大寧寺の変 諸説検証~通説から最新説まで 【豪族達と往く毛利元就の軌跡・補遺05】

Sdílet
Vložit
  • čas přidán 5. 07. 2024
  • #戦国時代 #大内義隆 #大寧寺の変
    初めましての人は初めまして、しかかくと申します。
    今回は、天文20年(1551)に起こった陶隆房(陶晴賢)による大内義隆弑逆事件・大寧寺の変の諸説について検証します。
    ※このコーナーは、現在進行中の「豪族達と往く毛利元就の軌跡」では詳しく語らない、元就に関する様々に事象について単発で解説するコーナーです。
    【目次】
    00:00 OP
    01:10 大寧寺の変とは?
    02:58 通説とその問題点
    09:13 男色のもつれ説
    14:26 文治・武断派対立説
    18:31 怨恨説
    22:36 吉見・益田問題説
    25:34 銀山問題説
    31:32 上洛阻止説
    35:28 公家勢力排除説
    42:05 朝廷遷都説
    47:07 幕府黒幕説
    52:03 まとめ~なぜ「通説」は生まれるのか?
    ・参考文献
    「山口県史 通史編中世」
    光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』
    藤井 崇 『大内義隆 類葉武徳の家を称し、大名の器に載る』
    藤井 崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』
    岸田 裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』
    鹿毛 敏夫『アジアのなかの戦国大名』
    黒嶋 敏編『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』
    長谷川博史『大内氏の興亡と西日本社会』
    高木 久史『撰銭とビタ一文の戦国史』
    大内氏歴史文化研究会『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』
    川岡 勉 「石見における守護支配の展開と益田氏」
    川岡 勉 「大内氏の石見支配と吉見氏」
    和田 秀作「吉田兼右「防州下向記」に見える大内氏関係記事」
    和田 秀作「大内氏の領国支配組織と人材登用」
    魚屋 翔平「陶晴賢の改名時期について」
    中司 健一「大内氏当主側近層の形成と展開」
    中原 健 「陶隆房と大寧寺の変について」
    トーマス・コンラン「大内義隆の遷都計画」
    萩原 大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」
    萩原 大輔「陶晴賢の乱と大内氏」
    乃至 政彦「ザビエルが非難したキリシタン大名・大内義隆の「男色」の真相」
    ・使用楽曲
    針の音楽(白鷺ゆっきー) 様
    / @harimusic896
    『やまとごはん』より
    ・鳥居と三輪山のある景色
    ・石舞台の石室に眠る神秘
    ・秘められし多武峰の幻影
    ・太子の里~たちばな香る飛鳥
    『音降る神霊廟』より
    ・素敵な墓場でおどりましょ
    ・不咲蕾未咲蕾
    ・消残る怨恨
    ・夜の腐踏会
    ・ひび割れた金魚鉢
    『音降る幻想郷』より
    ・夢の後
    騒音の無い音楽 様
    ・使用サムネイル
    『豪族達の神楽祭』(絵:友部キヌコ 様)
    / kinuk
    ・使用立ち絵
    豊聡耳神子・物部布都・蘇我屠自古
    (原作:東方project、 絵:真田源次郎ベル助 様)
    / berusuke_sanada
    ・地図:国土地理院
    ・他イラスト:イラストAC
    ・効果音:効果音ラボ
    NicoNico; www.nicovideo.jp/mylist/69621...
    Twitter; / squaredeerhorn​
    #ゆっくり解説 #東方project #歴史

Komentáře • 99

  • @gorilla_gollie
    @gorilla_gollie Před 3 měsíci +59

    「通説」が面白く分かりやすいものである一方、では新説が退屈なものであるかというと決してそんなことはなく、どれも非常に興味深いものであることがよく分かりました。今後の動画も楽しみにしています。

    • @SquareDeerHorn
      @SquareDeerHorn  Před 3 měsíci +6

      ありがとうございます!これからもどうかよろしくお願いいたします!

  • @user-jm2lv8vl2i
    @user-jm2lv8vl2i Před 3 měsíci +31

    投稿お疲れ様です。本当に、お腹いっぱいになりました。毛利隆元公
    も、内心では大寧寺の変には悲しんでいたことだと思います。ここから、尼子晴久の逆襲が始まるので、これからどうなるのか、元就がどう行動するのか、早く見たいです。本日は、大変お疲れ様でした。どうか、無理をなさらず、健康にお過ごしください。
    追伸:吉見正頼は、足利義昭からも奉公衆を認められているので、能登吉見や石見吉見も、全国の方々にも知ってもらいたいです。

  • @r41541lRKDT
    @r41541lRKDT Před 3 měsíci +10

    こうした新説から見ていくと、幕府秩序から外れ日明貿易や石見銀山で莫大な財力を持ち、朝廷とマブダチで従二位に上り詰めるって大内義隆はバケモンかよ

  • @tsuyu0kami
    @tsuyu0kami Před 3 měsíci +10

    数日前に信長の野望を始めて、大内氏スタートで大寧寺の変でショックを受けてコチラの動画に辿り着きました…!
    理系なので全然歴史知らないんですけど、ググった情報と新説とでかなり差があったりして大変興味深いです
    科学と同じで新たな発見もあるもんですね

  • @777hydyy6
    @777hydyy6 Před 3 měsíci +10

    コンラン先生のような完全なる第三者(日本に染まってない方)の意見は貴重ですね。

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p Před 3 měsíci +13

    やはり遷都説というか行幸説は好きだな。当時の経済と支配体制について考えたら大内家がどれほど特別な存在であるかがわかる。何故徳川幕府は石高制と米の呪縛に拘り同時に
    鎖国へ舵を切ったのか?経済発展を犠牲にしたから江戸の太平は実現したのでは?大局的な状況から唯一ありそうに思えるのは朝廷絡みの何かでは?と考えたい。銭本位制である貫高制に於る明との繋がり。大内義隆は大蔵大臣であり中央銀行総裁でありながら当時日本一の支配領域を持っていた。それが一番重要。

    • @tigerion9275
      @tigerion9275 Před 3 měsíci +1

      冗談を言ってはいけない。
      日本の経済発展は江戸時代が最も盛ん。
      劇的な国土開発と産業振興が為された時代。
      鎖国は保護貿易のため。

  • @user-yn8lq1dl6q
    @user-yn8lq1dl6q Před 3 měsíci +9

    お疲れ様です
    朝廷遷都説&幕府関与説の組み合わせが一番しっくりくるような気がしました…

  • @user-vi3pl1wj4y
    @user-vi3pl1wj4y Před 3 měsíci +14

    コンラン先生との対談動画でこのチャンネルを知った者です。
    まずは大作の投稿、お疲れ様でした。一つ一つ丁寧かつ深い説明で、唸らされました。今後も興味深く拝見させていただきます。

  • @atramp8999
    @atramp8999 Před 3 měsíci +20

    コンラン教授との取材に並ぶ、大内解説の最高峰、これは推さずしてどうする!
    しかかくさん、うp乙です!

  • @JM-op7hd
    @JM-op7hd Před 3 měsíci +4

    深堀りされてとても面白かったです。幕府と朝廷とどのように関わるかという外交戦略の対立を軸に、家中の様々な勢力対立が絡み合って起きた結果という印象を受けました。ただ、そうだとすると当主のみならず嫡子まで異世界に送った動機は何だったのかなと疑問も残りますね。その意味では、「義隆が腑抜けた」と彼自身に理由を帰結させる従来説が、簡単で説明しやすいということにもなってしまい。。。まさに、1行で全てを説明できる通説の偉大さですね。

  • @nomoney8296
    @nomoney8296 Před 3 měsíci +5

    黒幕説はまさかーと思ってたら説得力あってビックリした

  • @user-yakisoban
    @user-yakisoban Před 3 měsíci +19

    半分に分けて投稿期間を稼ぐ手もあっただろうに・・、感謝です!

  • @user-qi5qy5ik8h
    @user-qi5qy5ik8h Před 3 měsíci +2

    投稿お疲れ様です
    この間のまとめともいえる検証、とても面白かったです
    「最新の学説」が本当に最新というお話ですね

  • @user-uc5wu7xt2r
    @user-uc5wu7xt2r Před 3 měsíci +2

    お疲れ様です。Twitter見てましたが、まとめるの相当ご苦労されている様子でしたが、ものすごい力作だったかと思います。

  • @safuka8045
    @safuka8045 Před 3 měsíci +3

    すごい力作
    歴史への造詣が深くないと作れない動画目ですね。尊敬👏

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu Před 3 měsíci +3

    長編ながらも、あっと言う間の面白さでした👍

  • @user-uk6tm8sq6l
    @user-uk6tm8sq6l Před 3 měsíci +3

    待ってました
    これからも頑張ってください

  • @user-ow1ww6cf7p
    @user-ow1ww6cf7p Před 3 měsíci +4

    幕府関与説は面白いですね。
    もう主君を交代させる準備をしているところでそれを主君も勘付いている状況。その中で後ろ立の将軍が死んでしまい強行手段に出ないと自分達が潰されるから変を起こした。
    なるほどなー

  • @yoroisama4043
    @yoroisama4043 Před 3 měsíci +7

    玉突き事故というかピタゴラスイッチというか・・・思った以上に規模がでかい事件なんですなあ大寧寺の変は

    • @AI-DOROMI
      @AI-DOROMI Před 3 měsíci +1

      ピタゴラスイッチ説に草
      まあ、そうなんだろうなぁ…

    • @yoroisama4043
      @yoroisama4043 Před 3 měsíci +2

      @@AI-DOROMI
      幕府黒幕説から考えると黒幕達が居なくなったからこそ歯止めが効かなくなって大惨事になった感が...

  • @user-yakisoban
    @user-yakisoban Před 3 měsíci +4

    上洛は金が掛かるからこっちに呼んでしまえってのは発想の転換で実に面白い。力を持った守護代に対し、どうやって主従を明確にするかが大内家の長年の課題であり、陶家等のお家騒動でそれが一時的に大内家の隆盛に繋がった。しかし守護代たちもよく働いていたからこそ力による粛清が出来なかったため、朝廷からの下賜を直接ではなく大内家を通してからでしか受けられないようにしたのも主従をハッキリさせる為のやり方だったのでは?規模は違うが長年毛利家があくまで安芸国衆連合のまとめ役という立場だったように、大内家はあくまで守護代を束ねる守護。明確な家来ではない。その辺りがクーデターに繋がった。あと一緒に消された公家たちはわけもわからず何も知らん兵士に頃された公家と、明確に特定して消された公家は分けて考えないと。何となく武田信虎が追放されたのと似てるかな。あれも小山田や穴山など有力国衆が結託して追放、今川がそれを受け入れるという流れ。守護という立場の弱さを表している。子の晴信は対外戦争を繰り返しながら新たな信濃の領地を子飼いの家臣に与えて国衆以外自分の勢力を増やしているし、それが生存戦略の一つだったのかなと。パワーバランスの調整は本当に大変だ

  • @user-bp5nx6lb4t
    @user-bp5nx6lb4t Před 3 měsíci +5

    投稿ありがとうございます、最新説の中では幕府黒幕説が信憑性はともかく面白い大河ドラマで次で大内氏出すなら採用されるかも。原因は一つではなく陶と相良の対立、吉見や益田の対立などが複合的に合わさって起きたのではないかとも思います。最後に起爆剤になったのが朝廷関係だったのか新しい資料が出ると良いですね。

  • @user-rl3px9fk6q
    @user-rl3px9fk6q Před 3 měsíci +8

    武田勝頼 「義隆卿のお気持ちは俺にもわかるぞ」 長坂釣閑斎 「相良殿のご苦労はよくわかります」

    • @user-yu1zy1jr4z
      @user-yu1zy1jr4z Před 3 měsíci +5

      北条氏政「滅んだ大名とその重臣が軍記物語で捏造された逸話を元に批判されるのって」
      松田憲秀「どこの家でも同じなのかもしれませんね…」

  • @pipeshort
    @pipeshort Před 3 měsíci +26

    新説はどれも義隆自体を殺害する理由に欠けるような気がする。
    個人的には途中で出てきた、守護代の力を削ぎ大名の権力を高めたい義隆+側近とそれを阻止したい守護代層の対立というのが一番納得できた。

  • @neetom
    @neetom Před 3 měsíci +2

    勉強になりました。ありがとうございます。

  • @user-mn1om4tz2x
    @user-mn1om4tz2x Před 3 měsíci +6

    拝見しました。こうしてみると、大寧寺の変は大内家だけにとどまらない影響があったとみてよさそうですね。外縁の外縁ですが二階崩れが大寧寺にどのような影響を及ぼしたのか気になるところです

  • @user-sf4gh4ec5k
    @user-sf4gh4ec5k Před 2 měsíci +4

    山口県民だけど、この変で凋落しないでもっと栄えてたらなあ…

  • @user-rj8iv1zi1s
    @user-rj8iv1zi1s Před 3 měsíci +2

    感服いたしました

  • @harigane4773
    @harigane4773 Před 3 měsíci +3

    公家趣味呼ばわりは、暗君妊婦の腹割きがちネタの亜流だった!
    漠然とそういう類型のモノなんだろうなと思ってましたが自分の中でハッキリパターン整理できました!!

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p Před měsícem +2

    関係性は流動する
    歴史を見る時に忘れがちな事だけど
    全ては個人の決断と行動がベースであり大枠が同じに見えても
    細部はずっと変わり続けている

  • @user-ub7tt4gl8y
    @user-ub7tt4gl8y Před 3 měsíci +4

    お疲れ様です まさに大長編 通説も分かりやすいように見えて実は同じ文脈で破綻をきたしてるってのは面白いですね 税が銭と米とが混同してるところもあるのかな…?
    主題の原因説(上洛拒否・遷都阻止・将軍介入・公家内の暗闘)まだまだ研究・考察の余地があるし論証が必要だけど、副題の原因として銀山利権・吉見と益田問題説は実利的でリアリティのある問題ですね…。  大友も将軍家も大内も一斉に出来事が動きすぎだし日本の外交・経済に大きく関わるはずなのに中々研究が進展されなかった不思議
    勝頼とか氏真はもう過剰レベルに救われたし東国はだいぶ救いの手が伸びてる(動画内だと朝倉と氏政が再評価知名度もう一息な感じ)けど浦上や義隆や宗麟・義統親子等西国組は一向に通説オンリーで救われない感じですよね…(生き残った組でも島津もサイヤ人みたいな戦闘民族面しか取り上げられない、負けた側はやっと尼子晴久は救われてきただけ感)

  • @user-mz2jr8wh5w
    @user-mz2jr8wh5w Před 3 měsíci +1

    西の本能寺の変!というには本能寺とむしろ近いくらいですが、それでも戦国時代を代表する一大事件なんですよねコレ。
    本能寺の変同様、様々な憶測が飛びますが、返って色々な説を楽しめるので非常に面白い事件ですね。
    個人的にはこの事件を契機に毛利元就が大大名化していくので元就が好き(というか地元)な自分としてはいつか真実がわかる時が来るのかなぁなんて思います

  • @nigedanjio
    @nigedanjio Před 3 měsíci +3

    結局、1つの原因(説)があるのではなくて、ほぼ否定された定説以外の原因が背景としてそれぞれ絡み合って、最終的に大寧寺の変につながったんじゃないかと思う。

  • @royenami4700
    @royenami4700 Před 3 měsíci +2

    奏者である事は、大名家の臣にとって大変重要であると思う。この、権益も名誉も兼ねる役割から外されたり、役目を解かれたりするのは徳川幕府の頃のような家臣とは異なり自立性の強かった足利期・戦国期の臣には不可欠なものだったと考えれば、大内でも武田でも織田でもその家の屋台骨を揺るがす事態に至り兼ねない。

  • @user-wb2jg3is9b
    @user-wb2jg3is9b Před 3 měsíci +2

    すごい丁寧な考察で、多くの説を説明されてますね。
    陶隆房の謀反ですが、
    直前の尼子攻め失敗の敗因分析の違いで
    文治派と武断派が揉めたのではと私は思ってます。
    ライバルの尼子も尼子晴久が守護の地位を
    もらうのに朝廷活動をして、
    新宮党を粛清してます。
    直前に守護に任官された備後侵攻の失敗がありました。
    いくら経済力があっても無限ではないので、
    戦争の敗因が軍事力不足と考える派閥と、
    朝廷からの権威不足というのが原因という派閥争いのように考えてます。

  • @user-if5sw3qz6m
    @user-if5sw3qz6m Před 3 měsíci +3

    投稿お疲れ様です。
    通説や色んな説が一挙に見れる上に、フラットに問題点なども上がっているので勉強になります!
    51:57 釈迦に説法で恐縮ですが、ふと素人考えの疑問点が。「将軍死後の偏諱履行」「将軍の栄典の保留」を大内義隆がストップできるかについて、兵部卿と右近衛大将、従二位と従三位でパワーバランスが気になります。
    流石に平安期の朝廷みたいにあからさまに「武家は公家の下だ!」という思考は弱いと思いますが、コンラン先生の「朝廷権威は軽くない」の言のように大内義隆は官位をもって足利将軍家を凌ぐと考えたりしていたのかなぁと…
    これからも動画楽しみにしております!

  • @user-jy4fc2pm3m
    @user-jy4fc2pm3m Před 3 měsíci +2

    とにかく、大内家の中でも、かなりの大物が関与しているという事件ですから、それなりの大きな理由があったに違いありませんね。

  • @user-ad0125
    @user-ad0125 Před 3 měsíci +2

    陶晴賢の「晴」は大友晴英の晴ではなく足利義晴の晴だと思うと納得がいきます。
    明智光秀の黒幕説の足利義昭や宇喜多直家の浦上家との1回目の戦の要因を見ても将軍家の権威凄まじすぎる…

  • @user-pq5uo2je5u
    @user-pq5uo2je5u Před 3 měsíci +3

    大変面白い動画でした。毛利家が中国地方を収めたのち、吉見家と益田家の扱いが気になるところになってきました。

    • @user-eg7fc9mk9s
      @user-eg7fc9mk9s Před 3 měsíci +7

      毛利元就公は吉見家にかなり気を使って接してます。だから、益田藤兼を処刑しようとしますが、息子の吉川元春が藤兼の武勇を惜しんで助命を嘆願して受け入れられ、吉川氏の娘が益田氏に嫁ぐ事で両家は親戚になりました。
      時代が降って関ヶ原の合戦の後に毛利家の領地が大幅に削られた時に、当時の益田氏当主益田元祥は徳川家康から「領地をそのまま安堵するから独立した大名(意訳)にならないか?」と誘われたけども元祥公はそれを断って毛利輝元公に従う事を決意して、それに感激した輝元公が益田家を萩藩の永代家老にしました。
      その益田家の厚遇ぶりを見た戦国時代末期の吉見家当主の吉見広長は毛利輝元の下を去り、直接徳川の家臣になろうとするが毛利家に邪魔されて結局また毛利家のもとに戻って被官化した矢先に輝元公暗サツを企てたとして処刑されました。
      吉見家臣は領外追放処分にされ、中には毛利家臣になる者や帰農する者などがいて、吉見家は無くなりました。大野毛利家を吉見家の後継だとは思いません。
      吉見家臣の中には益田家臣になってる者もいますが、その経緯は不明です。私の先祖は吉見家の重臣で江戸時代は益田家臣になって、上士の待遇を得て主に本陣のような役目をしていたようです。恐らくは吉見珠光院の付き家臣だったのかな?と、、、

  • @user-nh2ct7cv6b
    @user-nh2ct7cv6b Před 3 měsíci +1

    動画拝聴しました。
    わかりやすかったです。
    勉強になりました。
    登録させていただきます

  • @user-lc4dw8vy9z
    @user-lc4dw8vy9z Před 3 měsíci +4

    大内義隆の再評価は、毛利の中国支配の正統性を揺るがす問題だから、痛し痒しですな。

    • @user-eg7fc9mk9s
      @user-eg7fc9mk9s Před 3 měsíci +2

      そーでもないと個人的に思います。主君弑逆した奸臣を討ったから中国支配が出来てますし

  • @user-uz3fg4ux1x
    @user-uz3fg4ux1x Před 2 měsíci +3

    山口遷都・行幸説に魅力を感じました。こういうのはトップシークレットなので真の目的は伏せられ、計画初期段階では限られた数人でしか議論しないので文書には残らないはず。他の説と決定的に違うのはスケールの大きさ。戦国時代の権力者は現代日本の政治家・資本家・公務員とは比較にならない。申し訳ないけど日本の学者の考えた説とは根本が違うと感じました。官人までも害することは朝廷との関係を破綻させ、計画をつぶすことにかなう。でも晴賢や興盛がこの計画をどう受け止めたかわからない点がネック。

  • @sanaba94
    @sanaba94 Před 3 měsíci +2

    吉見や益田を調べる地元郷土家です。この怨恨節は本当に不思議で何故、吉見討伐が中止になったのか、、挟み撃ちにしようとしている益田氏は兵を集め、旧石見山名氏の反撃を封じて日原方面を攻め込む手筈で最前線の向横田頚ヶ滝城に城市正雄の部隊を入れてますが、、中止になったのでそのまま向横田〔当時は西横田〕の地はそのまま城市正雄の領地となってます。
    そして、吉見氏に大内義隆の姉〔たぶん1504年頃産まれ〕が吉見隆頼に嫁いでいます。。これも謎でこの後、滅亡覚悟で吉見家文書を全部始末した吉見頼興も大内家の外交に深く携わっています。〔家格的には益田氏の方が当時は大きいのに〕

  • @user-tr5eq1kf7f
    @user-tr5eq1kf7f Před 3 měsíci +1

    まずは大作動画ありがとうございました。大変貴重な動画だと思いました。
     月山富田城攻め後から大寧寺の変までの義隆と守護代達の関係はおおよそ分かりましたが、守護代、特に陶隆房や内藤興盛の具体的な動きや考えが分かる資料があれば、動機が分かるのかなという印象です。個人的には義隆は神辺城攻めの際、自ら陣地に出馬しなかった理由が知りたいです。

  • @sweetchinmusic46
    @sweetchinmusic46 Před 3 měsíci +5

    仲が悪いのは知ってたけど一般津和野町民としては大寧寺の変の一端が吉見益田問題説は大変興味深い

    • @user-eg7fc9mk9s
      @user-eg7fc9mk9s Před 3 měsíci +9

      大内家がデカすぎて隠れがちだけど益田家と吉見家は東北の伊達や甲斐の武田と格は同じだからね。
      益田家は足利義教からは屋形号の使用を許可されてるし、足利義藤からは「藤」の字の偏諱をもらってるし益田藤兼は従四位下に叙爵されてる。大名と呼んでも間違いじゃない家だよ。
      吉見家は室町幕府の奉公衆で足利家の御門葉の扱い受けてて、室町時代前期は石見の国衆を率いる立場だったし。

  • @YY-rj4up
    @YY-rj4up Před 3 měsíci +6

    文献が・・・文献が多い・・・!

  • @conspiracy_shine
    @conspiracy_shine Před 3 měsíci +1

    すご…

  • @kinjisi
    @kinjisi Před 3 měsíci +1

    とても興味深かったです。平家や公家一統の挫折と武家関白豊臣の滅亡の接点かもしれない。公家による武家支配アレルギー羽深かったのかもしれない。

  • @tomoyo20060816
    @tomoyo20060816 Před 3 měsíci +2

    大内さんから聞いた事あります
    すえ😂さんはやりそうと噂があったといってた

  • @user-ms6sm3bc2c
    @user-ms6sm3bc2c Před 3 měsíci +2

    うーん、なるほどなぁ。豊臣も同じような対立構造があるし、相良と陶の対立もよくわかる。そして、結局軍をどれだけコントロールできるかってのが、近世の豊臣⇒徳川政権に繋がるのだなぁ。

  • @SAKURANOODLE
    @SAKURANOODLE Před 3 měsíci +3

    0:00本動画の趣旨説明
    大寧寺の変についての複数の学説を比較検証
    1:10大寧寺の変の一般認識
    歴史的な影響が大きいが知名度の低い大寧寺の変。現在流布している多くの「大寧寺の変」動画は【通説】に基づいている。
    2:58通説とその問題点
    3:52反論①
    ・月山富田城の戦いで跡継ぎを失っても、大友家から猶子として大友晴英(大内義長)として迎え入れている。外交の一環。
    ※猶子ーゆうし:兄弟、親戚、または他人の子を、自分の子としたもの。※
    ・月山富田城の戦い以後も戦いを継続して、大寧寺の変直前に大内家史上最大版図を達成。
    4:37反論②
    ・律令制における公卿の証明である従三位以上の位階に、直近の大内家当主4代が続けて就いている。そして将軍足利義晴より上の従二位に、義隆は就いている。大内家は公卿かぶれではなく、正式な武家公卿。
    5:42太宰大弐や兵部之卿への任官も、目的も伴っている。
    6:11反論③
    ・朝廷対策の財源は、遣明船等の貿易と石見銀山。
    6:52明からの銅銭輸入で、日本国内の通貨流通をある程度コントロールしていた。
    7:24反論④
    ・相良武任は先代からの重臣であり、月山富田城の戦いの責任を取らされ一時失脚していた。
    7:54年表に記載されてる小田村備前守誅殺事件とはなんだろ?☆
    8:12反論⑤
    ・反論①より、陶晴賢や内藤興盛の不満の原因は別にある。
    8:31義隆自身が戦の陣頭指揮をしなかったことについての不満はあったかも?
    9:13男色のもつれ説
    ・KOEI「信長の野望」で度々取り上げられてる
    9:42ルイス・フロイスの大内義隆評(伝聞)にもある
    10:03義隆と実際に会ったフランシスコ・ザビエル評では、フロイス評と真逆の内容。
    10:40後世の軍記物で、同ネタを度々増量。
    11:38義隆と陶晴賢に限れば、若い時男色関係にあったと大内義隆記に記録あり。しかし11:50藤井孝氏の研究によると、一次資料による二人の男色関係は証明不可。
    ・義隆による男色関係は複数あると推測できるが、男色そのものは当時の習慣では一般的。
    11:38仮にかつて二人が男色関係にあって、その後晴賢が嫉妬に狂ったとしても、そもそも嫉妬を理由とする誅殺計画に誰もついてくるはずがない。
    13:22通説は、ある出来事(〇〇の変など)の結果から考察され、通説として定着することが多い。13:38さらに二次制作物・三次制作物による定説補強が行われる。
    14:10ここから大寧寺の変より前の出来事から同変を推察した4つの説を説明する。★
    14:26文治・武断派対立説
    〜武士の恥、雪がずにはおれぬ〜
    ・大内義隆記にも記録あり。
    15:02陶晴賢ら守護代による義隆への愁訴を、相良武任は妨害。
    ※愁訴:しゅうそ:嘆き訴えること。事情を打ち明けて、同情を乞うこと。また、その訴え。多く、公の機関に訴え出ることにいう。※
    ☆ラインの訴えとスタッフによる妨害。石田三成もこのポジション。☆
    15:08将軍から下賜された守護代内藤興盛・杉重矩に対する白傘袋・毛氈鞍覆の栄典を、武任は一旦保留する。
    ※下賜ーかし:身分の高い人が、身分の低い人に与えること。くださること。※
    ☆内部分裂につながるから、嫌がるのもわかる。秀吉も似たようなことを大名家のNo.2にしていたし…☆
    15:23変の前年、守護代の晴賢・重矩による、武任襲撃あり。
    15:43近年では個人的な確執ではなく、大内家家中の支配構造の歪みと捉えるようになってきた。
    16:10和田秀作氏は、守護代であっても奉行人・側近を介さないと当主に伝えることができない統治システムを問題視。
    ☆クラウディウス帝の話とよく似てる。奴隷出身の非公式的官僚に取次を頼まないと、将軍クラスであっても意見表明できなかった☆
    16:38藤井崇氏は、分国運営でも守護代に一任せず山口政庁が一部介入していることを指摘。
    ☆アレキサンダー大王東征時の、征服地の統治システムに似てる?☆
    17:32(川岡勉氏によると?)天文十三年御分国中御法度条条が公布?(施行?)された。これは守護代による分国支配主導権奪取を狙った内容。それに対し義隆は特定の奉行人と結び対立を深めた結果、決裂に至ったとされる。
    ※公布ーこうふ:ゐ・広く一般にしらせること。書物などを世間に発表すること。ろ・法令などを一般国民に公表すらること。ふつ う、官報などの政府刊行物に掲載される。
    施行ーせこう:ほどこし行うこと。政策などを実行すること。※
    ☆区切りと単語が一部不明だったので、一部推測が入ってます。☆
    18:01武任と晴賢の個人対立は、組織の機能不全が明確に形になったものに過ぎなかった。
    18:31怨恨説
    〜過去の因果は、子が報いるのか〜
    ・首謀者である陶家、内藤家に関する遺恨。
    19:01約70年前、陶弘護は吉見信頼により刺殺される。19:21その信頼は内藤弘矩によって殺害される。19:28その13年後、弘矩は大内政弘によって殺害される。
    19:34その嫌疑は、弘護の長男陶武護が同次男陶興明を殺害した事件があり、武護による殺害に弘矩が関与していたとされる。
    ☆この興明の跡を継いだのが、海産物の人陶興房。
    19:53藤井崇氏は、この事件(当主政弘による弘矩誅殺)と弘護殺害が裏で繋がっていたと指摘。19:59政弘が京にいた応仁の乱の最中、地元にいた弘護は大内道頓の乱(信頼の父、吉見成頼も乱に加担)を鎮圧し、その事件を契機として弘護の発言力が高まった。20:17政弘は当主としての権限が侵蝕されることを恐れて、20:22信頼による弘護殺害を当主政弘が黙認した。政弘はその漏洩を防ぐ為に、即座に信頼を弘矩によって殺害させる。20:34その裏事情を知る弘矩は武護に同情し、真相が漏れる前に政弘は弘矩を殺害する。
    20:51藤井氏説の根拠は三点。状況証拠。
    20:20政弘による弘矩の殺害は理不尽である。弘矩の子内藤弘和は反旗を翻し挙兵。政弘の子大内義興によって鎮圧される。
    22:07この説の妥当性は?
    ・弘和の従兄弟且つ弘矩の義子である内藤興盛の動機としては可能性が高い。
    22:15陶晴賢は問田家出身であるため、動機としては弱い。
    22:37吉見・益田問題説
    〜代理戦争は大乱の灯となる〜
    ・石見の有力国衆である吉見VS益田の領土対立に、大内家・陶家が絡んでくる。
    22:31陶弘護の妻は、益田兼堯の娘。22:37道頓の乱でも、兼堯は弘護に合力して、吉見成頼を攻める。23:56成頼の子吉見信頼は、帰国した大内政弘に赦免される。24:04そして信頼の恨みをかった弘護は、信頼によって刺殺される。
    ※合力ーごうりょく:(ーする)他人が何かするのに力を貸して、援助・協力すること。助成すること。加勢。ごうりき。※
    ☆成頼はこの後どうなったのだろう?☆
    24:16陶家・益田家は当主政弘とともに、吉見氏討伐の兵を挙げる。しかし政弘は陶家の軍勢を放置して、途中で撤退。政弘は吉見一族の多くを大内家被官として取り立てる。
    24:37その後、陶家は内訌を経て、陶興房が跡を継ぐ。
    ※内訌ーないこう:組織の内部の乱れ。内輪揉め。内乱。内紛。だいこう。※
    ☆また海産物の人。本動画ではモブのはずだけど、登場回数多い☆
    24:50陶興房の姉妹を益田宗兼が娶って、24:53吉見正頼は義隆の姉妹を娶る。ここで吉見VS益田の対立が、大内VS陶の対立にもなる。
    ☆女系の人物を、家系図を理解する時に含めると、追跡が難しくて混乱する。☆
    25:10大寧寺の変では、益田家当主である益田藤兼は晴賢に与同、石見国衆を説得、吉見領に侵攻。
    ☆益田家と毛利家は、大寧寺の変には同じような立場。国衆の旗頭になれる存在☆

    • @SAKURANOODLE
      @SAKURANOODLE Před 3 měsíci +1

      22:45 Ⅴ25:34銀山問題説
      〜金銀の魔力は人を惑わせるのか〜
      ・但馬の生野銀山でも石見の石見銀山でもない九州の銀山が今回の主題。
      ・25:57天文十五年七月六日肥後相良氏が治めていた球磨盆地の南東部・球磨郡宮原で銀が発見された。
      ・26:07実際にはもう少し前、相良長唯(義滋)は銀銅が産出することを把握していた。
      ☆銀銅とは鉱山では普通の組み合わせなのだろうか?Webで宮原銀山を調べてもほとんど出てこない、なぜだろう?☆
      ・26:15丁度その時下向していた小槻(大宮)伊治に鑑定の相談をした。小槻伊治は義隆の岳父であり、次期当主の大内義尊の祖父。
      ※下向ーげこう:都から地方へいくこと。くだること。
      岳父ーがくふ:妻の父。しゅうと。※
      ☆日本史における小槻家という存在を学ぶことができた。寄り道も面白い☆
      ・26:27その後、石見銀山より銀山技師洞雲が宮原に派遣され、26:33灰吹き法により「但馬の生野銀山にも勝る」という鑑定結果を出した。
      ・26:45相良義滋は同地を開発することを決定。
      ・26:50もし宮原銀山が開発されれば、大内家の利権を脅かす存在になる恐れが生まれた。
      ・27:24大内家家中の内乱の原因になるとすれば、肥後相良氏の取次役は相良武任で、27:38石見銀山の管轄・守護は石見守護代問田隆盛であること。27:47隆盛と陶晴賢は血のつながった兄弟…という説。
      ・28:11小槻伊治は鑑定に関わったことを内密にしようとした。
      ・28:26本説への反論
      ①宮原銀山発見時、相良武任は失脚中。九州取次は杉興重が担当中。
      ☆興重は大寧寺の変では、晴賢に与したらしい。☆
      ②28:58石見銀山の管理は銀山大工を任命する間接支配。江戸時代とは異なる。問田氏にどれほど利権があったのか不明です。
      ・29:44大寧寺の変後、晴賢は義隆に従っていた銀山大工吉田正重を殺害し、新たに房宗を銀山大工として任命した。
      ★30:06ここまで紹介した4つの学説は、間接的な原因になりそうな内容。これから直接の原因になりそうな最新の学説3つを紹介。あくまで研究途中であることを了解してほしい。★
      Ⅵ31:31上洛阻止説
      〜国家の為、二の舞は踏ませぬ〜
      ・藤井崇氏提唱。先代大内義興と同様に上洛を計画している義隆を止めるため。
      ・32:00上洛計画は天文十一年には始まっていた。月山富田城の戦いにつながる出雲遠征以前に、32:09上洛する旨を幕府内談衆大館晴光に伝える。
      32:28幕府(将軍足利義晴)も尼子家討伐令を出すことで、大内家を間接支援したが、遠征失敗により幕府の面目も潰れる。両者の関係も疎遠・かなり微妙に。
      詳しくは しかかく氏の【足利義晴と大内義隆〜「武家之王」と「武家公卿」】動画を参照
      ・32:51但し、それ以後も義晴が坂本落ちした時も、義晴は義隆に頼ろうとしてるし、33:00義晴薨去後、義隆は新将軍足利義輝を支える旨を幕府に表明していた。
      ※薨去ーこうきょ:皇族や三位以上の人が死去すること。薨逝。※
      ・33:09藤井崇氏は、天文十九年(大寧寺の変直前)頃、大内家と尼子家は和睦している形跡がある、そしてその他の地理的な上洛条件も満たしている、と主張している。33:52また天文十六年に出発した遣明船が、この頃に帰還していて、財政的にも問題はなかったようだ。
      ・34:07先代義興上洛時に発生した弊害一覧
      ・34:15特に上洛経験者である内藤興盛は強硬に 反対したと考えられる。
      ・34:22藤井崇氏の主張のおさらい。
      ・34:55本説の反論一覧。
      藤井氏自身も想像に想像を重ねていることを自ら認めている。今後の研究に期待。
      Ⅶ35:28公家勢力排除説
      〜大内家は武家の家也〜
      ・萩原大輔氏提唱。大内家内を侵蝕しつつあった公家勢力を排除するため。
      ☆大輔…同氏のお父様は野球大好きだったのか?それともお母様が高校野球好きだったのか?本筋とは全く離れるが気になる☆
      ・35:59萩原氏は同変に巻き込まれた公家をそれぞれ調査。変に巻き込まれても生き残った公家がいることを発見している。
      ・36:07例1、大外記清原業賢。吉田兼右の兄。内藤興盛に引き留められ、生き残った。
      ・36:21例2、権中納言持明院基規
      討死した一忍軒は持明院基規ではなく、一忍軒は冷泉範遠かも?。36:48大内義隆記では、冷泉範遠は冷泉紹恵入道と記載されており、一忍軒は大内氏庶家の冷泉氏かも?
      ・37:16変の翌年、公家の飛鳥井雅綱・雅教親子が山口に立ち寄っていること(二人を引き留めたのは大内義長…)から、37:22萩原氏曰く、変の目的は公家の鏖(みなごろし)ではない、37:30陶晴賢の目的は大内家中枢にいた一忍軒・小槻伊治の排除で、37:37その他公家の殺害原因は最期まで義隆に従ったから、または巻き込まれた事故。
      ・38:09天文十四年摂関家九条稙通が山口に下向しようとした際、一忍軒・小槻伊治はそれを拒否。38:21萩原氏はこの事例を、二人は「公卿社会の下剋上」を実行できる証左と、主張。
      ※証左ーしょうさ:証拠。証。証人。※
      ・38:40萩原氏の主張のおさらい。
      ・39:03この説ならば、伊治の外孫でもある大内義尊を殺害した理由も説明できる。
      ・39:13反論①この二人は大内家内で物理排除をされるほどの専横行為をしていない。
      ・39:25萩原氏の主張する専横行為一覧
      ・39:30二人の行為は基本的に側近公家の活動におさまる。
      ・39:52反論②九条稙通の下向拒否事例は、藤井崇氏が指摘しているように、現将軍足利義晴と対立している足利義維を支持している九条稙通の下向を、義隆が二人に指示して下向拒否したと解釈もできる。40:15そもそも同時期に摂関家二条尹房が既に下向している。
      40:32この説の今後に向けた一つ目の焦点は、二人が大内家でどこまで権勢を持っていたかの証明です。
      ・40:382つ目の焦点は、同変で殺害された二条尹房・良豊。大内義隆記によると、二人とも明確な殺意を以て、殺害されている。41:08もし権勢家二人の殺害が目的ならば、二条親子も強制排除する理由がない。大内義隆記の信頼性はどの程度?
      41:14参考:大寧寺の変時の公家の動向一覧
      41:23本当に公家全体への恨みがなかったかどうか?41:23内藤のみが消極的で、陶・杉は殺る気満々だったのか?
      41:35同説に対するその他問題点

    • @SAKURANOODLE
      @SAKURANOODLE Před 3 měsíci +1

      Ⅴ25:34銀山問題説
      〜金銀の魔力は人を惑わせるのか〜
      ・但馬の生野銀山でも石見の石見銀山でもない九州の銀山が今回の主題。
      ・25:57天文十五年七月六日肥後相良氏が治めていた球磨盆地の南東部・球磨郡宮原で銀が発見された。
      ・26:07実際にはもう少し前、相良長唯(義滋)は銀銅が産出することを把握していた。
      ☆銀銅とは鉱山では普通の組み合わせなのだろうか?Webで宮原銀山を調べてもほとんど出てこない、なぜだろう?☆
      ・26:15丁度その時下向していた小槻(大宮)伊治に鑑定の相談をした。小槻伊治は義隆の岳父であり、次期当主の大内義尊の祖父。
      ※下向ーげこう:都から地方へいくこと。くだること。
      岳父ーがくふ:妻の父。しゅうと。※
      ☆日本史における小槻家という存在を学ぶことができた。寄り道も面白い☆
      ・26:27その後、石見銀山より銀山技師洞雲が宮原に派遣され、26:33灰吹き法により「但馬の生野銀山にも勝る」という鑑定結果を出した。
      ・26:45相良義滋は同地を開発することを決定。
      ・26:50もし宮原銀山が開発されれば、大内家の利権を脅かす存在になる恐れが生まれた。
      ・27:24大内家家中の内乱の原因になるとすれば、肥後相良氏の取次役は相良武任で、27:38石見銀山の管轄・守護は石見守護代問田隆盛であること。27:47隆盛と陶晴賢は血のつながった兄弟…という説。
      ・28:11小槻伊治は鑑定に関わったことを内密にしようとした。
      ・28:26本説への反論
      ①宮原銀山発見時、相良武任は失脚中。九州取次は杉興重が担当中。
      ☆興重は大寧寺の変では、晴賢に与したらしい。☆
      ②28:58石見銀山の管理は銀山大工を任命する間接支配。江戸時代とは異なる。問田氏にどれほど利権があったのか不明です。
      ・29:44大寧寺の変後、晴賢は義隆に従っていた銀山大工吉田正重を殺害し、新たに房宗を銀山大工として任命した。
      ★30:06ここまで紹介した4つの学説は、間接的な原因になりそうな内容。これから直接の原因になりそうな最新の学説3つを紹介。あくまで研究途中であることを了解してほしい。★
      Ⅵ31:31上洛阻止説
      〜国家の為、二の舞は踏ませぬ〜
      ・藤井崇氏提唱。先代大内義興と同様に上洛を計画している義隆を止めるため。
      ・32:00上洛計画は天文十一年には始まっていた。月山富田城の戦いにつながる出雲遠征以前に、32:09上洛する旨を幕府内談衆大館晴光に伝える。
      32:28幕府(将軍足利義晴)も尼子家討伐令を出すことで、大内家を間接支援したが、遠征失敗により幕府の面目も潰れる。両者の関係も疎遠・かなり微妙に。
      詳しくは しかかく氏の【足利義晴と大内義隆〜「武家之王」と「武家公卿」】動画を参照
      ・32:51但し、それ以後も義晴が坂本落ちした時も、義晴は義隆に頼ろうとしてるし、33:00義晴薨去後、義隆は新将軍足利義輝を支える旨を幕府に表明していた。
      ※薨去ーこうきょ:皇族や三位以上の人が死去すること。薨逝。※
      ・33:09藤井崇氏は、天文十九年(大寧寺の変直前)頃、大内家と尼子家は和睦している形跡がある、そしてその他の地理的な上洛条件も満たしている、と主張している。33:52また天文十六年に出発した遣明船が、この頃に帰還していて、財政的にも問題はなかったようだ。
      ・34:07先代義興上洛時に発生した弊害一覧
      ・34:15特に上洛経験者である内藤興盛は強硬に 反対したと考えられる。
      ・34:22藤井崇氏の主張のおさらい。
      ・34:55本説の反論一覧。
      藤井氏自身も想像に想像を重ねていることを自ら認めている。今後の研究に期待。
      Ⅶ35:28公家勢力排除説
      〜大内家は武家の家也〜
      ・萩原大輔氏提唱。大内家内を侵蝕しつつあった公家勢力を排除するため。
      ☆大輔…同氏のお父様は野球大好きだったのか?それともお母様が高校野球好きだったのか?本筋とは全く離れるが気になる☆
      ・35:59萩原氏は同変に巻き込まれた公家をそれぞれ調査。変に巻き込まれても生き残った公家がいることを発見している。
      ・36:07例1、大外記清原業賢。吉田兼右の兄。
      内藤興盛に引き留められ、生き残った。
      ・36:21例2、権中納言持明院基規
      討死した一忍軒は持明院基規ではなく、一忍軒は冷泉範遠かも?。36:48大内義隆記では、冷泉範遠は冷泉紹恵入道と記載されており、一忍軒は大内氏庶家の冷泉氏かも?
      ・37:16変の翌年、公家の飛鳥井雅綱・雅教親子が山口に立ち寄っていること(二人を引き留めたのは大内義長…)から、37:22萩原氏曰く、変の目的は公家の鏖(みなごろし)ではない、37:30陶晴賢の目的は大内家中枢にいた一忍軒・小槻伊治の排除で、37:37その他公家の殺害原因は最期まで義隆に従ったから、または巻き込まれた事故。
      ・38:09天文十四年摂関家九条稙通が山口に下向しようとした際、一忍軒・小槻伊治はそれを拒否。38:21萩原氏はこの事例を、二人は「公卿社会の下剋上」を実行できる証左と、主張。
      ※証左ーしょうさ:証拠。証。証人。※
      ・38:40萩原氏の主張のおさらい。
      ・39:03この説ならば、伊治の外孫でもある大内義尊を殺害した理由も説明できる。
      ・39:13反論①この二人は大内家内で物理排除をされるほどの専横行為をしていない。
      ・39:25萩原氏の主張する専横行為一覧
      ・39:30二人の行為は基本的に側近公家の活動におさまる。
      ・39:52反論②九条稙通の下向拒否事例は、藤井崇氏が指摘しているように、現将軍足利義晴と対立している足利義維を支持している九条稙通の下向を、義隆が二人に指示して下向拒否したと解釈もできる。40:15そもそも同時期に摂関家二条尹房が既に下向している。
      40:32この説の今後に向けた一つ目の焦点は、二人が大内家でどこまで権勢を持っていたかの証明です。
      ・40:382つ目の焦点は、同変で殺害された二条尹房・良豊。大内義隆記によると、二人とも明確な殺意を以て、殺害されている。41:08もし権勢家二人の殺害が目的ならば、二条親子も強制排除する理由がない。大内義隆記の信頼性はどの程度?
      41:14参考:大寧寺の変時の公家の動向一覧
      41:23本当に公家全体への恨みがなかったかどうか?41:23内藤のみが消極的で、陶・杉は殺る気満々だったのか?
      41:35本説に対するその他問題点

  • @user-ip2zz4vi7h
    @user-ip2zz4vi7h Před 3 měsíci +2

    ありがとうございます!

  • @user-pk7ih9ql5v
    @user-pk7ih9ql5v Před 3 měsíci +1

    投稿ありがとうございます。
    内容自体非常に見応えありましたが、○○説を表示する際の演出(?)がセンスあって凄く良かったです✨

  • @user-qc6fb9fj3r
    @user-qc6fb9fj3r Před 3 měsíci +3

    お、これが戦国時代の水谷の変ですか?

  • @wowowot
    @wowowot Před 3 měsíci +3

    why no english subtitles 😢

  • @o-d9242
    @o-d9242 Před 3 měsíci +6

    54:24 でもやっぱり義政はアカンと思う(小声)

    • @user-eg7fc9mk9s
      @user-eg7fc9mk9s Před 3 měsíci +1

      1番の原因は義教だと思う。享徳の乱もそう。
      籤引き将軍だからナメられまいと恐怖政治を敷いてなかったら赤松は暴走しなかったし、山名が増長する事もなかったし、細川持之がバカにされて勝元がコンプレックスを抱く事もなかったよ。
      足利持氏は勝手に暴走したから仕方なかったけど、せめて次の鎌倉公方はさっさと決めておくべきだった。

  • @Glorious-Flottte
    @Glorious-Flottte Před 3 měsíci +1

    某国の禅高『そろそろ誰か儂も再評価してくれんものか』
    ……レビュー、待ってますので。

  • @user-iw3uw8dt9b
    @user-iw3uw8dt9b Před 3 měsíci +1

    超大作!投稿お疲れ様です山口県史史料編中世1所収「大内殿滅亡之次第」に公家にて候一忍軒幷小幡四郎殿・黒川刑部少輔・岡部右衛門大夫・祢宜民部少輔右延・大田隠岐守御かくこに候、とありますがこの史料は慶長二十年二月に多賀大宮司民部太夫言延によって書かれた史料(一忍軒の注釈に持明院基規とはありますが)動画でも触れらてる「一忍軒」とは誰か?持明院基規とするには謎ですね

  • @user-fd1uy4xi8m
    @user-fd1uy4xi8m Před 3 měsíci +5

    非常に面白かったです。
    大内義隆が公家かぶれで遊びほうけて、政治にヤル気を一切無くした無能な将でないことがよくわかりました。
    でもやっぱり無能だと思ってしまいます。その理由は、陶の反乱を防ぐ機会は沢山あったはずなのに、なぜああなるまで何もしなかったかと思ってしまうからです。
    そのあたりまた詳しく動画にしてもらえると嬉しいです。
    そして、気になる人物がもう1人。相良武任。最後の方は、媚び売ろうとして失敗して、逃げてむざむざ討たれるという、良いとこ一つも無い感じです。相良について、もっと深く知りたいです。

  • @user-wb3qi2ew6l
    @user-wb3qi2ew6l Před 3 měsíci +1

    コンラン教授の遷都(行幸)説が、とても興味深いと感じてた所に、将軍黒幕説がやけに説得力あるなぁって、思えて来そうだわ。
    余談だけど、後奈良天皇というと宸筆の般若心経(本物を見たことある)を、各国の寺社に納められたりしてるが、大内氏の献金が役に立っていたのだろうかね。

  • @user-mw9yf5yi9z
    @user-mw9yf5yi9z Před 3 měsíci +2

    博多と銀山もってるのは盲点だったw

  • @user-xi8ip9cl9z
    @user-xi8ip9cl9z Před 3 měsíci +3

    ありがとうございますm(_ _)m
    山口県民にとっては大内義隆は所謂『ヘタレ大名』で信長の野望等々のゲームでの能力が...そして陶は主君殺しの大逆者...時間は掛かるかと思いますが名誉回復して欲しいですね。

  • @koheiimamura2651
    @koheiimamura2651 Před 3 měsíci +2

    家中の利権問題(文治派・武断派の対立、吉見・益田の対立、銀山問題)は変の動機の1つと思いますが、これだけでは義尊と公家衆の殺害の説明が難しいので、そこは別の理由があるとみるべきでしょうね。
    義尊の殺害原因は外戚の大宮伊治と連動していると考えるのが自然。で、大宮伊治個人に原因があるとみるか、大宮伊治を含む公家衆に原因があるとみるかで見解が分かれる感じでしょうか。
    公家衆の殺害理由については山口での節会の計画が関係していると個人的には思います。いくら大内家が金持ちといっても負担が大きいことに変わりはないので、公家衆がヘイトを買うのはやむなしかと。

  • @user-ow1ww6cf7p
    @user-ow1ww6cf7p Před 3 měsíci +5

    幕府関与説面白いと思ったら義晴の死亡から大寧寺の変までに1年以上時間があるんですね。
    この説をとるとすると時間が空きすぎてる気がします

  • @naoki080808
    @naoki080808 Před 3 měsíci +1

    事後の対応からして、将軍にとって義隆は困る存在だったようですね。
    遷都となると後奈良天皇や次代の正統性を脅かすように思えますが、この頃の京からいったん離れたいと考えるのはアリ寄りのアリかなーとw

  • @user-hc3jb1nh6t
    @user-hc3jb1nh6t Před měsícem +2

    河野、尼子、浦上を抑えた上洛説かなあ😂

  • @user-eg7fc9mk9s
    @user-eg7fc9mk9s Před 3 měsíci +1

    歴史解説動画でしかかくさんの右に出る者はいないと思う。このレベルの解説を伊予国などの今までまったく焦点が当たらなかった地域にもやって欲しいかも

  • @user-og8kx4ih7c
    @user-og8kx4ih7c Před 3 měsíci +3

    |ョ'ω'〃)幕府が関与しましたって証拠があるなら何故今まで注目されなかったんだろう

  • @user-yb2kh9nx9j
    @user-yb2kh9nx9j Před 3 měsíci +5

    やったー!!!

  • @user-ts6zb4jz5u
    @user-ts6zb4jz5u Před 3 měsíci +2

    いや、補足の長さじゃねぇよ。
    めちゃくちゃ面白かったけど!!

  • @user-un4le7sl2e
    @user-un4le7sl2e Před 3 měsíci +2

    広大な領土に加えて、明との貿易、石見銀山を背景とする大内家の勢力、その勢力を背景や財力を背景とした朝廷工作による家格や官位の上昇、当事の日本の大大名の一人であったのは間違いないです。ただ大大名ゆえに有力家臣や国人衆の勢力争いや派閥闘争も半端なかったが、歴代の大内家当主は、それらの家臣達の対立を利用しながら、領国支配をしてきたのでしょう。その中での出雲遠征の失敗、石見銀山を尼子に奪取され、九州での戦況もあり、義隆の統率力が低下して有力家臣達の統制が取れなくなり、最終的に乱に至ってしまったような気がします。義隆と正室との間に子供がいなかった事も大きかったと思います。

  • @user-hirotaka0123
    @user-hirotaka0123 Před 26 dny +1

    大内晴英の晴が将軍義晴からの偏諱ならいくら権臣である陶隆房にあげるのは変だね。武田晴信も晴の字は将軍からの偏諱だから家臣にはあげなかった。

    • @SquareDeerHorn
      @SquareDeerHorn  Před 26 dny +1

      「義」偏諱ならその通りなのですが、義晴・義輝期には偏諱のバラマキが行われており、益田藤兼や相良義陽など国衆ですら拝領している人物がいます。
      一方で大友晴英→陶晴賢の偏諱だとした場合、将軍偏諱の又貸しとなり、少なくとも西国では例の無い偏諱となる上に将軍に偏諱の御礼をしていることにも説明がつかなくなります。(そもそも上の字を偏諱に使うのは元就のように理由がある場合のみに限られる)
      そのため、あくまで現状ですが、相良義陽のように陶は将軍の偏諱を受けていたが(仰る通りの)家中あるいは政治的な都合を考慮して使っていなかった可能性が高いのではないかと思われます。

  • @user-mj8vx1dl7t
    @user-mj8vx1dl7t Před 3 měsíci +3

    商の帝辛もボロクソに書かれてるけどな

  • @user-zp7ep4og1i
    @user-zp7ep4og1i Před 3 měsíci +5

    通説は分かりやすく、新説は一定の説得力はあるけど弱い。創作物は通説で作るほうが簡単だからそうなるわな。

  • @user-zz9dr2ib5p
    @user-zz9dr2ib5p Před 3 měsíci +6

    まあ歴史は勝者が作る物だからなあ。毛利が滅ぼした大内を悪く言うのは必然。ただ多数の家臣が加わり国人もクーデターに参加したのは事実なので排除するだけの理由があったのだろう。

  • @user-yb9zu2df5o
    @user-yb9zu2df5o Před 3 měsíci +2

    武断派の陶と文治派の義隆の権力闘争だと思う

  • @user-kf9du6bw8b
    @user-kf9du6bw8b Před 3 měsíci +3

    恒持じゃなくて晴持ね。

    • @yonroku4060
      @yonroku4060 Před 3 měsíci +5

      恒持で合ってますよ

    • @user-kf9du6bw8b
      @user-kf9du6bw8b Před 3 měsíci +1

      それは家康をずっと元康と言うようなもの。大内の養子になってからは晴持とするべき。@@yonroku4060

    • @SquareDeerHorn
      @SquareDeerHorn  Před 3 měsíci +2

      藤井崇氏の研究によると、大内恒持は「晴持」に改名したとされる1539年6月19日以後も一貫して義隆や厳島神社神官・棚守房顕から「恒持」と呼ばれており、「晴持」の名は死後に将軍足利義晴から賜った諡(贈り名)であるとされています。
      「大内晴持」も間違いではないですが、正確には「大内恒持」で間違いありません。

    • @user-kf9du6bw8b
      @user-kf9du6bw8b Před 3 měsíci +1

      @@SquareDeerHorn それは初耳。死後に将軍家から賜ったのは「義房」ではなかったっけ。

    • @SquareDeerHorn
      @SquareDeerHorn  Před 3 měsíci +1

      @@user-kf9du6bw8b 「義房」に関しては当時の史料から一切見えず、かつ諡としても奇妙な名前です(房は大内氏の被官である陶家の通字)。
      藤井氏はこのことから「義房」は大内恒持の弟である「チャチ若君」(実父は一条房冬)の実名が「義房」で、それが混同されたのでは、という仮説を立てています。但しこれはあくまで仮説であるため注意が必要です。

  • @horygrave950
    @horygrave950 Před 3 měsíci +3

    まあよくある別れ話からの喧嘩っすわ

  • @user-mj7nh1cm2b
    @user-mj7nh1cm2b Před 3 měsíci +2

    大内義隆何代目当主❔16代とか8代とか❔こういう所きちんとしてもらいたい。信用出来なくなる。

    • @user-lx8hq4ue8w
      @user-lx8hq4ue8w Před 3 měsíci +14

      ・琳聖太子から数えると31代
      ・在庁官人大内氏24代 
      ・周防大内氏(武士化)16代
      どこから数えるかで違うのよ