合戦歴史
合戦歴史
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甲斐統一戦争:武田信虎、生涯最大の危機
武田信虎は10歳で家督を継ぎ、内乱や他国の介入に苦しみながらも甲斐統一を目指した。叔父や小山田家を討伐し国内基盤を固めたが、18歳の時に今川氏親の支援を受けた大井信達の反乱に遭い、苦戦。
恵林寺に籠城し、機を見計らって反撃し、和睦に持ち込んだ。
本拠を甲府に移し、躑躅ヶ崎館を築城した信虎は、国衆に甲府集住を命じたが、これが新たな火種となり栗原、大井、今井の三国衆が同時反乱。
信虎は迅速に反乱を鎮圧した。
翌年、今川軍が再び侵攻し信虎は窮地に立たされるが、飯田河原の戦い・上条河原の戦いで奮戦し、今川軍を撤退させた。
その後も今川・北条勢力との戦いは続いたが、信虎は山内・扇谷上杉と同盟を結び対抗。
信濃への進出を図るも、御射山神戸の戦いで敗北し、撤退する。
その後、またも国内で最大規模の反乱が勃発した。
しかし信虎は巧みな戦略と戦術で危機を乗り切り、甲斐統一を成し遂げた。
統一後は私戦を禁じ、武田家のみが軍事力を掌握。内乱と他国勢力の介入に苦しみながらも、約30年にわたる戦乱の末に甲斐統一を成し遂げた。信虎の甲斐統一は新たな時代の幕開けを象徴するものであった。
▼目次
00:02 武田信虎の甲斐統一戦
01:51 大井合戦
05:00 今川軍の甲斐侵攻
06:41 武田信虎、窮地に立つ
08:33 武田軍の反撃
10:35 武田・今川の和睦
12:39 甲府移転 躑躅ヶ崎館の建設
14:54 信虎の反乱鎮圧
18:13 今川軍の甲斐侵攻 信虎、生涯最大の危機
19:57 大島の戦い
22:30 飯田河原の戦い
23:35 上条河原の戦い
25:58 信虎の関東侵攻
28:29 津久井城攻略
29:53 信虎の御厨侵攻
31:40 武田・今川の和睦
33:21 諏訪侵攻戦
35:28 謀反の炎、再び
38:08 河原辺の戦い
40:34 甲斐統一
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浅井家滅亡
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山崎の戦い
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▼音声
VOICEVOX:玄野武宏
VOICEVOX:剣崎雌雄
VOICEVOX:四国めたん
▼参考文献
「勝山記」「今川家譜」「王代記」「高白斎記」「宇津山記」「甲陽軍鑑」
武田一族の中世 西川広平
東日本の動乱と戦国大名の発展 丸島和洋
武田信虎 平山優
穴山武田氏 平山優
甲斐武田一族 柴辻俊六
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Video

最上義光の最上平定戦 /天正最上の乱/ 庄内平定/ 白鳥家滅亡/ 寒河江家滅亡/ 天童家滅亡
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最上父子の骨肉の争い ▼目次 00:00 天正最上の乱 10:32 伊達輝宗再征 17:00 庄内を揺るがす謀略 21:48 白鳥家滅亡 25:12 寒河江家滅亡 27:08 天童合戦 32:53 細川家滅亡 33:51 鮭延秀綱の降伏 35:37 庄内平定 38:59 十五里ヶ原の戦い 最上義光は戦国時代の山形を中心に勢力を持つ大名だった。 最上義光は家督を継いだ後、地域内の諸勢力の力を削ぎ、領地の拡大を目指した。 これに対し白鳥長久や天童氏など有力領主が反発。父義守との対立もあり、天正最上の乱が勃発した。 内紛の末、義光は義守を隠棲させ、最上家の家督を確固たるものにした。 その後、領土拡大を目指し、白鳥長久、寒河江高基、天童頼澄らを次々と討伐。 さらに細川直元、鮭延秀綱を降して、最上郡を支配下に置き、大宝寺義興を破って庄内をも制圧する。 しかし庄内十五里ヶ原での戦いで上杉側に敗れ...
宇喜多直家・浦上宗景、梟雄たちの戦い/ 備中兵乱・天神山城の戦い
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鳥取城の戦い /鳥取の渇え殺し/ 播磨・但馬・因幡平定戦
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天正9年(1581年)7月、羽柴秀吉による毛利方の鳥取城攻略戦が始まる。秀吉は播磨・但馬を平定後、因幡への進出を目指し、鳥取城の包囲に入った。 しかし、鳥取城城督の吉川経家は徹底抗戦を決意。長期籠城に備え、補給路の確保に努めた。一方の秀吉は、兵糧攻めで城内の食料を切らせる作戦をとった。泊城や大崎城の攻略で補給路を遮断し、鳥取城は孤立無援の状態に陥った。 城内では食料が底を尽き、凄惨な光景が広がった。ついに吉川経家は秀吉に降伏を申し入れ、自らの切腹と引き換えに城兵の助命を求める。秀吉は中村春続ら一部を除いて受け入れ、鳥取城は100日余りの戦いの末に落城した。 これにより秀吉は因幡までをも手中に収めることになった。 ▼目次 00:01 羽柴秀吉 播磨を平定 04:03 但馬平定 06:30 第一次鳥取城攻囲戦 12:14 吉川経家、鳥取城に入城 16:05 第二次鳥取城攻囲戦 17:54...
中国平定戦 /上月城の戦い/ 有岡城の戦い/ 三木合戦/ 播磨の激闘
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▼目次 00:40  秀吉による播磨攻め開始 02:42  第一次上月城の戦い 06:03  別所長治の謀反 10:48  三木合戦、始まる 13:47  第二次上月城の戦い 21:29  神吉城の戦い 24:06  荒木村重の謀反 32:06  有岡城の戦い 35:17  淡河城の戦い 45:19  有岡城落城 47:55  三木城落城 羽柴秀吉は織田信長の命を受け、播磨国の毛利勢力を攻撃し始めた。 しかし突如、別所長治が毛利側につき織田家に反 を翻したことで、情勢は混迷を極める。 その結果、播磨国で三木城をめぐる壮絶な攻防戦が展開される。 秀吉は三木城を包囲し、付城を築いて兵糧攻めを行った。 一方、毛利も水軍で三木城への補給を試みるが、次第に行き詰まっていく。 その間に、荒木村重の離反や宇喜多直家の離反など、織田・毛利両陣営での内紛も発生した。 毛利の支援の不調などもあり、別所...
河越城の戦い(河越夜戦)/ 河東一乱/ 衝突を避け続け、最後に勝ち星を挙げた氏康の手腕!
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河越城の戦い(河越夜戦)は、北条氏康が家督を継いでから5年後の天文十五年(1546年)4月に起こった。 氏康が家督を継いだ当時、北条家は今川家、武田家、扇谷上杉家、山内上杉家、里見家などの敵対勢力に囲まれており、氏康はそれらの勢力との戦いに明け暮れていた。 家督を継いだばかりの氏康は、河越城を巡って扇谷・山内両上杉家と対立。 両上杉家は今川義元と手を組み、氏康を東西から挟撃しようと画策した。 天文十四年9月、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が中心となって北条領の河越城を攻めた。 さらに古河公方の足利晴氏も参戦し、三者連合軍が河越城を包囲した。 氏康は今川義元との戦いを断念し、ひたすら連合軍に対して和睦を呼び掛けるが、受け入れられることはなかった。 そして天文十五年(1546年)4月20日夜、遂に戦端が開かれる。 氏康は8000の兵で夜襲を敢行し、主将の一人である扇谷上杉朝定が戦死するなど連...
摺上原の戦い / 蘆名家滅亡 / 伊達政宗の進撃!
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摺上原の戦い・蘆名家滅亡・大崎合戦・郡山合戦 伊達政宗は奥羽地方の覇権をめざして蘆名家や最上家、相馬家などと激しく戦い続けていた。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉が奥州に対しても惣無事令を出し、戦争行為を禁じる。 政宗は秀吉の影響力が奥州に強く及んでいないうちに、奥州制圧を目指した。天正16年、政宗は大崎家の内紛に介入するが敗北。 蘆名義広や佐竹義重も伊達領への侵攻を開始し、政宗は苦境に立たされる。 しかし政宗は謀略を駆使して形勢を引き戻し、天正17年には会津侵攻を開始。 政宗は巧みな策略で蘆名軍を摺上原の戦いで撃破し、黒川城を落として会津平定を果たした。蘆名義広は逃亡し、蘆名家は滅亡したのだった。 さらに政宗は仙道筋全域を支配下におさめ、石川家や二階堂家などを屈服させ、一気に勢力を広げた。 だがこれは惣無事令違反であり、秀吉による討伐の危機に直面することとなった。 ▼おすすめ動...
川中島の戦い /戦国最強の対決――。武田信玄vs上杉謙信
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島津の九州制圧戦 /戸次川の戦い/岩屋城の戦い/堅田合戦/豊薩合戦/
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土佐統一戦争 / 八流の戦い(安芸家滅亡)/四万十川の戦い(土佐一条家滅亡)/長宗我部元親、土佐の覇権を握る。
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木津川口海戦(第一次・第二次)/ 雑賀攻め  |失敗続きの信長、大規模海戦を決断!!
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第二次国府台合戦(永禄七年・1564年)は、上杉謙信、太田資正、里見義堯などの勢力が連合し、北条氏康に対抗した中で起こった戦いだった。 永禄六年(1563年)12月、まず里見義堯の嫡男・里見義弘が国府台に布陣。 続いて太田資正も国府台に到着した。 その里見・太田連合軍に北条氏康が攻めかかり大激戦となる。 合戦の日については、江戸時代半ば以降に成立した「北条記」・「関八州古戦録」・「房総里見誌」などの軍記類では一月七日から八日の二日間にわたったとするものが多いが、「北条五代記」では一月八日の一日と書かれている。 「海上年代記」では、合戦日を一月七日とあり、この点については史料はまちまちではっきりしない。 ▼おすすめ動画 厳島の戦い 思いがけない奇襲。 czcams.com/video/u_e4ihxfhc8/video.html 桶狭間の戦い 幸運と勇敢さの勝利 czcams.com/...
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漆川梁海戦 朝鮮側の総司令官は戦死。朝鮮水軍は壊滅状態となる!
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Komentáře

  • @user-uc6qo1te9p
    @user-uc6qo1te9p Před 2 hodinami

    中央集権化しようとしたら息子(信玄)に邪魔された説

  • @kamitsurekaoru
    @kamitsurekaoru Před 7 hodinami

    合戦時、織田信秀に大量に金を貸していた多治見木下氏の李(西浦)頼長こと織田信長は何と今川義元の本陣に居て、今川義元と織田信長は会盟の宴席を伴にしており、其処を、斯波平氏の織田信秀の実弟の柴田勝家が天白から急に奇襲した

  • @JJ-ro3rx
    @JJ-ro3rx Před 16 hodinami

    鼻水流してて(笑)こっちの方がやっぱ面白い。武田家が今川の侵攻でピンチだったのは知ってたけど、その後も反乱や諏訪氏の侵攻でピンチがあったとは知らなかった。何回もピンチを撥ね退けた武田信虎凄いな。 ちなみに製作者さんは本当によく調べて分かりやすく作ってて感心しました。

  • @user-gq7ph4vw5b
    @user-gq7ph4vw5b Před 18 hodinami

    大河だと、北条に担がれてた宮将軍が、今風の関西弁喋ってたけど この動画のズラ方言も正しいのかな?

  • @kentaendou1190
    @kentaendou1190 Před 21 hodinou

    熊本の健軍神社の記録が最も古く徳川家康を家康と呼び捨てにしており、 その記録では鉄砲千挺ばかりと有ります。 私は鉄砲隊に居ました十文目筒を使用していましたが習熟すると毎分3~5発は射撃出来ます。また射手1名に装填手を 2名置いて装填させましたら毎分8~10発射撃できます。ただ約20発射撃すると火薬滓で銃口が狭くなり弾丸の装填に チカラが要りますので劣玉と言って弾丸の直径が約2ミリ小さい弾丸を装填していました。 大阪の泉南射場での実弾射撃では約100メートルで狙点(狙った所)から約5センチ下に命中しました。 それと当時の胴丸具足と言われる足軽の鎧は100メートルだと胴丸具足の前後を貫通しました。登録高評価を入れました、応援しています頑張って下さい。

  • @user-rx6zo2ep8j
    @user-rx6zo2ep8j Před dnem

    甲斐武田は、信満の代で、鎌倉公方の起こした内乱の中で、滅亡の憂き目に遭っていた事もあり、 甲斐一国も掌握出来ない有様で、国内に、守護代の跡部氏、また、遠縁の武田支流の庶家が群雄割拠し、 あわよくば、甲斐国主の座を狙いかねない状況でした。 先代信縄が、守護代の跡部氏を倒し、事実上の国主とはなれたものの、甲斐一国を掌握するには障害が多く、信虎は周囲敵だらけのスタートでしたが、 動画を見て、どれだけ敵が多かったか痛感いたしました。 嫡男の、太郎晴信が、今で言う、ガリ勉で書籍ばかり読み漁っていたという話もありますが、 晴信の知力が、武田宗家に反感を持つ、反信虎の国人にも受け入れられ、武力を駆使して甲斐を統一した信虎にとって変わられる事になりました。 信虎の追放劇は、反信虎陣営から、父を遠ざける手段だったのでは。 本気で父を倒したいのであれば、斎藤義龍のように、父、道三を殺害していたでしょう。 果たして晴信のもと、国人衆はまとまりをみせて行きます。 そう考えると、武田信玄は、猛将というよりも、甲斐武田きっての、偉大な政治家であったと言えます。 信虎の死に物狂いの奮闘も、自分が甲斐を去り、晴信に託した事で、初めて報われたとも言えましょう。 ちなみに信虎が、甲斐の外で儲けた子供達は、織田信長の甲州征伐で、家に殉じて死んでいきました。 晴信も、信虎も、武田を守るという点では、コンセンサスが取れていたのだと思います。

  • @user-xh6mk9dc1m
    @user-xh6mk9dc1m Před dnem

    山梨の人って、ズラとかダベって言うの?

  • @30-06
    @30-06 Před dnem

    偉大な先人達が全てをかけて日本の為に戦ってきた。 んで、どうよ、ペテン師国家群に北方領土や竹島を奪われていて国内で国民が拉致されて尖閣諸島も半分奪われたような現状。

  • @sumashio1997
    @sumashio1997 Před dnem

    さいちゅう→さなか しおやま→えんざん

  • @user-tu8vz7vl9x
    @user-tu8vz7vl9x Před dnem

    謀反を起こして降伏した家臣達を滅ぼす・もしくは処刑しないのって実は優しい? 討伐してもその後の統治の問題があるから、したくてもできなかっただけかもしれないけど

  • @user-fn7uf5ts9q
    @user-fn7uf5ts9q Před dnem

    なまりがいいね!

  • @user-vy9ob7qc7b
    @user-vy9ob7qc7b Před dnem

    ただこの敗戦で毛利方も名だたる戦死者もなく本願寺補給も続けられ石山合戦は1年以上続いてる 鉄甲船はある程度の効果があったけど結局完璧な海上封鎖には至らなかった

  • @user-hi6uw7gl6s
    @user-hi6uw7gl6s Před dnem

    女が欲しいずらw

  • @user-to8kk8ux5n
    @user-to8kk8ux5n Před 2 dny

    信玄を神格化する為に信虎は貶められている感があるな。

  • @recordam
    @recordam Před 2 dny

    甲斐統一後唯一起こった反逆で息子に国許を追い出され生前は甲斐帰還出来なかった信虎であったw

  • @minamin_imai
    @minamin_imai Před 2 dny

    これやまなし弁?

  • @user-zv5ug1rj7v
    @user-zv5ug1rj7v Před 2 dny

    白虎隊の皆さん「何じゃ長州の藩祖は、鼻水垂らして見苦しいヤツだな。我等が藩祖保科正之公とは大違いじゃ!」

  • @user-re7qr8vp7v
    @user-re7qr8vp7v Před 2 dny

    武士道は武人のあるべき姿や良い面だけを言う。 だから実質や本質や裏側ではない。

  • @user-sc3tc2ub4g
    @user-sc3tc2ub4g Před 2 dny

    大河ドラマ等では息子・信玄に追放された父親としか描かれていませんが、甲斐国の礎を築いた立派な武将であることが分かりました。信虎をもっと評価して欲しい。

  • @user-xy6nf4zi4t
    @user-xy6nf4zi4t Před 2 dny

    鎌倉幕府創業以来の甲斐守護の武田家の浮沈があるね。

  • @user-vy9ob7qc7b
    @user-vy9ob7qc7b Před 2 dny

    輝宗と政宗の軋轢も似たような感じだったな

  • @user-ck4dr6hw6m
    @user-ck4dr6hw6m Před 2 dny

    18:26 外道vs外道でほんま戦国だわ

  • @O-mega51
    @O-mega51 Před 3 dny

    信虎の言葉が信濃言葉や三河言葉に…甲斐弁、なのかな?

  • @user-jn3sc6zx1u
    @user-jn3sc6zx1u Před 3 dny

    見つけた瞬間さいせいしたわー

  • @dep5017
    @dep5017 Před 3 dny

    なお、

  • @chinoukenji
    @chinoukenji Před 3 dny

    次はいよいよ、長尾為景の越後統一を目指した激闘ですね。戦国初期の死闘は1日とて休むことのない激戦に次ぐ激戦。10歳にして元服しその当日からマジの殺し合い。

  • @antiJJ
    @antiJJ Před 3 dny

    晴信(信玄)に対して信虎が厳しく対応したのも、晴信が国衆に担ぎ上げるリスクが高いと判断したからだろうな。 国衆の権限を抑える方向(中央集権化)を進めるスタンスでいた信虎にとって、晴信の考え方は合わなかったのかもしれない。

  • @user-nb8lx2tq7w
    @user-nb8lx2tq7w Před 3 dny

    コメント見てて思うけど、武士に変な幻想持ってる奴っているんだな。 人殺して生きてきた奴らが近代以降の道徳基準に合うわけない。 アホは悲しいな。

  • @user-iu4rn7oj6n
    @user-iu4rn7oj6n Před 3 dny

    武田信虎は、武田晴信の影響で陰が薄いというか、悪者みたいになっているが、やってることは、家臣集住による権力強化(家臣の一元的支配)、足軽衆(常備兵)の創設とか後の織田信長がやってることを先取りでやってる。 しかも海(資源)は無いし、災害続きでろくに米もできない貧しい土地の挙げ句内乱続き、隣国は北条、今川という強国に挟まれている最悪な立地の中、甲斐を統一した事績を鑑みれば、晴信を超える名君であったと思われる。 晴信にさえ追放されていなければ信虎は長寿だったのでもしかしたら武田は大いに栄えただろう。 結局、晴信が家督を奪ったので国人領主に気を使う連合政権になり、後年の信玄というカリスマ性で国人たちをまとめあげるしかなくなった。 単なる連合政権の長でしかないという脆弱な統治基盤が勝頼の代で露呈し、武田はあっさりと滅びてしまった。

    • @user-nk6qy4ee8q
      @user-nk6qy4ee8q Před 2 dny

      その信虎の中央集権化に元々同格だった家臣国人が反逆して持ち上げたのが晴信なわけで… 信虎が反逆されないというifは存在しない 本来そこで弱体化しそうだが、晴信が国人どもをうまく操れるレベルの才覚があったのが凄かったのは確か もちろん信虎も晴信も何かを捨てて得ている勢力なので、凡人の勝頼には荷が重かった。勝頼は頑張ったが信虎のようなシステム改革も、晴信のような方面軍侵攻を実現させる戦略眼もなく、普通に城攻めする普通の大勢力になってしまう。

  • @user-kg9ug6us5n
    @user-kg9ug6us5n Před 3 dny

    よく調べられていて、素晴らしい動画でした!信玄公に最後追放されることで有名な信虎も若い頃は領国統治に苦労してたんですね… 色んな歴史チャンネル見ましたが、ここまで合戦を分かりやすく説明してくれるなんて勉強になるなぁ

    • @takazaki1824
      @takazaki1824 Před 3 dny

      なお追放後は甲斐武田家を外から支える活動を展開してた信虎 とても信玄と仲が悪かったとは思えない

  • @toyo156
    @toyo156 Před 3 dny

    ズラの使い方が全く解ってねぇだなぁ

  • @user-vb3gg8wf1f
    @user-vb3gg8wf1f Před 3 dny

    信虎さん、実入りの少ない信濃方面でなく、海がある駿河を目指したら…なんて夢想してしまいました

  • @user-yb3gj7gs6n
    @user-yb3gj7gs6n Před 3 dny

    天正最上の乱から思っていたんだが、サムネイルがカッコよすぎないか?

  • @TASUKU.M
    @TASUKU.M Před 3 dny

    方言いいじゃんね懐かしいわ 馴れんしには聞きづれえ思うけんど堪忍してくりょー

  • @Seaza_Sr1
    @Seaza_Sr1 Před 3 dny

    真剣な話なのに俺の地元の遠州弁と甲斐の方言が混じってて笑ってしまう、恋人が甲斐の出身だから特に微笑ましい

  • @morico1119
    @morico1119 Před 3 dny

    郡内地方では「ずら」も「じゃん」も使いません。笹子峠より向こうは完全に別の地域です。

  • @Takiyann
    @Takiyann Před 3 dny

    甲州弁に違和感があるじゃんね? なんか変じゃんって話聞いてたらじゃんが使われてないじゃんね だけんど話も詳しく纏めてあるし、信玄公と比較されやすい先代の信虎公の話ってなかなかねぇから、すげぇ勉強にもなる良い動画だぁね ウチの先祖は信虎公の逆鱗に触れて族滅したけんど、そんなかの一部が逃げ延びて帰農できたから生き延びたっちゅう話だから、やっぱ信虎公の話っちゅうと気になっちもうさ(笑) 他ん国の話もだたら出てくるから毎回楽しみんしてるよ! 動画編集大変だろうけんど頑張れしよ(°▽°)

  • @manekineko0912
    @manekineko0912 Před 3 dny

    やっぱり地図があると分かりやすいですよね 今後ともマイナーな戦いをいろいろ紹介してもらえるとありがたいです! ところで 10:30 浜松ってこの当時も浜松でしたっけ?

  • @kingofmarty
    @kingofmarty Před 3 dny

    地元になると、方言がめちゃくちゃで気になるなぁ

  • @user-cb8dx6is3l
    @user-cb8dx6is3l Před 3 dny

    塩山=えんざんですよ!

  • @user-nu9kh2oi8c
    @user-nu9kh2oi8c Před 4 dny

    未亡人ハンター

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 Před 4 dny

    後に 信玄も戦において 似たような失敗してるから やっぱり親子なんだなと感じる

  • @user-ch2zp7vr3e
    @user-ch2zp7vr3e Před 4 dny

    お国訛りが最高です! これを鍋島直茂でやってほしい!!

  • @YA-zn9fc
    @YA-zn9fc Před 4 dny

    信虎は信玄より長生きしたんだっけ?

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge Před 4 dny

    ロシアが鉄嶺まで退却していたら日本は危なかっただろうな。その間にある奉天はどうしても押さえるしかなくその上で鉄嶺のロシア軍と対峙するには補給線が長すぎるうえに、旅順の第三軍とはさらに離れてしまう。

  • @user-zv5ug1rj7v
    @user-zv5ug1rj7v Před 4 dny

    結局信虎自身隠居してからは今川の世話になったし、息子晴信もそのせいか今川に頭が上がらなかった。

    • @noritadanishio8813
      @noritadanishio8813 Před 4 dny

      そうなんですね。もとは今川は仇敵なんだから、桶狭間の後は晴信は南進政策を執るべきだったと思う。越後の戦争マニアとじゃれている場合ではなかった

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Před 4 dny

    信虎て、晴信の謀反で甲斐に帰れなくなるとこからばっかなので、ホント貴重な動画

    • @noritadanishio8813
      @noritadanishio8813 Před 4 dny

      しかも自身にとって仇敵である今川家に預け置かれるというのも屈辱ですよね

  • @user-ex8tg2ll5l
    @user-ex8tg2ll5l Před 4 dny

    甲斐を統一したのは信虎であり、その功績は大きい。 でも息子晴信(信玄)に国を追い出されたというのは家臣たちの画策らしいので、何かしら信虎の支配には家臣の不満があったのだと思う。 おそらく若い時から武力で敵対勢力を押さえていた経験から、武力が一番とばかりに家臣達にも無理な参戦をしいていたのかもしれない。 武力を基底とした支配を進めざるを得なかったのが信虎の限界だったのではないだろうか。

    • @tike2435
      @tike2435 Před dnem

      織田信秀は尾張統一出来なかったからな

  • @user-dz6wn5tm6z
    @user-dz6wn5tm6z Před 4 dny

    やっぱ、有名な戦国大名のおとん達はなんだかんだ皆凄いよね(なお息子の活躍で影が薄くなる模様)

    • @manekineko0912
      @manekineko0912 Před 3 dny

      父親が頑張ったから子供の世代で大きくなるっていうのは結構見るよね 世界的に見てもアレキサンダー大王の父親とかもかなり優秀だし 例外的なのはそれこそ秀吉とかなんだろうけど、秀吉の場合は信長の後を引き継いだ訳だからそういう意味では信長が親代わり?w

  • @user-lp7mu4ei6x
    @user-lp7mu4ei6x Před 4 dny

    14:00 四国めたんって、使ってたら急にテンション上がるんだよね。