本当に津軽弁は同じ青森県民でもわからない単語や訛りが多いです。

    • @ten8775
      @ten8775 Před 8 měsíci +7

      津軽弁は激しすぎる
      容赦ない

    • @tugaru-ainu
      @tugaru-ainu Před 8 měsíci +6

      呼んだべが?
      わぁ生粋の津軽人だばってそったごどねぇよー
      歳いっちゃあジサマバサマだばゴモゴモしちゃあはんで何喋っちゃあがわがんねぇ時もあるばって普通に聞げばなも問題ねぇよ!
      ・・・を早口&イントネーションが混ざると何言ってるかわかんないかもしれないですねー
      上の文わかります?
      もし津軽に来たら通訳しますよー?😆

  • @tkruma2076
    @tkruma2076 Před 9 měsíci +4

    1000年以上前だと、陸路なんてとても使えませんからね。
    橋もなければ、トンネルもない。山越えも、山中は熊に、オオカミなど野獣だらけ。崖沿いなんて歩けたもんじゃない。
    しかし、海路はなぎなら安全。しかも、冬以外の日本海は海流も安定して移動に最適。
    その時代の交通手段を考えれば、海路でつながることの方が自然でしょう。陸路を伝ってというのは江戸以降でしょう。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y Před 9 měsíci +7

    伝承では、
    後の出雲(自らは出芽)族、
    インドからシベリア経由で渡来した
    ドラビタ族の移民団は
    まず、津軽に上陸。
    後期の山内丸山遺跡にしばらく居留した後、
    日本海沿岸を南下
    やがて出雲地域に豊富な砂鉄資源を見出だした事~旅装を解いて定住化した。
    その途中、
    いくつもの小集団が分かれて各地に定住化したらしい。
    ↑が約4千~3500年前頃。
    紀元前660年頃、
    出雲は渡来時のリーダー、
    クナト王直系、
    菅之八耳命が周囲~推戴されて
    出雲は王政(我が国初の王国)に移行した。
    出芽(出雲)王国は更に勢力を伸長し続けて
    第六代大穴持(オホナモチ。帝王号)
    郷戸(神門)八束水臣津野命の御代に
    北は北陸の新潟(翡翠の権益)、
    南西は北九州(宇佐(兎)王家)迄
    一気に勢力版図を拡大した。
    第8代大穴持。
    郷戸(神門)八千矛命(大国主のモデル、
    出雲大社の主祭神)
    の時、
    中国大陸~
    秦の始皇帝の使者を装った
    徐福が彦ホアカリを名乗って二千人もの
    少年少女らの配下を率いて出雲王国に渡来。
    地位を背景に
    出雲王国の内親王との婚姻を求め、
    八千矛王の裁下をえて
    高光姫命が徐福に嫁下。
    ほどなくして
    五十猛(後、海(あま)香語山命(皇室の祖の一人))が生まれた。
    ヤオラ、クーデターを起こして
    出雲王国の簒奪~自立を企て、
    その初手に速攻即決宜しく、
    岳父でもある八千矛命と
    副王(少名彦、コトシロ主。が称号)の東出雲王家富家(皇室の母体)当主、
    富の八重波津身命(皇室の直系祖先)を
    ほとんど同時期に
    相次いで拉致~狭小な洞窟に幽閉して殺害(餓死)
    出雲王国は驚天動地の大事件に震撼。
    のさばる渡来人(秦人)と同じ空気を吸う事さえ忌避した
    王家王族や出雲人らがあまた(出雲の人口の約半数)
    出雲を後にして各地に展開した。
    第9代大穴持(出雲王)に就任なさった
    八重波津身命の嗣子、
    富の鳥鳴海命は
    早急に体勢を立て直し、巻き返し、反撃に転じると
    渡来人勢力はほどなく
    鎮圧平定された。
    実行主犯のホヒと
    その子息、ヒナドリ(出雲大社社家宮司家の始祖)らは逮捕収監され
    厳しい尋問に今回の事変の驚くべき真相、全貌を呆気なく自白。
    それにより
    クーデターの首魁の
    彦ホアカリ(徐福)には
    接触次第に即刻殺害命令(出雲八重書)が発せられ
    徐福一家が居る
    石見の五十猛(地名)の
    秦国公館を出雲兵が重包囲して
    隙あらば徐福を
    殺害せんと四六時中張り付いた。
    この事態に恐れおののいた徐福は
    妻子や配下2千人を置き去りにして
    間隙を衝いて母国、秦帝国に逃亡した。
    (この時に殺害していれば、
    出雲王国は滅亡(紀元3世紀末)せず、
    我が国の歴史は全く違っていたはず。
    (今の皇室(元出雲王家の傍系)は存在しない。
    正統な出雲王国(帝国)が今に至るか?))
    出雲を後にした一団に
    亡き富の八重波津身命の親王、が
    まず、母の実家である摂津三島に寓居。
    この際、一番多くの出雲人が付き従った。
    (忌部家の太玉命らも帯同した)
    クシヒカタ命はこれからは大和(奈良盆地)が発展すると睨んで
    大和の葛城に入植、
    この際も従来からの出雲人らに加えて
    摂津三島人らもあまた
    クシヒカタ命に付き従い
    大和の葛城に入植して開発に当たった。
    因みに当時(紀元前2世紀)の奈良盆地には
    太古から現在まで唯一の流出河川である
    大和川の葛城の流出部が土砂崩れ~せき止められて広大な
    湖沼(古奈良湖)が満々と湖水を湛えていたから
    自ずと人々の生活、活動は葛城等の高台地域だった。
    (古地理学、考古学~神武が紀元前660年に奈良盆地で即位云々が虚偽である事が暴露された形
    (古事記は古代(紀元前)の奈良盆地が水浸しだった事を失念する大失態))
    少し後に、西出雲~
    味鋤高彦の御子、
    多岐津彦(八千矛命と皇后、宗像の多岐津姫の孫)が
    あまたの西出雲人を率いて
    先住の登美家のクシヒカタを頼り
    大和にやって来た。
    クシヒカタは中~南葛城に入植する事を勧め、
    多岐津彦らは勧めに従って中~南葛城に入植した。
    出雲族らの開発が緒に付いた矢先に
    今度は
    徐福に置き去りにされた
    五十猛が同じく置き去りにされた秦人を呼び集め、
    出雲王国の許可を得て丹波に集団移住。
    五十猛は
    海(あま)香語山命と改名して
    丹波国主となり、
    母親の高光姫命を慕い付いてきた
    高光姫の姪、大屋姫命と結婚して
    長男、海(あま)高倉下命(皇室の祖の一人)を生んだ。
    しばらくして、
    徐福がニギハヤヒを自称して
    九州の吉野ヶ里に定住帰化して
    宗像の市杵島姫命と結婚して
    物部王家の祖となる
    彦ホホデミ命。
    と、
    穂屋姫命を生み、
    穂屋姫命が丹波国主となっていた
    異母兄の五十猛改め、
    海(あま)香語山命に嫁いで
    後に大和王国初代大王となる
    海(あま)村雲命を生んだ。
    大屋姫命と高倉下ら母子の幸せな時は
    穂屋姫命が来てからはあからさまに阻害される様になり、
    高倉下命は母、大屋姫命と共に紀伊国に移住を余儀なくされた。
    高倉下命は紀伊国造の(~武内宿禰(3世紀)~皇室(6世紀~))
    祖となった。
    海村雲命は丹波人(元々、秦~渡来人等)を武装させて大和に南下。
    開発が緒に付いた先住の出雲族を威圧。
    やがて丹波勢が1万人規模にもなり
    大和の出雲族をしのぐ様になると、
    出雲族側が折れる形で
    海(あま)村雲命を大王と認め、
    后にはクシヒカタ命の妹で、
    三輪山(出雲の幸の神信仰)
    初代姫巫女、祭主の
    姫タタラ五十鈴姫命と為す事で
    大和王国海王朝が成立。
    以後、海大王家等は登美家~歴代の后を迎え(次第に出雲族の血が濃くなる)、
    宗教も
    出雲の
    幸の神信仰(原神道)を重要視した事等から
    渡来系ながら早々に出雲化した。
    やがて、王族には渡来系ながら
    自分たちは出雲族だ!と自負するもの迄出る志儀に。
    しかし、三代目の玉手看大王の出生~大王即位に絡み、
    海大王家の同父母の傍系王族である
    尾張家が大王権を持ち出し
    次第に拗らせた挙げ句、
    大王家や王族、豪族らを巻き込んだ覇権を巡る内乱に発展。
    倭国大乱の前哨戦、火蓋が切られた形。
    おおむね、
    古事記系図の孝。が冠された歴代天皇(大王)の時代が内乱~大混乱の時代。
    大和王国の内乱に付け入る形で
    紀元1世紀末に
    九州の物部王家が大和に侵攻した。
    『第一次物部侵攻』
    桃太郎の元ネタ
    (孝霊天皇が大和王国を喪失。
    播磨を足掛かりに
    出雲王国の直轄地、吉備地方を奪取
    ~吉備王国を建国、更に出雲王国に侵攻。もう、ぐちゃぐちゃのワヤクチャ)
    もこの時代。
    大和を留守番していた海大王家の大彦(皇太子)らも
    大和を逐われて
    東近江~伊賀に退去して
    クナト王国(中国人は狗奴国とした)を立てて
    物部軍と対峙。
    しかし撃ちてし止まん。
    の物部軍の猛攻にさしものクナト王国は
    瓦解。
    大彦は北陸へ、
    御子のヌナカワワケ命は太平洋沿岸方面の二方面に分かれて退去。
    物部軍はそれらを執拗に追撃を加え続け、
    やがて、元クナト王国(大和王国海王朝)勢力は
    東北地方で合流して
    体勢を立て直し、
    強力な日本国。
    日ノ本の国を建国して関東以南の
    大倭王国と対峙。
    以来、鎌倉時代迄、
    日本列島は南北に二分されていた。
    日本国の首府は津軽。
    勢力圏は東北地方に
    北海道、千島列島や樺太迄。
    津軽は、政治経済、地政学的にも日本国の中心だったから
    日本中央(日ノ本中央)と呼ばれた。
    大王家は大彦直系(~徐福)子孫
    安倍家。(後、安東氏)
    政体は
    各地の有力な首長たちによる合議制により統治された。
    阿弖流為や母礼らは
    日本国の有力な地方首長だった。
    彼らのルーツはやはり大和だったから、
    三輪山を拝礼云々は、、、
    津軽弁等の東北地方の方言は
    古代の大和(~出雲)言葉だった可能性があります?

  • @akita9957
    @akita9957 Před 9 měsíci +13

    ズーズー弁と聞くと最上地方の方言かなと思ってしまう。
    新潟県の天気予報でなぜか山形県庄内地方だけ教えてくれるのは昔は越国だったと聞くと納得した。

  • @prettyblue3879
    @prettyblue3879 Před 8 měsíci +4

    小説ではズーズ弁は秋田県でしたね。

  • @user-zy6sx4uz9m
    @user-zy6sx4uz9m Před 6 měsíci +1

    父が出雲、母が広島出身です。島根と広島は隣県のはずですが、方言のイントネーションや発音が全く違います(同じく隣県の広島と岡山、広島と山口は似ているのに。)。母は、初めて父の一家に会ったとき、父方親戚が何を喋っているのかさっぱりわからず、外国語を聞いているようだと思ったそうです。
    私の妹(山陽地方育ち)が現在出雲地方に住んでいますが、妹も、高齢者の方言のくせが強く、話の内容がわからないまま相槌を打っていると言っていました。

  • @kats.sakuma
    @kats.sakuma Před 9 měsíci +11

    出雲と越とヤマト、という3つの勢力圏を考えると、鉄の産地だった出雲を舞台にしたヤマタノオロチの伝説に由来する天叢雲剣、糸魚川周辺でしか取れない翡翠で作られた勾玉、ヤマト=ヤマタイの女王が大陸から贈られた銅鏡、この3つが皇室の三種の神器であることは、偶然ではないのかもしれない、とちょっと思いました。

    • @chanint6028
      @chanint6028 Před 8 měsíci

      大和と邪馬台国は別の国、魏志倭人伝の地名を辿れば邪馬台国はどう見ても九州北部。

    • @user-om6er8nj3c
      @user-om6er8nj3c Před 7 měsíci

      三人よらば文殊の知恵。桃太郎の三匹の家来。キリスト教の三人の博士。三つのピラミッド。人類が三という数字にこだわる理由は、天を司るオリオン座の三つ星をずっと眺めて来たから。三本の棒を三脚にすれば安定するし、三本の矢は折れない。割り切れない数字なので縁起がいい。三位一体。引き離すことができない事を星が証明している。

  • @taimon1020
    @taimon1020 Před 9 měsíci +5

    私の先祖が出雲松江藩の正室として嫁いだ姫の家臣団の一人として宮城から移り住んでいます。
    DNAの共通点が浸透するには年数が少な過ぎるかもですが、言葉の共通点は東北から持ち込まれた物も一部あるのかなと。

  • @user-zi3vr6me7u
    @user-zi3vr6me7u Před 9 měsíci +2

    ヤマト王権の「征服」に屈しなかった「誇り高き」「先住民の末裔」って、アメリカの西部開拓物語みたいな言い回しに違和感はあるが(神武天皇の初代皇后がヤマト土着の出雲系だったりするのになぁ。。)日本海ルートをわかりやすく啓蒙されてるのは非常に良いと思う。のちに上杉謙信が上洛した時も確か海路を使ってたはず。鮭の遡上域の北限と南限、弥生のコメの2種類のプラントオパールの分布域なども併せると、近畿の「首都性=全国からいろんな人が来る」と日本海広域交易圏の関係も、見えてきそうな予感。

  • @user-xc6jx9eq6o
    @user-xc6jx9eq6o Před 8 měsíci +1

    動画が面白いと思ったから、チャンネル登録と高評価しましたよ。
    出雲族の事は、もっと知りたいなあ。俺の婆さん、出雲路って名前の出雲族なんだよね。

  • @yukko8826
    @yukko8826 Před 8 měsíci

    なるほどね〜🧐
    縄文人は数千年前には既に凄いネットワークを築いていたから、出雲にも「北の果てにはたいそう栄えたクニがあるという…」みたいな古来からの言い伝えがあったのかも知れません。
    だから脱出雲団は対馬海流を上手く使って船で北を目指し、島や沿岸部を辿りながら秋田・青森方面へ向かったのではないでしょうか。しかし北東北へ辿り着いてみればそこは稲作も出来ない土地になっていた。
    古墳時代の東北地方では弥生時代後期からの寒冷化により稲作は衰退していて人々は土地を捨てて南下または縄文時代の狩猟生活へ逆戻りという2通りに分かれた様で、4〜6世紀のリバイバルした縄文生活様式を続縄文文化という様です。
    古い文化を守ってきた出雲人達は文字のなかった縄文文化の神話を口頭伝承で語り継ぎ、残ったネイティブ達とともに縄文文化を再現して生き延びたのかも知れません。
    う〜んロマンだなぁ💞
    勝手な想像で厳しい日常が楽しくなるなら、安く前向きに生きていけそう‼️

  • @00simaya40
    @00simaya40 Před 9 měsíci +19

    関東平野は出雲系の土地ですからね。
    出雲臣氏系譜
    関東平野の国造は出雲族系譜で繋がって居ますからね。(出雲系統抽出。)
    无邪志  武蔵 出雲臣祖、二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫、兄多毛比命が国造家。(出雲健子=伊勢津彦系譜)
    胸刺   武蔵 岐閉国造祖、兄多毛比命の子、伊狭知直が国造家。
    菊麻   上総 无邪志国造祖、兄多毛比命の子、大鹿国直が国造家。
    相武   相模 武刺国造祖、伊勢都彦命三世孫、弟武彦命が国造家。
    上海上  上総 天穂日命八世孫、忍立化多比命が国造家。(出雲健子・都美呂岐系譜)
    下海上  下総 上海上国造祖孫、久都伎直が国造家。
    阿波   安房 天穂日命八世孫、弥都侶岐命の孫、大伴直大瀧が国造家。
    伊甚   上総 安房国造祖、伊許保止命の孫、伊己侶止直が国造家。
    新治   常陸 美都呂岐命の子、比奈羅布命が国造家。
    師長   相模 茨城国造祖、建許呂命の子、意富鷲意弥命が国造家。(多氏=意富氏母系が富家の天村雲系譜)
    須恵   上総 茨城国造祖、建許侶命の子、大布日意弥命が国造家。
    馬来田  上総 茨城国造祖、建許侶命の子、深河意弥命が国造家。
    道口岐閉 常陸 建許侶命の子、宇佐比刀祢が国造家。
    筑波   常陸 忍凝見命の孫、阿閉色命が国造家。(磯城登美長髄彦=大彦系譜の安倍氏祖)
    那須   下野 建沼河命の孫、大臣命が国造家。
    久自   常陸 物部連祖、伊香色雄命三世孫、船瀬足尼が国造家。(母系出雲姫の物部氏)
    印波   下総 神八井耳命八世孫、伊都許利命が国造家。(多氏(意富氏)と同じ母系富家の天村雲系譜)
    兵庫県神戸市の地名の語源も神戸・三宮にある生田神社に神功皇后が三韓征伐を祈願した時代の旧神主が
    神門家だった様でJR神戸駅周囲には明治時代まで神門村があった様ですね。
    神戸の西半分は播磨国で丹後国風土記の出雲国盗り合戦の地で大国主が新羅王子の天日槍から死守した地が
    播磨国で大国主として戦ったのが家の一族だったそうです。
    ※京都府京丹後国の元伊勢から兵庫県播磨国までが元出雲地域だったようですね。
    神門古墳群の神門氏の系譜も張って置きます。
                       ↓

    • @00simaya40
      @00simaya40 Před 9 měsíci +1

      先住出雲族酋長:富當雄さんが伝える口伝伝承を著書に纏めたのが斎木雲州さんの
      「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の二冊の本のお話ですね。
      東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家と
      西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家は先住出雲二大王家
      富當雄さんは向(富)家の事代主直系の子孫です。
      国常立(クナト)大神(伊弉諾)→お地蔵様と荒吐神(伊弉冉)→弁財天の関係で
      伊弉冉の最初の子神の蛭子神=恵比寿=事代主(少彦名)ともされて居ますから
      大黒天・弁財天・恵比寿の関係ですね。
      国常立(クナト)大神(伊弉諾≒素戔嗚)の子,菅之八耳(初代大穴持)
      ※私の調べでは
      クナト₌船戸神,熊野権現
      天若日子(妻は下照姫)の子,出雲忌部氏(八岐大蛇族)
      天若日子の孫,物部氏開祖饒速日(徐福),天皇家,中臣(藤原氏祖)
      ●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜
      大元出版の斎木雲州本参考にして作りました。
      東出雲・熊野大社神主家の副王家の事代主(八重波津身)直系の向(富)家、神代からの系図。
               菅之八耳(初代大穴持)
                    :
                 富家本家(事代主の八重波津身)
      諏訪(旧-神)家-健御名方富 ──│──磯城登美家─酋長:登美長髄彦
      鳥鳴海

                国押富
                 :
      野見宿禰(富大田彦)
                │
              土師八嶋(南関東国造の大宮-氷川神社神主家)
      │ ∟_______________________
      菅原道真       │  
      │        大江広元
        │         │∟___上田・北小路・酒井氏徳川家康  
        │        毛利元就
                  柳生石舟斎(宗厳)      │
      __________________」 │      毛利家・吉川家・小早川家
      │  柳生新次郎(厳勝)         (最下段は毛利家当主のお話)
      柳生宗矩(又右衛門) │
           │      柳生兵庫介(利厳)
        柳生十兵衛(三厳)   │
                柳生兄:利方・弟:連也斎(厳包)母:島左近の末娘。
                     │
                   柳生厳延(厳密な柳生家系譜)
                  :
      ※・下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。
          (出雲建子(伊勢津彦)と兄の伊佐我(伊佐波)も系譜上に居る)      
        小野氏社家も始祖を富家7代:天之冬衣(八重波津身⁼事代主の実父)として居るので出雲族
          あと、富家と三島家の娘との子の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子
          嫡男、天御影の海部氏祖
          次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖
          三男、沼川耳→八井耳が多(意富)氏祖に成ります。
         ・藤原氏祖とされる天児屋根は中部で各地豪族が集い中臣氏を名乗った豪族の一家の
          ト部氏(播磨国のタタラ場の司祭家豪族で饒速日の一族)が崇拝して居た
          金屋子を奉って居た場所の地名が天児屋根で=金屋子の事です。
        渡来の由来は越智-河野氏の氏神神社伝承の氏神が饒速日=徐福と言う伝承からでしょう
         ・他の大江氏子筋
          北小路家(公家-華族(子爵),徳岡家(地下家),寒河江氏(武家),那波氏(武家),海東氏(武家)
          桂氏(武家-華族(侯爵)),酒井氏(徳川家自称の親筋武家-華族(伯爵)),芦澤氏(武家)
          越後北条氏(武家),安田氏(武家),浅井氏(武家)
          長井氏(平家武家?)
          上田氏(大江氏武家系譜断絶してる),山村氏(大江氏武家系譜-情報が無い)
      後、安倍氏祖は皇統系譜では欠史八代の孝元天皇皇子の大彦命が祖されて居る安倍氏の裔は
      祖の大彦は安倍貞任子筋の秋田氏・藤崎氏では安日彦(安日長髄彦や長髄彦の兄)としてたり
      出雲口伝では大彦の別名がナカソオネヒコ(中曽大根彦=長髄彦)と書かれて居ますからね。
      富家分家の磯城登美家の登美長髄彦で安倍氏は富家系譜だと言う事でした。
      日本書紀中では
      朝廷側の四道将軍の大彦と建沼河別親子で出雲国風土記で神門振根・飯入根を殺害や
      同じ富家系譜の出雲健子を討伐したのも安部志彦とありますからね‥真実を知りたいですね。
      で、神武東征の八咫烏=神門阿遅須枳高日子根で長髄彦の対立の因縁だったようですね。
      本来は逆だった模様です。
      神門家系譜
      1菅之八耳の子,2八嶋篠3→4布葉之文字巧為→5→6八束水臣津野(国引主)→7↓
      八千矛(8代目大穴持の大国主)
      大国主=大黒天=マハーカーラ,マヘーシュヴァラ
      (大自在天シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの三位一体でアートマン)
      大国主の子、阿遅須枳高日子根の子、賀茂氏(陰陽師開祖役小角の本姓)
      大国主(八千矛)‥→出雲(神門)振根=倭健→伊賀曽熊の子
      嫡子の健部氏(神門姓を継ぐのと日本武(倭健)の名代部も同時に継ぐ)
      次男の二方国造家
      末子の島津(志摩)国造家の島(直)氏=日本書紀の応神天皇家臣、斯摩宿禰。
      ●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜
      大元出版の斎木雲州本参考を参考にして作りました。
      西出雲・杵築大社旧神主家の主王家の大国主(八千矛)直系神門家、神代からの系図。
             菅之八耳(初代大穴持)
                  :
      宗像家・宗像三女神─八束水臣津野

             神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛)

      阿遅須枳高日子根(八咫烏)─賀茂氏──役小角

                塩冶彦
                :
      出雲(神門)振禰=倭健(=日本武)
                  │
              伊賀曽熊

      健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏
               │           ││(=斯摩宿禰は日本書紀の応神天皇家臣)
       │           │ ∟____________________________
          神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏 │
      │ │         南関東国造家の島族
      │ │     (島田-島野-島崎-島村-島根-島津)
      健部氏・武部氏   松浦氏武家島谷氏(松浦氏に召し抱えられた)・丹後国二宮社家嶋谷家
                  (総家武家島谷氏は北前船交易廻船問屋島屋で屋号姓島屋も別称です)
                               (下から三段列は私の調べた推定系譜)
      ※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は
                        秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。

    • @user-re7qr8vp7v
      @user-re7qr8vp7v Před 9 měsíci +1

      出雲、物部、武蔵武士団、東国武士、強いとか言われて防人にさせられたり、いいように使われて、上方の貴族を担いで反発したり、逆にかく乱されたり。

    • @SuperCute2F
      @SuperCute2F Před 9 měsíci +1

      なっが
      暇かよ

    • @kotetsu2679
      @kotetsu2679 Před 9 měsíci

      関東圏の神社は、出雲から人を招いて建てたという伝承がある
      玉敷神社(久伊豆神社)と氷川神社は出雲から招かれた事が明記されている

    • @user-yh2tt9ew7b
      @user-yh2tt9ew7b Před 8 měsíci +2

      @@SuperCute2F
      暇かどうかはわからんが、少なくとも君よりも遥かに教養のある人だよ。見苦しい嫉妬はやめなさい

  • @yoppi4918
    @yoppi4918 Před měsícem

    大学時代にちょろっと古事記勉強した時に、オオクニヌシの物語に出てくる、スサノオが治める根の堅洲国は現代で言う東北地方のイメージを持っていたこと思い出した。
    なぜそう思ったのか、出典が今ググッてみても見つからない。。

  • @schu282
    @schu282 Před 9 měsíci +5

    古事記には阿波弁が残っています。例えば「ひこづる」などです。
    また、徳島には式内社 阿波国 那賀郡 和奈佐意富曽神社の論社(祭神 大麻比古神)があり、
    島根県には、和奈佐神社があり、阿波から黒曜石を求めて来た神です。

    • @user-rn6xp3mr7n
      @user-rn6xp3mr7n Před 9 měsíci

      あ、ワナサの地名はそういうことですか!

  • @ueoai-yz4cq
    @ueoai-yz4cq Před 9 měsíci +3

    数々のコメント どれも参考になりました。
    古代の事は 誰が見たわけでなく聞いたわけでなく 五里霧中の世界です。
    あぷ主様には これからも色々な角度からアップしていただきますようお願いいたします。

  • @lmusicclipjp
    @lmusicclipjp Před měsícem +1

    出雲と東北を結びつける地域があるでしょう。越国です。出雲の国譲りでエズー越になったと聞きました。越国は富山から新潟まで続きますからね。日本海岸が古代は栄えていたといいます。歴史は面白いけれど推測になってしまうんですよね。明治新政府がかなり書き換えた。あるいは新たに作ったとも言われますね。むしろアラハバキと鹿島神宮、筑波山のある茨城がかなり昔から国を作っていたとする説もあります。茨城はいはらきとも言われています。

  • @user-kw8ot8tx4g
    @user-kw8ot8tx4g Před 7 měsíci +1

    先日のコメントに修正と補足。「出雲口伝」の話は、出雲の源流が大陸から津軽経由で出雲にやってきたということで、順序が逆だったので、訂正したい。逆に「ホツマツタヱ」では、オオクニヌシは「国譲り」で津軽に「国替え」させられたが、再び国造りに励んで津軽はかつての出雲の如く栄えたと書かれている。私自身は南東北の出身だが、一時期青森県のある地域に住んでいたことがある。青森の人に聞けば、「津軽だけは東北の他の地方と文化が違う」と言っていた。ともすれば根暗なイメージが伴う東北地方にあって、津軽だけは、どこか関西に通じるような雰囲気があるようだ。津軽地方は平安・鎌倉・室町期を通じて十三湊を中心に交易で栄えていたからそれが理由かと思っていたが、意外に起源はもっと古いのかも、と感じた。

    • @user-cg5gv3zg3y
      @user-cg5gv3zg3y Před měsícem

      私も「津軽方言だけが周辺地域の方言から孤立している」と云う話を読んでツマツタヱの「出雲討ち」の話が事実であったと確信しました。朝廷から大物主のオオナムチが津軽に追放された形を取りながら移封されたのは、跡継ぎの事代主(大国主)が朝廷の大物主を引き継いでいたためと思われます。オオナムチは元々朝廷の軍事部門の長を兼ねてましたから記紀の「国譲り神話」は後世になって津軽王国の存在を封印して創作されたフィクションと考えています。

  • @user-sv8el8bm6f
    @user-sv8el8bm6f Před 27 dny +1

    くにびき国体あったの 島根で国体 その数年後に123便があってね 出雲大社の近く 大社町の川上慶子ちゃんが助かって なんか 関係してるように思った 弱小県島根が頑張った国体で あかつきの超特急って言われる足の速い指導者も顕在でした。吉岡隆徳さん。なんか出雲地方の神社の家系の出身らしいですよ。八束水臣津 おえーで くにびきが修了して このイベントがなければ こんなに覚えてないかもね

  • @user-xc1ql8pi2v
    @user-xc1ql8pi2v Před 9 měsíci +3

    中々難しい課題に、挑戦されましたね。東北産まれで、六県全ての地域で交流があった私の個人的なイメージですが、イントネーションも話す単語も東北でも、日本海側と太平洋がわで全く違うのと、話しの組み立て方もやはり山脈を隔てて全く違うのです。なので、仙台の人が秋田に行って話しを聞くと「何、喋ってんのが解んね」と軽くパニックになります。先ず単語の意味が解らない。イントネーションで混乱、文脈的に解釈を試みるも「主語と思われる言葉」が最初に来たり、真ん中に入ったり、全く無かったり。(いわき弁はイントネーションが茨城だけど、単語が共通だから判る)
    秋、青森、山形に共通するのは、「古い京言葉の単語と言い回し」私個人の狭小な意見ですが、出雲との言語の共通性は無い様に思えました。でも、北前船で京都との文化交流があったのと同じく、出雲との人と物の交流があった事は、DNAでも、土器でも明らかですよね。て、思いました。
    「砂の器」読んだけど、言葉に関した話しには、?、('_'?)しかなかったな。ちがい過ぎるンです。

  • @user-bb1wg2ie2f
    @user-bb1wg2ie2f Před 9 měsíci +12

    宮城県南には素戔嗚尊を祀った神社が多い。八雲神社、八重垣神社、稲田姫神社etc。
    やはり越の国経由で出雲系の人々の植民が多かったのかな?

  • @user-yakisoban
    @user-yakisoban Před 8 měsíci +1

    出雲だけでなく鳥取西部でも「だんだん」は使いますよ、昔から日本海は海上交易ルートとして存在していました

  • @user-lo3bt5xq5g
    @user-lo3bt5xq5g Před 9 měsíci +5

    出雲語と東北語が似ているのは、古代青森三内丸山遺跡人が出雲に移住したからなのかも・・・。
    三内丸山遺跡の高層櫓建物の技術を以て古代の高層出雲大社を建築したのではないかと思っています。

  • @user-ef4qy1iu4o
    @user-ef4qy1iu4o Před 8 měsíci +1

    津軽弁で一人称を「わ 」二人称を「な」と言います。外国人から「ここはどこだ」と聞かれ「わ(私の)国だ」(倭国?)とかありそうです。また、三内丸山遺跡周辺の地名を「浪館」と言います。今は内陸部ですが、「浪」の字があることから、海が近かったことを示唆しているように思います。

    • @user-uf8gw3bq3f
      @user-uf8gw3bq3f Před 8 měsíci +1

      わ、な、は古語辞典にそのまま出てるから当時の標準語だったのかも。それが津軽では変わらず残っているのかなと思っている

  • @user-by3kt3sk4s
    @user-by3kt3sk4s Před 4 měsíci

    出雲族は、4000年以上前にインドから津軽半島に上陸して三内丸山遺跡地に住んでいた。寒冷化(3~4度下がる)で住みにくくなり、大半は秋田に移住した後に最終的に出雲で定住した。その間、東北各地に分散し定住した人びともいた。よって出雲と東北には、良く似た訛り音とDNAがあるはずです。

  • @aaaa-st9qp
    @aaaa-st9qp Před 9 měsíci +8

    そもそもアイヌは縄文や弥生時代のころから北海道に住んでたわけじゃないよね?

    • @chikaru1978
      @chikaru1978 Před měsícem

      アイヌの遺跡とか聞いたこと無いですもんね。政府がむやみにアイヌを推してますけど、高校生の教科書にすら12世紀だか13世紀だかに本州の倭人と北海道のアイヌが交易をしていたとしかとしか書いていません。

  • @conanrockwell4254
    @conanrockwell4254 Před 8 měsíci +1

    大和に敗れた出雲が敗走して、若狭湾から越国に上陸して北上したのかな? 新潟には出雲崎という地名もあるし。

  • @user-in4vz8hu7s
    @user-in4vz8hu7s Před 9 měsíci +2

    今回の国主をまとめたから大国主と言うのに目から鱗でした💡1人の名前があまりにも多いのがとても不思議だったので!…東北北部や北海道の言葉はあまり口を開かなくてもよいようなと聞いたことがあります。寒いからと言ってたのは話半分として!

  • @naojan110
    @naojan110 Před 9 měsíci +8

    福井県嶺北のいわゆる越前弁も東北の方言に似ている気がします。
    北陸三県で石川県と富山県は比較的イントネーションが似ていますが、福井県は別世界の如く違います。
    福井県でも、嶺南は関西弁に近くなるのです。

    • @user-sz7pt4hw9u
      @user-sz7pt4hw9u Před 8 měsíci +2

      無アクセントですよね。福井県嶺北のひとに初めて会ったとき、栃木、茨城、福島もしくは宮崎の人かなと思いました。

    • @naojan110
      @naojan110 Před 8 měsíci

      @@user-sz7pt4hw9u
      一本調子でわずかに最後だけ上がる感じです。
      若い頃に3年ほど暮らしましたが、地元に戻って来てもなかなか抜けなくて困りました。

  • @pcwa70l1
    @pcwa70l1 Před 9 měsíci +7

    済州島などに縄文時代の土器が発掘されたという事実
    朝鮮半島には和人が住んでいたらしいですね。

    • @user-od7uk5nq7t
      @user-od7uk5nq7t Před 9 měsíci

      縄文時代中期から後期にかけて鬼界カルデラ噴火がありましたので、西日本に住んでいた人々の一部が逃げのびた先の一つに朝鮮半島最南部、任那とか伽耶とか云われる倭人の地域があったのは確かです。白村江の戦いの後に滅びています。

    • @user-rn6xp3mr7n
      @user-rn6xp3mr7n Před 9 měsíci +1

      済州島の伝説の3柱の女神は、北九州の海女達ではないかと考えられています。

  • @user-qq2ij4ue4c
    @user-qq2ij4ue4c Před 8 měsíci

    東北の日本海側と太平洋側での比率にも興味深いな。
    海上ルートでのつながりもあるわけだけど、そうすると北信越とのつながりより東北が濃くなる理由点が矛盾ではあるか。
    越のヤマタノオロチ伝説を考えると、出雲と越の対立はあったみたいだしなあ

  • @katumoku10
    @katumoku10 Před 8 měsíci +1

    とても参考になるいい動画をありがとうございます。日高見国は出雲神八束水臣津野命こと海神豊玉彦が開発した国だと分かりました。日高見国は北上川流域だったのです。北上川は「来た神川」のことだったのです。詳細は「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?」、「大谷さんは日高見国の王子だったの?」をご参照ください(;^ω^)

  • @teruyukisato
    @teruyukisato Před 9 měsíci +4

    関東で使われる「~じゃん」って言葉は東京湾で広がった言葉で元々神奈川の漁師言葉で明治以降に広がった言葉で埼玉方面には広がっておらず千葉方面に広まってる事から見て海を通じて広まったと考えられてる

  • @pontarou01
    @pontarou01 Před 9 měsíci +1

    4:12 夕暮れ時に、ばんじまして
    そ言えば、会津の方じゃ夕方になると「おばんかたです。」って言うね。

  • @user-tn9fl6jl1n
    @user-tn9fl6jl1n Před měsícem +1

    逆に遺伝的に渡来人の遺伝子が強い関西や四国はやはり方言が似てるのも渡来語なのかな?

  • @keihiroshima7704
    @keihiroshima7704 Před 9 měsíci +3

    東北というより北陸だよね。神話の世界から見ても関係あるよね

  • @pontarou01
    @pontarou01 Před 9 měsíci +2

    吉展ちゃん事件の時も、犯人がズーズー弁だったから出雲出身者も候補に上がってたらしいね。結局、犯人は福島県人だった。

  • @sentarou6969
    @sentarou6969 Před 8 měsíci +1

    感嘆詞あだーん!は奥出雲三刀屋の伯母がよく言ってたな。平野部の出雲市ではあちゃー!が一般的だと思う。
    より驚くと、あちゃまーず!
    更に驚くと、あちゃまずけー!
    あらまあ!と同じで男性や若い人は使わない。

  • @hidenobuwatanabe7051
    @hidenobuwatanabe7051 Před 9 měsíci +4

    時代が新しいんじゃないかな…
    弥生時代じゃなくて縄文時代に大きな文化圏が点在してたんじゃない。
    縄文時代の半ばで既に定住してた地域も存在してるのでその時期と考えると今から4千年前ぐらいかな。

  • @7c947
    @7c947 Před 9 měsíci +7

    諏訪大明神である建御名方神(タケミナカタ)がどうしてに大国主神(オオクニヌシ)の御子神とされているのかってことですよ。

    • @user-od7uk5nq7t
      @user-od7uk5nq7t Před 9 měsíci +5

      史実と神話は必ずしも同じではないと言って良ければ、出雲の指導者は越(新潟富山)の指導者と血縁にあり、諏訪の指導者は越と血縁以上の関係があったと考えると、当然出雲と諏訪に友好的な関係が築かれていて然るべきなので、神話上で家族になっていても不思議ではないと考えます。
      古事記に大国主が越の国に訪れている記述があった記憶がありますので。

    • @user-re7qr8vp7v
      @user-re7qr8vp7v Před 9 měsíci

      埼玉県大宮の氷川神社は、東京都の大國魂神社が総社になる前まで武蔵の出雲系の支配者系だったので、諏訪神社と近い。けれど、長野は甲斐源氏の山梨は違うし、長野は取り残された古い地域と感じます。

    • @kotetsu2679
      @kotetsu2679 Před 9 měsíci

      @@user-re7qr8vp7v大國魂神社は関東圏の6つの神社に一度に詣る事が出来るというだけで、
      大國魂神社が各神社の上位存在では無いよ

    • @0jt493
      @0jt493 Před 4 měsíci

      タケミナカタ=ナガスネヒコ

  • @aaaa-st9qp
    @aaaa-st9qp Před 9 měsíci +3

    国引き神話は縄文時代ごろ島根半島は島で、特に今の出雲大社があるところは陸続きではなく、弥生時代のころから離岸堤の効果で陸がつながった事が由来してると思うな。
    確かに松江の南東側は八束郡はその神が由来なのか。

  • @wakanekomaru
    @wakanekomaru Před 9 měsíci +2

    最新の遺伝子研究では渡来人はいないということになっていたと思うけど。

  • @user-mp4th1kn7x
    @user-mp4th1kn7x Před 9 měsíci +1

    出雲地方では肩車の事をダイボツといいます犬はエノタといいます😢よだれはゴボジといいます😢

  • @user-sz7pt4hw9u
    @user-sz7pt4hw9u Před 8 měsíci +1

    うちの名字は、能登半島と出雲地方にしかない。やっぱり古くから交流があったんだ。

  • @user-yu5hu1sx1n
    @user-yu5hu1sx1n Před měsícem

    廃仏稀釈 問題 地鎮祭 かんさいか

  • @Nk-cb6im
    @Nk-cb6im Před 9 měsíci +5

    アイヌはオホーツク族でしょ。縄文人じゃない。

  • @user-hj5wo8cy4g
    @user-hj5wo8cy4g Před 9 měsíci

    縄文人は色白で中央アジア付近から渡って来たみたいです。

  • @user-bz9ub4vk1g
    @user-bz9ub4vk1g Před 8 měsíci +1

    出雲国から東北へ姫様を隠したという話がありますね(TOLAND VLOGで話してた記憶があります) 秋田美人てその姫の子孫だと考えるとロマンがありますね

  • @johnkimura
    @johnkimura Před 9 měsíci +5

    興味深く見させて頂きました。新十津川の近くには吉野なんて言う地名もあるのですよ🐻

  • @user-qx7ii7ht6o
    @user-qx7ii7ht6o Před 7 měsíci

    生徒代表で挨拶した子がズーズー 弁で最初から最後迄何を言っていたかサッパリわからなかった。
    関西の人と一緒になつたがやることがあべこべなのには驚きました。

  • @user-gb1ms4gn3l
    @user-gb1ms4gn3l Před 9 měsíci +10

    東北のDNA解析も各地域毎に細かく解析しないとわからないよ。
    奥州藤原氏滅亡後に関東から大量に植民しにきたからね。
    出雲と東北の20人や30人のDNAをサンプルにしても少なすぎて全く統計にならない。

  • @chikaru1978
    @chikaru1978 Před měsícem

    東北弁って言われるとモヤりますねー。真ん中にでっかい山脈挟んでるんですから、全然違います。昔の地図見ると、東北地方は陸奥国と出羽国に分かれてるだけなのでだだっ広い。
    というか、東北視点だと、関西は狭っこい地域をよくそんなに細かく分けたよなあと。分ける必要があるから分けたんでしょうけど。逆に必要が無いと思われたから陸奥と出羽しかないっていう雑な扱いなんですよね。

  • @kghr_9001
    @kghr_9001 Před 9 měsíci +3

    縄文時代の言葉の記録がないのに縄文後がどうのこうのって全く意味がないのでは?

  • @user-no7dp6gc7f
    @user-no7dp6gc7f Před 9 měsíci

    なんで! ばんじましてーとか、ご存知か〜!?
    今や、地元の者でもわからない、ばんじましてー😂
    まさか?!
    出雲のご出身ですかー❤

  • @user-kb9xj2fd4e
    @user-kb9xj2fd4e Před 9 měsíci +2

    人は意外な程移住しません。江戸時代のお国変えでも、移住するのは藩主と一部家臣だけ。ほとんどの人は動きません。各地の方言は、各地が独立していてそれぞれの言葉が、現在も使われています。なお、古代大和の範囲は伊勢熱田程度です。ヤマトタケルが何度も出雲征伐に行っていることは、古事記に記載されています。出雲から蝦夷まではエミシの領域たったと金田一博士の著書に書いてあります。

  • @user-no3qf3fh3u
    @user-no3qf3fh3u Před měsícem

    津軽弁はブランド化してるよね

  • @user-vk3ys2ee3o
    @user-vk3ys2ee3o Před 9 měsíci +1

    すべて、出雲口伝を見ればわかるよ!

  • @Your_Life_is_Good
    @Your_Life_is_Good Před 9 měsíci +1

    山形の村山弁こそ、ズーズー弁
    んだずー、んねずー、んだはずねぇべずー

  • @guntama108
    @guntama108 Před 9 měsíci

    青森と南九州の言葉も似てるよ

  • @user-pk3bt7eg6x
    @user-pk3bt7eg6x Před 9 měsíci +1

    出雲蕎麦をズルズルすするからズーズー弁かな?🎶😁☝️

  • @momotosemomotose4713
    @momotosemomotose4713 Před 9 měsíci +1

    一般的には偽書とされているホツマツタエには、古事記に書かれている、国譲りで海上に消えた大国主のその後が書かれています。大国主は津軽へ国替えとなり、長男と180人の部下とともに移住しました。これにはアマテラス政権側も援助し、大国主と家臣の家を渡り廊下でつないでたいそうな景観となったとあります。現代でも岩木山神社には、ウツシクニミタマとしてまつられています。次男のタケミナカタは、スワノカミとしてアマテラスに仕え、長男も大国主の死後、中央に呼び戻されたようです。蘇民将来子孫家門というのは、ソサノオが死刑3回分の刑をうけて、髪の毛と爪をすべて引きはがされて1回分、妹を殺された瀬織津姫の助命嘆願で1回免除、死刑を免除する代わりに名前を変えられてスサラワオとして国外追放されて放浪し、その後、政権のハタレ退治に従軍して戦功ををあげ、アマテラスから住いに八重の柵(宮中は九重)を巡らすことをゆるされて、見事に蘇ったことから、ソサノヲ由来の子孫の家として悪疫の厄除けとして、京都の八坂神社や伊勢神宮その他と東北地方でもお札が出されます。

  • @user-bg8ng1qs7v
    @user-bg8ng1qs7v Před 9 měsíci +1

    神様が一緒

  • @user-hs2nj7ve2i
    @user-hs2nj7ve2i Před 8 měsíci +1

    ズーズー弁は犯人じゃなくて、被害者な

  • @user-sv8el8bm6f
    @user-sv8el8bm6f Před 27 dny +1

    竹下登元首相が 出雲弁 なまってた

  • @ryouichihirakawa5290
    @ryouichihirakawa5290 Před 9 měsíci +2

    鹿児島弁と東北弁の抑揚が、似ているよ。

  • @user-kw8ot8tx4g
    @user-kw8ot8tx4g Před 8 měsíci +1

    最近よく取り上げられている「出雲口伝」にも、出雲から東北地方に大国主が移って行ったというような話があったと思うが、DNAレベルでその痕跡があるとは。

  • @user-sc1me3df9h
    @user-sc1me3df9h Před 9 měsíci +1

    日の中腹と言うか風布近畿域から大陸入植系群が延び出し両端が元来系が色濃く残る域と成る.
    =当然琉球とアイヌと呼ばれる域は似たものと成る.
    余談ながら現在台湾と呼ばれる地の原住民元来系はマオリ等に近い.
    +=ちらと過らせてみればアイヌに見られる入れ墨側もマオリ系に見られる風習と酷似する=身体に文様入れをする事事態が虫除けやら有効面が在るのかもしれないがそうならば離れた場で似た様な創意工夫が起こされた等で理解も出来る.
    ここで起こされる問は"では日元来在来系はマオリ等からなのか?"だがだ.
    =早い話が日に居た元来在来系は入植渡来して来た大陸系と混合化し現在至る(=両端側が残る率高い域と成った).
    だけの事だろうものだ.