【宋書倭国伝】倭の五王は本当に天皇だったのか?【ゆっくり解説】

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  • @3891871
    @3891871 Před 9 měsíci +17

    これで隋書倭国伝の謎も少し納得出来ました。
    九州王朝が飛鳥時代にも存在していたと思いました。

  • @user-kb3hp2qu8k
    @user-kb3hp2qu8k Před 4 měsíci +2

    配信を、ありがとうございます。

  • @SpadeJack-xq6by
    @SpadeJack-xq6by Před 9 měsíci +10

    次回の動画、楽しみやね。 ところで新羅=シンラ、というのが耳慣れなかったが、調べてみると<新羅の読み方:新羅は一般に「しらぎ」とよむが本来は「シンラ」または「シラ」。日本で“シラギ”というのは、シラに城(キ)をつけてシラキと言うところから来ているという>とあった。 1つ物知りになったわ。

    • @user-do4yq2zz8n
      @user-do4yq2zz8n Před 5 měsíci +1

      ずいぶん前、新羅=シルラと教えられる。韓流ドラマで、新羅=シンラと発音していてがっくりする。

  • @user-gx4pf7ep2e
    @user-gx4pf7ep2e Před 11 měsíci +19

    倭の五王が九州にいたなら「西の六十六カ国」が凄まじく収まりが悪くなっちゃう。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      だから祖禰は半島内で戦の一生を送った人物、尉仇台を指しているとした方が良いと思います。

    • @struts6773
      @struts6773 Před 4 měsíci +4

      このように史書の記述を普通に読めば、倭の五王は天皇、邪馬台国は九州ですよね。

  • @user-xz4tn7dy4y
    @user-xz4tn7dy4y Před 9 měsíci +7

    倭の5王っていうのは、九州の豪族だと思う。日本的にいうと親王とか君とか国造とか。
    日本列島には倭と日本(中国的にいうと倭の別種)の勢力があって、後に日本が倭という集合体の勢力を中央集権の支配下に置いたのでは。
    九州の支配と外交のために大宰府を置くことになったのは理由がある。

  • @to1347
    @to1347 Před 11 měsíci +30

    動画見る限りは天皇家じゃない倭を称する王朝が同時期にあったと考えるのが自然かな

  • @user-td3co7ge2g
    @user-td3co7ge2g Před 4 měsíci +6

    倭国は近畿ではなく、九州王朝。そもそも「九州」という呼称そのものが、九州に国が9つあったからではなく、中国王朝が自身の直轄地を九州と呼んだ(その東を東夷、南を南蛮、西を西戎、北を北荻と呼んだ。)ことに倣い、倭国王が自身の直轄地を九州と呼んだことに始まる。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Před 11 měsíci +12

    高句麗とガンガンにやりあってる最中に、巨大墳墓を作ってる人的余裕は無いって論に同意しかない。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci +4

      畿内勢力って巨大なもの作るの好きですよね。銅鐸、銅剣、古墳…戦艦大和に繋がるんですかね。魏志倭人伝も北九州より東は地名だけで中国も興味ないんでしょう。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie Před 10 měsíci

      ガンガンやり合ってると言っても、実際はただの小さな小競り合いだと思います
      高句麗も東北平原や華北平原の国とどんぱちやってて忙しい ヤマトも日本列島を一応抑えていたとしても、日本各地に割拠してる豪族たちを抑えるためにも、大軍なんて遅れないだろうし

  • @w.bavasi8958
    @w.bavasi8958 Před 9 měsíci +7

    当時の技術ではあとから見れば統一的な王朝が成立していたと見えるようであっても実態として畿内から九州へ集権的な指示が逐一届いていたとは思えんし、
    そもそも今の発想でいう「統一」の意識があったかは分からんから、緩やかな連合意識があったとしても、九州政権は九州政権で勝手に外交をやってたんじゃないかなぁ。

  • @Larphy002
    @Larphy002 Před 11 měsíci +8

    中国の天子への「上奏文」の末尾に
     【倭国王武】と記載していたと
      考えるのが普通で
      名前の中から一字を取るのは
      不自然と考えます。

  • @maruru-t
    @maruru-t Před 4 měsíci +4

    同意ですね。
    九州なら朝鮮南部に近いからイクサなり支配しやすいですし。
    また、古事記日本書紀では漢字伝来は仏教と一緒みたいだけど
    ヒミコも五王も中国に使者を送り上奏文があるということは漢字使ってた、という事。
    明らかに古事記日本書紀とズレていますよね♪

  • @user-ep6yv3nd2p
    @user-ep6yv3nd2p Před 11 měsíci +6

    大変おもしろかぢたです!
    ありがとうございました!

  • @kinjisi
    @kinjisi Před 9 měsíci +5

    個人的に相続する財産を有するような「天皇家」ができたのは天智天武の時だと思ってるから、倭の五王は必ずしも大王ではなかったし系図も適当だと思う。ただ倭王武の例の上奏文は知ってたから、東の英雄と西の英雄でヤマトタケル、なぜ女性なのかはわからないが神功皇后は大王の歴史に組み込んだのかなとも思う。

  • @user-kp1yj5vd9j
    @user-kp1yj5vd9j Před 9 měsíci +5

    この時代を現在の国境線で考えること自体妥当じゃ無いと思います。九州王朝は、九州と朝鮮半島南部を勢力図として、朝鮮諸国と戦っていた。当時の感覚として、これは、外国と戦っていたと言うよりは、新興国の九州朝が朝鮮半島と九州を含めた領域を一つの世界ないし天下と考えて、最終的に九州朝が宗主国となるための一種の統一戦争をしていたのでは無いかなんてと思っています(もっとも既存国の朝鮮諸国は対馬海峡の向こうにはさほど興味なしか。)。本州をどう思っていたのかはよくわかりませんが・・・一種の後背地か、同盟国ないし属国・勢力範囲か、戦力として脅威で無かったのか・・・

  • @user-re2dg4pv5y
    @user-re2dg4pv5y Před 11 měsíci +19

    埼玉の稲荷山古墳の出土鉄剣には471年雄略天皇(とりあえず)に仕えたとあるが、奈良飛鳥を超え既に関東方面まで大和朝廷(天皇家)の支配下にあったのは不思議なんだが🥸❓また熊本江田船山古墳の出土鉄剣にも雄略天皇ワカタケルの銘あり⚔範囲広過ぎ🗾

    • @user-nc3zl8up5e
      @user-nc3zl8up5e Před 11 měsíci

      同時期の新羅の王の王冠に翡翠の勾玉がついている。糸魚川産の翡翠が朝鮮に輸出され、日本が朝鮮の鉄を輸入して、関東から鉄器が出土したというのなら、朝鮮から日本中部・関東に至るまでの流通ネットワークがあったということ。
      韓国人は認めないし、日本の学者も堂々と言わないが、倭の五王の時代の日本は朝鮮半島に軍事的影響力を及ぼしていたのであり、当時の日本の実力を過小評価しすぎ。五王の時代には朝鮮半島南部から関東に至る勢力圏を有する政権が成立していたと考えるべきだろう。

    • @nakagomihiroshi1266
      @nakagomihiroshi1266 Před 11 měsíci +5

      堺と羽曳野には5世紀に造られた巨大古墳があって北九州一帯や奈良には5世紀の巨大古墳が見当たらない のが動画では触れられていませんね。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci +3

      鉄刀は百済から持ち込まれたもので雄略ではなく加須利君、百済王の蓋鹵王(縁起の悪い名前ですね)の事を指しているので大和朝廷の支配地域の推定の役に立たないですが。九州以東は半島の戦乱に巻き込まれなかったので巨大墳墓を作る余裕が生まれたのでしょうか?古代の大規模土木技術集団というと秦氏を思い浮かべてしまいます。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie Před 10 měsíci

      @@user-ub4pg2wm9g
      じゃあその百済人の子孫である日本が、日韓併合を行ったのは、朝鮮半島におこる百済復興になったわけだな これを韓国の歴史系CZcamsrのチャンネルのコメントで言ったら、意外と受け入れられたな

  • @ytsnn3
    @ytsnn3 Před 11 měsíci +8

    次回の動画が楽しみすぎる☺

  • @user-sc1qp1ri5i
    @user-sc1qp1ri5i Před 11 měsíci +14

    倭国→大和→日本と歴史を繋げたのであれば、歴史書の繋がりに少々おかしい点も出てくると思われます。
    当時は各地に有力豪族(大王)が多数存在していたのではないでしょうか。
    壬申の乱後、その有力豪族の乱立状態を終息させた天武天皇の御代に歴史書が編纂され、過去の歴史書は歪められたのでしょう。
    しかしまた天武天皇の系統は孝謙天皇で途切れ、平安京へ遷都し天智天皇系へ戻る。
    桓武天皇は焚書を行ったそうです。
    倭の五王は磐井へ続く九州王朝の大王だった説に1票‼︎

  • @KeCN
    @KeCN Před 11 měsíci +15

    倭の五王は九州王朝の大王でしょう。宗の皇帝に安東大将軍に任命されたと日本書紀に記されていないことからそのように思います。それを日本の歴史学者は一音でも合っていれば無理やりに五王と天皇を比定しようとするところがあさましい。日本の歴史は当時、一番発言力のある歴史学者や団体により作られたいい加減な内容に思える。

  • @user-mp2tz9rr7g
    @user-mp2tz9rr7g Před 11 měsíci +6

    吉備を本拠にした王権の可能性もなきにしもあらず、かな
    あの辺りは大和に引けを取らない巨大古墳が点在してるし、その年代も五王の時代と重なる
    それが九州と山陰山陽を掌握していたとなれば高句麗と対峙する国力としては申し分ない

  • @user-fl4vx1dq4d
    @user-fl4vx1dq4d Před 11 měsíci +8

    まあ偽書とされる松野連系図に思いっきり五王が書かれてるんですけどね
    呉王の子が日本に帰化して筑紫国に住み、その末裔松野連が遺した系図です。
    詳細書いたら動画にできるほど長いので以下略としておきます

  • @user-ye4pm9zu3w
    @user-ye4pm9zu3w Před 11 měsíci +44

    昔からこの五王が天皇である、という説明に違和感があった。というか、無理があるのでは?色々こじつけすぎ。この時代はまだ統一国家ではないでしょうから別政権の可能性高いと思いますよ。

    • @ZunZunZoom
      @ZunZunZoom Před 5 měsíci +7

      だからって「この時代のことは何もわかりません」って教科書に書くのか?
      文献なり考古学資料なりを元に、こじつけでもいいから何か予測を立てるしかないだろう
      歴史学を何だと思ってるんだね

    • @無気力理系
      @無気力理系 Před 3 měsíci +2

      ⁠​⁠@@ZunZunZoom
      大正解
      大学入試社会教えてたけど全くその通り
      俺だって全て真実だと思って教えてないし数学のように必ずしも全てに○×がつくようなものでもない
      ただ、それを追求するのは大学以上であって、あくまで高校以下では有力な説の一つを紹介して「知識」として蓄えておいてほしいってだけなんだよな

  • @user-52-mickey
    @user-52-mickey Před 11 měsíci +22

    今回の動画が正しいでしょうね。
    倭国とは邪馬台国(の後継国)のことで。
    大和朝廷(日の本・ひのもと)が本当に日本国を形成するのは、大化の改新の頃だと思います。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      何故歴史的に古くから半島にある倭国が倭国の女王卑彌呼によって都(5C以前は地方行政区の一、京師ではない)とされた大分の邪馬壹国の後継になるんでしょう。

  • @user-jk3tt1op3z
    @user-jk3tt1op3z Před 11 měsíci +5

    違う国があったと思うとワクワクします。

  • @buke.no.showya
    @buke.no.showya Před 3 měsíci +1

    倭の五王の呼び名の 珍だけは罰ゲーム感あるな

  • @user-gf3pk3lb8r
    @user-gf3pk3lb8r Před 11 měsíci +7

    しかし若しも五王が九州王権だったとするならば、当然それは大和王権にとっては敵となるわけで、記紀の中に九州王権征伐の記録が無ければおかしいのでは……?

    • @suteyone7908
      @suteyone7908 Před 11 měsíci +6

      ヤマトタケルが九州王朝(クマソタケル)を征伐してますよね。

    • @user-mp2tz9rr7g
      @user-mp2tz9rr7g Před 11 měsíci +5

      吉備地方の反乱については書かれてるからそれが大和以外の王権の存在を示唆してる可能性はあるかと

    • @yoshitonakano9309
      @yoshitonakano9309 Před 4 měsíci

      それなら物部麁鹿火による筑紫の君磐井の反乱討伐がありますよ。継体天皇は日本書紀に”即位後20年も大和に入れなかった”など、簒奪を思わせるような記述もあり、
      それを見て”同格以下だった継体天皇の下につくのは我慢ならないし、混乱に乗じて従属の軛を逃れられるのではないか?”と考えて、新羅と組んで反乱を起こしたのかもしれないですね。磐井の墓を実際に見に行きましたが、一地方長官ではなく、有力諸侯だったのではないかと思えます。

    • @user-yc4zc4ts3w
      @user-yc4zc4ts3w Před 2 měsíci

      熊襲健もそうですが、九州に限定しなければ、出雲建、神武東征時の長髄彦等、大和の強敵の例は事欠きませんが。

  • @user-gp3wt2xn8i
    @user-gp3wt2xn8i Před 5 měsíci +1

    「福永晋三」先生の説だと、年号も事象も全て合致します。 Carlos☺

  • @user-td3co7ge2g
    @user-td3co7ge2g Před 4 měsíci +1

    倭の5王の当時は倭国は九州にあり、九州王が倭国王であり、天皇だったのだ。それが大化の改新で日本に併合されたのだ。上宮聖徳帝説にも「近江天皇が〇〇天皇を殺した。」と書かれてある。(〇〇の部分は消されてあるが、「九州」であろう。)

  • @kats.sakuma
    @kats.sakuma Před 9 měsíci +2

    しかし九州王朝説を取ると、西方の征伐の話が矛盾するんですよね。大和なら西方に中四国や九州がありますけど

  • @party7norix
    @party7norix Před 11 měsíci +10

    倭の五王はこじつけで天皇の系図に入れていると思っていた。ほとんど一致しないからだ。 面白かったのは邪馬台国と卑弥呼の系図にその五王がいた事。五王の後に滅びたとしたらその時代の滅びた話は中国の古文書や日本書紀や古事記に載ってないのだろうか?

    • @user-52-mickey
      @user-52-mickey Před 11 měsíci +9

      あります。
      確か、後唐書だったか?
      白村江の戦いで大敗した「倭国」が、それが元で滅んだことが書いてあります。
      白村江の戦いに出兵したのは、大和国(大和朝廷)ではなく、倭国でしょう。
      倭国が滅んだ(弱体化したところを大和国が滅ぼした?)のをいいことに、日本書紀などには大和国が出兵したと書いてるのです。
      歴史は勝者の物とは、よく言ったものです。

    • @party7norix
      @party7norix Před 11 měsíci +4

      @@user-52-mickey 滅んだとは書いてなくて、「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述があるらしいですね。 倭から日本とか書いてあるのたくさんありますが、 倭は倭 日本は昔から日本かもしれないですね。

  • @essauouo5251
    @essauouo5251 Před 11 měsíci +4

    倭と日本ってやっぱり別の国ですよね
    日本・日ノ本と言われる地域って、時代を減るに従ってどんどん北に移り東北を経て最後には北海道の日高地方まで北進してしまいましたが、それでもずっと日本の中心部からみて東の部分を日本・日ノ本と呼んでいたことを考えると、当時の倭人の国々のうち東のほうの国がどっかのタイミングでそれまでの倭の中心地域でthe倭国という感じで外交もしていた国を吸収したという旧唐書的な流れのほうが自然に感じます

  • @user-kv4ql9gw7e
    @user-kv4ql9gw7e Před 11 měsíci +8

    今の主流と言われる歴史観は明治維新以後の天皇万世一系観に大きく影響されていることと、持統天皇と藤原不比等が自らの正当性を大きく取り入れた記紀をあまりに重んじているという問題があるような気がします。もっともっと科学的に解き明かし(そのためには古墳や宇佐神宮の地価調査などの発掘などが必要)、正確な歴史が明らかになる必要があると思います。今の日本に誇りを持っていれば(最近の政治情勢を見ていると怪しくなっていますが)、過去にどういう人の流れがあろうと、また文化・文明がどう伝わろうと関係ないはずですが、なかなか科学的に考えられない人が多いようにも感じます。

    • @mattsong3975
      @mattsong3975 Před 11 měsíci +2

      発掘など宮内庁が許可しないため難しいですね。
      個人について、その先祖の墓を暴くのは、無理筋な話ですね。であれば、皇室についても、先祖代々の墓を暴くようなことは無理筋なことだと思います。

    • @zetumu
      @zetumu Před 11 měsíci +1

      ​@@mattsong3975
      宮内庁の天皇皇族陵指定はいい加減なもので、それ以外は天皇皇族陵だろうと学術的には言われていても、掘り放題崩し放題。
      本当に大事にするなら、取り違えて祀る事ほど失礼なことはない訳で、きちんと科学的にDNA含めて調べて、誰の墳墓か確定させる事の方が大事。
      だがそうさせないのは、明治以降の大和王権万世一系神話を歴史的事実よりも守りたいから。
      科学的に全て調べれば、宮内庁の陵指定も万世一系話もデタラメだと分かってしまうからな。

  • @kooota7455
    @kooota7455 Před 11 měsíci +18

    記紀の年代は不明点が多いけど、土蜘蛛討伐の話(主に九州)が400年代前後の話の様に思う。
    つまり土蜘蛛の勢力が古代中国とやり取りしていても不思議じゃないですね。

  • @user-nc3zl8up5e
    @user-nc3zl8up5e Před 11 měsíci +9

    広開土王碑文を見る限り、既に西暦400年頃には日本に数千~数万の兵力を朝鮮に派遣できる規模の政権が成立している。
    畿内の巨大古墳を見れば、その地域にかなりの規模の政権の影響があったことが明らか。もし、北九州の政権と畿内の政権が別に並立していれば、北九州の政権は畿内の政権への優越性も要求しているはず。また、畿内の政権も対抗して北朝の北魏や高句麗との交渉を持っていたはず。
    それが一切見られないということは、既に北九州から西日本・関東に至るまでの政権が日本に成立していたということだろう。
    九州由来の王朝か近畿由来の王朝かは別にして、五王の時代には既に大和王権に連なる王朝が成立していたと考えるのが自然。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      倭国のロケーションについてですが高句麗東南海中は中国語では文字通り海の中(底)か中国の古の領土意識の表現つまり中国の領土内であると捉えるしかないようです。(海に浮かぶ島国という意味はない)
      高句麗の東南方向にある隣接した国として倭国を捉えるとわざわざ海外への軍事遠征を想定する必要はないでしょう。碑文にも渡海について記述がないです。倭国女王卑弥呼以来百済と共に頻繁に高句麗(南の伯斎国とは別の北の狗奴国)と血みどろの争いを繰り返してきた訳ですが戦況が悪化して支配地を持っていた北九州に倭国・百済は逃れたのでしょう。(日本の支配層を乗っ取りさえした) 後に倭国は日本と同一視されるようになってしまったのが本当ではないでしょうか?

    • @w.bavasi8958
      @w.bavasi8958 Před 9 měsíci

      当時の技術ではあとから見れば統一的な王朝が成立していたと見えるようであっても実態として畿内から九州へ集権的な指示系統が形成できていたとは思えんから、
      既に利害が合えば協力して大規模な兵力を派遣できる体制はできていたとしても、九州政権は九州政権で勝手に外交をやってたんじゃないかなぁ。
      別に今の発想で「王朝統一」をしないといけないというモチベーションが当時あったとは限らないし、緩やかに連合している九州の王朝が称号もらって、
      ええことやん、くらいで特に対抗する必要性を感じなかったり、そもそも正確にその情報が畿内まで届いたか分からんし。

  • @user-pi4sf8hi6x
    @user-pi4sf8hi6x Před 11 měsíci +12

    よくもまあ、大昔の記録が中国には残っているものだ❤

    • @jlzhang3374
      @jlzhang3374 Před 9 měsíci

      中国から来た渡来人による政権が日本に林立していた時代だからな

  • @suzaku-tomotatu
    @suzaku-tomotatu Před 11 měsíci +7

    出雲王朝と言う説は無いのか(笑)

  • @YO-high
    @YO-high Před 11 měsíci +10

    これはまったく動画の通り。ただし、文献の通りならばと言う注釈付き。だがしかし、
    隋書に、倭国のタリシホコが「初めて」シナに朝貢したって記事があるんだけれど、「初めて」ってどういう意味?ってこと。
    魏志倭人伝とか漢書の「帥升」とかを無視して「初めて」と書いてるのは、、「倭国」と「日本」が違うからだと思うんだよね。
    ただし、この考え方は「主流」じゃないらしい。個人的には「2朝説」かなぁと思っております。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      裴世清は(半島内の)倭国から百済~筑紫国にたどり着いた。筑紫国の東は秦王国(夏王朝の人々の国)で、筑紫国より東は皆ツイ(タイ?)国(秦王国)に属する。これが九州王朝(九州に止まらないが)の正体で、後に百済王族に乗っ取られて大和王朝になったようです。面白いのは北九州をかつて支配して来た半島勢力(倭国・百済)vs日本(秦王国、後の大和王権)という図式でしょうか。

  • @dolphinthrough6606
    @dolphinthrough6606 Před 11 měsíci +28

    この時代は頻繁に半島へ渡れていたのに、遣唐使の頃は船が朝鮮半島へ辿り着くのが極端に難しくなってしまっている。

    • @user-vo6kz2co2x
      @user-vo6kz2co2x Před 11 měsíci +8

      疑問ですよね

    • @a378685085
      @a378685085 Před 11 měsíci +25

      "白村江の戦い"の後に日本と敵対関係にあった新羅が朝鮮半島統一をしたのが大きいというのが通説みたいです。
      両国間の緊張関係の影響で壱岐・対馬・朝鮮半島ルートが利用できなくなったというところでしょうか。

    • @user-52-mickey
      @user-52-mickey Před 11 měsíci +7

      遣唐使は主に今の上海に上陸して長安に行ってました。

    • @user-vo6kz2co2x
      @user-vo6kz2co2x Před 11 měsíci +6

      @@user-52-mickey 揚子江から入って運河で黄河まで航海すると長安は割りと近いんですかね
      比べ朝鮮半島沿い安全航路を行って上陸しても陸路が長いんでしょうかね

    • @user-nq1je8wp4g
      @user-nq1je8wp4g Před 11 měsíci +5

      後期の遣唐使は正式な朝貢使節として唐皇帝による正月の朝賀の儀に参列する為に、季節風の風向きが悪く台風の怖れもある旧暦の7月頃に出発し、帰国時もこれまた季節風が逆風となる旧暦10月頃に唐から出発するから、往復ともわざわざ条件の悪い中の航海を強いられたから。初期の遣唐使は朝鮮半島沿岸ルートを使えたことと朝賀の儀には必ずしも参列しないから、季節風の風向きの良い時を選んで出発していた。

  • @ch.8194
    @ch.8194 Před 11 měsíci +3

    倭国と大和は別の国なのかなあと

  • @user-fk5kf9nm9z
    @user-fk5kf9nm9z Před 11 měsíci +2

    古事記崩年干支から逆説的に倭の五王を特定していくと、ピタリと天皇の年代が合うことはご存知でしょうか?
    古事記から宋書の五王を当てはめると、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略の時代に当たります。
    宋書の記述を良く読むと朝貢から官位授与までに数年のタイムラグがあることがわかり、朝貢と官位授与まで同年の出来事でないことは安易に想像出来るかと思います。
    つまり宋書に記述されている年代には数年前の出来事も含まれていることになりますので、それらを考慮し年代を考える必要があるかと思います。
    そこで疑問に残るのは、倭王の名前が記されていない「元嘉七年春正月 倭國王遣使獻方物」の430年の記述でしょう。
    朝貢記録のみで官位授与はされていませんので、他の記述とは異なり430年に倭王が朝貢したことは間違いないでしょう。この年代は履中天皇の時期にあたり、讃、珍の間にも倭王がいた可能性を想像できるかと思います。
    宋書では、讃の弟が珍となっていますが、宋側に珍が前王の弟という情報だけしかなければ、讃(仁徳)の弟が珍(反正)になるでしょう。
    逆説的に言えば、宋は讃(履中)の存在を理解できておらず、履中の弟=反正(珍)が欠落したとすれば、全て古事記崩年干支通りになり、歴史的な矛盾は無くなります。
    もう少し日本の史書も信用して良いのではないかと常々思うところです。

  • @mattsong3975
    @mattsong3975 Před 11 měsíci

    2:35あたり、六国には動画画面にある「伽耶」が含まれてないですね。しかし、本拠地の「倭国」は含まれてます。宋書では書き落としのように思えてしまいました。
    なお、都督には、どこの道を担当しているか明記してませんが、その代わり管轄範囲の六ケ国の名が続けて書かれてるのですね。
    他方、使持節と諸軍事には、管轄範囲は明記されていないような感じですね。

  • @user-io6rp5gs9k
    @user-io6rp5gs9k Před 9 měsíci +1

    倭の五王が日本書紀を纏めた系統と違うとしても、非大和=九州とはならない。出雲や吉備、丹波、越でなく九州とすると、東西の国々の基準がおかしい。

  • @user-kc3nw9uy4d
    @user-kc3nw9uy4d Před 11 měsíci +9

    面白い説ではあるけど、推測・考察だけでエビデンスがないから想像の域を出ないよね。。。
    歴史書を読むだけでは限界があって、言語学、考古学、植物学等の知見を領域横断的に動員しないと現在の説を覆すのは難しい。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci +1

      日本語で中国語の漢字を解釈している事も問題なんですよね。どちらかというと中国語は文法も英語の方が近いし中国語の行くは英語のgoと同じ意味で日本語だと去る、離れるの意味ですし、この時代は倭国が日本の事を意味するようになる過渡期の話なんで複雑です。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie Před 10 měsíci

      戦後研究が自由になって、こういう動画みたいな説を学者がこぞって出したけど、反論されたりで、結局既存の説の方が今の所有力なんでしょうね

  • @ranger8599
    @ranger8599 Před 11 měsíci +3

    「武」は雄略天皇だと思う。ただし、記紀の記述と20年ほどズレが発生することになるが、これは記紀の雄略天皇没後の記述が20年分ほど書き足されているからではないかと思う。
    20年ほど書き足されたと想定して、20年さっぴいて継体天皇以降の歴史を見ると、天皇の年齢的にしっくりくる。書き足した理由は、雄略天皇から血筋的に遠い継体天皇が皇位に就くこと正当化するため、混乱の時代を記紀上で創作したのだと思う。
    しかし、「武」を雄略天皇とすると「興」「済」まではヤマトの王で説明がつくが、「 讃」「珍」は説明がつかない。「 讃」「珍」は日本国内の別の王朝の王だったのではないかと思う。
    5世紀前半、ヤマトの王は、巨大な古墳を作ることで勢力の大きさを誇示し、周辺勢力を従えていたが、同時期、中国の王朝から、後世の「征夷大将軍」のような官位を得ることで周辺勢力を従えていた王朝もあったんじゃないかと思う。
    そして5世紀後半、巨大古墳の建造に疲れたヤマトの王がそのやり方を取り入れたのではないかと思う。

  • @cvsq-xy8fo
    @cvsq-xy8fo Před 6 měsíci

    倭の五王は甕棺墓
    阿波の最古の古墳は水銀朱で赤く染めた石積みの石室だから別系統かと
    皇室の系統も石棺ではなかったかな

  • @user-uv9ok7ss5i
    @user-uv9ok7ss5i Před 11 měsíci +21

    卑弥呼が必ずしも天皇系譜の中に記されていなくても違和感は無い。倭国には当時、男王が居て…とあり、仮にこれを初期皇統とすれば、卑弥呼は複数個の首長勢力によって外部から招聘されて共立されたものであり、且つ、その子は居なかった。卑弥呼という呼称は個人名でないのは明白だが、そのような一時的な祭祀者を、初期皇統系譜に組み込まなかったとしても不思議ではない。最近のこの手の議論は先に結論ありきが多い。実際はもっと複雑であったと思う。倭の五王についても通説を覆そうとする余りに不自然な説が多過ぎる。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      元々倭国は山海経の意味するように蓋馬大山の南、で高句麗の東南海中(海中は海の中ではなく、中国の領土内の意)とすれば倭国のロケーションは昔から高句麗と隣接していおり日本と関係ない話、献上品の内容も日本側として不自然で半島内の倭国は次第に弱体化していき百済王が倭国王を自称していたのではないでしょうか。ワカタケルも雄略ではなく鹵の字が見られる事、時代的にも合致する蓋鹵王の事だと思われます。鉄刀銘の上祖と上表文の祖禰が同一人物とすると面白いと思います。最初から倭国や倭人が日本と日本人を直接指す訳ではないのでしょう。

  • @user-rm8jn2qd2c
    @user-rm8jn2qd2c Před 11 měsíci +1

    昔は基本手書きだから書き間違い書き写し間違いとかありそうだけど。 取り上げられた時代の当時は知らないけど中国は歴代皇帝の名前と同じ字を使うのは畏れ多いから別の字に置き換える習慣がなかった?

  • @ytai4108
    @ytai4108 Před 11 měsíci +2

    百済は認められなかったのくだり、ちょっと中立じゃなくね?

  • @user-ct8fk3cx8t
    @user-ct8fk3cx8t Před 11 měsíci +16

    まあ、中国からしたら九州の政権か大和政権の区別なんて正直区別つかんだろうしね

    • @user-52-mickey
      @user-52-mickey Před 11 měsíci +10

      そんなことないでしょ。
      区別付いてたから、白村江の戦いの後
      唐は大和朝廷(日の本・ひのもと)に攻めて来なかったし。
      遣唐使を受け入れてました。
      聞いた話し。
      唐の皇帝の前で
      「我こそ(今の)日本の使者」
      と、倭国と大和国の使者が言い争いをしたとか。

    • @straight1208
      @straight1208 Před 2 měsíci

      郭務悰が2000人率いてきてるよね
      使節の規模じゃない

  • @user-wy7qb3ow2s
    @user-wy7qb3ow2s Před 11 měsíci +1

    珍は王+尓で書くことがある(天台宗の円珍がこの書き方をしてる)ので、弥と書き間違えたんかな。
    文字の読み間違い書き間違いは古来結構ある。国字の「畠」も、中国から渡ってきた書物に「白田」とあったのを一文字と間違えた結果出来た字と読んだことがあるし。

  • @oomorisoumen
    @oomorisoumen Před 10 měsíci +1

    とりあえず北九州だけやなくて出雲や若狭やもしかしたら越後にも半島からの船を迎える港があった。これら日本海岸諸勢力と瀬戸内海勢力と九州勢力。日本海岸勢力と瀬戸内海勢力を結びつける地理的位置に大和勢力がある。
    北九州勢力の首長に外交の強い権限があっても自分はおかしくはないと思う。
    何故なら向こうから来る分はいいが、こっちから中国に行くには九州からの半島ルートがメインにならざるを得ない。そして皇帝に対して条約を締結するなら王の身分くらい無ければ話にならないから。
    大和は国内統治には良い土地だが対外的には適してはいない。そのため北九州勢力は強い権限と力を有し、元々は同族でありながら反乱勢力予備軍であり続けたと考える。
    27:15

  • @f7349
    @f7349 Před 11 měsíci +3

    倭五王の中国側の家系図と日本の歴史書の天皇家の家系図と一致しないらしいから天皇家じゃなくてもおかしくないと思う

  • @GINZASAKUSA
    @GINZASAKUSA Před 5 měsíci

    時の事情から当時の天皇か使者でしょ。
    言葉の壁で行き違いがあっただけでしょ。

  • @struts6773
    @struts6773 Před 4 měsíci +1

    毛人=毛野氏かな?

  • @user-ho9rf2tq6t
    @user-ho9rf2tq6t Před měsícem

    ワカタケル、雄略天皇である。答えは出てる。

  • @user-so2qn8tx8c
    @user-so2qn8tx8c Před 9 měsíci +1

    そもそも、天皇は王じゃないからな。

  • @user-gz2ty9ob6j
    @user-gz2ty9ob6j Před 11 měsíci +3

    当時は九州には九州王朝があったようで、記紀では九州王朝は貴国と呼ばれていたとあります。また畿内には邪馬台国の崇神王朝があり、九州王朝の貴国と邪馬台国の崇神王朝が並立していたようです。九州王朝貴国の大王武内宿禰が三韓征伐して三韓の王となり、その後畿内の邪馬台国崇神王朝を滅ぼして、河内にヤマト王権が成立し武内宿禰は応神天皇となったようです。てすから応神天皇の子孫の仁徳天皇などが倭の五王で良いのではないでしょうか。阿波風土記には最初の国は邪馬台国でそれを後から来たヤマト王権が簒奪したと記録があるそうです。

  • @mecom3450
    @mecom3450 Před 10 měsíci

    13:25
    四国を中心に考える説もあるようです
    czcams.com/video/3jVLOPzCxS4/video.html

  • @user-bc5ip6lz2v
    @user-bc5ip6lz2v Před 5 měsíci +1

    朝鮮半島に倭人の国が存在し、そこの統治者だったって説もあるぞ

  • @user-wd4jd5si9l
    @user-wd4jd5si9l Před 3 měsíci

    倭の五王の武は東征、雄略天皇の東征。

  • @user-bh9dn3tg9v
    @user-bh9dn3tg9v Před 6 měsíci

    13:28 「西方では、衆夷の六十六か国を服属させ」これって近畿や中部から見ないと中国地方や四国に当てはまらないが?

  • @gray-50-cent
    @gray-50-cent Před 9 měsíci

    卑弥呼の宋女「壹与」(イヨ)と言いましたか😊❓「邪馬壹國」(ジャバイノクニ)ジャワ島方面から来て『漢』に使え、後に「公孫」の氏を下賜された一族🦆😄❗ 👽

  • @murt2286
    @murt2286 Před 11 měsíci +14

    倭国は九州でしょう。奈良には別の国があったでしょうね。

  • @tt-yz2pf
    @tt-yz2pf Před 9 měsíci +2

    厩戸皇子(聖徳太子)が「天皇」ではなく推古天皇の「摂政」として実質「倭国王」として隋帝と交渉していたように,五王はあくまで当時の為政者であり,後に天皇になった人もいるだろうが必ずしも天皇としての兄弟,親子関係が一致しないのも当然のこと。
    また為政者(倭国王)は中国の王朝から将軍位を受けるのとは別に天皇から為政者としての任命を受ける立場で,すなわち天皇は中国の皇帝と同じ位か,神であるのではるかに高い位の立場。

  • @flat1701
    @flat1701 Před 11 měsíci +2

    五王が九州王朝だとすると、九州から新羅あたりまでを実効支配していたことになって違和感がある。
    一方、新羅かその付近の国が倭を含めた範囲まで僭称するのは腑に落ちる。
    中国から見て奥にある国が手前にある国の支配を宣言するより、手前の国が奥にある国の支配を宣言するほうがそれっぽい。特に構想を先に宣言しているなら。
    ただ、新羅の記録とも一致していないしどこの国とも言い切れないのは説として弱い

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      良い視点だと思いますが倭国王=百済王とすると上手く合致するんです。倭国は高句麗に隣接した国で百済とは関係が深いので。倭国の女王卑彌呼は公孫氏なりと解釈した方が自然な資料(晋書)が存在し、公孫度が娘を嫁がせた百済王尉仇台の事を考えると類推出来ると思います。

  • @user-cf5qr5ue6n
    @user-cf5qr5ue6n Před 8 měsíci

    日本人の名前として違和感ありますけど。珍、せい

  • @user-fs3jf7il5i
    @user-fs3jf7il5i Před 11 měsíci +5

    そら九州王朝の実在が証明されてないからな

  • @shion2085_bluerider
    @shion2085_bluerider Před 9 měsíci

    この時代は本当に興味深いですよね。しかし、日本書紀や古事記に記述がないからと言って倭の五王が現在の皇室と関係がないとは言えません。むしろ書いてないことが逆に同じだと証明する事にもなりえます。日本書紀の編者は舎人親王で天武天皇の息子です。という事は先代は天智天皇で白村江の戦いで唐と戦っています。倭の五王の記録は中国にしか残ってないが、もしかしたら日本にもあったけど7世紀の日本で、しかも日本書紀を編集する数樹年前に戦った中国の官位を貰って喜んでいた事を、果たして書くだろうか?先祖の事だから逆に書けないという論理も成立する。年代はあの時期は有って無いようなもので、むしろ武と雄略の一致などは誰が見ても確率高い。唐と一戦交えたあとに、先祖が中国の官位をもらったとは書けない。

  • @user-nk6jy6vq3q
    @user-nk6jy6vq3q Před 10 měsíci

    単に大和王朝の天皇の在位が不正確なだけだと思うよ、中国と敵対して負けた直後だし古事記等に昔は中国に朝貢してましたとも書かなかっただけかなぁ

  • @user-xd5fd6bj4c
    @user-xd5fd6bj4c Před 11 měsíci

    ほん怖五字切りみたいな王だな😂

  • @user-qo8bp1hh9v
    @user-qo8bp1hh9v Před 11 měsíci +2

    むしろ「倭の五王」の記録があるからこそ九州王朝説に違和感を覚える。
    朝貢の見返りに得た名ばかりの称号だとしても朝鮮半島南部の諸国(百済除く)に対する軍権を認められるからには、当時の「倭」には半島に兵を送って軍事行動を取れるくらいの国力が備わっていたと考えられる。
    しかし、九州全土を領する程度の国力で、そう頻繁に対馬海峡の向こうへ派兵して武威を示し続けることが可能だったのだろうか?
    九州王朝の「倭」とは別に東に「大和」が存在するとしたら、そちらにも意識を割きながらの半島進出は容易ではなかったと思うのだが。
    白村江の後、海賊の跳梁跋扈(幾度かの入寇はこちらに含める)はあったにせよ、近代までに対馬海峡を跨いだ国家規模の侵攻作戦は元寇(中華統一前後)と文禄・慶長の役(天下統一後)のみ。
    古代に朝鮮半島へと乗り込み好太王碑に記録される軍事活動を行うまでに至った「倭」の国家規模は果たして?

  • @tomoyaokano1081
    @tomoyaokano1081 Před 11 měsíci +2

    普通に考えて天皇に繋がるのが無理がある。倭の五王なんてただの豪族だったのでは?九州の豪族を戦前の皇国史観で倭の五王につなげたと思えます。神武天皇なんていたのかも怪しいのに。

  • @tenjan97
    @tenjan97 Před 10 měsíci +1

    倭の五王は日本ではなく、中国大陸の倭人では?

  • @user-hj6ue6pr3d
    @user-hj6ue6pr3d Před 11 měsíci +13

    倭国の首都は大宰府。白村江の戦の後、大宰府に筑紫都督府が置かれた。首都占領です。大和王権は白村江の戦と無関係。壬申の乱は九州での出来事。倭国と大和王権の統一は8世紀。倭国が大和王権を飲み込んだ。福岡(平城京)から奈良(平城京)へ遷都。和気清麻呂がなぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮に行ったのか考えればわかる事。

    • @ch.8194
      @ch.8194 Před 11 měsíci +10

      その後の大宰府冷遇(地方化、僻地化)はどうしてなのよ?逆だと思うな、大和が倭国征服か…同化していったんでないの

    • @user-hj6ue6pr3d
      @user-hj6ue6pr3d Před 11 měsíci +4

      @@ch.8194 大宰府は天智系にとって忌み地だからです。倭国は西を治める天武系(本家)と東を治める天智系(分家)の二人の天皇がいました。白村江の戦は天武系が主戦派で天智系は従属したにすぎません。海人と言われた倭人の軍が数にまさる陸軍国の唐・新羅連合軍に海で負けるわけがありません。関ヶ原の吉川広家のように天智が裏切ったので負けたのです。三笠水軍と遠賀水軍が出陣しましたが三笠水軍が壊滅したのに遠賀水軍はほぼ無傷で帰国しました。筑紫都督府を設置した唐占領軍は、天武に拝謁させ天智には謁見しています。一回り以上年下の天智を兄のように従えと天武は言われています。主従が逆転したのです。唐占領軍が帰国すると天武はすぐに行動を起こします。憎い天智を倒すために壬申の乱を起こします。結果、天智は破れ入水自殺します。天智の一族は大和王権のある奈良に逃げます。倭国統一です。その後、天武天皇は草薙剣の呪いで死んだと言われています。えっ三種の神器の呪いで天皇が死ぬなんて?現在の天皇家は天武系の天皇の祭事は一切行っていません。時がたち、大和王権の跡継ぎが途絶えました。同族である倭国の天皇家に統治をを依頼、九州のように火山の噴火に悩まされることのない奈良に来てはどうかと。武力で倭国と大和王権が統一された痕跡はありません。福岡から奈良に来るときに大仏を持ってきたかも?まもなく天武系も跡継ぎが途絶えました。苦節100余年、天智系の光仁天皇の誕生です。大宰府?なにそれ・・・です。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie Před 11 měsíci +13

      それを学会で発表して下さい。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      曹魏以来北九州の支配を認められた倭国、百済、高句麗と血みどろの争いをしている古代以来の半島の内部抗争の話、弱体化していった倭国王と百済王は一体で結局半島から追い出されてもはや支配力を失った日本に逃げてきた。逃げた先の日本が後に倭国と呼ばれるようになったと言うのが真相ではないでしょうか?

    • @otomioomiya2644
      @otomioomiya2644 Před 10 měsíci +3

      @@RR-pm8ieさん 上記のお説に近い北九州の古代史研究会では福永氏を中心に地道に公開講演、書籍等研究報告を数十年続けておられますね。ただ在野であるため通説主流の学会は見向きもしないのが現実。また、その他四国、北陸方面などからも魅力ある説も多いですが同じ扱いをされています。 少なくともこの時代主流の通説とされている学説はこれら多くの研究学説の高レベル化により今や通説近畿学説は古代史の一説に過ぎない立場に位置付けられている印象です。学会で発表しろは適切ではありません。

  • @user-jd7nt4ys8i
    @user-jd7nt4ys8i Před 11 měsíci +4

    倭の五王、武がワカタケルが確定。それは突き崩せてないぞ

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci +1

      あの鉄刀銘なんですがワカタケルと読めないのはご存知ですよね。そして珍しい鹵の文字を含む王といえば百済の蓋鹵王の方が時代的にも記述内容上も問題ないんです。百済王が倭国王として中国に使いを送ってるだけです。

    • @otomioomiya2644
      @otomioomiya2644 Před 10 měsíci

      @@user-ub4pg2wm9gさん 興味あるご指摘ですね。当時の倭国、&その他有力国と百済の関係、まだまだ解明領域広そうですね。ご存じのように 百済は元3系統それが2系統の兄弟国として、やがてやや複雑に倭国(上記総じて日本という意味で)に関わった視点の学説もありで韓国の学説や日本では兼川晋、福永晋三氏ら著作などからの倭の五王新解釈が自分には新鮮。

  • @user-zt7zk5df3c
    @user-zt7zk5df3c Před 11 měsíci +2

    別に5王が天皇だったなんて思っていないよ だって同時に5人が天皇になる訳ないから 主さんの勘違いでしょ

  • @user-tl2gh6qx2v
    @user-tl2gh6qx2v Před 11 měsíci +1

    おいおいおいおいw
    中の国は都合の良い事しか言わないんだらから信じたらあかんのちゃうんか?www

  • @katumoku10
    @katumoku10 Před 11 měsíci

    倭の五王は記紀にある履中天皇から雄略天皇までの五人の天皇で間違いないですよ。
    日本書紀は藤原氏が天皇を隠しましたが、古事記の崩年干支は暗号でした。隠された天皇が居ますので、宋書の系譜が正しいと分かりました。詳しくは「「刮目天の古代史 空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」」をご参照ください!隠された天皇は応神天皇の皇太子だった人物です。
    豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者宇治天皇の母は、卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘(^_-)-☆です。藤原不比等はこの事実を隠さねばならなかったのですよ。詳しくは「日本の古代史が謎な理由?」をご参照ください!お邪魔しました(^_-)-☆

  • @user-kl2fg9yv9h
    @user-kl2fg9yv9h Před 11 měsíci

    この音声と、テーマが合ってません。非常に聞き取りづらいです。いや、聞こえるけど、心地よいとは言えないです。残念。

  • @ayrtonbaggio4293
    @ayrtonbaggio4293 Před 11 měsíci +1

    左翼学者、以上

  • @user-hs6oz7dn2g
    @user-hs6oz7dn2g Před 11 měsíci +2

    和は九州のあたりの話でしょう。

  • @user-tq7tm3mi7b
    @user-tq7tm3mi7b Před 11 měsíci

    倭王武上表文はその祖先が①東に55国②西に66国③北の海を渡ってして95国 を征服平らげたと書いてる。畿内から東西に広がって渡海してまた半島南部の国を平らげた記紀の記述と同じだから矛盾がない。

    • @user-ub4pg2wm9g
      @user-ub4pg2wm9g Před 11 měsíci

      上表文の祖禰と鉄刀銘の上祖オオヒキが同一人物だと面白いですね。尉仇台の夫余での呼称がオオヒキで良いんでしょうか⋯。王子の1人ハテヒも百済独自の漢字が含まれてますね。

    • @gray-50-cent
      @gray-50-cent Před 9 měsíci

      「扶餘」の歴史はウガヤ王朝史を『創作』する時の後半部分のモデルでSHOW⁉️ 👽