あなたはどっち?邪馬台国のあった本当の場所とは?【ゆっくり解説】

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  • čas přidán 20. 08. 2024
  • 今回は、畿内説VS九州説!?あなたはどちら?『邪馬台国』の本当の場所について紹介させて頂きます。
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    #ゆっくり解説 #歴史 #邪馬台国

Komentáře • 174

  • @kinkin0421
    @kinkin0421 Před rokem +37

    帯方郡(ソウル)から女王国まで12000里とあって、九州上陸の時点で10500里を使っているのでどうやっても奈良県には到達しません。また「北の諸国の監視のために伊都国(糸島市)に一大卒を置いた」とあるので、自動的に女王国(邪馬台国)は伊都国の南側に位置することとなります。
    さらに邪馬台国は小国30か国からなるとあって、1か国のサイズは末路国(松浦市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)程度のサイズにしかならないので、30か国で福岡県と佐賀、大分の一部程度のサイズになります。畿内説だと1か国のサイズが現在の都道府県と同じくらいになって魏志倭人伝の内容が全然おかしくなります。また「女王国の東の海を渡るとまた和種の国」というのが畿内説では説明不可能です。また「邪馬台国のライバルの南の狗奴国」は九州説だと福岡vs熊本で簡単に説明が付きますが、畿内説だと西日本を統一しているはずの邪馬台国に対抗する南の狗奴国というのが全く説明できなくなります。くなこく・・どう考えても熊襲(くまそ)のことでしょう。そもそも魏志倭人伝に書いてあるのは北部九州のことばかりで畿内どころか、四国、中国地方、瀬戸内海などのことは全く記載がありません。もちろん当時の日本国の中心は畿内であったことは異論がありませんが、それが魏志倭人伝のいう邪馬台国や卑弥呼とはまったく無関係の話です。なにより、魏志倭人伝は中国人が作成したものなので中国人の専門家に見解を求めるべきですね。

    • @kinkin0421
      @kinkin0421 Před rokem +22

      さらに、あまり言及がありませんが、決定的な記述が魏志倭人伝にあります。
      「女王国の範囲が及ぶのは奴国(福岡市)まで」とあります。つまり現在の新宮町~古賀市あたりまでが範囲で、北九州市は女王国の範囲ではないということです。
      福岡市までが範囲の限界とあるのに、どうやったら奈良県が女王国(邪馬台国)になるのでしょうか?畿内説は100%あり得ません。古墳が沢山あったとしてもそれは魏志倭人伝のいう邪馬台国とはまったく別の話です。

    • @boobyojisyan
      @boobyojisyan Před rokem

      畿内の国を邪馬台国にしないと困る方々がいるのでしょうね。畿内説の方々のコメントも時折目にしますが、学会では云々、誰々先生が云々といったいわば権力に追随するばかりの中身が乏しいズレたコメントばかりで辟易します。
      奴国といえば、漢委奴國王の金印もポイントですね。前時代の中華統一国家からの金印の存在は、三国並立の一国家からの親魏倭王印は西の大月氏国に匹敵する奈良の中央集権国家に与えられたに違いないとかいう妄言をあっさり覆す存在ですから。国宝級の金印を交易港近くで認め印にでもしていたのなら別ですが。

    • @user-ix1js8mw2q
      @user-ix1js8mw2q Před 4 měsíci

      熊本県民です。熊本県北部の山鹿地方には大昔の伝説があり、山鹿の不動岩と筑後の山々が綱引きをした。山鹿不動岩側が負け首がちぎれて多くの血が流れ、山鹿地方は血に染まって赤土になってしまった。不動岩の目もちぎれてその供養に一目神社が山麓に造られたという神話。これは明らかに筑後と肥後の戦いが古代にあった伝説では。つまり邪馬台国連合に狗奴国が負けたということである。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s Před rokem +8

    なかなか真面目で鋭いチャンネルだね。
    唐津末盧国からは、原文通り東南500里の佐賀平野に進むのがポイント。佐賀川上→吉野ヶ里を経て、邪馬台国は九州中部にある。
    卑弥呼の塚は某観光地の超有名神社拝殿後方のご神体山だね。発掘は出来ないが、いずれこの場所は特定できると思う。

  • @brawnyrooster7607
    @brawnyrooster7607 Před 9 měsíci +5

    伊都国の平原遺跡、フミ国の七夕遺跡と弥生時代の女性酋長らしき墓が複数あるから北部九州各国にシャーマン女性王がいたんじゃないかな

  • @user-zq5hl3rh8m
    @user-zq5hl3rh8m Před rokem +6

    5世紀の雄略帝(瀬戸内海を開削)の時代まで、瀬戸内海に船を通すことは出来なかったといわれる。とすると3世紀に奈良盆地辺りに渡海可能な造船技術をもつ国があったとは考えにくい。精々河内湖で魚取りする丸木舟しかなかったと思う。
    強力な船(半構造船か)をもつ国が3世紀の日本を支配していたと考えるのが妥当だと思う。だとしたら、卑弥呼=アマテラスもありかもしれない。
    奈良の大和政権の誕生は、古墳時代後期だろう。が、考えれば考えるほど、分らなくなる。笑

  • @user-ui3ej6uw4l
    @user-ui3ej6uw4l Před rokem +6

    吉野ヶ里ほどの大規模集落であれば、魏志倭人伝に国として記載があって当然で、それがどの国かということだと思います。 地名として古代人の言葉が残っていればよいですね。

  • @user-wc8tf6wv3v
    @user-wc8tf6wv3v Před rokem +8

    吉野ケ里遺跡は南西から北東方向にのびていて、その南西の先には雲仙の普賢岳があります。
    彼方に普賢岳を望む王国として規模としては北部九州に君臨する首都としては完璧な気がします。
    ちなみにちょうどその北東方向は福岡の那珂川市というところで、時代は神功皇后記と変わりますが何故か日本書紀に登場する裂田溝という施設が現存していて、他に特別な遺跡はないと思いますが古代の重要な拠点でなかったのかいなと思っています。

    • @user-mi9zw1ni4o
      @user-mi9zw1ni4o Před rokem +3

      おっしゃる通り
      安徳台は特別な場所に間違いありませんね。
      台地になっていて立地的にも
      完璧な要塞です。
      私有地なので発掘は進んでいませんがそれでも製鉄所跡も見つかっていますし
      地中レーダー探査では遺物
      の確認が出来ています。
      今後の発掘が待たれます。
      また那珂川上流から安徳台
      周辺は異常なくらいの伝説の
      宝庫です。
      何らかの聖域?と疑いたくなります。
      イザナギ、開化天皇、神宮皇后、淀姫命、、。
      不思議な神社も多く中でも
      市ノ瀬日吉神社は御祭神を
      すり替えていますが
      吉野ケ里の日吉神社と
      繋がるはずです。

    • @user-wc8tf6wv3v
      @user-wc8tf6wv3v Před rokem +4

      ですよねー
      セブンイレブン那珂川山田店付近の吉野ケ里方向と糸島方向への案内板って古代からあったりして
      少なくとも那珂川市から春日の奴国の丘歴史公園あたりまでが奴国としても吉野ケ里の規模は軽く超えますですね
      結局、奴国が強大となって糸島と吉野ケ里の都市機能を吸収して大和政権との関係へ移行したのかもしれませんね

    • @user-mi9zw1ni4o
      @user-mi9zw1ni4o Před rokem

      以前山田近くに住んでました〜。
      安徳台を基盤に勢力を広げ
      糸島、糟屋、東区あたりまで
      奴国の勢力圏だったかも。
      明確な国境が無い時代には
      沿岸部は金印の
      委奴国(いと)と呼ばれていた可能性も有りますね。
      吉野ケ里も狗奴国の防衛線として奴国の一部だったかも。
      石棺が空っぽだったのは拍子抜けでしたが、元々ある時を境に放棄された遺跡なので埋葬場所が変わったのかも知れませんね。

  • @hironoz789
    @hironoz789 Před rokem +15

    銅鏡の出土数は九州方面の方が圧倒的に多いのでは無かったでしょうか。

  • @satoshitanaka7655
    @satoshitanaka7655 Před rokem +17

    畿内説は畿内を邪馬台国とするためにかなりの曲解がある。魏志倭人伝に頼っている割には無理やり方角を変えて畿内にもっていく。また、出土物に対し都合の良いような話を作り上げている。
    魏志倭人伝には九州より東にも国があるとしか書いていなかったのでは。
    魏志倭人伝の日数では遥か南の海に行ってしまうと言っているが、現代の道路事情で考えてはいけない。当時は道なんて無いし、川沿いに集落に立ち寄りながら寝泊まりして進めば九州から飛び出るとは思えない。
    素直に自分が当時の中国人で、見知らぬ倭国(九州)にたどり着いたらどういう動きをするか考えると、やはり九州説でしょうね。
    それから、宇佐八幡宮の場所はかなり不気味なほどに畿内からも一目置かれている場所ですので、何らかの王朝が九州にあったと考えるべき。と私は思う。

    • @lutesnest1353
      @lutesnest1353 Před rokem +4

      そもそも邪馬壹國の段階で大和ではないのにこじつけてますからね、この段階から誤っているんです。
      壹與について書かれてる箇所に臺を作りと明記されてるんです。そんな都合よく壹と臺を書き間違うわけないんですよ。
      隋書みたいに「倭」の字を全面的に書き間違えてるならわかりますけどね。

    • @majesty164
      @majesty164 Před rokem

      @@lutesnest1353

  • @jpw8924
    @jpw8924 Před rokem +11

    卑弥呼は、天皇家じゃ無いけど、大きな影響与えた人物(一族)です。卑弥呼の墓は、宇佐神宮の下だと睨んでます笑笑

  • @nipanipa.3409
    @nipanipa.3409 Před rokem +4

    ついに吉野ヶ里遺跡の謎のエリアから石棺が出てきましたね
    歴史が動くか見ものだ

  • @user-og1hz5vr4q
    @user-og1hz5vr4q Před rokem +4

    南北は、夏でも冬でも同じ方向ではないのかな?

  • @user-un4ss7ve6h
    @user-un4ss7ve6h Před rokem +30

    魏志倭人伝の里数で見れば北部九州1択でしょう🙄卑弥呼の墓にしても直径百余歩の塚の記述あり、箸墓のような立派な古墳はありえないと思います。あるとすれば、後継者壱与の墓かなとwwなお個人的な気づきですが、魏志倭人伝にはやたら100という数字が多いですね。倭国は旧100余国〈この中に畿内勢力、吉備国、出雲王国など?〉伊都国〜奴国100里、奴国〜不弥国100里、卑弥呼の墓直径100余歩、殉葬奴婢100余人など)なので、同じ100という数字でも正確かどうかもわからないので、なかなか解明されないのかもですねwww

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Před 10 měsíci +2

    邪馬台国は福岡県南部・熊本県北部が第一候補、福岡市近辺が第二候補、なんだけど、卑弥呼の墓は宇佐っぽいんですよね。あと、淤能碁呂島は福岡市の小呂島と能古島だって思ってますw

  • @user-uj2ro5iz1v
    @user-uj2ro5iz1v Před rokem +34

    九州から神武が東征したって考えれば全てがスッキリする

    • @user-in4vz8hu7s
      @user-in4vz8hu7s Před rokem +3

      ホントに!これで何もかもスタートするのにね👍

    • @taka7218
      @taka7218 Před rokem +2

      卑弥呼の時代に奈良に主だった古墳は無く、王朝的なものがあっても田舎豪族。
      淡路島でこの時代ダケ大量の武器が作れていた痕跡が見つかっている。
      国生みの地が淡路島ならココを戦略拠点として東征したトコが天皇家の元祖と考えるべき。

  • @user-gz2ty9ob6j
    @user-gz2ty9ob6j Před rokem +7

    邪馬台国はヤマト国と読む説があるので、名前から九州の山門郡あたりにあり、卑弥呼の死後のトヨの時に、九州から大和の纏向に東遷したのではないでしょうか。すると箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメはトヨであり、また崇神天皇は女王と言う説があるので、崇神天皇とヤマトトトヒモモソヒメは同一人物でありトヨではないでしょうか。

  • @tomusan6837
    @tomusan6837 Před rokem +13

    日本国史•上(田中英道東北大学名誉教授著育鵬社刊)に説得力ある論文が掲載されてます。内容は著作権の関係で明らかにできませんが読まれることをお薦めします。それに、つい最近吉野ヶ里遺跡の王墓ゾーンのすぐ脇の神社が建っていた丘の発掘を試みたところ甕棺が出土し中から勾玉を巻いた女性の遺骨と銅鏡が見つかりました。新たな発見により定説がひっくり返る可能性が出てきたことにワクワクしてます。

    • @user-rx2xm1sl6i
      @user-rx2xm1sl6i Před 9 měsíci +1

      その方は美術史が専門で古代史や考古学が専門ではない あと論文というのは査読のある学会誌に出すものであり商業誌や出版社が出す書籍は論文とはいわない

    • @tomusan6837
      @tomusan6837 Před 9 měsíci

      @@user-rx2xm1sl6i
      そうだったね。

    • @tomusan6837
      @tomusan6837 Před 9 měsíci

      @@user-rx2xm1sl6i
      初めに君の意見に同意したが違和感が残ったので大辞泉で調べたら①議論する文。筋道を立てて述べた文
      ②学術的な研究の結果などを述べた文章 
      とあって君のコメントとは大きな開きがある。そちらの根拠を示して。

    • @user-rx2xm1sl6i
      @user-rx2xm1sl6i Před 9 měsíci

      @@tomusan6837  
      辞典などは広義に取らなくてはならないので狭義な解釈とは異なることになる
      ここでは日本学術会議などに委員が選任されるような学会に属する学会員が学術論文と認めるに足る論文用件を述べたのである。上記学会員であれば先に示した用件を否定することは考え難く、理系においてはさらに英文かつImpact Factorを有するのが常識である。
      だがしかし学会に所属しない方々には説明不足であったそしりは甘んじて受けよう。可能であれば博士あるいは修士の学位を有する者の意見を聞くことを強く推奨する。

  • @takumi1999
    @takumi1999 Před rokem +4

    外交の重要な拠点が伊都国。ここを支配下に置くということは近い地域で無ければ成り立たない。ひとたび何かあった時、南九州や宇佐・機内では間に合わない。そう考えると筑紫平野は適地と思える。怡土城→大野城→基肄城は狼煙等で連絡が容易。筑後川の上流の盆地で、曹操の鉄鏡に似た鉄鏡が出土されたのも有力者が周辺に居たことを、物語っているような。

  • @user-li8tz6fs1t
    @user-li8tz6fs1t Před rokem +3

    分かりやすい解説ありがとうございます。
    自分は奴国の王と有力氏族がまず吉備に移動し、最終的に奈良盆地に入ったと考えたいなと思ってます。
    吉備に移動したのはAD100年頃。
    邪馬台国が卑弥呼の頃まで北九州に留まっていたとすると、その死後50年くらいで、奈良盆地に箸墓のような巨大古墳を築く王権が成立するというのはちょっと無理があるように思うのです。
    ただその場合、卑弥呼の宮殿や墓はどこにあるのかが問題になりますが。

  • @ch-ub3cp
    @ch-ub3cp Před 11 měsíci +2

    ゆっくり解説さんの邪馬台国がどこにあったのかの謎解きは面白かったです・・・が魏志倭人伝に記された帯方郡から邪馬台国までの里数がまったく無視されていたのがちと残念でした。

  • @akiresu77
    @akiresu77 Před rokem +5

    前提として「東を南と間違った」って言うのは、正直無理があると思います。
    ただ距離が違うとか移動距離じゃなくて突然移動日数になったりとかは、褒美を多くしてもらうために「こんなに頑張りました」って報告書に書くのはあったと思います。
    大分の宇佐神宮あたりをちゃんと考古学的に発掘も含めて調査することが出来れば、日本史の空白の150年についての何かがわかると思います。

  • @user-kz6vn4km4f
    @user-kz6vn4km4f Před rokem +6

    僕は、九州にあったと思います。

  • @user-sq5ej6ib4t
    @user-sq5ej6ib4t Před rokem +2

    九州から機内奈良に移動した説がすっきりするような

  • @zakialz1307
    @zakialz1307 Před 3 měsíci

    卑弥呼の呼称は特使が帯方郡で魏国朝廷で朝見時在籍者の数名により日本語を中国語に置き換えされたもので彼らの日常習慣や地域背性が有り正しさが確認できないし、卑弥呼(ひみこ)自体の呼称が江戸時代の儒学者によって特定された中国語の日本語読みで有る為正しいとは言えず、日本では主人の名前を公に公式の場でダイレクトに発する事は有り得ず敬称で呼ぶ習慣が有り殿だとか姫だとか他にもたくさん有るが直接に言わないのが普通で女王と言う呼称もそう言った呼称は当時の我が国では使って無い為、この呼称も魏国の追加付加言語で我が国の言語では当時の用法言語では無い。そして彼女は巫女出身で有り後任の親族トヨも特別な位置とは考えにくく、従って神武天皇の血を継承している明確な形跡が確認出来ないので皇族に有らず無縁と考えるのが妥当である。

  • @user-in4vz8hu7s
    @user-in4vz8hu7s Před rokem +8

    邪馬台国は日本人にとって最大のロマン!そもそも邪馬壹国かもしれないし。私は九州説です…古墳を調べさせないコトに臍を噛みながら亡くなった方の多さと、どう考えても調べられたら宮内庁的に困るコトがあるとしか思えない。

    • @user-un4ss7ve6h
      @user-un4ss7ve6h Před rokem

      私も九州説ですwww確かに全国の人々が九州だ畿内だその他だと水掛け論を展開するより、卑弥呼の墓と主張する箸墓古墳を発掘すれば解明への糸口となるのに、宮内庁の許可がでないという口実で発掘しないのは、解明されるとヤバい事実を意図的に隠してるとしか思えませんよね。例えば、発掘されたら卑弥呼の墓じゃないとバレて畿内説が破綻してしまうとか…

  • @initial.j4451
    @initial.j4451 Před rokem +2

    邪馬台国ではみずがねが取れたらしいじゃん 水銀ね

  • @wa33785
    @wa33785 Před rokem +1

    畿内であっても近畿。五畿七道が廃止され皇室が東京へ移った明治から現在の近畿の範囲が確定されたのだろうか?江戸時代には近畿の用語の定義はどうだったのだろう。遠畿? 上方筋(近江丹波播磨)上方, 関西,京阪神,北近畿,南近畿,西近畿,東近畿,近畿の畿は何処へ?

  • @user-vt8bd3lm9d
    @user-vt8bd3lm9d Před rokem +4

    「阿波説」に惹かれています。(王国は幾つもあったと思いますが、、)。中国の史書に記載のある距離については直線距離で読み取るべきではないでしょうか。それと、里程としての各都市間の「距離」の積み重ねに矛盾があって当然と考えます。(1里=75メートルというのを支持します)。
    水行10日の投馬国からさらに邪馬台国へ行くと見るか、投馬国とは別に邪馬台国へ行くと見るかで、全然向かう方向が違ってしまいます。(なので、この点については更に諸々の中国の史書の研究が必要だと考えます。)

  • @user-im2rq5cg4s
    @user-im2rq5cg4s Před 2 měsíci

    三角縁神獣鏡は中国から一枚も見つかってないし、奈良の東に海がない。それと魏の曹操の墓から見つかった銅鏡と全く同じ銅鏡が北九州で見つかってる

  • @user-pg4gb8qg7w
    @user-pg4gb8qg7w Před rokem +10

    神武天皇が九州から畿内に来たのに、古事記や日本書紀に卑弥呼が出てこないのだから、邪馬台国と大和王朝は別系統と考えるのが自然だと思う……今後何か発見されたら話は変わるかもだが……‼️(* ̄∇ ̄)ノ

  • @user-im2rq5cg4s
    @user-im2rq5cg4s Před 2 měsíci

    卑弥呼の墓は直径100数十メートル。箸墓は倍。後円の部分と言う方もいらっしゃるが、それを直径と言うのは不自然です。宇佐八幡宮が卑弥呼の墓では?

  • @Do_Na_306
    @Do_Na_306 Před rokem +2

    九州説と畿内説はどちらも正しい場合がありますね。当時の地図と国名が記載されたものはないのですから、一つのものが二つになったケースも移動したケースも考えられますし、卑弥呼が別の国に移動し墓がそこにあったケースも考えられます。
    そもそも倭国大乱の時代なので一つの大きな国が分裂して大乱となった時代、次々に新たな国が独立し飛び地となったケースは現在のロシアですらありますので、必ず国はそこに一つの固まりとしてあり、その名の人物は一人固有だと考える志向には現代ですら無理があります。
    遷都し、人物も宝物も移動してしまえば、書物で場所が特定できないのは当然となり、国が極端に安定せずクーデターの連続、国家分裂が盛んだった当時で唯一を信じる論説に常に矛盾が生じるのは逆に当然かなと思います。

  • @user-im2rq5cg4s
    @user-im2rq5cg4s Před 2 měsíci

    あと、距離を壱里の解釈を良いように解釈したのはあれど、東西南北を間違えるのは無いでしょう。笑

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect Před 7 měsíci

    レイさんには、もっと原文よく読もうのブームや流れを作って頂きたい。
    東夷伝の記述には、天子爲其絕域委以海外之事。半島南部の倭と海外の委は、区別してると書いてあります。
    倭なら半島南部の倭。記紀編纂者が気ずかなかった記述は多いのかも?
    大和や九州の記述なら委を使うので、邪馬壹国の壹は、邪馬委国くにだったのかもしれませんね。

  • @user-kn8iu9il8o
    @user-kn8iu9il8o Před rokem +6

    邪馬台国の東側に海があったという事ですが、奈良県の東側は東海地方ですが、何か関係あるのですかね。
    あと卑弥呼は女王という事ですが、倭迹迹日百襲比賣命が孝霊天皇の娘であるなら女王になる資格は十分。
    邪馬台国は九州にあった事は立地的にかなりの確率でそう思うのですが、卑弥呼の時代と重なる箸墓古墳や纏向遺跡があった大国は何という国だったのでしょうか?
    神武東征があった時には長髄彦や饒速日命が統治していた国があったという事ですが、その国は何という国なんでしょうか?

  • @user-lb7iw8xq7t
    @user-lb7iw8xq7t Před rokem +2

    宮内庁さんは何で?
    税金貰ってなにやってるの?

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem +1

      九州説なら卑弥呼の墓は陵墓じゃないんだからそんな事気にする必要ないのでは?

  • @user-uu5pv4lg3u
    @user-uu5pv4lg3u Před rokem +7

    阿波説を推薦します。
    明治政府の時、神道を国の宗教に定めた時、歴史改ざんされたようです。神社の始まりからも徳島の神社が始まりです。古墳の前方後円墳も阿波から始まった様です。ヒミコの墓も徳島にあります。ユダヤの渡来も徳島にあります。

  • @YO-high
    @YO-high Před rokem +7

    まず、魏志倭人伝に書かれている「女王国」を「邪馬台国」とするのが間違いでは?
    邪馬台国は、後世の「隋書」「梁書」などで「邪馬台」=「大和」であるのはわかってる。
    がしかし、卑弥呼がいるのは「女王国」であり、「邪馬台国」は「倭国の首都」ってだけ。卑弥呼が居るとは書かれてないんだよね。
    纏向遺跡に「環濠集落」が無いし、「其死有棺無槨封土作冢」といって「有棺無槨」で「槨が無い」っていう古墳はほぼ無い訳で。
    邪馬台国には「官」がいる。卑弥呼は「倭王」なので「邪馬台国王」ではない。
    そこら辺を間違ってる主さまが多い気がするわ。
    「女王国」は九州。(おそらく吉野ヶ里)。でも「邪馬台国」は「大和」だと思うんだがなぁ。卑弥呼は奈良の「大勢力」を知ってたはずだ。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      南至邪馬壹國 女王之所都
      「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」
      と書かれてますが?卑弥呼が倭王で邪馬台国王は他にいた可能性はありますが

    • @amakun0115
      @amakun0115 Před rokem +6

      失礼します。卑弥呼の時代の奈良は田舎だったことが考古学的に証明されています。3世紀全般でも鉄器(矢じり含む)の発掘数が福岡県700以上、纏向がわずか4個。絹の発見も九州では有りますが他地域では未だに無し。これらの基礎数値にはTVで見た討論会でも畿内説学者の反論は一切ありません。それと貴方は最近の畿内説学者の言葉に騙されていませんか?年輪年代測定法を理由に100年時代をさかのぼらせたいようですが、市民団体が変更の根拠である基礎データ開示を求めたところ、全く答えず裁判沙汰になっています。真実ならどの木の年輪か言っても差し支えないでしょう。勝手に変更し30年以上経過し、もう研究に支障が出るとの言い逃れは通用しません。確かめるのならヤフー検索で纏向 年輪 裁判とすれば出てきます。その中に丁寧な説明と経過も書かれているものがあります。ちなみに訴えられているのは奈良文化財研究所です。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +3

      @@amakun0115
      >市民団体(笑)
      九州説は極左みたいだね。
      そんなに熱くなるなよ

    • @amakun0115
      @amakun0115 Před rokem

      @@user-ym8hr9jd7l  様
      ちなみに裁判は東京地裁で行われています。私もどこの市民団体か調べていませんが、きちんと調べて発言した方が良いですよ。それと貴方なりの畿内説の根拠を言ってください。願望だけ言われても論議のしようがありません。それとこれは他の返信欄でも書きましたが、都市伝説の様に学会ではと聞きますが、学会とは何ですか?畿内説が真実なら畿内の学者人数が多いので一気に押し通せるのではないですか?それが出来ないのは発掘成果により九州説が多くの根拠を得たのに対し、畿内説は纏向を持ってしても何一つも具体的根拠を見いだせないからでしょう。裁判を知ったのもヤフー知恵袋だし、BSの番組でも出演した纏向発掘学者は邪馬台国に逃げ腰で、畿内説学者も具体的根拠を何一つ言えず、結局は九州説に傾いていました。公共放送(NHK)の地デジ番組でも九州説を支持しています。今や畿内説を言っている多くは畿内の関係者か学者の地域エゴ(願望)に過ぎないのではと考えます。私が持っている九州説の根拠は、ここのコメント欄に送信した大分の鏡以外にも幾つもあります。最近はベテランや熟練の畿内説論者に出会いません。畿内説を辞めた方も増えているようです。物事を論理的に見ればどちらが正解か分かります。

    • @qzp01467
      @qzp01467 Před rokem +1

      ​@@user-ym8hr9jd7l 当時の中国の漢字の用法だと、都=先祖の霊廟がある場所 と聞いて、卑弥呼が住んでいる場所とは別の場所でもおかしくないらしいですね。

  • @user-eo1oj9uh1z
    @user-eo1oj9uh1z Před rokem +4

    祝詞や古事記に阿波岐原ってはっきり入ってるし徳島と思ってます。

  • @nm-ug8dx
    @nm-ug8dx Před rokem +6

    古代出雲王朝富王家の直系の子孫の出雲口伝によると、吉野ヶ里遺跡は徐福が二度目に渡来して開いた場所だそうです。筑紫では徐福は饒速日と名乗ったようで、その子孫が物部氏と言うことです。
    その徐福と宗像の市杵島姫との間に生まれたのが彦穂穂出見(物部イニエ王)で、彼は鹿児島のアタツ姫(木花咲耶姫)との間に御子(物部イクメ)をもうけます。
    アタツ姫は御子を産んだ後、早世してしまいます。その後、イニエ王は豊国宇佐の豊玉姫と再婚します。その豊玉姫こそが親魏和王の女王卑弥呼なのだそうです。豊玉姫はイニエ王との間に豊彦と豊姫の二人の御子をもうけます。
    豊玉姫は大和東征の途中、瀬戸内海で没してしまいます。その場所に厳島神社を建立したのだそうです。そのまま豊玉姫の亡骸は宇佐へ戻り宇佐神宮の元宮、御許山の山頂の大元神社に埋葬されているそうです。
    そこは禁足地で立ち入ることの出来ない場所なので卑弥呼の墓が見つからないのも頷けます。

    • @initial.j4451
      @initial.j4451 Před rokem +1

      ホントかよ

    • @nm-ug8dx
      @nm-ug8dx Před rokem +1

      ホントかどうかは大元神社の禁足地を掘り返してみないと何とも‥ねぇ。
      そんな事したらめっちゃバチ当たりそうな雰囲気の場所やけど‥
      出雲王家の口伝では先祖代々そう伝承されているという事なので、これも数ある説の一つと言う事で。

  • @user-ec9fw3tr6j
    @user-ec9fw3tr6j Před rokem

    漢字分からないけど、忘れましたが。すいしょうの解説見たかったり。
    日本史で今のところ、最初に名前が確認されている人物です。
    卑弥呼に比べて知名度が低いですが。

  • @nkmatsu
    @nkmatsu Před rokem +9

    九州だと思うんですよね。畿内だと、中国とか、韓国は陸路が増えるから、時間等かかるし。

    • @MowmowMovies
      @MowmowMovies Před rokem +1

      そうですね。畿内に行くなら、一度出雲にでも寄港した上で若狭湾から上陸するのが効率的でしょう。

  • @Andy-fi9wt
    @Andy-fi9wt Před 10 měsíci

    畿内にあったのなら神武東征というデタラメなエピソードをでっち上げる必要がないと思う
    中国的には邪馬台国が正統王朝扱い→大和朝廷が後継王朝であることの根拠として邪馬台国後継九州王朝が近畿進出したというカバーストーリーをでっち上げたという流れが自然

    • @user-hw9iw3pm3b
      @user-hw9iw3pm3b Před 3 měsíci

      おっしゃる通り、神武東征がなぜ記紀に記されているかを考えると、邪馬台国畿内説はあり得ないと思います。しかし、中国に慮って九州王朝が近畿に進出したというカバーストーリーをでっち上げたという主張は疑問です。なぜなら、神武東征は宮崎から出発しており、邪馬台国との直接の関係は記紀に記されておらず、これではでっち上げのカバーストーリ―にもなっていないからです。私は、記紀の神武東征は歴史的事実を踏まえたものであり、九州の勢力(邪馬台国の流れをくむ人々)が奈良盆地の南に入って、そこにいた地元の豪族を勢力下におき、大和王権、大和朝廷に発展していったのでと考えます。こう考えれば、大和朝廷がなぜ「ヤマト」と称したのかが理解できます。なお、「ヤマト」の呼称になぜ「大和」という漢字を当てたのかを考えると、九州の外来勢力が支配権を確立するのに婚姻関係を武器に地元豪族と融和を図っており、すなわち大きく和するということで「大和」とし、読みは「ヤマト」としたのではないかと考えます。

  • @user-hc9bb7rh4h
    @user-hc9bb7rh4h Před rokem +9

    九州説が有力だと良いが✨😗🤔🙄😒😬😤🥴‼️

  • @user-uz7gv9oh5p
    @user-uz7gv9oh5p Před rokem +3

    邪馬台国と女王国。墓はまた違う場所かもね。邪馬台国は福岡の真ん中から東側~南側もしくは大分県かな。女王国はそこから南。墓は今探してます😅

  • @montoku77
    @montoku77 Před rokem +1

    他の関連動画も見ましたが、福岡県・佐賀県・熊本県・大分県・長崎県が、邪馬台国の領域だったように思えてきました。
    阿蘇山と南の山間地を越えた鹿児島県・宮崎県は別の首長が治めており、後日そこから神武天皇が宇佐市ー北九州市ー瀬戸内海ー大阪湾ー熊野市を経て畿内に大和王権を樹立した。
    宇佐神宮は天皇家とゆかりのある神宮だそうですが、宇佐神宮の真ん中の神様が卑弥呼であれば、天照大神と卑弥呼は同一で宇佐神宮に埋葬されているのでしょう。
    神武東征の際に山陰地方は放置されたが、畿内の統治が安定してから出雲大社の支配する地域を大和政権下に編入し、琵琶湖の東地域への支配を広げていった。そんな気がします。

  • @shinzaemongolf6753
    @shinzaemongolf6753 Před rokem +4

    繋がりはないと思いまする

  • @makotonezumi277
    @makotonezumi277 Před rokem +1

    邪馬台国わからない

  • @user-hs7cs3ru3n
    @user-hs7cs3ru3n Před rokem +10

    畿内です。投馬国が5万戸邪馬台国が7万戸。合わせて12万戸です。1戸あたり4人だとしても48万人です。この当時、400万人くらい人口がいたとして投馬国は、岡山か但馬地方。邪馬台国が奈良一帯と考えないと規模感が合わない。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem +5

      弥生時代末期の日本列島の推定人口は約60万人です

    • @boobyojisyan
      @boobyojisyan Před rokem

      畿内説の方々は各説共通の比定地である壱岐対馬、特に同時代の原の辻遺跡に3000戸あった事を証明してないですよね?近現代でも人口3万程の壱岐に当時1万2〜5千人いた事を証明しないくせに投馬国邪馬台国のみで5万人7万人を語りますか?

    • @user-hw9iw3pm3b
      @user-hw9iw3pm3b Před 3 měsíci +2

      倭国は大きな国だという印象を与えるために話を盛ったんだと考えれば理解できます。記述どおりの人口であったと考えるのは単純すぎます。

    • @user-qg2ox6qp7i
      @user-qg2ox6qp7i Před 2 měsíci +1

      当時の奈良平野は中央部が湿地帯
      だから遺跡がない

  • @user-uz2wn6zi8n
    @user-uz2wn6zi8n Před rokem +9

    そもそも畿内説があること自体意味が分からない。
    九州以外は考える必要ないだろ。
    西日本全域が邪馬台国だったとでも言うのか?笑
    九州のどこかに決まっている。

  • @jirushizou5962
    @jirushizou5962 Před rokem

    問題は陳寿が魏志倭人伝を過去の文献から引用しててさらに政治的な都合で意図的に書き換えたとみられる箇所があるとこでして。
    これによって倭人伝をどこまで信用して良いのか人により解釈が分かれるので九州か近畿かに割れるのだと思います。
    自分は7割くらいは合ってて九州方面に卑弥呼がいたのではと思いますが、大和王権の九州支部みたいな感じだったのではと考えています。

  • @user-ie7wd9rj9v
    @user-ie7wd9rj9v Před rokem +3

    魏志倭人伝の方角、里数、戸数、日数諸々の整合性が取れるのは南九州(日向)というのが個人的な見解。
    当時の舟の性能を考えると神武東征はその後の話だと思ってる。

  • @ayamelt9282
    @ayamelt9282 Před rokem +2

    300年議論して決着がつかないと言う事は、そこではない可能性も考えたほうが良いのでは?どちらの説も少しこじつけ感があります。少し冷静になって今後の発見を待ちましょう。

  • @user-dt8yx2mg7z
    @user-dt8yx2mg7z Před rokem +3

    魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は
     1.山に丹あり(辰砂:朱を産出する山)
     2.牛馬なし(牛馬がいれば水源を汚すため山岳地帯)
     3.卑弥呼が魏の皇帝から金印をもらった(金印の一辺は2.3cmで108g)
     4.卑弥呼の墓は径百余歩(徒歩で100歩余り:約140m)
    帯方郡から女王国(邪馬台国)まで12,000里
      (適当な距離でなく測定している正確な距離)
     12,000里✕76m/里(当時の短里)=912Km
    グーグルマップで帯方郡を起点にして912Kmの距離を測れば四国徳島県の山中
    で、邪馬台国となる場所として条件がピッタリなんだよ。(徳島には本宮(もとみ
    や)となる神社が大変多いんだよ。)
    *当時の中国には超天才の
     張衡(ちょうこう):天文学者、数学者、地理学者、発明家、製図家がいたん
     だよ。また、
     周髀算経(しゅうひさんけい);距離を天測から求める
     九章算術(きゅうしょうさんけい):ピタゴラスの定理、πの計算
    の算術書があり、緯度、経度も測定しており、12,000里は女王国から帯方郡
    までの測定した正確な距離だと考えられるんだよ。
    5/5(金)
    グーグルマップで邪馬台国の位置が探せる方法を書くので、チャレンジしてくだ
    さいね。
     ①グーグルマップを開く。
     ②右クリック(ウインドウが開くので「距離を測定」を左クリックする。)
     ③〇印が表示されるので、左ボタンで〇印に当て、そのままで希望の位置まで
      ドラッグする。
     ④ドラッグした〇印の近くに左クリックしたら、2つ目の〇印と距離が表示さ
      れる。
     ⑤左ボタンで2つ目の〇印に当て、そのままで上下左右にドラッグして距離を
      確認する。
     ⑥帯方郡から912Km距離表示までマウスをドラッグすれば、そこが邪馬台
      国なんだよ。(帯方郡は平壌南50Kmにあったとされています。)

    • @user-ie7wd9rj9v
      @user-ie7wd9rj9v Před rokem +1

      四国説を理解したいので教えて欲しいのですが、12000里が実測ということは魏の使者は邪馬台国に行ってるんですよね?
      であれば、当然不彌国からの方角・距離も分かっているはずなのに日数表記で方角も違う(四国説の不彌国・行橋市付近からだと徳島は東)のは不自然に感じます。この点は四国説ではどのように解釈しているのでしょうか?

    • @user-pg2yu3wz9g
      @user-pg2yu3wz9g Před rokem +2

      ANYAチャンネルで解明してましたよ

    • @user-ie7wd9rj9v
      @user-ie7wd9rj9v Před rokem +1

      @@user-pg2yu3wz9g それはどの動画でしょうか?ちなみに行程の動画を見ましたが、水行陸行のルートについての解釈はありましたが、不彌国~邪馬台国が何故里数表記でないのかについての説明は見受けられませんでしたね。
      見落としであれば申し訳ないですが。

    • @user-pg2yu3wz9g
      @user-pg2yu3wz9g Před rokem

      @@user-ie7wd9rj9v
      お返事どうもです。
      たしか水行なので、陸地のように明確な宿泊先が決まって無いので日程になったと言ってたと思います

    • @user-ie7wd9rj9v
      @user-ie7wd9rj9v Před rokem

      @@user-pg2yu3wz9g ありがとうございます。
      確認した動画は合ってたようですね。
      ご指摘の個所は間にあったであろう国を省略した理由ですね。

  • @user-ve7un8hy7m
    @user-ve7un8hy7m Před rokem +1

    魏志倭人伝って..日本(邪馬台国)に来た事もない..魏の役人が..色んな処から..情報を集めて..
    書いたと思うので..方向性も距離も..日数も..正確だった..とは言い切れないと思います。でないと..
    300年も研究して..分からない筈がないと思います..。でも..30もの国が纏まったのは..
    事実では..と思われるので..それ相応の場所だろうと思います..。それと..大阪の百舌鳥の古墳群との
    関係はどうなのか..も気になります。あれほど大小大量の古墳群は..何なのか...?
    後..朝廷が..卑弥呼と思しき天照大神を..宮中から.伊勢神宮に移封したのは..何故なんだろうと思います。
    自分のご先祖様だったら..身近にお祀りするのが..当然ではと思うのですが..
    古代史は色々..奥が深そうです..。

    • @zakialz1307
      @zakialz1307 Před 3 měsíci

      当時魏国サイドは現在に近い日本地図は持っておらず、地図上での検索は不能だったようです。邪馬台国も江戸時代の幕府公認の儒学者の「邪馬臺国」「邪馬壹国」の誤訳で「台」に変えられてるし、元の読み方きは「ヤマト国」で「ヤマト」はヘブライ語で「神の民」の意味が有り二種類の漢字が残されてる事は、魏国朝見時の何名かの役人の聴き方の解釈が地域性や習慣性で異なった文言に聞こえた可能性もありC国学者の中には、距離や日数など異なった項目で説明があるのは奇異な解説で複数の文献により真偽性の区別がつかず一つにまとめて書かれている節があるとの指摘もある為、真偽性の優れた方取るのが筋との意見が有りまとめた考え方だと現状のようにアンマッチが生じ混乱しているとの事。

  • @dry301
    @dry301 Před 10 měsíci

    少数派で、粟は不味いので卑弥呼はうどん県の東かがわ市で讃岐うどん食ってる所を見かけましたが夢の中で!

  • @user-mc4lv4zx2j
    @user-mc4lv4zx2j Před rokem +1

    シロウトの私見。九州人である私は、九州説、別政権だと思っています。風習が違います。方向、距離は別として、機内説の人々は1800年ぐらい前、奈良あたりの男が全員、鯨面文身だったと思っているのでしょうか。機内説を信じているなら そうあるべき です。しかし、記紀には記述がありません。それどころか、ヤマトタケルが熊襲の大王を倒すときに女装をしたと書かれています。これは、刺青の無い大和男子だと気づかれずに近づくためには女性を装う必然があったのではないでしょうか。このように大和政権には刺青文化が無かったと思います。大和人にとっては、刺青は野蛮人の象徴(滅ぼした、配下にした)だったと思います。箸墓古墳の側に住んでいる人たちが鯨面文身、・・・想像できません。

  • @user-mh7hi2gm6g
    @user-mh7hi2gm6g Před 11 měsíci

    私は次のように考えます。
    魏志倭人伝では、邪馬台国の南に狗奴国という邪馬台国に対抗できるほどの大きなクニがあったと言っています。
    ここがポイントです。
    結論を先に言うと、邪馬台国は五畿内の北部、摂津国から山城にかけての国。中心地は巨椋池~木津川流域の南山城です。
    狗奴国は五畿内の南部、大和~南河内~和泉で、ひょっとしたら阿波もその一部だったかも。
    末蘆国は伊万里、伊都国は糸島半島付近、奴国は博多湾一帯、不弥国は宗像、投馬国は出雲、そこから水行(日本海の沿岸航行)十日で鳥取市付近に上陸し、山陰道をたどって陸行一月で南山城に着く。
    狗奴国との争いの際に魏の使者(張政)が邪馬台国まで行っているらしいので、里程はおおよそを表わしているのでは?
    距離については、帯方郡から邪馬台国までの距離の1万2千里は天文観測による直線距離。つまり、不弥国から邪馬台国までは1,300里ではない。不弥国からは船に乗った沿岸航行になるので、距離は計測しにくかった。
    なお、邪馬台国の東にあるという海は、近淡海。
    私が考えるキーマンは神功皇后です。
    彼女の父系は、曾祖父が山代之大筒木真若王で山城にいた王号を持つ者、すなわち邪馬台国の王族。
    祖父は迦邇米雷王で、この者も王号を持ち、京都府京田辺市・朱智神社の主祭神なので、そのあたり一帯を直轄の領地とする父の継承者。この人も邪馬台国の王族。
    神功皇后の母系は、母が葛城高額姫なので、大和国すなわち狗奴国の豪族の娘です。
    『新唐書』は神功皇后を王であると記しており、邪馬台国の王族と狗奴国の豪族との間の娘が、卑弥呼と台与の故事にもとづいて王位についた、と見れば自然です。
    また、私は、神武天皇は邪馬台国と魏の帯方郡が九州から狗奴国征伐のために呼び寄せた将軍だと考えています。
    卑弥呼~台与の時代に邪馬台国と魏による狗奴国征伐があり、その征討軍の将軍が当初は神武の兄の五瀬命(ただし神武と血縁はなし。九州内の別の場所の出身)。
    九州における征討軍の招集場所が筑紫の岡田宮。この場所は不弥国でもある。
    日向の国の豪族であった神武は、張政の呼びかけに応じて、「いざ鎌倉」ばりにここに出頭した。
    その狗奴国侵攻ルートは、当初は河内潟から大和に攻め込もうとしたが失敗し、五瀬が戦死し、代わりに神武がピンチヒッターの将軍をつとめます。
    神武は熊野ではなく吉野川をさかのぼって大和(狗奴国)を制圧。以後、マッカーサー率いるGHQのように、占領軍の司令官として大和を治める。ただ、あくまでも身分は邪馬台国の将軍家です。
    神武に始まる邪馬台国の将軍家がとぎれずに代々続き、日本武尊に至り、その息子が仲哀天皇。
    由緒ある将軍家の跡取り息子の仲哀と、邪馬台国の最後の女王神功のあいだに生まれた皇子が応神。
    こう考えればきわめて自然かと。
    また、天照大御神は私も卑弥呼のことではないかと考えており、父系で邪馬台国の王族とつながってない天皇家は、天照大御神を祭る伊勢神宮を敬いはするけれど明治まで参拝まではしなかったのは当然かと。
    ちなみに、三輪大社は、邪馬台国に屈服した狗奴国(記紀神話では国を譲らされた葦原中津国)の王である大国主命の魂(=大物主神)を祭る鎮魂のやしろです。
    纏向遺跡は狗奴国の遺跡となるから、魏志の言う施設の姿(城柵,楼閣の存在)と不一致でも問題ないです。

    • @user-hw9iw3pm3b
      @user-hw9iw3pm3b Před 3 měsíci

      素晴らしい想像力ですが、歴史は小説とは違います。

    • @user-mh7hi2gm6g
      @user-mh7hi2gm6g Před 3 měsíci

      @@user-hw9iw3pm3b
      あなたの言い方は、まるで自分は歴史を知っているかのように主張してますが、そこまでの人間じゃないでしょう?
      おこがましいのでは?

  • @seiji5431
    @seiji5431 Před rokem +7

    邪馬壹国はヤマト国で大和=大倭(おおやまと)の奈良ではなくて倭国は徳島です。徳島には高天原(剣山、神山、眉山)も伊津毛(出雲)も諏訪もあります。倭大国魂神社(延喜式式内社日本一宮)があり古事記上巻の神様の神社全て揃ってます。

  • @rino_japanese
    @rino_japanese Před rokem +5

    ん❓どした❓なんで今になってわざわざこんな動画作ったの❓🙄

    • @vclxx7867
      @vclxx7867 Před rokem +2

      前回の動画の方がよっぽど納得感あったのにな

  • @yoshikiyo608
    @yoshikiyo608 Před 6 měsíci

    「帯方郡(ソウル)から女王国まで12000里」が日本語訳の誤読、「魏の首都から帯方郡(ソウル)まで12000里」が正解らしいですね。

    • @user-hw9iw3pm3b
      @user-hw9iw3pm3b Před 3 měsíci

      倭人伝では邪馬台国について記述しているのに、魏の首都から帯方郡までの距離を記述してどうなるの?その主張はピンボケですよ。

    • @yoshikiyo608
      @yoshikiyo608 Před 3 měsíci

      @@user-hw9iw3pm3b 「魏の首都から帯方郡までの距離を記述してどうなるの?」原文(原書)読めばわかります、原書で他国の位置説明でも、この方法で「途中の経路」を表記してます。
      ただ、それでも位置不明の国家が複数存在するので頭が痛いのですが、

  • @wayamato9226
    @wayamato9226 Před rokem +1

    古事記に卑弥呼関係は出てこない〜卑弥呼系統は2代で滅ぼされた~だから古代歴史から消えて遺跡が残る『吉野ケ里』もうすぐ💀ヒミコが出る🥇金印あるよ~漢倭国王👑

  • @kooota7455
    @kooota7455 Před rokem +6

    個人的に・・・最近は阿波説に興味があります。
    神話関係の史跡がたくさんあるんだよね。

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před rokem +1

      里程は合うのかな?

    • @kooota7455
      @kooota7455 Před rokem +1

      どの説でも無理やり合わせてますよ(笑)

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před rokem +1

      @@kooota7455 さん
      古田武彦説は里程については基本的に矛盾がないと感じています。

    • @kooota7455
      @kooota7455 Před rokem +1

      @@user-og1hz5vr4q さん
      伊都国まではどの説でもほぼ一緒です。
      あとは以降の起点をどこにするか、日数で書かれている距離や方角をどう解釈するかで諸説分かれていますね。

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před rokem +2

      @@kooota7455 さん
      古田説では他説と異なり韓国内陸行ですけどね。

  • @user-iq6qn7ml4g
    @user-iq6qn7ml4g Před rokem +1

    宮崎高千穂ですね。霊気が川下流域に流れています。宮神様お答えします。呼ばれます。大和町へいたてが有ります。記しかな?やまたい?海の中に沈む国かな?移民自分たち北九州に香春の銅ならはた😅

  • @yjm1129
    @yjm1129 Před rokem +1

    帝(京平成)大

  • @user-jz4lg1io8c
    @user-jz4lg1io8c Před rokem +3

    まぁ邪馬台国が九州にあったとしても、天皇家とは関係ないんじゃないかな

  • @fjjpn0211
    @fjjpn0211 Před rokem +3

    近畿でも琵琶湖が海と言っている可能性ある

    • @qzp01467
      @qzp01467 Před rokem +1

      琵琶湖は奈良盆地から見たら北東だからな。

  • @user-vj4nd4hs8h
    @user-vj4nd4hs8h Před rokem +6

    徳島辺り(四国)と考えます。
    尚、邪馬台国・卑弥呼って?と思います。日の御子を卑弥呼と、魏の人が聴いて・書いたと考えます。

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před rokem

      日の甕依姫(ミカヨリヒメ)説を支持。

  • @giantszero6962
    @giantszero6962 Před rokem +1

    あくまで誤認か意図的な嘘か議論になる倭人伝方向の記述。
    倭人伝の作者はなんで地図をつけてくれなかったの?

  • @elelsse
    @elelsse Před rokem +7

    阿波・徳島説で間違いなし!!
    いい加減気づこうぜ。

  • @kabutarou39
    @kabutarou39 Před 10 měsíci +1

    阿波でしょ
    発掘させないから証拠は出ない

  • @user-dq4re5fw7y
    @user-dq4re5fw7y Před 8 měsíci +1

    卑弥呼は中臣氏の娘だ。中臣氏が倭国王朝10000年を西周に与えた。

  • @bokichi62
    @bokichi62 Před rokem +1

    卑弥呼は、卑弥と呼べば鮮卑族の弥が頭文字の人だよね。烏丸鮮卑東夷伝 も烏丸と鮮卑と東夷は別民族として表したものではない。

  • @user-fz1or6ck9d
    @user-fz1or6ck9d Před měsícem

    九州から阿波→大和に移動としか思えない。
    邪馬台国も『ヤマタイコク』出はなく元から『ヤマトコク』何じゃないの?。

  • @user-sh8tc8xw7m
    @user-sh8tc8xw7m Před rokem +1

    300年探して見つからないのだから、近畿でも、九州でもないのではないかな。小生はどちらでもない場所 四国松山説だが。お笑い芸人 工学博士 遼子規キンジロウ

  • @user-ym8hr9jd7l
    @user-ym8hr9jd7l Před rokem +4

    畿内だ九州だといってるのはネットだけで学会ではほぼ確定してるんですけどね

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před rokem +5

      じゃあ、どっちか言ってみろいw
      誰もが納得する証拠と一緒にね。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem

      @@user-og1hz5vr4q
      纏向遺跡に決まっています。誰もが納得する証拠ってもう宗教じみた論争になっているのだから反対派は何をいっても見ても信用しないでしょ。しかし冷静な考古学者は畿内だけに限らず九州の考古学者ですら纏向だといっています。いや九州の考古学者が一番よくわかっているでしょ。邪馬台国時代の九州の遺跡は衰退に入りそれまでの伝統、文化を捨て前方後円墳を取り入れて三角縁神獣鏡を埋葬しています。また北部九州には邪馬台国時代に入ってから畿内式土器が爆発的に増えます。2世紀と3世紀で時代の変化が如実に現れています。九州に邪馬台国があったなどネットだけにひろまっている陰謀論みたいなもの

    • @user-qs5wu6pv8t
      @user-qs5wu6pv8t Před 10 měsíci +2

      その学会の先生方が愚者の集まりだということに早く気付いてくださいね!

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před 10 měsíci

      @@user-qs5wu6pv8t
      さらにその上を勉強すれば九州説を唱えている人達がどれくらいいかがわしいかわかるよ。まだ考古学会のほうが信用できるレベル

  • @golden-bat
    @golden-bat Před rokem +5

    私も畿内説派。
    吉野ヶ里遺跡見たけどあれは弥生時代集落跡としか思えなかった。

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +5

      Mr.吉野ヶ里こと高島忠平氏は「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない」と白旗を挙げましたよ。現状吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だといってる考古学者は皆無です

    • @golden-bat
      @golden-bat Před rokem +1

      私の考えでは北部九州〜機内一帯にかけて邪馬台国では?なんて考えているwww
      邪馬台国の政権本部、今で言う東京霞が関的位置が機内にあって、箸墓古墳が卑弥呼の墓。
      吉野ヶ里遺辺りに貿易拠点や稲作場、今で言う御用牧場があったのではなんてアホみたいな考えをwww

    • @user-ym8hr9jd7l
      @user-ym8hr9jd7l Před rokem +2

      @@golden-bat
      まあどんな形かはハッキリとはわかりませんが考古学的にはもうヤマトで確定的ですけどね。
      それに慌てた狂信的九州説の古田史学の会やら邪馬台国連合の人達がネットやYou Tubeで活動したり躍起になって本を出版して世論誘導しようとしてるだけ。彼らにとっては飯の種だからね。
      あっこんなこと書いたらまた躍起になって彼らがやってくる。

    • @user-un4ss7ve6h
      @user-un4ss7ve6h Před rokem +2

      末盧国から伊都國行くならわざわざ上陸しなくても直接糸島半島へは行けると思いますし、末盧国(唐津付近)から糸島半島の伊都國までの方角も東南陸行500里とありますが、明らかに北東です。なので、方向的にはこの吉野ケ里も伊都國エリアで一大率が置かれてたのではと推測してます(¯―¯٥)

    • @amakun0115
      @amakun0115 Před rokem +1

      畿内説を言うなら貴方の考える具体的な根拠は何ですか?九州説には考古学的に幾つも根拠が発見されていますが、私は畿内説を言う人から具体的根拠を未だに聞けません。私はここのスレに対するコメント欄や他の人の返信欄で九州説の根拠を言っています。邪馬台国連合という考え方から北部九州説になります。あなたの考える邪馬台国は畿内のどこですか?もう纏向は発掘学者たちが白旗をあげていますよ。

  • @may23k68
    @may23k68 Před 10 měsíci

    九州以外の一択だな。

  • @user-hr3lm5tf5f
    @user-hr3lm5tf5f Před rokem +1

    宮内庁引っ込んでくれんかね。ちょっとくらい掘らせろww

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki Před rokem

      九州説なら卑弥呼の墓は陵墓じゃないんだからそんな事気にする必要ないのでは?

  • @user-zu7by5qv9f
    @user-zu7by5qv9f Před rokem +1

    卑弥呼は、台与と言う名前の娘が、居たはずでは?

    • @user-dv3fo5dm6c
      @user-dv3fo5dm6c Před rokem +6

      後継者なだけで娘ではないですね

    • @zakialz1307
      @zakialz1307 Před 3 měsíci

      卑彌呼の娘では無く親族です!。