関ヶ原の裏切り者、赤座・小川・朽木・脇坂のその後
Vložit
- čas přidán 25. 07. 2024
- 今回の歴史じっくり紀行は、『関ヶ原の裏切り者、赤座・小川・朽木・脇坂のその後』について紹介していこうと思います。
~目次~
0:00 オープニング
1:14 同じように裏切ったのに・・・
4:34 名誉挽回の機会を与えられるも
5:42 嫌われた『鍔下の返り忠』
8:58 それぞれのその後、小川祐忠
10:10 前田家に拾われた赤座直保
11:26 寂しく世を去るも子孫が繁栄した朽木元綱
12:11 一人対応が違った脇坂安治
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脚本・監修:歴史じっくり紀行
#歴史じっくり紀行
~画像~
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立花左近 - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, commons.wikimedia.org/w/index...
継之助 - 継之助が撮影, CC 表示-継承 3.0, commons.wikimedia.org/w/index... - Zábava
日本の史書は敗者は乏しく勝者に都合が良く中々史実が見えない中良く調べていますね、何れにせよ数年後には歴史が変わる事さえ有る日本史は難しいですね。
裏切りは新たな裏切りを生む、徳川 家康はそう考えたのだと思います。脇坂以外を信用しなかったのは、他人の顔色を伺い、なかなか本心を表さない態度を家康はちゃんと見てましたね。元々東軍に付いたのは全員豊臣側の人間で、誰が本当の味方なのか疑心暗鬼になって当然で、2代将軍秀忠は、関ケ原の戦いで貢献した福島 正則を、幕府に無届けで広島城を修復したとして改易、領地没収の重い処分を課しました。いつの時代も人心掌握は難しいものですね。
脇坂家は最終的には堀田家に乗っ取られるわけだが
その関係で後に譜代大名扱いになったので
後に脇坂家から老中が出てきた。
丁寧、そしてしっかりおもしろい☺️‼️
後ろに小早川軍がいて、どちらにつくかわからなければ、動きようがない。小早川の反対につけば、壊滅やむなし。脇坂は、良く家康に味方する腹を決めていたと感心しますね。
脇坂は会津征伐に参加したかったけど出陣が遅く半ば強制的に西軍にさせられた
鍋島勝茂も同じ
ただし父親直茂がサッサと撤退させて米を家康公に献上して戦後領国安堵されました、直茂の交渉術はすげえな
同じことをするにしても根回しは大切なのは現代に通ずると感じた
脇坂、鍋島氏を見たら、よくわかります
戦いは勝ち組に入ることが延命につながり自軍では討論が盛んだったことでしょう。同盟は生き抜く知恵と思う。負け組は悲惨な運命が待っている。生きて行くにも浪人では飯が食えない寂しい人生は辛いものがありますね。百姓にもなったのかな。よい情報で大変勉強になりました。感謝します。歴史のおさらいは興味深いものがあります。その後の経過など資料も残っていたのですね。素晴らしい。ありがとう。
色々勉強になりました
いや~生を全うする事の難しさ!に尽きます
今後も色々お教えください
その後シリーズ、ヤベエ面白い!
秀秋のその後は知っとるけど他は知らんかった
歴史の裏側はやはり面白い!
それな!
武田氏滅亡時の小山田信茂の様に、
段取り無しの裏切りは後で痛い目を見ますね。
脇坂は事前に徳川と誓紙のやり取りをしていたので、
他将と待遇に差が出ましたね。
とても勉強になりました🎵
脇坂五万石
外様大名から願い譜代となる。
将軍離宮である浜離宮庭園の
前には松平肥後守中屋敷、真ん中に松平陸奥守上屋敷、右側に脇坂淡路守の上屋敷。
それだけ重く用いれられてた。
現代の仕事もそうだけど思い付きでやることにろくなことは無いよね
事前準備・計画が大切ですね
脇坂安治と鍋島は元々上杉征伐行く気だった
西軍勢にジャマされただけ
大谷吉継が最後まで戦って、壮絶な死を遂げたからこそ、この裏切り四人組の卑劣さが際立つ。
因みに朽木の子孫は、江戸時代最強の古銭収集家になります。
脇坂安治の息子の安元は、母親が公卿の娘であったためか読書家としても有名で、所蔵していた本に「八雲軒」他の蔵書印が捺されたものがかなり多く残存します。相当教養の高い異色の武将でもあったようです。
セクシー女医としてテレビに出たりして、その後診療報酬を誤魔化して捕まった脇坂英理子は、脇坂安治の子孫だと言っているようです。
飯田藩5万5千石を治めて 道路整備や町割り・街道の流通と伝馬の確立・文化産業振興事業にも注力して今の飯田市の原型作った有能藩主ながら歌人としてもかなり高名だった文化人大名の安元の逸話として…
3代家光治世時に家系図提出命じられて作ったのが 祖父安明-父安治-自分のたった3代で終わる短い家系図 冒頭に「北南 それとは知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」と一首 歌の意味は…脇坂家は藤原氏と姻戚にあるという人もいますが 分かるのはこの3代のみ それ以前はどこの馬の骨か牛の骨か分かりません
これに幕府首脳陣が「さすが実直な脇坂」と激賞したとか
小川家は改易直後に家督を継いだ小川光氏が豊後日田2万石で復活していて、実は減封だったらしい。
しかも光氏死後はわざわざ家中から代理の代官が選ばれて度々日田の天領を任されているから、実際には寝返りに成功していて、幕府から見返りの高待遇を受けた形跡がある。
会社の経営者が代わり経営方針も変わり、自分と考え方のちがう社長に意地を張った挙げ句リストラされて路頭に迷うか、
悔しいが、心ならずも新しい上司に付いて行くか、いろいろ当時のお侍も難儀だったに違いない😓😓😓
教科書等には載っていない裏側を公開するのは良い事ですね。
同じ寝返り組でも事前に内応し誓紙を出しているのと、その場の流れのノリ的な感じで寝返るのとでは同じ裏切りでも与える印象は違いますね。
西側で徳川方に与するのは、石田方の格好の的になってしまうから石田方に与するのはある意味当然な流れ。
家康本陣に切り込みを掛けた島津義弘も最初は徳川方に与する予定でしたが、それが上手く伝わらず石田方に付いたと言う経緯があるくらいです。
話が逸れましたが、赤座直保と小川祐忠は時の趨勢を見極める力がなかったと言えますね。
豊富恩顧の大名が家康に与したのも家康の実力を分かっていたし、敵対するのは得策ではないと判断したからと言えます。
戦は時の運ですが、脇坂安治はあの2人と違い世渡りが上手かったのでしょうね。
当日に戦況を伺いながら平然と裏切る信念のない行動 これは嫌われますよね
一方で徹底抗戦しても旧領に返り咲いている立花宗茂
そら秀忠のオキニだし。
関ケ原に関わる一次資料を見る限り、赤座・小川・朽木・脇坂が、関ケ原の実戦に
参加したという事実は確認出来ません。具体的にどう関わっていかたかは不明ですね。
朽木元綱とかいう信長 家康の天下を助けた男
裏切り者って信用ならないから重用される事もない。
戦に勝ってしまえば用のない彼らに力を持たせる訳にはいかなかったのだろう。
脇坂→吉良上野介が松の廊下で刃傷を受け逃げる際に当たり脇坂家の紋を血で汚され《この無礼者め!》と扇子で吉良を打ち据えた四代目脇坂淡路守安照の先祖が初代淡路守脇坂安治、
《賤ヶ岳七本槍の一人》
→仮名手本忠臣蔵より
脇坂と他の三武将との差も大きいですが赤座や小川が改易されたのに対して朽木は減封だけで済んだのも興味深い
通じ合わせのない裏切りは同じなのに対応の差が出たのはやはりコメ欄の指摘にもあるようなそもそも朽木自体が関ヶ原にはいなかった可能性がありますね
だとしたら減封は戦いに参加しなかった事への日和見の罰か、それとも……
家柄じゃね?朽木は佐々木一族の名門だから
朽木、血筋も良くて将軍に頼りにされてたし、朽木越えで信長助けて、信長死後は秀吉に仕え、そんでもって関ヶ原で徳川についた、時流に則した動きしてるのになぜこんなにも不遇なのだろうか……
ホントに関ヶ原に参戦したのだろうか……?
朽木の所領に2万石も無かったと思われます(朽木谷は米作に向かないと記述有)
なので実際は所領安堵って感じなので、交通の要所でもある本拠地を領有したかったであろう朽木家としてはベストな結果ではないでしょうかね
小川祐忠の子の光氏が、関ヶ原合戦の翌年に、家康から北九州の豊後国日田2万石の代官に取り立てられていますね。2万石の大名にした説もありますが、正規の任官がないので代官だと思いますが、それでも家名は再興できたわけです。
脇坂安治は前もって家康に言っていたので大名になった。他の人は脇坂安治の動きについていくつもりだった。小早川秀秋がどう動くかわからないので動けなくて、小早川秀秋が西軍に攻めていったら続いた。
面白かった。
四将のその後が解りやすくとても良かった。BGMに流れてる女性の曲はなんて曲名ですか?とても気に入りました。感情移入しやすかった!チャンネル登録させていただきます
朽木が満座の中で恥かかされた、ってのは初めて知った。勉強になります
脇坂は4将の中ではどう見ても頭一つ抜けてる、
利家と家康が対立した時も徳川邸の警護に駆けつけてるし加藤福島ら武断派に近い人物だったはずなので有力な調略対象であったのは想像に難くない。
このチャンネル、初めて見ました。情報が恣意的に偏っていたりせず、それでいて詳細で、とてもいい動画だと思いました。
阿智アタアタに父ナタチアチアたああはアテア8は
はたあた
あち
夏ああちらたああはアテア8ち
棚うねアテね
わかりやすかったです。
内容とは関係ないですが、BGMが気になりました!
調略に応じたのとその場のノリで裏切るのは違うんだもんな
一応三人とも藤堂の調略は受けてるけど大勢が決するまで動かなかったから契約不履行と見なされたケースやね
裏切り方も筋を通さなければアカンのやろな。
@@yn7129 過去と現世を比べたらあかんのかもやけど、現代は筋通す人も少ないしその他いじめなど陰湿な事も沢山増えたよね
ただの日和見はあかんのやね
勢いで動くんやなくて前もって根回しするのは大事な事なんやなと
諸行無常とはこのことでしょうか。 誠に活きるか、実利に生きるか、いつの世も難しい決断です。
どちらの道もそれぞれに話の通じない人が居るので厳しいことには変わりは無いでしょうね。
@@user-ko8jh5iy1l また、良きバランスの方法を発見されたら是非ご教授下さい❢🤗
やはり、元よりの戦略だったか土壇場の裏切りかの差ですね。そりゃ大群を率いる大将が一時の戦況でいつ裏切るかわからないような武将を称賛するわけありませんよね。
これは関ケ原だけでなく、戦国時代のどの場面でもそうだったように思います。
朽木や赤座は戦場にいなかったという説があるくらいなので、今はまだ改定されてっている最中ですね。松尾山に桃配山からの鉄砲音なんて聞こえるわけもなく。松尾山にに入った時点で小早川は東軍だった説も出てきています。
赤座 朽木 小川は、東軍への内応を事前に徳川家康へ通告しなかったのが、致命的でしたね
関ヶ原後では冷遇されましたが、
朽木氏は織田信長の越前攻めの大敗時に離脱を助けたり
最後は幕臣で出世したとか中々面白いですよね。
ドラマ向きと個人的には思います。
それ以前に足形義昭など、足利将軍を度々匿っているかと
鍔下の返り忠って、むしろ南北朝時代はそうするのが当たり前だったんじゃないかな。
忠義心なんて概念は楠木正成くらいしか持っていなかった時代で、関ケ原のころには武士の考え方も大きく変わってますね。
さすがに小川祐忠は当時の人でもドン引きするくらい陣営を変えているから。
浅井→織田→明智→柴田→秀吉→東軍
陣営を変えた小川は忠臣(=かつての同僚)を何度も討ち取っている。
しかも小川軍が討ち取った平塚為広は、若い頃に秀吉に追放されても、浪人しながら秀吉軍の黒田官兵衛に陣借して武功を上げて帰参を許された忠義の人という評判で関ケ原でも最後まで戦っている。捕虜になった弟も家康に許されているし。
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家康が死罪にしようとしたのも納得できるだけの不忠者だったんですね
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藤堂高虎「こりゃアカンわ」
@@evolutiongmr7389 賤ケ岳の合戦の際に、越前に逃走する柴田勝家の時間稼ぎのためにわずか500人で殿を買って出た毛受勝照らを討ったのが柴田から羽柴に鞍替えした小川軍。
秀吉は毛受兄弟の忠義に感動して、丁重に首を母に返している。
ちなみに小川が浅井から織田に鞍替えするときに信長に口利きをしてくれたのが柴田勝家。
小川は履歴書書いたらただの疫病神でしかないしね
藤堂高虎は、秀長時代から家康に一目置かれて、秀吉直臣時代は、統治に関して秀吉を恐れず意見するぐらいの人物で
家康は一国の領主としても高虎を評価していたでしょう。
朽木は「大減封」と言われていますが、元々朽木谷に二万石の生産能力などなく、粉飾で家康の封じた九千八百石が妥当な石高だったと言われています
朽木がこだわったのは「鯖街道」の輸送路からくる利権であり、「替地」だけは絶対に避けたかったはずです
だからそれほど厳しい処分ではなかったと思えます
赤座にしても後に前田利長お預けになり、松任城七千石で復活します
真に厳しかったのは小川のみです いかに家康がこの人を嫌っていたかがよく分かります
朽木は、今も地名にも残る家やからね
@@user-tv1qs8dn2i
近江源氏の佐々木一族だからね
なんでそうなったのか疑問でしたが、納得できました。
戦国時代は単に利益をもたらせば評価されたのかもしれないが、この時家康が重視したのは今後秩序を維持するのに都合が良いかどうか。
周りの評判悪くてきちんと契約書を交わすことを知らないようでは信用されなかったのでしょう。
朽木は「淡海乃海 水面が揺れる時」という仮想戦記小説で天下を統一していましたw面白いので歴史好きのみなさんも読んでみては😃70万部程売れているとか😀
影武者徳川家康は歴史の疑問点を解決してくれてくれますが、淡海の海水面が揺れる時はそんな馬鹿な!と納得出来ない物ばかり!
@@user-ii3rz8my3c 隆 慶一郎先生の作品と比べると粗も目立つでしょうが、そこは多目に見てあげてください🌞
朽木元綱は松永久秀と親しかった様です。余談ですが、普通に考えて軍隊を一度裏切ると軍の評価よりも双方の家族達からの評価が変わる事が予想出来るので、悲しい末路が有るのも納得です。
最初から連携してた脇坂はまぁそりゃそうよねと
朽木は戦場に居なかったなら減封もやむなしかな…(ここらは怪しい話だが
赤座はなんというか、家は残ったし的なフォロー
小川は…
小川祐忠は家康から不忠者として嫌悪されていましたし、死罪を免じられただけマシ…というところでしょうか
@@user-dx7hr3dt9y 小川氏の復活してたりするならむしろ赤座の一人負けなんだろうか…
徳川吉宗の時に貧しい人に診療が出来る様に目安箱に投書し吉宗は小石川養生所が設立させて養生所の責任者になった医師が小川笙船で黒澤明監督と三船敏郎の代表作で有る主人公の「赤ひげ」のモデルになり、小川笙船は小川祐忠の子孫で有る。
小川家の物ですか、詳しいですね。
毛利も動いてないことを考えると、毛利も裏切りかなと
本当によく調べてあると思って感心しました。司馬遼太郎の「関ケ原」でも赤座、朽木、小川、脇坂の裏切りで大谷吉継は「あいつらまで裏切ったか。これは予想してなかった」と言って、小早川を押し戻すのを諦めたと書いてあります。だから、本来なら赤座など4将の裏切りは徳川家康からもっと評価されてもいいはずですね。でも、武士はただ乱暴に戦をしていただけではなくて、「合戦中に裏切るなら、事前にその旨を書状で総大将に知らせるように」というモラルがあったのですね。これは、当時の武士が合戦が始まったら日和見な態度で、東軍が勝ちそうになったら東軍につくというのは卑怯な振る舞いだというので、武士道としてやってはいけないことだと決まっていたのですね。同じような理由で、武田家滅亡の時の小山田信茂、北条家滅亡の時の大道寺政繁も「主家が弱ってきたら急に裏切るのは不忠者のすること」と非難されて切腹させられてます。
歴史って面白い!
映像に出てくる甲冑すごいかっこいいですね。どちらで観られるんですか?
家康の言葉が津川雅彦の声に脳内再生されるわ
ああいう甲高い声やったんやろな
それを真似してる松村邦洋が脳内再生されたわw
同じ津川さんでも独眼竜政宗の家康は甲高くありません
家康クラスともなると、今後の治世を見据えて、何でもかんでも味方すればOKではなく、戦略を乱すような輩は見せしめなくてはならんでしょうね
脇坂勝ち組過ぎる
まア今で言う業務提携契約してたから
あとはやってない
朽木は近江佐々木氏の流れを汲む名門、天下の変わるのを何度も見てきている。自分の家を絶やさないのが唯一の気持ちだったのだと思っている。侮辱されても祖先から預かった十数代の家を守る責任を果たしたと弁護したいと思う。
小早川との差は内応してたかどうかじゃないかな?
浅井の裏切りで朝倉攻めから織田軍が撤退する際、朽木が信長を殺していたら日本の歴史が変わっていた。先見の明がある一族。
小川は...ついに命運が尽きたか。
@@user-zp2hk8xf5g そもそも朝倉攻めは幕府軍としての行動なので幕臣である朽木は織田を助けるに決まってるぞ
なんだって「朽木」なんて縁起の悪そうな名前なんだろうか
@@user-lr9jh7vu8z
朽木氏が本貫地とした地が朽木谷だったのでそこから姓をとったのではないでしょうか
自分の領地の名前を苗字にした武士は多かったみたいですし
その他の人達は中々わからないから興味深いものですね~余り信用もされず何とも言えない末路何ですねこう言った人達はまたいつかは同じような事をするとずっとそんな目で見られるでしょうし・・
裏切りは助かりますが信用には足りませんね
徳川家康も「裏切りは好きだが裏切り者は好かん」という趣旨の言葉を発したという話もありますし、事前の密約のない裏切りは信用に値しないですよね
密約あった山内一豊も土佐に飛ばされてますからね。信長ならきっと論功一位にする活躍だったのに。
この動画すごい…再生回数がユキムラチャンネルに負けてない。
サイドストーリー的なものも面白いねw
裏切りは、怖い❗助かろうの気持ちはわからぬが裏切り方が良くないねぇ。
無理はせずに、 がんばって ほしいです。
事前に裏切りの根回しをしていなかった朽木、小川、赤座の処分は当然です。
小早川は大軍を率いていたから比較的厚遇されただけ。
秀秋が亡くなった後世継ぎがいなかったため改易されましたが、世継ぎがいたとしても何か理由をつけられて改易はされなくても減封されていたかもしれない。
いや、一次史料によれば、小早川軍はかなり前から東軍と通じていて、遅くとも、西軍が毛利勢を布陣させる予定だった松尾山に陣取った時点で両陣営から東軍とみなされていて、それに対応するために西軍の主力を大垣城から山中村まで振り回したという点では、東軍にとっては「最大功労者」なので、火事場泥棒的に裏切った四人衆とは待遇が全く異なるのは至極当然です。
小早川秀秋が再評価されてるの嬉しい。
小早川は最初から東軍に与することを合意していて大谷への突撃も裏切りではありません
因みに朽木らはそもそも関ヶ原にいたかもはっきりとわかっていない
後の豊臣系武将に対する処遇を思えば、ただでは済まないでしょうな
とてもわかりやすいね。いろいろな歴史本を読んでますけれども四人のその後にふれたものはなかったので気になっていました。良かった人悪かった人、ちょっとの対応の違いで後の人生決まってしまうのは今の世でも通じるところでしょうか?勉強させてもらいました。
大河ドラマの真田幸村のときに小山田が謀反する際も織田信忠に処刑されましたね。勝ち馬に乗っただけの者と調略に応じた者の差なんでしょうね。
内容に関係がなくてすみませんがこの動画に使われているbgmの名前ってなんですか?
朽木家が2万石と言うのは眉唾ものですね。というのも秀吉から貰った知行宛行書では9500石となっています。いつ一万石強の加増があったのか。石高倍増とか余程の功績がないといけませんが、秀吉時代に朽木元綱にそのような武功はありませんね
おそらく秀吉に高島郡の代官を任じられている(高島郡内の豊臣家蔵入地の管理)ので、それを合算されているのでしょう。似たケースでは肥後北半国領主時代の加藤清正は以前は25万石とされていましたが蔵入地約6万石との合算と判明し現在では19万石とされています
ですので朽木元網は増減なし、もしくは些少の減封の沙汰だったのでしょう
納得が行く話でした
この4人が裏切らず小早川を押し込めたら、合戦の展開は変わっていたんだろうか?
どうであれ、寝がえり=いずれはまた裏切る輩と 相手は判断するだろうね、そりゃ余程の信頼がないと後で
おとり潰しは免れない。
一時資料(合戦2日後の書状)では
合戦は午前10時ごろから午前12時ごろで終わったのか。
その前哨戦では、夜明け頃に関ケ原近辺において、大谷義継隊が東軍の先方部隊と小早川隊に挟み撃ちにされてフルボッコにされています。
戦の途中で寝返るような下衆はダメですね。前田なんとかいう成功者もいますが😃
誰それ
@@comuin. そんな事よりベルセルク再開するの気になるわ。
@@user-my7ru5xi1e それな!
@@user-my7ru5xi1e お前の四次元ポケットの中身見せろ。
家康も役者ですね。
さすが狸ですか。
いろんな人生があるんですね!
関ヶ原がまさか一日で終わるとは思っておらず、小早川が裏切る可能性についても聞かされていなかったんでしょうね。大軍に挟まれた弱小大名として生き残るために必死に立ち回ったんでしょうけど、結果は悲惨…。
12:17 仮名手本忠臣蔵の吉良上野介→高師直みたいにこの画像でも秋坂安治という仮名で登場してるけど、
浅井長政は実名なのが謎
勘違いをたまにしている人がいますが
主などに尽くすなどの考え方は江戸時代からで戦国時代では各々が自分達が生き残るにはどうするかを日々考え時には主を裏切るのは当たり前
そうはいっても国人衆も主を変える際は必ず事前に通知をしています。特に大勢力の狭間(境目の家)の国人衆は両属といってどちらの勢力にも誼を通じていました
有名どころでは真田家で、真田は武田の外様衆ですが境目の家として上杉(長尾)・山内上杉・北条と独自の外交をすることを許されています
『真田丸』で北条・上杉・織田と誼を通じて信長に降伏を許された真田家と何もせずにいきなり裏切った小山田家が対比的に描かれていましたが、降伏にも作法があると言う事です
裏切りが当たり前の理論が通るなら、小川 赤座 朽木が家康から冷遇された理由がかえって不可解になります
脇坂や小早川みたいな、事前の根回しや約定が欠かせないでしょう
朽木の名前に惹かれて来ました。
某なろうの淡海の読者ホイホイ。
あー、あの作品の読者さんですか~。
当方も作者さんが二次創作書いてた頃から見ていましたが……
最近はどうなんでしょうかね? 暫く見てなかったら、二次創作時代からの悪い癖である(本編が詰まると必ずやってしまう)外伝作品を書き始めていると聞きましたが。
関ヶ原で裏切りは侍がせぬことと言った松野主馬は小早川秀秋の裏切りに激怒して、戦場を離脱し、本来は不遇の人生を送るはずがあれよあれよと徳川家光の家臣となった。どうして松野主馬は上手く人生を乗り越えたか教えてください。
その松野主馬の話もどれだけ信憑性があるのかが甚だ疑問です。というのは、一次史料によれば、小早川軍はかなり前から東軍と通じていて、遅くとも、西軍が毛利勢を布陣させる予定だった松尾山に陣取った時点で両陣営から東軍とみなされていて、それに対応するために西軍の主力を大垣城から山中村まで振り回したという功績を残しているからです。そうなると、その松野某がどの時点で・本当にどういう理由で小早川軍から離脱したのか自体もまったくもって不可解な話になるんですよ。仮に小早川軍から離脱したとしても、実質的には東軍の徳川家に「引き抜かれた」可能性もありますし、何らかの理由で松野某の意思で東軍の徳川家に「移籍した」可能性も否定できないかと。
男らしく生きている人には色々な支援が来るのです。 現代でも同じ事があります。
松野は家光でなく忠長ですね。忠長の前も田中家に仕えていたので小早川家と合わせると3連続で主家が改易というなかなかついていない一生を送ることに成ります
@「無色見せて」といったら白出す人嫌い さん。
弱きを助け強きを挫く
@@toshis3972 それでも旧小早川家の家臣は再仕官することが難しかったことに対して、松野主馬は再仕官先が、恵まれていた為、そこまで酷い扱いされてきてない人生を歩みました。
2:58 「家康が長政の(右)手を取り」って聞くと、どうしても 官兵衛の「その時左手は何をしていた?」っていうのが浮かんでくる。
脇坂って忠臣蔵系のドラマに登場する脇坂淡路守のご先祖なの?
そうであってそうでない的な(脇坂氏は途中で養子が入るので
裏切り者は いつ裏切りするか わからん。朽ち果てよ!裏切り者 どの時代でも 裏切り者は破滅する
脇坂の子孫には寺社奉行になったのもいたからえらい違いだなあ
所詮裏切り者が優遇される事は滅多にないってことだね
たしか?島津は元々東軍だったはずなのに城にいれてもらえずに仕方なく西軍についたとか?しかもたったの1500人、
島津は遠く外国と交流もあり
色々のらりくらり3年ほど
していたら
家康からしたら味方でも敵でもないのでおとがめなしと
聞いた事があります。
遠国だったのは助かりポイント
九州の端っこの大名。関ヶ原では、わざと逃がしたと聞いています。毛利は必ず恨んでクーデターを起こすだろうから、その時の為に、借りを作っただけ。加賀藩と薩摩藩で見張りをさせるためですね。
脇坂氏は七本槍の中でも特に徳川に厚遇されてますよね。
加藤清正は二条城会見後に急死→11歳で後を継いだ息子の家督継承の際に様々な条件を付けられたあげくお家騒動で改易。ガス抜きに1代限りの1万石を宛がわれてお家断絶。
福島正則は勝手に城を修繕したと難癖を付けられて信州の山奥へ左遷。
加藤嘉明は息子の代にお家騒動で40万石→2万石に大減封。
と秀吉子飼いの七本槍の家系が江戸期に入って冷遇される中、うまく立ち回ったんでしょうね。
脇坂は石田とも加藤とも仲悪かったですからねw
2、3年前の 歴史読本かに 関ヶ原の真実とか 有ったよ
脇坂は秀吉様からは冷遇されてたのでしょう。誓紙を受けた家康は脇坂と家臣団の強さ
は見抜いてたと思います。
大阪冬の陣では、松平忠直・井伊・榊原・前田・藤堂と共に真田丸に当たらせているし
夏の陣での活躍は動画の通り。
後に幕府も脇坂家跡取り無く断絶させたく無かったのでしょう。老中堀田家の次男を養子に入れたり。
これで脇坂家は普代となり寺社奉行・老中と輩出して幕末を迎えます。
家臣団の強さは間違いないと確信しています。この辺りにも掘り下げて欲しいです。
タイトル見たら最初に赤座がきて次が小川か…もしかして五十音順?(笑)
今も昔も「お前が裏切ったらイカンやろ?!」って奴等は許され無い
情状酌量の余地がある奴等はガス抜きでお目溢しされるのは世の常
裏切り者は信用されない。
軽蔑されて、警戒されるのは明らか。
事前に裏切りの約束をしていた者、突然裏切った者とでは対応が違ったのかな。
小説を 基にしてるのかい 実際は小早川は家康と行動していた
小川笙船は小川祐忠の子孫らしいね(8代将軍吉宗の頃の人物)
赤座謀殺という話もあるそうです。
赤座は目の上の瘤である前田家に加わったので。
すいません。この音楽の名前教えくだはい!
大谷吉継「あいつらまでも!」
朽木は幕府由来(朽木谷に足利義晴・義輝親子を庇護する事累計で10年近くに及ぶ)のお家だから綱渡りのギャンブル好きはもはや血脈レベルだからね・・・・。脇坂は七本槍だし、淡路水軍を統括したこともあるし・・・出世レースに乗り遅れていつの間にやら松尾山の麓に布陣してただけでね。歴史にIFはないが刑部(もしかしたら刑部は建言して三成がスルーしただけかもしれないが)や三成が淡路守を帷幄にがっちり取り込んでればもう一回逆転のチャンスはあったかもしれないとは思う(松尾主馬に倣う小早川家臣がでるとかね)
内海の流れだから❗️越智の一族を見れば分かりやすくなります。
裏切り者に明日は無い!!
実話なのかどうか知らないが
関が原直前に 家康に面と向かって 自分は太閤殿下に多大なる恩義があるので お味方できないと断りを入れどちらにもつかなかった大名は誰だっけ?
その大名は 当然、領地没収でしたが
氏家行広かな?
おそらく田丸直昌でしょう。田丸は小山会議で家康に西軍に付くことを宣言。家康も余りの堂々とした態度に感心し東軍諸将へ居城までの帰り道を保障させた という逸話があります
ただ、残念ながら田丸は小山会議に参加していないのが各種史料にて判明しています。田丸が関ケ原開戦前に何処にいたのかは現状不明ですが、西軍として居城岩村城で東軍相手に奮戦しています