朝廷の体裁を優先したがために天才軍略家を失った無謀すぎる一戦|湊川の戦い
Vložit
- čas přidán 3. 08. 2023
- 湊川の戦いについて解説します。
✅関連動画
千早・赤坂城の戦い
• 【兵力差1000倍】鎌倉の大軍を翻弄した天才...
✅BGM
夜路:oto-no-sono.com
✅参考
湊川の戦い
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%...
楠木正成
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%...
湊川の戦いはなぜ起きた?背景・内容を簡単にわかりやすく紹介【天下分け目の大決戦!足利尊氏VS楠木正成・新田義貞】
manareki.com/
尊氏・義貞・正成の役者が揃った湊川の戦い!大逆転で北朝の時代へ
bushoojapan.com/jphistory/mid...
湊川の戦い - 刀剣ワールド
www.touken-world.jp/tips/8993/
一番恐ろしいのは有能な敵より無能な味方だっていう教訓があるね
バカな大将、敵より怖い
例えば牟田口廉也とかね。
@@user-tp1im1py9mその通り
牟多口のカスを忘れてはいけない
現場に出ない人間が会議の席でイチャモンだけ付けるのは今も昔も変わらんな
正に「事件は現場で起きている」ですかね?
「文系」の特権階級
問題はそのいちゃもんに耳を傾けてしまった事ですね。
現場にいても正々堂々と戦おう。夜襲はするな!なんて言って負けるやつも多い。
@@user-fb8yy6lo1xさん
踊る大捜査◯❓
軍の権威やメンツよりまずは勝てよ
足利尊氏は負ければ負けるほど強くなるという日本史上でも稀な才能があるように思います。そして気前の良さとカリスマ性など、どこかカエサルを彷彿とさせるところがありますね。
その意味では湊川の戦いは、軍事の天才であるポンペイウスが元老院の横槍が入りまともに戦えずカエサルに破れたファルサルスの戦いに近いとも言えるかもしれません。
常々、この戦いは「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」という格言を思い出します。
劉邦を彷彿とさせますね
項羽の方が圧倒的軍事的才能はありましたが、人を信じられず、用いることが出来なかった
連勝していたにも関わらず、追い詰められた項羽
劉邦は大敗すると自分の子供ですら、馬車を軽くするために投げ捨てるド畜生でしたが、それでも勝つことができた
上に立つべき人間に必要な才は何か、考えされられます
「おばかな上司 敵より怖い」
ってやつね
カエサルと天才ポンペイウスとの関係に似てますね!
まあ尊氏の気前の良さが、その後の室町幕府の体制の弱さの原因になっちゃったのがね…。
@@user-kx2gy3cd5x
どっかの味噌みたいにケチだったら、幕府開く前に負けてるからな。
楠木正成は「桜井の別れ」とかで戦前に忠臣だと称えられて、確かに忠臣だけど
正成の逸話や教訓は忠臣云々ではなく、有能で忠実な臣下が居ても上がしっかりしないとダメだって事なんだよなぁ
神戸市民です
湊川には楠木正成を祀る湊川神社があり、楠公さんの愛称で親しまれてます
広くて格式を感じます。
彼処ら辺は福原の宮跡があったり、ソー○街があったりと面白い。阪神、阪急の終着駅があったり…
須磨区民です。息子二人がその神社でお宮参りと七五三参りをしました。
この時、足利軍にいた佐々木道誉さん「朝廷に尽くすつもりなら、ここは取り敢えず降伏して、後で裏切ればいいのに」。佐々木さんは降伏→後で尊氏側に裏切るを三回ぐらいやってるからな。
○んでしまっては意味がない
これから幕府をつくるつもりの足利側にとって、前の幕府を倒す動乱を起こした正成は 危険人物だよ
寝返ってきたら 爆弾を抱え込むようなものだから 直義か師直が56すはず
そこは正成も当然分かっているから、最後に一縷の望みを賭けたんだと思うよ
@@sugisinfkk さん
そう、4んだら意味がない
だから正成は 「忠臣」じゃないんだよ
道誉さんは源氏だから 尊氏と同族みたいなもの、基本信用されてるけど、正成は赤の他人だし 前の幕府を倒す動乱を起こした男だから、これから幕府を創るつもりの足利氏にしたら 危険人物⚠️
寝返って来たら○されるだけだね
価値観が現代すぎる
今回も勉強になる動画ありがとうございます、また楽しみにしてます!
お偉いさんのメンツを守るために国民は全滅してでも戦う大切さを教えた話ですよね
今でも社会人になるとお偉いさんのメンツを守るために物理法則や法律の解釈を変更しなければならないので
メンツの重さは全く変わっていませんね
今の岸田総理にピッタリ
メンツのため粉飾決算して自社を窮地に追い込んだ会社トップが思い浮かびます。
歴史に学ばない無能なエリートが組織を蝕むのは古今を問わず変わらないのですね。
日本の糧道を断たれ”窮鼠猫を嚙む”心持ちで始めた戦争のはずが、最後は”一億国民総特攻”だもんな。
この時代、日本史の授業だとなんか覚えにくかったからこういうの好きだわ😊もっとほしい
覚えにくいというより、南北朝のあたりは、まあ「正統派」日本史では研究がタブーだと思います。
後世の価値観で、当時の人を評価するのは多分実情に沿っていないかも。
なお、戦前戦後、熊沢寛道という人物が近衛文麿ら政府要人、マッカーサーに対して、自分が南朝天皇だと上申しています。
佞臣の言を重んじ忠臣の言を退ければ、如何なる人物でも衰退するのは世の習い。
坊門さんの名誉のために言うと、侫臣ではないんだ、単に戦を知らない口だけの無能なだけなんだ。
一の谷の戦いと真逆な展開か
最高権力者になった後醍醐帝は 嬉しさのあまり 頭に血が登ったのか、イエスマンばかり 身の回りに置いちゃったからな
「孫子」を読んで
「信頼できる将が居たら 全部任せて 口を出すな」
を知ってたら 歴史も変わったかもしれないし、「貞観政要」をちゃんと読んでたら 諫言も聴けたかも
でも 自分が政治をしたい方だから ま、無理か😅
内裏を再建するために臨時税を取るような政権が支持されるわけないな。保科正之とは雲泥の差だ。
合理性の無い戦いをしては駄目だ、という教訓ではなく、勝ちより負けを承知で突撃こそが正しい
なんて楠木正成が聞いたら激怒しそうな学びをした日本陸軍
「体裁を優先」はもう人類史上ずっと続いてる負けフラグやんな
理屈無視で、俺がこう思うんだから現実をどうにかしろ!だもんな。
バカのすることだわ
(・ ∀ ・)まあ楠もさっさと裏切らなかったわけだから、体裁を気にした1人ではあるよね
大半はこいつダメだって裏切ってるわけだし
@@user-og8kx4ih7c
まぁそれ言ったら古今東西勝つも負けるも忠義を尽くしたやつは体勢を優先してる事になっちゃうんだけどね...
日本だけと思うな。お隣の中国や韓国にも、欧米にもある。
あくまで個人の推測だが、鎌倉幕府との戦いの中で危なくなったら恥も外見もなく逃げる事も厭わなかった彼が、あの時点で突如として理よりも体裁を優先した決断を下した事は、これまでの行動や彼の性格からして似つかわしくないと思っていたが、もしかして後醍醐天皇は護良親王の処刑後に失望したのか精彩を欠き、尊氏との和睦を勧めた正成を疎ましく思って、死地に赴かせる命令を下す事で体の良い形での粛清を図ったのでは?と勘ぐってしまう。
楠木正成、北畠顕家、新田義貞と尊氏・直義兄弟に対抗できるメンツを手札として持ってたのに無駄に使い潰した朝廷さん...
ぶっちゃけその中で足利に本当に対抗できたのって北畠だけだよ。新田とか鎌倉攻めに幼児の足利義詮に立場とられる程度の武将だし、楠木正成なんてその新田よりもさらに下。
本職が公家の奴が一番信頼できたとは‼️😭
北畠だけ明らかに異常なんだよね。あと楠木は明らかに過大評価。そこらでゲリラ戦やらせとくしか使いようがない。足利の重臣とかとまともに戦うだけの兵力が集められない
対足利だと一番頼りになりそうな護良親王を自分で処刑するのがね...
彼なら楠木、北畠、新田を纏めて率いるくらいのカリスマあったと思うんだけど
@@user-of5bn4zk5t 後醍醐というのは、倒幕の執念だけはすさまじかったけど、それ以外はDQNだと思う。
いつも面白い動画ありがとう
ともかく尊氏は無欲で大変に気前のいい男。
とった領地はすべて分配するので、尊氏が旗揚げすると大軍が集まって尊氏旋風が起こる。
その結果、足利家が将軍になるわけだが自分の領地をほとんど持たない非力な将軍のため
室町時代は混乱の連続であり、最後は戦国時代になった。
足利軍の最大の欠点。
策源地が、関東。
元々、分家の新田を地元においての遠征軍。
金、物資などの補給の問題。
楠正成も、そこは触れている。
@@user-ub7tt4gl8y
足利幕府中期、後方基地からの仕送り途絶。
関東の地元経営のために、
出来なくなった模様。
室町前線司令部、資金調達のため瀬戸内を整備し海外貿易に走る。
金稼ぎの海外貿易は、平清盛以来だ。
@@user-md2ci8mb6b
三河(当時は足利軍の牙城)の人間から苦情が来るぞ。まあ、三河もギリ東国と言えば東国だが。
@@user-md2ci8mb6b
足利軍の策源地は参河です。
いわゆる「優しい社長」なんだね
目の前の部下に 「自分頑張りました」と言われたら 良く頑張ったねと給料上げたり 昇進約束したりしちゃう
言った者勝ちだから みんな寄ってきて何かもらおうとする
そのあたり 後醍醐天皇と似てるよね
カネの切れ目が縁の切れめ、だよね
湊川迎撃になって、河内和泉の楠木方の国人も離反や中立が多くなったそうです。
京と河内、大和は淀川大和川初瀬木津川とぐるりと水運がなりたってて、その辺りに詳しかったのが正成。
当時の流通を抑えてたので情報も多く収集でき、裏道間道にも通じてたと思われます。
楠木党は商業武士の始まりだったのかも知れません。
京都に大軍閉じ込めて、食料や武具や矢、馬を途絶できたのは、当時の商人馬借船頭に大きく顔が利いたのでしょう。
倒幕後、正成は河内の守護になったが、倒幕の時に協力してくれた地元武士が今回は協力してくれない→今回は絶対負けると桜井の別れにもあるからな。
水運業に関わってた可能性は 大きいかもね
なんせ 「菊水」紋だからね
菊(朝廷)を運ぶ(支える→政治参画→政治的な力を持つ)
…とか、都市伝説の見過ぎかな😅
現在の 東大阪市あたりに住んでたかもしれない痕跡もあるし、水運,運送で財をなした可能性は あると思う
商業的武士としては 徳政令なんか出す時代遅れの鎌倉幕府なんて倒しちまえ、と挙兵したのかも
正成さんは 自分たち商業的武士にとって 都合の良い政権を作ろうと考えたのかもしれない…
と 私は想像してるんだけどねー
とても見やすくて助かってます!
もともと合戦が好きで解説動画みてたんですが、いままでみたどの合戦解説よりも分かりやすくて重宝してます(^^)
これからも動画投稿頑張ってください☆
旧日本陸軍は楠木正成の最後の最後にしか焦点を当てなかった。その前の軍議での合理的は軍略、戦略こそ学ぶべきだった。愚かなり。
l
兵数とイベントが講談がソースなのが難点ですかね。
講談は聞きやすく面白ろおかしく派手に脚色されているので、見失うものも多いので。
でも、入口としては面白くて最高なのは同意です。
楠木兄弟親子は強烈で壮絶だよなぁ。
そしてこれほどの人材を無駄死にさせるような使い方をしたのはあまりに残念。
足利軍の方が正成の死をいたんでいるからな。
後醍醐が自分の為に働いて当たり前。と思い込んでいる自惚れヤロー。
無能者が高位にいると人材を使い捨てにするのは、古今東西、今も昔も変わらない事。
そして支えてくれた有能・有為な人材がいなくなり最後に恥も外聞も無くみっともなく不様に逃げ出すのも変わらない。
@@douzujonn9402天皇というか日本人なんてのは今も昔もそういう生き物だよ。戦犯ヒロヒトなんか後醍醐以上に凶悪だったし。
@@user-it9tb4um2p 楠木正成は絶対に裏切ったりしないから殺すしかないんだけど、
もし味方だったら、友達だったらって思わせるような人だったんだろう。
足利陣営は戦は強くても人間的に信用できんやつらばかりだし。
神戸の街をうろうろした時に、この湊川と鵯越がびっくりするほど近い。その源平合戦の生田神社も三韓外征後に神功皇后が帰った時建てたものとか、歴史と地理の因縁みたいなものを感じました。
大学受験勉強中で南北朝成立が全然理解できず困っていましたがものすごく助かりました。もちろん受験に必要のない細かい知識まで覚えるつもりはありませんがこの複雑な勢力の入れ替わりを理解するのは難しかったのですっきりしました!
南北朝はややこしいんですよね
正成が天皇に和平を勧めたのは、九州に落ち延びる足利軍に付いていく朝廷側の武士の多さにショックを受けたからと何処かで見た
どれ程後醍醐天皇の政治に不満が溜まってたか分かるエピソード
15年ぐらい前に正成を題材にした「その時」でやってましたね……。
「負けて勝つ」という現実を見せつけられて、理想主義的な後醍醐政権に民衆ばかりか官軍について戦った武士たちの間にも不満が溜まってたと
その現実を受け入れずに「最後まで戦え!」って言ってた公家衆はなんだか第二次大戦中の日本軍上層部の御先祖様なんじゃねえか!?って思っちゃいます
足利尊氏はとにかく部下に対して気前が良かったみたいですね。褒美をポンポン出す。それでいて度胸も座っていて本陣が落ちそうになって周りがアタフタしていても、一人不敵に笑っていたとか。でもメンヘラな一面もあり度々情緒不安定に陥るとか、正に英雄だと思いますね。
ジャンプで連載中の逃げ上手の若君やってたなこの話。
国営放送の「英雄たちの選択」だったか「ザ・プロファイラー」の楠木正成の回で「九州に落ち延びる足利軍に付いていく朝廷側の武士の多さにショックを受けたから」と言う話が出てましたね。実のところ後醍醐天皇の建武の新政で満足してたのはごく一部のイエスマンだけで、無二の忠臣とされる北畠親子も不満たらたらだったようで。親父の親房は後醍醐の生前は遠ざけられ、息子の顕家は死ぬ前に七項目に渡る諫状を後醍醐に叩きつけてました。で、南朝もとい楠木正成びいきの『太平記』は後醍醐を徳のない天皇だと間接的にこき下ろしてます。
やる気だけは有るアレな人がトップだと、ろくなことが無い証左
本来足利と縁がない、西日本の武士達が大挙して足利に付いてる時点で、実質負け確なんだよな。
公家や皇族の見栄で負けた戦って意外とありますよね。
保元の乱も、上皇方の武士たちが夜襲を提言したけれど、藤原頼長が
却下したため、逆に天皇方の夜襲を受けて結局敗北。
楠木正成の策を却下した連中もしかり。戦は武士に任すべし、
餅は餅屋…ということわざが的を射ていたということですね。
崇徳院軍の頼長さんが「夜襲は卑怯なり!」と為義の作戦を却下したその夜に、
敵(後白河帝軍)から夜襲されてたね。😅
やっぱり実戦の経験の無い上流貴族のお坊ちゃんの考え方は甘い。
@@user-ec2sf1vt8y ただ貴族である頼長が軍事的な事に口出しするというのは、
ある意味貴族の身でありながら武士のフィールドに降りて来ている訳でもあり…
天皇方が夜襲を認め、それが成功したのは天皇が全く口を出さなかったからだが、
それは彼らの能力を信頼してではなく、天皇たる者がそんな武士の領分
(つまりは『汚れ仕事』)に介入するべきではないというそれだけの事。
要は"差別意識"の表れでしかないのだが、たまたまそれが功を奏したと言える。
頼長は「夜襲なんて卑怯者のすること」自分達だけが正義だと思ったんだろうが、お隣中国では「正義を貫くには勝たなければならない」と考えていた。頼長はガンダムのガルマお坊ちゃまみたいだ。
@@user-ec2sf1vt8y
宋襄の仁
まさにそれだな
新田さん確かこの後も苦労するから悲しいわ
徐晃が背水の陣で臨んだとき、曹操は「徐晃は兵法を学んでいるがその真髄を理解できていない」と言ったが
新田の背水の陣もまさにそんな感じなんだろうな。
陸と海から挟み撃ちにされないように、摂津辺りまで引くべきだと思うんだがな。
韓信の背水の陣は、敵の大軍に包囲を受けないよう川を背にして城塞を築くことで戦場での主導権を握り、いざとなれば兵を捨てて船で逃げる後ろ堅固の万全の防御態勢で、しかもあくまで別動隊が任務を果たすまでの時間稼ぎが狙いですしね。
演義の徐晃は項羽の破釜沈船をやりたかったのでしょうが、学の無い王平ともども韓信の背水の陣と勘違いした結果、徐晃は大敗を喫しました。
新田義貞は敵の主力が水軍にも拘わらず和田岬に陣取り甘んじて大軍の包囲を受ける状況を生み出したように見えますが、かつて大輪田泊があったように大軍の上陸に適した場所だったので、ここに布陣し水際防衛を目論んだ新田義貞の着眼点は良かったと思います。
釣られてどこかに行ってしまいましたが。
退路を断って覚悟を決めるどころか自ら包囲殲滅される状況に身を置いてますからね。
背水の陣て当てにならない囮を必死に戦わせるための陣で
敵を攻撃する部隊までそこに居ちゃねえ
@@user-it9tb4um2p新田義貞公が無能でもない限り、湊川死守が勅命に近い形で出されてしまっていたとしか考えられない布陣なんですよね。
どっかの少将は「男のメンツ、軍の権威を傷つけられても勝てばよろしい、そのあとで私が名誉回復してあげましょう」
と言ってた
メンツとかは、勝ってから考えたらいいわけです
そう言った当人が、状況も弁えずに『父を葬ったコイツだけは許せん』という
咄嗟の感情だけで兄殺しに走り、ジオン総敗北の引き金を引いてしまう皮肉w
キシリア・ザビの名言ですね。
@@un-105x
ギレン「気持ちはわからんでもないが、今ここでやったらどうなるか、解らないほど我が妹は愚かではないはず…ハズ…だよな?」
最初は「ギレンうぜぇ」
ソーラ・レイ照射後
「ゼッテー〇〇ス💢💢💢‼️」
楠木正成を見る度に、河内の悪党の親分にすぎない出自なのに、広く全体を見渡す優れた戦略眼と、際立った戦術を備え持った不思議さだわな。さらに忠義に厚い人物像。ホント、この人なんなの?って思うわな。もちろん感心する意味で。
一応最近の研究では正成は北条家の御内人として近畿内の悪党の討伐を行っていたのでそこで悪党流の戦術や戦略を身に着けたのものだと思う。
楠木正成のゲリラ戦や情報収集等を日本陸軍で戦史研究として士官学校や陸軍大学校で教育すれば良かったのに。戦前で楠木正成を取り上げるのは湊川の戦いで少数で足利軍に玉砕して楠木正成は弟と七度生まれ変わり朝敵と戦わんと言って自害し、滅びの美学が強調された。
軍部は面子ばかり優先して、学ぶべき事がすっぽ抜けていましたね。
美学は死に様にだけでなく、生き様にもあるという事を・・・いや、生き死にの全てにあるという事を知らねば。
死に様を飾るのは生き様、死に急ぐことは美学ではない。
乃木希典もそうですね、実際には戦略的に旅順要塞を陥落させたのに、突撃が強調・美化された。
何で 勝ってた戦を手本にしないで 負けた戦を手本にしちゃったのか?
何でその考えが 日本中に伝染しちゃったのか?
謎なんだよなー💧
@@memejiro7147 実利、国益よりも己の地位の保全と自分達は考える人間、国民は従って動く人間って関係を強化することを国益だとすり替えて優先したから。
戦争ってリアリズムの極致なのにそこに思想を持ち込んで、実利よりもそっちを優先するとか。
兵士って育てるのに金も時間もかかってる重要な資産なのに、上にいる自分達は重要で一兵卒は玉砕させて次々使い捨てればそりゃ全体的に弱くもなるよ。
現代でもブラック企業とかそうだからな、自衛隊も予算がどうの言うがそもそも昔から隊員の個人装備に金かけて来なかったせいで時代遅れの装備使わされてるし。
日本人の特質なのかもな、だとしたら日本人は戦争に向かないって言い分わかる気がするわ。
@@memejiro7147 本来は負けた戦に対してあなたならどのようにして動いて勝利に導きますかというのが本来のあり方なんだけど、情緒的な部分だけを優先してしまった感じ。
明治政府は最期まで天皇に仕えた忠臣として楠木正成を皇居に銅像を建てたりと大々的にアピールしてたけど
学んだのは天皇への忠誠心だけでやってる事は楠木正成を妨害した公家と何一つ変わらない戦略性だったのがなぁ…
楠木正成の故事の振りかざして政権を簒奪した挙げ句、やらかしたのは坊門清忠のデッドコピーだもんなぁ。後醍醐一派の無能は日本の政軍関係論上、最悪の結果を招いたと断言していい。
それ明治政府じゃないだろ
「これは湊川だよ」帝国海軍第一神風特別攻撃隊「神雷部隊」指揮官 野中五郎少佐の出撃前の言葉。「桜花」15機搭載の1式陸攻18機は敵艦隊目前で多数の直援戦闘機に攻撃され全滅。
私も、これ思いだしました。
正直、湊川の時点では戦略的に詰んでるというか、追撃できない間に西日本を制圧された時点で負け確定なんだよな。
泣かせるなあ・・名将:大楠公
ここまで文献残ってたのは凄い
ただまぁ、太平記の記述はねぇ・・・千早赤阪の戦いの幕府軍100万とか、中国の史記並に数字が盛られまくってるから…(^_^;)
神戸の大半は後世の埋め立てで出来てるから、今の地図で当時の戦いを説明すると訳がわからなくなるな。
湊川 っていう そこそこ大きい「川」があったらしいね
負けて死ぬと分かっており、かつその後尊氏が京都を占領して天下を取ると予想していた正成の心中は如何
後醍醐天皇が傲慢過ぎたんだよな
楠木正成の魅力である忠義が戦前の天皇のため、お国のためみたいな教育とか特攻隊に悪用された。そのせいで未だに大河ドラマの主人公になれてないのが残念
楠木正成の人生を1年の大河でするには無理だと思いますよ。
@@user-vg4lj6ly4l 前半生が分からないからですか?山本勘助や明智光秀、井伊直虎すら出来たから僕はいけると思います😊
@@user-dz6pu1pg7t 井伊直虎ができたぐらいだから、いわれてみたらできますよね。あれって、最近の学説では男性だったという話ですし。
今度楠正成像を見に行くのでその前にこの動画を見れて本当に良かったです!
配下が優秀でも上が無能だと負けるんやな
それ、さんざん言われてるで。
大正昭和へんのやつで。
古来から、1匹の狼に率いられた1000匹の羊の群れは、1匹の羊に率いられた1000匹の狼を駆逐すると言いますからねぇ
武田鉄矢の楠木正成を思い出すなぁ~
どんなに凄い武将でもどうにもできない現実
終わり方はそれぞれだけど、いろんな歴史的人物をみても織田信長と楠木正成は別格だよね
かっこいい
個人的に楠木正成は岡田准一がハマり役だと思います。是非大河でやって欲しいですねぇ
逃げ上手の若君の楠木正成も武田鉄矢風でしたね。
しかし最期までかっこよかった。
アニメ化されるそうなので楽しみにしています。
信長のブレーンと思われる人物が楠さんっていうのがまた何とも。
戦国期史料に信長の発言「答えが分からん、楠、我を助けよ」ってのがあるね。
どんなに優秀な人物でも、上に立つ人間が無能だと力を発揮することはできない。
これは現代の企業にも当てはまります。
@@mu1me2mo1さん
へー、そんな話があるんですか
以前何かの本で、信長の祐筆の池田なにがしって人が 正成の子孫だ、と読んだ覚えがあって、その時はよくわからず、池田恒興の事かどうかも 覚えてないんだけど💦
それとは別に最近聴いた話では、正成の長男正行の妻が妊娠中 彼女の実家が楠木家から寝返ったので離縁され、それを知った池田なにがしって人が彼女を嫁にもらい 生まれた男子を育てて池田家の当主に据えて その後代々続いた、ってのもあった
詳しく知ってる方いたら 教えてください
😊
馬鹿な上司に忠誠を尽くしても見返りがないんじゃあね。
人を見る目も大事だよな。
新撰組も同様だよね。
戦前、神格化されたせいで、戦後、楠木正成を取り扱いにくくなったのは残念。
それでも正成が尊皇カルトの信者だったことには変わりない。この危険な極悪人を話題に上げるにしても、南朝や天皇を正当化する方向に向かわないように警戒が必要。
大楠公を悪く教える教育は、絶対によくない!
今ならむしろ取り扱いそう、岸田総理が。
ここら辺は“逃げ上手の若君”でやってる所ですね
楠木正成は湊川で死んで「伝説」になった。そして、湊川合戦に先例をとった菊水作戦で戦艦大和は伝説となった。
その「死」が、その後千年にわたって語り継がれる「生」となる不思議。
沖縄へ特攻する際にある特攻機の搭乗員が「湊川だよ」と言ったそうだ。
@@user-pf6ry8dt8d
そして、彼らは日本に千年残る名を刻み、伝説となりました。いや、名を残すこと自体は結果でしょう。
若者たちが遺した思い、あるいは問いかけは、千年先の人々にも何かを響かせるものであるはずです。
あるいは、千年先一万年先に世界を救う誰かの心を動かすきっかけになるかもしれない…願わくは、そんなことがなからんことを、ですが。
終戦の日に。
義貞公は天下五剣の内二振りを持って戦ったのか
楠木正成の本質はゲリラ屋じゃないかな🤔
そもそも1騎=1人ではないんだよね。騎乗の武士1人に轡取り、槍持ち、討ち取った相手の首を取って持ち歩く者の計4人で1騎だったかな。
そして太平記の記述がまた、数盛り杉で適当だったり。何万もの軍勢を乗せられる軍船が簡単に調達・運用できる訳もなく、あんな狭い場所で何万もの大軍を展開出来る筈もない。
下手な日本史の授業受けるより、この動画見せる方が勉強になるんじゃないか?と思いました。ちなみに小生が読んだシュミレーションゲームの本では「楠木正成の不幸は新田義貞と言う非常に無能な武将をパートナーに持った事である」と新田義貞贔屓の人が見たら激怒しそうな事が書かれていました(笑)。
アド・テクノスのゲームのヒストリカルノートあたりかな?
北方謙三の「破軍の星」は面白かったから是非読んでいただきたい。これは北畠顕家視点で書かれているけど、この時代についてよく書かれていると思う。
NHKはこういう作品を大河ドラマでやってほしいよね。「どうする」は歴代最低クラス、
紫式部は人気が未知数。時代物には合戦シーンは必須なだけに、世に埋もれた歴史小説
はドラマ用にもっと見直されるべき。
土地勘が無いので、地図で説明頂けると本当に分かり易いです!
小説では円心から見た正成が描かれる「悪党の裔」が好きですね。
河内と「かわうち」と読まれて残念。
この動画の後半できちんと言及されている通り、湊川の合戦の本戦は、正成討死後の生田の森の戦いですね。もちろん、正成の戦ぶりを軽視するつもりはありません。
第二次大戦後に南朝系天皇の子孫を名乗る人物が現れましたね。最近では愛知県内に三河南朝があって地名まで残っているみたいです!
日本史に明るくないので、こういうわかりやすい動画は助かります
この時公家を大規模に処断しておけばその後の日本は随分変わったでしょうね。
結局,御公家様は何も分かってなかったってことか…
南北朝ら辺面白いから
漫画がジャンプで出てくれてるのが割と嬉しい
足利軍も細川、上杉、斯波、赤松と室町オールスターやん
この戦いの時は珍しく道誉さんの名前が出てこないんだよな。予備部隊とかで出る前に終わったんだろうか。
@@user-it9tb4um2p 道誉さんならこの時本拠地の近江に滞在していた説がある。
解説がわかりやすくていいですね。また魔理沙が敬体(ですます調)で話すのも、この動画の良いポイントに感じます。
歴史にたらればは禁物でしょうけど、あえて聞きたい。
もし朝廷方は正成の進言や策略に反発せず、取り入れていたらどうなっていたか?という点は気になります。
余談ですが、新田義貞の銅像がJR/京王線の分倍河原駅にあります。
時行だけでなく、尊氏も後醍醐帝も『逃げ上手』なのよね
男として生まれたからには、楠木正成の様でありたいと常に思う。
ちなみに、小説「破軍の星」オススメです!北畠顕家が主人公の物語ですが、マジで傑作だと思います!
南朝は人材不足なのに、その人材の使い方がほんと下手というか。
楠木正成を失ったのも痛いですが、北畠顕家と楠木正行という若くて優秀な人材も
早々に使い潰してしまってますからね
逃げ上手の若君おもいだしたわ
青葉茂れる桜井の〜里の辺りの夕まぐれ〜🎵😭
蒙古襲来の動画と合わせて考えると、それまで、恩賞目当てで超人的な戦闘力を示してきた武士と恩賞を捻り出してでも与えようとする統領が居たのが、北条高時や後醍醐帝の様な特異な人物が登場してその関係を崩してしまった。更に異常だったのが、軍略家として天才的だった以上に見返りを求めない忠義というものが武士として美しい徳目であると主張し自らのカリスマ性によって時代に刻印しようとした楠木正成という存在があったこと。個人的には、自らの小説「新太平記」で吉川英治が作り上げた楠木正成像、時代の中で自分の成すべきことを見つけそれに努力し成る成らぬはあっても筋を通しそれに殉ずる、というのが好きだな。息子に、世の流れを見つめていけば自ずと志を持てる様になる、そうなれば一人前の大人だから自分の命をそのためにいかようにも使えば良い、と言って河内に帰らせている。別に忠義を尽くせとは言っていない。創作とはいえその方が気持ちに合う。次代の人が自然に忠義を尽くす様に人々が努力し実を結ぶならそれは良い、人々がいい加減にして週刊誌の娯楽ネタにしていて馬鹿馬鹿しくて忠義を尽くす気が無くなってしまうならそれも致し方ない。私の罪であり人々の罪であり次代の人の罪である。それで2000年の皇室が一瞬で失われる。それが自分の罪業であることを知っているのは私だけだろう。他の人にとって皇室など自分の生命や富裕幸福と比べて些細なことだろうが。
湊川でボコボコにされたあとに都を放棄して泥沼に持ち込んだ南朝方
最初から都を放棄して持久戦に持ち込んでたら...
戦国時代の始まりの始まりだから当然なんだけど、戦国の世に聞く人物のご先祖様(小山田や吉良、赤松などなど)が出てきた瞬間おもわずおぉーってなった。
良禽(りょうきん)は木(き)を択(えら)んで棲(す)むと言うが、南朝方が良木だったのかは疑わしいところ
桜井の訣別内容は戦時高揚のための軍歌なんやけど泣けるねえ ほんまゴダイゴゆるさんで
czcams.com/video/U8yjnEu0QJY/video.html
尊氏が四国に謹慎してたら元寇と白村江の恨み晴らしに征けたのに
文禄慶長日清日露第一次対独シベリア出兵シナ事変と
ずっと日本人は大陸で
すめらぎいやさかの本にアジアの八紘一宇確立するため頑張る羽目になったから.....
同感
正成推しだと ゴダイゴ許せないんよなぁ(苦笑)
ガンダーラ、ガンダーラ、愛の国ガンダーラ🎵
青葉茂れる櫻井の♫、ってあれ普通の唱歌しゃないのか?
@@eh3063
うんうん、ウチの亡くなった祖母や父が、尋常小学校の授業で習って歌ってたそうだから唱歌ですね。😊
平敦盛と平忠度の「青葉の笛」の歌も同じく唱歌だし。
昔の唱歌って綺麗な曲で好きだなぁ❤️
源義経や上杉謙信も、戦闘では強いですが大局的視点が微妙に感じます。湊川は官軍でなければ戦すら起きなかったかもしれない戦力差ですね
当時の淀川水系を考えると、足利軍が東進し淀川水系を遡上すれば京都を足利軍を強襲出来るんですよね。
今は干拓されて無いですが巨椋池まで遡上されれば、伏見や宇治まで一気に兵を進めるコトが出来ます。
無理ですよ、巨椋池治水事業で大規模に港湾整備したのは秀吉で、瀬戸内の船では淀川を遡上できませんから、河川用の船を大量に用意する必要がありますが
兵員を大量輸送するだけの船が無く(秀吉も大山崎の合戦は陸路を選択)
河川の流れも木津川・宇治川・桂川三川合流域の治水事業が出来ておらず、河川を大軍で遡上した場合、上陸地が極めて限定されおり
軍勢は間延びする。行軍は河川の流れに委ねられ、無理に上陸すると、淀川流域にあった大湿地帯(昭和まで残っていた)にその多くは足を取られることになるし
軍勢の多くは西国の兵で占められているので彼らに地の利は無く
逆にそれは、楠木正成にとっては敵軍本陣を討つ好機になります。
まぁはっきり言って、当時の淀川流域は大規模な氾濫原と湿地帯で構成されていますので大軍の展開は不向きでしたから、上洛を目指す大軍を各個撃破するのにうってつけの場所である。(長岡京ではなく京に都が置かれた理由と言っても良い)
ちなみに、豊臣秀吉が伏見に築いた城は伏見城(2つ)の他に、向島城があります。これは巨椋池に面して築城され軍港機能を有した水城として、淀川流域の軍船を管理したと考えられています。
巨椋池干拓事業前までは現存していた。
同様の施設は、豊臣時代の淀城であり大阪から速やかに軍勢を上洛させるために、また、伏見城から大阪城へ退去するときの防衛施設として機能したと考えられています。
後醍醐天皇って、独りよがりで現実を見切れなかった印象しかない。
鎌倉から京に行って九州に逃げるとか
この時代の戦ってスケールがデカすぎる
7:26坊門…って、鎌倉幕府三代将軍源実朝の御台所の実家?
楠木正成や新田義貞、北畠顕家ら南朝方の武将は日本のヒーローだな
湊川だよ って言って飛び立った特攻隊の隊長がいたような
桜花神雷部隊を率いた野中五郎海軍少佐ですね。
状況的に、
楠木兄弟の最期の会話を聞いて、生き残った人いるんだろうか?
愚策を出す家臣が存在するのは、どの組織も同じ。どの策を選ぶかが、トップの力量だね。
楠木は敵を追い返したとありますが、おそらくわざとでしょう。
手加減してギブアップを狙ったのではないかと思います。
それでも降伏しないので、とどめを刺したのでしょう。
実際、尊氏たちは正成の首を見て嬉しがるよりも、「残念だ」と凹んだそうだからな。新たな幕府に加わって欲しかったんだろう。
戦のわからぬ公家に殺された楠公
戦前の陸海軍大臣が現役武官に限られたのは、
戦の分からぬ政治家が戦争を始めないようにするためだったが逆効果になってしまった。
そんな立派な志は最初からないが。単に軍部が政党から口出しされたくなかっただけ。
日露戦争勝利の最大の立役者、山本権兵衛海軍大将が首相の時に、陸軍大臣海軍大臣現役制は一旦廃されました。
現役制の弊害を熟知してるから。
大河ドラマ「太平記」で、正成の献策を「愚策も愚策」と罵り退けた公家の坊門清忠が憎々しくて仕方なかった。
後醍醐天皇からしてみれば、鎌倉幕府打倒のために活躍した武士って言っても最初から朝廷側で戦った武士もいれば最後の最後で朝廷有利と見るや幕府側から寝返った武士もたくさんいるから誰にどの程度恩賞を与えるか、煩雑を極めたらしいそれで不満を持たれても…って感じ
甘いな。武士の最大の不満は恩賞がないことではなく、公家や寺社が昔の所有権を主張して、今の所有者(武士)ともめたからだ。鎌倉幕府はそうならないよう、20年たったら過去の所有権は無効としていた。
煩雑を極めたから 「雑訴決断所」という役所を作って 決定権を持たせて 訴訟と判決のスピード化をはかった
…はずだったのに、後醍醐さんが 綸旨を出してひっくり返してくれるんだよな💢
まず、尊氏が戦功第一だったのだろうか?六波羅探題を落としたのは確かだけど
挙兵以降頑強に抵抗した護良親王、北条方の攻撃を一手に引き受けた楠木正成、
鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞。確かに武士の声望は尊氏に集まっていたが、
その当時の後醍醐天皇の声望から見れば護良親王を持ち上げて征夷大将軍に任官し
鎌倉時代に冷遇されていた武士を護良親王配下にしたり、恩賞にしても
北條氏の遺領を武士と公卿で公平に分配もせず、まるで後醍醐天皇の好みで
与えた事により武士の不満が高まった。箱根・竹下の戦いにしても武士方の
裏切りにより敗戦を喫した。湊川の時点では野戦では勝つ要素が無かった。
個人的には、各地方に武家方と公家方により各地方での論功交渉を行うべき
だったと思う。建武の新政は結局半年後には失敗が明確になっていた。
だって、鎌倉を攻めた関東武士の大半は「足利軍の現場監督の新田さん」に従っただけだからな。当時の新田さんなんて、その程度の扱いよ。
@@user-it9tb4um2p 確かに途中で子供の頃の義詮が参陣しており、太平記にもそう記載されているけど、本当にそんなに影響があったのだろうか?子供やおつきに戦功が評価できるのも思えないし、鎌倉攻めの戦略は義貞が行っているし
@@user-cx4zg9qn6x当時の足利家は北条家と親戚関係にある幕府の重役、源頼朝から頼朝の一族だと名乗る許可をもらってた事もあって一定の求心力はあっと思う。
@@user-gg7cu2hz7p 新田義重が頼朝に参陣しなかったり、娘を所望
され断ったりして、足利家が源氏の棟梁的な扱いに対し新田氏は
一御家人であり、人々の認知度は低く鎌倉を攻め落とした時には
京では新田氏は足利氏の一支族らしいと言われたらしい。
但し、義詮がいつ参陣したかは不明であり、小手指河原・分倍河原
の戦いに勝利し鎌倉攻めを指揮したのは義貞である。
確かに鎌倉陥落後新田派と足利派で主導権争いが起こり義貞の
上京が遅れたとの話がある。
@@user-cx4zg9qn6x
お付きというか、鎌倉や足利(本拠地)に残ってた足利軍の幹部なんだから、そのくらい余裕だが。別に全軍で京都に行った訳じゃない。
建前や面子を気にする人はどの時代にも居たんですね。
中世人は上から下まで須らくそれやぞ
勘違いしてはいけない
建前やメンツで戦いに勝てれば誰も苦労しないんですよね。で、結局楠木正成が戦死した後に後醍醐は都から逃げ出し正成の死を無にしたのでした。
むしろ、古今東西、存在しないコミュニティのほうが珍しいかと
足利軍を京都に入れた上で持久戦に持ち込むこの正成の策、実行されていたら成功したかというと、結構怪しいとも思います。
尊氏は先に一度その手で京都を追い落とされて九州まで逃亡したのですから、同じ手を食う事は戦略・政略双方で回避する筈。
今回は光厳上皇の院宣を奉じていますから、京都に入ったら後醍醐天皇を廃位して持明院統の天皇を立て、政略的に後醍醐方を圧迫するぐらいの事は直義が考えたでしょう。また正成の案が却下されたのは公家達が頑迷だったのだけではなく、実際それは出来ない相談でもあったのかも知れません。
正成は尊氏と和睦したかったのですよね。義貞の為に死ぬ事になったのは不本意だったでしょう。
後方の播磨、摂津方面にも赤松さんほか戦力を残すだろうからな。
とはいえ、他に勝てる可能性のある選択肢が無いのも事実。
戦力差があり過ぎる上に、京都は戦力が劣る方が守るには不利過ぎる地域なので、京都は放棄して、大軍の弱点である補給線の攻撃に徹するゲリラ戦は、やはり南朝側が取りうる最善の策だったとは思います。
この時点で取り得る一番マシな策が京都放棄しかなかったのはその通りでしょう。
正成としてはこの案が蹴られた事より、尊氏が九州へ敗走した時点での和平交渉を却下された事が痛恨だったでしょうね。
実際の和平交渉もとりあえず義貞をぶっ殺そうぜと正成が提案していたという私情丸見え(鎌倉武士(御家人)の理想像を重視する義貞と近畿地方で寺社勢力や非御家人武士(正成自体も御内人(非御家人武士))と関係が深かった正成は相性はよくないといわれ、一方で、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった尊氏との好意的感情が強かった)の提案だというのも大きいですね。
鍋蓋が 沈んで 浮かぶ 釜の蓋
鍋蓋は新田家(義貞)の家紋
釜蓋は足利家(尊氏)の家紋
このような川柳(狂歌?)が在ったそうな。
上陸を防ぐために和田岬周辺での戦闘になったんだろうけど
結局引くのであれば、囮の軍勢を楠正季に5000与えて足利軍の進軍路を大山崎経路に限定させれば
この当時の地勢であれば足利軍が淀川から全軍が上がってくるには厳しく
播磨から丹波路が一手、尼崎から陸路が一手、大和宇治方面から一手と分散すると思うんで
恐らく丹波路で進軍するだろう足利義直部隊をまずは、足止めし
大山崎周辺の湿地帯で戦えば、そこそこ数のある新田隊に勝機も見えたかもしれんw
太平記って誇張がすぎる。実際問題、五万でも多いと思うけど、50万?
ファルサロスの戦いの前のポンペイウスと重なるところがある。真に恐るべきは無能な味方ですね。
山岡荘八は、『新・太平記』の湊川の戦いにおいて、楠正成(あえてこう書く)に、「オレは一度も負けなかった」と言わしめている。
楠木正成の大河とかやらんかなー。
今も戦時国ならやったでしょう。
大河ドラマとは言わないから、この時代のドラマとかゲームとかアニメとか出ないかなぁ…めっちゃ見たいんよね。
後醍醐天皇と足利尊氏、どちらを主人公にしても色々問題があるので作りづらい···
光栄の『蒼き狼と白きⅣ』ならシナリオによっては足利尊氏が出ないこともないんですけどね。
ノブヤボみたいなシステムで作ったら面白そうな時代ではあるんですが、どうしてもマイナーなイメージが付いて回る時代だしなぁ…
ワンチャン、Europa UniversalisシリーズのMODであるかも?
なんか大河ドラマの太平記観たくなってきた…(゜゜)
当時の人口から考えて30万というのは無いでしょう。実際は5万でも多いかと。そう考えると楠木正成の700が奮戦できたのも判ります。
太平記の記録は眉唾だから話半分で受け流そう
そもそも赤坂城千早城に攻めた鎌倉幕府軍が100万だぜ?
あんなクソ狭い山にそんな数押し込めるかい
現実的に考えるなら足利軍は10万居れば良い方、新田楠木軍は2万〜3万と考えればまだ話は分かる
後醍醐天皇では足利尊氏を再度破ってもまた新たな戦いが始まってたでしょう。
元々不平等な政策が多かったので。
後醍醐天皇の治世中は戦争ばかりでした。
他人の褌で事を成してるのにねぇ
気の毒とは思うけど天皇が大昔の一時期を除いては傀儡だったのも頷けるわな😅
大阪の人は、豊臣秀吉を慕う人達が多いけど、大阪でも河内の人達は楠公と言って楠木正成公を慕う人達が、断然と多いですネ👊楠木正成公は、信義を重んじる河内を代表する英雄です👊
上陸した尊氏本隊に楠木·新田が追撃無視して挟み打ち仕掛けたらどうなったろう?
直義軍と尊氏軍に挟み撃ちされて全軍壊滅だろ。
坊門「没。企画が悪い」楠木「(坊門、てめえ!)」
vs天皇っていう状況が普通にあるのは今じゃ考えられないですよね〜