【消された九州王朝】大宰府は倭国の都だった!?【ゆっくり解説】
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- čas přidán 14. 07. 2024
- 倭国の都は奈良ではなく九州の大宰府にあったという説を、考古学的根拠をもとに解説しています。古代山城が守るものとは、そして大宰府と「令和」の不思議な関係とは・・?
【動画目次】
00:00 オープニング
02:07 遠の朝廷とは?
06:21 太宰府遺構が物語ること
11:10 古代山城が何を守っていたのか?
16:07 太宰府は当時の東アジア最大の羅城だった!
19:35 令和の出典は万葉集
22:45 エンディング
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6.【旧唐書・新唐書】倭国は日本に併合された?倭国は古の「○○国」なり
#ゆっくり解説 #古代史 #九州王朝
動画をアップしていただきましてありがとうございます。福岡在住ですが、太宰府に重要な意味があるのは明快ですね。筑紫国磐井の乱や都督府の碑文など大和王権に対抗する勢力があったのかもしれませんね。
八女の大王(八面大王)かと思います!
都督府の碑文ってなんですか?
九州王朝説として太宰府はありえますね
太宰府政庁跡の裏側に大裏跡という石碑が残っています
もしかして内裏?少なくとも当時の天皇が住まう建物があったと私は考えています
菅原と言う名は福岡市早良区など油山近辺や熊本県や鹿児島県にもその名が残っています
飛梅伝説ね〜道真は陰陽師だったとも逸話があり、連れてきたのかな笑
少し前に人気だった某漫画の五条さん道真の子孫みたいだしね
水城の最下層は西暦200年代の木の断片が出てきたとか
色々面白い地域だし、菅原道真はまだ知らない歴史が埋れていそう
やはり条坊が決手、奈良飛鳥の 「板葺きの宮」などには条坊がなく、官僚の住まいがなくて 税の取立てなど 天皇一人で 出来ない。
西の太宰府 東の前期難波宮が 首都として、相応しい。
【追伸】ある飛鳥ファンの方に条坊がない件を尋ねましたが、藤原宮から通うと回答がありましたが、街路灯のない時代 提灯で官僚が通勤したのでしょうか? 当時朝5時出勤とのこと 雨の日は休みかな。
腕時計のない時代「宮」近くの条坊に住んでないと開門の太鼓の音が聞こえないですよね
日が昇ったら出勤して、仕事が終わったら帰るという暮らしだったようですね。
梅花の宴が催された理由。その直前に長屋王の変があった。大伴氏と姻戚関係があった長屋王の失脚は藤原氏独裁政権への移行の端緒だった。これに対してどうするかを協議する場として開催されたはず。
大伴一族と連携していた佐伯氏と合わせて長門、周防、豊前、筑前の国主が集まった。大宰府の官軍をも擁していたから、都に攻め上れば藤原氏を排斥できた。
しかし、大伴旅人は大納言昇格を取引条件にして都に戻った。その直後に旅人は急死。幼少の家持が継いだ為、大伴一族は没落した。歴史の分岐点と言える。
天神山土塁(水城跡)がある春日市一帯は現在も頻繁に発掘調査が行われているほど古代遺跡が多いですし、阿多隼人族の広範囲貿易といい、古代九州の隆盛は凄まじかったでしょうね。
今は整備されてるけど、小学生の時はよく中に入ってサバゲーとかして遊んでたなあ( ´∀`)
発掘業をしている親戚が、どこを掘っても何か出てくると言ってました。
毎年、時期が来ると太宰府の境内から飛梅が一斉に飛び立つのは、春の始まりの風物詩
宮地嶽神社の松枝餅と大宰府の梅枝餅、どちらが先かという元祖論争があるんですよ。
外野としては美味しいからどっちでもいいけど。
大宰府は防衛の拠点でもあったわけだから、水城や山城で固めるのは理に適っている。刀伊の入寇ではかなり奥地まで攻め込まれている。日本人が千数百人も拉致された事件なのに学校で教えてないようですね。九州は元寇以前にも度々外国勢力に襲われております。
特に壱岐、対馬は本当に悲惨。何度もほぼ全滅させられています。
福岡在住ですが、以前知り合いの不動産業者の人が、旦那さんが大手の建設会社に勤務なさってて、建設工事で深く掘るとあちこちで遺跡らしき物が出て来て、そうなったら何年も工事が頓挫するので、らしき物が見つかってもそっと報告せずに工事を続行するケースが結構あるみたいな話してました。隠蔽された歴史って多いのかも知れませんネ。以前、日本の考古学は、海外と比較して遅れて居ると聞いた事がありますが、余り事実を深掘りされたくない政治的配慮があったような気もしています。
国力を維持するには人口と食料とエネルギー、それに資源が必要だ。
北九州はすべてが近場で手に入る。
現地に立って水城の規模を想像すると、現代のダムを遥かに凌駕する事が分かる。
背後に藪だらけで人の立ち入らない山を背負い、右手を水城に守られ、全面は米の産地の佐賀平野が広がり、その先は不知火の海で大船は入って来る事が不可能、これ程都に相応しい場所は皆無である。
九州北部の立体模型を考えて、何処へ本部を置くかと問われれば百人が百人太宰府と答えるだろう。
魏志倭人伝には正しい回答が無いのは誰も戦略的に重要な都の場所は教えないからで、神武東征や出雲の国譲りが稲佐の浜だった事、奈良周辺に10数箇所の地名一致が見られる事等から九州に都があった事は間違い無いと考えている。
藤原氏が蘇我入鹿を滅ぼしたの際に天皇記と国記を焼いたのもその事実を隠さんが為だつた。
中臣の鎌足が歴史を改竄し・不比等がその仕上げをした。
天皇記、国記共その控えが無いとは思えないから徹底的に焚書をしたのだろう。
それでも神話では九州に王朝が存在した事実は消しきれなかったのだと思う。
日本の歴史研究で、科学的研究を あまり 重視しない傾向が あるのか ないのか? ここが 大切ですね。
権威主義が邪魔してますよね
ありがとうございました😊
倭国の都が大宰府だったといのは説得力がありました。
阿志岐城(あしきじょう)と基肄城(きいじょう)との間に水城?長城?のようなと前畑遺跡から続く城があって大宰府を囲んで守っていたというのは面白い。福岡には年に5回程度訪れており、3月に行く予定なので訪れてみます。
大宰府羅城は、版筑工法の第1期の一番古い土壁は西暦240年頃築造と鑑定されています。
あまり、話題なりませんが。
卑弥呼・台与の時代で、魏国から張政が邪馬台国連合に来た時期と合致します。
これが鑑定が間違い無いなら、これで決着でしょう。
不弥國までしか、里数表示がないことも、倭人が里数をしらない事で、誰が測ったかも解決です。
台与の邪馬台国連合の首脳陣と張政ら軍事顧問団の大本営が有ったから。
当然、支那乃軍事顧問団が版筑工法を教え・指導したし、大土木工事のノウハウも伝えた。
軍事指導等は一朝一夕にはできない。張政は報告のため、とんぼ帰りだろうが、軍事顧問団のどれくらいかは残ったであろう。
太宰府の地形って、海は無いが鎌倉っぽいと感じてしまいます。山に囲まれていて、防御に良く、「計画的に」王都にするのにふさわしいと思います。
ところで、瀬戸内の古代山城ですが、なんか険しすぎて後詰めの城のように見える。当時の戦い方がわかりませんが、素通りされたらどうするのか。大陸の大軍であれば、一部の備えを残して、畿内に進軍すれば良く、どうも山にこもっても役に立たないような気がします。素通りした軍を挟撃するなら、それなりの兵数を各城に配置しないといけないが、どうなのでしょうか。できるのでしょうか。まして海路で素通りされたら湊川の戦いのようにどこかに上陸後に平野で決戦になるのでは?ずっと疑問です。
すごく良い内容だと思いました。
福岡人としましては、「大宰府」と「太宰府」の違いにこだわってしまいます。
諸説あり&今でも研究中ってコトで何とも言えないトコロですが、中世(まぁ、奈良時代前後?)以前は「大宰府」、以降は「太宰府」が多く使われていたとのことで、かつての史跡は「大宰府」、現在の地名や施設などは「太宰府」となっておりますよ♪
そして太宰府天満宮の梅は、本当に「飛梅」が一番に咲いて、その後他が咲き始めるのも、とてもロマンを感じます~~~~❤
首都としての都であったかどうかは分かりませんが、他の地方都市とは別格だったのは間違いないでしょう。
「太宰府」という特殊な役所が置かれ、確かその正規の長官で或る太宰師は親王でなければならなかったはず。だから左遷された菅原道真も大宰権帥だった訳で。
寺院建築に使われた北九州と近畿の尺度が異なっているそうです。
「大宰府」と「太宰府」については、当時の役所・遺跡などは「大宰府」地名については「太宰府」とするのが通例だと思います。(色々難しいところはあるようですが・・・)
ですから、「大宰府政庁」「太宰府天満宮」となっています。
使い分けは難しいですが、太宰府市出身者としてはとても気になります。
詳細は「太宰府市文化財情報」などを参照してください。
同じく太宰府出身者です💖まさに大と太の使い分けには厳しくなります。原稿校正の折に「点とり虫」と化していたのを思い出しました。😂地元ではなんとなく昔都があったんだよねーと当然のように思ってました。吉野ヶ里が発見されるずーっと以前の事ですが。
山城通信所説
瀬戸内海を移動する敵船を山城でいち早く発見し
都方向の山城に、ノロシや鏡で光通信して奇襲を
順に連絡していく。
そして同時に山城を拠点として攻撃し敵を引き寄せ
少しでも敵の侵攻を遅くする。
そんな機能があると予想🤔
転勤民族で 福岡県居たとき何回も太宰府天満宮行きました 倭国の本部だったら凄い
那の津、今の香椎付近にあった拠点から、6世紀辺りに太宰府に移転した。中国の条坊都市を目指したようだったが、どうもそこまで大きくはないらしく、途中で都市の拡張はやめたっぽい。想定された条坊都市は現在の二日市に達するほど大きかったが、そのへんには条坊都市に関係がありそうな痕跡がない。のちに畿内に遷都してから、リベンジで作ったフル条坊都市が藤原京や平城京である。
大和朝廷は701年の大宝元年に始まる。日本書記によると九州王朝からの禅譲という形をとっている。
伽耶=倭人伽耶の最南端が北部九州 賀の付く所は倭人 天日鉾に関係あるのだろう。
太宰府ってここまで大きな都で中枢だったのですね?北九州の人が自慢するのがわかりました!…難波京は何故あそこに移したかと棄てたかがとても興味があるので楽しみです(中大兄皇子的にも)
C14はあくまで材料の年代を測定する方法であり、土器の年代でC14だけを根拠にするのは危険ですよ。
C14年代測定は遺物中の炭素を使います
土器の場合、土器に付着した炭素や土器中の炭素を測定します
日本書紀を読み解くと白村江の戦いの前に水城が完成していたことが分かるそうです。戦いの後に出来ていたとする説は理屈が合わないですよね。考古学のお粗末なことが
よくわかる。だから卑弥呼や邪馬台国がどこかなども未だに分からいことになっている。考古学の学閥が予算のことばかり気にして本来の探求するということを忘れている。
一見尤もらしいように聞こえるんだけど、一番の疑問は九州にそれだけの規模の王朝があったとして、ここまで空気のように消えることができるものなのか?ということ。大和朝廷とは別に存在したということなら結果として大和朝廷に屈したことになり、さすがにそれだけのことがここまで歴史の空白になるとは思えない。
そもそもその頃って斉明天皇が筑紫に自ら出征してたんじゃなかったっけ
だったら大宰府の守りを強固にするのはごく当たり前なことで九州王朝云々は関係なさそう
太宰府二日市の住所に、五條とか条の付く住所が残ってますよ。水城って住所もあります。
「失われた九州王朝」
「大宰府」=「遠の朝廷」=「東夷の朝廷」=「倭の五王の朝廷」とは考えられないでしょうか。
梅が枝餅、冷凍してたから今から食べよう❤
おぉ「太宰府」。個人的には「大宰府」かなぁと思うけれど、よくわからん。
で、倭国の首都説は、アリですなぁ。
前に書いたかもしれんけれど、白村江の戦のあと、太宰府政庁跡地に「筑紫都督府」を設置されてるんだよね。
これは「唐」の記録にはなく、「日本書紀」にうっかり書かれてるもの。
「都督府」が置かれたのは「占領地」ってこと。じゃぁ「誰」が占領したのか? これは「大和朝廷」に他ならない。
唐の記録には百済に「熊津都督府」、新羅に「鶏林州都督府」、高句麗に「安東都護府」を設置してるだけ。「筑紫都督府」は無い。
ということは、、、、占領された大宰府って「大和朝廷以外」の誰かのものだったということ。
「神籠石」ってのが動画にあるけれど、これもミステリアス。
「神籠石」は、、全体的に大宰府を守るように設置されてて、「畿内勢力」に対するものであると思うんだよね。
倭国滅亡後、「神籠石系山城」を「対唐用」に改造したのが「朝鮮式山城」のように思えるんだわ。。そりゃぁ在るものを使うよね。
「白村江の戦い」で負けた国は「百済」「倭」で、勝った国って「唐」「新羅」「大和」だったような気がいたします。
旧唐書の記載された内容から「 妄想 」すると、そう思います。
筑紫都督府というのは初めて知りました。大変興味深いご高説でした。
ただ大宰府が「倭国」の都というのは少し違うのではないかと思います。
邪馬台国は個人的には九州だったと思っていますが、隋書、旧唐書の「倭国」は機内勢力で、この頃の倭国=ヤマトだと思うからです。
倭王武=ワカタケル大王は九州から関東まで影響力がありましたし、年代と古墳の分布を考えても倭国の勢力圏は機内中心であっただろうと思います。
また旧唐書「倭国伝」には「衣服之制、頗類新羅」とあり、親新羅国家だったことが伺えます。
この筑紫国の勢力は親百済で、のちに旧唐書「日本国伝」で「倭国の別種」と記載される勢力ではなかろうかと考えられます。
白村江の戦いの前後から、大和王権の中枢に入り込み、藤原京へ遷都された頃には、「倭国」の勢力図(あるいは外交に携わる者)が「別種の国」と中国人に捉えられるほど塗り替えられていたのではないか、またこの時から機内の最高神が太陽神となったのではないか、と同じく妄想しております。
そしてコメ主様の「都督府」を絡めて考えると、自分達がさも由緒ある大和の豪族であるとして綴った日本書紀には、その視点で元の在地に「都督府を置いた」、という記述になったのだと考えられます。
@@kalno3778 様 返信ありがとうございます。
ワイ的には、まだまだ仮説といった感じです。当然ヌケてる部分もあるのでご容赦のほどを。
で、色々な観点から物事を見るようにしてるんですが、
九州倭国が元々の「本社」であり、畿内に「支社」を置いた「同族企業」のようにも感じるんですよね。
九州「倭」国も、畿内「大倭」も、おなじ「ヤマト」だし。「日本」「邪馬台」も「ヤマト」だしね。
力関係が逆転して、畿内支社の方が優勢になって本社を子会社化したようにも思えるんですよ。
そう、「キエフ大公国」のモスクワ支店である「モスクワ大公国」が、ソ連時代にはウクライナを取り込んだようにね。
つまり今現在「倭国大乱」ならぬ「スラブ大乱」が起こってる。
歴史は繰り返す。
ある時代、ある地域の事柄を「考察」してみて、古代に当てはめて考えると、案外「似てたり」するんじゃないかなぁと。
九州に一定の勢力があったとは思いますが、王朝はないと思います。
大規模な遺跡もないですし。
4世紀には新羅や百済から大和朝廷に王子が人質としてやってきてますので、
九州に王朝があったとしたら、大和朝廷は朝鮮半島へ行くために九州を自由に通過できないと思います。
旧唐書には、倭国と日本はあるいは別種かもしれないと書いてあるだけで、断言されてません。
ちなみに別種というのは、(もともと同じで)別れてできた種族という意味です。
旧唐書に百済は扶余の別種と書かれてますが、百済と扶余がもともと同じ種族なのは韓国の学者も認めることです。
@@user-yo6vh2oi9b
別種の国と「中国人に捉えられるほど」と書いてますけど
断定でないニュアンスが伝わらなかったようで残念です
丁度その頃クーデターが起きていた事は記紀に記されている通りで、大和政権内での勢力図の塗り替えが起こった結果、別の国かと相手を面喰らわせたほど礼儀の知らない外交官に代わったということは、矛盾のない解釈だと思います
それが記紀では「内輪の話」のように書かれていますが本当にそうかは疑わしいと思います
別種の定義もご高説賜らずとも存じております
中国人から観たら倭国も日本国も「倭人の国」でしょう
動画内容が正しいのは明白。
問題は「学者」「学界」が無視・無関心の態度であること。
社会科学までが国粋主義思想に支配されてしまっている。
残念。
これは啓蒙に寄与する動画、勇気ある動画です。
真実を知って自分を見つめなおすのが、日本・アジアに福をもたらすはず。
ちょっとした豆知識。
「梅ヶ枝餅」と言う商品名は、「梅ヶ枝餅協同組合」に加盟している店でないと使えません。
聴いた話ですが、「梅ヶ枝餅」には材料などに細かい規定があり、大きさや味などが店によって変わらないようにしているらしいです。
どこで食べても同じ味しますよね^^
@@Echeneidae
同じタイミングで食べ比べをしていただくとわかりやすいですが、お店ごとに違いはありますよ。
お餅は、もち米と上新粉の比率により食感や味が異なりますし、あんこも甘さの違いがあります。
ぜひ機会があれば、食べ比べされてみてください!
いにしえの半島南部の倭地の勢力が、いにしえの壱大率に間借して半島南部に再起を伺い大和朝廷に力を借りていた?
両唐書にも2つあるような事書いてましたね。
筑紫都督府の碑。白村江の戦いの後、唐進駐軍が倭国の首都・大宰府を占領している。つまり、白村江の戦いに大和王権は関係ない。壬申の乱は九州での出来事。
『遠の朝廷』が校歌に出てくる学校出身です。
インパクトがあるのは、本文と関係ないが、通称ゴリラ山( ´∀`)
斉明天皇が唐・新羅に備えて移った朝倉橘広庭宮は関係あるのかなあ。場所は現在の朝倉市とされているが、物証が出ていないとされている。実際にどこにあったのか太宰府と関係あるのか興味があります。
筑紫君磐井との関連性はあるのかなあ。
60年前の戦地に朝倉橘広庭宮を造営した形になるから。(?_?)
朝倉橘広庭宮の場所は太宰府、小郡の他に朝倉市内に3か所の候補地があります。ただ、宮名の最初は所在地の地名であることが多いので、太宰府、小郡は考えにくい。また、神籠石の配置も朝倉を囲んでいるように見える。朝倉からは、博多湾、有明海、大分方面がよく見えて、南側は筑後川に遮られるので、守りやすい場所だったと考えられます。太宰府は朝倉橘広庭宮が焼失した後に作られたのでしょう。
福岡には怡土城という、日本最大の大陸式山城もありますよ🏯
当時の日本には国がいくつかあり、倭国とは外国から見た総称だったと思います。大和王朝、九州王朝のどちらが正統だったかいうこともなく、政権の定義も今より曖昧だったかもしれません。
ショウウインドウにしていた。見栄を張って倭国侵略の強大さを演出しようとしていた。その前に近畿では鉄生産工場が出来ていた。継体天王は鉄ビジネスで権力を築いたが、秦が乱れた時、此を迎えに行ったのは、継体天王でアル。
紫宸殿移動
太宰府→阿波→京都
倭国と言うよりもヤマト王権の対外拠点および軍事拠点だったのは間違いないでしょう。
分かり良い動画、ありがとうございます。
日本の考古学者は、どうして可笑しなことに執着するのでしょうかね。
可笑しいことは面白いから
え、そっちィ!!?
魏普南北朝時代の中国だね。
そもそも中国側の記録だから必ずしも正確なものとは限らないですからね、だって室町時代の明国側の記録をみても誤写とかが多いらしいですから。
史書の記述を統合すると、古来、日本列島には倭国とは別に古くは女王国、後には日本国があったと解釈できます。
(倭国の中にある伊都国には男王がいて、女王国に従属しているとの事で卑弥呼がいた時代にはすでに上下関係があった。)
そんな中、時代とともに
●倭国の都(宮処や条坊がある京)=九州の筑前・伊都→諸々→筑後・大宰府に変遷。
●日本国の都=畿内の邪馬台(大和)→大阪・滋賀→京都に変遷。
初代の筑紫国造は成務天皇の御代に田道命(孝元天皇の御子・大彦命の5世孫)が任命されたとのこと。
なので、倭の5王とか磐井さんはこの系統の可能性がある。
大宰府が都督府ともいうのは5王が冊封されたことがあったのが所以なのではないかと考えています。
ヤマト国は茨城だけど
は?
仮にそんなに重要な場所ならば、菅原道真公は怨霊になって醍醐天皇を地獄に落とす理由がわからない。
菅原道真公は栄転じゃんw
どこにあったんじゃろうか?
やはり誰もわからないし、
確かな証拠ないからね〜。
道真つわんも怨霊どうたらじゃなかったかしらん?
いつから、勉学の神様になったんだろうか?
大宰府の瓦は藤原宮瓦の退化した文樣です
竝べれば歴然
編年を甘く見ないで下さい
尚、奈良縣川原寺の瓦(660~670年頃)と同じ瓦が1個だけ大宰府から出土しています
教えてほしいのですが、大宰府の瓦から進化して藤原宮瓦になることはないのでしょうか。
無知なので是非、ご教授ください🙇
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文献史學や發掘された木簡・出土建築木材の年輪年代測定法による絶對年代から見て、大宰府や觀世音寺を藤原宮や本藥師寺よりさかのぼらせるのは不可能です
これら4ヶ所の瓦は酷似しており、どちらかが、冩したのは明白です
瓦は型で作りますので、現物の瓦を見ながら型を彫ると文様が逆轉します
大宰府や觀世音寺の偏向唐草文軒平瓦の文様は右から左に向かっており、本來の文様とは逆轉しています
九州王朝の末裔は諏訪氏。
九州王朝が大宰府に都とか妄想と大宰府が大事だから守るって言うのと普通に両立する。大宰府の定説からしても昔から航路して使ってる対馬、壱岐を経由してせめてくるのは当たり前でそれは貿易港兼入国の窓口に奈良から離れた九州から派遣した官人が許可を出す機能があった都市が後の大宰府(総督府の様な相互役所になったから)って言われてるだけで都市の規模も大きい。大宰府を守ってたし、周りを守ったって戦術は当たり前。元寇の防塁どこに作った?九州海外部や、都に作って守ってない。
秀吉の朝鮮出兵は名護屋城どこに作った?船の出やすい海岸部に作った。大阪城や京都なんか作ったの?
結局どんな時代でも都に作らないのよ。必要な場所に作る。資源が無限じゃないから。中国と戦うなら北九州をに駐屯して駐屯施設なんかを作って北九州で戦って、都を結果的守る当たり前な話を導きたいゴールに行くために変な理論つける。
ファンタジー小説が多い。
九州王朝説は都市伝説レベルの話。
大宰府は平安時代に藤原道真を大宰府に左遷した土地でした。
当時【消された九州王朝】太宰府は倭国の都・・・とはかけ離れた辺鄙な土地でした。
道真死後天皇が次々死に災難が続き、道真の祟りを恐れた天皇が大宰府天満宮を造り祭った。その後繁栄した。
従って古代王朝で繁栄した土地ではない。
なんだ?そのロケット三段論法。せめて軌道は計算して滑らかに。
確かに失脚した高官の配流先になってたけど、だからといって辺鄙だったと言うのは無理筋だよ。
藤原純友の乱で焼けたことを除くと、少なくとも平氏政権が役所を博多に移すまでは普通に当時としては大都市だったとしか言いようがないとこだと思う。
またまた、九州王朝があったかのようなインチキ学説ですか。仲哀天皇は筑紫香椎宮に居た事があるし、遣隋使や遣唐使の時代に大和王権によって太宰府が立派に整備されたということはあっても、大和王権とは違う王朝が九州にあり、それが太宰府を都として作ったということはありませんよ。倭の五王や遣隋使の倭国は宋書や隋書の内容からして大和王権で、隋書では明らかに裴世清の一行は畿内に向かっていますからね。やはり、太宰府は大和王権の地方政丁ですよ。
斉明天皇が筑紫に出征してたこともあるからそれなりの重要都市ではあったんだろうけど朝廷視点の立ち位置ではあくまで行宮だろうね