【死んでいなかった!】有名武将の生存説は本当?逃げ落ち延びていた?戦国時代の歴史解説
Vložit
- čas přidán 21. 07. 2023
- 戦国乱世とは盛者必衰の時代でした。栄えていた者があっけなく滅びてしまう。そんな悲劇が繰り返されてきたのです。しかし現代まで残る逸話や伝承の中には、滅びたはず、死んだはずの武将が生きていた。なんて話がまことしやかに伝わっています。
実際にはどうだったのか?今では知るすべもありませんが、今回はそんな生存説をいくつかご紹介してまいりましょう。
教科書では教えてくれない歴史の1ページをお楽しみください。
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#歴史,#日本の歴史,#生存説
ご覧いただきありがとうございます。
生存説、ロマンがありますね。
真実をご存知の方、是非、コメントください!
本日から夏休み。沢山の視聴者さんが名古屋城に来て頂いています。
是非、夏の旅行は名古屋城へお越しください!
生存説には有名な源義経東北→蝦夷(北海道)を経てチンギスハンになった説が昔大流行りしましたが、最近色々研究が進み、いくつかの謎が出てきていますね。その一つ義経の首級と胴体の謎ですね。首級は鎌倉腰越に届けられ、後に藤沢の白旗明神に埋葬されたのに対して胴体は奥州の現宮城県栗原市栗駒沼倉にある『判官森』という場所に埋葬されたが、これは自害した『高館』からわざわざ10数キロ離れていた事で、実はこの『判官森』辺りを治めていた奥州藤原氏の家臣『沼倉小次郎高次』という人がいて、その実弟『杉目太郎行信(すぎのめたろうよしのぶ)』という当時義経と年齢が近く、見た目が似ていたので、義経を逃す為にわざわざ『高館』で自害をし、その遺骸を実兄が改めて埋葬したという言い伝えがあるそうですね。また有名な『吾妻鏡』に義経の『首級』はなぜか一月近くかかって運ばれ、後に首実験を行った和田義盛や梶原景時等があまりの腐乱気味に『多分判官殿だろう』と判断し、頼朝自身もあまり確認しなかった』と残されているそうです。だから実は頼朝も「わざと到着を遅らせ、できれば弟が身代わりを立てて逃げてくれる様に」と願っていて『本人かどうかはどうでも良かった』のではないかという事でしたね。ただ、義経のものとされる『首級』を前にした時にみんな涙を流したという事も書かれており、実は彼の偉業と残念な結果となった事を悲しんだのでは?とも言われていたそうですね。
確か秀頼らしきグビの骨が大阪城のとこから最近見つかったんだよね
なんだグビの骨って☠️
@@user-nx9cb5ql7z 首だった
なんか...
生き残ってた方が切ない。
個人的には信長公ヨーロッパ生存説推したいかな〜
お頼み申されたので登録しました!これからも楽しみにしてます!!
ロマンですね いろんな動画見て余計にそう思った^ ^楽しかったです
面白いです~
秀吉がしんだ頃には明智光秀70歳前後
この中に私のご先祖様が居ましたが。
正史を含めて果たしてどれが真実なのか。
興味深いな。
ロマンだな。
悲運の武将の生存説と言えば義経公が先輩ですかね😅大陸に渡って成吉思汗になったなんて壮大な展開もありました。光秀様=天海説も根強いですな。
義経がジンギスカンになった説、確かに壮大ですね!実際にモンゴルに「日本国、源義経乃墓」なんて刻まれた石碑があると俺が高校の時に見聞きしたんです。ジンギスカンになったかどうかは別にして。それと、日本に馬に乗りながら弓矢で的を射る「流鏑馬」があるようにモンゴルにも全く同じ「ヤブサメル」があるそうなんです。もしかして義経が?長文失礼。
楽しく拝見させていただいてます。私の地方では、武田氏の家臣が落武者として、土着しております。裏付けは、私の菩提寺の史書に武田勝頼の名前や恵林寺の住職の名前そして、宗派が同じなので、わかりました、その家臣の末裔は、うちの近くにたくさんいます。後に渋沢栄一と共に地域の発展に活躍しています。動画楽しく拝見させてもらってます。今後も楽しみにしています。頑張ってください。武田家臣の末裔に関わる文献もたくさん上げてください。
歴史はロマンだね👍😆
生存説で一番ぶっ飛んでるのはやっぱり義経=チンギス・ハン説かな
後、俺の故郷の青森県にあるイエス・キリストの墓というか、キリストが青森県まで逃亡して人生を全うしたという生存説も同じ位ぶっ飛んでると思います。
光秀の話は有名ですね。実は天海僧正と名前を変え、家康を支えたって説が1番有名ですね。
確か用心深くて親しい人としか2人で会わないと言われていた家康が、天海僧正が関ヶ原の前に尋ねてきた時に、2人だけにしてくれと家臣に言って、家康が楽しそうに会話していたのを家臣が不思議に思ったって話もありますからね。
幸村と秀頼が生きていた説も薩摩地方で、手毬歌で残っていると聞いた事あります。後は天草四郎が実は秀頼の子孫であったって話もありました。
どうする家康との光秀とは全然違うのう…、、
巨漢の秀頼と小男の信繁。
向日葵と小鬼?
昔は今と違って画像も映像もないから死んだといわれてる人がどこかで生きてもわからないだろうから死んだ人の生存なんてことはあったのではないかと思ったりします。
光秀の生存説ば有名で、山崎で打たれた光秀の首って首実験では腐敗し過ぎて本人確認ができなかったらしいですね?しかも家康が深く関わってらしく、、あの東照宮の北側に明智平があるのがその説が真実味があります。
勝頼が生きていて関ヶ原に参戦したら面白い
いわゆる地域興しの一環で「あの武将様が生きてオラが村で過ごした」と騙ったのもありそうですが、徳川家康を神格化するにあたって幕府が敵対した武将は無惨な最期を遂げたと吹聴した可能性もありますね。
歴史には御法度かもしれませんが生存説には浪漫があって面白いですね。
光秀の溺死説は初めて聞いたw
名古屋城近いから動画みたらまた行きとうなるでよ。
安芸武田は正確には生きてます。安国寺恵瓊は元々は安芸武田家です。
「何で登録してくれんのじゃ〜!?」動画の最後のこのコーナー、やみつきになりますな!!
勝頼が土佐に逃げた生存説は聞いたことありましたが、ここまで本格的な伝説が残ってるとは思っていませんでした
土佐に勝頼?!
光秀の手引き!?
豊臣秀頼公のお子様の国松君が一時島津家が預かり後に日出藩木下家が引き取り後に五千石の旗本になったと日出藩木下家の藩主の子孫の方が歴史群像の豊臣秀吉公の本で語っていましたけどね🙇多分秀頼公も生存してもおかしくないと思いますよ🙇
家康より、ガラシャさんを救って欲しかった。
明智光秀が八咫烏の一員説。
勝頼の話は四国では割りと有名だよね。
土佐藩の板垣退助は武田宿老の板垣信方の子孫だからな😮
仁淀に伝わる不思議な話🎵
大崎玄蕃と云う人は🎵
実は武田勝頼で🎵
死なずに土佐に落ち延びた🎵
勝頼の母方の祖父、諏訪頼重に仕えた忍び集団と、長宗我部氏に仕えた一領具足は同族だった。そもそも、長宗我部氏は秦氏で、先祖は諏訪の地に暮らしていたのです。秦氏が土佐に移り住んだ時、諏訪の忍びの半数が共に付いて行ったとか。
すげー
教科書に載ってないことばかりだ
ロマンありますね~。
後年、西軍で敗走した薩摩や長州が倒幕するんだから、秀頼公が薩摩に逃れていたというのはあるかもしれませんね。
積年の恨みを数百年後に返してる。
はぁー、、、、考えただけで眠たくなります(笑)
秀頼の息子が天草四郎だった説もありますね
本能寺の変が全てヤラセだったら信長、長男信忠、光秀、皆生きていて何処かへ❗️
こういったのはある種のロマンを感じる
ずっと思ってたんですが後藤基次さんって和田一浩さんに似てません?
光秀の話しは、本当っぽい😮
テレビ朝日で戦国武将人気ランキングやってましたね
やっぱ地元武将に頑張って欲しいんでしょうね!
明智光秀は山崎の合戦の際に、重臣に身代わりをしてもらい、美濃国にあたる岐阜辺りで身代わりをした『荒深』を名乗って助けられたから最後まで過ごしたという記録があるのは凄い事ですね。お墓もあるそうなので昔からの縁があった事もあり、かなりの存在感だったのでしょうね。色んな説があるけど大概にしてみんな『改名』をするのは共通しているんですね。やっぱりそのままというのは破れた者としての恥もあったかも知れないけれど、それ以上に『生きよう!』とする想いが強かったのでしょうね。
僕の地元・北海道には源義経公の伝説がありますがこういう生存伝説はロマンがありますね…!個人的に武田勝頼公がすごく好きなので生きていてくれていれば…って思います笑
秀頼様は、史実どおりの体なら身長190センチ体重160キロの超大きい人だったらしいので、逃げる事が出来たなら秀頼様じゃなくて、その子の国松様じゃないかな?と思います。
国松は斬首されたと伝えられてますが、、表向きで実は生きていた(助けられた)らしいです。
以前、テレビで放送されたのですが秀頼は薩摩に渡り、男子をもうける。
その子が後に島原に渡り、天草四郎となったという内容でした。
飛び過ぎてる感じもしますが本当であれば…。
いつチンギス・ハンになるんや?笑
光秀はかなり高齢だったから彼が天海説はギネスを超える年齢じゃないとまず有り得ないらしい。
これは子孫である歴史研究家の明智憲三郎氏もハッキリ言ってる。
そうでもないですよ。そりゃあ光秀と天海が同一人物だとすると116歳も生きた事になって、「ギネスを超える年齢じゃないとまずあり得ない」と言いたくなるお気持ちは分かります。でもこの二人が赤の他人だとしても、天海は108歳も生きたんです。これだけでも当時では立派な「ギネス」的な話かと。俺はこの二人が同一人物の可能性がゼロではないと思います。