小早川隆景、毛利家を支え、秀吉にも重用された知略|毛利家当主が語る
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- čas přidán 19. 05. 2022
- 毛利の両川と名高い毛利元就の次男「吉川元春」と三男「小早川隆景」ですが、すごく強かったということ以外は、
どんな人だったのか?
何をしたのか?
まで具体的に知っている人は少ないのではないでしょうか。
小早川隆景は知略に優れ、豊臣秀吉が天下を取ってからは、そのブレーンとして非常に徴用されました。
この動画では、そんな小早川隆景について、毛利元就の子孫である徳山毛利家第14代当主の毛利就慶氏が解説します。
日本の歴史が動くとき、そこに毛利あり。
鎌倉政権樹立
天下分け目の関ヶ原
明治維新 etc…
毛利家は日本の歴史の大きなターニングポイントに深く関与してきた大名家です。
このチャンネルでは、徳山毛利家第14代当主の毛利就慶氏が、当事者ならではの裏話や秘話も織り交ぜながら、日本史への興味を掻き立てるような動画をお届けします。
大名家の当主が現代日本においてどのように暮らし、何を思うのか、等身大でありのままの姿でお伝えしてまいります。
「こんな話を聞きたい」というようなご意見ご要望は、ぜひ各動画のコメント欄にお寄せください。
毛利就慶氏への講演依頼も承ります。
なお、毛利就慶氏は歴史家ではなく、毛利家に伝わる言い伝えや独学の情報を基にお話ししていますので、動画で話す内容の真偽を保証するものではございません。
ご理解の上、楽しくご覧いただけますと幸いです。
当チャンネルを通じて歴史を学ぶことで、日本に関心を持ち、ひいては日本やその先人たちを誇らしく思う、そんな方が1人でも増えれば望外の喜びです。
公式webサイト
mouri-rekishi.com/
このチャンネルは小説家の中川秀彦氏のご支援、視聴者様からの投げ銭、Google広告掲載料によって運営されています。応援のほど、よろしくお願いいたします。
『神に選ばれた男 児玉源太郎』中川 秀彦 (著)
この小説の主人公、児玉源太郎大将は、毛利家歴史チャンネルの語り手、毛利就慶氏が当主である徳山藩の武士でした。
ウイルスの概念もない明治末期に「検疫の大切さ」を理解していた軍人がいた。日露戦争を勝利に導いた名将にして、武力に頼らず台湾を近代化に導いた偉大な政治家でもある児玉源太郎。 その活躍と人生を余すことなく語り尽くす。
amzn.to/3aJqNiH
#日本史 #毛利 #山口県 #徳山 #教養 #大名 #末裔 #歴史 #戦国大名 #明治維新 #戦国時代
ぜひ他の動画もお楽しみください^^
再生リスト:毛利家のできごと
czcams.com/play/PLs52PWs0zP30kzLR4pJafXOXoVDgcHer0.html
非常に面白く拝見いたしました。妻の実家は沼田本郷の隆景公の家臣(飯田氏)と言われている家で、私は婿に入った者です。原爆被害時に妻の祖父は入市被爆し、後遺症の医療費等に使用するため、残念ながら家系図や鎧兜は手放してしまったので現存しませんが、小早川の家臣であることを誇りに頑張って生き抜いてきました。ちなみに同じ町の親戚には、宗治公の子孫と言われている方もいます。その親戚と妻は、以前は行政に勤務しており、税金を納めないアウトローな住民から租税の取り立てを行うなど、ある意味武勇伝というべきエピソードが残っています。さすがは小早川家家臣だと聞いた当時は思いました。
今後も楽しみに拝見いたします。よろしくお願いいたします。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
素晴らしいお家に入られたのですね。
しかし、原爆の話は本当に辛いものがありますね。 伝来のものを手放す気持ちはいかばかりかと存じます。
そして、清水家のご子孫とのエピソードも実に興味深いです‼️
これも、ご縁と思います。
今後とも、宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
小早川隆景は秀吉だけでなく、当時の武将から大変に評価されていましたね。
黒田官兵衛からは「随一の賢人」、鍋島直茂からは「天下の名人」、立花宗茂からは義父として尊敬を受けていたようです。
大好きな武将です。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
嬉しい評価です‼️
多々、名高い武将から賛辞を送られる隆景。 一族の中でも特別な存在です。
今後も、色々とご意見ください🙇宜しくお願いします⤴️⤴️⤴️
小早川隆景の肖像画を見たことありますが、若いときはめちゃくちゃモテてたんだろうな、というくらいカッコいいと思いました。
毛利元就にも顔が似てるので、元就もカッコよかったのではないかと思います。
でしょうか⁉️ですね‼️
私も、親子共々、イケメンだったと思います。 そして、思慮深そうな感じです(笑)
小早川隆景が毛利家最強という殿の意見には自分も同意しますが、自分が理由としているのは兄の吉川元春と違い、織田軍に何度か大敗しているのがその理由と考えています。
なぜ敗北したのに最強なのかというと、元春のコメントで朝倉宗滴の言葉を紹介しましたが、隆景は織田軍に負けて武将として成長していると思うんですね。負けたからこそ信長、秀吉との向かい合い方が見えた。元春はなまじ秀吉に中途半端に勝ってしまい、旧来の自分の方向性を変えることが出来なかった。
それが豊臣政権での吉川、小早川両家の待遇に大きく差がついた理由ではないかと思うんですね。
個人的に自分が戦国最強と思う武将は、月並みかも知れませんが織田信長その人ではないかと。生涯戦績5割なのになぜ戦国最強なのかと言うと、生涯戦績5割のくせに天下に王手をかけたからです。そこから豊臣、徳川へと繋がった。これこそ最強ではないですか。つまり、負けるたびに強くなっていったんです。
自分は越後人なので上杉謙信びいきですが、客観的に見ると上杉謙信ではなく以上の理由で織田信長が最強に見えてしまうんですよね・・・😅
越後で謙信びいきなんですね👍️
それでも、信長が最強である所以、納得しました。
負けて強くなる、その節にはとても説得力があるかと。 元春は最後まで、強がりましたからね(笑)
負けて勝つことも大事。家康は信玄に負けて多くを悟ったと思います。
ただ、その信長と刀を交えた戦国大名家で今なお、残る家は上杉と毛利であることを考えると、この2家もなかなかですよね👍️
先ほど小早川隆景の家督を継いだ「小早川秀秋」の人物伝読みました
ドラマ等に出てくる秀秋のイメージと本の記述との乖離が激しかった。
隆景の偉大さが大きく取り上げてもおりました。
ますます歴史がおもしろいです。
お疲れ様です‼️ そうなんです。ここでは、少しドラマ的に話しておりますが。秀秋に関しては、実は聡明な君主であったとされる文献が多々みられます。 その様な、事も今後は題材に取り上げて参りたいです‼️
動画有難うございます。
小早川隆景といえば仁将のようなイメージですが三村家や来島村上家への対応のように果断な対応も行う事ができたのが素晴らしいと思っています。
自分で対応する事で主家へのイメージを守りたかったのでしょうね。本当に素晴らしい人物です。
いつも、メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️ そうなんです、彼は非常に非情なクールな面も多分に持ち合わせていました。 それでいて、甥を立て続けたこと。まさに、仰る通りです‼️
お疲れ様です。
今回も分かりやすくお話頂いて勉強になりました👍✨
ありがとうございました。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
拙いお話で、お恥ずかしい限りですが、引き続き頑張って参ります。宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
新動画お待ちしておりました。
今週も更にマニアックで楽しく学びさせていただいております。
来週はどんな逸話か待ち遠しいです。
いつもいつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 更に、お勉強されてる由、感心しております。 ご期待に添えるように頑張ります‼️
この方が関ヶ原まで存命だったら というのは日本史のIFの一つとして 大変興味深いですね
そうなんですよ、、、。
隆景がもし、、、、。見てみたい、その時を‼️
隆景公は立花宗茂公(小早川秀包の親友)や弟・穂田元清公を可愛がり優しいイメージしかありませんが、そんな隆景公が輝元公を殴るくらい厳しかったのはやはり大国 の国主・毛利家の当主として支藩や一族郎党を支える器量に育てるための愛のムチだと思います😃
しかし輝元公も少し優柔不断だったのでは...😅😅
私の友人に神戸で世界を舞台に茶の湯を広げている隆景公の末裔と伝わる小早川さんがおり私の知己で毛利家に縁のある方はこの人だけでしたが、この度徳山公に知り合えました、ありがとうございます😃
メッセージありがとうございます❗
はい、隆景公は周りの武将に慕われる素晴らしい武将でした。また、秀包の養父としても、温かく、それゆえ秀包も名将になりえたのだと思っております。ただ、輝元の躾となると別(笑) 大国を背負う彼のためにも鉄拳制裁だったんですね。それしては、、、ですが、お許しください。
小早川の血縁の方とお知り合いとのこと、是非、宜しくお伝えください。
もしかしたら、以前に動画でその方からコメント頂いたかも知れません‼️
@@mourihistory さま
了解致しました😃
輝元公、いや「毛利氏」の一番の悲劇は隆景公が関ヶ原まで生きていてくれたら毛利氏は「毛利幕府」を拓けたのではないか?と思うくらいの大きな存在でこの時に両川に
元春、隆景に匹敵する人物がいなかったことが一番痛かったですねm(__)m
因みに隆景公の室の墓所は山口市小鯖にございますm(__)m
隆景に跡継ぎが産まれ出たら
全く。その通りです。 彼に跡継ぎが生まれていたら、歴史もまた違ったことになったに違いありません‼️
小早川隆景
は、父の毛利元就の智謀を引継いでるようなようだと思います。
長命であれば
関ヶ原合戦は、毛利一族がまとまり良い結果が出たかもしれないと思います。
毛利一族の中でも
毛利秀元、毛利秀包、毛利元康は、
優秀な武将だったそうですから。
西国一の身代、
とてつもない軍事動員力、小早川隆景の智謀、毛利一族の優秀な武将等を考えれば
徳川家康も踏ん切りがつかないと思いますね。
毛利一族の所領周辺の他の大名もなかなか手出しできませんから。
九州の大名も
毛利に従うしかありませんかね。
黒田官兵衛は、毛利側に付けば
怖いものなし
したがって黒田官兵衛を慕う加藤清正は、毛利側となり、中国、九州は、
毛利側
隣の宇喜多秀家も毛利側に一味
機内は、豊臣の勢力
歴史にイフがと想像してしまいます。
小早川隆景と言う武将は、歴史を変えたかもしれませんね。
素晴らしいシミュレーションをありがとうございます⤴️⤴️⤴️⤴️
本当に、そうなる可能性が、小早川隆景にはあったと思います。嬉しい イフ でした‼️
隆景が幼い輝元を殴るのはドラマとして絵になる場面だと思います。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
仰る通りです。 是非、小早川の大河ドラマの企画でも持ち上がればとセツに願っています‼️ 今後とも宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
毛利輝元への愛(教育)はしっかりと受けてると思います。関ヶ原後の毛利家でよく分かります。西軍の総帥として知られていますがその後です!!何かで読んだんですけど元就は溺愛したからですかねぇ
メッセージありがとうございます‼️
輝元は、確かに教育と愛情はたっぷり受けたと思います。 そして、ご指摘のように、元就の教育はやはり、子供に対してと言うよりは、可愛い孫に対するものだったと。。。いつの時代も孫は可愛いのでしょうか。 しかし、今の毛利家が残ったのは輝元のお陰である事も確かです‼️
毛利家の三道戦略流石ですね。秀吉ね朝鮮出兵は現代のウクライナ侵攻に重なりますね。ロシア側にも秀吉プーチン 隆景モロトフ イワン清正みたいな人物もいるのではないかと思った次第。歴史に学べばなんとなくウクライナの終結が見えてきそうです。不思議と歴史とシンクロする事象は多々あることで隆景の時代と幕末及び現代の事象と対比して見るのも歴史の醍醐味。毛利家の歴史が現代の雛型になっていると妄想している今日この頃。
流石‼️刀禰さん。
現代の世界状勢と鑑みてみると、なるほどですね。 過去を知ってこそ未來の展望は拓けるとは、良く言ったものですね。
気を付けて、比較検証するのも一興ですね🎵
小早川家の子孫は、今も三原に健在ですか
元々、マツダ自動車の役員をされていました。今は、東京だったかと思います。
宍戸隆家の解説も是非ともお願いしたいです🙇♂️
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい。宍戸家に関してのリクエストは結構ありますので、どこかでお話させていただきます‼️ 今後も宜しくお願い致します⤴️⤴️⤴️
分かりやすく解説頂きありがとうございます!
三道政策のところですが、何れかの本で三道並進策と説明されているのを読んだ記憶が御座います。
隆景さん関連ですと、名島城跡は行ったことがありますね。すぐ目の前が海(博多湾)ですので、水軍が出入りするには都合がいいのかなとは思いました。三原や竹原のお城も恐らく似たような構造なのですよね。
ご同族様‼️いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️ そうなんです、彼の城は海城で三原城なんかは、秀吉や官兵衛から絶賛されたと言います。 築城もまた、プロフェッショナルだったんだと思います。しかし、色々と行かれてますね‼️
民草1️⃣号: 確かに毛利の為に小早川、吉川の両川は凄い働きですね。
他にも毛利方として鳥取で毛利の名誉の為に自害した吉川経家の遺言書の事を59年前に、当時の歴史クラブの蜂須賀先生に教わった事を思い出しました。
殿、是非毛利一門の本を執筆して下さい。
本当に両川は毛利の支柱でありながら、独立した名流でもあります。
吉川経家公には、感謝しても感謝しきれません。。。 因みに、視聴者さんから教えて頂いたのですが、五代目三遊亭円楽さんは子孫に当たるらしいです。
歴史クラブに所属とは素晴らしいですね👍️
毛利秀包の動画はありますか?
メッセージありがとうございます‼️
今後に、必ず動画を撮りたいと思っております。彼もまた、名将ですよね❗
日本の歴史上でも毛利元就・吉川元春・小早川隆景という尋常ではない武将から同時に教育された人物は毛利輝元公しか存在しないと思います。そう言った点では、関ヶ原だけで評価されがちな輝元公に対しては特別な想いがあります。
晩年の秀吉公はサルだけに太鼓を叩くサルの玩具のように滑稽ですね。地元風に言うと「おみゃあさん滑稽だぎゃあ」です^^;
いつも、メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうですね、それだけの名将に可愛がられ、育てられたのは輝元だけだったかも知れませんね。輝元の評価は本当に多々あると思います。でも、そう言う風に援護して貰えると嬉しいです。 秀吉も、天下人となり、とち狂ってしまわなければと思います。流石、地元‼️勉強になります‼️
下関の唐戸近くにも、引接寺(いんじょうじ)と言って隆景さんの菩提寺があるので、楽しく拝見しました。が、2箇所
字幕の間違いに気づいてしまいました🥲中国の民→明、ろう城は籠城が正しいですよ!寛容な心が持てなくてすみません(笑)次回の配信お待ちしています❣️
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
えええ、唐戸の近くにですか?それは知りませんでした。 今度、参りたいと思います。 そして、誤字。 汗顔の至り。 気を付けてアップいたします👮
@@mourihistory
唐戸近くの引接寺は、隆景さんの遺言で秀秋さんが建立と聞いていたのですが、案内板には藤堂高虎建立と
なっているので、どっちが正しいのでしょうね?何となく頼りなさそうな(笑)秀秋さんが、高虎をたよった(?)
とかもあるかもなどと勝手に思ってますが……。
ドラマ黒田官兵衛の鶴見辰吾さんが残ります。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
知的で格好良かったですよね‼️
殿 よく勉強されている
お褒めに預かり🙇
こんばんは^_^動画拝見しました。
隆景公が調略に優れていた事はたぶん有名な話だと思います。
朝鮮出兵の際も前線で指揮していたと。
ただ出兵前にあらゆる事について情報収集しその上で出兵していたならば隆景公自身もやり易かったのではないかと感じます。
関ヶ原においても毛利軍の大将を秀元公ではなく隆景公であれば歴史は変わっていたと私も思います。
隆景公には実子がいなかったと聞いていますが、間違っていたならばすいません。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️遅くなってスミマセン‼️
そうですね、あの当時隆景の所領は福岡だったこともあり、朝鮮出兵以前の明、朝鮮との水面下の交渉に関しては、対馬の宗家を通して、不戦に導くことを第一として交渉させ、現地の情報収集も多少はしていたようです。それだけに、出兵には大反対だったようです。
そして、秀元ではなく、彼が陣頭指揮したら大きく変わっていたこと間違いありませんよね。
そして、隆景には養子として可愛がっていた、秀包と言う元就の9男が跡継ぎとしておりました。非常に周囲の大名からも信頼された名将だったようです。
泣く泣く、太閤の甥を貰った胸中や如何ばかりかと、察するに余りあります❗
長い返事になりました(笑)
山口市小鯖の秦雲寺に小早川隆景夫妻の供養塔がありますね。また、私の家の近所に奥方(問田大方)が住んでいたという地区があります。
義隆公‼️ またまた、耳よりな情報をありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 問田の大方が住んでた所とは??
隆景の死後、問田大方は問田益田氏の所領地である現在山口市大内問田に住んだみたいですが念のために現地に確認しに行ったら「武家屋敷跡」と書いた立看板があるだけで屋敷跡も何処か分からず民家と田畑があるだけでしたね。
秀吉死後に隆景が存命していたら、家康に付け入る隙を与えなかっただろうな。万が一家康が秋波を送っても動かなかったろうし、そんなのは家康もわかってたろうから、野心の虫も起こせなかっただろうね。隆景は山口組で言うところの岸本才三総本部長だね。無心で組織を1枚岩にすることを第一義に考えた人物のようだからね。重鎮達が次々に死んで行った家康の星の強さはやばいですね。
コメントありがとうございます!
最近、隆景は最低だと言う動画があるとの事で見させられて、凹んでたんです。。
そんな中で嬉しいです。僕もそう思います。そして、岸本さんて、あの髭の人ですかね。 そうなんだ、見た目も渋いが役割も渋い❗ そして、運も実力なのか、最後まで生き残った家康は凄いですよね。
czcams.com/video/B4mHjIIJI3g/video.html
いつも面白い動画、ありがとうございます。
上記の動画なのですが、小早川さんという方が出られているのですが、隆景公の末裔ということで、ご存知でしょうか?
お久しぶりです‼️コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️ 初めて知りました。
小早川家は、明治維新に萩宗家の方がご養子に行かれて再興されました。そして、男爵に叙されています。 そのご子孫は、マツダの重役までされて今は、悠々自適の生活をされています。
きっと、何かしらのご縁があるとは思いますが、、、、。
保身と私利私欲小早川隆景の愚行
czcams.com/video/5DHKlSMmkrk/video.html
参考にします。
隆景公の血を引いた子供がいればなあ。
そうなの、、、、大きく、歴史も変わっていたと思います。 一応、明治で復活はしてるんですけどね。
お子さんがいれば良かったのにと思います!
メッセージありがとうございます‼️
そうですよね。 ただ、隆景は元就の9男の秀包と言うのを養子にして可愛がっていました。しかし、秀秋の事で、別家を建てさせることにして、彼は毛利一門となりました。 彼が小早川を継いだらまた、歴史も変わってたと思います。
秀包氏に大変興味があります。
殿、伊藤です。
殿のご先祖の事、調べてみました。
輝元公が、夫人拉致で、隆景公は、大激怒して、輝元公を、しばき倒したって、本当ですか?
いつも、ありがとうございます。
この件は、非常にナイーブで未だにここ山口では、郷土史家などが輝元をディスったり、擁護したりと侃々諤々やっております、、、。 藩祖の出生にも及ぶ話なので、、、。なかなか、答えづらい❗
@@mourihistory 殿、自分も、山口県出身なのと、ご先祖の事なので、答えが、出ない事は、解りました、すみませんでした。
いや、全然気になさらないでください❗
そこに、気づかれて当然と言うか、流石と思いました。 この、毛利家の二の丸様の話しは本当に根が深いんですよね。