【死んでいなかった!】有名武将の生存説は本当?逃げ落ち延びていた?戦国時代の歴史解説

Sdílet
Vložit
  • čas přidán 21. 07. 2023
  • 戦国乱世とは盛者必衰の時代でした。栄えていた者があっけなく滅びてしまう。そんな悲劇が繰り返されてきたのです。しかし現代まで残る逸話や伝承の中には、滅びたはず、死んだはずの武将が生きていた。なんて話がまことしやかに伝わっています。
    実際にはどうだったのか?今では知るすべもありませんが、今回はそんな生存説をいくつかご紹介してまいりましょう。
    教科書では教えてくれない歴史の1ページをお楽しみください。
    ◆公式LINEを開設!ぜひ、ご登録ください。
    liff.line.me/1657596280-v27Xm...
    (名古屋おもてなし武将隊公式LINE)
    ■出演
    ・踊舞(名古屋おもてなし武将隊)
    ■ナレーション
    ・なつ(名古屋おもてなし武将隊)
    ■企画制作/ほまれWORK
    work.homare@gmail.com
    【出演団体紹介】
    ■名古屋おもてなし武将隊HP ぜひ、名古屋城に会いにきてください。
    busho-tai.jp/
    結成12周年記念オリジナルソング「我らサムライ、皆もサムライ」
    • 【名古屋おもてなし武将隊】祝12周年!『我ら...
    【関連サイト】
    ■Blog版 戦国雑記帳
    sengoku-note.jp/wp/
    ■歴史を演じる 歴史を分かりやすく、演じて表現しています。
    ぜひ、ご覧ください。
    • 【1位は●●】戦国時代の武器TOP5!戦いで...
    #歴史,#日本の歴史,#生存説

Komentáře • 55

  • @sengokuzakki
    @sengokuzakki  Před rokem +17

    ご覧いただきありがとうございます。
    生存説、ロマンがありますね。
    真実をご存知の方、是非、コメントください!
    本日から夏休み。沢山の視聴者さんが名古屋城に来て頂いています。
    是非、夏の旅行は名古屋城へお越しください!

    • @kaburimet
      @kaburimet Před rokem +1

      生存説には有名な源義経東北→蝦夷(北海道)を経てチンギスハンになった説が昔大流行りしましたが、最近色々研究が進み、いくつかの謎が出てきていますね。その一つ義経の首級と胴体の謎ですね。首級は鎌倉腰越に届けられ、後に藤沢の白旗明神に埋葬されたのに対して胴体は奥州の現宮城県栗原市栗駒沼倉にある『判官森』という場所に埋葬されたが、これは自害した『高館』からわざわざ10数キロ離れていた事で、実はこの『判官森』辺りを治めていた奥州藤原氏の家臣『沼倉小次郎高次』という人がいて、その実弟『杉目太郎行信(すぎのめたろうよしのぶ)』という当時義経と年齢が近く、見た目が似ていたので、義経を逃す為にわざわざ『高館』で自害をし、その遺骸を実兄が改めて埋葬したという言い伝えがあるそうですね。また有名な『吾妻鏡』に義経の『首級』はなぜか一月近くかかって運ばれ、後に首実験を行った和田義盛や梶原景時等があまりの腐乱気味に『多分判官殿だろう』と判断し、頼朝自身もあまり確認しなかった』と残されているそうです。だから実は頼朝も「わざと到着を遅らせ、できれば弟が身代わりを立てて逃げてくれる様に」と願っていて『本人かどうかはどうでも良かった』のではないかという事でしたね。ただ、義経のものとされる『首級』を前にした時にみんな涙を流したという事も書かれており、実は彼の偉業と残念な結果となった事を悲しんだのでは?とも言われていたそうですね。

  • @user-jm5yu1rl5p
    @user-jm5yu1rl5p Před rokem +17

    確か秀頼らしきグビの骨が大阪城のとこから最近見つかったんだよね

  • @user-mk5db3jv4s
    @user-mk5db3jv4s Před rokem +11

    なんか...
    生き残ってた方が切ない。

  • @user-le3ex7wd5h
    @user-le3ex7wd5h Před 11 měsíci +4

    個人的には信長公ヨーロッパ生存説推したいかな〜

  • @世界のこみやんチャンネル

    お頼み申されたので登録しました!これからも楽しみにしてます!!

  • @user-lw8qf8kw3r
    @user-lw8qf8kw3r Před 11 měsíci +3

    ロマンですね いろんな動画見て余計にそう思った^ ^楽しかったです

  • @hiro0164as
    @hiro0164as Před rokem +4

    面白いです~

  • @shortarrowsnark1472
    @shortarrowsnark1472 Před rokem +6

    秀吉がしんだ頃には明智光秀70歳前後

  • @user-fc6xj2ve2g
    @user-fc6xj2ve2g Před 11 měsíci +3

    この中に私のご先祖様が居ましたが。
    正史を含めて果たしてどれが真実なのか。
    興味深いな。
    ロマンだな。

  • @user-sw7he3zl1j
    @user-sw7he3zl1j Před rokem +11

    悲運の武将の生存説と言えば義経公が先輩ですかね😅大陸に渡って成吉思汗になったなんて壮大な展開もありました。光秀様=天海説も根強いですな。

    • @user-gt8kc9vg2v
      @user-gt8kc9vg2v Před rokem

      義経がジンギスカンになった説、確かに壮大ですね!実際にモンゴルに「日本国、源義経乃墓」なんて刻まれた石碑があると俺が高校の時に見聞きしたんです。ジンギスカンになったかどうかは別にして。それと、日本に馬に乗りながら弓矢で的を射る「流鏑馬」があるようにモンゴルにも全く同じ「ヤブサメル」があるそうなんです。もしかして義経が?長文失礼。

  • @user-mc4jy6nb9r
    @user-mc4jy6nb9r Před 11 měsíci +5

    楽しく拝見させていただいてます。私の地方では、武田氏の家臣が落武者として、土着しております。裏付けは、私の菩提寺の史書に武田勝頼の名前や恵林寺の住職の名前そして、宗派が同じなので、わかりました、その家臣の末裔は、うちの近くにたくさんいます。後に渋沢栄一と共に地域の発展に活躍しています。動画楽しく拝見させてもらってます。今後も楽しみにしています。頑張ってください。武田家臣の末裔に関わる文献もたくさん上げてください。

  • @user-yc4oi3ql8r
    @user-yc4oi3ql8r Před rokem +7

    歴史はロマンだね👍😆

  • @user-fr7bd1sh1w
    @user-fr7bd1sh1w Před rokem +6

    生存説で一番ぶっ飛んでるのはやっぱり義経=チンギス・ハン説かな

    • @user-gt8kc9vg2v
      @user-gt8kc9vg2v Před 11 měsíci +2

      後、俺の故郷の青森県にあるイエス・キリストの墓というか、キリストが青森県まで逃亡して人生を全うしたという生存説も同じ位ぶっ飛んでると思います。

  • @user-qs5vg5po1r
    @user-qs5vg5po1r Před 11 měsíci +8

    光秀の話は有名ですね。実は天海僧正と名前を変え、家康を支えたって説が1番有名ですね。
    確か用心深くて親しい人としか2人で会わないと言われていた家康が、天海僧正が関ヶ原の前に尋ねてきた時に、2人だけにしてくれと家臣に言って、家康が楽しそうに会話していたのを家臣が不思議に思ったって話もありますからね。
    幸村と秀頼が生きていた説も薩摩地方で、手毬歌で残っていると聞いた事あります。後は天草四郎が実は秀頼の子孫であったって話もありました。

  • @realu6333
    @realu6333 Před 11 měsíci +3

    どうする家康との光秀とは全然違うのう…、、

  • @user-mk5db3jv4s
    @user-mk5db3jv4s Před rokem +6

    巨漢の秀頼と小男の信繁。
    向日葵と小鬼?

  • @user-hb4sf3zd1m
    @user-hb4sf3zd1m Před rokem +6

    昔は今と違って画像も映像もないから死んだといわれてる人がどこかで生きてもわからないだろうから死んだ人の生存なんてことはあったのではないかと思ったりします。

  • @bluewater5239
    @bluewater5239 Před 11 měsíci +5

    光秀の生存説ば有名で、山崎で打たれた光秀の首って首実験では腐敗し過ぎて本人確認ができなかったらしいですね?しかも家康が深く関わってらしく、、あの東照宮の北側に明智平があるのがその説が真実味があります。

  • @Emily-zs5yq
    @Emily-zs5yq Před 11 měsíci +3

    勝頼が生きていて関ヶ原に参戦したら面白い

  • @user-pk4bg4kx3c
    @user-pk4bg4kx3c Před rokem +5

    いわゆる地域興しの一環で「あの武将様が生きてオラが村で過ごした」と騙ったのもありそうですが、徳川家康を神格化するにあたって幕府が敵対した武将は無惨な最期を遂げたと吹聴した可能性もありますね。
    歴史には御法度かもしれませんが生存説には浪漫があって面白いですね。

  • @king.g7172
    @king.g7172 Před 11 měsíci +2

    光秀の溺死説は初めて聞いたw

  • @user-pe3nc1qd2o
    @user-pe3nc1qd2o Před rokem +2

    名古屋城近いから動画みたらまた行きとうなるでよ。

  • @user-dv3gl6xh9z
    @user-dv3gl6xh9z Před rokem +4

    安芸武田は正確には生きてます。安国寺恵瓊は元々は安芸武田家です。

  • @user-nf3ig9ry8k
    @user-nf3ig9ry8k Před rokem +3

    「何で登録してくれんのじゃ〜!?」動画の最後のこのコーナー、やみつきになりますな!!

  • @grapehunt
    @grapehunt Před rokem +6

    勝頼が土佐に逃げた生存説は聞いたことありましたが、ここまで本格的な伝説が残ってるとは思っていませんでした

  • @akindo70
    @akindo70 Před 11 měsíci +3

    土佐に勝頼?!
    光秀の手引き!?

  • @user-em9tl4py3z
    @user-em9tl4py3z Před rokem +7

    豊臣秀頼公のお子様の国松君が一時島津家が預かり後に日出藩木下家が引き取り後に五千石の旗本になったと日出藩木下家の藩主の子孫の方が歴史群像の豊臣秀吉公の本で語っていましたけどね🙇多分秀頼公も生存してもおかしくないと思いますよ🙇

  • @user-jt8ld1yg8c
    @user-jt8ld1yg8c Před rokem +5

    家康より、ガラシャさんを救って欲しかった。

  • @user-zl9up4qb8z
    @user-zl9up4qb8z Před 11 měsíci +3

    明智光秀が八咫烏の一員説。

  • @user-el2wm1gp1z
    @user-el2wm1gp1z Před rokem +5

    勝頼の話は四国では割りと有名だよね。

  • @user-ri3tk5cv1q
    @user-ri3tk5cv1q Před 11 měsíci +4

    土佐藩の板垣退助は武田宿老の板垣信方の子孫だからな😮

  • @user-ti5sz8tn4j
    @user-ti5sz8tn4j Před 12 dny

    仁淀に伝わる不思議な話🎵
    大崎玄蕃と云う人は🎵
    実は武田勝頼で🎵
    死なずに土佐に落ち延びた🎵
    勝頼の母方の祖父、諏訪頼重に仕えた忍び集団と、長宗我部氏に仕えた一領具足は同族だった。そもそも、長宗我部氏は秦氏で、先祖は諏訪の地に暮らしていたのです。秦氏が土佐に移り住んだ時、諏訪の忍びの半数が共に付いて行ったとか。

  • @user-or9py2bc7f
    @user-or9py2bc7f Před 2 měsíci +1

    すげー
    教科書に載ってないことばかりだ

  • @deepgeepkorosan5560
    @deepgeepkorosan5560 Před 11 měsíci +2

    ロマンありますね~。
    後年、西軍で敗走した薩摩や長州が倒幕するんだから、秀頼公が薩摩に逃れていたというのはあるかもしれませんね。
    積年の恨みを数百年後に返してる。
    はぁー、、、、考えただけで眠たくなります(笑)

  • @blackclover6771
    @blackclover6771 Před rokem +5

    秀頼の息子が天草四郎だった説もありますね

  • @user-tb5pi2is5u
    @user-tb5pi2is5u Před rokem +5

    本能寺の変が全てヤラセだったら信長、長男信忠、光秀、皆生きていて何処かへ❗️

  • @user-su8jl6lh9p
    @user-su8jl6lh9p Před 11 měsíci +4

    こういったのはある種のロマンを感じる

  • @fieldl4783
    @fieldl4783 Před 11 měsíci +2

    ずっと思ってたんですが後藤基次さんって和田一浩さんに似てません?

  • @shin-rai
    @shin-rai Před rokem +15

    光秀の話しは、本当っぽい😮

  • @user-ve8ov7yd4m
    @user-ve8ov7yd4m Před rokem +7

    テレビ朝日で戦国武将人気ランキングやってましたね
    やっぱ地元武将に頑張って欲しいんでしょうね!

  • @kaburimet
    @kaburimet Před rokem +9

    明智光秀は山崎の合戦の際に、重臣に身代わりをしてもらい、美濃国にあたる岐阜辺りで身代わりをした『荒深』を名乗って助けられたから最後まで過ごしたという記録があるのは凄い事ですね。お墓もあるそうなので昔からの縁があった事もあり、かなりの存在感だったのでしょうね。色んな説があるけど大概にしてみんな『改名』をするのは共通しているんですね。やっぱりそのままというのは破れた者としての恥もあったかも知れないけれど、それ以上に『生きよう!』とする想いが強かったのでしょうね。

  • @de_mysteriis_dom_sathanas666

    僕の地元・北海道には源義経公の伝説がありますがこういう生存伝説はロマンがありますね…!個人的に武田勝頼公がすごく好きなので生きていてくれていれば…って思います笑

  • @user-mo6pm4ej8y
    @user-mo6pm4ej8y Před rokem +12

    秀頼様は、史実どおりの体なら身長190センチ体重160キロの超大きい人だったらしいので、逃げる事が出来たなら秀頼様じゃなくて、その子の国松様じゃないかな?と思います。

    • @bluewater5239
      @bluewater5239 Před 11 měsíci +1

      国松は斬首されたと伝えられてますが、、表向きで実は生きていた(助けられた)らしいです。

  • @user-wk7re1zi2u
    @user-wk7re1zi2u Před rokem +8

    以前、テレビで放送されたのですが秀頼は薩摩に渡り、男子をもうける。
    その子が後に島原に渡り、天草四郎となったという内容でした。
    飛び過ぎてる感じもしますが本当であれば…。

  • @user-ld5qo9kv5k
    @user-ld5qo9kv5k Před rokem +2

    いつチンギス・ハンになるんや?笑

  • @CHI-tq8bh
    @CHI-tq8bh Před 11 měsíci +5

    光秀はかなり高齢だったから彼が天海説はギネスを超える年齢じゃないとまず有り得ないらしい。
    これは子孫である歴史研究家の明智憲三郎氏もハッキリ言ってる。

    • @user-gt8kc9vg2v
      @user-gt8kc9vg2v Před 11 měsíci +3

      そうでもないですよ。そりゃあ光秀と天海が同一人物だとすると116歳も生きた事になって、「ギネスを超える年齢じゃないとまずあり得ない」と言いたくなるお気持ちは分かります。でもこの二人が赤の他人だとしても、天海は108歳も生きたんです。これだけでも当時では立派な「ギネス」的な話かと。俺はこの二人が同一人物の可能性がゼロではないと思います。