前田利家|あいつには絶対敵わない。徳川家康が恐れた加賀百万石の勇将

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  • čas přidán 23. 10. 2023
  • 前田利家は1539年に前田利春の4男として尾張国で誕生しました。最初は織田家の家老・林秀貞のもとで武士として仕えておりましたが、のちに織田信長の小姓となります。当時の前田利家は「かぶき者」と呼ばれており、多くの人からは嫌われたり怖がられたりしていましたが、織田信長はそんな彼のことを気に入ったのです。
    1552年に織田信長と織田信友の間で起きた萱津の戦いで大活躍し元服します。元服した利家は本名の前田又左衛門利家から「槍の又左」という異名で呼ばれ、織田家の中でもどんどん功績を挙げていきました。1556年の織田信勝との稲生の戦い、そして1558年の織田信賢との浮野の戦いでの活躍後、赤母衣衆という信長直属の親衛隊のトップになりました。さらに同年まつという妻を迎え、翌年の1559年には長女である幸が誕生、利家は幸せの絶頂を迎えます。
    しかし、ここで大事件が発生します。まつから貰った笄が拾阿弥に盗まれてしまうのです。拾阿弥とは信長の同朋衆のことです。怒った利家はこの拾阿弥を斬殺、信長はもちろん激怒します。柴田勝家や森可成が利家をかばったことにより、利家は出仕停止処分、つまり謹慎状態となりました。
    1560年に利家は、織田信長と駿河国の今川義元の間で起きた桶狭間の戦いに無断で参加します。また、美濃国の斎藤家との間で起きた森部の戦いにも参加し、足立六兵衛を含む2つの首を取るなどの戦果を挙げました。こうして、信長は利家を許しました。1570年の金ヶ崎での撤退戦では、近江国の浅井長政、越前国の朝倉義景の軍から無事に信長を守り抜きます。浅井・朝倉との姉川の戦いでは退却する味方を援護、一人で敵を食い止めるなどの活躍から「日本無双の槍」と呼ばれるようになりました。
    1574年、柴田勝家とともに越前国での一揆を鎮圧、そして越後国の上杉謙信との戦いでも活躍します。しかしそんな中、1582年に本能寺の変で織田信長が明智光秀に急襲されて自害。その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が信長の後継者を巡って対立し、賤ヶ岳の戦いが勃発します。利家と秀吉はお互い信長から「お犬」「サル」と呼ばれる親友で、利家の妻・まつと秀吉の妻・ねねも仲が良く、家族ぐるみの付き合いをしていました。こうした状況下で、なんと前田利家は戦いの最中に戦場から離脱、越前府中城へ撤退してしまいました。これに動揺した柴田側の軍は崩壊、賤ヶ岳の戦いは勝家の敗北に終わります。勝家は北ノ庄城へ向かう途中利家の元を訪ね、その後北ノ庄城にて自害しました。この後、利家は秀吉に従い降伏し、加賀国の一部も与えられ、居城を尾山城に移したのです。
    こうして利家は秀吉の天下統一に協力することになります。1584年に能登国に佐々成政が侵攻し末森城の戦いが勃発しますが、これを利家が食い止めたことで佐々成政は富山城にて降伏。この働きが認められ加賀・越前・能登の3国を支配する権利を与えられます。これが今に伝わる加賀百万石の始まりです。その後、越後国の上杉家、信濃国の真田家、東北地方の伊達家などと秀吉を繋ぐ役割となり、秀吉の天下統一事業に尽力しました。朝鮮出兵時には、徳川家康とともに秀吉不在の指揮をとるなど、豊臣政権の中でもかなり重要なポジションにおりました。
    1598年、利家は息子の前田利長へ家督を譲り隠居生活を始めようとしますが、秀吉から豊臣秀頼の補佐として徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家とともに五大老に任じられます。秀吉没後、家康と対立する石田三成や加藤清正らをまとめあげ、家康のもとに交渉へと向かうことも行っていました。前田利家がもう少し長生きしていれば、関ヶ原の戦いは起こらなかったかもしれません。戦国時代の中心を生きた人物、前田利家のド迫力な人生を振り返ってみましょう!
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Komentáře • 112

  • @user-zu8sx3us4z
    @user-zu8sx3us4z Před 7 měsíci +19

    前田利家自身が恐いと言うより利家が豊臣恩顧の大名をまとめて家康に対抗されるのを恐れてた

  • @umr1487
    @umr1487 Před 7 měsíci +15

    徳川がもっとも恐れて秀吉が1番信頼した男

  • @ws8892
    @ws8892 Před 8 měsíci +71

    利家は花の慶次を訴えてもいいと思う

    • @user-iu5mi9be9v
      @user-iu5mi9be9v Před 8 měsíci

      漫画の読み過ぎやろ 史実とは違うの知らんのか🤣🤣🤣

    • @user-vf2fd9xm9d
      @user-vf2fd9xm9d Před 8 měsíci

      ​@@user-iu5mi9be9v史実と違うからこそ言ってるんだろ!お前は日本語知らんのか

    • @qq9p9xw9k
      @qq9p9xw9k Před 8 měsíci +9

      @@user-iu5mi9be9v 日本語知らんのかw

    • @user-tk3dt6zn3t
      @user-tk3dt6zn3t Před 8 měsíci +9

      逆に私は前田利家の事を調べれば調べる程一周回って花の慶次の描写強ち間違ってなかったのではないかと思うようになりましたw

    • @umr1487
      @umr1487 Před 7 měsíci +6

      花の慶次はほとんど妄想
      そもそも慶次あんな若くないし

  • @KARAAGA
    @KARAAGA Před 8 měsíci +13

    立花宗茂と前田利家がめっちゃ好き

  • @tomoyaokano1081
    @tomoyaokano1081 Před 6 měsíci +2

    いまいちははっきりしない利家のスタンス徳川と豊臣の間で明確にしなかったことが明治維新で加賀はが表に出てこなかった原因だと思えてならないです。

  • @norihoshiemon
    @norihoshiemon Před 8 měsíci +5

    従者と馬取りの爺やとのたった3名の軍勢が出発点だったことを思えば、さらっと見流してしまうけど凄い出世だったわけよな。

  • @user-dz8cx3eq3f
    @user-dz8cx3eq3f Před 8 měsíci +12

    デカかったみたいだし
    町で暴れてたのもなんとなく納得

  • @famy2989
    @famy2989 Před 7 měsíci +4

    前田利家って結構名前聞いた瞬間のイメージが二極化する事多い気がする
    加賀百万石で五大老の利家想像する人と信長配下で派手で暴れてる利家想像する人で別れる

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 6 měsíci

      秀吉につくか、柴田勝家につくかで迷ってるイメージもある。

    • @user-rz6ik6bh6k
      @user-rz6ik6bh6k Před 6 měsíci

      @@user-mz8fg1st3p
      そりゃ、ご近所さんで家族ぐるみで仲がよく謹慎されてた時も縁を切らず、娘の豪を養女に出すほど仲の良い秀吉と、命の恩人の勝家。
      そりゃ迷うだろ。
      既に秀吉と密約があったとも言われてるが、実際は利家軍も被害が出てることが、資料でわかっているから、密約説も薄い。誘いはあったろうけど。
      玄蕃の中入りと秀吉の大返しで戦線が維持できなくなったから、戦略的撤退をしたんだろう。

  • @user-ws3pg1kb6t
    @user-ws3pg1kb6t Před 8 měsíci +7

    前田利家の所領が少なすぎる。
    越中・能登・加賀・越前・若狭・飛騨の6カ国の180万石くらいないと家康に対抗できないよね。

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k Před 8 měsíci +6

      石高もですが、ぶっちゃけ豊臣ありきの前田利家ですね。ソロバン大名。柴田を裏切り、豊臣から徳川、徳川(幕府)から薩長。侍は侍従関係で成り立っていますから、課題評価かな?と思うかな?上杉からすると、梅は見てるだけですかね?

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 6 měsíci +2

      豊臣家をまとめる能力が家康には所領が生み出す軍事力より邪魔だった。

    • @user-pm9yi4vc7r
      @user-pm9yi4vc7r Před 6 měsíci +1

      秀吉は自分の領地よりも広い領地を家康に与えていたし。

    • @user-bx1vo1uw1n
      @user-bx1vo1uw1n Před 3 měsíci

      ガチのタイマンなら勝ち目ないわな、体格差あり過ぎ ってか 😅

  • @discovery-defender
    @discovery-defender Před 8 měsíci +12

    そういえば、前田利家は「犬」羽柴秀吉は「猿」と呼ばれていましたが、「犬猿の仲」ではなく盟友ということだったのですね。

  • @user-gt8zr9bo4b
    @user-gt8zr9bo4b Před 6 měsíci

    前田利家が、あと5年生きていたら家康の天下になっていたかどうか。

  • @user-so2vt2te3k
    @user-so2vt2te3k Před 6 měsíci

    豊臣家にはおしい方でしたな、あと10年生きていたら、豊臣家は安泰でしたね、秀頼に男としての生き方は利家が武略は加藤清正や福島正則
    内政は石田三成や小西行長がおしえ、軍略は大谷義継が教えていたらとんでもない二代目になってましたね、家康も手が出せなかったろうな

  • @yoshii871
    @yoshii871 Před 6 měsíci +2

    十阿弥の件だけど 大事な嫁バカにされたら よっぽどのことない限り誰でもキレるよね

  • @user-vt8js9nq8i
    @user-vt8js9nq8i Před 8 měsíci +20

    利家さん早く亡くなりすぎて残念すぎる…自分的にはもう少しでも長く生きて前田家をでかくして家康を黙らせて欲しかったなぁ…関ヶ原には勝って欲しかった。

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +6

      軍事的に豊臣が徳川を滅ぼす場合に備えて、前田利家は息子に命じて旧北条家ゆかりの人間を雇いまくっていた。
      豊臣が徳川を確実に滅ぼそうとするなら利家がいなければ不可能だっただろう。

    • @user-ii4gb9mk1v
      @user-ii4gb9mk1v Před 8 měsíci +4

      そして秀頼が産まれずに跡取りが秀次確定で、秀長も長生きしてたら家康も手も足も出なかったでしょうね…そして淀や三成、大野治長も偉くなれなかったし…

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +4

      @@user-ii4gb9mk1v
      大野はともかく、三成は家康も認める官僚でしたから、結局、出世したと思いますよ。

  • @user-yl6ge9bf8v
    @user-yl6ge9bf8v Před 7 měsíci +1

    現在で 例えると?選挙応援🖊️を 先出しする男?
    はーい 登場!(笑)
    これが かぶきもの
    たしかに 現代では 桜を観る会に 招かれましたね🌸🙂

  • @user-th8bi9ib8s
    @user-th8bi9ib8s Před 7 měsíci +2

    がんばったんだね。(*^-^*)

  • @MrRudolf1006
    @MrRudolf1006 Před 8 měsíci +5

    家康いろんな人を恐れすぎ問題

  • @kojimaxmen
    @kojimaxmen Před 8 měsíci +8

    家康が恐れた男シリーズw

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 6 měsíci

      ①今川義元、②武田信玄、③織田信長 ④武田勝頼 ⑤北条氏政 氏直 ⑥真田昌幸 ⑦豊臣秀吉 ⑧明智光秀 ⑨上杉景勝、直江兼続 ⑩前田利家 ⑪本多忠勝 三河武士⑫石田三成 ⑬加藤清正 ⑭福島正則 ⑮豊臣秀頼 ⑯真田幸村 ⑰毛利勝永 ⑱大久保長安

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 6 měsíci

      ⑲黒田如水 ⑳島津四兄弟 ㉑毛利輝元 安国寺恵瓊

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 6 měsíci

      ㉒長宗我部盛親 その他浪人衆

  • @tomoyaokano1081
    @tomoyaokano1081 Před 8 měsíci +2

    秀長亡き後に大和一国と加賀で二百万石くらい無ければ家康と戦うのはキツいだろうなぁ。家臣団が小さい。尾張三河を抑えた家康と戦うのは加賀大和で織田家臣団を取り込んで行けばなんとかなりそうなきがする

    • @user-cm9pq2ix2q
      @user-cm9pq2ix2q Před 6 měsíci +1

      加藤清正や福島正則は利家に若かりし頃から叱咤激励されてて慕っていたから豊家分断はされなかった

    • @yoshii871
      @yoshii871 Před 6 měsíci

      柴田勝家もやられたが北陸道では積雪で蓋されるのかきついよな

  • @rara404
    @rara404 Před 6 měsíci

    とはいえ、前田利家も結構側室がいたような。。。

  • @user-pl7gn2hc7r
    @user-pl7gn2hc7r Před 8 měsíci +9

    正直利家は情勢が徳川に傾いていると思えば普通に豊臣を捨てて徳川に付くと思う、一説では息子に遺言で「秀頼様を守れ、だが徳川が勝ちそうなら豊臣を捨てて徳川に付け」と脈絡の無い遺言を残した説がある
    柴田勝家を見捨てて秀吉に付いた前例があるし若い頃ならともかく年を取ってからの利家はどこまでもお家第一の現実的な戦国大名だよ

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +3

      利家も自分の死を悟ると、自分がいなくなれば前田家に豊臣家の武将を率いる力は無くなると判断したのだろう。
      彼こそ、豊臣最後の守護者だったのだ。

    • @largehill9736
      @largehill9736 Před 8 měsíci +4

      戦国時代を生き残った大名は多かれ少なかれ同じようなものだと思います。

  • @7rx145
    @7rx145 Před 8 měsíci

    尾張時代は町で喧嘩しまくる暴れん坊と言われてるけど、喧嘩相手は誰だろう。
    利家は権力者の息子だったので、同じ権力者の息子たち相手に暴れてたのか、
    それとも権力者の息子だろうが容赦なく喧嘩するゴロツキ相手に暴れてたのだろうか。

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +1

      吉男法師時代の信長に気に入られていたのだから、弱い者いじめの類ではなかったと思う。

  • @user-ys4mf5sj9d
    @user-ys4mf5sj9d Před 8 měsíci +6

    前田利家が領有したのは能登と加賀の一部です。100万石の礎えとなったのは越前ではなく越中です。図が間違っています。

    • @user-bb5bp8wv4b
      @user-bb5bp8wv4b Před 8 měsíci +3

      はい、現在の石川県と富山県ですね。

  • @daisuke5755
    @daisuke5755 Před 3 měsíci +2

    徳川家康からすれば織田信長の重臣だから、常に気を使っていて、頭が上がらないのは当然のこと。

  • @user-do4dx7xt6x
    @user-do4dx7xt6x Před 6 měsíci +1

    北条家を平和に降伏させて開城させた大功労者。
    あっぱれ大名将。

  • @user-fq8ir7el3x
    @user-fq8ir7el3x Před 8 měsíci +7

    前田家第一主義。トップのちょっと下のいい位置いて旗印を鮮明しない日和見大名。戦う気が感じられないし、お荷物大名、扱いに困る大名

  • @小僧
    @小僧 Před 7 měsíci +1

    家康が側室の阿茶の局に、前田のまつ様のような身なりを身につけることを教えた話は有る。

  • @user-gt8wg3kf3b
    @user-gt8wg3kf3b Před 8 měsíci +2

    家康恐れすぎ問題

  • @user-nf2ub4ht1b
    @user-nf2ub4ht1b Před 8 měsíci +8

    一次資料だけ見ると小田原征伐でいっとき秀吉から謹慎処分をくらってからは家康にべったりだよね。
    テレビとか昭和の小説に出てくるような漢気どころか、柴田勝家を平気で裏切ってるし、小牧長久手で家康から本家前田家が騙し討ちされても何のリアクションもしてないし、算盤勘定しか頭にない武将だったと思います。

    • @daisuke5755
      @daisuke5755 Před 3 měsíci +1

      前田利家は秀吉に文句を言える立場の人間なんだぜ?勘違いすんなよw

  • @finger5953
    @finger5953 Před 6 měsíci +2

    裏切り寝返りの53の中の53

  • @user-kl8tg2zc5f
    @user-kl8tg2zc5f Před 6 měsíci +1

    利家って別に京に近い領地で大国で、秀吉に近い人物ってだけだよな。
    もちろんそれが重要ではあるんだけど、一軍を率いての戦績が賤ヶ岳の裏切りと佐々と北条攻めくらいだからなあ……
    万単位の軍勢のぶつかり合いだったら家康には確実に勝てないと思うんだが

  • @user-kq2rg5in8p
    @user-kq2rg5in8p Před 5 měsíci

    信長の弟、稲生の戦いは織田信行ではなかったでしょうか?

  • @sas42kameari
    @sas42kameari Před 8 měsíci +1

    こんばんは。前田利家を拝見しました。地元が石川県なので昔で言うと「加賀前田家」になりますので。。。
    今回は前田利家がテーマでしたね。そもそも石川県民は前田利家公、お松の方と
    令和の時代になってもそう呼んでますし呼び捨ては申し訳ありませんがNGとなります。
    利家公とお松の方はそもそも親戚同士で結婚してますし夫婦仲は最高に良かったと伝えられており
    子沢山に恵まれました。
    織田信長に仕えたのは利家公が1年先輩でしたが年齢では秀吉が1つ上でしたので、
    それもあってかとても仲が良い関係性を築いてましたし互いの奥様方も仲良しで
    まさに家族ぐるみの付き合いでしたね。若い頃から頑なな絆は育まれてましたね。
    「槍の又左」の異名で織田信長の精鋭部隊であった「赤母衣衆」の筆頭として
    馬に跨り(日本馬、サラブレッドではもちろんない)母衣を膨らませそれを背中に背負い
    敵の矢の攻撃から身を守りつつ前線と信長本陣を往復し信長に報告連絡をしていました。
    ちなみにライバルの黒母衣衆の筆頭は佐々成政でした。
    確かに利家公は傾奇者でしたし信長、秀吉、前田利益などが有名でしたね。
    「奇抜な格好と振る舞いが野蛮」だと後ろ指を指されてましたが、自分自身の生き方を
    捨てず信念を曲げず、行動に対してちゃんと責任を自覚し行動していた人達であり
    歌舞伎者とは意味が違い出雲阿国が今日で歌舞伎踊りをしたのが流行り〜それが
    今の歌舞伎の原型とされています。
    家督問題ですが。。。
    前田家の家督は本来ならば長兄であった前田利久でありましたが病弱で戦働きが期待できず
    利久が代わりに連れてきたのが義理の息子であった前田利益でした。
    これを知った利家公は前田家の家督を継ぐ為に信長にお願いした結果、信長の命令で
    「前田家督を利家公にせよ」との事で後を継ぎました。
    この一件が本来ならば前田家を継ぐはずだった前田利益と前田利家の因縁のスタートです。
    信長に従軍し数々の戦働きが認められて能登一国の知行地をもらい七尾城に入城しますが
    七尾城は元々は山城であり防御力は素晴らしいのですが、、、補給に問題ありとの事で
    すぐに居城の変更を決断し小丸山城を築城作業に入りまして
    その最中に起きたのが賤ヶ岳の戦いでして・・・もちろん勝家の北陸攻略軍の一員でしたけど
    秀吉が利家を説得に成功し大恩人、親父殿と呼んでいた勝家を最後に裏切る事になり
    北ノ庄城に火を放ち勝家、お市の方は自刃しましたね・・・
    秀吉は利家公に対して褒賞として加賀一国を与え七尾の小丸山城は完成してませんでしたが、
    金沢の尾山御堂に入城してその城がのちの金沢城となります。
    加賀、能登で当時で言うと確か〜100万石以下でしたし正確には何万石だったか?覚えてません。
    秀吉が亡くなる前に制定した「五大老、五奉行」を持って秀頼が成人するまで合議制を持って
    支えてやってほしいとお願いし五大老筆頭として徳川家康、秀頼のバックアップ役に利家公を
    指名して、秀吉は亡くなる直前に10人集めて一人一人に秀頼の事を頼む!と最後のお願いをし
    胃がんで亡くなりました。
    秀吉が亡くなった事をいい事に家康が好き勝手に動き出しますが事を大きくすると利家公が
    家康への楔になってましたから下手に動く事ができませんでした。
    歴史って不思議なもんで秀吉が1598年に亡くなり利家公が翌年の1599年に亡くなりました。
    家康にしてみたら目の上のタンコブがいなくなったタグが外れたので待ちに待った行動を
    スタートさせます。かつて秀吉が禁止していた項目を次々と破り好き勝手にしていたら、
    やはり目を付けられたのが五奉行筆頭の石田三成でした。
    前田家は利家公が亡くなった後に前田家は徳川家に恭順の意を示すために
    お松の方(芳春院)を江戸へ人質へ差し出しやく16年もの間、人質生活を余儀されますが
    これは徳川家から前田家の家名と知行地を守る為で仕方のないことで・・・
    やはりこれが今後の参勤交代制度の走りじゃないかなって?思います。
    でも、徳川家から常にマークされてまして二代当主の利長公は「鼻毛の殿さま」と
    呼ばれて異常行動を起こす事で徳川家からの監視から逃れていたとも言われてますね。
    金沢城の瓦は全て鉛でできており敵がもし攻めてきた時は瓦を溶かし弾丸を作り隠し鉄砲狭間からの
    火縄銃での攻撃が可能でした。
    前田利家公は明治時代に「尾山神社」が建立され利家公を祀りましたし平成の世にお松の方を
    合祀しましたし、先週その尾山神社で前田家当主の交代式があり18代目から19代目へバトンが
    受け継がれました。
    2代利長公、3代利常公の時代に越中国を知行地として取り込みで、加賀、能登、越中とで
    総石高が約125万石とも言われてますし徳川家が芳春院に対して化粧代として数万石与えてます。
    越前は松平秀康が入城しましたし加賀前田家の監視役でしたね。
    こんなもんですかね〜今回も失礼しました。
    ちょくちょく入ってくると思いますが宜しくお願いします。
    決して私の歴史観を押し付ける気は全くございませんので〜ご安心を。
    ちなみに江戸時代には「藩」は存在してません。
    「藩」は明治に入り廃藩置県で使われた呼称だそです。
    これは尊敬する歴史作家、研究家、多摩学園講師である河合敦先生から直接教えていただきました。
    先生の著書を読んでますし分からないことは先生に直接お聞きしてますので
    間違いはないですね。でも、諸説があり正解がないのが日本史の面白いところですので
    「歴史と遊ぶ」「歴史に学ぶ」は違います。「歴史は疑う事から始まる」とも
    だから日本史が面白いのです!
    失礼しました。

  • @ktdalu
    @ktdalu Před 7 měsíci

    よんねん!

  • @user-nu5zm5dr5z
    @user-nu5zm5dr5z Před 8 měsíci +12

    いや~、家康が最も恐れた男たちの中では、ランク下の方じゃね?

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +2

      いや、あの蒲生氏郷が徳川を抑えて天下を狙えると言っていたのだから、下の方ではないな。
      まあ、秀長ほどではなかったとしても、政治的に秀次に比べられただろう。

    • @user-mg3cn1kc3j
      @user-mg3cn1kc3j Před 8 měsíci +3

      利家わ多くの大名に慕われてたから家康も戦を仕掛けなかったんだよ

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +5

      @@user-mg3cn1kc3j
      さらに言えば、豊臣方では武断派大名と官僚系大名の両方に対する求心力を持っていた武将だったというのも大きい。
      利家がいる限り、家康は豊臣家の内部分裂工作を仕掛ける事は不可能だった。

    • @user-mg3cn1kc3j
      @user-mg3cn1kc3j Před 8 měsíci

      @@tevalleyluckman8746 その証拠に利家が死ぬと家康わすぐに動きだしたしね!戦なれして軍を束ねられる大名わ家康と利家だけだからね!信長の時代から戦してたのって!人望もあり武勇もある利家わ1番の目の上のたん瘤だよ

    • @user-tk3dt6zn3t
      @user-tk3dt6zn3t Před 8 měsíci +2

      @@tevalleyluckman8746 その逸話の元ネタは前田利家の小姓の記した物なので単なる利家ageしたかっただけの可能性もあるので本当に氏郷がそんな事言ってたかは不明です

  • @user-rz6ik6bh6k
    @user-rz6ik6bh6k Před 6 měsíci +1

    自分は利家は、もっと評価されていい武将だと思ってます。
    まず、武力の面
    信長軍が弱小勢力だった時も、戦が強かったのは、側近の部隊が精強だったからと言われてる。その中心にいたのは利家。
    さらに本願寺との戦いで信長軍が敗れて、敗走している時も、殿を務めわずかな手勢で敵を押し留めている。
    この時、信長に「日本無双の槍」「堤の上の槍」と評されている。
    長篠の合戦では鉄砲隊を指揮しており、個の武勇+最先端の戦術を扱える武将となっている。
    今の人が前田慶次に持ってるイメージが、実際はそのまま利家なんだと思うんだよな。
    性格も、豪放ながら、律儀者と言われ多くの武将に信頼されていた。
    家康が秀吉の遺言破りをし、一触即発状態になった時に家康に集まった武将を上回る武将を集め、家康に頭を下げさせ、誓紙を出させている。
    その時に戦っていたら、間違いなく利家が勝っていただろうと思うが、おそらく自分の命数をわかっていたんではないかと思うし、あくまで豊臣政権の安泰を願ったと推察する。
    天下を取ろうと思えば取れたが取らなかった武将は利家くらいでは無いかと思っている。
    本当にもっと評価されてほしいわ。

  • @user-lw4xj3lx4f
    @user-lw4xj3lx4f Před 6 měsíci +3

    秀吉が倒せなかった家康が利家なんて恐れるはずがないわ。

  • @user-ws3pg1kb6t
    @user-ws3pg1kb6t Před 8 měsíci

    前田利家のライバルは堀秀政?

    • @aamaster0509
      @aamaster0509 Před 8 měsíci +1

      久太郎はちょっとしたの世代やから佐々成政あたりやないかな?

    • @user-ws3pg1kb6t
      @user-ws3pg1kb6t Před 8 měsíci

      @@aamaster0509 佐々成政・佐久間盛政・金森長近・不破光治・河尻秀隆あたりかな?

    • @user-ws3pg1kb6t
      @user-ws3pg1kb6t Před 8 měsíci

      @@aamaster0509 堀秀政のライバルは森長可とか佐久間盛政かな?

    • @aamaster0509
      @aamaster0509 Před 8 měsíci

      @@user-ws3pg1kb6t どっちも鬼ですなW、鬼対名人W

  • @lionheart191
    @lionheart191 Před 7 měsíci

    又坐も若い頃は尖がってたからなぁ😅何を盗人猛々しい仕える主君の決済に従うが武家の心得、おぬしのような下賤な盗人には理解できまいがな😛と煽り返して斬りかからせれば無禄の憂き目も避けられたのに😅

  • @DH-km7eh
    @DH-km7eh Před 8 měsíci

    それ〜そーれそーれそ

  • @user-yo5mn6vy6d
    @user-yo5mn6vy6d Před 8 měsíci +8

    前田家は結果的には豊臣家を裏切った 利家公は あの世から 息子の行動をどう思っていたのやら

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci +1

      自分がいない前田家では、三成を憎む加藤清正や福島正則の暴走を抑える事は出来ないと見ていたのだろう。
      豊臣家の勇将が徳川についいた場合、豊臣の天下は失われると見ており、形勢不利ならば徳川の下についても良しと遺言していたのだ。

    • @user-xj7tw7ob9z
      @user-xj7tw7ob9z Před 8 měsíci +7

      自分だって柴田勝家を裏切っているから偉そうなことは言えんよな。

    • @user-gj9hn3zk9y
      @user-gj9hn3zk9y Před 8 měsíci +5

      そもそも利家自身勝家を裏切ってるし、秀吉自身織田家を乗っ取ったわけだし、この時代に裏切りがどうのなどお話にならないな。それに比べれば家康なんて律儀以外の何者でもないが、後世の漫談や小説のせいで古狸イメージが定着。

    • @tevalleyluckman8746
      @tevalleyluckman8746 Před 8 měsíci

      @@user-gj9hn3zk9y それも同感だ。
      秀吉死後の徳川が、君臣一体で豊臣打倒へ舵をきったのも、無策ならば後継者の相続問題を理由に所領を分割されて行く行くは衰亡されるという危機感があったからだ。

    • @user-zu8sx3us4z
      @user-zu8sx3us4z Před 6 měsíci +1

      家康に対抗出来るだけの才覚がなければ従うほうが正しい

  • @user-cf1yn1kj8x
    @user-cf1yn1kj8x Před 8 měsíci

    ばぶ〜〜〜‼️👁️口👁️‼️

  • @nadu5499
    @nadu5499 Před 6 měsíci

    今年、加賀百万石が、地震に見舞われました😢

  • @user-de8fe7bg2f
    @user-de8fe7bg2f Před 8 měsíci +10

    過大評価しすぎ
    勝家軍団の1人なだけ
    自分で勝ち取った100万石では無いし何をした?って言われたら勝家軍団から離反しただけな

    • @user-mg3cn1kc3j
      @user-mg3cn1kc3j Před 8 měsíci +3

      利家わ多くの大名に慕われていたから家康も戦を仕掛けなかった!

    • @hirofumihorio3471
      @hirofumihorio3471 Před 8 měsíci +4

      何もしてないっすよね。たいした軍功もなしで、歴史の題材になる様な人ではないですね。
      五大老で、西軍に付かなかったのが、前田ぐらいで、その他は全部西軍で
      柴田軍団で、秀吉に寝返ったのが前田ぐらいで、めずらしい人ですね。
      なんか常に、強い人に下に潜り込んで仕事というかポジションを作り出すのが美味かった人なんじゃないかと。

    • @user-mg3cn1kc3j
      @user-mg3cn1kc3j Před 8 měsíci +2

      @@hirofumihorio3471 前田利家わ人望もあり戦でも手柄を上げてますよ!だから家康も利家が死ぬまで動かなかったんだよ!

    • @user-de8fe7bg2f
      @user-de8fe7bg2f Před 8 měsíci +3

      前田利家がやったことと言えば、福井県武生の小丸城跡から発掘した瓦に書いてた1000人残虐ぐらいしか思いつかない(笑)

    • @user-tk3dt6zn3t
      @user-tk3dt6zn3t Před 8 měsíci +3

      調べれば調べる程「あれ?」と思う人物ですね
      秀吉に対等な振る舞いしてたせいで怒り買って小田原辺りで改易の危機に陥ってたり家康との対立時も結局自ら邸訪れて和解してる時点で家康に屈服したも同然ですからね

  • @rodokinko
    @rodokinko Před 8 měsíci +4

    自分的には役立たずの代名詞

  • @user-hl3gu2ky1m
    @user-hl3gu2ky1m Před 8 měsíci

    敗走て傾いてないね
    全然だめじゃないの😂
    決断しないで逃げてしまった
    それか秀吉に言われて取り敢えず
    決められないから下がった感じかな

  • @dobakin27
    @dobakin27 Před 7 měsíci +1

    11歳に子供産ませたロリコン 槍の股THE