【ゆっくり解説】毛利元就三子教訓状の裏に隠された三兄弟確執の闇

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  • čas přidán 26. 10. 2023
  • ・冒頭で紹介しているすがぬまたつやさんの四コマ漫画はこちらから↓
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    今回は「三本の矢」で有名な毛利元就の息子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の兄弟間の結束が実際はどうであったのかについて、「三子教訓状」を手始めにして元就や隆元の書状から解説していきます。
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Komentáře • 39

  • @user-mw9yf5yi9z
    @user-mw9yf5yi9z Před 8 měsíci +15

    隆元亡くなってから商人が毛利家に金貸し渋ったって逸話あるよね

  • @user-vs2fo2bx9p
    @user-vs2fo2bx9p Před 8 měsíci +11

    虫ケラと呼んだ元就の息子の小早川秀包、
    穂井田元清とその息子の毛利秀元、
    毛利元氏あたりも有能だった。

  • @user-gz9sc1dt8c
    @user-gz9sc1dt8c Před 8 měsíci +10

    毛利元就の教えは、大内家(有力な血族を欠き、最終的に家臣団の内紛で滅んだ)や、尼子家(三男に反乱起こされたり、次男の家を粛清したりして、弱体化)の失敗を見たからではないのかなと
    特に尼子家の場合は、塩冶家を取り込むべく送り込んだ、経久の三男の塩冶興久が待遇の不満を原因として反乱を起こしたが、これは元就に対して隆景が反乱を起こしたようなものだし
    増長していた経久の次男の国久の家系である新宮党を、経久の孫の晴久が粛清したのは、輝元が吉川家を粛清したようなもので、
    この尼子家の親族の不仲さを見ていた元就が教訓にしていたとしてもおかしくない
    ついでに言うと、経久の長男政久が早逝し、孫の晴久が後継者になったあたりは、元就~隆元~輝元の権力継承に被るわ

  • @user-uj8qv8kb6h
    @user-uj8qv8kb6h Před 8 měsíci +17

    個人的な意見だけど毛利が輝元の代で落ちぶれたのは隆元の死去の影響も大きいと思う。

  • @ai_love_fox
    @ai_love_fox Před 8 měsíci +1

    今回からは毛利シリーズですね!輝元の関ヶ原の関わりが聞けると思うと今からワクワクです!

  • @essauouo5251
    @essauouo5251 Před 8 měsíci +2

    三矢体制になってからも、山陰の国人は大朝に、山陽の国人は三原に人質を入れて各々で軍団を組んでますし、幕末でも岩国吉川と萩毛利はそれぞれ独自判断で動いてますから、このあたりは最後まで解消されなかった話なのかも。

  • @user-lm6lu8ob1t
    @user-lm6lu8ob1t Před 8 měsíci +7

    小早川隆景には、様々な事情が想像されます。
    小早川家に入嗣したのは、竹原家で分家の当主に立てられました。
    その後、本家の沼田小早川家も襲封しました。
    結果、小早川隆景の範図は現在の広島県で見ると、竹原市三原市を中心に尾道市、御調郡や豊田郡の一部に及びました。
    両小早川家には、独立した家臣団がいて、東に寺社公家領と接し、更には安芸備後に股がる境目の国衆と言った立場が待っていました。
    又、小早川家は鎌倉時代よりの名家の一つで、地元の寺社に残された記録も膨大です。
    更に、自身が未経験な水軍の統括や戦の仕方等、知識の充足に当てる時間もなかなかですね。
    四十年位前、三原市小坂町高坂町沼田東町、竹原市の東側の古寺社を歩いて、独立した国衆の地元支配と費やした労力って大変なものだと思いました。
    更には、沼田小早川家は、支族の小(古)泉氏が足利義満に、日明貿易を提案した実績等、中央との繋がり、かなりのインテリジェンスを伴った繋がりもある国衆です。
    なかなかに、大変な時を過ごしたって考えます。

  • @user-ic8kq8xe7j
    @user-ic8kq8xe7j Před 8 měsíci +6

    応仁の乱いこう家康の江戸幕府まで多くの天才武将が生まれたが小早川隆景は頭一つ抜けてる天才児、長兄や本家を立てすぎて埋もれてるが、嚢中の錐のように才能が歴史に突き抜けてる。毛利本家家臣団からすると有能すぎてマジで目障り。

    • @kazuoka1143
      @kazuoka1143 Před 19 dny

      隆景が長男だったらよかったのにと隆元すら思っていた気配がありますが、単純な才能ではなく取り巻く環境の差も大きかったので、順番が入れ替わっても上手くいかない可能性も高いかなと思います。
      長男と末っ子の差であったり、人質生活と分家で自由に裁量を振るえた立場の差などは本人たちの人格形成に大きく影響を与えたと思います。

  • @Chaikaist
    @Chaikaist Před 8 měsíci +3

    隆元が急死せずに当主であったら、織田は中国攻めの際に小早川、吉川との離間を狙って色々やっただろうな。黒田官兵衛が大活躍したかも。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci +1

      コメントありがとうございます!信長はそういった隙は逃しませんからね。

  • @ryjr4018
    @ryjr4018 Před 8 měsíci +3

    まあライバルである尼子家が経久晴久の全方位敵対ムーブもあるとはいえ
    息子の塩治興久が西出雲・北備後国衆に担がれて危うく滅びかけた例があるので両川はまず家中での自分の立ち位置を固める必要があったのかもしれないですね
    特に吉川は当主を降ろした形で元春を貰った家だし

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci

      コメントありがとうございます!家臣あっての当主ですから一刻も早く家中での基盤を確立したい思考優先になるのは仕方ない感はありますよね。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu Před 8 měsíci +5

    隆元「命を捧げても良いから、親父の無病息災をオナシャス!」
    親父は無事?70代で子供を作れるくらい元気に長生きした模様

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci +1

      息子の生命力をエナジードレインしたんですかね😅

  • @user-kn4pq8ib2c
    @user-kn4pq8ib2c Před měsícem +1

    隆元が早死にしなければ、関ヶ原の失態も無かった。

  • @akita9957
    @akita9957 Před 8 měsíci +3

    「しかし例え三本の矢と言えども、予期せぬ強い力を受ければ、折れる!」

  • @user-ye6cd7ll4d
    @user-ye6cd7ll4d Před 2 měsíci

    人質時代に全盛期の大内家で先進文化と大所領の経営を学び、急激に大きくなった毛利家の行政改革を行う隆元と、元就と弟との温度差や認識の差がきつかったんだろうな

  • @user-og8kx4ih7c
    @user-og8kx4ih7c Před 8 měsíci +1

    この時点ですでに仲が悪かったのか・・・このせいで後で猛烈にもめることに

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci

      コメントありがとうございます!お互いの認識のズレみたいなところがあった感じですね。

  • @user-ep8yo7zy9m
    @user-ep8yo7zy9m Před 8 měsíci +1

    隆元が卑屈すぎるから無視されてるように感じてるのか無視された結果卑屈さが更に増していったのか......
    元春は父に相談せずに勝手に恋愛結婚する人だし我が道を往くキャラなのはよくわかる
    元就が四男以下を低く見たのは異母弟を殺してしまったトラウマかもしれないですね(単に三兄弟と歳が離れすぎて武将としてまだまだみたいな話かもしれないけど)

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci

      コメントありがとうございます!虫けら発言は成人していっぱしの人間になれば憐れんで適当な領地を与えてほしいとゆう元就なりの親心の表れなんですよね。言い方はともかく。

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p Před 7 měsíci +1

    特に隆景は2系統の小早川家を
    併せて継いだので大変だったと
    思いますね。安芸という豊かな地域を面として実効的に支配するには
    間違い無く三兄弟、つまり家臣を含めた三つの家が協力する事は必須だったと思いますね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 7 měsíci

      コメントありがとうございます!毛利は国衆の統制にも苦労していましたからなおさら兄弟間の団結が必要だったんでしょうね。

  • @user-he5kn8vy3o
    @user-he5kn8vy3o Před 8 měsíci

    まぁ、人は上り調子の時に己を誇示したくなるものだからなぁ。そこでボタンの掛け違いが起きやすく、変になる事も多い。
    かといって謙虚にして爪を隠していると舐められることもある。その辺のバランスって難しいね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci

      コメントありがとうございます!本当にそうなんですよね😅

  • @rotriot367
    @rotriot367 Před 5 měsíci

    元就の治世から当主権力の強化はしてたけど、確実になったのは関ヶ原後だと思う

  • @user-ub7tt4gl8y
    @user-ub7tt4gl8y Před 8 měsíci +6

    元就の四男への虫けら発言は「(側室腹だから立場弱い)虫けらだからお前ら三人丁重に扱ってくれよ」みたいな表現なんですよね→三子教訓状にて
    隆元死の直後の隆景書状で「父の心中は予想以上に深刻です…『やる気もう出ない。かくなる上はもう死にたい、隆元の後を追うのが本望だ』と申しておりました。元春と私は非常に心配です。最近も『戦終わって帰れたらもうどんな形でも良いから出家するなりでどこへなりとも行きたい』とまで…もう我々二人のことはどうでも良い様子でどうしようもないほど落ちぶれてしまいました…」ってのもあるようで(下関市立歴史博物館所蔵) ここから自分の家より本家の為にと覚悟決めたんかなぁ

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci +2

      コメントありがとうございます!おっしゃるように虫けら発言の全体的な趣旨はそんな感じですよね。言い方はアレですけど元就なりの愛情表現かもです。隆元に対してはなんだかんだで後継者として期待していたんでその死は痛恨事だったんでしょうね😥

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p Před 8 měsíci

    難しいな前田家ほどの絶対恭順をせずに毛利や上杉や宇喜多が生き残れたとも思えない。前田は信長時代から関係深い徳川だから必要な判断が出来たけど秀吉政権下で同伴したに過ぎない毛利には時代が味方しなかった以上この残り方は良くやった方に思えますね。あと輝元と景勝は実年齢はそこまで違わないけど当主としては家康の子供世代だから太刀打ち出来なかったのは仕方ないような

    • @user-ml5px7br2j
      @user-ml5px7br2j Před 5 měsíci

      輝元は関ケ原の戦を契機として三成から任された大坂城の乗っ取りを企んでも不思議ではないです。本能寺変の後から吉川家と小早川家では秀吉に対する考え方に明らかに深い溝があったのだし、それを見透かされた秀吉からは親類として薬籠中にした徳川家と違って両川分断、毛利家弱体化を謀られたのだし。

    • @kazuoka1143
      @kazuoka1143 Před 19 dny

      創業者として自分のカリスマで引っ張っていける立場と、二世としてあちこちに配慮しながら進めていかないといけない立場は全く異なりますからね。絶対恭順をしようにも、それをすると家臣団が分裂する可能性も高い。

  • @user-mq5gx3rh6y
    @user-mq5gx3rh6y Před 8 měsíci

    後年の話になりますが、隆景が秀秋を養子にした経緯も通説とはずいぶん異なるようです。一般的には隆景が毛利家を守った美談のように語られますが、実は小早川家の家格上昇を狙っていたんじゃないかという気がしないでもないです。豊臣家に臣従してから輝元は毛利家の中央集権化をすすめているので、それへの対抗策といいますか。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci

      コメントありがとうございます!そういった話もありますよね。隆景神話の創作というか。

  • @user-th8rx3uq3z
    @user-th8rx3uq3z Před 8 měsíci

    12:05
    吉川家の家臣団や小早川家の家臣団の解体に元就が乗る気ではなかったのは治めている土地の統治は元からいた人達に任せた方が面倒事が少なく
    下手に解体して別の人に任せてしまえば反発が起きて一揆に繋がりその隙を尼子などの周辺勢力に漬け込まれる事を恐れていたからなのではないだろうか
    もしくは素早く大きく領土を拡大するために自立性は強くなろうとも家臣団もろとも取り込んでいく方が良いと考えたのかもしれない
    一国人の立場から中国地方の覇者にまでほほ元就一代で大きくしたのだから毛利を中心とした権力集中政権はややおざなりにされた一面はあるかもね

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 8 měsíci +1

      コメントありがとうございます!国衆の家臣団を解体して直接支配に組み込むのは戦国大名にとって統治コストが高くついてしまい非効率的だという側面はありますよね。

    • @kazuoka1143
      @kazuoka1143 Před 19 dny +1

      臣従しても土地の統治権は残る場合と、土地の統治権を奪われる場合では、相手の抵抗は全く違いますから。
      当時の国人衆は忠誠心よりも領土の保証の方が優先されたと思うので、毛利家に臣従しても領土を失わないと分かっていれば寝返るものも多く期待できたのではと思います。