関ヶ原の戦い新説と終結後 敗戦の将 石田三成の逃亡 実は小早川秀秋は裏切っていなかった?「早わかり歴史授業76 徳川家康シリーズ44」日本史

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  • čas přidán 15. 06. 2021
  • 関ヶ原の戦いの新説。これまで考えたられていた通説の場所に西軍はいなかった。また小早川秀秋は西軍の石田三成を裏切り、東軍の徳川家康に味方したわけではなかった。さてその真相は?今回は近年考えらている天下分け目の関ヶ原の戦いの新しい説と敗戦し逃げ落ちた石田三成について紹介する。さらに逃亡した石田三成を捕まえた田中吉政の逸話なども登場。
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    〇関ヶ原の戦い
    安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた。
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    #日本史 #戦国時代 #教育 #授業
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Komentáře • 190

  • @user-fu9xg5zg9w
    @user-fu9xg5zg9w Před 3 lety +23

    市橋先生は旧説を否定するのでなく、逸話を無意味とするのでなく、新しいものや古いもの、観客の知識と新しい知識を衝突させず、白黒つけるになくお話されるのが凄いと思います。
    生半可な知識の人間に限って白黒をつけて話したがるのかも知れません。
    歴史は事実や証拠以外にも、解釈も重要にもなります。
    新説があるから、旧説は無意味なのではなく、それを解釈している人々に新しい知識を紹介する、という立場に徹していらっしゃるのかもしれませんね。
    勉強になりました。

    • @hawoki
      @hawoki Před 8 měsíci +1

      😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊

  • @user-es4pt7gu1g
    @user-es4pt7gu1g Před 3 lety +17

    戦後改易された小川祐忠や赤座直保の方が裏切りといえると思います。

  • @user-fc6ok3sm1s
    @user-fc6ok3sm1s Před 3 lety +9

    戦とは、勝者にも敗者にも、それぞれに思いがあるのですね。当時の本物の武士の真髄を教えてもらいました。

  • @tu5718
    @tu5718 Před 2 lety +1

    大変楽しく考える事の出来る動画有難う御座います。今回の動画ですが内通する事事態が裏切りだと思います。小早川秀秋殿の関ケ原戦後をこの動画で取り上げて頂ければ有難く存じます。

  • @mokomokojigu1
    @mokomokojigu1 Před 3 lety +14

    毎週毎週楽しみにしています!関ヶ原の戦い、もっともっと話が聞きたいです😊 
    歴史はロマンがあるし、いろいろな説にも歴史があるんですね🤔ますます歴史が好きになりました。

    • @user-ni8zx1uf8k
      @user-ni8zx1uf8k Před rokem

      三成の失敗は逃走用の馬を用意してなかった事。

  • @user-so3xf6eq5o
    @user-so3xf6eq5o Před 3 lety +3

    待ってました!
    そして、次が待ちきれません。

  • @Kodomoband2
    @Kodomoband2 Před 8 měsíci +5

    最大の裏切り者は、大将でありながら逃げまくった毛利輝元

  • @user-jy5jt2nv1z
    @user-jy5jt2nv1z Před 3 lety +12

    歴史に諸説あり!
    先生の解説は楽しく、本当にありがたい。
    歴史にロマンあり!

  • @user-oq3pk9dr1r
    @user-oq3pk9dr1r Před 3 lety +13

    今日のお話もとても面白く拝聴致しました。各所に面白いエピソードがあり、関ヶ原のも時代も私達のような晩年サラリーマンのような哀愁があったのですね。
    (私の場合、お家を守るという訳ではなくて背負ったローンと家族のためですが😅😭)
    水曜日のこの時間が楽しみです❗

  • @tacyu5595
    @tacyu5595 Před 3 lety +17

    400年前に必死で生きた人たちのリアリティあふれる会話がよくぞ現代まで残っていたな、と関心します。
    歴史から学べることはまだまだたくさんありますね。

  • @user-in9em5qx2e
    @user-in9em5qx2e Před 3 lety +7

    やっぱり!
    西軍は山を利用した城塞陣地を作っているに違いない!と思っていました。
    石田三成の想定では、大軍で陣地を守って東軍と対峙している処に、秀頼を連れた毛利輝元が現れて、秀吉ゆかりの千成り瓢箪の馬印が上がり、豊臣の桐紋の旗が林立する···という筋書きだったと思います。
    想定外だったのは、小早川が言うことを聞かないで早くから要所の松尾山に陣取ってしまったこと。
    西軍の諸将は、それまで西軍の一員だった小早川が東軍として動いた時点で勝ち目がないと内心思っていたのでしょう。
    東軍の功労第一は小早川で私は納得します。
    徳川家康にしてみれば、秀秋はもともと秀吉の養子だったから豊臣一門と言っていい。それが味方に着いたのだから、形勢は一気に東軍有利に。大満足だったでしょう!

  • @inuinuchiichan
    @inuinuchiichan Před 3 lety +6

    面白かったです。小早川の話は以前から見聞きしてはいたのですが、大谷隊の様子を上から見ていたわけですね。
    加藤剛が主演したTBSの「関ヶ原」では、金吾が「これから裏切る!」と言うわけですが、武将があんな風に自分で「裏切る」などと言わないだろうと思っていました。

    • @2h914
      @2h914 Před 2 lety

      民法がやるとどうしてもエンタメよりになりますよねw

  • @skinartandmusic
    @skinartandmusic Před 3 lety +7

    待ってました! 後追いで見始めて全部見ました。新しいの楽しみです。

  • @asukas.7141
    @asukas.7141 Před 3 lety +6

    本筋とは違うけど、吉川広家の
    弁当食べてから❗の話好きです

    • @giantnioinoba2023
      @giantnioinoba2023 Před 2 lety +3

      葵徳川三代でも、この描写はありました。なべおさみさんが吉川広家役でしたね。

  • @user-jm5zl4rf8h
    @user-jm5zl4rf8h Před 8 měsíci +1

    いつも楽しく拝聴させていただき、また多くまなばさせていただいております。ありがとうございます。今年は大河のこともあり、関ヶ原4回行ってます。多分あと2回は行くと思います。笹尾山も松尾山ものぼりましたが、関ヶ原で戦があった場合、松尾山押さえたほうが勝ちと思いました。西軍の布陣決めたのは三成なんでしょうか。同行が微妙とは三成も感じていたでしょうから、小早川を松尾山に布陣させたこと不思議に感じてます。

  • @sss-qm2bb
    @sss-qm2bb Před 2 lety +10

    小早川君良かったですね。
    個人的に小早川秀秋好きなので、裏切り者じゃないと言って貰えて嬉しいです。
    動画もですが、みなさんのコメントも見ていて、色んな考え方があって面白かったです。

  • @junichimiyashita1968
    @junichimiyashita1968 Před 3 lety +10

    徳川方から見れば小早川は内通していたから「裏切りではない」が負けた西軍から見れば「裏切りだ」ということでしょうか。日本人は判官贔屓だから仕方ありません。
    後世の講談や軍記物の影響が強いのではないでしょうか。

    • @ks-tv3om
      @ks-tv3om Před 3 lety +3

      小早川は未来永劫裏切り者と呼ばれるべき

  • @user-pz2oe1jf2r
    @user-pz2oe1jf2r Před 2 lety +3

    小早川秀秋は三成の家臣でも、吉継の部下でも無かったですから、東西どちらに付こうが勝手というか自由、それに彼が大阪に辿り着いた時には、既に西軍に抑えられてたら、取り敢えず付くしかないでしょう、それか「東軍に付くために遥々来た」と、馬鹿正直に言って皆殺しにされるか?

  • @saku466
    @saku466 Před 3 lety +4

    東北、九州での戦いも是非解説して欲しいです!

    • @faraway9941
      @faraway9941 Před 3 lety +1

      官兵衛の関ヶ原もききたいですよねー

  • @aki-oz5hs
    @aki-oz5hs Před 3 lety +1

    中学生の小早川君、先生の言葉を聞いて安心したでしょうね。
    関ヶ原後の毛利家の藩経営は大変だったと聞きます。江戸時代になって、長州と徳川幕府との関係についても
    話が聞きたいです。

  • @phoenixgold3593
    @phoenixgold3593 Před 3 lety +10

    三成は戦う武士とは違う官僚上がりとはいうものの、最後を見ているとそれなりの美学はもってますね。秀吉からすればかわいい部下だったでしょう。彼への忠義は充分に感じます。秀吉のもとで安らかに眠ってくださいね。

  • @takahiroimaida3399
    @takahiroimaida3399 Před 3 lety +5

    やはり関ヶ原絡みの話しはどれも面白いですね!
    特に先生が実際に関わった中学生の小早川君の話は興味深いです。こういう話を聞くと歴史とは遠い昔の夢物語ではなく実際にあったことで現代の我々と地続きなんだなと実感できます。
    小早川氏が裏切り者でなくて本当に良かったですね。

    • @user-js3kd7fe4h
      @user-js3kd7fe4h Před 3 lety

      小早川は農民にキンタマ蹴られて死んだって不名誉な言い伝えも残ってるからね・・・

    • @takahiroimaida3399
      @takahiroimaida3399 Před 3 lety

      @@user-js3kd7fe4h マジですか、初めて知りました。

    • @user-js3kd7fe4h
      @user-js3kd7fe4h Před 3 lety

      @@takahiroimaida3399 Wikipediaには載ってませんでしたが、代わりにマツダRX-7開発主査が小早川の末裔だったって載ってました。

  • @calvin68272
    @calvin68272 Před 3 lety +1

    小早川秀秋は、いろんな小説や書籍で裏切りが描かれているので先入観で裏切りと捉えてましたが、市橋先生のお話を聞いて、そういう考えもあるのだと改めさせて頂きました。みんな必死で生きているわけだから、勝者も敗者も称えたいですね。
    「勝って兜の緒を締めよ」は、北条氏綱の言葉だと思ってましたが関ケ原のときの言葉なのかな…

  • @user-st3td1fq7u
    @user-st3td1fq7u Před 2 lety +3

    実際、上杉討伐から家康に従ってきた東軍諸将からしたら、(不本意だったのかもしれないが)伏見城攻めに参加して家康の幼馴染み部下を自害に追い込んだ小早川はそれだけで裏切り者感覚でしょ。いかに開戦から東軍化してても。

  • @kenjisakurai7828
    @kenjisakurai7828 Před 3 lety +2

    かの黒田官兵衛でさえ、関ケ原の合戦が1日以内で終わるとはまったく想像しなかったそうですね。現場の当事者だった武将たちは、ここまで早い決着をあらかじめ、ある程度想定していたのでしょうか。孫子兵法の地形篇には最初の方で「可以往,難以返,曰挂;挂形者,敵無備,出而勝之,敵若有備,出而不勝,難以返,不利」と書かれており、これがまさにあてはまるようなことがあったのかな? 歴史に if はないが、武田信玄ならば、どう戦うのだろうかとか、いろいろ想像します。

  • @user-hb5cb5hg2n
    @user-hb5cb5hg2n Před 8 měsíci +1

    日比野家一族も関ヶ原の合戦に関係あります日比野家一族の本が愛知県一宮市の図書館にあります

  • @s9713
    @s9713 Před 3 lety +5

    浅野幸長は、「ゆきなが」じゃなくて「よしなが」だよね?

    • @user-ih2li1yh4n
      @user-ih2li1yh4n Před 3 lety +2

      その通りです。ご指摘きありがとうございました。人名、難しいですね。

  • @user-lo7lh3vv2o
    @user-lo7lh3vv2o Před 3 lety +1

    『関ヶ原の決戦はあと二か月下さい』に、ついゆっくり聴いてます。とても面白いお話しですが、私の中に違和感?疑問?何か胸に詰まる様な気持ちがあります。お話しを否定する事ではありません。
    秀吉様の子孫が続かなかった事です。家が滅びた事です。
    私の母は、死んでからの事〜子供達の事をとても心配していました。親がいなくなり世間はどうなのかをです。日本には身分の差別はあまりない?と思いますが、低い身分からトップになった秀吉様。でも亡くなってしまい〜その子供を中心に世の中はついて行くでしょうか?
    毛利様他、やる気も無い感じが〜
    石田三成様〜三成様もトップになりたかった?考える時間も無かった?
    豊臣家、そして石田家の存続を考えたらよかったですね。
    『たられば』での思いではないです。『身分』かなぁ〜と、豊臣家にもっと歴史?があったならなとか。
    徳川慶喜様は徳川家を存続しました。
    三成様も出来たかもしれんないですね。イヤ、やはりなる様になってしまった関ヶ原の決戦ですね。
    歴史初心者です。関ヶ原の事も知りませんでした。いつも稚拙なコメント、申し訳ないでゴザル…
    ╰(*´︶`*)╯

  • @user-dg6dn8dg2c
    @user-dg6dn8dg2c Před 8 měsíci +1

    先生のお話は大変含蓄があり、スゴくタメになります。今後もお元気で、若い世代を含む皆の歴史に間する興味関心の亢進をよろしくお願いします😮僕も毎回楽しみに拝見しております😊

  • @user-eb1zo7pd1s
    @user-eb1zo7pd1s Před 2 lety +1

    黄緑似合う。すてきですね。関ヶ原

  • @user-re3ce9hv7h
    @user-re3ce9hv7h Před 3 lety +5

    三成は、嫌われすぎですね。状況で仕方なく西軍につく大名も多かったと思われます。島津も、東軍につきたかったみたいですし、実際は、表面だけ西軍がおおかったのでしょう。

  • @user-zu3rt2oj4l
    @user-zu3rt2oj4l Před 3 lety +6

    関ケ原の戦いの実相がパニック的退却戦だったというのは興味深かったです。
    戦いの時間が4時間ぐらいで決着が付いたということでしたっけ?
    これはあれだけの大人数が移動する場合、戦ったというより撤退するのにかかった時間と考えれば納得できます。
    小早川は裏切りであることには変わらないと思うのですが、それが分かった時点で前線が雪崩を打って崩れたのが本当のところだったと思います。
    イメージとしては長篠の戦いの武田軍が戦わずに撤退した場合を考えれば近い感じでしょうか?
    徳川が前進したというのは追撃戦に入ったということであり、毛利は前線に取り残され動けず、島津はその流れに逆らって前に突入した。(毛利も最初から中立の立ち位置だったでしょう)
    こう考えるとたしかに時系列が腑に落ちる気がします。

  • @user-ol9kf4ri4j
    @user-ol9kf4ri4j Před 3 lety +5

    小早川は二条城攻めにキッチリ参戦してるから裏切り者でしょ

  • @user-dg5kx3gd5p
    @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety +6

    なんでこんなに三成だけが嫌われてると思ってる人多いんだろ

  • @user-pd4tx1yc9k
    @user-pd4tx1yc9k Před 3 lety +5

    脇坂安治は藤堂高虎の仲介で徳川方に寝返る事前通告をしているのでセーフ残りの三隊は完全に裏切り者

    • @user-ju5wc5kn6t
      @user-ju5wc5kn6t Před 3 lety +2

      私は滋賀県在住者ですが朽木も
      存続して小藩ながら大名して
      ましたよ。

  • @user-zd2li7mc3u
    @user-zd2li7mc3u Před rokem +2

    どうも。最近楽しく観させて頂いております。一点疑問を言いますと、秀秋が裏切りでは無いと言いますが、「内通」していた以上、三成サイドから見れば「裏切り」なんじゃないでしょうか。それとも最初から家康サイドに就いていたのでしょうか。ただ諸々の情報だと三成サイドで参陣したとあります。その上で「内通」してたのだとしたら、それは「裏切り」かなと。辞書をみても「内通」は「裏切り」とあります。ですので本仮説には疑問を感じます。大事な論点ですので、ご見解ありましたらお願いします。

  • @schnellbart
    @schnellbart Před 3 lety +4

    徳川家康は三成を内心リスペクトしてますよね。三成の子女は高僧になったり、逃亡を黙認されたり、然るべき家に嫁がせたり、召し抱えにさせるなど厚遇されてますね。

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety +4

      実際に3女は津軽藩主に嫁いで次男が津軽の重臣になった。結局家康の養女が津軽に嫁いだから3女は側室に格下げされたけど、3女の息子が三代目になった。家康の養女が生んだ息子も分家して旗本になった。だから、関ヶ原で敵対していた中心人物の孫が異母兄弟というカオスな状況。しかも、三成の子孫が三代将軍の側室になって生まれた娘が尾張に嫁いだ。結局尾張が将軍になれず紀州が将軍になれたのはそれが原因かな?

    • @user-cf5et7kq6s
      @user-cf5et7kq6s Před 2 lety +1

      家康は三成を高評価してたみたいです。
      家康は三成を、うまく誘導して西軍を蜂起させたようです。豊臣家を分裂させて力を削ぐために。
      愛知県稲沢市・尾張北西部に石田三成家代々の碑があります。三成の兄が尾張藩にでも仕えて居たのでしょうか。

  • @thedeathtiny4928
    @thedeathtiny4928 Před 2 lety +4

    三河武士の行政能力は日本各地に恩恵をもたらしてますね。
    勉強になります

  • @user-oi4so4zo1g
    @user-oi4so4zo1g Před 2 lety +2

    勝って兜の緒を締めよは北条氏綱じゃなかったのか

  • @user-jk9mg6ex7s
    @user-jk9mg6ex7s Před 3 lety +4

    最終的には守ったけど、三分の一にされて家を守ると言う表現はなんかピンとこない。

    • @user-gg3cx3cz7o
      @user-gg3cx3cz7o Před 3 lety

      その恨みを忘れず、代々それを伝え続けたから、維新では長州が最終勝利者になったのだけれど。
      三成の子孫は維新に関われてないのだから、家を残すことは重要だよ。

  • @user-tt3vm1lx5o
    @user-tt3vm1lx5o Před rokem +2

    え?。人それぞれ裏切りの解釈は違いますが、参戦時は石田方として参戦してるので立派な裏切りでしょう。

  • @yuzokirigaya5305
    @yuzokirigaya5305 Před 2 lety +1

    小早川は家康に恩もあるし仕方ないよな。

  • @user-mn1no1gj5n
    @user-mn1no1gj5n Před rokem +1

    確実に家康贔❗
    色々な書物研究して欲しい。

  • @user-qb6fz6vv6y
    @user-qb6fz6vv6y Před 3 lety +4

    内通してたら裏切りではないのですか?
    裏切りの定義の仕方がおかしいのでは?

    • @user-cp8nx9gn8e
      @user-cp8nx9gn8e Před 2 lety +1

      そこが難しいところで、三成が秀秋の意に反して、秀吉の血縁者だからと勝手に西軍に組み込んでいたとしたら、裏切りにはならないんじゃないのかなと。

  • @jiachan15113
    @jiachan15113 Před 3 lety +1

    確かに柳川で殿様と言えば立花の殿様ですね。立花氏の治世が長いことや宗茂公や道雪公が祭神として祀られる三柱神社があることなどが、身近な理由でしょうか。
    世代によっては末裔の方々と同級で名前で呼び合う仲である人も それなりにいる(私の父母が そうですが)ことも、より一層 身近に感じさせるのでしょう。

  • @shiroshi06
    @shiroshi06 Před 2 lety +4

    大変ためになる推理で興味がわきました。 
    三成のお墓と言われているものが新潟県にあります。 墓石の表面には本姓石田、志田氏墓と記されています。右側面には桑名家中志田昌敏、志田昌大、左側面には志田昌方、志田昌文、裏面には享保18年創建、天保9年再建と記されています。
    お寺の境内に本姓石田とした志田氏の墓一基あり、それが青史にその名を唄われたる「石田治部大輔三成の墓」との口伝えあり、京は四条河原の朝露消えし筈の三成が、如何にして雪ぶかき越路に彷徨い来れるか、伝え聞く三成は表面上斬首の刑に処せられたるも、当時家康の老臣なれば密かに四天王たる榊原家に隠居せしめて余生を送らしめ替え玉を使える。
    大正9年ころ、江州は桑名の藩士志田なる人が寺を訪ね、自宅の仏壇から発見したという先祖墓地の写本を携えてきて、同寺の境内にて実在を知り狂喜厚く供養して去れりと、その後絶えず志納を送り祖先の冥福を祈った。当地の市史にも「石田三成の墓と称するものがある」と記されていて、さらに高田藩と桑名藩の関係を見ると宝永七年(1710年)、桑名藩第三代藩主・松平越中守定重が高田藩第七代藩主に命ぜられ、以来五代31年間続いたことから、三成一族が関が原没後桑名藩名藩に身を寄せ性を志田に変え、その末裔が桑名藩士として高田へ随伴したとも考えられ、この墓碑建立は、松平定重が高田藩主就任から23年後のことを思えば史的に適う物語であるかもしれない。 (岡田氏記述引用)
    このようなロマンが当地にあることが、とてもうれしい・・・

  • @jackm6146
    @jackm6146 Před 2 lety +1

    西軍の敗戦原因とは何なんでしょうか? 広家や秀秋の性格・動きを三成が以前から察知出来なかったということでしょうか? 三成が生真面目過ぎたのかな? 多くの自軍を長年持ち百選錬磨の家康と少し前まで官僚に過ぎなかった(家康側についた元秀吉配下の武将はすべて現場組)三成との器の差ですか?

  • @user-oj8jc7uc9x
    @user-oj8jc7uc9x Před 2 lety +1

    アルコール依存症です。
     一時は豊臣家の跡継ぎと持て囃され、十代から酒に溺れて体を壊していたらしい。
     裏切り者の濡れ衣を着せられさらに酒浸りになったのかもしれません🍶。

  • @kobayashitommy6521
    @kobayashitommy6521 Před 3 lety +4

    勝って兜は島津の豊久か家久かなんかの初陣じゃなかったっけ?

  • @user-hb5cb5hg2n
    @user-hb5cb5hg2n Před 8 měsíci +1

    当然先祖代々からの日比野家一族は僕もその本を持ってます見せましょうか?!😅

  • @user-kn1fx6bg6i
    @user-kn1fx6bg6i Před 3 lety +8

    小早川秀秋は酒の飲み過ぎでしょう。十代で黄疸症状出てる記述あるし

    • @user-sy4lq3jj3g
      @user-sy4lq3jj3g Před 2 lety +1

      まあ、時代的に10代で酒を飲んでた人は他にもいたでしょうが。体、壊すほど飲んだ人ってあんまいなかったようで。

    • @user-kn1fx6bg6i
      @user-kn1fx6bg6i Před 2 lety +1

      @@user-sy4lq3jj3g
      逆ね、かなりの人が酒におぼれて体を壊して亡くなってる。特に室町時代から酒造量も増えていく。
      その代表者が、上杉謙信だったりするし
      戦国武将の多くは酒で体壊す傾向にあり
      だからこそ、織田信長なんかも「酒はたしなむ程度」とと慎み
      藤堂高虎・本田忠勝なども「酒は害だから酔うほどには飲むな」と説いている。

    • @user-sy4lq3jj3g
      @user-sy4lq3jj3g Před 2 lety

      @@user-kn1fx6bg6i いや、秀秋みたいに若く死んだのは、という意味で。
      大抵はもっと歳をとってから死ぬのが多かったですが。

    • @user-kn1fx6bg6i
      @user-kn1fx6bg6i Před 2 lety

      @@user-sy4lq3jj3g それが結構いるんだなこの時代はw
      まぁ江戸時代もだが

    • @user-ey8uu5gv8p
      @user-ey8uu5gv8p Před 2 lety +1

      裏切り者と言われたのを気にして酒に逃げたんでしょうね

  • @jannedaaiki1
    @jannedaaiki1 Před 2 lety +1

    古文書から学べるのは他のチャンネルにはない良い点ですね!
    「勝って兜の緒を締めよ」を北条氏綱公のお言葉と思っていました。家康公は引用したとかではないでしょうか。

  • @tsutomuhayakawa9001
    @tsutomuhayakawa9001 Před 3 lety +4

    難しい事は解りませんが、死の間際まで生きて犬死を避け、責任を果たす。
    それがリーダーですかね。今も昔も。

  • @user-sx4cn8rl2w
    @user-sx4cn8rl2w Před 3 lety +1

    秀秋は隆景の教えも受けてるだろうし朝鮮も行ってるし歴戦の猛将と共に戦って結構もまれてると思うんだよなぁ
    酒の話もうつけを装う演技かもしれないし
    何より関ヶ原の動きは気弱で優柔不断な武将には見えない
    趨勢を見極めて養子先の小早川家第一に動いてるんじゃないかな

  • @user-js3kd7fe4h
    @user-js3kd7fe4h Před 3 lety +4

    関ヶ原の戦いでは、淀殿はどっちを応援していたんだろ?
    昔の小説では淀殿と三成が懇意の間柄で、一方高台院は淀殿を嫌って、甥の秀秋には徳川方に付くように示唆してたとかってのが多かったけど。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 3 lety +2

      三成じゃない?
      淀は秀吉亡き後の家康の増長を嫌ってたから

    • @user-js3kd7fe4h
      @user-js3kd7fe4h Před 3 lety +2

      @@user-co4uy9zu1s 2代将軍の正室はお江で淀殿の妹だし、秀頼の正室はお江の長女だから、家康に付いてても可笑しくないんだよね。

    • @user-ep5qg8og3x
      @user-ep5qg8og3x Před 3 lety +4

      教科書とかだと三成が豊臣家の代理として家康と戦ったイメージがありますけど、あの時点では家康も三成も豊臣家の家臣であって、関が原など一連の武力衝突も、あくまでも豊臣家内の主導権争いに過ぎないから、あくまでも中立だったんじゃないですかね?
      強いて言うなら、家康主導の五大老・五奉行による統治体制の維持がベスト、それが崩れても、勝った方が主導して秀頼を後見してくれる程度の認識だったかと。
      少なくとも、秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣に関しては最後まで頑として認めたなかった点から、三成が豊臣を代表して家康を討ってくれるみたいな考えは皆無だったと思います。
      ※豊臣家と家康が本格的に対立するのは、家康が秀忠に将軍職を譲った時点から

    • @user-js3kd7fe4h
      @user-js3kd7fe4h Před 3 lety +2

      @@user-ep5qg8og3x  会津征伐の時点では、家康は豊臣の命を受け、豊臣の家臣を引き連れ、豊臣の敵である上杉を討ちに行ったと表向きはなっている。
      それに対して、三成は敵である上杉と結託してガラ空きとなった大坂を占拠し、挙兵中の妻子を人質に取りガラシャを自害に追い込んだ反逆者的立場。
      主犯が誰かは判らないけど、家康及び豊臣家臣が居なくなった隙を突いたクーデターの可能性も捨てきれない。
      この時点では、淀殿からしたら家康は有力な協力者であり、妹の義父であり、息子の嫁のおじいちゃんでしかない。淀殿も家康が豊臣家を裏切ったと確信が持ててたわけではないと思う。(追記:千姫が秀頼と結婚するのは1603年だった。この時点では許嫁。)

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety +2

      @@user-js3kd7fe4h つまりは酔狂酔狂さんの意見でいいってことです?

  • @TheSeamew
    @TheSeamew Před 3 lety +3

    小早川秀秋は秀吉の甥で一時は養子にまでなっていますものね。秀頼が生まれたので他家に追いやられたんだもの、家康側に付きたくなりますよ。途中で裏切るなんておかしな話だなと思っていました。叔母さんの高台院も三成より家康の方を信頼していたとか。家か血縁かで言えばやっぱり血縁ですよね。
     今回も腑に落ちるお話が聞けました。ありがとうございます。
    また、来週を楽しみにしております。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 3 lety +5

      でも秀秋は秀頼に万一の事有ったら
      豊臣を相続できる権利持ってたのよ

    • @TheSeamew
      @TheSeamew Před 3 lety

      @@user-co4uy9zu1s さんへ
       あらら、知りませんでしたぁ。
      「秀吉は晩年、秀秋を、筑前・筑後33万石から越前12万石へと転封しました。」とのことで、もう、アウトなのかと思っていました。秀次一族のこともありますし、秀秋は豊臣政権下では安心して過ごせなかったのかと愚考しました。

  • @user-xq4lv7de7d
    @user-xq4lv7de7d Před 2 lety +4

    罪悪人 金吾‼️🥵
    これが西軍の敗ですよね。

  • @erikasono565
    @erikasono565 Před 3 lety +1

    私の大学時代のクラスメートの嫁ぎ先である観世流能楽師の芸名が小早川。
    これは小早川秀秋の子孫と関係があるのかなぁ? と思いながら、まだ訊く機会がありません。
    彼女の旦那様自身は、小早川は能楽師としての芸名で、本名は別にあるので小早川秀秋の直系の子孫ではないとは思いますが、能楽師の家系ではあるようだから、どこかで繋がりがあるのかもしれませんね。
    いずれにしろ、いわゆる裏切り者ではないにせよ、あらかじめ東軍と内通しておきながら西軍のふりをして参陣していた小早川秀秋のやり方はあまり良いとは思えないので、もしその子孫が、武家の式楽である能楽の世界できちんと一派を成していたのだとしたら、喜ばしいことだと思います。

  • @krkm9004
    @krkm9004 Před rokem

    1:00 今は弁当の時間だ。食事の時間だ。朝飯の時間だからゆっくりと朝飯を食べてからだ

  • @user-pb4zm4ir6d
    @user-pb4zm4ir6d Před 2 lety

    三法師の織田秀信がいつも話題にならないのが淋しい。

  • @user-eh6ze3qk4u
    @user-eh6ze3qk4u Před 3 lety +2

    関ケ原での真の裏切り者は吉川広家だよ
    小早川秀秋の伏見城攻めは、家族が西軍の人質になっていたから仕方なくって話もあります

    • @shain55
      @shain55 Před 3 lety +3

      吉川広家は黒田長政と内通して、毛利の領土安堵を願ってるし、はなから東軍側です。
      真の裏切り者ってのは違う気がするね。

    • @user-eh6ze3qk4u
      @user-eh6ze3qk4u Před 3 lety

      徳川本陣の後方に毛利軍がいました。徳川本陣は常に背後を脅かされながら戦わなければならない状況、
      しかし、吉川が毛利軍の動きを抑えていた為に家康は本陣を自由に動かせることができたので、家康は本陣を前進させた。その結果、小早川秀秋は東軍有利と見て、大谷吉継と戦うことを決意した
      吉川広家が毛利軍を抑えなければ小早川秀秋は西軍有利と見てたと思う

  • @liveandletdie5026
    @liveandletdie5026 Před 3 lety +3

    早朝に大谷吉継を小早川隊が壊滅させたという新説の根拠元は何でしょうか?

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety

      1600年度日本年報補遺ですよ

    • @liveandletdie5026
      @liveandletdie5026 Před 3 lety

      @@user-dg5kx3gd5p
      ありがとうございます。調べてみます

  • @user-fv4gz7dv7u
    @user-fv4gz7dv7u Před 3 lety +18

    小早川は間違いなく裏切りだと思うよ まあ、裏切りは 沢山合ったとも思う

    • @phoenixgold3593
      @phoenixgold3593 Před 3 lety +2

      いや裏切りだらけで、だからこそ信頼が美談となるのかな。金打(きんちょう)はご存じだと思いますが、現代でも同じこと。浮気や不倫を研究するとよく感じます。潔い連中は少なそうですよ。

  • @phoenixgold3593
    @phoenixgold3593 Před 3 lety +1

    私が気になるのはたった半日で終わった点、長篠の合戦は8時間前後に比べると?です。要は家康が内輪もめを起こさせて、家康固めを進めたというか、お家騒動の拡大版として結果本家を乗っ取った感ありです。相手を叩き潰す気はないな。天下分け目の合戦とは、後代の作り事の気がします。にしても、先生も絶好調ですね❣ホスト様との息もびったり。さらなるご活躍を切望します。

  • @user-uz2wn6zi8n
    @user-uz2wn6zi8n Před 3 lety

    勝って兜の緒を締めよって
    もう少し古い言葉じゃないですか?
    この時にはよく知られた言葉だったのでは?

  • @user-jyrkoeh
    @user-jyrkoeh Před 3 lety +1

    新説での西軍の混雑した陣形は、山中のすぐ西にある城、玉城に三成達は籠城する前に襲われた感じがする。

  • @user-js2kj8yo7c
    @user-js2kj8yo7c Před 2 lety +2

    小早川家は断絶してるんですよね。
    毛利家によって再興された。
    実質的な血縁者ではないはずだ。

    • @user-gr6df3vc4o
      @user-gr6df3vc4o Před 2 lety

      確か家名を継いだ方は直系ではないらしいです。自分なら恥を晒すようなもので嫌です。

    • @user-cp8nx9gn8e
      @user-cp8nx9gn8e Před 2 lety +1

      当たり前の話だけど、そもそも秀秋は隆景の血を引いてないしね。その隆景もそもそもが毛利家の出。もともとの小早川家の血は引いてないし。
      松代真田家も8代目からは松平からの養子だし、家名を残すことに血は関係ないということなんだよね。

  • @ufj24
    @ufj24 Před 9 měsíci

    関ヶ原合戦絵巻は従来の布陣で江戸時代に書かれてるが··
    華々しくしたかったって事?
    すぐに壊滅なら壊滅した戦いで伝承してもいいと思うが
    徳川が布陣してないと不味いからってことなんかな?

  • @user-vr4cn2kp4w
    @user-vr4cn2kp4w Před 2 lety +3

    西軍の武将として西軍側に陣をはっていたからには西軍として東軍と戦うのが筋だと思いますが
    裏切り出ないなら東軍に陣を張るべきです、事前に内通することがすでに裏切り行為じゃないですか?

  • @youn7951
    @youn7951 Před 9 měsíci

    小早川秀秋は裏切り者ではない、ということは石田三成や大谷からも徳川側と認識されていたということでしょうか?
    そうでないなら、やはり西軍から見れば裏切ったとなると思います。
    それとも、どちら側と告げていなかった?

  • @user-ds2wd5jw9u
    @user-ds2wd5jw9u Před 3 lety +1

    歴史系の動画に1人は必ずいる、自称偉人の子孫

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety +1

      某スポーツ選手も織田信長の子孫を自称しているけど、疑わしい。

  • @larischstickerei5785
    @larischstickerei5785 Před 8 měsíci

    浅野幸長は、あさのゆきなが→よしなが、朽木は、くちき→くつき、ですね。

  • @desiguma
    @desiguma Před 3 lety +3

    調略に乗ったとか最初から裏切ってたとか色々あるかもしれないけど秀秋って他と比べてもめっちゃ豊臣側の大名だからやっぱ裏切り者だと思う。そういう姿勢を明確にしてなかった時点で尚更
    あと確か死因は若い時から接待受けすぎてて酒の飲みすぎとかだったんではって言われてましたね

  • @masao750
    @masao750 Před 2 lety

    西軍主力は岡山の宇喜多秀家
    秀吉の大返しも岡山から
    神武天皇の東征も吉備で3年間軍備を整えて畿内ヘ
    日本史のキーポイントは岡山

  • @rainbow-iz9ws
    @rainbow-iz9ws Před 3 lety +2

    まあいろんな説が出ますわな・・・・。まあ結局遭遇戦であたふたとはじまって東軍が突撃かますとものすごい鉄砲火力と陣城攻略にてこずって、下手すれば敗走しかねなかったという状況のみが正しいのでしょうね。毛利側は資料の隠蔽に走ったから西軍側の資料が出てこないですけども・・。それが幕末のすごいエネルギーの原動力になったのかもしれないね

  • @pontom6675
    @pontom6675 Před 3 lety +2

    関ヶ原は東軍の小早川秀秋の大殊勲ですね。

  • @user-sl4yy6pi3h
    @user-sl4yy6pi3h Před 3 lety +5

    三成さんのプロデュースの才能はスゴい‼️としか言えない👍
    たかが秘書室長が副社長にケンカ売って👊土俵に立っただけでもスゴい👏
    それで⬆️ほんとにあとひと押しあれば勝てた戦🔪に持ち込んだ👏
    まさに⬆️漢の中の漢🔥

    • @user-cp8nx9gn8e
      @user-cp8nx9gn8e Před 2 lety +1

      プロデュース能力はすごいかもしれないが、いかんせ人望がなさすぎた…

  • @user-jz8vn8qd8t
    @user-jz8vn8qd8t Před 8 měsíci +1

    小早川秀秋が裏切り者でない、のならば
    初めから東軍に加わっているべきでしょう。
    西軍のふりをしていながら、家康と内通していた
    というのは、裏切り者そのものだと思いますが、、。

  • @LightningThunder64
    @LightningThunder64 Před 2 lety

    浅野幸長をあさのゆきながとずっと言っていますが、あさのよしながではないですか?

  • @user-zl4eq2be1k
    @user-zl4eq2be1k Před rokem

    関ヶ原の戦い。
    岐阜城はどの程度、堅固だったのですか?
    岐阜城を囲む曲輪の状況は?
    (他の城はどうですか?)
    太閤記では裏山からなら。
    そのように書かれたモノもあるようですし。
    今ならレーザーを使えば?
    おねがいします。
    それと秀頼が天下人になっては都合がーーーという者は東軍諸将、及び秀吉恩顧の者の中に、どのくらいいたのですか。
    それと
    関白秀次の家臣だった者や、親交があった者ーーーを教えて下さい。

  • @user-yv4bo1gb9l
    @user-yv4bo1gb9l Před 3 lety +3

    明智とか小早川は後世まで言われるよなぁ

  • @user-uv7iv7qj3t
    @user-uv7iv7qj3t Před 3 lety +4

    山口県人の私としては、毛利、吉川、小早川のお家を守った英断を誇りに思います。裏切りが新説で否定されたら嬉しいですね。
    今週は生配信。楽しみにしております‼️

    • @user-cp8nx9gn8e
      @user-cp8nx9gn8e Před 2 lety

      その毛利元就は権謀術数、謀略の連続で領土を拡大したんですけどね。両川も謀略で乗っ取りましたし。

    • @user-ey8uu5gv8p
      @user-ey8uu5gv8p Před 2 lety +1

      @@user-cp8nx9gn8e
      だが徳川の謀略に敗れて改易寸前に。

    • @user-nn4se8nn3g
      @user-nn4se8nn3g Před 2 lety +2

      もし、関ヶ原で勝っていたら広島県人の誇りになっていたかもですね😄

  • @user-vu7yx2rm2w
    @user-vu7yx2rm2w Před rokem +2

    徳川からすれば、赤座・小川・朽木は裏切りでも小早川は裏切りではない としても、石田三成などからすれば小早川は裏切りでしょう。
     特に秀吉の甥であるのに反豊臣の側につくというのは裏切り と感じられたのではないか。自分はあんたら豊臣一族の為に戦っているのに、豊臣の一員の小早川秀秋が反豊臣の側につくとは、裏切り以外の何でもない となるのではないか。

  • @onestep_layered
    @onestep_layered Před 2 lety

    小早川が早逝したのは気を病んでじゃなく若くして周りに酒ばっかり飲まされてたから体壊してだよ。
    陰口言われて病んで亡くなったわけじゃない

  • @user-dg5kx3gd5p
    @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety +2

    輝元がお父さん……まぁ元養子だからお父さんで合ってるのか

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety +3

      そもそも秀秋を養子に押し付けられたから、小早川隆景が自分の養子にして、毛利に他家から養子を押し付けられない様に毛利家臣になっていた弟の息子秀元を輝元の養子にした後に実子が生まれたから分家させた。結局は後に秀元の子孫が輝元の血筋を差し置いて毛利本家を継いだ。

    • @user-us9fz7ri5h
      @user-us9fz7ri5h Před 3 lety

      @@yh6146 秀元は輝元の弟の息子ではなく従兄弟(秀元は元就の四男の次男)輝元には弟はいたが成人前に亡くなったよう

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety

      @@user-us9fz7ri5h 小早川隆景の弟の息子という意味です

  • @user-jk9mg6ex7s
    @user-jk9mg6ex7s Před 3 lety +3

    おのれ金吾!!!

    • @user-ju5wc5kn6t
      @user-ju5wc5kn6t Před 3 lety +2

      金吾は西軍1の豊臣近親者。
      調略に応じること自体が
      「裏切り者」です!

  • @user-tw6lb5iw1h
    @user-tw6lb5iw1h Před 3 lety +4

    豊臣全体の流れから見たら金吾は裏切りもの。
    結果徳川の天下をもたらしたわけだからね。

    • @user-ju5wc5kn6t
      @user-ju5wc5kn6t Před 3 lety +2

      その通りです!

    • @user-cp8nx9gn8e
      @user-cp8nx9gn8e Před 2 lety +2

      ただ金吾も色々なところをたらい回しにされたり、領土を没収されかかったりと結構ひどい目にあってるからなんとも。

  • @zzz27record
    @zzz27record Před 3 lety +6

    小早川家は、無嗣断絶だったはず・・・
    その中学生の家系は庶子から家系図でも書いて語り継いできたんでしょうかね?

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety +2

      でも隆景は秀秋を養子にする前に異母弟を養子にしていて小早川秀包を名乗らせていた。秀包の母親は小早川の分家の出身だから隆景と違い小早川の血筋。秀秋を養子にしたから廃嫡していたけど13万石の大名になっていた。結局関ヶ原で西軍だったから改易になって毛利の家臣になり毛利に復姓した。そして明治に毛利本家の三男が小早川を再興した。

    • @user-lm6lu8ob1t
      @user-lm6lu8ob1t Před 3 lety

      @@yh6146 様
      仰有られた通りです。
      秀秋は、幼少よりアル中の気有り、子無しにより家名断絶。
      他に小早川を名乗る者は、広島県竹原や沼田の小早川家傍流で、秀秋とは関係無いです❗️
      小早川家の家士は、隆景隠居に際し三原に引き揚げ、秀秋の下には豊臣秀吉からの付け家老や新参で大半が編成された。
      中学生の身内に嘘つきがいるって事でしょう‼️

  • @2h914
    @2h914 Před 2 lety

    そうですよね。
    そうですよね。
    小早川を裏切りと表する識者の論や文献、TV番組を見聞きする度に違和感あって、まして、西軍は小早川の裏切りで負けたとかいう論調を振りかざす人とかにそれは余りにも西軍、あるいは秀吉系列に肩入れすぎた見方じゃ無いか?と思っていたのですがすっきりしました。
    そもそも西軍も戦前に東側に声をかけることはやっていることで、単純に人材確保合戦でしょう。
    こういった番外戦術の話以外に、決戦開始前数時間の両者の動きや気構えの違いを聞いても、戦の火蓋が切られる前に勝負はついていただけという思いが深くなりました。
    どうもありがとうございます。

  • @user-zl4eq2be1k
    @user-zl4eq2be1k Před 7 měsíci

    関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。
    関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。
    特に
    大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?
    それらをまとめてーーーもう一戦。
    は可能ですか?
    たまたま関ヶ原の戦いのあと、
    西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。
    という考え方はーーー。
    どうですか?
    それと石田三成が首謀者のように扱われますが。
    実際はどうなのですか?
    豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。
    という考え方はーーーどうですか?
    毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?
    西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか? 
    輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。
    その兵をまとめて。
    ということですか。
    大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。
    輝元は大坂から動けませんか?
    となると決戦はーーー
    何処になりますか?
    大垣の東か。
    まあいいか。
    その前に関ヶ原の戦いが。
    大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?
    当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。
    まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。
    それ以西ですか?
    たまたま家康が関ヶ原に。
    たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。
    という考え方はーーー。
    関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?
    しかし。
    その後、戦いを続けようにも。
    毛利輝元が逃げては。
    南宮山の毛利軍。
    関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?
    大坂へ無事、帰れたのですか?
    何らかの事情て。
    兵力不足か。
    戦意喪失か。
    どちらですか?
    関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。
    それに比べて家康のもとには?
    圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。
    そのあたりを書いたモノはーーー。
    あまり。
    まあいいか。

  • @yossyrider4486
    @yossyrider4486 Před rokem

    諦めたら試合終了

  • @user-ew1bc6iw3t
    @user-ew1bc6iw3t Před 3 lety

    敗者の悲哀今は選挙

  • @yamabic1103
    @yamabic1103 Před 3 lety +4

    秀元は輝元の息子でわない

  • @apache5326
    @apache5326 Před rokem +3

    内通 = 裏切り でしょう。

  • @user-bb2ux4hd4u
    @user-bb2ux4hd4u Před 2 lety

    関ケ原の戦いは「石田対徳川」ではなく「宇喜多対徳川」の戦いだったと思いますよ。毛利、吉川、小早川にとっては、宇喜多は「目の上のタンコブ」でしたので、「宇喜多を潰すのに良い機会」だったのだと思います。

  • @fios1977
    @fios1977 Před 3 lety +4

    家康に命を助けられたといっても過言ではない秀秋は最初から家康側やろ。

    • @AMX014DOVENWOLF
      @AMX014DOVENWOLF Před 3 lety

      小早川秀秋は最初から徳川方だと思いますが途中石田方より調略を受けて迷ったのでは無いでしょうか?

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 3 lety +4

      @@AMX014DOVENWOLF
      迷わんと思うよ
      そもそも秀秋が改易されそうになったのは三成の讒言によるもの
      そんな事しといていざ戦いとなったら
      あの時の事は水に流して関白にしてあげるから味方についてくれ
      ってあまりにも虫が良すぎる
      秀秋じゃなくても「はぁ?今更何言ってんの?」ってなる

    • @yh6146
      @yh6146 Před 3 lety +3

      @@user-co4uy9zu1s そもそも吉川も三成から領地を取り上げられそうになり、家康のおかげで所領安堵された。

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety +1

      @@user-co4uy9zu1s 朝鮮での秀秋は蔚山合戦の前に帰国してるから事実ではない。
      例え讒言があったとしても、迷う要素はあるでしょ
      これが石田三成の為の戦なら今更何言ってんだ!ってなるけど、
      石田三成は嫌いだが西軍総大将は輝元副将は秀家だし、後の豊臣家ためだ!少しの間だけ我慢しようと考えても不思議じゃないし。なにより兄弟全員西軍についてるし。それに個人的には小早川家が改易になったさい家臣達の多くが三成が引き取っている点も感謝してもいいと思ってる。別に三成が加増されてるわけでも無いし

  • @user-dy2yu7fb8y
    @user-dy2yu7fb8y Před 3 měsíci

    内通してるのに
    西軍に参加してるから
    裏切り者でしょう

  • @noriyo-hu6el
    @noriyo-hu6el Před 10 měsíci

  • @naakasata6063
    @naakasata6063 Před 9 měsíci

    😮😮

  • @user-qj8fo7nq9s
    @user-qj8fo7nq9s Před 3 lety +3

    大谷「伏見城を攻めましょう」
    小早川「ワイは東軍や」
    大谷「まあまあご冗談をwさっさと攻め落としましょう」
    石田「関ヶ原についたぞ」
    小早川「ワイは東軍や」
    石田「そういうつまらんネタはいいんで、小早川殿にはこの松尾山を任せましょう。秀頼様の身内だから信用できる。」
    石田「クソッ、小早川が動けば勝てるのに、なぜ動かん!」
    小早川「ワイは東軍や」
    大谷「うわー、小早川が攻めてくるぞ!この裏切り者がぁ!」
    多分こんな感じやぞ