【遂に解明⁉】邪馬台国と卑弥呼の宮殿の場所とは?【ゆっくり解説】

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  • čas přidán 21. 08. 2024
  • 今回は、卑弥呼の宮殿はここだ!『考古学が明かす邪馬台国』について紹介させて頂きます。
    今回の動画は、青松光晴様の許可のもと動画を作成させて頂きました。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ■参考図書
    『図でわかりやすく説き明かす日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国まで』(青松光晴著)
    amzn.to/3HbwUJz
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    このチャンネルは
    「知的好奇心を刺激する」「日本史の未解明の謎を紐解く」
    をコンセプトに歴史の真実や闇に関する動画を皆さんにお届けしていきます。
    チャンネル登録よろしくお願いいたします。
    ※動画で取り扱う内容については、関係者を冒涜したり、その行動を助長したりするといった意図はございません。
    ※動画内の素材はすべて引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的はございません。
    #ゆっくり解説 #歴史 #卑弥呼

Komentáře • 218

  • @user-ld5hb7fd3v
    @user-ld5hb7fd3v Před 9 dny +1

    考古学の発見から、確かに一番説得力ある動画だろう❗いろんな動画が出ているが、客観的なエビデンスに基づく動画としては、最有力です❗

  • @makotoyoshii2831
    @makotoyoshii2831 Před rokem +8

    那珂 比恵 あたり、ビルや道路やらガンガン開発されてて、今更掘り返すなんてできなさそうだよな。 建物建ててる時、いろいろ遺跡とか出て来たんだろうけど、黙ってしれっと工事続けてそうw
    板付も広いけど、とにかくこの辺り、幹線道路通ってるしどーしようもないよね。
    ほっともっとの本社もあるあたりかなw

  • @user-ci1wq5jz7w
    @user-ci1wq5jz7w Před rokem +12

    今回も大変興味深く面白い考察動画を提供下さりありがとう御座います。又、動画のまとめ方〜見せ方も益々ファンの興味を引き付け、秀逸と感じます。
    同シリーズの関連動画を長く見ていると、畿内に大和国が存在し、九州には邪馬台国が存在していたと感じて仕舞うのは私だけでしょうか?
    旧唐書には倭国から二人の使者が各々「我こそが正当な倭国王の使者だ!!」と魏の皇帝の前で言い争ったと記述があるそうです。大和と邪馬台、両方同時期に存在した国だとすれば面白いですね。
    今後の展開を楽しみにしております。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem +4

      旧唐書に、我こそは倭国の正当な使者だと争ったというような記述はありませんよ。

    • @yam7243
      @yam7243 Před rokem +3

      倭国伝と日本伝に分けられているだけですね。
      ただし日本伝はヤマト政権側の主張と中国側の理解を両論併記した上で、ヤマト政権側の態度や誤魔化そうとする不誠実な様を批判しています。
      倭政権とヤマト政権が別物なのは疑いのない事実なのでしょう。
      まあそれも過去の話となる新唐書やそれ以降になると、結局のところ今支配してるのはヤマト政権だし東夷の昔の歴史とかどうでもいいやとなってますね。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem +4

      @@yam7243
      倭政権と大和朝廷が別物なのは確実なんですか?
      旧唐書には、日本と倭国は別物かもしれないし、
      あるいは、ただ単に倭国が日本と国号を変更しただけかもしれないと書いてあるだけですが……
      旧唐書の著者も、ハッキリとは知らないみたいですけど。
      朝鮮半島の正史の三国史記には、倭国が日本と国号を変更したとあり、倭国=日本と記録してますよ。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +1

      @@user-me5ie4my9p 文献に依拠して主張するなら複数の史書の原文と訳文くらいちゃんと読んで欲しいですよねぇ笑

  • @user-jj2ly9eh5h
    @user-jj2ly9eh5h Před 6 měsíci +3

    一番説得力のあるお話です。

  • @user-wz3vk7ip5o
    @user-wz3vk7ip5o Před rokem +4

    銅鐸 前方後円墳
    銅鐸を持つところ 丸くて
    取っ手としてあながあいている
    下の方はすこし扇がただが
    方とも見える。
    取っ手の円いほうを円とする
    後円とする。
    半分下のほうは前方とする
    あわせて前方後円となり
    それが前方後円墳の形になる。
    銅鐸を置いた形がそのまま
    前方後円墳だ。
    銅鐸の時代は終わったが
    墓の形として銅鐸を置いた形を
    とったのだ。
    動画の最後のほうを何気に見ていて思いついた。

    • @user-ui9bm8yd5t
      @user-ui9bm8yd5t Před rokem +1

      そうですね😊
      私もこの頃気がついたのですが、古代メソポタミアやエジプトの壁画・石/日干しレンガ刻絵などの神々の手はミステリーバックを持っています。日本の銅鐸も初期は小型で酷似しています。シュメール人の末裔らしき我が民族の不思議❤

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 9 měsíci +3

    三種の神器は、最近になって、佐賀市大和町川上の七が瀬遺跡からも出土した。
    この一帯は末盧国東南500里の伊都国跡と推定されており、此れから発掘が進む。古代史の定説を塗り替えrだろう。

  • @hakataomiyage
    @hakataomiyage Před 9 měsíci +4

    水行が気になりはしますが、説得力が凄くありますね。

  • @user-od9cg2hj8o
    @user-od9cg2hj8o Před 7 měsíci +3

    北九州に上陸してから、何度か移動した記述があるので、
    もう少し東か南と思いますけどね。
    ただ北九州は一致点が多いので一番可能性は高いと思います。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Před rokem +7

    弥生時代から古墳時代の海岸線も突っ込んでほしいところ。
    あと現代まで残ってる地名とか

  • @user-un4ss7ve6h
    @user-un4ss7ve6h Před rokem +14

    卑弥呼の居住区想像図を見れば、九州で環濠を持つ大規模遺跡を探すと吉野ケ里遺跡、平塚川添遺跡、方保田東原遺跡が該当しますね。個人的には朝倉市の平塚川添遺跡かなと思いますが、吉野ケ里遺跡も近いかなと…付近に神埼という地名もあり、何かしら関係あるのかもしれませんし。魏志倭人伝の距離的には厳しいですがwww

    • @mentaiko-pasta
      @mentaiko-pasta Před rokem +6

      神埼は謎の巨石遺跡もありますよ。

    • @user-un4ss7ve6h
      @user-un4ss7ve6h Před rokem +5

      熊本のトンカラリンといい、秋田の大湯環状列石といい、石にまつわる遺跡は古代のロマンをかき立てられますよね( ・ิω・ิ)

    • @user-ix1js8mw2q
      @user-ix1js8mw2q Před 4 měsíci +2

      邪馬台国と同時期の祇園山遺跡は久留米の高良山。朝倉~久留米あたりの広大で豊かな筑後川流域に邪馬台国があったはず。対立戦争した南の狗奴国は明らかに熊本の菊池川流域~城南塚原遺跡にあった。八女~瀬高あたりの筑肥山地は国境をめぐる戦争の地だった。間違いない。

  • @user-eh3dq3hc7w
    @user-eh3dq3hc7w Před 11 měsíci +9

    私の元同級生で学生として多くの奈良の発掘調査に関わったひとがいるんですが
    発掘の資金集めのために邪馬台国や卑弥呼と関連付けないといけないってはっきり言ってました。
    名指ししませんが、誰でも知ってる大手メーカーの故創業者が熱狂的な邪馬台国の畿内説論者で
    バブル頃からの莫大な企業・資金力で御用学者も出てき始めたころから、マスコミも同じ様にさわぎはじめて
    一時期は畿内説以外を唱える者ははぶられるような状況までつくりだしたりしてた。
    何がでようが、時代はずれのものがでようが箸墓古墳が無理やり卑弥呼の墓に次々されてるのもそれ。
    宮内庁はそんな連中に皇族の墓を暴かせて無理に邪馬台国だの卑弥呼だのさせたくないんですよ。
    ちなみに箸墓古墳も、単に墓、でしかなく、宮内庁は誰の墓にも設定してません。

  • @user-in4vz8hu7s
    @user-in4vz8hu7s Před rokem +17

    ここまで福岡のあちこちで発掘されてるのはスゴイですね!絹やガラス管玉とか伝わったモノでしょうが、かなりの技術

  • @kurakuen8489
    @kurakuen8489 Před rokem +23

    邪馬台国は福岡沿岸にあった →同意
    纏向遺跡は邪馬台国ではありえない →死後卑弥呼の鏡が収められ、のち、伊勢神宮に移される
    九州と奈良に同じ地名が存在することから、ある時期に民族移動があったと思ってます。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +2

      九州方面から畿内方面への進出は、卑弥呼の時代から200年くらい前から既に始まってますね。高地性集落の分布は時代ごとに変遷します。当初は九州を除く瀬戸内全域から大阪湾岸。卑弥呼の時代は北陸・東海に広がります

    • @OlegBatov
      @OlegBatov Před rokem

      何を言っているんですか!
      畿内では鉄が生産されていませんし、ハマグリも取れませんよ!
      纏向遺跡から鐙が見つかっていることからも、牛馬がいないという記述が虚偽であることがよくわかります。
      耕作や居住の痕跡が少ないことから、魏志倭人伝の8万人住んでいるという記述も誤っていることは明白です!
      公平中立な人であれば、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国は実在しないユートピアであり、纏向遺跡こそが真の邪馬台国であるという結論に至るのではないでしょうか。

  • @cvsq-xy8fo
    @cvsq-xy8fo Před 5 měsíci +4

    卑弥呼の墓は円墳の様な気がする

  • @user-dt8yx2mg7z
    @user-dt8yx2mg7z Před rokem +24

    魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は、
     1.山に丹あり(辰砂:朱を産出する山)
     2.牛馬なし(牛馬がいれば水源を汚すため山岳地帯)
     3.卑弥呼が魏の皇帝から金印をもらった(金印の一辺は2.3cmで108g)
     4.卑弥呼の墓は径百余歩(徒歩で100歩余り:約140m)
    と書かれているんですね。
    いつも思うのですが、山に丹あり(辰砂:朱を産出する山)の事の説明がないんですね。
    当時の辰砂は貴重なもので、卑弥呼にとって辰砂は必要不可欠であると推測できるんです
    ね。辰砂を産出する山、朱を生成していた遺跡などを説明していただいたら、北九州で決
    まりと思うんですよね。

    • @boobyojisyan
      @boobyojisyan Před rokem +7

      辰砂自体は中央構造線に沿って紀伊から四国大分熊本に存在しており、場所によっては坑道を掘り進む必要もなく地表に存在していた可能性がありますね。石炭などもそういう逸話(焚火してたら石が燃えてた系)があります。
      熊本県山鹿市のチブサン古墳の壁画、見事な朱色ですね。

    • @user-vd2qc8rs7g
      @user-vd2qc8rs7g Před rokem +3

      確かに辰砂が九州説では弱点と言われますね。しかし魏志倭人伝では、その山に丹ありが後漢書では、その山に丹土ありに訂正されているんですよね。そうなるとベンガラのことかも知れません。南武志教授が北部九州、奈良、四国の遺跡に使われていた朱の成分を分析したところ奈良と四国は国産朱の成分でしたが、北部九州と日本海側からのみ中国産の朱が検出されてます。北部九州と中国との関係の深さを示すものですが、逆に言えば九州では水銀朱が無く中国から貰っていたのでしょう。ひとつ確実に言えることは畿内・四国とは完全に別勢力という事になりますね。絹も福岡と佐賀からの出土なので邪馬台国の可能性で言えばかなり高いですね。

    • @OlegBatov
      @OlegBatov Před rokem

      佐世保でも熊本でも水銀は取れますね。
      あとよく思うのですが、1歩で1.4mって三段跳びみたいな歩き方をする人がいたのですね。
      当時の人は現代人より背も低かったでしょうに。
      全周じゃなくて直径を測ってるところも渋いですね。プロっぽくて乙ですね。

    • @koji1964febify
      @koji1964febify Před 10 měsíci

      魏志倭人伝を読めばわかるけど、風土産物の項は邪馬台国の事を述べてるわけではなく、
      連合国としての倭国の風土産物が記述されてます、
      書かれてあること全部が邪馬台国の事などと誤解する人が多いのが不思議

    • @may23k68
      @may23k68 Před 8 měsíci

      邪馬台国とする定義はご自由ですからね。私にとってこの動画は邪馬台国ではない定義を示す動画。
      卑弥呼が共立され九州にいるんだな。

  • @lutesnest1353
    @lutesnest1353 Před rokem +18

    やっぱり物証は大事だよね。

  • @user-yu9kw6gd6b
    @user-yu9kw6gd6b Před rokem +6

    卑弥呼の時代の海面水位てどのくらいだったのかな。

    • @user-yt9fq6ug3l
      @user-yt9fq6ug3l Před rokem +4

      三世紀は今の海水面より60メートル低くかったようです

  • @user-yt9fq6ug3l
    @user-yt9fq6ug3l Před rokem +5

    荒船遺跡の380本の銅剣を、出雲の国譲り神話と結びつける人が誰もいない😢

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +2

      細かい話ですが荒神谷遺跡ですよ。銅剣出土本数は358本です。3Kmしか離れていない加茂岩倉遺跡と並んで、とても魅力的。このふたつの遺跡発見によって神話だけで実体が乏しいとされていた出雲の注目度が俄然あがりましたね
      鳥取県鳥取市青谷町、旧地名:因幡国気多(けた)郡の岬にほど近い青谷上寺地遺跡は、古事記に記載されている因幡の白兎伝説(場所は「イナバの国けたのさき」と記述)との関連性を彷彿とさせます。集団殺戮で集落が滅ぼされたようです

  • @guranji
    @guranji Před rokem +11

    邪馬台国が博多領域であるとの事と、ここまで詳しく調べられていることに感銘を受けました。でもなぜこの事が日本の歴史に確定されていないのですか?
    反対の学者を雁首揃えさせて、討論させてみると面白いのではないのですか?

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Před rokem

      (1)邪馬台国の記録はあくまで外国の記述であり日本書紀には記載がないため。
      (2)邪馬台国が中国に朝貢していたのが日本の歴史上都合が悪い。
      (3)邪馬台国と大和朝廷は無関係で邪馬台国は邪魔な存在だったので歴史から抹殺した。
      このあたりが理由だと思います。畿内説だと邪馬台国が大和朝廷につながったという解釈なのでそれなら邪馬台国が日本の歴史から抹殺されることはないと思うのです。
      これらから邪馬台国は北部九州の地方政権であり、畿内の大和朝廷とは連続性がないことが強く推察されます。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +2

    新井白石にくっついて、必死で北東の糸島~博多帆面へ向かおうとしているね。
    倭人伝の末盧国(唐津)東南とは、松浦川沿いをさかのぼり、多久へ出て佐賀方面へ向かう古代道のこと。
    丁度500里の佐賀川上に伊都国、其の東南方向100里の佐賀市街に奴国、又伊都国から東行100里の吉野ヶ里に不彌国があったのさ。

  • @user-hg5no2bz4j
    @user-hg5no2bz4j Před 3 měsíci

    邪馬台国は北側にある国々を伊都国の一大卒に監視させていたと魏志倭人伝にかいてあります。
    となると、それらの国々の南側に広がる筑紫平野のほうが合っているような気がします。
    朝倉市あたりが有力だと思います。

  • @user-yc4wy1bp1l
    @user-yc4wy1bp1l Před rokem +4

    神道教的創始人,卑彌呼。日本女王。😁
    是一個很好的女王。
    在她之前日本有一個戰國時代,而終結戰國時代的,不僅是軍事力量,更重要的是人人們需要信仰。
    所以她終結了亂世。
    文明的核心,始終是信仰。
    某種意義上可以說卑彌呼締造了日本。

  • @user-yc4wy1bp1l
    @user-yc4wy1bp1l Před rokem +6

    生產技術提高,日本先民才逐漸北上(東征),生產技術底下的時候,在南方溫暖之地,更容易獲得食物,抵禦寒冷。

  • @axxx300
    @axxx300 Před rokem +1

    肥国の卑弥呼さんは肥後国と肥前国の巫女さんですね。松浦国から佐賀経由で熊本に行くと肥前国から肥後国と、肥国から出ていないのが分かります。
    また、アメタリシヒコは博多湾岸の香椎あたりのひとですね。のちに大宰府に都が建てられてそちらに移ったようです。

  • @ayemyamu
    @ayemyamu Před rokem +1

    倭人が会稽と東冶(とうや)の東の海の中に住んでいる事が古籍に書いている.会稽は今の浙江省と東冶は福建省の福州・昔まだ方位磁石が進んでいな時期、東に向かって漕いでも海流によって東北に流れて行った. ほかに会稽と東治の東の海中に東鯷人が住んでいる事も古藉に書いてあります.鯷の發音はタイだそうです、つまりこの人々は会稽の西にも住んでいる事.実際今のタイ語に赤い色は、シーデンと發音します.シーは色の事、デンは赤を指す、丹の事、外に白色はシーカゥ(Shi-Khao).シーは色(シキ).カゥは漢字の皓にあたります.つまり白い.タイ語に米やご飯もKhaoと發音する.漢字の谷物.穀物のコク..

    • @yam7243
      @yam7243 Před rokem

      中国との関係って面白くて、魏志倭人伝以前の方がやり取りが多くて、後の時代は徐々に関係が薄くなっている。
      魏志倭人伝もかなりの部分が漢とか前の資料で膨らませている感がある。
      会稽の東ってのは海流説もあるだろうし、短里の万二千里を通常の里で考えると沖縄あたりでちょうど会稽の東になって中国的には理解しやすがったんじゃない。
      漢以前の時代ほど日本に興味なかっただろうし。

    • @ayemyamu
      @ayemyamu Před rokem

      日本に四日市、八日市. 十日市のような地名があります.タイ北 乃至ミャンマーのシャン州のタイ系の民族の地域に何日間に一度市場の順番がまわって来るシステムがあります.四日または五日.八日の期間まわって来るような物資流通の方法. タイ系の民族は各地に酋長制(土司制)が設立されています.百以上はあると思います.スコタイ.とか ランナタイのような大きな城邦地域があります.日本の倭の国々と同じ存在.入れ墨.黒歯・生霊の崇拝.生野菜を食べる(漢民族は生野菜余リ好まない.)漬けもの.発酵もの、こんにゃく、 跣足.高床式家屋.もち米を食る.赤米はめでたい時に食べる.川のり.なれずし.納豆のようなものを好んで食べる. タイ人はお医者さんの事をMorと呼ぶ.それは漢字の魔にあたる.魔術師、巫女、術を使う人物の意味、中国語に巫はMuと發音、日本語はMiと発音.タイ語に薬の発音は Ya.草の発音もYa. 日本語の古代薬草は今の Medicine と同じです. 会稽の東に東鯷(タイ)人が住んでいる古代の記述がでたらめとは思いません.提.題はいづれもTaiの発音、倭人の風習は大抵 朱崖の人と同じの記述もあります.それは海南島に住んでいる黎族(ライ族)の事、このライとタイは近緣の民族.倭人の事を イ辺 の妥という文字を古藉にも出ています.この文字もタイと読むのです.倭人は自ら太伯の子孫と名のる. 誰も自分の事を大夫と自称する.夫(Fu)のタイ語の発音の意味は人間の事.偶然が多すぎて必然になるんですよね.

    • @ayemyamu
      @ayemyamu Před rokem

      また タイ人は昔文字が無かった.おそらくロ頭はタイの言葉を話す.書く文字は漢字.その文字の出来るタイ人がリーダの存在だけ.今タイ王国に住んでいる人たちの文字がカンボジアの文字を借用する標音文字..ミャンマーに住んでいるタイ系の人はミャンマー式の標音符号. 印度のタイ系民族がまた違う文字を使う.ラ才スとタイ人とは同じクメール人の標音文字..中国のタイ族は二十世紀六十年代に中共が新しい標音の文字をつくったですが タイ族には余り人氣がないです. . タイ王国にYao(瑶族)も言語は持っていても書く葉は漢字、文字を自由自在に操れる人は酋長とみこ.占い帥のような人物..倭国の前身も言葉を持っていますが、文字の書き出来る人は上層階級だけです.実際古代人の意思疏通に身ぶり手ぶリ.顔の表情.声量の大きさによって(手話も入る)、紙が発明される前に文字があってもしょうがない.しかし上級の統治者、占い師.お医者の人は 文字がなければならない立場です.統治階級は 命令の配達は文字が必要、物で命令の意思疏通の方法もありますが、しかしそれは危ない.例えば王様から劍ー本授けられて.昇級の意味か自害(切腹)かに迷う臣下が出てくる.自分と敵対する大臣がそれが あなたに賜死と解釈すれば本当に困ります. 日本の文字の起源は階級制度が確立した以来すでに存在しています.

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 10 měsíci +2

    呼子は海水の港で浦と呼ばれた。海水では、炊事洗濯・入浴・飲料水確保に苦労するので、繁栄しがたい。
    やはり、松浦川をやや遡った淡水の港で、現・唐津インター付近の中原津遺跡でせう。

  • @ordinarydays715
    @ordinarydays715 Před rokem +7

    伊都国は別格
    糸島市民 歓喜

  • @user-lo3zo2mh4v
    @user-lo3zo2mh4v Před rokem +6

    召使い千人って、召使いの召使いとかも居たんだろうなぁ。

    • @user-in4vz8hu7s
      @user-in4vz8hu7s Před rokem +1

      そうでしょうね、どの時代でも召し使いにも仕事によって上下があったようですし!

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +2

      @@user-in4vz8hu7s 無理ですよ。江戸時代の大奥でも1000人を超えるのはマレです。伝聞を頼りにした与太話の類です

  • @user-yx2gf6xo9j
    @user-yx2gf6xo9j Před 6 měsíci +1

    山に山菜山芋取りの経験上ですが、物理体力的に北部九州に確定~現代人でも山の背丈ぐらいの草ツルが繁茂獣道以下道を移動するのに1日そんなに進めません。ましてや魏の高官なら精々現代のぐうたら親父位の体力だろうから身一つで頑張って1〜2km人夫が荷物を持っての移動なら0.5〜1kmも無理かもよ~学者先生の中で行程実証された方はいるのかなぁ?ゆっくり隊を結成し実験してほしい。

  • @yam7243
    @yam7243 Před rokem +21

    近畿説はどこまでいっても当時大きな勢力があったで終了なんですよね、魏志倭人伝は中国の史書であって当時どこの勢力が中国と国交があったかって話。
    出だしの行程部分を曲解してあとは無視が近畿説の悪いところ、女王国から東に1000里海を渡るとまた倭種の国があって、北に21カ国だったか遠絶で詳細がわからん国があるけどこれの内の一部が近畿じゃない。
    で一大率がみている北の国だね。
    女王国が太宰府や宇佐近辺とすると、東が四国、北から始まる21カ国が山口から東海とすればめっちゃスッキリするね。
    ヤマト政権が入口を押さえている九州を平定できたのは卑弥呼の後の時代だから、近畿説は最初から無理筋なんだよ。
    ちょうど卑弥呼が亡くなったあと国が乱れたとあるから、そこで近畿勢力が九州を支配下に置いていったとすれば記紀とも矛盾しない。

    • @user-ih8ie3sz2o
      @user-ih8ie3sz2o Před rokem +2

      賛成

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +1

      倭人伝をちゃんと読みましたか?外国の使者はイト国から先には行ってませんよ。そこで外交手続きが完結すると明記しています。江戸時代の長崎出島の様な存在だった可能性も十分です。そこから先の記述はテキトーです
      ヒミコの前に大乱があった事もご存じでしょう?その時点で後の列島政権の骨格ができたという発想にはなりませんか?考古学は、その可能性が十分ある事を示してますよ

  • @user-yt9fq6ug3l
    @user-yt9fq6ug3l Před rokem +5

    平原遺跡が1番押しの卑弥呼の墓かなあ

  • @user-sq1fo9lj9j
    @user-sq1fo9lj9j Před rokem +48

    近畿地域の教授たちはどうしても邪馬台国は近畿にあったっていいたいらしいねw

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      情報が古いねぇ。近畿の学者だけでなく関東、吉備、出雲の考古学者もほぼほぼ畿内説だよ。九州大学の考古学者も畿内説。ネットじゃなくちゃんと1次情報を見ようね安本美典や古田武彦は歴史の専門家ではありません

    • @user-ot7tl4xd2v
      @user-ot7tl4xd2v Před rokem +1

      本当に学者は❓名ばかりです❗

    • @user-yt9fq6ug3l
      @user-yt9fq6ug3l Před rokem +17

      それは、確かにそう思いますね。三世紀の鉄器の出土が北九州が圧倒的で、近畿は僅かなのに、誰もその点に触れない

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem +7

      ⁠@@user-yt9fq6ug3l
      鉄器の数は3世紀中期から畿内が上回ります
      また、鉄器製造遺跡は21世紀以降淡路島や福井県など複数見つかっています

    • @user-hr3lm5tf5f
      @user-hr3lm5tf5f Před rokem +7

      私関西出身だけど九州説じゃ無いと色々納得いかないww
      悔しいけどw

  • @yuasa5042
    @yuasa5042 Před rokem +6

    あれ、消されてる、まあいいわ
    弥生後期の甕棺墓分布圏はボロボロやん
    玄界灘沿岸地域は出雲との強引な取り決め(国譲り?)により
    有明海勢力(天照/饒速日)の支配下に置かれたんやろな、そのうち
    九州全土&葦原中国にも同様の行為で触手を伸ばしていったんやろね
    ついでに言うと天照が都と定めた水行20日陸行1月の邪馬台は
    記紀にいうところのヤマタノオロチやろなw
    そして、天照を脅し(困らせ)、ヤマタノオロチを退治(東征)したのが
    スサノオを投影した建日別の天孫族やね、地味に繋がったねw

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 11 měsíci +2

    日本書紀で藤原の孫が、もしかして「唐津北東の糸島・箱崎・博多あたりかも」、とつぶやいた。
    で、江戸の学者も明治の大学教授以下も、全員ゾロゾロついて行っちゃったからねえ・・、
    中華四大史書の通り、唐津東南500里の佐賀平野を探せばすぐ見つかるさ。 「人の行く 裏に道あり 花の山」 千利休

  • @user-gp3wt2xn8i
    @user-gp3wt2xn8i Před 5 měsíci

    「福永晋三」先生の説だと、年号も事象も全て合致します。 Carlos☺

  • @user-tk1kn4em6e
    @user-tk1kn4em6e Před 7 měsíci

    一大率(天領)を置いたの北部九州から遠い処に女王国があったから。

  • @user-st7uv6eu7c
    @user-st7uv6eu7c Před rokem +13

    やっぱり大宰府に何かあると思うよ?

    • @user-yt9fq6ug3l
      @user-yt9fq6ug3l Před rokem +3

      太宰府は、何かあって欲しいですね。親魏倭王の金印とか😂

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      大宰府羅城の土壁は版筑工法で造られています。
      一番古い土壁の層は西暦240年位の年代鑑定のものがあります。
      これが正しいなら張政が魏の使者として倭国にきた時期と合致します。
      クナ国との戦闘が激しくなったとの報に接し、来たので、当然、軍事顧問団としてでしょう。
      だとしたら、土壁の大要塞の大土木工事に張政ら軍事顧問団が関わっている可能性があると思うのです。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci +1

      なので、版筑の年代鑑定を詰めて、確定と言えるほどになれば、大きな動きになるのではないかと期待してるのですが、、、

  • @user-vf3bg5vg4c
    @user-vf3bg5vg4c Před rokem +21

    邪馬台国宮殿は福岡県で卑弥呼さんの墓は宇佐神宮でしょう?

    • @user-xv9bi3so1p
      @user-xv9bi3so1p Před rokem +7

      墳墓は宇佐神宮だと思いますし邪馬台国は九州だと思いますが、福岡と宇佐は離れすぎてる気が?。

    • @bittersweet7022
      @bittersweet7022 Před rokem +5

      北九州市から宇佐市の間の海岸沿い一帯かな 東に海もあるし

    • @user-ot7tl4xd2v
      @user-ot7tl4xd2v Před rokem +1

      いや イヨ(ト与)では❓

  • @wan6347
    @wan6347 Před 10 měsíci +2

    九州説は同意しますが、西九州では「女王国の東に海あり。」に該当しません。
    それに倭国大乱が起きているのに、そんな平野部に卑弥呼が居たとは思えませんね。 
    防衛上、山岳地域に簡単な城を築いていたと思われます。
    なので、私は田川郡添田町周辺、英彦山に卑弥呼が居たと思います。 
    ここは近くに銅を産出する香春岳があり、宇佐神宮や日田にもアクセスが出来ます。
    調査が行われていませんが、赤村の巨大な前方後円墳が卑弥呼の墓だと思います。

  • @user-kc8qs8db1g
    @user-kc8qs8db1g Před měsícem +1

    屁理屈に屁理屈を重ねないと近畿説なんて出てこない。

  • @user-uz1fl2uy3k
    @user-uz1fl2uy3k Před 9 měsíci +2

    ゆっくり凄いぞ!おそらくゆっくり説当たりだなー凄い凄い凄すぎ😮😮😮

  • @gilbertblythe6245
    @gilbertblythe6245 Před rokem +3

    荒神谷遺跡、賀茂岩倉遺跡から…銅剣と銅鐸が大量に出たので…銅剣、銅鐸文化圏の話はもう古新聞かと。

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +2

      昔から唱えられていた説で、最近は無視される傾向がありますが、巨大銅鐸の出土が偏在している点は留意すべきだと思います。ちなみに銅鐸が流行したのは紀元前2世紀から2世紀の約400年間。卑弥呼の時代より前に終わってますね

    • @user-od9cg2hj8o
      @user-od9cg2hj8o Před 7 měsíci

      それは思った。

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y Před 17 dny

    邪馬台国はヤマト国と発音し、奈良県の大和を指します。

  • @user-bg5lf5ty5x
    @user-bg5lf5ty5x Před rokem +6

    中国から近いのは九州だから九州の可能性が高いよね
    ただ、開発が進んでる現代では新たに遺跡を発見しても遺すことは難しいよね

  • @user-eo7rp1ty6p
    @user-eo7rp1ty6p Před 7 měsíci

    🔴大神宮の時代です‼️
    あらためて古代史の基本は天山の麓 
    天孫降臨の地(山田三千坊)にある
    佐賀大和姉川河西の天皇家最高神
    皇祖廟【大神宮】である事を再度確認できました‼️・・・神の先(神埼)ですネ‼️
    大神宮復興事業
    葉隠
    2200年に一度の大チャンス‼️
    ⛩️🇯🇵🦜🐦🕊️🐍🌈🪂🌠🌏🎌㊗️❤️🔴

  • @user-pz4jw1db1q
    @user-pz4jw1db1q Před 5 měsíci +2

    出土物の多さだけを問題似するのは、危険です。これは、状況証拠にしかなり得ません。なぜなら、出土物の多さを決定的な所在地の根拠とすると、アメリカの首都は、ニューヨーク、オーストラリアの首都は、シドニーになってしまうからです。

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN Před rokem +2

    未だに❗邪馬台国が畿内~九州両説無理なのでは❕☝️!(*≧∇≦)ノ

  • @satosin2660
    @satosin2660 Před rokem +18

    三種の神器が福岡由来という事をもっと重視すべきだと思う。
    皇室は九州から東遷したと伝承され、権力の象徴は三種の神器であることを踏まえると、皇室は九州、もっと言えば福岡にあった邪馬台国の権威を受け継ぐ事で成立したと記紀は主張しているようにしか思えない。
    大体、邪馬台国が大和に存在していたのなら、こういった記紀の主張は成立しない。
    その事を、邪馬台国ヤマト説の人間は、どう考えているのだろうか。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +5

      記紀に東遷したと書いてあるのは邪馬台国ではなく神武天皇であり北部九州ではなく日向地方です

    • @satosin2660
      @satosin2660 Před rokem +6

      @@user-ym8hr9jd7l
      『皇室は九州から東遷した』とは書いたが、邪馬台国が東遷したとは書いていない。
      書いていない事で批判しないでほしい。
      また『日向』は日本書紀では『筑紫の日向』と書かれており、明らかに福岡だ。
      少なくとも日向地方では無い。
      ※高千穂も古事記に『竺紫の日向の高千穂』と書かれている

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +5

      @@satosin2660
      ならば教えてあげよう。ヤマト王権の始まりである邪馬台国は色々な地域のいいとこどりをした連合政権です。墓の埋葬品の文化は北部九州、墓の形、埴輪は吉備、墓の石垣は阿波、建物の技術は近江、宗教は出雲。記紀の前半は神話ですよ

    • @satosin2660
      @satosin2660 Před rokem +1

      @@user-ym8hr9jd7l
      そういう知識があって、何で皇室の正当性の根拠が九州福岡にあると記紀に書かれている意味が理解できないのでしょうか。
      知識の無駄遣いにしか見えません。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      @@satosin2660
      ちゃんと私の返信みた?正当性の根拠は西日本の各地にあるのだよ。古墳の造営等は途中でやめたけど。
      九州説の人は動画にもあったが邪馬台国時代に北部九州に纏向発祥の文化である纏向型前方後円墳があることをよく考えた方がいいよ。畿内式土器も邪馬台国時代には北部九州で多数みつかる

  • @user-yt9fq6ug3l
    @user-yt9fq6ug3l Před rokem +13

    三世紀の鉄器の出土は北九州が圧倒的で近畿はごく僅か。これで、邪馬台国(ヤマト国)のあった場所は九州しかあり得ません

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 Před rokem +3

      弥生時代を通じて、鉄素材の調達に関し北九州が優位にあった事は否定しがたいですね。魏志東夷伝でも倭人が半島に鉄を取りに来ているという記述もありますし。だからと言って畿内で鉄が完全に欠乏していたと考えるのは早計です。卑弥呼の時代より数百年さかのぼる弥生時代中期の畿内遺跡から、鉄器を前提にしないと説明できない木工製品が出土しています
      しだいに祭器素材と化してしまった青銅と異なり、鉄素材はあくまで実用品の原料。十分でなければリサイクルするのが当然です。捨てるのは余剰になってから。戦闘だけなら青銅器や石器でも間に合いますし(遥か後世の戦国時代ですら投石は常用戦闘手段です)、結局のところ国内戦では、武力は人口の影響が大です

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Před rokem +3

      帯方郡から邪馬台国まで12000里で九州上陸時点で10500里ですし、
      「北の諸国の監視のため伊都国に一大卒を置いた」とあるので、必然的に邪馬台国は糸島市の南側になります。この2点だけでも邪馬台国が筑紫平野にあったことは簡単に導けます。畿内説などが入り込む余地は全く無いですね。

  • @yoshikiyo608
    @yoshikiyo608 Před 6 měsíci

    この手の議論を大好きなのですが、当時の日本地図を用意して話を進めてないのが惜しいかな。海岸線も違うし河川の流域も違う、特に現在の平野が住むことも歩くこともできない海底であることに触れないのが。

  • @takumi1999
    @takumi1999 Před rokem +4

    個人的には、博多湾岸はありえないと思う。当時大都市であったが国防を考えると。時代は下がるが白村江の戦・元寇の防衛ラインは、太宰府北側の水城あたりだったと思う。ゆえに太宰府南側の筑紫平野が適地に思う。吉野ヶ里・平塚川添の一つ一つがクニであり連合体が邪馬台国なのかも。怡土城・大野城・基肄城が現代で言えばレーダーサイト的な役目が出来たのでは。狼煙等を使えば伊都国~筑紫平野の高速通信網になる。さらに防衛力の高い地として筑後川の上流の日田盆地がある。西以外は高い山に囲まれている。曹操の鏡と同じ鉄鏡が出土した場所でもある。

  • @user-sq1fo9lj9j
    @user-sq1fo9lj9j Před rokem +9

    ばりばり福岡市内じゃねーか!発掘できねーぞ!マンションだらけだし!

    • @mentaiko-pasta
      @mentaiko-pasta Před rokem +8

      マンション建設の度に遺跡が出土して大変みたい。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem +3

      そんなのはどこの地域も同じこと
      発掘調査というのはほとんどが建築作業をストップして行うもので、自由にできることではない

  • @gorinbasi
    @gorinbasi Před 15 dny

    「考古学が明かす~」と言いながら、内容は統計学になってて草、畿内説、九州説、阿波説も共に300年以上も発掘調査と議論を交わして今で何も出てこない事に気づくべきだと思うよ、更に中国の史記を信用するならもう一度魏志東夷伝を色眼鏡無しで記載内容を正確に読み解く努力をするべきだと思うよ。

  • @BOOTNIK01
    @BOOTNIK01 Před rokem +5

    畿内説を唱えている人の意味が、子供の頃から全く理解できないでいる

  • @lutesnest1353
    @lutesnest1353 Před rokem +1

    巫女同士

  • @user-bn3je3bd6x
    @user-bn3je3bd6x Před 10 měsíci

    邪馬台国宮崎説唱えるかぁ……(異端児)

  • @kk-hq8nu
    @kk-hq8nu Před rokem +2

    詳しく知ってはないんですが、記述の道程を考えるとやはり邪馬台国は奈良付近にあったかなと、不弥国から日本海側へ水行して投馬国(出雲)へそこから丹後付近まで水行し陸路で奈良へ、南の敵対勢力は南九州だったと考えられ、邪馬台国の力尽きるところは吉野ヶ里より南の土地で吉野ヶ里は邪馬台国の防衛拠点だったのではと思います。もしかしたら交易や練兵によって九州で増強した王権が卑弥呼の死後邪馬台国を滅ぼしヤマト王権になったのかもと考えています。

  • @asa01053
    @asa01053 Před rokem +1

    九州から近畿までの広域エリアの邪馬台国ですね!

  • @tadasinakamura
    @tadasinakamura Před rokem +3

    奈良県も勾玉めちゃめちゃ出土してますよ。元データがよくないのかな?

    • @beet1827
      @beet1827 Před rokem +6

      奈良県では3世紀末(桜井茶臼山古墳等)が玉類副葬の開始期なので、邪馬台国の時代と離れているため記載しなかったのではないでしょうか。

    • @tadasinakamura
      @tadasinakamura Před rokem +1

      @@beet1827 それであんなに事例数少なかったんですかね?

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      それと全てのデータが弥生時代全般で恣意的です。それと奈良vs福岡の比較は意味がない。九州説では福岡全土が邪馬台国連合であとは近隣が少しだが畿内説の邪馬台国連合は北部九州を含めた西日本連合ですから。邪馬台国ってただ卑弥呼がいた宗教都市ですよ。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      @@beet1827
      ありがとうございます。基本的には21世紀以後の考古学者はほぼ同じ考えです。国内のダイナミックな人、モノの移動、朝鮮半島が不安定な状況で北部九州だけの勢力で対峙できるような時代ではありません。
      初期のヤマト王権はヤマトの強力な支配力で成り立ってはいません。各国の連合王権です。魏志倭人伝がしめすように邪馬台国は女王が都とするのみの宗教的権威都市。あとの表記はすべて女王国(連合)です。
      私がお勧めするなら
      邪馬台国をとらえなおす (講談社現代新書) 明治大学名誉教授 大塚初重先生
      魏志倭人伝の読解なら
      魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)
      早稲田大学教授 渡辺義浩先生
       
      九州説を唱えるような郷土史家や他分野の学者と違い浅はかな断定はせず理路整然と研究の発表をしています。
      ちなみにネットには世論誘導をしようとする九州説を唱える怪しい団体や郷土史家が多数存在しますので信用できません。

  • @may23k68
    @may23k68 Před 10 měsíci +1

    九州以外だな。邪馬台国に絞った情報は
    戸数、官名、日程しかない
    鉄器なら関東、北陸まである。
    山に丹なら四国、近畿。

  • @user-bx1mo1wd1b
    @user-bx1mo1wd1b Před rokem +3

    九州説 対 近畿説
       矛 盾   をEnjoy
    1万年後もまだ言ってるよ
    だから、自分が思うで良いよ

  • @anntena5318
    @anntena5318 Před rokem +12

    czcams.com/video/sLc3MN-fXuU/video.html
    「その山に丹あり」魏志倭人伝
    邪馬台国阿波説以外の人達が大変困る記述。。

    • @boobyojisyan
      @boobyojisyan Před rokem +11

      辰砂自体は紀伊から四国九州の中央構造線沿いで産出されますし、いちいち坑道を掘り進む必要もなく地表に存在していた可能性もあります。石炭が良い例ですね。熊本県山鹿市のチブサン古墳の壁画、見事な朱色ですよ〜。丹が辰砂を指しているか100%言い切れるのかどうかはわかりませんが九州説にとってはそこまで困らないと思います。

    • @anntena5318
      @anntena5318 Před rokem +4

      @@boobyojisyan
      おっしゃる定型文に関し、魏志倭人伝を書いた魏の官僚がわざわざ「その山に丹あり」と書くのはどこにでも有るベンガラでは絶対に無い理由を丁寧に解説されてます。一見以上の価値ありますよ(むしろその後の行程を何の矛盾もなく解明しているところの方が凄まじく価値ある解説ですが)
      ⇩ czcams.com/video/sLc3MN-fXuU/video.html

    • @sentarou6969
      @sentarou6969 Před rokem

      徳島の人は邪馬台国も出雲大社もユダヤも全部阿波だとお考えのようですね。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      畿内説は困りませんよ。何故なら魏志倭人伝は倭国伝ですから。むしろ絹、青玉、真珠、丹。これら全てを可能にするには西日本と北陸を含む邪馬台国連合じゃないと無理です

    • @anntena5318
      @anntena5318 Před rokem +6

      @@sentarou6969 仮に私への反論として徳島の人だから、、と考えられたのなら、まったくの見当外れです。徳島に縁もゆかりもないです。利害も損得も思い入れもなく、阿波は学術界、権威に注目されない(調査が進まない)のが不可思議なほど、注目に値する遺跡群や説得力があると考えているだけです。どうも感覚的な話ですが、慰安婦問題と同じで解決してしまうことでお金が回らなくなることを危惧する学術関係者はあえて邪馬臺国論争を九州か奈良の論争にして、解決しないように世論を誘導しているようにも思えてきます。そう感じるぐらい、それに関わる人達(インフルエンサー)が何故か異様なほど感情的に二元論に終始するから。自然さと素直さから乖離してる人達が多い印象。できればその性質(優劣を競う人達、損得勘定やプライド衝動の人達)とは無縁でいたいです。たとえば徳島人だろ、とか思い込みを根拠にして話を進めるするタイプは、討議相手としての大前提でその先々に建設性が見えない、、。感情的な人だったなら、その要素に関してのみ、その失礼は前もってお詫び申し上げます。
      古代史は、よっぽど決定的な証拠が現れない限りどうしてもバイアスによって個々が導き出す答え(暫定的答え)は違っていて当然。利害関係者はそれを利用します。。。本来学者はそういうのと無縁な人が向いてるはずなのに、現実では商売魂がある人種が学術界では幅を利かすようですね。

  • @user-yt9fq6ug3l
    @user-yt9fq6ug3l Před rokem +4

    邪馬台国の読みはヤマトでしょう。ヤマト国。それが高千穂から日向から東征。卑弥呼は天照大神で

    • @user-Godai_Yoshio
      @user-Godai_Yoshio Před rokem

      邪馬台の台は、正しくは臺で、台と臺は別の字です。この字の発音は「ダイ」であって、「タ」でも「タイ」でもありません。また、仮名と同じく一文字一音節となり「ダ」となります。つまり邪馬台国は正しくは邪馬臺国で「ヤマダ国」となります。

  • @YAMAUCHID
    @YAMAUCHID Před rokem +2

    邪馬台国はここだ!という人に、私はいつも聞いています。

  • @Saitama-kenmin
    @Saitama-kenmin Před 9 měsíci +2

    それでも、阿波徳島だと思う、発掘が遅れているだけ。

  • @user-ym8hr9jd7l
    @user-ym8hr9jd7l Před rokem +7

    相変わらず九州説は3世紀限定にせずに弥生時代全般の出土物、遺跡で語っているが2世紀までの先進地域が北部九州であることにはまったく異論はないのでそれを証明したところで意味がない。北部九州の多くの遺跡は3世紀に衰退している。
    北部九州で3世紀最大の遺跡としている場所に三角縁神獣鏡が見つかった那珂八幡古墳は纏向型前方後円墳。これはどう解釈しているのでしょう?
    絹は強調するが真珠、青玉、丹には触れず福岡vs奈良の比較。魏志倭人伝は文字通り倭国伝です。邪馬台国だけのはなしではありません。
    九州説のアイドル関川尚功が纏向を否定していることを声高に叫ぶが彼が纏向に関わったのは80年代で纏向で色々な発見が始まる前の時代の人。それ以後の人はほぼ纏向邪馬台国支持なのは無視。
    それに投馬国はどこにもっていくのでしょう。北部九州が温暖?奈良も福岡も気候に大差はない。温暖なのは理念上の邪馬台国の場所である会稽郡東冶県のこと。黥面文身の風習もこの地の文化。
    で従者1000人(誇張なので多少少なくても構わないが)を抱える宮殿、卑弥呼が誰にも会わないでもいられる宮殿は見つかったの?纏向にはありますよ

    • @user-ot7tl4xd2v
      @user-ot7tl4xd2v Před rokem +5

      カンゴウは❓

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      @@user-ot7tl4xd2v
      纏向の調査はまだ数%ですよ。
      吉野ヶ里遺跡は今回の調査でほぼ完了です。考古学者のほとんどが吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではないと結論づけました

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem

      @@user-ot7tl4xd2v ​ ​ 纒向近隣の、唐古・鍵遺跡は環濠集落でしたが、弥生時代末期に環濠は全て埋められています。
      時代的に倭国大乱、卑弥呼共立と纒向遺跡の出現時期と重なります。
      これらから、卑弥呼共立により連合体倭国(魏志に見える「女王国」はこれを指すとみられる)が形成され、
      その中心地(統一国家では無い為、首都と言うより連合体の中心的都市)に、
      纒向が誕生。
      近隣諸国は殆どが連合体に与している為、(当時の大和川の分布など地理的な理由もあるかもしれませんが)環濠を造る理由が無かった。
      近傍の唐古・鍵遺跡も同時期に連合体に合流しており、環濠の埋め立てはその時に行われた可能性が高い。
      (因みに弥生時代中・後期に銅鐸製造が盛んに行われた唐古・鍵遺跡の直ぐ近くには鏡作神社があり、同遺跡での銅鐸製作が後代の国産鏡製作に繋がっていった事を示唆しています)
      こんな所ではないかと考えられます。

  • @kikitutu4050
    @kikitutu4050 Před 11 měsíci

    でも今回の奈良・桜井茶臼山古墳で見つかった銅鏡はどうなんでしょうか。
    あと奈良は宮内庁の管轄下の為、採掘が出来ない古墳が沢山あります。
    でも発掘出来る古墳からは、珍しい物が出てきてますね。
    そもそも魏志倭人伝に出てくる倭国の話は、誰から聞いた人なんでしょうね?
    九州の人?近畿の人?
    何となく九州の人から聞いたような気がしてますが……

  • @kei.suzuki
    @kei.suzuki Před rokem +8

    この動画では福岡県周辺を候補地にしてますけど、九州説全体で合意取れてるんですか?
    毎回思うんですけど、九州説は候補地が多いのに互いに論争せずもっぱら畿内説を否定する事にのみ血道をあげて、候補地を確定する事には全然興味がなさそうなのが気になります
    関川さんの本を挙げてますけど、馴れ合いで学問やってるわけじゃないんだからむしろ畿内説界隈が健全な証拠でしょ
    それよりも九州説界隈の馴れ合いはもうやめにして候補地を合意、確定してください

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem +6

      本当にそう思います。卑弥呼墓についてもそうですよね。
      平原王墓、権現塚古墳、祇園山古墳、ダンワラetc...
      築造年代や副葬品をしっかり検討すれば、多少は絞り込める筈だと思うのですが。
      ここもあり得る、ここも捨てがたい。
      でも畿内説はなんでも否定で一致する様は滑稽ですらあります。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +9

      真相を解明するつもりもなく町おこしをやってる状態。この動画も九州説を唱える人も邪馬台国時代ではない遺跡や遺物も含めて語る。
      纏向で決定してしまったら町おこしはできなくなるのでとりあえず纏向のマイナス点を探して否定する。

    • @yam7243
      @yam7243 Před rokem +9

      畿内説は冒頭の行程を曲解する事でしか存在し得ないので論外です。
      女王国から東に1000里海を渡ると又倭種の国とか北に21カ国遠絶で詳細がわからない国の記載を解決出来たなら別ですけどね。
      東を南に曲解するなら、この東と北はどうするのでしょうね?
      畿内はどう考えても遠絶の21カ国側でしょ。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem +7

      @@yam7243
      まず九州説同士でトーナメント戦してから出直してください

    • @satosin2660
      @satosin2660 Před rokem +3

      文章の出土が伴わない状態で『候補地を合意、確定』できるのが学問的に異常。
      殷墟は金文が発掘されたから確定できた。
      考古学上の発見は状況証拠にすぎない事を理解できていない。
      はっきり言って畿内説はレベルが低いと言わざるを得ない。
      私は文章の出土が伴わない考古学上の発見は状況証拠だと考えている。
      つまり、文献による仮説が考古学による状況証拠と反する場合はその仮説は誤りであり、考古学による状況証拠と反しない場合のみ仮説が成り立つという事だ。
      また、それと同様に考古学による状況証拠がいくらそろっても、それだけでは仮説が定説にはなりえず、状況証拠のみによる仮説が文献と明らかに異なる場合は、再度文献と照らし合わせるべきだとも考える。
      例えば、魏志倭人伝には最初に『漢の時、朝見する者有り。』と書かれている。
      つまり『漢委奴国王』の金印を送られた国と邪馬台国は同一視されているという事だ。
      また、皇室は九州から東遷したと伝承され、権力の象徴は三種の神器であることを踏まえると、皇室は九州、もっと言えば福岡にあった邪馬台国の権威を受け継ぐ事で成立したと記紀は主張しているようにしか思えない。
      大体、邪馬台国が大和に存在していたのなら、こういった記紀の主張は成立しない。
      それらを無視して、単に状況証拠のみを積み上げても、真実へはたどり着かない。
      犯罪者の心理分析を行わずに状況証拠だけで犯罪を解明しようとしても真相解明には至らないのと同様である。
      その事を、邪馬台国ヤマト説の人間は、どう考えているのだろうか。

  • @may23k68
    @may23k68 Před 8 měsíci

    ありがとうございます。
    動画を見て邪馬台国は九州以外となりました。
    でも卑弥呼は九州にいるのではと思います。

  • @user-lp1ls1sp5o
    @user-lp1ls1sp5o Před rokem +1

    北部九州は倭國連合に属する国々であり、他国との貿易、守備の最前線です。
    中国の文献の距離も方角も非常に正確であり、それを捻じ曲げた比定地は問題外です。
    「ANYAチャンネル」さんお動画で勉強することをお勧めします。

  • @user-no7uc6eh4r
    @user-no7uc6eh4r Před rokem +2

    少数派でいるのかもしれないけど、そもそもが卑弥呼なんて居たのか?を理由としてその字とする説って耳にしないよな。卑→良い意味で使う言葉じゃないよな、弥→女性にこの字を用いるかな、みたいな。女王が支配して居たんだろうけどそれは卑弥呼ではないしそもそも卑弥呼が女じゃない、それどころか卑弥呼というのは人ではない、みたいな。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      仮にいたとしても魏志倭人伝とは似ても似つかない可能性はあります。
      みな中国の歴史書を信用しすぎです。中国の史書で信用できるのはある程度の年代と中国皇帝の事績(誇張気味)だけです

    • @harumiinoue5607
      @harumiinoue5607 Před rokem

      本当は日巫女?
      確かに印象の悪い文字を当てられてますね
      そもそも邪馬台国だって大概ですよね

    • @user-dv3fo5dm6c
      @user-dv3fo5dm6c Před rokem +2

      ただの当て字ですよ。中華思想で調べましょう

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem +1

      @@harumiinoue5607 古代日本の原始的カバネで、
      彦ヒコ(魏志に見える卑狗)は日・子(子は男性の意)、
      姫ヒメ(魏志に見える卑弥呼または卑弥の部分)は日・女(女は女性の意)
      であると考えられています。
      基本的には日本語の古い形のものを当時の魏・晋の漢字で同じか似通った読みの字で宛字しているだけで、
      字そのものの意味を深読みする事は基本的に無意味です。

    • @user-ih8ie3sz2o
      @user-ih8ie3sz2o Před rokem

      それはあるかもしれませんね
      誰も見たものはいないですから