【遂に解明⁉】邪馬台国はココにあった⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所とは?【ゆっくり解説】

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  • čas přidán 20. 08. 2024
  • 今回は、遂に解明⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所について紹介させて頂きます。
    今回の動画は、青松光晴様の許可のもと動画を作成させて頂きました。
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    ■参考図書
    『図でわかりやすく説き明かす日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国まで』(青松光晴著)
    amzn.to/3HbwUJz
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    このチャンネルは
    「知的好奇心を刺激する」「日本史の未解明の謎を紐解く」
    をコンセプトに歴史の真実や闇に関する動画を皆さんにお届けしていきます。
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    #ゆっくり解説 #歴史 #邪馬台国

Komentáře • 370

  • @KeCN
    @KeCN Před rokem +30

    当時の魏の使者は伊都国にとどまることになっていましたが、当時としては畿内と伊都国ではコミュニケーションをとる点から距離として現実的では無いでしょう。畿内であれば少なくとも難波辺りが伊都国の役割を担うはずです。そして北部九州から畿内までについての国名等の記載が無いのも不自然。国名についてはと投馬国以外は北部九州になっています。
    帯方郡から邪馬台国までの総距離12000里のうち、狗邪韓国までで7000里。そこから島伝いに海を渡って九州に上陸した地点で10500里。残り1500里で畿内まではいけないでしょう。
    元々、畿内説は南を東に読み換えて邪馬台国と後の大和朝廷との継続性を持たせるために考え出された説だから魏志倭人伝の記載内容とは全く整合性がありません。

  • @user-jx4nf4nf2y
    @user-jx4nf4nf2y Před 2 měsíci +3

    全部で一万二千里、伊都国までで一万千里くらい使ってるから近畿はまずありえない

  • @恙恙
    @恙恙 Před rokem +32

    そもそも邪馬台国が諸倭邦の全てを統治して居たかも全く怪しいですし魏に朝貢を行って居た国についての記述との観点から観ると畿内説よりは九州説の方が説得力は有りますね😊

    • @katumoku10
      @katumoku10 Před 8 měsíci +1

      おっしゃる通りです。怪しいことばかりですから、事実、つまり考古学や民俗学の成果で文献の内容を評価すべきです。ところが、多くの方は逆をやっているので正解にたどり着けないのですよ。詳しくは上に述べていますので、よろしければご覧いただき、ご意見をください(;^ω^)

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +6

    15:40 漢書を編纂した班固に見るように、行程記述にはルールがある。
    15:52 実際の道行き(主線行程)に沿いつつ、折々に傍らの国(傍線行程)を記載する。最後に四至(四方向の国々)を記載する。
    まさに仰せの通り、立派でよくできた解説だねえ。
    惜しむらくは、唐津からなんで北東へ行っちゃったの。そこは原文通りに、郡使は東南500里の佐賀平野へ進んだはず・・。

    • @katumoku10
      @katumoku10 Před 8 měsíci

      このような議論をやっても皆さんが納得する邪馬台国の場所が見つからない理由を考えると、真相に近づけますよ!上に述べたので、よろしければご覧ください(^_-)-☆

    • @yam7243
      @yam7243 Před měsícem

      唐津から普通に東南に向かってでただけで間違ってはいない、北東とすると海やないかと逆に突っ込まれる。
      文字数に制限があるなかで、簡潔に説明すると後世に地図から見るのとでは齟齬があって仕方なしでしょ。

  • @tomoduca
    @tomoduca Před rokem +13

    邪馬台国が奈良付近だとすると、首都周辺の記載があまりにもpoorになるので、私も九州説派です。魏志倭人伝が軍事資料的意味合いもあるならなおさら、首都近傍の情報は必須。北部九州についていろんな国を挙げて詳細に記されているということは、首都に近いから、ということで納得できます。…ちなみに、糸島市の前原はマエバルと読みます。

    • @ghryt2884
      @ghryt2884 Před 3 měsíci

      魏志倭人伝は邪馬壹国(やまと国)と記載され四国阿波に存在しましたが、邪馬台(たい)国は新井白石がつけた名前でして古代には存在しないことになります。

  • @user-np6lh3cc1t
    @user-np6lh3cc1t Před rokem +23

    説得力のある解説と思いました。ただ博多の街はもう建物で埋めつくされていて、新たな発掘は期待出来ませんね。永遠に謎のままになると思いました。

    • @soumeiyosi3911
      @soumeiyosi3911 Před rokem +1

      天神ビッグバン博多コネクト空港拡張で絶賛掘り起こし中だけど邪馬台国当時の海岸線なはどの辺りだったんだろうか?

  • @osamuarima1118
    @osamuarima1118 Před rokem +11

    水行10日陸行1月の解釈は、倭人流の考え方だから位置の特定に使用すべきでないと考える。なのでこの結論は非常に良いと思います。そうすると、邪馬台国は福岡か大分しかないと思う。

  • @fp-ss
    @fp-ss Před rokem +22

    私も邪馬台国は「北九州説」派でしたッ!!この動画ッ!スゲェ~、嬉しいッ!!

  • @asdfghjkl3076
    @asdfghjkl3076 Před rokem +26

    この動画を見た一番の感想は「学会はクソ」
    というか常識的に考えれば中国と一番関わりがあるのは地理的に近い九州の国だろうと想像がつくのに、なぜ畿内だの沖縄だのと突拍子もない話が出てきて、それが真剣に議論されるのかがわからない

    • @uybo1
      @uybo1 Před rokem +1

      理科学研究の何とかボカタさんみたいな目立ちたがりが何時の時代にもいるのよ。

    • @boobyojisyan
      @boobyojisyan Před rokem

      崇高な学会の先生様と権威主義の腰巾着みたいな支持者と観光収入で儲けたい自治体とかが三位一体となり頑張ってるんでしょうね。争いのあるところにマネーは流れるものですから。

    • @mari-od1ym
      @mari-od1ym Před měsícem

      畿内でないと日本の成り立ちが都合がいいからですかね😊

  • @user-rp7wb7xx3v
    @user-rp7wb7xx3v Před rokem +6

    素朴な疑問1、末盧国が唐津、伊都国が糸島なら何故船を捨てて徒歩で向かったのか?
    苦心して陸路を歩く意味が不明、次の目的地が糸島ならそのまま船で行くのが自然なはず。
    素朴な疑問2、伊都を「いと」と読んでホントにいいのか?書記、万葉集にある「都」は「つ」
    例、伊都都比古、都怒我阿羅斯等、など。糸島に合わせる為に「いと」と読んでるのではないか。
    以上素朴な疑問でした。

    • @user-ms8ol6wb6i
      @user-ms8ol6wb6i Před rokem +7

      素朴な疑問1に対する考察
      魏志倭人伝の最も重要な読者は晋の天子様(及びその取り巻き)です。そこに書かれている文章は、紀行文などではなく、軍事解説書と考えるべきです。そこの所をもっと重要視すべきではないでしょうか。原則、倭を攻めるにはどうするかが書かれているはずです。
      実際に当時の晋朝の人が、帯方郡から倭に向かって軍隊を送ろうとした場合を私なりに考えてみます。
      当時は大人数を載せられる船もなかったと思います。外洋へ漕ぎ出す船も少なかったと思います。
      ましてや大陸の人は船の移動(特に外洋への移動)は嫌がったものと思われます。このころの移動は原則徒歩です。
      そこで帯方郡を出発してしばらくは内海の帯方郡内を船で移動し、韓半島に再上陸し、徒歩で韓半島を右斜め下に進み、狗邪韓国で一次キャンプを張ります。(この徒歩での移動も重要な軍事情報です。徒歩移動が海上移動より安全だったのかもしれません。)
      そこからは嫌でも外海に出ていかなければなりません。狗邪韓国の一次キャンプからピストン運行で倭国を目指します。途中の対馬、壱岐も二次、三次キャンプとして利用します。そして末蘆国について四次キャンプを張ります。
      ここで直接伊都国に向かわないのは意味があります。伊都国には一大卒という倭国の一大軍団が国の備えをしています。
      そんな所へ船で数十人ずつ攻め込んでもまず撃退されるので、四次キャンプの末蘆国にある程度の人員を駐留させます。
      ある程度の人数になったら伊都国目指して進軍します。
      末盧国から伊都国まではだいたい40kmです。末盧国は伊都国に近くもなく遠くもない適度な前線基地です。
      「草木が繁っており、前を行く人が見えない」というのも気づかれずに侵攻するにはちょうど良いとしたものです。
      通商をするのであれば壱岐から伊都国へ直接行くのだと思います。しかし、魏志倭人伝は軍事書であると考えればこの遠回りは意味があります。

    • @user-ms8ol6wb6i
      @user-ms8ol6wb6i Před rokem +6

      素朴な疑問2に対する考察
      伊都国は外国の人が倭に来た時には常にここにいったん留まる、イミグレーションのような場所だったのでしょう。
      「郊迎」と言う言葉がありますが、伊都国はまさに郊迎の地でした。郊迎の地は都からそんなに離れていてはいけません。適度に離れた位置にあるのが普通です。(また、外国人にとっては非常に重要な場所だったと思います。)
      「闕」と言う言葉があります。「もん。宮殿の門。転じて、天子の居る所。」とあります。
      「伊闕」とは洛陽の南西6kmのところにある有名な地名です。郊迎の地であったようです。
      「伊邇」はこれ、ちかしと言う意味です。「伊」が「これ」、「邇」が「ちかし」の意味です。
      「伊(邇)闕」は天子のいるところに近いと言う意味をぼんやりと含んでいるのだと思われます。(この、ぼんやりが大切。)
      さて、晋の時代の音韻は原則正確にはわかりません。この時代に「伊」も「都」も正確にどう発音されていたのかは誰にもわかりません。
      但し、重要な事があります。中国人(この場合は陳寿)が外来語に漢字をあてるには「音」+「意味」で漢字を選択すると言う事です。
      (倭、委、壱などどれも倭にちかい「音」+「意味」の漢字が選択されています。)
      (ちなみに「意味」が重要視され、「音」が軽視されたケースの多々あります。)
      もちろん「音」だけで表すこともありますが、伊都の場合は単に「音」だけで漢字を選択したわけではないようです。
      この場合、「イト」の漢字の陳寿の選択のもとにはこの「伊闕」があった、ものと思われます。
      外来語にどの漢字をあてるのかはそのあてた人のセンスが問われるのだと思います。
      「イト」の発音に対して「伊闕」・「伊邇」の「伊」と、「闕」=「都」をあてて「イト」としたのだと思われます。
      陳寿が伊都・・・伊闕の漢字をあてた時にはさぞかし自己満足をしたのではないでしょうか。
      ※ これに関しては、古田武彦さんの本にかいてあったことの受け売りです。(多少脚色はしています。)

    • @nekono_mimikon
      @nekono_mimikon Před rokem

      @@user-ms8ol6wb6i
      ちなみに正史三国志は正史ではなく陳寿の私選です。
      唐の時代にこの時代の正史に認定されますが、陳寿が皇帝に読ませる前提で書くのなら曹操を太祖武皇帝、孫権は孫権と呼び捨てにするのは良いとして、袁術や孫権らと同様に皇帝を僭称した劉備を先主などと呼んではダメでしょうね。

    • @user-hw9iw3pm3b
      @user-hw9iw3pm3b Před 3 měsíci

      伊都の現代中国語の発音は「イトウ」又は「イトウ」となりますので、発音は非常に似ていると言えます。問題は、魏志倭人伝が記されたころの中国での「伊都」の発音がどうであったかということですが、直観としては当時も「イトウ」に近い発音であったのではと思います。一方、「末盧」に関しては現代中国語の発音は「モオルウ」で、日本語の「マツラ」又は「マツウラ」に似ていなくもないですが、やや違う感じです。さらに当時の中国語の発音は?と考えると、興味深いです。場所の比定に関しては先人の苦労があったと思われますが、地名は時間の経過に耐えて残りやすい(変化しにくい)といわれており、約2000年の年月の経過に耐えて当時の地名が現在まで伝わっていることに感動さえ覚えます。

  • @user-hl8fs7vv8h
    @user-hl8fs7vv8h Před rokem +19

    北部九州説、賛成です。
    日本旧記にも、やまいちこくが載っていて、この動画のように、国々を、方位と距離で辿っていくと、北部九州にたどりつくと。
    古事記、日本書紀の訳は、本居宣長のものから基本、変わってないですものね。
    その時代、江戸にいて、九州内の方位、距離がわかるわけない。
    常識から外れると、昔だから間違えたのだろう、と曲解したものが、今でもまかり通っているという、、

  • @user-rl1tu5du3r
    @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci +1

    不弥國の勢力圏に現在の大宰府あたりは近縁か、隣接しているのでは?
    大宰府羅城の版筑の土壁の第1期は西暦240年位に造られたという鑑定結果もあります。
    張政がクナ国との戦闘が激しくなったと卑弥呼の知らせを受け、邪馬台国連合に来た時期と一致する。
    大宰府近辺が、台与の倭王軍連合と、張政ら軍事顧問団の大本営であったなら話は合う。
    倭王軍の連合国と、クナ国一国が(別の連合国軍かもだが)がっぷり四つで戦争するなら、個々の戦闘力はクナ国が上と見て、ディフェンシブな戦略を選択しうる。
    その為、
    版筑の大要塞の土木工事をしたのかもしれません。

  • @user-rn6ei5iv4r
    @user-rn6ei5iv4r Před rokem +4

    唐津(末蘆国)から糸島(伊都国)の海岸線ルートはリアス式海岸であり、崖っぷちの道しか無く人が荷物運んでは通れない。

  • @BadWalker-cs4hs
    @BadWalker-cs4hs Před rokem +10

    学びの世界に派閥はいらぬ
    真実を追究し明らかにするのが学問だろが

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 9 měsíci

    このチャンネルの動画は、貴重な情報を紹介してくれるね、感謝、感謝!
    15:2016:19 ←ここに紹介されている「班固の道行文」をアタマに置けば、
    吉野ヶ里・不彌国からの行程の、南至る投馬国・・、南至る邪馬台国・・、
    が、中国史書のルールに則った「四至記載」であることが良くわかる。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Před rokem +14

    久々の博多湾岸説、おもしろかった
    古田武彦は貪るように読んでた

    • @user-ms8ol6wb6i
      @user-ms8ol6wb6i Před rokem +3

      同意。いまでも貪るように読んでいます。

  • @kinkin0421
    @kinkin0421 Před rokem +48

    帯方郡から女王国まで12000里で、九州上陸の時点で10500里を使っている以上、残りの距離はそう長くない。せいぜい宇佐、博多湾沿岸、筑紫平野(山門郡)までしか到達しません。また女王国は小国30か国からなる国家連合とあり、1か国が伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)程度なので全体では現在の福岡県プラス佐賀、大分の一部程度のサイズになります。このことから畿内説は100%あり得ません。もちろん当時の日本の中心は畿内で立派な古墳も沢山あるのでしょうが、それと魏志倭人伝のいう邪馬台国とは全く別の話だと思います。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem

      九州北部から船で30日、徒歩で30日のところに邪馬台国があるというのは、どう思いますか?

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Před rokem +10

      @@user-me5ie4my9p
      水行10日、陸行1月ですね。それは帯方郡から邪馬台国までの総行程を、別途言い直しただけとの読み解き方があります。(1)つまり現代で言い直せば福岡から東京まで1000km、時間は8時間という表現です。1000kmと8時間をつなげたりしません。つまり帯方郡から邪馬台国まで12000里、日数なら水行10日+陸行1月という具合です。
      水行はソウルから博多で10日、博多から陸行1月という読みとり方です。
      それとは別の見解(2)で、北部九州から水行10日、又は陸行1月という読み解き方もあります。博多から御笠川を上って、途中で宝満川の乗り換えれば博多から山門郡までちょうど10日くらいでしょう。陸行1月というのも伊都国~奴国~大宰府~鳥栖~佐賀市~山門郡の順番で記載があって割と蛇行して実距離では結構長めです。当時は道路も整備されておらず、運動靴もありません。さらに各都市に立ち寄れば、宴会もあって思ったより1日に進める距離は短くなるでしょう。道路が整備された現代の基準で考えるからおかしくなるのです。当時の1日に進める距離は5km程度という見解もあります。(1)(2)どちら見解でも問題ないでしょう。
      いずれにしても、北の諸国の監視のために伊都国に一大卒を置いた、女王国は小国30か国からなる国家連合で1か国のサイズは糸島市、福岡市程度、女王国の領土の境界奴国(福岡市)までとあるので、何をどうやっても邪馬台国畿内説は成立しません。繰り返しますが、魏志倭人伝に記載があるのは北部九州のことばかりで畿内、中国地方、四国、瀬戸内海のことなど全く記載がありません。ていうよりも帯方郡から女王国まで12000里と答えがバッチリ示されている・・・。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem

      ​​​​@@kinkin0421たもおっしゃっているとおり「女王国」までが1万2千里とあります。そして魏志倭人伝全体を読むと女王国≠邪馬台国だと思います。
      また魏志倭人伝がしめす倭国には北部九州の地名しかでてこないといいますが確定している場所が北部九州なだけであってその他の某国や投馬国、邪馬台国などの大多数の国ははまだ確定していません(その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ないとも北部九州内なら矛盾します)
      また魏志倭人伝がしめす邪馬台国の位置は「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし」とあります。1万2千里が邪馬台国の位置とするならなぜ遠く離れた地が邪馬台国と魏志倭人伝はいうのでしょう?
      また北部九州に邪馬台国があるというのなら戸数7万戸(誇張があるとはいえ奴国と推定される須玖岡本遺跡の約3倍程度)の遺跡や卑弥呼が女王になってからは見た人はほとんどいないなら小さな環濠集落では不可能だしまた従者1000人(誇張があるにせよ大多数の人を収容)を抱える宮殿等の考古学的証拠がなければ帯方郡からの放射説も北部九州におさめたいだけの机上の空論といわざるおえません。

    • @pes6539
      @pes6539 Před rokem +2

      魏からのルートを考えるとメインルートは太宰府(不弥国)〜鳥栖(鳥栖国)〜久留米(三潴国みづまこく)〜みやま(山門国)
      別ルートで唐津(松浦国)〜小城(小城国)
      〜鳥栖(鳥栖国)〜久留米(三潴国)〜みやま(山門国)の行き方もあって筑紫平野の人々は魏の使節団の方々を筑後川の清水で作った酒と海産物で接待する訳で雨の日は中止になるから陸行は時間がかかったでしょう

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Před rokem +13

      @@pes6539
      結局そうなんですよ。陸行1月なんてどうとでも説明できるのに、その部分だけを取り出して、
      「魏志倭人伝に従うと邪馬台国は太平洋のど真ん中になる。だから魏志倭人伝は不正確だ。だから考古学の方に重きを置こう。畿内からこんな立派な古墳が出てきた。邪馬台国は畿内で決まり!」というのが畿内説支持者の理屈のようですが、本当にこんな理屈が通用すると思っているのなら病院に行ったほうが良いレベルですね。
      最近は「箸墓古墳=卑弥呼の墓、九州には卑弥呼の墓がない!だから畿内説で決まり!」と主張するのが畿内説のブームになっているようです。

  • @user-rn6ei5iv4r
    @user-rn6ei5iv4r Před rokem +2

    不弥国までは里程である。不弥国から投馬国までを旅程(日程)としているところに問題がある。何方も、帯方郡からであり、他史書では、又、投馬国・邪馬台国とあり、里程と旅程を別にしなければならない。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 10 měsíci

    班固の道行文は素晴らしい解説だった。
    つまり行程終点の不彌国からは四至(東至、西至、北至、南至)説明で、南至の二本の傍線情報を紹介しているわけだ。
    ・南至(すれば180㎞で宮崎の)投馬国(です。郡からは)水行20日(になりま~す)
    ・(同じく)南至(すれば1000里で熊本)邪馬台国、(更に400里で某宮の)女王之所都(です。郡からは)水行20日(になりま~す)

  • @Hide-qw2mk
    @Hide-qw2mk Před rokem +21

    新しい視点をありがとうございました、腹落ちいたしました。
    史書の記載ルールに立ち返った「傍線行路」という考え方、不弥国が港湾都市であり、船で迂回路を伝って南方の投馬国(薩摩)へ行く考え方に、思わずひざ打ちいたしました。
    個人的には、平野部に国(集落)が広がっていただろうと考えると、
    「不弥国」は、姪浜を国境線として博多湾エリアの平野部に集落が広がり、
    「邪馬台国」は、
    そこから南方すぐの平野部エリアであり、一部地名(山門)も残っていることから、
    みやま市(山門郡)〜吉野ケ里〜久留米〜八女(やめ)
    あたりに七万戸が分布していたのではないかと推察いたします。
    また、太陽信仰から、日の昇る方角である宇佐神宮(亀山古墳、百体神社)に卑弥呼が祀られたのではないかと、、

  • @wajin5695
    @wajin5695 Před 7 měsíci +1

    7000里は階段状の距離とありますが、歩測(曲路)で測れたのでしょうか。距離は、東南・東西と方向が必要です。歩測でなければ、伝聞か天文観測jとなるでしょう。天文観測としては一寸千里法がありますので、試してみます。沙里院と狗邪韓国の日陰長の差は5.6寸、つまり南北5600里。
     これに345比ピタゴ三角を充てて、3/4倍した4200里が東西、5/4倍したのが東南7000里となります。日陰長のシミレーション式は 80xtan(緯度-23.44度) 洛陽の34.75度で16寸となり、スマホ電卓で確認できます。12000里も逆算可能ですよ。240104

  • @kenn8438
    @kenn8438 Před rokem +4

    ”乍南乍東”の訳が間違ってますね。以下、張明澄氏の見解です。
    もともと漢文の中には“乍A乍B”という文型があり、”たちまちAたちまちB”の意味である。しかし、すべて”乍”が前後に出てきたらこういう意味というわけではない。もう一つ”暫A忽B”という意味がある。『辞海』(中国書局編輯部編輯 中華書局中華民国六十一年発行)に”乍”の意味は”暫也””忽也”と書いている。
    もともと漢文の中での“乍A乍B”という文型は、ただ”たちまちAたちまちB”の意味だけでなく、”暫A忽B””先A後B“という意味もある。つまり、”まずゆっくりとA、あとで急にB“ということであり、むしろこういう使い方の方がはるかに多いのである。
    『医学入門』の「感異気」のところに“乍寒乍熱”という表現がある。
    “たちまち寒くたちまち熱く”という意味にとれば、短時間に寒気と灼熱感が小刻みに何回も何回も繰り返すことになり、実際にこんな症状はどんな病気にもない。
    “しばらく寒くたちまち熱く”という意味にとれば、長時間の寒気の後で急に灼熱感に変わって体温が上昇することであり、これなら、マラリアをはじめ、すべての間歇熱に共通した症状である。
    乍南乍東というのは、裴松之の注にあるように、“乍南乍東者先南行後転而東行(乍南乍東は、先ず南行し後に転じそして東行す)ということである。

  • @user-lp8vs5bk2r
    @user-lp8vs5bk2r Před rokem +1

    こんにちは☀️
    ↓のリンクは暗黒神話ってアニメでヤマトタケルとかスサノオとか卑弥呼を題材にした小学生には難しい様な内容で昔ゲームでも登場した小学生トラウマ系のボスが出る事で知られるやつです💡
    確かミナカタサマらしき化け物が序盤で出てきます。
    内容的にはとある子供がヤマトタケルの生まれ変わりらしくて謎の老人が色んな遺跡を巡って秘密の扉開いて散策したりとかで、卑弥呼が確か若返りの泉に入って餓鬼に成り果ててどっか消えるのとか出てた気がします💡
    czcams.com/video/M9MshhYYoPw/video.html

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 8 měsíci

    この動画の15:20~で紹介されている「班固の道行文」で倭人条の行程を読めば、正確な倭国像が見えてくる。
    則ち、唐津末盧国から主線行程東南500里37.5km で佐賀大和町川上に伊都国に到る、
    その東南傍線行程100里先の佐賀城付近に奴国2万戸あり、主線行程の伊都国にもどって東行100里先の吉野ヶ里・不彌国に至る。
    不彌国からは、四至(東西南北)の周辺国説明あり、南至投馬国と、同じく南至邪馬台国女王之所都が記述されている。

  • @fujidido27
    @fujidido27 Před rokem +9

    邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?
    理由は下記です。
    道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。
    よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
    また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
    末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。
    詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      張政 この要衝に版筑で壁を造るぞ
         ここはなんで場所?
      倭人 フミコク チカク
      張政 ふ〜ん(不弥國、と メモメモ)
      西暦240年
      大宰府羅城 第1期工事竣工

  • @821marcello
    @821marcello Před 9 měsíci +2

    明らかな間違いをいくつか指摘させていただきます。
    1・原文「到其北岸狗邪韓國。」北岸です。つまり、船で着いたから北岸です。もし陸行すれば南端です。
    2・原文「南至投馬國、水行二十日。」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
    同じ形式で書かれています。もし帯方からの距離を表すならば「自帶方南至邪馬壹・・・・」となります。
    3・原文、伊都国「郡使往来、常所駐。」は、「郡使は帯方と伊都国を往来し常駐する所」であり、
    邪馬台国までの距離を「日」で表したのは、帯方の郡使は伊都国に常駐し、伊都国の役人から話を聞いているからです。実際に行ったのなら必ず「里」で表します。

    • @nnkk8888
      @nnkk8888 Před 5 měsíci

      実際に行ったら里と書くなら邪馬台国まで12000里と書かれているので、邪馬台国には行ったことになるのですが。

    • @821marcello
      @821marcello Před 5 měsíci

      @@nnkk8888
      ・自郡至女王國、萬二千餘里。
      卑弥呼は邪馬台国の王ではなく、倭国の王です。つまり、女王國とは倭国のことです。
      「倭国まで1万2千余里...」という表現は過去、漢の時代の地理書などに見られます。それらを参考にコピペしたものであり、実際の工程距離ではありません。
      なお、魏志において分かりにくい点に関しては隋書で解説してくれていますので、そちらをご参照ください。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +1

    倭王の使いが洛陽や帯方郡へ出かけるときは、
    伊都国から(海の上を北西へ)500里歩いて末盧国へ行くのかな・・? ま、浦島太郎の伝説もあるにはあるが。

  • @user-ub4pg2wm9g
    @user-ub4pg2wm9g Před 10 měsíci +2

    壱岐島は約18km四方(方300里)で糸島市(末盧国)から伊都国(吉野ヶ里)まで東南に約31km(500里)とすると一里約60mで方向・距離共に問題ないようです。後は東南へ100里で奴国、そこから東へ筑後川を通って邪馬台国(宇佐)へ向かえばいいだけ、ここまで黒澤説はシンプルですね。水行~の日数を余の部分として15パーセントしますけど。

    • @ghryt2884
      @ghryt2884 Před 3 měsíci

      対馬峰町から壱岐市街間は1000里、直線で700~750Kmありますので 壱岐から1000里は宗像となります。松浦は近すぎます。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 3 měsíci

      三根遺跡山辺区から原の辻一大国王都復元公園までだと88km程、次に有力な豊玉町からでもかなりありますのでダメです。対馬峰町もかなりあります。黒澤説一里60mでは対馬方400余里(×1・15=460里)=27.6kmは下島のみとすると実距離の南北距離と合います。江戸時代でも城下は下島にあったようです。
       思うに古代からの交通の要所、美津島町小舟越の古代港跡からですと原の辻まで72〜73km程です。1000余里を1150里とすると69kmですのでこれに近いと思います。狗邪韓国から対馬対岸も同様。特に壱岐島は帯方郡(沙里院)から伊都国(吉野ヶ里)までの東南直線上から少しずれていますので狗邪韓国からの距離になるのだと思います。又の用法解釈は岩元説が引用されています。狗邪韓国から糸島前原は3000里余り209kmとなってしまうのはまぁまぁだと思います。

  • @user-dc6bf9fj7q
    @user-dc6bf9fj7q Před rokem +7

    距離が今と昔じゃ違って変わるのは理解できるけど、お偉い先生方が南は間違いで東が本当とかいうのはご都合主義。
    昔の文書を解読するのに、方角を変えていけないのは絶対条件。 自分の結論に結び付けるためにやるから強引な解釈、証拠の捏造なんかが起きてしまう。
    自分の考えとは少し違うけど、たしかにすっきりする考察ですね。

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem

      魏書は倭人伝以外の箇所でも方角を間違っています。
      距離は違って良くて方角は駄目などと言うのはそれこそ強引な解釈でしかありません。

  • @user-sq1fo9lj9j
    @user-sq1fo9lj9j Před rokem +37

    吉野ヶ里の発掘をしているエライさんが知り合いですがもうとっくに邪馬台国の位置は確定してるそうです。でも動画にもあったように学会の派閥抗争もあり発表したくても出来ないって言ってた。派閥の代表の爺さんたちが死んでくれない限り無理だそうです。

    • @arsenie19
      @arsenie19 Před rokem +2

      どこ!?!?

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +9

      @@arsenie19
      纏向遺跡ですよ。学者内ではほぼ畿内ヤマト説です。
      もう吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だなんていっている考古学者はいません。
      Mr.吉野ヶ里こと高島忠平さんですら「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない」といってますよ。

    • @user-un4ss7ve6h
      @user-un4ss7ve6h Před rokem

      邪馬台国は環濠集落なハズで、纒向遺跡には環濠がないのが厳しいかと(¯―¯٥)

    • @arsenie19
      @arsenie19 Před rokem

      @@user-ym8hr9jd7l 調べてみます。ありがとう。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +1

      @@arsenie19
      学者と学者もどきをちゃんと見分けられたら判るよ。今九州説を唱えてる人がどういう人達かちゃんと分かれば。You Tubeやネットで躍起になったり論文も出さずに本を出版し世論誘導しようと必死になってる団体、組織がどういう人達か。そういう人達を排除すれば九州説は壊滅状態です

  • @user-ih8ie3sz2o
    @user-ih8ie3sz2o Před rokem +4

    三国志の中の魏志の中の東夷伝の中の和人の状に書かれているんですよね。全部せ80巻?でしたっけ。超一級の資料です 
    それを嘘と言うのは偏見からくるものでしょう。6月5日10時が待ち遠しい。

  • @taishiforest4603
    @taishiforest4603 Před rokem +28

    伊都国近辺を細々と説明しておいてそこから一月進んだ所なんて解釈は無理があるなぁと思ってました
    普通、説明が細かいのは目的地付近と相場が決まってますよね

    • @user-pz4jw1db1q
      @user-pz4jw1db1q Před 11 měsíci +1

      無理だったのかどうかは、陳寿に聞いてください。少なくとも、魏志倭人伝には、その様に書いて有るというのが、当時の事実です。

  • @user-ix1js8mw2q
    @user-ix1js8mw2q Před 4 měsíci +3

    魏志には邪馬台国連合の東の海の向こうには別種の倭人の国々があったと、は?奈良平野の東は鈴鹿山地では?邪馬台国の南には戦争した狗奴国があったと、は?奈良平野の南は吉野熊野の紀伊山地しかない。奈良の箸墓古墳が卑弥呼の墓とか、は?魏志には卑弥呼の墓は円墳と書いてあるのに。邪馬台国連合は北部九州の筑後川流域~宇佐地方にあった。朝倉川添遺跡~久留米高良祇園山遺跡辺りがその中心では。戦争した南の狗奴国は熊本の菊池川流域でその中心は山鹿の方保田東原遺跡辺り。間違いない。

    • @user-ix1js8mw2q
      @user-ix1js8mw2q Před 4 měsíci +2

      奈良平野の遺跡群は邪馬台国時代と同じ時期に存在した銅鐸文化の牧歌的な倭人の国々では。北部九州では朝鮮半島と合わせて鉄文化を中心にした争いが続いていた。邪馬台国連合はまさにそうした北部九州にあった。ゆえに4~5世紀には九州勢力から簡単に東征され初期ヤマト王権が倭の五王~応神天皇によって確立された。間違いない。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 11 měsíci +4

    帯方郡が軍旗と援軍を送るなら、船で直接に糸島の深江湾あたりに降ろすに違いない。それが理というもの。
    しかし援軍は、なぜか辺鄙な唐津に降ろしたが、その軍には、当然精密な地図を持たせてる。
    そして東南500里なんだから、行く先は、松浦川を遡って小峠を越えた佐賀平野の伊都国に決まってる。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      魏から軍団は派遣されて無いでしょう。
      派遣したくてもできないが。
      なぜなら当時の支那船で外用航海は自殺行為。
      呉の台湾遠征は遭難し破滅的であった。
      張政等の軍事顧問団は来たでしようが、倭船で。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      末盧國は帰り道では?
      倭国へは伊都国直行?
      唐津や呼子なら糸島半島の間は舟で行くでしょうね。
      玄海町かな?諸(浦)→もーろぅー國→末盧國。九州から壱岐・対馬へは、対馬海流の影響を考慮し西側を選ぶかな?

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      あと、援軍は送れないでしょう。
      西暦三世紀の東支那海や日本海は倭船以外での航海は自殺行為ですので。
      だから張政が軍事顧問団として来たのでしょう。倭船で。
      軍隊を派遣したとは書いてないと思います。
      クシャーナ朝から、危急の知らせがあっても軍隊は派遣しないでしょう?
      唐の時代でもタラス河畔で、アッバース朝の派遣された軍に完膚なきまでヤラれましたし。
      当時、同程度かそれ以上と思われていた行程を魏が派遣すると考えるのは無理があります。
      また、魏からの派遣軍団を小さな倭船で輸送するのも非現実的です。
      倭船での軍団の輸送も、体面的にも却下される可能性が高いでしょう。
      派遣された、魏国からの軍事顧問団は、大宰府羅城の土壁の版筑の大土木工事の指導や軍団的コンサルティングや、組織的ノウハウを伝えた。また軍事訓練を施した。のほうがまだ現実的なように感じます。

  • @tucker_skebevich
    @tucker_skebevich Před 6 měsíci +6

    1里を朝鮮半島の大きさから推定してますが、
    巨済島から対馬まで最短で56km、対馬から壱岐まで最短で47kmです。
    当時とは多少海抜が違うかもしれませんが、1000里は概ね52km。
    対馬を回り込むのに40km、壱岐を回り込むのに30km。
    末盧から伊都まで26km。実際の距離から割り出すとこんなもんですよ。
    倭の北岸から5000里なんですから、九州北部以外あり得ないですよ。

    • @ghryt2884
      @ghryt2884 Před 3 měsíci

      対馬峰町から壱岐市街間は1000里、直線で70~75Kmありますので 壱岐から1000里は宗像となります。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci +1

      @@ghryt2884
      宗像が、末盧國なら、伊都国は何処ですか?知りたいです

    • @ghryt2884
      @ghryt2884 Před 3 měsíci

      @@user-rl1tu5du3r 福岡県京都郡みやこ町 になります。

    • @tucker_skebevich
      @tucker_skebevich Před 3 měsíci +1

      @@ghryt2884 さん
      当時、船で移動していたと考えられるので、
      島と島の間の距離は、海岸線か、船着きの浅瀬から
      海岸線か、船着きの浅瀬まで、だったと考えるのが自然かと。
      また、お役人が船で移動するときは、漁師などの海の男が乗船して、
      方角や距離を伝えていたと考えるのが自然ですよね。
      googlemapで直線距離が測れるので、
      対馬の南東の角と、壱岐の北西の角とで、測ってみれば
      面白いと思います。
      ただ、今とは海岸線が違う可能性もあるので、
      計測結果は「概ね」とならざるを得ません。
      さて、壱岐の南東の角から1000里は、どのあたりでしょう😁

  • @satoshitanaka7655
    @satoshitanaka7655 Před rokem +10

    研究者には自分の考えを貫いてほしいな。偉い先生に異論を唱えないようでは新たな発想を生み出す学者にはなれないでしょ。

    • @user-qe3ce4yy8e
      @user-qe3ce4yy8e Před rokem +2

      東大や京大の偉い先生は、上級国家公務員ですからね。彼らに逆らったらとても出世なんか出来ないから気の毒😢

    • @user-dv9mb8pz3i
      @user-dv9mb8pz3i Před rokem +1

      それができないのが学界。

    • @katumoku10
      @katumoku10 Před 8 měsíci

      おっしゃる通りです。偉い先生が、多くの皆さんを納得させていたらこの問題は解決しているのです。そうはなっていないのは、多くの方が思い違いをしているからだと気づく必要があります。詳しくは上に述べていますのでご参照ください(#^.^#)

  • @user-ou5xf6yt8b
    @user-ou5xf6yt8b Před 6 měsíci +1

    博多は大都市だし、七万個の家があってもおかしくないし、邪馬壹国にふさわしいとは思うのだが、しかし博多付近が邪馬壹国だとすれは、魏志倭人伝に書いてあるような、東に海はないけどなあ?

  • @user-ln9bw6cp9p
    @user-ln9bw6cp9p Před rokem +10

    烏丸伝→からすまるでん、じゃなく うがんでん じゃないのですか??

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 10 měsíci

    九州だから、頭上には古木巨樹の森林が繁茂するのでその下に草木が少なく、落ち葉が積もっていて歩きやすい。
    夏は日よけ、冬は風よけにもなる。
    分かりやすく言えば、日光の杉並木の中を歩くようなもの。

  • @sanemasamizuki9
    @sanemasamizuki9 Před rokem +2

    伊都国を方角を無視するのはいただけませんね

  • @Madara_Uchiha_7607
    @Madara_Uchiha_7607 Před rokem +7

    吉野ケ里遺跡で弥生後期の墓発見したと聞いて

  • @user-gb1ms4gn3l
    @user-gb1ms4gn3l Před rokem +5

    魏の使者は北九州までしか行ってない。
    陸行水行以降は倭人からの伝聞。

    • @user-re9oq8og5w
      @user-re9oq8og5w Před rokem

      実際に一行がたどり着いた最終地点は、唯一「到」の文字を使って表した伊都国でしょうね。
      東南陸行五百里到伊都國
      また、伊都国までは行程の表し方が「方角+距離+国名」となっているが、伊都国以降では「方角+国名+距離」と変化しているのも不自然で意図的ですよね。
      現地人の伝聞を記載した可能性は大いにあると思います。

    • @user-gb1ms4gn3l
      @user-gb1ms4gn3l Před rokem +3

      国が大きくなると安全保障上、通常は隣国との緩衝地帯をつくります。
      王が住む場所が畿内で外交の出先機関が北九州だったと思います。

    • @w.bavasi8958
      @w.bavasi8958 Před 9 měsíci

      当時の交通事情とか何が出てくるか分からない等のリスクを考えると海沿いを離れて内陸の方にずんずん進んでいけるとは思えないんだよな。
      だからこの解説のようにちょっと内陸に邪馬台国があって出先の交流拠点が伊都国だったんじゃないか。

  • @boobyojisyan
    @boobyojisyan Před rokem +9

    どの説でもほぼ共通で比定されている壱岐と対馬をもっと調べればいいのにね。特に畿内説にとっては当時の壱岐に15000人住んでた計算で女王国30万人などと言ってるわけで、現在の壱岐の人口と対比してもちょっとこれは誇張ではないかと考えられる数字。西暦200年頃の日本の人口が60万人程と言われている。記述通りなら邪馬台国への行程にある国々だけでそれを超えてしまう。50年で60万人から劇的に増加しない限り魏志倭人伝の戸数を誇張とするか、弥生時代の人口を再検証するかすべきところを放置する学会がどれだけ偏向しているのかがよくわかります。
    。朝鮮南岸→対馬→壱岐→末盧国が1000里ずつで大まかな距離もわかる。
    そもそも位置情報の優先は方角→距離→所要時間で、これを一切無視して出土物のみでしか論じない畿内説は常識外れ。奈良から何が出土しようとそれはそこに巨大な国があった証拠というだけで、ブランド力抜群の邪馬台国とイコールにはならないのは中学生でもわかる理屈。
    また、方角も距離も所要時間も無視するのであれば、松浦→怡土→那→穂波→妻→山門と、隣へ隣へと進めばヤマトに到着。後に黥面文身を土蜘蛛と揶揄され畿内勢力に滅ぼされた田油津媛の女王国があった地域に辿り着きます。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      邪馬台(ヤマト)國を滅ぼすことは、諸外国に後継国だと都合よく説明するため、国名まで乗っ取りした、大和(ヤマト)國なら規定路線ですよね。
      だから、面土國の糸を産する(養蚕業)連中という意味の蔑称で、土蜘蛛と呼ばれなければならなかったのかな、と考えることがあります。

  • @TheYoshikun9
    @TheYoshikun9 Před rokem +3

    石棺が見つかったと聞いて戻ってきた

  • @user-bi9yy2ks3o
    @user-bi9yy2ks3o Před rokem +4

    三國志といえば 映画 新説 三國志 面白かったですね🐱

  • @takumi418
    @takumi418 Před měsícem +1

    邪馬台国は千葉県の2大社の辺りです

  • @wrm67561
    @wrm67561 Před rokem +11

    地形学や歴史からみても博多付近で間違いないでしょ。
    その後なんらかの理由で近畿へ勢力が移った。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y Před rokem +5

    魏帝国に遣使を送り
    親魏倭王となった
    女王卑弥呼。
    とは、
    大和王国の百襲日女命から約100年後の3世紀
    九州の豊国(宇佐王家)と日向の都万国(物部)
    の連合王国の女王で
    宇佐神宮の月読尊の姫巫女
    宇佐(兎狭)豊玉姫命。
    魏帝国に正使として行ったのは
    豊玉姫命の義理の息子(先妻、阿多津姫(都万津姫、コノハナサクヤ。(イザナミ(出雲族の意味)))の子)
    物部イクメ王。
    謚(実名)はイサチ。
    後に、
    全国制覇をなして大和に統一物部王朝を樹立した
    物部イクメ大王、垂仁天皇(リアル神武天皇)
    ↑のイサチの名も魏志倭人伝に若干の改ざんを受けながら記載されているらしい。
    物部(徐福以来の)宿願で有る
    全国制覇の野望を再び実行に移して準備中に
    若死にした
    亡夫、物部イニエ王の遺志を継いだ
    連合王国の女王、親魏倭王で宇佐神宮、月読尊の姫巫女の
    豊玉姫命は
    全軍を宇佐神宮の月読尊の神前に集結させると
    華々しく
    全国制覇の東征への出陣式を挙行した。
    この際、連合王国勢力は
    魏帝国の傘下の属国で有った事から
    宇佐神宮に魏帝国の
    正規軍の軍旗である
    黄色幡が八幡(八本)はためいた。
    結局、紆余曲折の末に結果的には
    物部王朝が成立して一応の全国制覇を成したことから、
    後に
    宇佐(兎狭)神宮は武神、戦勝神との信仰が起こり、
    八幡宮と呼ぶ源泉となった。
    しかし、古事記等の編纂基本方針の
    自主独立国とは真っ向からぶち当たる為、
    宇佐神宮の月読尊(異名の八幡神、稚日女神、豊受大神、ウズメ尊、丹生都姫大神)や
    宇佐(ウサギ族)に関係する事象、歴史は一気に抹消、抹殺された

  • @pes6539
    @pes6539 Před rokem +6

    景行天皇の巡行や神功皇后の三韓征伐の時、三潴国の見沼氏に案内や朝鮮への渡航の仕方を聞いてる時点で大和朝廷と魏国と関わりないですね
    九州各地の神社や郷土史、日本書紀にも記載されている
    歴史マニアの方もブログ記事にありますから間違いないでしょう

  • @hirosiespacio9930
    @hirosiespacio9930 Před rokem +6

    さすがに近畿説は無理が有る。そもそも方向違うし。

  • @user-jp6ui6gt1y
    @user-jp6ui6gt1y Před rokem +2

    王朝がひとつと考えるからおかしくなる 集合離散を繰り返して大和王朝ができたのです
    ですから卑弥呼が北九州か大和かって話しは意味がない

  • @user-in4vz8hu7s
    @user-in4vz8hu7s Před rokem +5

    当時の地形は解明されているのでしょうか?宇佐神宮とその周りが気になるのですが!…東大vs京大ってのがなぁ

  • @wan6347
    @wan6347 Před rokem +3

    西九州で鉄器が多く出ているのは、ここが戦場だった可能性が高いのでは?
    と思います。
    吉野ヶ里遺跡などの佐賀以西と熊本以南との三つ巴の戦いがいわゆる倭国大乱だと考えられます。
    広大な平野部の筑後川流域はちょうど三つの国がぶつかるにはちょうど良い場所です。
    マツラは松浦ではなく、宗像の神湊ですよ。

  • @yam7243
    @yam7243 Před rokem +12

    魏志倭人伝と言うか中国は交易があった国について記述しているだけだから、入り口を押さえていた九州の事柄と捉えるのが正しいね。
    この頃の交易品も北九州に集中しているし、物証からもわかる。
    あくまて近畿と言うなら弥生時代後期に九州平定していた事実確認が必要です。
    記紀で6,7世紀までかかっている事を記載さているけどねぇ。
    あと交易品も山ほど掘り出さないと。
    国産の鏡はノーカウントですよw

  • @user-hc9bb7rh4h
    @user-hc9bb7rh4h Před rokem +7

    九州説を押したいね‼️😗俺は
    熊本県=クマソ以外の宮崎県とかを。

  • @user-qg7fe6lh4h
    @user-qg7fe6lh4h Před rokem +6

    卑弥呼の時代は福岡の赤村あたり、それから大分へ渡り、香川へ渡り、最終的に奈良へ

  • @Beijaflor89
    @Beijaflor89 Před rokem +7

    品川→川崎→横浜→藤沢→小田原と細かく説明しておいて、目的地は富田林です、とかおかしな話しだし。

    • @nippoonshimmin
      @nippoonshimmin Před 6 měsíci +1

      小田原から船に乗ってんだから何もおかしくない

  • @axxx300
    @axxx300 Před rokem +1

    惜しい、唐津から東南の多久、小城までは、北東の糸島より楽に行けるのに。

  • @Landius0228
    @Landius0228 Před 10 měsíci

    韓の4千里四角は実に大きくなったかもしれない。年代的に近い後漢書では洛陽から楽浪まで五千里の遠さ、今の地図と見れば距離的には合わないかもしれない。

  • @tomusan6837
    @tomusan6837 Před rokem +13

    最近佐賀県吉野ヶ里遺跡の小高い丘の上にある神社が移転したので早速発掘したところ甕棺が出土し中から勾玉を巻いた女性の遺骨と銅鏡が見つかった。元吉野ヶ里遺跡発掘保存室長の高島忠平佐賀女子短期大学教授は「あと封泥が見つかれば卑弥呼の墓と見ていい」と語っている。福岡県志賀島から漢倭奴國王印が出土してるのが気になるが‥‥。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      高島忠平教授はとっくに「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない」と白旗あげてますが?現状考古学学者の中で吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だといっている人は皆無です

    • @tomusan6837
      @tomusan6837 Před rokem +2

      @@user-ym8hr9jd7l
      邪馬台国とはひと言も言ってませんがw

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +5

      @@tomusan6837
      吉野ヶ里遺跡にある墓が卑弥呼の墓であるが吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない?まったくもって意味がわからない。
      結論は吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない=その墓が卑弥呼の墓であるわけがない。ただの酋長墓。

    • @tomusan6837
      @tomusan6837 Před rokem +4

      @@user-ym8hr9jd7l
      私の持論ではなく高島教授がTVのインタビューに答えたもので、わからないなら高島教授に尋ねるべきでしょう。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem +2

      金印と邪馬台国の時代は全然、違いますよー

  • @user-od7uk5nq7t
    @user-od7uk5nq7t Před 9 měsíci +1

    解決は出来ないですかね。
    僕が邪馬台国論争で常に矛盾的な所があるのですが、対馬から壱岐を経由した後、海流を逆行するかのように長崎県松浦市に上陸出来る理論です。距離的なものと渡海所要時間があの当時の船で海流に逆らえたのかと夜の帳を迎える前に松浦沿岸に着けたのか?どちらかと云うと下関方面に向けた方が海流に押されるように渡海出来たのではないのかと。テレビ番組で無人島を自分自身で作った手漕ぎボートで対岸に向かう挑戦で、さほど荒れない、海流も早くない所であるにも関わらず、海流に勝てている人は少ない。
    僕は本当に対馬から真南に在る壱岐に本当に向かったのか?長里(400m/1里)なら…と疑問に思っています。
    また、記述が距離から途中で日数に変わっているので、もしかしたら何度か使者として渡ってきている漢と魏の役人の記録がこうなってしまっている可能性はどうなのでしょうか。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      くや韓国まで7000里なら短里しかないでしょ。
      なぜ、途中から長里になるの?
      畿内説の常套手段ですが、途中で尺度を変えることをどう思いますか?
      全部長里にしたら?
      どこまで行きますか?

    • @user-od7uk5nq7t
      @user-od7uk5nq7t Před 3 měsíci +1

      半年前位の僕の考え方でした。質問の長里なら…だと関東説になるかと思います。日本海側から上陸して長野県北部を東に抜け、利根川(沿い)を南下。一旦東京湾に出て房総半島西岸から北上して行くルートなのでは?です。最終的に現在の香取、鹿島の地が該当するのでは?です。
      なのですが、最近の僕は…
      邪馬台国は九州北部がもっとも矛盾の無い所在地だと考えています。
      以前は、古文書の記述で考えていたからです。
      魏志倭人伝はそもそも三国志の中の記述ですから、魏だけではなく、呉と蜀の記録が在って然るべきですが、倭人の事は他の二国には記載がありません。今となっては知らない、国交が無いからとしか判断は出来ませんが、後漢には日本列島との国交が在ったものとされているので、少なくとも呉には知らないと云う認識はなかったはずなのです。で、なぜ魏にあって呉にはない?
      それは魏と呉での海の向こうの国に対しての価値観の違いが記録に反映したと思うのです。
      そこで考えついたのが、魏志倭人伝は魏の役人がまとめていた公式記録と呉にも少しばかり残っていた記録と陳寿が若い時に漢の官吏だった時に耳にしていた海の向こうの事の記憶で編纂したのではないでしょうか?なので、記述に矛盾が生じているのです。またこの魏志倭人伝を編纂した段階の時代にこの記述を確認する人はいませんから、三国志と云う前支配政権の事を遺す膨大な作業をヤッつけたと思うのです。
      まぁ未だに対馬から松浦に渡海するのは当時の船では難しいと思ってはいます。古文書と遺跡に頼らない、考察をしていくうちに日本列島の災害と中華の戦乱を見直すと、渡来人が日本列島において縄文人と融合しながら九州北部で小さいながらも一つの連合国家運営の形態を持った国を造ったのではないかと考えています。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      ご返信ありがとうございます。
      失礼な投稿なりすいませんでした。
      邪馬台国連合の比定地は、個人的には九州とだと思います。
      2世紀後半から北半球が全体的に気候が寒冷化したと考えています。
      後漢末期の動乱、ローマ帝国領内への北方からの蛮族の度重なる侵入、倭国大乱も。
      水月湖や他の世界のデータでも合致します。
      曹丕の時、揚州近くの広陵古城の水路が凍結し長江まで水軍が移動出来なくなりました。
      揚州は現在、亜熱帯と温帯の境です。
      日本列島でいうと九州南部以南です。
      纒向や東日本、山陰、北陸は考えづらくなります。
      それと、支那では黄河流域から、南の温暖な平野を目指して大規模な移住がありました。
      人口が1/3から1/4になったと考えられます。
      ドイツ30年戦争時より人口が激減しています。
      それはヨーロッパのローマ帝国でも同様と思います。
      しかし、日本列島には九州より南に、今までの代わりになる様な大きな平野はありません。
      最終的解決以外の、農業的なある程度の代替え案は、弥生時代に増えた高地性集落にあると思います。南への平野がなければ、垂直方向というか、立体的に考えるしかありません。
      麓より2〜3℃温かい、斜面温暖帯の農業で凌ぐことです。
      収穫量が激減しようとも、壊滅するよりはマシなので。
      弥生時代の高地性集落は、監視や詰めの城とか軍事的な用途が強調されます。が、
      それならば集落である必要はないですし、
      軍事的用途だけで高地に集落を造るのは効率が悪すぎるのです。
      ただでさえ人口激減のなかで、農業という生活基盤を考慮に入れず、軍事目的だけに特化することは無理があると考えます。
      曹操の屯田兵の様なモノなら判りますが。
      面土國が支那に朝貢した時、生口を160人献上し、卑弥呼は10人、台与は30人です。
      魏略では、伊都国は一万戸が、魏志倭人伝では千戸となっています。
      大幅な人口減少を表していると思います。書き間違いと取られる人も多いですが。
      しかし、状況証拠です。
      ただ、決定的証拠の発見がなければ、そのような状況証拠の積み重ねにならざるを得ないとも思います。
      大枠では、上記の考えですが、他にも状況証拠は有りますので、そのような事を議論できることがあるなら嬉しいです。

    • @user-od7uk5nq7t
      @user-od7uk5nq7t Před 3 měsíci +1

      いえいえ。僕は畿内説はありえないと考えています。また最近騒がしい阿波説もただの夢物語と思っています。
      正直、日本の建国史を考えたら関東説がもっとも筋が通るのですが…古事記上での鹿島の扱いが微妙なのと、日本列島においての古文書に頼らない歴史上の矛盾なき流れを考えたら、魏と国交を持てた国とは漢語に理解のあった人々の地域でなければならないと思い、消去法で残るのが九州北部と考えるのです。
      魏志倭人伝に倭人は入れ墨をしているという記述があると思うのですが、それは縄文人なのでしょうか?教科書にも載る縄文人の典型的な容姿は髭面の毛深い人々です。入れ墨を全身に施すのでしょうか?
      僕は魏が相手にして、呉が邪馬台国をほぼ無視した理由を考えてました。そこには中華の戦乱による敗者と被害者と迫害による逃亡者の存在です。そして日本列島が被害に遭っている鬼界カルデラ噴火と南海トラフ地震です。縄文時代は西日本全体が災害続きだったのではないかと考えています。一万年を超えると言われる時代です。その長い期間の間に破壊的火山噴火による降灰、巨大地震、そして大津波。南海トラフ地震による津波は現在予測されているもので、発生箇所によっては30mを超えると推測されています。これが何度もあったとしたら…太平洋沿岸の西日本には人々が定着する事を避けると考えます。そうすると「国」の成立はさらに遅れる事になるのです。また、災害の多い所と知っている縄文人は戻っては来ません。四国、九州南部、瀬戸内海沿岸地域、紀伊半島沿岸、東海西部は自然と人々の定着が弥生時代に入ってからと考えるべきと思っています。
      弥生人は縄文人との混血人種と考えています。日本列島に渡海してからの大陸系二世、また鬼界カルデラ噴火時に大陸に渡海した縄文人の子孫の縄文系渡来人です。
      これが前記の中華の戦乱による渡来人達であればほぼ無人と化していた西日本に渡海して入植した大陸系の人々がそれぞれ集団を形成して地域を形成し、倭国大乱と呼ぶ戦国時代を形成したと考えます。
      この乱れた九州北部を懸念したのが、一万年を日本列島で平和に過ごしていた縄文人の東日本側と考えています。当初より大陸の国や人々を警戒していた者達が東日本側の経済連合をまとめ上げ、西日本に秩序をもたらすために有力国で構成した前線を畿内に置いたと想定します。出雲に最前線基地を置ていたのが大国主率いる集団です。大陸の動向を見るのも交易の拠点と一つとして重要な地と考えます。また退避先朝鮮半島から呼び戻された熊襲の民が九州南部に支配地域を広げます。四国に入植していた人々は抵抗をせずに東日本側の支配下に入り、ここで神武東征と云うイベントが発生する事になるのです。畿内から四国に上陸、横断して九州南部日向から北上して戦国時代と化した九州北部へと。抵抗した集団(国)、しなかった集団(国)とあったでしょう。この神武東征により東日本側に説得、鎮圧された九州北部は連合と云う形を取りながら、神官をトップとする支配体制に移行するものと考えます。
      この時鎮圧部隊を率いたのが東日本側の何処かの有力国の王子たる地位にあった者なのではなかろうかと。この鎮圧部隊の最大の強みは南部で待っていた熊襲で下関方面からも来る出雲だったと。
      全て空想のレベルですが古文書記述と世界史の史実と歴史上あったとされる自然災害を矛盾なく時系列に並べるとこうなるのでは?と考えています。

    • @user-rl1tu5du3r
      @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

      @@user-od7uk5nq7t
      消去法で考えることは大事だと思います。
      地元や思い入れの強い地域がある場合。他人が聞くと、非科学的かつ非論理的な主張される方がおられるのは残念です。
      九州説にしろ、畿内説にしろ、他の地域の説にしろ。
      例えば、畿内説の真摯に言説を議論したい人にとっては、畿内説の贔屓の引き倒しの非論理的な主張は、畿内説の真摯な言説を望む人達にとっては足を引っ張っていると思うのです。
      例えば、箸墓古墳は造営には魏の使者の張政が関わっているなどです。
      西暦240年に箸墓古墳造営の年代鑑定し得るのか?畿内に張政が来たのか?と二重の仮定に立っており、なぜ、確定できるのか不明です。
      私も自らを省みて、邪馬台国の説論は真摯な態度で臨みたたく思います。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 9 měsíci

    明治の巨塔が、「末盧国からは東南と書いてあるが、東北の怡土郡の伊都国が正しい、その先は金印の那の縣が奴国で決まり」
    と宣言し、もう一人の巨塔も奴国までは同意しちゃったからねえ。
    二大巨塔がそういえば、国中の門下生も続々従う。
    しかし原典は、東南500里に伊都国、又その東南100里に奴国があるとする。この二重の東南を無視することはできないね。

  • @user-eb1hn4pn1m
    @user-eb1hn4pn1m Před 10 měsíci

    倭人伝から読み解くのと 当時の地形と森林の深さなど考慮してほしい。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y Před rokem +6

    邪馬台国の女王卑弥呼
    は、
    時代も場所も異なる二人を混同しているそうです。
    前半部分は
    まさに奈良盆地の大和王国登美王朝(孝元天皇~彦道主大王の4代)
    の初代姫巫女、
    登美(家名)の百襲日女命。
    弟のいわゆる孝元天皇が
    大和王国海王朝(村雲大王(神武)~孝霊)が
    孝昭~覇権を巡って果てしない不毛な内乱に有った
    その内乱に付け入った
    同祖(徐福)親戚の物部が大挙して侵攻。
    大和側は初戦は何とか退けお返しまし、
    物部は紀伊熊野~再び来襲、
    席捲。
    海王朝の大王家、王族、豪族たちは大和から一掃されました。
    ↑の熊野から手引き、誘引したのが
    いわゆる孝元天皇。
    太田多祢彦(太田田根子)、
    物部らは熊野~大和に道案内、先導した彼や配下を
    ヤタガラスと呼んだ。
    大和を席捲し、旧海王朝勢力を各個追撃に勤しむ物部軍の
    間隙を衝いた形で
    王権の空白地帯となった大和に
    太田多祢彦(太田田根子)が進出して
    漁夫の利を得た形でちゃっかり大王に即位して、
    三輪大王と呼ばれた‼️
    (前後関係等~孝元天皇に相当)
    荒ぶる物部勢を懐柔するのに腐心したらしく
    大王后には大和王国では初めての
    物部の姫を迎えて
    産まれたのが
    大御餉主大王。開化天皇。
    (物部の母を持つ初めての大和王国の大王)
    ↑の孝元の姉が
    百襲日女命。
    荒ぶる物部と先住の出雲族との関係が険悪化~
    宗教戦争に発展して混迷を究めた。
    (物部が出雲族のシンボルで御神体の銅鐸を悉く破壊、
    代わりに
    物部がシンボルとした
    『平縁の神獣鏡』の拝礼(服従儀礼)を強要した。
    )
    ↑を深く憂慮した姫巫女の百襲日女命は
    深慮を巡らし、機転を効かして
    斬新な祭祀方法論を編み出して三輪山の大祭で実施。
    (古事記の
    天照大神の岩戸開きの場面にほとんどそのまま採用された)
    すると、出雲族はこぞって熱心に新たな御神体(出雲族の幸の神信仰の要件に合致)
    それを見た物部らは
    自分たちの御神体、シンボルを出雲族らが拝礼していると勘違い(百襲日女に騙されている事に気づかずに)
    大満足して溜飲を下げると共に
    姫巫女とはかくも尊く偉大な存在か?と
    崇敬を新たにして
    物部、出雲族共にこぞって百襲日女命が主宰する三輪山の大祭に参集した。
    勿論、争乱は終息をみて
    平和が到来。
    人々は
    百襲日女命の平和と称えあい、
    百襲日女命を
    瀬織津日女命(瀬織(和平)を成した偉大な姫巫女さま)と称えた。

  • @user-gh9id4if5w
    @user-gh9id4if5w Před rokem +21

    纏向遺跡と箸墓古墳を発掘調査した関川先生本人が畿内説を否定しているからもう論争は終わりだよ。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      関川さんが纏向の発掘調査に関わったのって大分昔の話でまだ纏向で宮殿やらが発見されてない時代。
      逆にそれ以後に携わった人はほとんどが纏向邪馬台国説。
      それに発掘って一人だけでやるわけではないから。むしろその他の人はほぼ纏向支持。
      逆に九州の遺跡で多くの人が可能性を示唆している遺跡はどこ?

    • @asuna795
      @asuna795 Před rokem +2

      その場合終わりなのは場所の論争でなく邪馬台国実在の可能性なので、「魏志倭人伝は偽書、邪馬台国は中国人の書いたファンタジー」となりますね

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem +2

      @@user-ym8hr9jd7l ​ 最近の関川氏の講演や著書を見ても、氏の中で時が止まっていると言いますか、
      近年の発掘調査による発見等が全然反映されていないんですよね…
      第○○次発掘調査などの調査報告を見れば、多数の関係者が携り、
      気の遠くなるような回数の綿密な調査が行われており、
      それらはアカデミックな議論の下にひとつひとつ積み上げられている事がわかります。
      畿内説のパズルはほぼ完成しつつあり、その先の段階に進みつつあります。
      パズルの例えを出しましたが、九州説はいわばそこかしこで色んな方々が各々違う種類のパズルを一所懸命完成させようとしているような印象を受けます。
      ですので畿内説の様に「収斂」しないのだと思います。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +1

      @@majesty164
      相変わらず私と違いそつない文章でまとめていただきありがとうございます

    • @yam7243
      @yam7243 Před rokem +1

      @@majesty164 そんなアカデミックな議論がなされているとは知りませんでした、公表されるのは万世一系前提のその時代の大きい古墳があるから邪馬台国はここですとかたくさん鏡があったから魏志倭人伝のなかのアレですみたいなマスメディアのいい加減な話ばかり。
      個人的には古代日本は緩やかな連合国家と認識しています、記紀が地方国家の中国とのやりとりをいちいち記録していないのも当然の話ですし邪馬台国って言われてもなってのが宮内庁?あたりの認識でしょう。

  • @user-rl1tu5du3r
    @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

    東松浦半島を末盧國と比定するのは妥当性はあると思います。
    しかし、唐津や呼子からなら舟で比定されている伊都国まで行ったほうが良いのでは?
    わざわざ草木前も見えないほどの場所を歩くのがよくわからない。
    末盧國→もーろぅー(こく)なら、諸(浦)    ※現在の玄海町乃可能性はどうですか?そちらと伊都国乃間なら、内陸を歩く意味はある程度理解できますし、発音も似ていると感じますが?

  • @quiztales-koikoisan7038
    @quiztales-koikoisan7038 Před rokem +4

    多分間違いない!
    遺跡は、福岡城の城石か元寇防塁に成っとるかもな。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před 10 měsíci

    たぶん中国語では一をイ~、壹もイ~だと思うが、字ズラは同じでも、発音時のアクセントが高低違ったのだと思うよ。
    で、臺はタイだと思うが、それだと中華皇帝の宮殿になるので敬遠して、
    臺のタを無声にして、イと同じアクセントの壹(イ)を選んで書いた。つまり臺の訛りが壹だろうね。

  • @user-ei5go4jx6c
    @user-ei5go4jx6c Před rokem +3

    私は、四国が有りそうだけどね😅
    遠賀川を上がって田川(ヒコ山)~豊前(宇佐八幡トヨ)
    ~伊予(八幡浜イヨ)~阿波が邪馬台国連合国と思うな
    水銀の山が有るしね。

  • @user-rl1tu5du3r
    @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

    倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である。
    とある様、卑弥呼や台与の時代でも各國がバラバラに外交や通商をしていたようですね。
    そうすると、なぜ、邪馬台国連合が倭国の代表であると、なったのか?
    それは置いておき、倭国が統一の機運が高まったのは継体天皇の時代であろう。
    継体天皇自体が越の国から、畿内に来た。
    また、その継体天皇に九州の大勢力の筑紫の磐井の勢力が滅ぼされた。
    そもそも、倭国の統一なり、倭国の独立性というものが、それまで意識されていたのかも疑義がある。
    倭国で鉄の生産を本格化されようとしたのも継体天皇である。
    瀬戸内海航路も、越の国の倭島(輪島)、外浦の荒波の中を日本海を周遊航海する海人族の能力があり初めて開かれた可能性が高い。
    つまり、倭人海人族は倭人海人族に交易の止めを刺されたのである。
    韓半島なり、九州の倭人海人族は鉄を韓半島から倭国にもたらす交易をしていた。
    しかし鉄は軍事物資でもあり、ある意味、死の商人でもあったといえる。
    韓半島なり、その資源を使ったコントロールに置かれる事は、継体朝には国体として独立性なり統一性が担保されているかの問題であったのかもしれない。
    邪馬台国連合と同時代?
    の四道将軍?
    その四道から逆に将軍と軍団を派遣されないかビクビクしていたのでは?
    畿内の心理的トラウマの発露としての神話にか見えない。
    四道将軍で征服した証拠もないしね😊

  • @user-so9qr2cc3n
    @user-so9qr2cc3n Před rokem +1

    糸島の前原を“まえはら”ですか!

  • @user-dv9mb8pz3i
    @user-dv9mb8pz3i Před rokem +1

    烏丸伝(からすまる伝)❌→うがんでんです。

  • @user-zv5cr1hj4j
    @user-zv5cr1hj4j Před rokem +1

    博多じゃないな
    そしたら卑弥呼の古墳ないとおかしくない??

  • @user-xv1xu3pj1t
    @user-xv1xu3pj1t Před rokem +16

    ドシロートの私としてはつい卑弥呼→日巫女→天照大神、邪馬台国→ヤマトと発想してしまうのですが、、。

    • @qzp01467
      @qzp01467 Před rokem +1

      天照大神を記載している古事記や日本書紀は奈良時代初期に編纂された書物であり、
      ヤマトと邪馬台国や皇室の祖先である天照大神と伝説の卑弥呼を関連付けて権威をつけているという説があります。

    • @user-dv3fo5dm6c
      @user-dv3fo5dm6c Před rokem +1

      卑弥呼とか邪馬台国の漢字が当て字なのは間違いないですよ。中華思想ってやつ

  • @user-wt6bj2tc6m
    @user-wt6bj2tc6m Před rokem

    邪馬台国は、やまとこく と読みます。遠賀川流域のどこかにありました。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem

    唐津からは、東南へ陸行して500里、と書かれている。つまり陸行(の結果として)東南500里の地点に至(到)る・・、だ。
    途中で逸れて海岸沿いに進み(海岸に循いて)、(結果として)北東へ至る、のはいかがなものか。
    東南は東南だからねえ!

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Před rokem +1

    安定の東南=北東ですね。

  • @saint-project-26tear-ehime76

    卑弥呼は茨城県にいたって事は
    ないかな?
    茨城にも古墳はあります!
    もしかしたら邪馬台国は茨城県
    だったかもよ
    茨城県民は邪馬台国(卑弥呼)の子孫
    って可能性もありますよね

  • @kurakuen8489
    @kurakuen8489 Před rokem +13

    邪馬台国は、福岡の朝倉あたりにあり、そこにいた人が奈良県三輪山あたりに移り住んだ、という通説とみごとに一致しますね。では、そこからかなり東にある宇佐神宮に卑弥呼の墓があるという話とは、どう関係してくるのでしょうか?魏志倭人伝だったかそのあとに書かれた歴史書だったかに、卑弥呼の墓の記載がありますが。次回はこのあたりの謎解きを期待します。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +5

      いつから東遷説が通説になったの?学会では完全否定されてるけど?

    • @kurakuen8489
      @kurakuen8489 Před rokem +5

      通説という言い方が悪かったようです。邪馬台国に固有の話ではなく、一般に、同じ地名をつけるのは民族が移動した痕跡だと言われてます。このことを通説と書きました。また、魔理沙ちゃんには、是非学説の通説とは違う方向に論理を展開して欲しいと思ってます。そうでないと面白くありません。

    • @user-bi3en6gj6w
      @user-bi3en6gj6w Před rokem

      @@kurakuen8489
      よくないですね
      通説=定説=多数説=常識

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      @@kurakuen8489
      一般に?それも東遷説を支持する安本美典あたりが勝手にいってるだけだし。似た地名もかなり範囲を広げて恣意的過ぎるし。仮にそうだったとしても神功皇后が九州遠征時の時や太宰府に遠の都が置かれた時代に奈良の名前をつけた可能性も十分あるし。

    • @amakun0115
      @amakun0115 Před rokem +1

      @@user-ym8hr9jd7l  様
      学会とは何のことですか?。畿内説が事実なら人数の多い畿内学者が押し切るはずです。具体的な根拠が多くある九州説に比べ、畿内では具体的根拠を何一つ発掘できない。これらの事実がそれを許さないのでは?。それと近畿の学者が纏向遺跡の年代改ざんで裁判沙汰になっている事をご存じですか?昨年のヤフー知恵袋に掲載されていましたが、年代変更理由の開示要求に全く答えず、これでは自分たちに都合よく改ざんしたと言われても仕方ありません。このままでは詐欺師扱いされますよ。直近で見たBSや公共放送(NHK)の地デジ番組でも九州説が支持されており、畿内説を未だに信じているのは畿内の関係者か畿内説学者の地域エゴ(願望)だけではないでしょうか。なお確かめるのならヤフーで纏向 年代裁判で検索すれば出てきます。

  • @user-jn4cf1zu3p
    @user-jn4cf1zu3p Před rokem +32

    邪馬台国は北九州です、奈良の王朝とは別です、

    • @nipanipa.3409
      @nipanipa.3409 Před rokem +5

      邪馬台国は本当は『やまとこく』と読み元々北九州にあったものが大和に移ったという説もあります

    • @user-pz4jw1db1q
      @user-pz4jw1db1q Před 11 měsíci +2

      いつも、大変面白く見させてもらっています。ただ、今回の動画は、ツッコミどころが多かった様に感じました。まず、南を東に、勝手に、換えないと、近畿説は成立しないというところに、大きな違和感を感じました。AD16世紀以前に、九州北、本州南に連なる地図は、混一疆理歴代国都之図だけでなく、中国で、東震旦地理図(1269年),古今華夷区域総要図(宋代),唐時代の賈沈の描いた地図、が確認できます。更に、西洋でも、べハイム地球儀、ミュンスター世界図、メルカトルアジア、オルテリウム東インド図他全部で混一図を入れて、10種類は確認できます。混一図だけならまだしも、世界中に、これだけ多くの九州北、本州南に連なる地図があるなら、当然、少なくとも、16世紀以前の、地理感が、現代人とは全く違っていたと考えるのが自然な考えでしょう。ただし,これらの地図に矛盾するのが、隋書の裴世清が九州から大和へ東に渡航したとの記事でしょう。この記事は、上の地図に全く矛盾します。ただ、多くの地図が有るのも事実、裴世清の記録も事実なら、どちらが良いとか間違いだとかではなく、両方を理論的に摺り合わせるのが、正しい考え方だと考えます。その方法は有ると思っています。他にも、朝鮮国内を、牛車か馬車かは知りませんが、その車幅一杯の田んぼのあぜ道を通り、トンネルのない峠を、長く迂回し、いくつもの大河川を、いつひっくり返るかわからない様な、矢切の渡しに使うような小船に、乗せ換えて川を渡り、盗難、落下による破損、紛失、に、絶えず神経を使って大変な質量の超高級品を携えて、エッチラオッチラ陸行するなど、常識では考えられません。又、朝鮮国内の荷卸した地名も書かれていません。他はポイントとなる地名が、書かれているにもかかわらずです。まだ、違和感を感じた部分は所々ありましたが、代表的なものを挙げてみました。

    • @user-nk6eo9ti6j
      @user-nk6eo9ti6j Před 10 měsíci

      いいえ 沖縄です

    • @user-pm1wy4ef1w
      @user-pm1wy4ef1w Před 7 měsíci

      東に海かないですね。よって博多は間違い😢

    • @user-jn4cf1zu3p
      @user-jn4cf1zu3p Před 7 měsíci +1

      @@user-pm1wy4ef1w 東に海がないのはヤマト王朝です、邪馬台国は東に海があります!

  • @chirucuroba6323
    @chirucuroba6323 Před 8 měsíci +1

    徳島鳴門の古墳の内側に魏の國のものである朱が使われています。他県の古墳の内側には若杉山の朱が使われていると聞きました。魏の國の方にも阿波の水銀朱が渡っていたことが魏志倭人伝か何かに書かれているそうです。
    徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘跡では
    弥生後期~古墳前期の坑道が見つかっています。日本最古です。
    弥生時代の採掘跡が見つかっている所ってあるのでしょうか?
    徳島の場合歴史上隠されてきていますから面倒なんですよね。遺跡を調査しようとしてもすぐに頓挫してしまいます。若杉山辰砂採掘跡も1950年代から発見されていましたが一部国史跡に指定されたのは令和元年です。大嘗祭で天皇陛下は御即位の際、阿波忌部直系の三木家よりあらたえを調進することになっている事が話題になった年です。

  • @user-re2dg4pv5y
    @user-re2dg4pv5y Před rokem +1

    至と到の解釈の違い🗾🌊🚣‍♀️🏝

  • @yuta8693
    @yuta8693 Před rokem +10

    縄文海進の影響で現代よりも海岸線が陸側だと考えれば、太宰府に南進できるんだよなぁ

  • @katumoku10
    @katumoku10 Před 8 měsíci

    これだけ長い間時間をかけて多くの方が研究しても確たる話がないのは何かがおかしいと考える必要があると思います。つまり古代史解明の基本的な考え方が間違っていたということです。
    多くの皆さんは魏志倭人伝は3世紀ごろの日本のことが書いてあるので、正しく解釈すれば邪馬台国も卑弥呼の墓も見つけられると考えてやっていますが、正しく解釈することの意味がよく理解できていません。だからいまだに正しい答えが見つけられないのです。
    魏志倭人伝は、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的の政治文書なので、書いてあることが事実と食い違う理由を考えれば、真相に近づけます。
    同様に日本の現存する最古の歴史書が天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思わされてきましたが、正史「日本書紀」の完成は崩御して34年後なのです。その時の権力者は藤原不比等ですので、天皇の歴史書を借りて藤原氏が権力を握り続ける正統性を述べる文書だったのです。
    それよりも前に完成したとされる古事記は9世紀に日本書紀を講義していた学者多人長が突然表に出してきたもので、正史に古事記が完成した記録もありませんし、正史やその前の歴史書で引用・参照した痕跡もありません。
    多くの方は記紀が天皇の歴史書だと信じているので、偽書だと認めることができないでいます。だから真相が謎のままなのです。
    不比等は日本が建国される卑弥呼の時代の史実が都合が悪いので、史実が隠されているのです。驚くと思いますが、日本神話は建国の史実を誤魔化すために不比等が創作したものですよ。証拠はいくらでもあります。
    ですから、編纂者の目的や意図を考えて、真相を推理して、仮説を構築し、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証すると、蓋然性の高い仮説が得られます。そのような科学的な手法で推論を重ねると、ヤマト王権の成立過程が分かります。その中で倭国大乱やその結果生まれた邪馬台国の場所も分かるのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。
    ちなみに、卑弥呼の墓は判明しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」をご参照ください(#^.^#)お邪魔しました(;^ω^)

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN Před rokem +1

    ご苦労様!~

  • @user-er5oh8vk3b
    @user-er5oh8vk3b Před rokem +2

    古田武彦氏はのちにずっこけるが、この邪馬壱国系の最初のこの一書は名著だと思います。
    必要不可欠な場合を除き”原文改定せず”という姿勢は学問の基本。
    ここのサイトがこの書籍に行きついたことをうれしく思います。

  • @tt2851
    @tt2851 Před rokem

    アカシックレコードの記録だと九州一体と四国の西半分までが邪馬台国になってますね
    北九州と限定してしまうと火山の番であるもう一つの卑弥呼の役職である火巫女の存在がおかしくなってしまいますし
    ちなみに北九州はアマテラス(邪馬台国)とスサノオ(出雲)の諍いがあって一時期はスサノオの支配下になってたりしますね
    皆にもアカシックレコードの記録見せてあげたいわw

  • @10時間前_ごめん嘘本当は

    日本列島には絶対邪馬台国があった場所があるんだから日本一周すれば邪馬台国があった場所に行けるのでは?

  • @user-wd4jd5si9l
    @user-wd4jd5si9l Před rokem +2

    邪馬台国は佐賀の田んぼにありました。

  • @kurakuen8489
    @kurakuen8489 Před rokem +4

    出雲大社の建築様式は、纏向遺跡と同じ。(事実)
    天照大神が大国主命に頼まれて出雲に神殿を立てた。(古事記「国譲り」)
    出雲大社は、地上50mの高さにそびえる神殿だった。(うず柱が見つかっている)
    (実在する地上50mの建物に、EXPO70のブリティッシュ・コロンビア州館がある)
    卑弥呼の時代、糸島周辺にあった集落と纏向遺跡周辺にあった集落の土木技術が同じ。
    伊勢神宮は、天照大神を祭っている。(事実)
    これらのことについても、このチャンネルで取り上げて欲しい。
    さらに、
    日本は、アトランティス大陸の残骸であり、日本神話の神はアトランティスに住んでいた。
    「かぐや姫」は並行宇宙からやってきた宇宙人で、「鬼」は恐竜から進化したとされるレプティリアン。
    このあたりについても触れて欲しい。

  • @user-yt9fq6ug3l
    @user-yt9fq6ug3l Před rokem +4

    何で天智天皇と藤原鎌足は、帝記と旧記を破棄したんだろう?

    • @恙恙
      @恙恙 Před rokem

      皇極天皇が吉備と百済のハーフだったから😊

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem

      ​@@恙恙
      そうなの?

    • @恙恙
      @恙恙 Před rokem

      @@user-me5ie4my9p 高句麗とその舎弟の新羅とに圧されまくって居たクダラの王女が吉備に政略結婚で嫁いだそうでその娘がオオキミに嫁いだ処娘のお兄さん(伯父さん?)や内臣やが娘を担いでヤンチャしまくりました。これが解って居ると亡命百済人の日本各地への定着プロセスもすっきり分かります。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p Před rokem

      @@恙恙
      教えてくれて、ありがとう
      それって、どの文献に出てくる?

    • @恙恙
      @恙恙 Před rokem

      @@user-me5ie4my9p 忘れましたm(_ _)m

  • @user-rl1tu5du3r
    @user-rl1tu5du3r Před 3 měsíci

    なぜ、不彌國が港湾都市なのですか?

  • @user-iq6qn7ml4g
    @user-iq6qn7ml4g Před rokem +2

    カレー買ってご飯🍚歴史研究する。日本福岡金印なら筑紫出雲筑紫姫船乗って交易なら香春銅~鉄出雲鉄邪馬台国騎馬軍なら

  • @YAMAUCHID
    @YAMAUCHID Před rokem +1

    邪馬台国はここだ!という人に、私はいつも聞いています。
    あなたの候補地は、魏志倭人伝の記載通りに…
    山から丹(辰砂)がでますか?
    千里隔てた海の先には、別の倭人が住んでいますか?
    青石がでますか?
    殉葬もしくは生贄が習慣化していますか?
    鯨面していますか?体を赤に塗りたくっていますか?
    会稽東治(江蘇省宿城区)の真東にあたりますか?
    帯方郡から12000里ですか? さらに、クヤ韓国から7000里ですか?
    黒キジが当時住んでいましたか?
    東に開けた海と山が近くにありますか?
    卑弥呼および後継者に関する伝承が当地に残っていますか?
    当地には関連する歴史的遺物が多数ありますか(延喜式神社)?
    見事に当地に当てはまっていますか?
    どうですか?

    • @nnkk8888
      @nnkk8888 Před 5 měsíci

      絹は出土しますか?
      伊都国の南に邪馬台国はありますか?
      伊都国の1500里以内にありますか?も付け加えた方がいいと思います。
      また、狗邪韓国までが7000里なので狗邪韓国からは5000里です。
      丹は丹土と後漢書に書かれているので丹=赤土の可能性はありますし、青石ではなく青玉です。青石としても緑泥片岩なら近畿から九州にかけて分布していますし、雉に関しても同じで国内の説があるようなところでは雉の骨が発見されていますし、延喜式神社に関しても全国どこでもありますし、阿波説であれば様々なことを曲解しないと成立しませんし、あまり真に受けない方がいいと思います。

  • @user-sl5mv1mc7i
    @user-sl5mv1mc7i Před 5 měsíci

    ウチの屋根裏から魏志倭人伝の原本が出てくりゃ良いのになぁ
    せいぜいカビ臭いガラクタしか無い
    せめて生きてるうちに邪馬台国の場所が分かって欲しいです

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +1

    壱岐(一大国)からは、又渡る・・、と書かれている。
    方角は直前直近の「(対海国から)南渡る・・」を受けるので、一大国からも南渡る・・である。 よって神湊はナイナイ。

  • @user-og1hz5vr4q
    @user-og1hz5vr4q Před rokem +2

    図書館にあった数多くの邪馬台国本の中で最後に手に取った「『邪馬台国』はなかった」。
    読後、あまりの感動でしばらく動けなかったのは51年前の夏休みのこと。
    私の中では、基本的にはここで邪馬台国論争の決着はついている。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +1

    昨夜のNHK-TVによれば、吉野ヶ里の石棺蓋には、(×印で)夜空の星座が正しく刻まれていたそうだ。
    星座知識の豊富な古代人が、東南伊都国への方角を誤って北東へ向かったなど有るはずもない。
    番組は、其のことをやんわり指摘したのだろう。

  • @user-lq2ez9tz8h
    @user-lq2ez9tz8h Před 10 měsíci +1

    宮崎県ですね

  • @user-pz4jw1db1q
    @user-pz4jw1db1q Před 11 měsíci

    一大国と、邪馬壹国、一と壹は意味が同じなのに、何で、陳寿はこんな所で、わざわざ使い分けなければならなかったのか、誰か教えてほしい。魏志倭人伝中の,(左)の文字の意味は、陳寿の経歴を考えると、陳寿は、魏晋の時代に、左著作郎から、著作郎に、昇進しており、明らかに、左の付くほうが格下の意味で使われている。現代でも、投手コーチと、投手コーチ補佐では、明らかに、投手コーチの方が、格上でしょう。一と、壹も陳寿の時代と、現代と全く同じ意味で、使われていると考えても何も不自然だとは考えられません。、一と、壹も、現代では、意味は同じです。現代と、同様に使われていたはずなのに。