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問い鉄砲があったとされる場所から、実際に鉄砲を撃っても、距離的に小早川には聞こえないという実証実験もあるそうです今回紹介された最初から裏切った新説が正しいのだと思います勉強になりました!ありがとうございます!
実際に現地を訪れると旧山中村である山中地区はとても狭隘な地区であんなところに西軍数万がひしめき合ったとは思えない松尾山と現大谷吉継陣跡ってすごく狭いし当時も民家があったのに
大谷吉継の碑は山の中にあるよ 藤堂高虎が作ったもの 新説では位置が前過ぎておかしい
開戦前の調略(根回し・味方づくり)で大勢は決まっていたってことか。確かにそれでは軍記物にならないわな。
当初から西軍に勝ち目は殆どなく、東軍武将の戦功の取り合いみたいな一方的な展開だったんやろなぁ。
確かにこの説ならこの早さで終わるのが納得です。だとしても島津の捨て奸は余計にすごいですねwww
毎週末、私が岐阜の実家に帰省する時に通るのが、島津軍がこのとき撤退に利用した「伊勢街道」です。今でこそ、・丘を切り崩した広くて平坦な道・川の流れを無視できる大きな橋・山の横腹をぶち抜く最短ルートのトンネルのおかげで、岐阜→三重→滋賀とスムーズに移動できますが、そんなものがなかった当時は山有り、谷有り、激流有り、曲がり道有り、のヒドイ砂利道だったはずです。
@@user-nz7tt4eh6q 流石戦闘民族ですね……エグい……w
2:05 面白い説ですが、できれば島津義弘&豊久の軍勢は小さめに書いて欲しかったです。敵中突破のインパクトは強いですが、そもそも、2人あわせても、他のメンバーの軍勢と比べて、1桁少ない兵力でしたから。
いや、これもどうなんですかね。この新説を書かれた白峰先生は島津家の家臣の書状を資料として活用していますので、その時点で島津の武勇を強調する形で脚色されていたと考えるべきです。実際は、ちりぢりに逃げただけであったのかもしれません。
面白い。多くの資料調査、お疲れ様です。
共通点西軍諸将が雨の中大垣城を出て関ヶ原に移動した毛利軍は動かなかった小早川秀秋が東軍側で戦った島津義弘が敵軍中央突破を試みた合戦の決着は早く付いた大筋の内容は変わらないって所がミソですね
通説と新設の比較動画が欲しいです。両説の武将の位置関係etc詳細が判ると、更に関ヶ原合戦への理解が深まると思います。
山中口 ってあんな狭いところに西軍何万人も配置できるのかい?新説大谷隊の位置と小早川隊の間は川と湿地帯だけど、大谷隊は何でそんな場所にポツンと突出してるんだい?その湿地帯と川を挟んで、山中口は場所によっては高さ10~20mくらいの急斜面だけど、湿地帯を何万の東軍で進軍できるの?急斜面を大軍で登れるの?半日で決着つけられるの?通説が正しいとは言いませんが、一度現地を訪れることをオススメします
大垣城の石田本隊が南宮山の前を通らず、後ろを通って関ケ原に向かったのは「毛利勢の裏切り」を確信していたからかな?だとしたら、三成は大坂城まで退却して家康と一戦交えようと考え撤退していたが、途中で小早川勢に退路を断たれ、追撃してきた家康と関ケ原で合戦し大敗したのかな
石田三成は伊吹山中で発見されたとされていることは通説のとおりなんですかね?地理がよくわからないんですけど、新設の敗戦地から発見場所へのルートがあるんでしょうか?すぐ捕まったか戦死したのではとイメージしやすい新設ですが、逃亡できたのなら、相当早く退去したのでは、、、
新説だと合戦が始まる前から東軍(徳川軍)の勝勢だったのか。
三成を挙兵させた時点で家康が勝ってた
私の知っている関が原は、布陣も展開も創作の影響が大きい通説の方だった。実際は新説のように一方的だったというのは説得力がありました。たしかに、天下分け目の関が原が、タコ殴りで終わったら盛り上がらないw
しかもその手柄のほとんどが、福島、黒田、藤堂、そして小早川という豊臣恩顧の大名たちっていうんじゃね。
鶏足寺信義 小早川は違うと思う
@@user-wp9jn8fg4l 小早川は違うとは、何が違うとお思いで?
sk reraku そこなんですよ。新説見た時一番疑問に思ったのがそこで、徳川家お抱えの三河武士の先陣はどうした?って思わず「?」が浮かびました。
通説は明治以降に軍部が教材用に作ったものであり、それが流布してしまったようです。最近では、様々な文献や埋蔵物から照査がなされ、この新説の方が事実に近いものと考えられています。
死傷者多数の割に大谷吉継以外の大名クラスは戦死していないから、西軍の戦線が瞬時に崩壊したわけではないような気がする
大谷勢は周りを取り囲まれたから崩壊➡戦死となるが、それ以外は後ろに逃げ道がある。それに崩壊と言っても足軽クラスはお国より自分の命大事なので、これはヤバそう!となればすぐに逃げる。武将も兵が居ないのに自分だけが残っても無駄死するだけなので、さっさと逃げる。なので状況を見ただけで勝負は決まる(頑張る例もあるが)。参加人数の割に戦死者が少ないのもこれがあるから(逃げるときはバラバラなので個別に刈り取られるが)。
@@user-vr6nl8qq3n そんな中孤立無援、逃げ道なし、迫り来る数万の敵軍というどうあがいても絶望という状況に追い込まれ、将兵300名が80名に撃ち減らされる損害を受けつつも敵中突破(島津の退き口)を行った島津義弘の決断、それを実行した島津兵の勇猛果敢な奮闘ぶりは天晴れという他ないでしょう。
山の斜面での戦いなので攻め手もスピードがなかったのかも知れませんね。
大垣城を出た、出なきゃ行けない状況にさせられた時点で敗けなんだっけ?
一旦大垣城をあきらめて、全軍で戦うべきだった。特に立花勢がいれば…
どうせ大垣をでるなら伊吹山まで下がれば良かったものを..
この説ですと、大谷隊だけが突出して先へ行っているのは、敵を釣り出してきて、叩く作戦だったのですかね。小早川の寝返りをある程度予想していたとしても、全軍の作戦ならば、行動を変更できず、その結果、挟み撃ちとなって、すぐに壊滅するのは致し方ありません。これに対して、主力が山中村でぶつかったとき、これほど簡単に負けてしまうことが解りません。初めに敵の位置がもっと遠くだと誤認していたため、待ち受けていた将兵の準備ができていなかったのか、布陣が丘陵を背後にした位置で、一旦崩れたら態勢を整えることが出来なかったのか、連携ができていなくて、各隊が勝手に戦う状態だったのか、大谷隊を撃破して後詰めとなった敵の隊の圧力が強かったのか、とにかく、この戦いの勝敗は両軍が出会った時点で決まっていたということですね。
通説でも新説でも島津義弘はすごかw
しかも、この時65歳のお爺ちゃんです。関ヶ原の戦い本戦に参戦した大名クラスで、かつ義弘以上の高齢者は、他にも大島光義(東軍、12000石、93歳)金森長近(東軍、38700石、76歳)有馬則頼(東軍、15000石、67歳)を挙げられますが、「旗も馬印も捨て、敵本陣目掛けて真一文字に突撃」していったのは義弘だけです。
島津の退き口も驚愕ですが…この時代に、しかも93歳で鎧刀身に付けるとか…そっちの方が個人的には驚愕(笑)
無邊落木 光義自身は参戦してないって説ありますよ
@@japanesepapermakingwashi5474 背骨で支えるより着装してモノコックにした方がしゃっきりするに一票。
役立たずの島津軍
今まで言われてきた話でも謎なんですが、この話だと、大谷さんの首はすぐに取れそうですよね。この辺、どうなんだろう?
亀井誠治 やっぱり兵士が強かったんですかね。
小早川隊を何度も押し返したて言われてるくらいですから
いや取れたんでんしょ現実にはすぐに討ち死にしたってことでしょ
通説よりこっちの方が納得出来る。あんな大軍同士が衝突した合戦がたった1日もかからず勝敗がついたのが通説だと腑に落ちない。ただ、ひとつ気がかりが。秀吉に100万の兵を指揮させてみたいといわしめた大谷吉継があんなよく分からない布陣をするのかなぁと。
大谷はあくまでも東軍へ向けてのオトリ役なので、突出した場所に布陣しないと意味無いのではないでしょうか?
大垣からの転戦中に、秀頼や輝元用の陣地に勝手に入って、移動命令に従わない小早川は、裏切る前提で陣を引いたので、大谷は対小早川になっている。
@@user-et9bp1vs8g 囮もあったけどやはり平塚為広隊(平塚らいてうの祖先)と共に小早川隊を食い止めている間に西軍の他の武将たちが東軍本陣を狙う為の布陣では無かったのではないかと…。
とても面白く見させていただきました。ありがとうございました。
島津がやはり凄すぎる。
伏見城落城からは1ヵ月以上経っていて、戦局も大分変り可成り東軍有利となってました。大垣城以外の周りの城は全て東軍に落とされたか寝返ってましたから。そんな状況で、小早川が味方を追い出して松尾山を陣取ったという報が入る。敵かもしれない小早川の隣の山中村に陣を張るでしょうか。大垣から大阪方面に逃げる途中で、もし小早川が攻撃してきたら、応戦する。そんな感じだったのかもしれません。遅れてやってきた大谷が東軍に攻撃されて、小早川からも攻撃され、関も渋滞して逃げ切れずやむなく応戦した。勝手にそんな感じじゃなかったかと思ってます。
西軍は、大垣から10キロ弱も移動してきて陣立てもうまくできずに密集していたというのは理解できますね。
石田三成がいくら戦下手でもこの状況で野戦するかぁ?
兵法書は無駄に読んでそうだしなぁ
・・・三成って馬謖に似てるかもしれないなまじ頭がよくて、それだけに奇妙なアドリブをかますみたいな
前線~大坂直行ルートの確保は至上命題。小早川(秀秋)が勝手に松尾山城に入った時点で、大垣を出て野戦をせざるを得なかったと言うべきでしょうね。もし東軍がすぐに関ヶ原に乗り込んでこなかったら、長篠の合戦より近代化された野戦陣地を築くでしょう。東西両軍とも朝鮮の役の参加者が多いので、そんな事態にはなりませんでしたがあと、三成の軍事能力は非常に高いですよ。実戦で証明済みです。源平合戦レベルで判断すると間違えます
@@toshiyam2853 三成に対しての偏見?がすごいですよね。少なくとも、コメ主達よりは優れていた事は歴史が物語っていますね。
よく知られていることと結構違いますね。私は関ケ原第一の功労者は、毛利を戦に参加させなかった吉川広家だと勝手に思っていました。(毛利の突入があっていれば、小早川は裏切らなかった。)この説だと、戦い当日、吉川はどうしたか知りたいです。
新説では通説よりも確実に、小早川も吉川も東軍として参戦するもしくは動かないと家康はわかっていたと思います。そのため、吉川広家はどちらの説でも動かなかったと思います。東軍が開戦した段階で広家と毛利秀元の家臣の福原広俊は家康に人質を差し出して、黒田長政と東軍への寝返りをしていました。そのため、広家は寝返ったことを秀元や安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親などに悟られずに動かさないことが最大の任務だったと考えられます。「両川のうち小早川は名前だけで、ほぼ独立した大名家となり、残った吉川家と毛利家に確執があるというバラバラの状態で毛利家が徳川家と対決することを命がけで阻止」というのが両川の生き残りとしての吉川広家の行動だった思います。当時の毛利家で最も戦功があった男が、主君への裏切り者の汚名を着てまでの行動だったと考えると関ケ原第一の功労者は新説でも吉川広家だと思います。広家は自らをないがしろにする主君(輝元)を裏切っているようで、実はもっとも毛利家の存続に貢献していたと見ています。というのも、関ヶ原に西軍が勝ったとしても東軍が最終的に勝利するシナリオや西軍が仮に勝ったとしてもその後の統治政策が豊臣家を踏襲するのであればいずれ覇権を賭けた別の戦いが起きる可能性等が考えられるからです。小早川秀秋のほうは、通説でも新説でも毛利家が動かなかった時点で東軍の勝利が高いため、関ヶ原でははじめから東軍として動き東軍の勝利を確実なものとし、戦果を上げることで家康への恩に報い、自分の価値を認めてもらうという動機があったと思います。また、広家も秀秋も朝鮮出兵に参加しており、一応は両川なので面識や交流があったと思われます。そのため推測に過ぎませんが、広家の寝返りは、人質を差し出す頃には秀秋に知らされていたのではと私は考えています。
@@chihiro7014 コメントありがとうございます。新・旧説いずれにしろ、広家の果たした役割は大きいと考えて良いようですね。歴史話では、広家の功績をもう少し評価すべきと思いますね。
三成達が大垣城から出陣したのは裏切って松尾山を占拠した小早川秀秋を排除するためだったらしい最近松尾山北の藤下の遺構からその事が推察されてます
そもそも三成の陣があったとされる笹尾山には陣と思われる遺構が見つかっていません。大谷吉継が討死したのも軍の最後方に位置したおかげで小早川軍と東軍の攻撃を真っ先喰らう事になったからだと思います。大谷隊の壊滅で西軍は混乱し、東軍は勝利の勢いに乗って攻撃したのであれば勝敗は目にも明らかです。
関ヶ原合戦は「薩藩旧記雑録」に書かれてるものが幕府への忖度がないため、江戸時代に書かれた他の軍記物より信憑性が高いみたいです。あと、大谷吉継勢(頼継とか大学ではなく)が着陣してたであろう場所に大規模な城が築かれていたようで、本来、そこに秀頼を迎え入れる構想があったという新説があるみたいですね。
玉城のことですね。ま、でも、関ヶ原の時点で淀殿が秀頼を戦場のただ中に置くはずもなく。。。。ですね。関ヶ原は、三成の作戦は非常によかった。一番の敗因は、一部の武将たちが、三成のような忠臣ではなく、裏切りを平気で行う日和見主義であったこと、家康の本性と目的を見通す才知がなかったことでしょう。
関ヶ原での戦いは局地戦に過ぎず、本戦は大垣城の戦いだって話ですもんね。小早川秀秋は最初から東軍側で大谷吉継は開始早々に壊滅しちゃって、通説のような大谷隊の奮戦は無かったらしいですね。
通説は両軍合わせて20数万人が戦った。ところが戦死が2700名あまり。どう見ても天下分け目の関ヶ原という戦いでは無かったと思います。単純に考えても徳川勢10数万人の兵站を確保し、移動させるだけでも不可能で、当時の人口からしても盛り過ぎです。もちろん干飯だけでは戦えません。
当時の戦いの戦死率って普通はそんなもんでしょ。徳川方の補給線は、東海道―清州―岐阜―美濃赤坂、で繋がってるし。
島津勢は少勢なのに、それを2隊(義弘隊・豊久隊)に分けるとは考えにくいなぁ。また、大谷隊は「殺してください」と言わんばかりの突出ぶり。これでは裏切りがなくても持たなかったのではないか?
私の知識では、島津勢は、2隊に分けたというより、合戦が始まってもなお国許から兵士が次々到着している状況だった。後ろに控えた義広の隊が増えたので2隊に分けたように見えたのでは
@@user-et9bp1vs8g 義広ではなく義弘だと思いますよ
大谷隊はこうなっては勝ち目のない戦、ならば勝つために乾坤一擲、家康の首ひとつ狙って前進していたのではないかと大谷刑部の研究をしている先生が仰ってましたね
山中村と関ヶ原東がわはどれくらいの距離だったのでしょうか?
関ヶ原古戦場巡りをした時に松尾山にも登りましたが、結構な山道で、大軍勢が一気に下りるのは無理な感じがしました。当時木が伐採され要塞化していたとすれば、その動きは丸見えだし、たどり着くまで起伏もあるし、大谷隊が小早川から突然攻撃されたというのも不自然だと思いました。新説が本当だとすれば、大谷隊は無謀というか相当間抜けですね。ちなみに、関ヶ原合戦図屏風では通説の位置になっていますが、その頃から創作していたという事なんですかね。
本郷教授によれば、大谷軍は松尾山に対して重点的に柵を作っていたようで、小早川軍を相当警戒していたようです。そこを夜明けにいきなり東軍の先方部隊に襲撃されて、その後に松尾山の麓に降りてきた小早川軍に挟み撃ちにあったそうです。おそらく、当時の関ケ原近辺は霧が立ち込めていたので小早川軍の動きには気付かなかった可能性も高いですし、仮に気付けていても挟み撃ちにされれば相当程度の確率で壊滅するでしょう。
主戦場が山中や藤下ではないかと言うことですよね。かなり前に伊達政宗に関する本を読んで徳川家康から伊達政宗に宛てた書状で美濃山中とうげにて敵を打ち破ったといった文言があった。更に別の関ヶ原の戦い現地を歩いた時関ヶ原古戦場と言われる場所の西側に山中や藤下という地名が在る。そこで勝手に家康の書状の「美濃山中」は美濃の山の中ではなく「「ヤマナカ」という地名、とうげは地形の「峠」ではなくこちらも地名の「藤下」なんじゃないか?なんて思ってましたが歴史家先生たちもそう考える方がいた事を嬉しく思います。もし山中が主戦場だったならば「関ヶ原の戦い」では無く「山中の戦い」に改める必要があるかもしれないですね。
毛利が動かないと分かっていたような動きだなやっぱ毛利は日和見か
そりゃ吉川に手を回していたら
これは TBS の吉川アナウンサーと元 NHK アナウンサーの番組で見ました 。山中村隣のとうげ村で石田三成隊が、大奮戦しましたが、やがてやられました。藤下村の人たちは 天智天皇の息子の弘文天皇と 弟の天武天皇の 皇位継承戦争 である壬申の乱 でも関ヶ原で行われた 戦の後、ご遺体を とむらったそうです。 昔、豊橋ユニ今のアピタですかい藤下村の女性達が、来て米を売ったんですが、その時パンフレットをもらって知りました。
第一次資料は重要ですね、新説の方が合点がいく。
二時間ドラマ化🙂🏯
家康の尾張進軍が三成の予想を上まり兵力の集結が遅れ後手にまわっていた。そして現場指揮官(黒田隊なら後藤又兵衛等)の差も大きいと思う。三成は事務方でありこの合戦は荷が重すぎたのではないか。
「関ケ原の戦いは無かった」とはかなり異なりますネ、一次資料に限定する限り、家康は赤坂から動座しておらず、三成等は秀秋が裏切っ「た」のを知り、これを討ちに行き、その途中で福島隊と遭遇・交戦、これに秀秋が攻撃、西軍は壊滅した、そうです。
脇坂や小川は、開戦と同時に裏切った割には、良い処遇は受けてないですね。(様子見をし、小早川が裏切ったことで裏切ったため評価されなかったと思っていた。)
小早川、小川、脇坂は合戦翌日に佐和山攻略を命じられました。その際に戦功を焦って問題を起こしています。また、一早く家康側に回った京極攻めにも参戦しており、手厚い処遇を受けた京極高次への手前、あまり目立たせる訳にもいかなかったのです。
小早川の無能ぶりは家康も知ってたからね秀吉に叱責されて改易させられそうになった秀秋を家康が助けたりしてるし、家康は秀秋を使えない奴だと初めから思ってたみたいだから手柄を立てても厚遇はされなかった運命だった
新説でも鬼島津の敵中突破だけは変わっていないのが島津の凄さを物語ってますね
新説も不明な点が多いからこれからも色々新たな説が判明していくだろうね
黒血川かなあの辺の河川は小さいけど谷が深い、これを容易に超えて大谷勢へ大群の小早川勢が襲い掛かると小早川勢は渋滞を起こしてた勢力からの攻撃を集中して浴びる格好になるのではないかと感じ西軍の離反は起きないのではないかと思っていた。通説は実際の地形を結構無視してるように感じ新設では西軍は川を防御に使うも狭い地形に展開できず自滅するほかない印象集中砲火を裏付ける様に弾丸の出土が著しいと聞く
関ヶ原でなく 山中の戦いね 戦死武将が大谷様だけでもわかる 現在の観光や映画やドラマに影響あるからだろうか
さんもくでん そうらしいですね。関ヶ原地方での戦らしいですね‼️
@@user-vj7je8cz7i そそ 関ヶ原の戦いがそもそも無いらしいですね 新しく発見された古書や科学的に研究され 適当ではないので^^信玄の肖像が違う や 長篠合戦も鉄砲でなく やはり兵力の差であり あそこ掘っても玉が出土されないらしいですよ^^桶狭間も上からの攻撃でなく 下から駆け上がったて行ったなどいろいろ 科学的または地形なども研究され 今まで見た映画 ドラマが・・・・嘘になりますし^^武将ブームなんでゲームなどで 関ヶ原が空説になると 観光などに被害がね^^真実が知りたいですね 勝ち組が歴史を変えて または政権が変えて 嘘の歴史作ってるのでそれを 覆すのは至難の業と思えます
@@user-wo9kq7kf5r 鉄玉は降水のある土壌で数年で錆びて砂鉄に変化し形を留めない
@@ffaa416そうなんですか 玉というか弾丸 は鉛と思ってたので そのころ弾丸 は鉄だったのかな? 良くわからないけど 情報ご意見ありがとうございます
@@user-wo9kq7kf5r 鉛玉も中性の土壌で錆び400年もたてば原型を留めてませんよ
福島、黒田らの兵力では、石田、宇喜多軍に兵力で劣り、すぐに壊滅させるなど不可能と感じます。結局徳川家康隊が石田、宇喜多方面の戦いにも参加し大活躍しているようですが、こちらの方が疑わしく感じました。3万もの徳川隊がそこまで機動的に動けるものでしょうか?
福島黒田松平井伊およそ2万に対して石田島津宇喜多小西は3万未満くらい?少なくみて2万としてもほぼ同数。小早川の乱入前に石田他が即座に壊滅することには違和感あるな〜大谷の陣跡は松尾山に対して構築していたという話を聞いたことがありますが、小早川の裏切りは結構事前に分かっていた可能性があるので、大谷が小早川を無視して平原に突っ込むという事にも無理があるのでは。また、開戦前に毛利は小勢で動けなかったと言うことですが、池田浅野の抑えがいたとしても、15000が合戦中に後ろから突撃すれば十分勝機はあるはず。後続に長宗我部とかいたはずなので。毛利がいるまま家康本陣が背を向ける形で深入りとは、慎重な家康がするとは考えにくい、、やはり毛利(吉川)の事前調略があり、かつ小早川の即座の裏切りで実質4、5万対10万の構図が即席で出来上がり、数の力であっという間に勝ったのだと思う。結局どっちつかずの武将が多い中、家康の調略が凄かったのよね
新説の通りだとすると、西軍主力が予想以上に弱兵であったことがわかります。相対的に上田での真田の働きが一層際立ちますね。大坂の陣の前に徳川があれだけ真田を用心したのも納得です。
これだけ一方的な戦いだったとすると上田で苦戦して、遅れをとったとする徳川本隊はわざと遅れたのではないかと思いますね。
毛利本隊がひょうたん持って関ヶ原に来なかった時点で・・
立花が間に合ってれば、、、って思うと長期戦だよなぁ
上杉も関ヶ原に来ていれば、、、
@@kt368さん その可能性は極めて低いと考えます。ご存知でしたら恐縮ですが、上杉景勝と最上義光は天正年間から、出羽庄内地方を巡って争ってきた宿敵です。たとえ、神速の勢いで最上家を倒しても、出羽国は他にも秋田、戸沢(この時は景勝に友好的でしたが)など旧来の大名もおり、彼らへの警戒と関係維持も必要です。更に隣国陸奥の伊達政宗への報復(重臣の甘粕景継は、居城を騙し取られている)も行う必要もあります。そもそも、景勝がこの戦を始めた動機は、秀吉に没収された旧領越後の奪還です。背後の出羽国を平定したなら、土地勘も人脈もある、越後侵攻を実行に移すほうが費用も少ないし、勝算も大きいです。したがって、三成にはお茶を濁すような回答をして、関ヶ原本戦には参戦しなかったろう、と推測します。長文失礼しました。
@@user-nz7tt4eh6q 指摘ありがとうございます。あくまで来ていたらの話なので奥州情勢は考えていませんでした。
確か大津城で足止め食らって参加できなかったんですよねというか関ヶ原の新説ぶちあげた人ってどなたですか?
@@user-is9gx8ij5k 大分大学の白峰先生あたりですね。一次資料を丁寧に読んでおられる研究者です。
ますます謎だなあ。なんでこの兵力差で戦おうと思ったんか。
やっぱり秀吉の家臣だった家康が秀吉が死んでから好き放題やったからだと思う。三成は秀吉のことを神のように忠実だったから尚更。前田利家も死んじゃったし。
一次資料は信頼できる。こちらの方が合点がいきますね。
小早川秀秋何の迷いもなく攻撃してるやん
これを待ってました!!!!!!!!!
島津は天晴れ過ぎる!かっこいい負け方やな!
南宮山の伊勢路毛利勢が大垣の後ろ詰だった事や、講和した事に触れないと
これが仮に本当なら勝算もなく無策で陣を構えて戦に打って出ようとした三成や宇喜多が間抜け過ぎるのでは??
三成は豊臣家の武断派から戦下手って罵られてたみたいだからあながち三成の失策も納得できそう……
島左近も明石全登も無能?
@@ufj24 両名なにかしら提案したんだろうけど三成が採用しなかったんじゃないですかねぇ・・・
旗手不鮮明な小早川(まず東軍についた)を抑えるために山中に布陣し大阪との連絡を確保した。三成も何の戦闘も無く南宮山ふもとを徳川勢が通り抜けるとは思わなかったんだろうと予想してみる。
籠城兵を無視し先へと行軍し籠城側を野戦に持ち込むのは三方ヶ原でも使われた手にて家康が三成の性格なら釣られると身をもってわかってたのでは
この絵巻はいつ出来たん?
この兵力差じゃ吉川がまともに動いて小早川も裏切らなくても三成の勝機は、無いですよね
吉川勢が動かなかったため、すぐ後の山に布陣していた毛利勢一万が動けなくなり、動かないそれらを見た長宗我部勢一万まで動けなくなってしまった。徳川本陣を突けるこれらが遊んでは…
そもそも毛利は日和見決め込むつもりだったとしか思えない
@@user-et9bp1vs8g 本当に毛利勢力全体が日和見を決めていたのであれば、何百年も吉川が毛利に恨まれる事は無かったでしょう。やはり通説どおり吉川がキーマンであり、単独で徳川と繋がっていたんですよ。 そして山のふもとに布陣して毛利勢力と長宗我部を止めて動けなくした。毛利勢力の安国寺なんてバリバリの西軍の主要人物(黒幕的存在)であり、吉川とは険悪な関係。 それが吉川のせいで戦いに参加出来なかったのだから。完全に日和見なんかじゃないです。吉川と徳川の作戦勝ち。そして、西軍総大将に担がれた毛利輝元は毛利勢力を全くコントロール出来ず、まとめることが出来なかった最大の戦犯。
毛利輝元に至っては関ケ原中に九州に大友の息子派遣、四国にも出兵&一揆扇動したりやりたい放題だった(大阪から動かないのは自勢力拡大に集中)そうだからな…。で、関ヶ原後には安国寺と石田に騙されたんですと二人を生贄に黒幕の癖に生き残るというある意味祖父譲りの厭らしさ。吉川広家の安堵交渉は創作疑惑も出てるからほぼ単独で交渉したことに…
大谷吉継公がいきなり集団フルボッコにされてあんまりだ
大谷吉継のいる場所があまりにも不自然に思うなぁ。。。
ですね吉継は藤川台地に布陣していたはずです
どうぞ包囲してください、みたいな所に布陣してるよね。毛利本隊との挟撃を狙っていたんだろうけど……
少数で平野のど真ん中なんて…前衛として、当たってすぐ下がるつもりが、小早川の裏切りで殲滅されちゃったのかな?
小早川の裏切りを想定しなければ別に不自然ではない。先方大谷、後詰めが小早川で連携。むしろ、不自然なのは、小早川の裏切りと同時に西軍が退却してないこと。どう考えても勝てない戦いをなぜしてしまったのかということ。大阪に逃げ帰るのが定石と思うが。
後ろから急襲されて逃げれるどころじゃなかった説
確かに歴史が勝者の歴史であることは否定しません昔から疑問だったのですが反旗お翻した小早川秀秋は後の論功交渉で領地が加増されたのに赤座等のその他の裏切り組は改易や領地安堵、小早川とは明らかに異なる対応になっています新説では島津豊国が戦ったことになっており、やはり論功交渉で島津は領地安堵毛利秀元に至っては関ケ原には参加していないし、距離的に参加できなかったのに、大幅な領地縮小論功交渉の観点から一歩踏み出した考察も必要ではないか?と考えます
島津豊久です。
あくまでも個人的見解になるのですが、小早川秀秋が豊臣家に虐げられたから裏切ったと言う人もいらっしゃる様ですが、秀秋の素行(アル中・借金)にも問題があった様で、そこも含めて考えたら豊臣家は結構まともな采配してる様に感じます。朝鮮出兵はちょっと運が無かっただけな気もしますが…。秀秋には世間知らずの一面もあったのでは無いかなぁと思えなくもありません。その後の家康との結び付きを考えたら、小早川秀秋は、家康(狸)に良い様に使われたとしか見えません。関ヶ原合戦に直接的に関係する様な意見では無いのですが、一歩踏み出した考察をしてみるって意見には賛成です。願わくば…新しい説を出して来る人が、支離滅裂な事を言い出さない様にだけ注意してほしいと思います。(斬新と支離滅裂は紙一重な気もします。)
この動画のネタ元と思われる原典読みました。問鉄砲がないとか、ドラマチックではないけど、一次資料の分析から導き出した説で説得力があります。残念ながらこれが真相なんでしょうね…
この動画、原典を紹介していないのがまずいですよね。現時点では、通説というよりも白峰先生などの提示した仮説というべきですから。
新説が正しいか否かは当然分かりませんが、少なくとも通説は作り話のオンパレードでしょうね。西軍結成の段階は分かっていないことが多いですが、奉行職も解任されてて実権も人望もない三成が西軍の中心人物でありリーダー格であったというのも無理があると言われています。ドラマや映画などでももうすこし最新の研究を入れてほしいところですが、関ヶ原に限らず古い歴史観のまま書かれてしまうことが多いですね。来年の大河は徳川家康ですが、家康は特に江戸時代の家康上げや、明治維新後の徳川下げの影響で歪んだ姿で書かれることが多いため、史実に近い姿で描いてほしいです。
大垣から転進する際、毛利輝元が総大将として入るべき単純な造りの砦に小早川が、勝手に入ってしまい。移動命令に従わなかった。この段階で大谷は裏切りを想定し、備えた。だからあの位置になった。南側から、長宗我部勢や立花勢の到着を…
黒澤明の映画「羅生門」の元となった芥川龍之介の小説「藪の中」。「真実」は一つなのに、それぞれの当事者がそれぞれの「事実」を語るので謎が深まるという話。関ヶ原の戦いについての通説、新説?も、どちらが正しいというより、少なくとも二つの見方(見え方)があるということでは?どちらも正しいとした上で、真の関ヶ原の戦いの姿を探求していくのが楽しいんじゃない?個人的な直感では、新説?は午前8時頃から始まったとされる戦いの、正午頃からだけの状況を述べている感じがするんだけどw
三成は負けた時の逃走用の馬を用意してなかった、だから徒歩で逃げ回るようになった。逃走用馬を用意していれば、大阪城に逃げて再起もできたかも。
歴史は詳しくないし、まったく関係ない話だけど、この戦いで負けちゃったやつらが260年の時を経て江戸時代終わらせて日本を近代化させるって習ったけどマジだったんだね。島津とか毛利、井伊とか近代史で出てくる人の名字がちらほらでてきて歴史って繋がってるんだなぁおもったわ
あと家康本隊は南宮山と大垣城の抑えで動いていない可能性が高いです
どっちにしても、とんでもねぇ鹿児島の島津のみなさん!
まっ!兎に角半日で決着している。仕事が速い
大谷義継は、盲目のハンディと石田三成との友情で参戦したと聞いてます。瞬時壊滅なんて本当に残念です。島津義弘、豊久あっぱれです。人が多過ぎてごちゃごちゃなんだこりゃーて感じだったんですかね😅宇喜多秀家は、通説の通りだったのかな??
よい説明で嬉しいです.戦いの様子は勝ち組が編集して後生に残すのが普通であるがもう400年たった.関ヶ原の戦いは徳川の時代になる兆候で面白い.歴史は積み上げて今の時代になった.もう戦争はないと思う.
通説に対して新説を説明するなら、新説の妥当性を説明しないと読み手を楽しませるだけの面白話で終わってしまう結局通説と同じになってしまうあと戦いの推移を「瞬時」と表現しないほうがいいとおもう。いくら東軍が強いのを表現したくても、誇張は話を物語化してしまい、信頼性を損ねて残念なことになる
何か少し違うんだか、何時の間に変わったかなぁ、
これはしっくりくるね。東軍が鶴翼にわざわざ突っ込んで布陣したのも思うところあったし。大谷は後ろに小早川や、脇坂、小川、赤座も近くに布陣しており毛利もいるからって算段での配置かな?島津がなぜ終盤まで戦わなかったのかもこっちのほうが理にかなってますね。島津の通説の配置だと三成の隣だからまっさきに攻撃されそうな場所ですし。
新説と通説の共通点・島津義弘隊の中央突破 以上感想島津は、強い!
小学生でも分かる事に感動。
もし、島津軍が5千以上いたら(実際は2千足らずか1千5百くらいでした。)、西軍が勝っていたかも!
岡田一也 維新公もそう仰ってましたね
毛利勢はどうしていたんですかね。宰相殿の空弁当…
@@user-xy6nf4zi4t 吉川と毛利秀元は両方とも打って出ないと決めてたか?そうなると、三成とともに処刑された安国寺恵瓊は何をやっていた?
これだけ東軍が密集して西軍を攻撃しているとういう仮定だと、島津は中央突破できなかったのでは?
島津が中央突破した時はほぼ決着がついて東軍の何隊かはバラけた状態だった島津はそこをぬって突破してきたって説もある
隊の四方を鉄砲で囲ってる状態で誰が近づけようか。
もふもふ それは従来の説ですよね。それなら分かるんだけど、この動画の説では島津義弘隊に徳川勢が押し寄せてきて、東側も塞がれている。仕方なく徳川勢を押しのけて前進撤退とある。従来説より遥かに困難な状況で突破などできたのだろうか。そう考えるとこの説自体が怪しく思える。
大勢が決したので徳川方も追撃に入って布陣は乱れてた可能性が高いと思う
長い間の通説では島津は撤退の最初に福島隊へ向かった。福島隊は朝鮮での島津の勇猛さを知っていたから動けず傍観。慌てて井伊と本多が追撃するも、致命傷と落馬となる。なんとか島津は脱出成功した。通説でも新説でもここは変わらない。
もし立花宗茂と毛利元康勢らが間に合っていたらどうなってたのだろうか。
毛利秀元・吉川広家は南宮山の標高400m付近に陣を敷いたという。遺構も残ってる。常識的に考えれば、これでは大垣城の救援は出来ない。山降りるだけで大変だ。秀元と広家は自分達を守るために南宮山に布陣したとみてる。それ自体、小早川の松尾山布陣と同じく三成の想定外だったしね。
関ヶ原の戦い。岐阜城はどの程度、堅固だったのですか?岐阜城を囲む曲輪の状況は?(他の城はどうですか?)太閤記では裏山からなら。そのように書かれたモノもあるようですし。今ならレーザーを使えば?おねがいします。それと秀頼が天下人になっては都合がーーーという者は東軍諸将、及び秀吉恩顧の者の中に、どのくらいいたのですか。それと関白秀次の家臣だった者や、親交があった者ーーーを教えて下さい。
西軍がこれだけまとまりがなかったら勝ち目はありません岐阜城を東軍諸将が攻めあぐねていたら、状況は変わっていたかもしれません
今までのは違和感があったけどこっちの方が納得する
同意。東軍に中山道を突破されればすぐに佐和山に攻め込まれるのに、なぜ街道沿いでなく北方の笹尾山に陣を敷いたのか疑問でした。
全面的に「新説」に従っていますね。通説の兵力面では、大垣城には石田6600、宇喜多17000、島津1600、小西4000~6000、福原ら6000と少なくとも35000はいたとなっています。毛利秀元は毛利軍の主力であり20000程、吉川広家は5000と聞きます。東軍は赤坂の諸大名が40000強、徳川家康隊が30000ですが、徳川軍の精鋭は秀忠軍で、家康隊は若手や老兵で、実兵力は10000程度でしかなかったとも聞きます。兵力は西軍の方がやや有利とされていた訳ですね。通説は脚色されている部分もあるでしょうが、通説の様に家康に反抗する大名の方が多かったという状況の方が後の徳川家にとっては都合の悪い事実の様にも思いますが。
そもそも問鉄砲は距離的に小早川に聞こえたのかな?
とても面白く為になりました
秀頼を人質にとって、毛利輝元・宇喜多秀家が主導で大阪城で籠城してたほうが勝算あった気がする
宇喜多秀家首謀者説っていうのを昔、何かの本で読んだことあったけど、誰か詳しい人いませんか?個人的には、秀吉が死んでから三成が劣勢に立たされて以降の関ヶ原までの動きが秀家首謀者説の方が説明しやすい気がするのですが……誰からも相手にされていないか、すでに遥か昔に否定された説だったのかな?
首謀者だったら島流しはありえない
白兵戦になったらちまちまやらないから決着も早いのかな
密集陣形で徳川が近接するまでボサッとしてたのか?
結局、西軍は前提として毛利勢に頼りきりの戦いだったって事じゃねぇの?それが、南宮山の連中は動かないわ、小早川は裏切るわ輝元の本軍は大坂城に籠もって出て来やしないじゃあ・・・。ただ、小早川は松尾山に陣を築く際に元々布陣していた西軍の守将 伊藤盛正を無理やり追い払ってるんだよなwその時点で、三成方は不審に思わなかったんだろうか?
個人的には輝元が何故関ヶ原へ向けて出陣しなかったかが気になって仕方ないです。輝元からしたら、三成は歳下なので「三成の小僧が先走りよった…。」となったのかも知れないし。その辺の詳しい事情に興味が湧きます。
@@japanesepapermakingwashi5474 輝元は関ヶ原で勝つ事は当然だと楽観視していて、加藤清正らと交戦して九州を制圧するための準備をしていたと思われます。
@@japanesepapermakingwashi5474 輝元って四国制圧してなかったっけ?
@@tigeriontigerion9112 磯田先生が別動画(恐らく英雄達の選択だと思います。)「輝元は四国制覇目指してた。」と言われていました。多分英雄達の選択「大谷吉継回」だったと思いますが、当時の戦国武将の最大のモチベーションは自国領土維持・拡大なので、大谷吉継達は防衛線を引き間違えた。とも言われていました。当初の防衛ラインは美濃・尾張界隈に引く予定だったと思います。磯田先生は、三成達が挙兵する同時期に家康は上杉討伐軍達と江戸に入っているので、西軍諸将は急遽浜松・掛川辺りまで進軍した後、西国武将達に「奪い取った領土やる!!」逆に東軍武将達には「奪い取った土地あるけど貴様達はどうするか?」と言ったら西軍武将はモチベーションばか上がりで死に物狂いで戦うだろうし、東軍武将からは裏切り者(家康の元を離れる武将)がでるかも…。的な事も言われていたと思います。なので磯田説を踏まえた上で輝元を見ると、輝元が四国制覇目指す理由も何となくですが理解出来る気がします。四国は毛利領のお隣ですから、仮に奪い取ったら毛利側にはメリットしかありません。三成達には申し訳ありませんが、輝元を引っ張り出したまでは良かったですが、輝元が戦う理由が関ヶ原になかった時点でちょっと無謀だった様な気がしています。
空弁当は食ってる暇もなかったって事か黒田家の家来が、島左近の叫び声が耳に残って離れないこれも作り話になるんやろな大谷と島左近が過大評価扱いになるな
空弁当以前に、事前に不戦の密約(実質的には降参)を結んでるから、その時点で大垣城はほぼ詰んでるようなもんですね。山中の戦いは消化試合みたいなもんでしょう。しかも西軍が松尾山に毛利軍を入れる予定だったところを小早川軍に占拠されて振り回されてるところをみると、まず西軍に勝ち目はなかったでしょうね。
本動画の内容には私はいろいろ異論があるが、それはさておき、問鉄砲の変遷について説明するなら、その意義についてもきちんと解説した方がよい。普通、自隊に向けて発砲されたら、攻撃の合図とみなして反撃する筈。最初の藤堂高虎隊単独発砲説では、小早川隊が反撃する意思がない、つまり東軍に寝返ることが確実であることを確かめるためであった筈。従って「効果がない」どころか、逆の意味で効果があった訳だ。それがどのようして寝返りを促す合図と変わっていったのか興味がある。
松尾山を占拠した後は最早東軍
9:35で「問鉄砲は完全なフィクション」と言っていますよ
仮にだが、大津城の戦いで参陣が遅れた毛利元康、小早川秀包、立花宗茂の合計15000の兵が関ヶ原に間に合っていて激戦状態を見て、南宮山の毛利秀元は何とかして家康本陣に突撃していただろうか⁇
なぜに西軍だけ有利なIFがでてくるんでしょうか?それなら東軍だって秀忠の遅参がなく~って話がでてきてどんどんIFを加えていく話ができあがる。 家康なら不利とみたら関ケ原に移動すらしない可能性だってあるわけだし
西軍に有利なIFをコメントしたのは豊臣恩顧の武将が一様に徳川軍に味方したのが要因です。徳川軍が大阪に戻る途中に西軍にでくわして起こった戦い、東軍の圧倒的な戦力差の前に壊滅した西軍に哀れみを感じるのは自分だけでしょうか⁇
長篠の戦い・・・実際の兵力は 織田/徳川軍が15,000 武田軍が7000。織田/徳川が38000 武田軍が15,000・・・というのも 明治の日本陸軍 参謀本部のフィクションに過ぎない。
兵数が過少に感じます
これは参考にした書籍を参考資料に載せるのがルール。別に事実だから著作権違反でもないし。
H M え❓上に度々表示されてない❓それらを参考にしてたらダメなん❓
結局本当のところは分からないですね!家康が勝ったってことだけは事実なのかな?
明治時代、陸軍の顧問だった、ドイツのメッケル(大モルトケの弟子)も、通説の布陣図から、西軍の敗北に疑問を持っていたらしい。
ビスマルク(おしゃべり、お調子者)「あーひゃっひゃ!モルトゲだってよ、参謀総長閣下♪」大モルトケ(寡黙、慎重居士)「私の名字はモルトケだ‥訂正を要求する…」
ご指摘ありがとうございます。速攻で直します。
ご返信ありがとうございますm(__)m私もyoutubeの視聴者コメントで「アレア・クインタス」と書くべきところを、読み返しを怠り「クレア・アインタス」って誤記したことがあります(赤面)
結局五大老の中での争いでしかなかった。むしろ立場がほとんどない石田三成が圧倒的不利の中、戦いを挑む姿にドラマがあるわな。あと、なぜか謀略家として描かれる家康だけど、そもそもこの時代で一番戦争経験が多く、実力があるのが家康。黒田官兵衛がいないのに西軍が勝つ要素はないわ。
官兵衛居たらむしろ東軍についてね?
@@user-co4uy9zu1s さんすいません。「黒田官兵衛が西軍につくか」よりも「家康の対抗馬になり得るのは誰か」と言う意見です。考えたのは秀吉の下で才能を発揮した黒田官兵衛かな、ということです。
牧田 康佑スワローズ応援動画あげ 西軍が勝つ可能性としたら島左近の策を石田三成が採用して立花が間に合ってれば、、って感じですか」
目の前の毛利家を見捨てて石田勢が後方に撤退する意義が見当たらないなぁ後方で小早川が裏切って退路をたたれたので小早川をうちにいったら挟撃されたという説もありますよ
問い鉄砲があったとされる場所から、実際に鉄砲を撃っても、距離的に小早川には聞こえないという実証実験もあるそうです
今回紹介された最初から裏切った新説が正しいのだと思います
勉強になりました!ありがとうございます!
実際に現地を訪れると旧山中村である山中地区はとても狭隘な地区であんなところに西軍数万がひしめき合ったとは思えない
松尾山と現大谷吉継陣跡ってすごく狭いし当時も民家があったのに
大谷吉継の碑は山の中にあるよ 藤堂高虎が作ったもの 新説では位置が前過ぎておかしい
開戦前の調略(根回し・味方づくり)で大勢は決まっていたってことか。
確かにそれでは軍記物にならないわな。
当初から西軍に勝ち目は殆どなく、東軍武将の戦功の取り合いみたいな一方的な展開だったんやろなぁ。
確かにこの説ならこの早さで終わるのが納得です。
だとしても島津の捨て奸は余計にすごいですねwww
毎週末、私が岐阜の実家に帰省する時に通るのが、島津軍がこのとき撤退に利用した「伊勢街道」です。
今でこそ、
・丘を切り崩した広くて平坦な道
・川の流れを無視できる大きな橋
・山の横腹をぶち抜く最短ルートのトンネル
のおかげで、岐阜→三重→滋賀とスムーズに移動できますが、
そんなものがなかった当時は
山有り、谷有り、激流有り、曲がり道有り、のヒドイ砂利道だった
はずです。
@@user-nz7tt4eh6q 流石戦闘民族ですね……エグい……w
2:05 面白い説ですが、できれば島津義弘&豊久の軍勢は小さめに書いて欲しかったです。
敵中突破のインパクトは強いですが、そもそも、2人あわせても、他のメンバーの軍勢と比べて、1桁少ない兵力でしたから。
いや、これもどうなんですかね。この新説を書かれた白峰先生は島津家の家臣の書状を資料として活用していますので、その時点で島津の武勇を強調する形で脚色されていたと考えるべきです。実際は、ちりぢりに逃げただけであったのかもしれません。
面白い。多くの資料調査、お疲れ様です。
共通点
西軍諸将が雨の中大垣城を出て関ヶ原に移動した
毛利軍は動かなかった
小早川秀秋が東軍側で戦った
島津義弘が敵軍中央突破を試みた
合戦の決着は早く付いた
大筋の内容は変わらないって所がミソですね
通説と新設の比較動画が欲しいです。
両説の武将の位置関係etc詳細が判ると、更に関ヶ原合戦への理解が深まると思います。
山中口 ってあんな狭いところに西軍何万人も配置できるのかい?
新説大谷隊の位置と小早川隊の間は川と湿地帯だけど、
大谷隊は何でそんな場所にポツンと突出してるんだい?
その湿地帯と川を挟んで、山中口は場所によっては高さ10~20mくらいの急斜面だけど、
湿地帯を何万の東軍で進軍できるの?急斜面を大軍で登れるの?半日で決着つけられるの?
通説が正しいとは言いませんが、
一度現地を訪れることをオススメします
大垣城の石田本隊が南宮山の前を通らず、後ろを通って関ケ原に向かったのは「毛利勢の裏切り」を確信していたからかな?
だとしたら、三成は大坂城まで退却して家康と一戦交えようと考え撤退していたが、途中で小早川勢に退路を断たれ、追撃してきた家康と関ケ原で合戦し大敗したのかな
石田三成は伊吹山中で発見されたとされていることは通説のとおりなんですかね?
地理がよくわからないんですけど、新設の敗戦地から発見場所へのルートがあるんでしょうか?
すぐ捕まったか戦死したのではとイメージしやすい新設ですが、逃亡できたのなら、相当早く退去したのでは、、、
新説だと合戦が始まる前から東軍(徳川軍)の勝勢だったのか。
三成を挙兵させた時点で家康が勝ってた
私の知っている関が原は、布陣も展開も創作の影響が大きい通説の方だった。実際は新説のように一方的だったというのは説得力がありました。たしかに、天下分け目の関が原が、タコ殴りで終わったら盛り上がらないw
しかもその手柄のほとんどが、福島、黒田、藤堂、そして小早川という豊臣恩顧の大名たちっていうんじゃね。
鶏足寺信義 小早川は違うと思う
@@user-wp9jn8fg4l 小早川は違うとは、何が違うとお思いで?
sk reraku そこなんですよ。新説見た時一番疑問に思ったのがそこで、徳川家お抱えの三河武士の先陣はどうした?って思わず「?」が浮かびました。
通説は明治以降に軍部が教材用に作ったものであり、それが流布してしまったようです。
最近では、様々な文献や埋蔵物から照査がなされ、この新説の方が事実に近いものと考えられています。
死傷者多数の割に大谷吉継以外の大名クラスは戦死していないから、西軍の戦線が瞬時に崩壊したわけではないような気がする
大谷勢は周りを取り囲まれたから崩壊➡戦死となるが、それ以外は後ろに逃げ道がある。
それに崩壊と言っても足軽クラスはお国より自分の命大事なので、これはヤバそう!となればすぐに逃げる。
武将も兵が居ないのに自分だけが残っても無駄死するだけなので、さっさと逃げる。
なので状況を見ただけで勝負は決まる(頑張る例もあるが)。参加人数の割に戦死者が少ないのもこれがあるから(逃げるときはバラバラなので個別に刈り取られるが)。
@@user-vr6nl8qq3n
そんな中孤立無援、逃げ道なし、迫り来る数万の敵軍というどうあがいても絶望という状況に追い込まれ、将兵300名が80名に撃ち減らされる損害を受けつつも敵中突破(島津の退き口)を行った島津義弘の決断、それを実行した島津兵の勇猛果敢な奮闘ぶりは天晴れという他ないでしょう。
山の斜面での戦いなので攻め手もスピードがなかったのかも知れませんね。
大垣城を出た、出なきゃ
行けない状況にさせられた
時点で敗けなんだっけ?
一旦大垣城をあきらめて、全軍で戦うべきだった。特に立花勢がいれば…
どうせ大垣をでるなら伊吹山まで下がれば良かったものを..
この説ですと、大谷隊だけが突出して先へ行っているのは、敵を釣り出してきて、叩く作戦だったのですかね。小早川の寝返りをある程度予想していたとしても、全軍の作戦ならば、行動を変更できず、その結果、挟み撃ちとなって、すぐに壊滅するのは致し方ありません。これに対して、主力が山中村でぶつかったとき、これほど簡単に負けてしまうことが解りません。初めに敵の位置がもっと遠くだと誤認していたため、待ち受けていた将兵の準備ができていなかったのか、布陣が丘陵を背後にした位置で、一旦崩れたら態勢を整えることが出来なかったのか、連携ができていなくて、各隊が勝手に戦う状態だったのか、大谷隊を撃破して後詰めとなった敵の隊の圧力が強かったのか、とにかく、この戦いの勝敗は両軍が出会った時点で決まっていたということですね。
通説でも新説でも島津義弘はすごかw
しかも、この時65歳のお爺ちゃんです。
関ヶ原の戦い本戦に参戦した
大名クラスで、かつ義弘以上の高齢者は、他にも
大島光義(東軍、12000石、93歳)
金森長近(東軍、38700石、76歳)
有馬則頼(東軍、15000石、67歳)
を挙げられますが、
「旗も馬印も捨て、敵本陣目掛けて真一文字に突撃」していったのは
義弘だけです。
島津の退き口も驚愕ですが…この時代に、しかも93歳で鎧刀身に付けるとか…そっちの方が個人的には驚愕(笑)
無邊落木 光義自身は参戦してないって説ありますよ
@@japanesepapermakingwashi5474 背骨で支えるより着装してモノコックにした方がしゃっきりするに一票。
役立たずの島津軍
今まで言われてきた話でも謎なんですが、この話だと、大谷さんの首はすぐに取れそうですよね。この辺、どうなんだろう?
亀井誠治 やっぱり兵士が強かったんですかね。
小早川隊を何度も押し返したて言われてるくらいですから
いや取れたんでんしょ
現実にはすぐに討ち死にしたってことでしょ
通説よりこっちの方が納得出来る。
あんな大軍同士が衝突した合戦がたった1日もかからず勝敗がついたのが通説だと腑に落ちない。
ただ、ひとつ気がかりが。
秀吉に100万の兵を指揮させてみたいといわしめた大谷吉継があんなよく分からない布陣をするのかなぁと。
大谷はあくまでも東軍へ向けてのオトリ役なので、突出した場所に布陣しないと意味無いのではないでしょうか?
大垣からの転戦中に、秀頼や輝元用の陣地に勝手に入って、移動命令に従わない小早川は、裏切る前提で陣を引いたので、大谷は対小早川になっている。
@@user-et9bp1vs8g 囮もあったけどやはり平塚為広隊(平塚らいてうの祖先)と共に小早川隊を食い止めている間に西軍の他の武将たちが東軍本陣を狙う為の布陣では無かったのではないかと…。
とても面白く見させていただきました。
ありがとうございました。
島津がやはり凄すぎる。
伏見城落城からは1ヵ月以上経っていて、戦局も大分変り可成り東軍有利となってました。大垣城以外の周りの城は全て東軍に落とされたか寝返ってましたから。そんな状況で、小早川が味方を追い出して松尾山を陣取ったという報が入る。敵かもしれない小早川の隣の山中村に陣を張るでしょうか。大垣から大阪方面に逃げる途中で、もし小早川が攻撃してきたら、応戦する。そんな感じだったのかもしれません。遅れてやってきた大谷が東軍に攻撃されて、小早川からも攻撃され、関も渋滞して逃げ切れずやむなく応戦した。勝手にそんな感じじゃなかったかと思ってます。
西軍は、大垣から10キロ弱も移動してきて陣立てもうまくできずに密集していたというのは理解できますね。
石田三成がいくら戦下手でもこの状況で野戦するかぁ?
兵法書は無駄に読んでそうだしなぁ
・・・三成って馬謖に似てるかもしれない
なまじ頭がよくて、それだけに奇妙なアドリブをかますみたいな
前線~大坂直行ルートの確保は至上命題。小早川(秀秋)が勝手に松尾山城に入った時点で、大垣を出て野戦をせざるを得なかったと
言うべきでしょうね。もし東軍がすぐに関ヶ原に乗り込んでこなかったら、長篠の合戦より近代化された野戦陣地を築くでしょう。
東西両軍とも朝鮮の役の参加者が多いので、そんな事態にはなりませんでしたが
あと、三成の軍事能力は非常に高いですよ。実戦で証明済みです。源平合戦レベルで判断すると間違えます
@@toshiyam2853
三成に対しての偏見?がすごいですよね。
少なくとも、コメ主達よりは優れていた事は歴史が物語っていますね。
よく知られていることと結構違いますね。
私は関ケ原第一の功労者は、毛利を戦に参加させなかった吉川広家だと勝手に思っていました。(毛利の突入があっていれば、小早川は裏切らなかった。)
この説だと、戦い当日、吉川はどうしたか知りたいです。
新説では通説よりも確実に、小早川も吉川も東軍として参戦するもしくは動かないと家康はわかっていたと思います。
そのため、吉川広家はどちらの説でも動かなかったと思います。
東軍が開戦した段階で広家と毛利秀元の家臣の福原広俊は家康に人質を差し出して、黒田長政と東軍への寝返りをしていました。
そのため、広家は寝返ったことを秀元や安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親などに悟られずに動かさないことが最大の任務だったと考えられます。
「両川のうち小早川は名前だけで、ほぼ独立した大名家となり、残った吉川家と毛利家に確執があるというバラバラの状態で毛利家が徳川家と対決することを命がけで阻止」というのが両川の生き残りとしての吉川広家の行動だった思います。
当時の毛利家で最も戦功があった男が、主君への裏切り者の汚名を着てまでの行動だったと考えると関ケ原第一の功労者は新説でも吉川広家だと思います。
広家は自らをないがしろにする主君(輝元)を裏切っているようで、実はもっとも毛利家の存続に貢献していたと見ています。というのも、関ヶ原に西軍が勝ったとしても東軍が最終的に勝利するシナリオや西軍が仮に勝ったとしてもその後の統治政策が豊臣家を踏襲するのであればいずれ覇権を賭けた別の戦いが起きる可能性等が考えられるからです。
小早川秀秋のほうは、通説でも新説でも毛利家が動かなかった時点で東軍の勝利が高いため、関ヶ原でははじめから東軍として動き東軍の勝利を確実なものとし、戦果を上げることで家康への恩に報い、自分の価値を認めてもらうという動機があったと思います。
また、広家も秀秋も朝鮮出兵に参加しており、一応は両川なので面識や交流があったと思われます。そのため推測に過ぎませんが、広家の寝返りは、人質を差し出す頃には秀秋に知らされていたのではと私は考えています。
@@chihiro7014 コメントありがとうございます。新・旧説いずれにしろ、広家の果たした役割は大きいと考えて良いようですね。
歴史話では、広家の功績をもう少し評価すべきと思いますね。
三成達が大垣城から出陣したのは
裏切って松尾山を占拠した小早川秀秋を排除するためだったらしい
最近松尾山北の藤下の遺構からその事が推察されてます
そもそも三成の陣があったとされる笹尾山には陣と思われる遺構が見つかっていません。
大谷吉継が討死したのも軍の最後方に位置したおかげで小早川軍と東軍の攻撃を真っ先喰らう事になったからだと思います。
大谷隊の壊滅で西軍は混乱し、東軍は勝利の勢いに乗って攻撃したのであれば勝敗は目にも明らかです。
関ヶ原合戦は「薩藩旧記雑録」に書かれてるものが幕府への忖度がないため、江戸時代に書かれた他の軍記物より信憑性が高いみたいです。あと、大谷吉継勢(頼継とか大学ではなく)が着陣してたであろう場所に大規模な城が築かれていたようで、本来、そこに秀頼を迎え入れる構想があったという新説があるみたいですね。
玉城のことですね。
ま、でも、関ヶ原の時点で淀殿が秀頼を戦場のただ中に置くはずもなく。。。。ですね。
関ヶ原は、三成の作戦は非常によかった。
一番の敗因は、一部の武将たちが、三成のような忠臣ではなく、裏切りを平気で行う日和見主義であったこと、家康の本性と目的を見通す才知がなかったことでしょう。
関ヶ原での戦いは局地戦に過ぎず、本戦は大垣城の戦いだって話ですもんね。
小早川秀秋は最初から東軍側で大谷吉継は開始早々に壊滅しちゃって、通説のような大谷隊の奮戦は無かったらしいですね。
通説は両軍合わせて20数万人が戦った。ところが戦死が2700名あまり。どう見ても天下分け目の関ヶ原という戦いでは無かったと思います。単純に考えても徳川勢10数万人の兵站を確保し、移動させるだけでも不可能で、当時の人口からしても盛り過ぎです。もちろん干飯だけでは戦えません。
当時の戦いの戦死率って普通はそんなもんでしょ。徳川方の補給線は、東海道―清州―岐阜―美濃赤坂、で繋がってるし。
島津勢は少勢なのに、それを2隊(義弘隊・豊久隊)に分けるとは考えにくいなぁ。
また、大谷隊は「殺してください」と言わんばかりの突出ぶり。これでは裏切りがなくても持たなかったのではないか?
私の知識では、島津勢は、2隊に分けたというより、合戦が始まってもなお国許から兵士が次々到着している状況だった。後ろに控えた義広の隊が増えたので2隊に分けたように見えたのでは
@@user-et9bp1vs8g 義広ではなく義弘だと思いますよ
大谷隊はこうなっては勝ち目のない戦、ならば勝つために乾坤一擲、家康の首ひとつ狙って前進していたのではないかと大谷刑部の研究をしている先生が仰ってましたね
山中村と関ヶ原東がわはどれくらいの距離だったのでしょうか?
関ヶ原古戦場巡りをした時に松尾山にも登りましたが、結構な山道で、大軍勢が一気に下りるのは無理な感じがしました。当時木が伐採され要塞化していたとすれば、その動きは丸見えだし、たどり着くまで起伏もあるし、大谷隊が小早川から突然攻撃されたというのも不自然だと思いました。新説が本当だとすれば、大谷隊は無謀というか相当間抜けですね。ちなみに、関ヶ原合戦図屏風では通説の位置になっていますが、その頃から創作していたという事なんですかね。
本郷教授によれば、大谷軍は松尾山に対して重点的に柵を作っていたようで、小早川軍を相当警戒していたようです。そこを夜明けにいきなり東軍の先方部隊に襲撃されて、その後に松尾山の麓に降りてきた小早川軍に挟み撃ちにあったそうです。おそらく、当時の関ケ原近辺は霧が立ち込めていたので小早川軍の動きには気付かなかった可能性も高いですし、仮に気付けていても挟み撃ちにされれば相当程度の確率で壊滅するでしょう。
主戦場が山中や藤下ではないかと言うことですよね。
かなり前に伊達政宗に関する本を読んで
徳川家康から伊達政宗に宛てた書状で
美濃山中とうげにて敵を打ち破ったといった文言があった。
更に別の関ヶ原の戦い現地を歩いた時
関ヶ原古戦場と言われる場所の西側に山中や藤下という地名が在る。
そこで勝手に家康の書状の「美濃山中」は美濃の山の中ではなく「「ヤマナカ」という地名、とうげは地形の「峠」ではなくこちらも地名の「藤下」なんじゃないか?なんて思ってましたが
歴史家先生たちもそう考える方がいた事を嬉しく思います。
もし山中が主戦場だったならば「関ヶ原の戦い」では無く「
山中の戦い」に改める必要があるかもしれないですね。
毛利が動かないと分かっていたような動きだな
やっぱ毛利は日和見か
そりゃ吉川に手を回していたら
これは TBS の吉川アナウンサーと元 NHK アナウンサーの番組で見ました 。山中村隣のとうげ村で石田三成隊が、大奮戦しましたが、やがてやられました。藤下村の人たちは 天智天皇の息子の弘文天皇と 弟の天武天皇の 皇位継承戦争 である壬申の乱 でも関ヶ原で行われた 戦の後、ご遺体を とむらったそうです。 昔、豊橋ユニ今のアピタですかい藤下村の女性達が、来て米を売ったんですが、その時パンフレットをもらって知りました。
第一次資料は重要ですね、新説の方が合点がいく。
二時間ドラマ化🙂🏯
家康の尾張進軍が三成の予想を上まり兵力の集結が遅れ後手にまわっていた。
そして現場指揮官(黒田隊なら後藤又兵衛等)の差も大きいと思う。
三成は事務方でありこの合戦は荷が重すぎたのではないか。
「関ケ原の戦いは無かった」とはかなり異なりますネ、一次資料に限定する限り、家康は赤坂から動座しておらず、三成等は秀秋が裏切っ「た」のを知り、これを討ちに行き、その途中で福島隊と遭遇・交戦、これに秀秋が攻撃、西軍は壊滅した、そうです。
脇坂や小川は、開戦と同時に裏切った割には、良い処遇は受けてないですね。(様子見をし、小早川が裏切ったことで裏切ったため評価されなかったと思っていた。)
小早川、小川、脇坂は合戦翌日に佐和山攻略を命じられました。
その際に戦功を焦って問題を起こしています。
また、一早く家康側に回った京極攻めにも参戦しており、手厚い処遇を受けた京極高次への手前、あまり目立たせる訳にもいかなかったのです。
小早川の無能ぶりは家康も知ってたからね
秀吉に叱責されて改易させられそうになった秀秋を
家康が助けたりしてるし、家康は秀秋を使えない奴だと初めから思ってたみたい
だから手柄を立てても厚遇はされなかった運命だった
新説でも鬼島津の敵中突破だけは変わっていないのが島津の凄さを物語ってますね
新説も不明な点が多いからこれからも色々新たな説が判明していくだろうね
黒血川かなあの辺の河川は小さいけど谷が深い、これを容易に超えて大谷勢へ大群の小早川勢が襲い掛かると
小早川勢は渋滞を起こしてた勢力からの攻撃を集中して浴びる格好になるのではないかと感じ
西軍の離反は起きないのではないかと思っていた。
通説は実際の地形を結構無視してるように感じ
新設では西軍は川を防御に使うも狭い地形に展開できず自滅するほかない印象
集中砲火を裏付ける様に弾丸の出土が著しいと聞く
関ヶ原でなく 山中の戦いね 戦死武将が大谷様だけでもわかる 現在の観光や映画やドラマに影響あるからだろうか
さんもくでん
そうらしいですね。
関ヶ原地方での戦らしいですね‼️
@@user-vj7je8cz7i そそ 関ヶ原の戦いがそもそも無いらしいですね 新しく発見された古書や科学的に研究
され 適当ではないので^^信玄の肖像が違う や 長篠合戦も鉄砲でなく やはり兵力の差であり あそこ掘っても玉が出土されないらしいですよ^^桶狭間も上からの攻撃でなく 下から駆け上がったて行ったなど
いろいろ 科学的または地形なども研究され 今まで見た映画 ドラマが・・・・嘘になりますし^^
武将ブームなんでゲームなどで 関ヶ原が空説になると 観光などに被害がね^^
真実が知りたいですね 勝ち組が歴史を変えて または政権が変えて 嘘の歴史作ってるので
それを 覆すのは至難の業と思えます
@@user-wo9kq7kf5r 鉄玉は降水のある土壌で数年で錆びて砂鉄に変化し形を留めない
@@ffaa416そうなんですか 玉というか弾丸 は鉛と思ってたので そのころ弾丸 は鉄だったのかな? 良くわからないけど 情報ご意見ありがとうございます
@@user-wo9kq7kf5r 鉛玉も中性の土壌で錆び400年もたてば原型を留めてませんよ
福島、黒田らの兵力では、石田、宇喜多軍に兵力で劣り、すぐに壊滅させるなど不可能と感じます。
結局徳川家康隊が石田、宇喜多方面の戦いにも参加し大活躍しているようですが、こちらの方が疑わしく感じました。
3万もの徳川隊がそこまで機動的に動けるものでしょうか?
福島黒田松平井伊およそ2万に対して石田島津宇喜多小西は3万未満くらい?少なくみて2万としてもほぼ同数。小早川の乱入前に石田他が即座に壊滅することには違和感あるな〜
大谷の陣跡は松尾山に対して構築していたという話を聞いたことがありますが、小早川の裏切りは結構事前に分かっていた可能性があるので、大谷が小早川を無視して平原に突っ込むという事にも無理があるのでは。
また、開戦前に毛利は小勢で動けなかったと言うことですが、池田浅野の抑えがいたとしても、15000が合戦中に後ろから突撃すれば十分勝機はあるはず。
後続に長宗我部とかいたはずなので。
毛利がいるまま家康本陣が背を向ける形で深入りとは、慎重な家康がするとは考えにくい、、
やはり毛利(吉川)の事前調略があり、かつ小早川の即座の裏切りで実質4、5万対10万の構図が即席で出来上がり、数の力であっという間に勝ったのだと思う。
結局どっちつかずの武将が多い中、家康の調略が凄かったのよね
新説の通りだとすると、西軍主力が予想以上に弱兵であったことがわかります。
相対的に上田での真田の働きが一層際立ちますね。大坂の陣の前に徳川があれだけ真田を用心したのも納得です。
これだけ一方的な戦いだったとすると上田で苦戦して、遅れをとったとする徳川本隊はわざと遅れたのではないかと思いますね。
毛利本隊がひょうたん持って関ヶ原に来なかった時点で・・
立花が間に合ってれば、、、って思うと長期戦だよなぁ
上杉も関ヶ原に来ていれば、、、
@@kt368さん
その可能性は極めて低いと考えます。
ご存知でしたら恐縮ですが、上杉景勝と最上義光は天正年間から、出羽庄内地方を巡って争ってきた宿敵です。
たとえ、神速の勢いで最上家を倒しても、出羽国は他にも秋田、戸沢(この時は景勝に友好的でしたが)など旧来の大名もおり、彼らへの警戒と関係維持も必要です。更に隣国陸奥の伊達政宗への報復(重臣の甘粕景継は、居城を騙し取られている)も行う必要もあります。
そもそも、景勝がこの戦を始めた動機は、秀吉に没収された旧領越後の奪還です。背後の出羽国を平定したなら、土地勘も人脈もある、越後侵攻を実行に移すほうが費用も少ないし、勝算も大きいです。
したがって、三成にはお茶を濁すような回答をして、関ヶ原本戦には参戦しなかったろう、と推測します。
長文失礼しました。
@@user-nz7tt4eh6q 指摘ありがとうございます。あくまで来ていたらの話なので奥州情勢は考えていませんでした。
確か大津城で足止め食らって参加できなかったんですよね
というか関ヶ原の新説ぶちあげた人ってどなたですか?
@@user-is9gx8ij5k 大分大学の白峰先生あたりですね。一次資料を丁寧に読んでおられる研究者です。
ますます謎だなあ。
なんでこの兵力差で戦おうと思ったんか。
やっぱり秀吉の家臣だった家康が秀吉が死んでから好き放題やったからだと思う。三成は秀吉のことを神のように忠実だったから尚更。前田利家も死んじゃったし。
一次資料は信頼できる。
こちらの方が合点がいきますね。
小早川秀秋何の迷いもなく攻撃してるやん
これを待ってました!!!!!!!!!
島津は天晴れ過ぎる!
かっこいい負け方やな!
南宮山の伊勢路毛利勢が大垣の後ろ詰だった事や、講和した事に触れないと
これが仮に本当なら勝算もなく無策で陣を構えて戦に打って出ようとした三成や宇喜多が間抜け過ぎるのでは??
三成は豊臣家の武断派から戦下手って罵られてたみたいだから
あながち三成の失策も納得できそう……
島左近も明石全登も無能?
@@ufj24
両名なにかしら提案したんだろうけど
三成が採用しなかったんじゃないですかねぇ・・・
旗手不鮮明な小早川(まず東軍についた)を抑えるために山中に布陣し大阪との連絡を確保した。
三成も何の戦闘も無く南宮山ふもとを徳川勢が通り抜けるとは思わなかったんだろうと予想してみる。
籠城兵を無視し先へと行軍し籠城側を野戦に持ち込むのは三方ヶ原でも使われた手にて
家康が三成の性格なら釣られると身をもってわかってたのでは
この絵巻はいつ出来たん?
この兵力差じゃ吉川がまともに動いて小早川も裏切らなくても三成の勝機は、無いですよね
吉川勢が動かなかったため、すぐ後の山に布陣していた毛利勢一万が動けなくなり、動かないそれらを見た長宗我部勢一万まで動けなくなってしまった。徳川本陣を突けるこれらが遊んでは…
そもそも毛利は日和見決め込むつもりだったとしか思えない
@@user-et9bp1vs8g
本当に毛利勢力全体が日和見を決めていたのであれば、何百年も吉川が毛利に恨まれる事は無かったでしょう。
やはり通説どおり吉川がキーマンであり、単独で徳川と繋がっていたんですよ。 そして山のふもとに布陣して毛利勢力と長宗我部を止めて動けなくした。
毛利勢力の安国寺なんてバリバリの西軍の主要人物(黒幕的存在)であり、吉川とは険悪な関係。 それが吉川のせいで戦いに参加出来なかったのだから。
完全に日和見なんかじゃないです。
吉川と徳川の作戦勝ち。
そして、西軍総大将に担がれた毛利輝元は毛利勢力を全くコントロール出来ず、まとめることが出来なかった最大の戦犯。
毛利輝元に至っては関ケ原中に九州に大友の息子派遣、四国にも出兵&一揆扇動したりやりたい放題だった(大阪から動かないのは自勢力拡大に集中)そうだからな…。で、関ヶ原後には安国寺と石田に騙されたんですと二人を生贄に黒幕の癖に生き残るというある意味祖父譲りの厭らしさ。吉川広家の安堵交渉は創作疑惑も出てるからほぼ単独で交渉したことに…
大谷吉継公がいきなり集団フルボッコにされてあんまりだ
大谷吉継のいる場所があまりにも不自然に思うなぁ。。。
ですね
吉継は藤川台地に布陣していたはずです
どうぞ包囲してください、みたいな所に布陣してるよね。毛利本隊との挟撃を狙っていたんだろうけど……
少数で平野のど真ん中なんて…
前衛として、当たってすぐ下がるつもりが、小早川の裏切りで殲滅されちゃったのかな?
小早川の裏切りを想定しなければ別に不自然ではない。先方大谷、後詰めが小早川で連携。むしろ、不自然なのは、小早川の裏切りと同時に西軍が退却してないこと。どう考えても勝てない戦いをなぜしてしまったのかということ。大阪に逃げ帰るのが定石と思うが。
後ろから急襲されて逃げれるどころじゃなかった説
確かに歴史が勝者の歴史であることは否定しません
昔から疑問だったのですが
反旗お翻した小早川秀秋は後の論功交渉で領地が加増されたのに
赤座等のその他の裏切り組は改易や領地安堵、小早川とは明らかに異なる対応になっています
新説では島津豊国が戦ったことになっており、やはり論功交渉で島津は領地安堵
毛利秀元に至っては関ケ原には参加していないし、距離的に参加できなかったのに、大幅な領地縮小
論功交渉の観点から一歩踏み出した考察も必要ではないか?
と考えます
島津豊久です。
あくまでも個人的見解になるのですが、
小早川秀秋が豊臣家に虐げられたから裏切ったと言う人もいらっしゃる様ですが、秀秋の素行(アル中・借金)にも問題があった様で、そこも含めて考えたら豊臣家は結構まともな采配してる様に感じます。
朝鮮出兵はちょっと運が無かっただけな気もしますが…。
秀秋には世間知らずの一面もあったのでは無いかなぁと思えなくもありません。
その後の家康との結び付きを考えたら、小早川秀秋は、家康(狸)に良い様に使われたとしか見えません。
関ヶ原合戦に直接的に関係する様な意見では無いのですが、一歩踏み出した考察をしてみるって意見には賛成です。
願わくば…新しい説を出して来る人が、支離滅裂な事を言い出さない様にだけ注意してほしいと思います。
(斬新と支離滅裂は紙一重な気もします。)
この動画のネタ元と思われる原典読みました。問鉄砲がないとか、ドラマチックではないけど、一次資料の分析から導き出した説で説得力があります。残念ながらこれが真相なんでしょうね…
この動画、原典を紹介していないのがまずいですよね。現時点では、通説というよりも白峰先生などの提示した仮説というべきですから。
新説が正しいか否かは当然分かりませんが、少なくとも通説は作り話のオンパレードでしょうね。
西軍結成の段階は分かっていないことが多いですが、奉行職も解任されてて実権も人望もない三成が西軍の中心人物でありリーダー格であったというのも無理があると言われています。
ドラマや映画などでももうすこし最新の研究を入れてほしいところですが、関ヶ原に限らず古い歴史観のまま書かれてしまうことが多いですね。
来年の大河は徳川家康ですが、家康は特に江戸時代の家康上げや、明治維新後の徳川下げの影響で歪んだ姿で書かれることが多いため、史実に近い姿で描いてほしいです。
大垣から転進する際、毛利輝元が総大将として入るべき単純な造りの砦に小早川が、勝手に入ってしまい。移動命令に従わなかった。この段階で大谷は裏切りを想定し、備えた。だからあの位置になった。南側から、長宗我部勢や立花勢の到着を…
黒澤明の映画「羅生門」の元となった芥川龍之介の小説「藪の中」。
「真実」は一つなのに、それぞれの当事者がそれぞれの「事実」を語るので謎が深まるという話。
関ヶ原の戦いについての通説、新説?も、どちらが正しいというより、少なくとも二つの見方(見え方)があるということでは?
どちらも正しいとした上で、真の関ヶ原の戦いの姿を探求していくのが楽しいんじゃない?
個人的な直感では、新説?は午前8時頃から始まったとされる戦いの、正午頃からだけの状況を述べている感じがするんだけどw
三成は負けた時の逃走用の馬を用意してなかった、だから徒歩で逃げ回るようになった。逃走用馬を用意していれば、大阪城に逃げて再起もできたかも。
歴史は詳しくないし、まったく関係ない話だけど、この戦いで負けちゃったやつらが260年の時を経て江戸時代終わらせて日本を近代化させるって習ったけどマジだったんだね。
島津とか毛利、井伊とか近代史で出てくる人の名字がちらほらでてきて歴史って繋がってるんだなぁおもったわ
あと家康本隊は南宮山と大垣城の抑えで動いていない可能性が高いです
どっちにしても、とんでもねぇ鹿児島の島津のみなさん!
まっ!兎に角半日で決着している。仕事が速い
大谷義継は、盲目のハンディと石田三成との友情で参戦したと聞いてます。瞬時壊滅なんて本当に残念です。
島津義弘、豊久あっぱれです。
人が多過ぎてごちゃごちゃなんだこりゃーて感じだったんですかね😅
宇喜多秀家は、通説の通りだったのかな??
よい説明で嬉しいです.戦いの様子は勝ち組が編集して後生に残すのが普通であるがもう400年たった.関ヶ原の戦いは徳川の時代になる兆候で面白い.歴史は積み上げて今の時代になった.もう戦争はないと思う.
通説に対して新説を説明するなら、新説の妥当性を説明しないと読み手を楽しませるだけの面白話で終わってしまう
結局通説と同じになってしまう
あと戦いの推移を「瞬時」と表現しないほうがいいとおもう。いくら東軍が強いのを表現したくても、誇張は話を物語化してしまい、信頼性を損ねて残念なことになる
何か少し違うんだか、何時の間に変わったかなぁ、
これはしっくりくるね。東軍が鶴翼にわざわざ突っ込んで布陣したのも思うところあったし。大谷は後ろに小早川や、脇坂、小川、赤座も近くに布陣しており毛利もいるからって算段での配置かな?島津がなぜ終盤まで戦わなかったのかもこっちのほうが理にかなってますね。島津の通説の配置だと三成の隣だからまっさきに攻撃されそうな場所ですし。
新説と通説の共通点
・島津義弘隊の中央突破
以上
感想
島津は、強い!
小学生でも分かる事に感動。
もし、島津軍が5千以上いたら(実際は2千足らずか1千5百くらいでした。)、西軍が勝っていたかも!
岡田一也 維新公もそう仰ってましたね
毛利勢はどうしていたんですかね。宰相殿の空弁当…
@@user-xy6nf4zi4t 吉川と毛利秀元は両方とも打って出ないと決めてたか?
そうなると、三成とともに処刑された安国寺恵瓊は何をやっていた?
これだけ東軍が密集して西軍を攻撃しているとういう仮定だと、島津は中央突破できなかったのでは?
島津が中央突破した時はほぼ決着がついて
東軍の何隊かはバラけた状態だった
島津はそこをぬって突破してきたって説もある
隊の四方を鉄砲で囲ってる状態で誰が近づけようか。
もふもふ それは従来の説ですよね。それなら分かるんだけど、この動画の説では島津義弘隊に徳川勢が押し寄せてきて、東側も塞がれている。仕方なく徳川勢を押しのけて前進撤退とある。従来説より遥かに困難な状況で突破などできたのだろうか。そう考えるとこの説自体が怪しく思える。
大勢が決したので徳川方も追撃に入って布陣は乱れてた可能性が高いと思う
長い間の通説では
島津は撤退の最初に福島隊へ向かった。
福島隊は朝鮮での島津の勇猛さを知っていたから動けず傍観。
慌てて井伊と本多が追撃するも、致命傷と落馬となる。
なんとか島津は脱出成功した。
通説でも新説でもここは変わらない。
もし立花宗茂と毛利元康勢らが間に合っていたらどうなってたのだろうか。
毛利秀元・吉川広家は南宮山の標高400m付近に陣を敷いたという。遺構も残ってる。常識的に考えれば、これでは大垣城の救援は出来ない。山降りるだけで大変だ。
秀元と広家は自分達を守るために南宮山に布陣したとみてる。それ自体、小早川の松尾山布陣と同じく三成の想定外だったしね。
関ヶ原の戦い。
岐阜城はどの程度、堅固だったのですか?
岐阜城を囲む曲輪の状況は?
(他の城はどうですか?)
太閤記では裏山からなら。
そのように書かれたモノもあるようですし。
今ならレーザーを使えば?
おねがいします。
それと秀頼が天下人になっては都合がーーーという者は東軍諸将、及び秀吉恩顧の者の中に、どのくらいいたのですか。
それと
関白秀次の家臣だった者や、親交があった者ーーーを教えて下さい。
西軍がこれだけまとまりがなかったら勝ち目はありません
岐阜城を東軍諸将が攻めあぐねていたら、状況は変わっていたかもしれません
今までのは違和感があったけど
こっちの方が納得する
同意。東軍に中山道を突破されればすぐに佐和山に攻め込まれるのに、なぜ街道沿いでなく北方の笹尾山に陣を敷いたのか疑問でした。
全面的に「新説」に従っていますね。
通説の兵力面では、大垣城には石田6600、宇喜多17000、島津1600、小西4000~6000、福原ら6000と少なくとも35000はいたとなっています。
毛利秀元は毛利軍の主力であり20000程、吉川広家は5000と聞きます。
東軍は赤坂の諸大名が40000強、徳川家康隊が30000ですが、徳川軍の精鋭は秀忠軍で、家康隊は若手や老兵で、実兵力は10000程度でしかなかったとも聞きます。
兵力は西軍の方がやや有利とされていた訳ですね。
通説は脚色されている部分もあるでしょうが、通説の様に家康に反抗する大名の方が多かったという状況の方が後の徳川家にとっては都合の悪い事実の様にも思いますが。
そもそも問鉄砲は距離的に小早川に聞こえたのかな?
とても面白く為になりました
秀頼を人質にとって、毛利輝元・宇喜多秀家が主導で大阪城で籠城してたほうが勝算あった気がする
宇喜多秀家首謀者説っていうのを昔、何かの本で読んだことあったけど、誰か詳しい人いませんか?
個人的には、秀吉が死んでから三成が劣勢に立たされて以降の関ヶ原までの動きが秀家首謀者説の方が説明しやすい気がするのですが
……
誰からも相手にされていないか、すでに遥か昔に否定された説だったのかな?
首謀者だったら島流しはありえない
白兵戦になったらちまちまやらないから決着も早いのかな
密集陣形で徳川が近接するまでボサッとしてたのか?
結局、西軍は前提として毛利勢に頼りきりの戦いだったって事じゃねぇの?
それが、南宮山の連中は動かないわ、小早川は裏切るわ
輝元の本軍は大坂城に籠もって出て来やしないじゃあ・・・。
ただ、小早川は松尾山に陣を築く際に
元々布陣していた西軍の守将 伊藤盛正を無理やり追い払ってるんだよなw
その時点で、三成方は不審に思わなかったんだろうか?
個人的には輝元が何故関ヶ原へ向けて出陣しなかったかが気になって仕方ないです。
輝元からしたら、三成は歳下なので「三成の小僧が先走りよった…。」となったのかも知れないし。
その辺の詳しい事情に興味が湧きます。
@@japanesepapermakingwashi5474 輝元は関ヶ原で勝つ事は当然だと楽観視していて、加藤清正らと交戦して九州を制圧するための準備をしていたと思われます。
@@japanesepapermakingwashi5474 輝元って四国制圧してなかったっけ?
@@tigeriontigerion9112
磯田先生が別動画(恐らく英雄達の選択だと思います。)「輝元は四国制覇目指してた。」と言われていました。
多分英雄達の選択「大谷吉継回」だったと思いますが、当時の戦国武将の最大のモチベーションは自国領土維持・拡大なので、大谷吉継達は防衛線を引き間違えた。
とも言われていました。
当初の防衛ラインは美濃・尾張界隈に引く予定だったと思います。
磯田先生は、三成達が挙兵する同時期に家康は上杉討伐軍達と江戸に入っているので、西軍諸将は急遽浜松・掛川辺りまで進軍した後、西国武将達に「奪い取った領土やる!!」逆に東軍武将達には「奪い取った土地あるけど貴様達はどうするか?」と言ったら西軍武将はモチベーションばか上がりで死に物狂いで戦うだろうし、東軍武将からは裏切り者(家康の元を離れる武将)がでるかも…。的な事も言われていたと思います。
なので磯田説を踏まえた上で輝元を見ると、輝元が四国制覇目指す理由も何となくですが理解出来る気がします。
四国は毛利領のお隣ですから、仮に奪い取ったら毛利側にはメリットしかありません。
三成達には申し訳ありませんが、輝元を引っ張り出したまでは良かったですが、輝元が戦う理由が関ヶ原になかった時点でちょっと無謀だった様な気がしています。
空弁当は食ってる暇もなかったって事か
黒田家の家来が、島左近の叫び声が耳に残って離れない
これも作り話になるんやろな
大谷と島左近が過大評価扱いになるな
空弁当以前に、事前に不戦の密約(実質的には降参)を結んでるから、その時点で大垣城はほぼ詰んでるようなもんですね。山中の戦いは消化試合みたいなもんでしょう。しかも西軍が松尾山に毛利軍を入れる予定だったところを小早川軍に占拠されて振り回されてるところをみると、まず西軍に勝ち目はなかったでしょうね。
本動画の内容には私はいろいろ異論があるが、それはさておき、問鉄砲の変遷について説明するなら、その意義についてもきちんと解説した方がよい。
普通、自隊に向けて発砲されたら、攻撃の合図とみなして反撃する筈。最初の藤堂高虎隊単独発砲説では、小早川隊が反撃する意思がない、つまり東軍に寝返ることが確実であることを確かめるためであった筈。従って「効果がない」どころか、逆の意味で効果があった訳だ。それがどのようして寝返りを促す合図と変わっていったのか興味がある。
松尾山を占拠した後は最早東軍
9:35で「問鉄砲は完全なフィクション」と言っていますよ
仮にだが、大津城の戦いで参陣が遅れた毛利元康、小早川秀包、立花宗茂の合計15000の兵が関ヶ原に間に合っていて激戦状態を見て、南宮山の毛利秀元は何とかして家康本陣に突撃していただろうか⁇
なぜに西軍だけ有利なIFがでてくるんでしょうか?それなら東軍だって秀忠の遅参がなく~って話がでてきてどんどんIFを加えていく話ができあがる。
家康なら不利とみたら関ケ原に移動すらしない可能性だってあるわけだし
西軍に有利なIFをコメントしたのは豊臣恩顧の武将が一様に徳川軍に味方したのが要因です。徳川軍が大阪に戻る途中に西軍にでくわして起こった戦い、東軍の圧倒的な戦力差の前に壊滅した西軍に哀れみを感じるのは自分だけでしょうか⁇
長篠の戦い・・・実際の兵力は 織田/徳川軍が15,000 武田軍が7000。織田/徳川が38000 武田軍が15,000・・・というのも 明治の日本陸軍 参謀本部のフィクションに過ぎない。
兵数が過少に感じます
これは参考にした書籍を参考資料に載せるのがルール。別に事実だから著作権違反でもないし。
H M え❓上に度々表示されてない❓
それらを参考にしてたらダメなん❓
結局本当のところは分からないですね!
家康が勝ったってことだけは事実なのかな?
明治時代、陸軍の顧問だった、ドイツのメッケル(大モルトケの弟子)も、通説の布陣図から、西軍の敗北に疑問を持っていたらしい。
ビスマルク(おしゃべり、お調子者)
「あーひゃっひゃ!モルトゲだってよ、参謀総長閣下♪」
大モルトケ(寡黙、慎重居士)
「私の名字はモルトケだ‥訂正を要求する…」
ご指摘ありがとうございます。速攻で直します。
ご返信ありがとうございますm(__)m
私もyoutubeの視聴者コメントで
「アレア・クインタス」
と
書くべきところを、読み返しを怠り
「クレア・アインタス」って
誤記したことがあります(赤面)
結局五大老の中での争いでしかなかった。
むしろ立場がほとんどない石田三成が圧倒的不利の中、戦いを挑む姿にドラマがあるわな。
あと、なぜか謀略家として描かれる家康だけど、そもそもこの時代で一番戦争経験が多く、実力があるのが家康。黒田官兵衛がいないのに西軍が勝つ要素はないわ。
官兵衛居たらむしろ東軍についてね?
@@user-co4uy9zu1s さん
すいません。
「黒田官兵衛が西軍につくか」よりも「家康の対抗馬になり得るのは誰か」と言う意見です。
考えたのは秀吉の下で才能を発揮した黒田官兵衛かな、ということです。
牧田 康佑スワローズ応援動画あげ 西軍が勝つ可能性としたら島左近の策を石田三成が採用して
立花が間に合ってれば、、って感じですか」
目の前の毛利家を見捨てて石田勢が後方に撤退する意義が見当たらないなぁ
後方で小早川が裏切って退路をたたれたので小早川をうちにいったら挟撃されたという説もありますよ