【悲惨な結末】関ヶ原の戦い、西軍の敗者達の残酷な人生!歴史解説!
Vložit
- čas přidán 16. 12. 2022
- 日本の有名な合戦といえば?と問われた時、多くの人が関ヶ原の戦いをあげます。東軍の徳川家康が勝利し、天下人への階段をあがった戦いです。対する西軍、石田三成に味方をした将達はどのような人生を向かることになったのか。今回はあまりスポットのあたらない敗者側の西軍の将達について解説しました。教科書では教えてくれない歴史の1ページをお楽しみください。
■出演
・踊舞(名古屋おもてなし武将隊)
■ナレーション
・なつ(名古屋おもてなし武将隊)
■企画制作/ほまれWORK
work.homare@gmail.com
【出演団体紹介】
■名古屋おもてなし武将隊HP ぜひ、名古屋城に会いにきてください。
busho-tai.jp/
結成12周年記念オリジナルソング「我らサムライ、皆もサムライ」
• 【名古屋おもてなし武将隊】祝12周年!『我ら...
【関連サイト】
■Blog版 戦国雑記帳
sengoku-note.jp/wp/
■歴史を演じる 歴史を分かりやすく、演じて表現しています。
ぜひ、ご覧ください。
• 【1位は●●】戦国時代の武器TOP5!戦いで...
#歴史,#日本の歴史,#関ヶ原の戦い
大谷吉継様とその家臣湯浅五助様、藤堂高刑様のエピソードは泣けます😭
あと立花宗茂のエピソードとして、大坂城から本国の柳川に帰参する道中で同じ西軍であり他の西軍の軍勢が壊滅して敗走して行く中東軍に向かって敵中突破して本国薩摩に帰る島津義弘の一行に遭遇したした時の話でこの様な話がありました。義弘一行は例の敵中突破で僅か数十騎しかおらず殆どの兵士が負傷していて道中を進むだけで精一杯の状態だったのだが、それを目撃した宗茂の家臣は先の岩屋城の戦いで討ち死にした宗茂の養父である高橋紹運の仇である島津を討つ好機だと宗茂に進言しました。ところが宗茂は進言してきた血気早る家臣達に「戦いで傷付いた者に更に追い討ちを掛けるのは武門として恥じる事で、それが幾ら恩義ある者の仇だとしてもだ。それにこの様な形で仇討ちしても、主家を衛る為に岩屋城で討ち死にした(高橋)紹運公一門の死に報いる事が出来ぬばかりか末代迄恥を遺して祟られるのだぞ。」と諫めたそうです。その恩義もあって、島津氏は立花氏の大名復帰に尽力を尽くされたそうな。
かっけぇ。素晴らしい方てすね。この方のような上司がいれば、いや総理大臣がいればと思います。
高橋紹運は養父ではなく、実父ですよ
まぁ、有名な話だけどそもそも同じ西軍なわけだし、助ける方が筋だと思うが・・・・。
@@user-il8fq1zg3w 同じ西軍でも立花宗茂は最初から西軍に与していたのだけど、島津義弘は元々島津軍が羽柴秀吉の軍勢と戦って敗れて軍門に降った経緯から秀吉とは距離を置いていたので東軍としての立場だったのだが…。徳川家康の要請で石田三成が挙兵して東進するのを遅らせる役割を担っていたのだけど、予想以上に三成の動きが迅速だった事から間に合わずに西軍に取り囲まれてしまいそのまま西軍に合流せざるを得なかったからな。その証左で本戦中は中立の立場で一切動かずに、双方の軍勢を追い払っていました。だから宗茂も武士道の筋だとは分かっているが、家臣達同様父親が壮絶な最期を遂げた岩屋城の件や西軍敗戦の一因となった義弘の本戦中の行動には本当に許すまじと誰よりも思いがあったのだろうと思う。
負け戦の後の仲間割れにもなるし、そんな恥ずかしい真似は出来なかったのだろう。
楽しく拝聴させて頂きました。
武士の強く美しい生き方が良く判りました。それぞれがドラマになりそうな話しですね。いつもながら素晴らしい解説です。お見事!
いつも楽しく観させて頂いております。更新が毎日待ち遠しいです!
宇喜多秀家は1655年まで生き、福島正則は1624年まで生きた。秀家が老人になる頃、正則は生きていないよね。
そうなんですね。
信じてしまいました😢
ありがとうございます!
先日、関ヶ原を初めてじっくり見学してきました
基本 田畑ばかりの土地なのでそれが返って当時の元風景そのままな感じを残し 良かったですね
数年前に建てられた岐阜県関ヶ原古戦場記念館はもう少し展示物充実してくれると良かったかな(特にこの辺で発掘されたであろう 武器や弾、それから遺骨の一部等)、そこは少し不満でしたが、
体感型シアターは内容、演出共に分かりやすく、迫力もありとても良かったです🙂
11:39 立花宗茂は約11万石の大名として復帰ですよ。西軍で参戦して改易され旧領に返り咲いた唯一の大名です。
32万石は宗茂の前の田中吉政親子の代ですね。
演者、ナレーション、構成 全てがクオリティ高いですね!今後も続けてほしいです!
西軍も歴戦の勇士を揃えていましたが、裏切者も抱えていたのが痛かったですね。
なかなか興味深い話で面白かったです。宇喜多秀家長生きしましたね。私的には負けた西軍びいきです。石田三成、大谷吉継、好きです😂関ヶ原行って見たい。名古屋城は家康の命令で築城されたの初めて知りました🏯
正則の生年と秀家の生年比べたら秀家が老人で涙ぐむのはおかしいと思います
潔く観念する奴、最後まで諦めない奴、あちらにしようかこちらにしようか見苦しいけど、自分なりに悩む奴、人それぞれでそこが面白い。
やっぱり足軽様の話し方には惹き込まれますね!
内容もさることながらすべてにおいて面白かったです!
あぁ〜、名古屋城行きたい〜
は
大谷吉継は戦場で自刃と表記すべきでは?
今回の大河ドラマの後半の描写が気になります👍
西の宗茂、東の忠勝
戦で一度も負けなかった武将が宗茂
戦で一度も怪我しなかった武将が忠勝
だったような。
黒田官兵衛に負けて降伏開城したやんwww
@@user-pm9pt7yy7b
まあ大勢が決した今、領民達を苦しめるを良しとしない
開城であって、戦場で負けた訳では無いので
宗茂の武勇を落とす物ではないと思われ
ただ、西の宗茂、東の忠勝 は
東西無双(東西で並ぶものの無い勇者)との意であり、
無敗とは言ってないですね
サ、、秀吉さんはホント褒め上手w
田中吉政と石田三成のエピソード好きなんだけどな
古橋村に行きましたが古有る美しいところでしたよ。
宇喜多秀家の子孫は八丈島に沢山残ってますね。
ストレッチマン思い出すから
登録した
今回も大変面白い話を有難うございました。🙇
立花宗茂公は大好きなので、エピソードは色々存じております。
加藤清正と親友だったとか、最晩年は島原の乱に出陣したとかですが、とにかく好きな戦国武将の一人です🤩
大河で見たいですね。
@@user-ry3mr9kq9n 立花宗茂なら大河の主役として申し分なし
「奴らは立派な戦国大名じゃ・・・。
藤吉郎様・・・ワシなんぞと違って奴らァよう戦いました。願わくばあの世で迎えてやってくだせえ・・・」
―――――センゴク権兵衛の仙谷秀久 石田三成と小西行長を想ってのモノローグ
敗将だったとしても己の本分を全うして最後まで戦い、歴史に記憶された男たちに敬礼(西軍びいきではあります)
岡田准一の石田三成かっこいい
敗軍の将は兵を語らずって言いますね😊
立花宗茂は 悲惨な末路とは違うと思う。
土佐の長宗我部盛親なんかは 何も出来なかったのに改易された。
長曾我部は関ヶ原後に盛親の兄を暗殺したことが徳川の怒りをかって改易されたから盛親が自分で自分の首を締めたようなもの。
福島正則は宇喜多秀家と激戦を繰り広げただけに気にかけていたのかもしれませんね。
ゆっくり解説「関ヶ原の戦い、本当の裏切り者は誰か?」なんかよりなかなか面白そうですね。
最初の方のBGMなんですか?
宇喜多秀家も、確か徳川方から東軍の誘いがあったが断った説を聞いたことがありますね。
島津義弘は、元々東軍についていたが、伏見城を守っていた鳥居元忠に入城を拒否され、西軍ついた説も聞いたこともありますね。
加藤清正、福島正則は、元々三成嫌いで東軍に
大谷吉継は、家康から調略を受けますが三成の恩を返す説、三成とは、友人関係のため、負け戦でも三成についた説も聞いたことあります。
長い文面すみません。m(_ _)m
真田家は裏切りに裏切りを重ねて生き延びた。プロレスでもミスターポーゴは何回大仁田厚を裏切ったことだろうか
仲間になったり敵対したりまた仲間になったと思ったら火を噴いて裏切ったり
立花の復帰石高は10万9200石です
西軍と言えど立派に戦い歴史に名を留めた。脇坂 小川 朽木のように風見鶏で事前の内応なく寝返った方も歴史に名を留めた。良い事も悪い事も400年ですね
脇坂は家康と連絡入れてたやん?
しかし今となっては朽木は現地いなかった可能性あるし、小川氏は大名として復帰、そんな中で赤座の1人負けかな
え?脇坂は事前に東軍として戦うことを明確に約束していたけど
朽木に関しては参戦していなかった説あるけど
テキトーなこと言って中傷するのやめてください
小早川って絶対こんな風貌じゃなかったと思うんだけど、400年経ってイメージでこんな顔で伝えられて無念だろうな。
人それぞれの信念で行動して、そのけつかを受け入れるしかない。
西軍が勝っても大谷吉継はハンセン病で死んでる
立花宗茂公を是非とも大河ドラマに
波乱万丈の人生で最終回は柳川復帰の回で最高の大河になると思います。
文禄慶長の役 (秀吉の朝鮮出兵) を入れざるを得ないから政府が許可しないだろうね。
島原に参陣して、有終の美を飾るラストでは?
関ヶ原の戦い後に城に戻ってきたと思うんだけど、違うのかな?開城を迫るために加藤清正が布陣したという場所があるんだけど?😅
昔の武士って変わったかっこいい名前多いよね。
あんまり現代に多い名前出てこない
島津もして欲しかったですね。
相馬氏は立場上中立を貫いたんだよな
伊達政宗を宿泊させたからなぁ
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成。
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた。
「殿……」
明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた。
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
大名としていることは、ある意味、富と権力を持って豊かにはなる。
しかし、その分命も狙われるし、上に立つ幕府(天下人)が何よりも警戒して潰せるものなら潰したいだろう。
それ故、宇喜多秀家が大名復帰をのぞまなかったのは、ただ1人の人間が生きていくためだけの手段としては、かなり正しかったかもしれない。
富、名声、力のかわりに代償となるプレッシャーよりも自然に生きていく。その生き方を彼は選んだとも言える。
つれさだなのか。ずっとつらさだって読んでた。
「まんまと」は「うまうまと」の転で、「非常にうまくことが運ぶ」「首尾よく」「みごとに」です。
「まんまと一杯食わされた」という表現はありますが、相手が首尾よくやったということです。
「まんまと裏目に出た」という表現は成り立ちません。この場合「まんまと裏切られたです。
まんまと騙されたな‼️
関ヶ原の戦いは最近山中の戦いの説がある。
後退ならぬ前退?はしたが負けとはちと違うのはやはり島津だろうなあ
関ヶ原大坂の陣だと西軍びいき。幕末だと幕府側びいき。
私は勝者嫌いらしい。
アメリカも嫌い。
立花宗茂は柳川10万2000石では?
三成の場合、見ず知らずの、しかも敵の兵士の親切を断る器量の小ささをしめしているのでは?
結局、どんなに汚い手を使おうが勝った方が正義になる。忠義と言うならむしろ西軍の方。
無傷の島津ほんとやり口美味い
です!!です!!毛利輝元は、勝手に総大将にされました。だが、な〜にも出来ないから石田純一が首を突っ込んで来てあのザマになった。お姉ちゃん、今夜以下が??とかやったらオモロイやん。兎に角、総大将は秀頼なのだから総大将が出て来なけりゃ、勝ち目なんぞ無し!!幸村の気持ちが解らんね!?カッコ付けて徳川軍と戦って死ぬ。ソレでも今にファンが多いのは何故かいや。もしもだが、秀頼が出て来たら戦は豊臣家に軍配が上がったかな?!イヤイヤ、徳川軍には、大砲が合ったし豊臣家はマジ勝てんやろ。
立花が復活で32万石?違うのでは・・・
だから、柳川城址にある料亭・旅館・立花家史料館を持ってるのが18代目のご子孫なんだけど…
柳川藩主は田中吉政→立花宗茂な。
料亭お花は柳川城址ではなく、別邸ですよ。
「小大名」をこだいみょうと喚ぶのかな⁉。
勝てば官軍負ければ賊軍 仕方が無い其れが生命を掛けた戦い
でもさ、徳川が上杉と交戦状態になってから三成が挙兵したんじゃ遅かったのかね。
総大将は三成じゃなく毛利輝元なんだよなぁ。この勘違いしてる人未だに多いんだね。実質的な総大将と言うならまだ分かるが。
総大将の定義が曖昧なんだよね…
確かに西軍が任命した総大将は毛利輝元
石田三成は家康が武闘派の対立を煽るために
西軍の総大将だと吹聴された
そして関ヶ原の戦場での西軍総大将は宇喜多秀家だった
なのでどれをもって「総大将」とするかで色々と変わってくる
そして関ヶ原の戦いは、飽くまでも豊臣家の家臣同士である石田三成と徳川家康の戦いなんですよね〜
これもあまりわかってない人が多いかと…
@@user-wx9we3um3r
あくまで名目は内部抗争ですよね。
実際は誰が見てもそうは見えませんが。
うんちくをありがとう
不在だから忘れがちですよね。
逆に言えば大戦に総大将の顔がない時点で勝負が見えてる…
勝って笑い者になって軽蔑された男もいる。
大谷吉継は、ハンセン氏病を患い
秀吉の茶会の席で、膿みが🍵に落ちた時、他の大名は、飲むふりを
したが石田三成だけが全部飲み干したその時の恩義を大事にし石田三成では、勝ち目の無い戦に、この命そちにやろうと言い
家康との戦いに向かった。
西軍唯一のサムライ
儂も関ヶ原出たかったなぁ
お前は生きててもどっちみち寿命じゃw
名古屋に限らず旅行して御城等を観てたいけどコロナがなぁ、政府が何と言っても家族や友人達を守らないとねー。政府は今一信用出来ないしね。政治家は嘘つきとは言わないけど解釈を都合よく変えるからね。
い
なお勝ったのに改易された福島正則…
加藤清正も息子の代で改易されました。
福島が改易されたのはずっと後なので
関ヶ原は関係ない様な
福島正則は城がどうのこうので改易だった気が
@@user-ut7ik2yr9i 家康が亡くなるときに秀忠に福島正則には気をつけろと遺言したそうですよ。
@@user-ut7ik2yr9i
お城の改修工事を幕府に許可なく始めたって難癖付けられる
↓
「本田正信経由で許可取ってるわ!」と正則ブチギレ。改修した一部分だけ壊して続行
↓
秀忠「従う気無いのね?じゃあ改易で^^」
みたいな流れだった気がしますね🧐
立花宗茂の32万石は間違いでは?10万石程度だったはず
関ヶ原前は筑後一国20〜30万石くらいあったけど、関ヶ原後は北筑後を有馬家が、南筑後を立花家が統治したから、10数万石になりました。
浜崎あゆみが流れてくる
石田は試合前から負けていた
この番組好きだけど説明してる貴方は何者ですか?
名古屋おもてなし武将隊のメンバー踊舞(とうま)さんです。
名古屋俺岡崎に26年住んでいて気付かなかった(ᗒᗩᗕ)
うーん。東軍でも残酷な目にあった武将一杯いたし、、西軍でものちに栄光を勝ち取ったものもいる。。石田三成の娘たちは家康、秀忠の計らいで青森藩主の家老の息子に嫁いで、三成の娘の血は受け継がれた(息子は大坂の陣で戦死)。福島正則は有名な広島城改修事件で最後は2万石まで落とされ、息子の時代で改易。。加藤清正は、徳川に毒殺された疑いが有って、息子の時代で、これまた改易。。小早川秀秋は、大谷の亡霊で狂死とあるが、これも毒殺のうわさがある。。また脇坂、朽木らの4小大名ように小早川が寝返った後に寝返った武将は、家康・秀忠からさげすまれ1石の加増もなく、家光の時代までに改易された武将もある。
宰相殿のカラ弁当の「吉川広家」なんかは、家康から毛利家加増の約束を、反故にされ毛利家の減らされた石高分を、自分が加増された少ない石高で補ったけど、毛利家本家からは恨まれ、広家の孫の代まで毛利本家から遠ざけられた
西軍では、島津家と毛利家は260余年ののち徳川幕府を倒して、明治政府の中心閣僚となって、栄光と地位と名誉と材を勝ち取った
島津家は、「島津製作所」として、令和時代の今も、残っている
西軍は何故勝てる勝負で勝ちを取りに行かなかったんだろうか?
いや勝ちを取りに行って負けたんだよ
勝ちに行ってたら勝てたのに。。。
西軍が勝つには、関ヶ原で家康自身を捕らえるか斬るかしかない気がするな。
逃すと中山道の秀忠と合流して反撃されるからね。
小早川秀秋の裏切りです。後世に汚名を残しました。惨めな死に様だったそうです。汚名を残すより家名存続を残すのも結果でしょうか。
西軍は吉川の内通で参戦出来なかった南宮山の毛利秀元・長曽我部・安国寺・長束軍2万5千や、大津城で足止めを食らった強豪立花・毛利軍1万2千の不参加が痛かったと思います。大阪城の毛利輝元軍3万8千も参戦してないし、仮に秀忠軍3万5千が東軍に参戦しても、西軍が全軍を投入したら石田治部少補の勝ちでしょう。
末路もなにも徳川幕府を潰したのは敗軍側の毛利と島津じゃん
徳川300年潰れるまで誰も生きてねぇ
(・・?
薩長は西軍だけど土肥(山内、鍋島)は東軍だぞ
たとえ都市伝説でも豊臣を滅ぼした徳川幕府を潰した明治政府が桐紋と言うだけで胸熱。
徳川を倒したのは、イギリスです。
古い考えです。
毛利の逆恨み
もしも宇喜多秀家が大阪城に入城したら大坂夏の陣の展開も全く
違っていただろうけど八丈島からでは入城はおろか
情報が入っていなかっただろう
福島正則は酒癖が悪いから評価が最低だけど、侠気があるから最後まで家臣達が離れず、前途が絶望的で福島正則が自害したときに手紙で外の大名に仕えるようにと書いたと聞きます
エレベーターは要りません。
動画の歴史の重みが、甲冑の方のキャラでぶち壊しですね。役も理解せず、お笑いも芸もないキャラ人が多すぎ。安いからかな。
別に男出さなくていいだろ
せっかくいいチャンネルなのに男の人普通に喋ってほしいんだよなぁ…
勉強し直して動画あげなさい。