戸次川に散った『長宗我部信親』智勇兼備だった若武者の戦いぶりとは
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- čas přidán 24. 07. 2024
- 織田信忠や豊臣秀頼など、
若くしてなくなった人物がもう少し長生きしていれば…と、多くの歴史ファンは感じていることと思います。
今回ご紹介する長宗我部信親もその一人ではないでしょうか。
智勇兼備の若武者として将来を嘱望されながら、戸次川の戦いで散ってしまったわけですが、
もし彼が生きていれば、長宗我部氏の運命も違ったものになったのかも知れません。
信親は22年という短い一生の中で、多くの重要な合戦に参加しています。
彼の勇敢な戦いぶりを資料など交えながら解説していきましょう。
~目次~
0:00 オープニング
1:37 聡明で将来を期待された御曹司
4:16 四国を席巻する長宗我部氏
8:15 熾烈を極めた『中富川の戦い』
12:47 秀吉による四国攻め
16:58 戸次川の戦いに散る
22:59 まとめ
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脚本・監修:歴史の細道
#歴史の細道 #長宗我部信親
~画像~
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~地図~
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信親の死は残念で切なすぎます。元親もショックで人が変わっちゃうんですね。
この人の最後とても胸が苦しくなる
戸次川の戦いでの長宗我部信親の壮絶な死はまさに悲運とか悲劇とかしか形容するしかないですね。
豊臣秀吉公は島津軍の手強さは充分に知っていたらしく「無理に戦わなくてもいいですよ」みたいな下知があったのです。
しかしながら、結果はこの有様で家臣団は嘆き悲しみ涙したとのことです。ちなみに信親の墓は二箇所あります。
一箇所は現地。もう一箇所は元親の指示で埋葬されていた所の島津から許しを得て四国に持ち帰ったそうです。
信親もですが信親付きだった将来の幹部候補の人達も全員戦死したのがあまりにも痛かったですね。
土佐七勇の一、本山氏の当主だった、本山親茂こと貞茂さんも、その一人ですね。
信親さんは大好きな武将の一人❤️
22歳で討ち死になんて早すぎるやろー。
信親が生き延びていれば長宗我部の滅亡はなかったかも知れませんね。
昔中学生だった頃、先生がわざわざ借りてきてくれた森鴎外の短詩集で
この信親の最期を読んで、号泣した記憶があります。
ほぼ全滅なので信親がこの時何を思い何と言ったかはわかりませんが、「お供!」「お供!」という家臣団のどよめきは、敵側の島津方の証言があるので信憑性は高いですね。
実家に、先祖が元親公から拝領した青銅の槍があります。先祖は侍大将だったので、さほど上位ではなかったのですが誇りに思います。
別に長宗我部家を正当化するわけではありませんが、山内家や漫画のセンゴクには嫌悪感があるのは正直否めません。歴史の因縁はずっと尾をひくのを身にしみて感じます。
信親もだけど十河存保も猛将らしい最期だったんだよなあ。信親に馬を寄せて言った言葉が非常にシビレルんだがセンゴク聞いてるか?
なんて言ったんですか?
@@killermonokura9251
動画の中でそのセリフ言ってますよ。
@@killermonokura9251 大雑把に書くと「この負け戦は軍監(仙石)殿の指揮のまずさもあるが、とはいえ先陣を承ったのは我らであるから、かくなる上は敵陣に突入して思う存分に敵と渡り合ってから散りましょう」的な事を十河が信親に言ったのね。ここのやり取りは小説とか漫画とかで取り上げられる時に色々とアレンジされるみたいで本当の正解は知らないけど大体は冒頭の感じで書かれるみたい。作品によっては玉砕の覚悟を示した信親に十河が「お見事である。それがしも同道致す。」と同調したとか、いずれにせよ老虎と若獅子の最期とあって、よりドラマティックなやり取りとして描かれる事が多いみたいやね。「センゴク」では、どう書かれたか知らんけど。
@@user-qq6bn1uw2r ありがとうございます。
信親がもしここで死なんと生きてたら立花宗茂みたいに戦場で恐れられる存在になってただろうに。
織田信長から「信」の偏諱を賜った三人の武将、織田信忠、松平信康、長宗我部信親は、いずれも父譲りの才覚を持ち、将来を期待された御曹司だったが、二十代という若さで不幸な最期を遂げてしまった。
信〇もしくは〇信という人物は結構悲しい末路を追っているんだね。そう考えると…。
信親はこの時に亡くなりますが女の子がいます!もしこれが男の子だったら豊臣秀頼のように幼くして長宗我部元親の後を継いだかも知れませんね!そう想像するのも面白いですね!
島津家久は大将クラスを打ち取ってるから凄い。最後は羽柴秀長に破れているが。
長宗我部ってほんとついてないよな
秀吉に土佐一国にされて
その秀吉に従ったら信親殺されて
関ヶ原のときは東軍につこうとしたら西軍につかされて改易
最後は盛親が大阪の陣で斬首だもんな・・・
盛親の弟は大坂の陣のあとも生き残ったらしいですよ
@@user-jc1mx1ix4i 弟の康豊が駿河で酒井忠利に仕えて生き残ってますね
そう!康豊!名前をど忘れしてしまって…笑
信長には忠誠を誓ったのに叛逆して攻めかけられそうに…
戸次川の戦いにはほぼ同じ歳で同じ大名の息子だった水野勝成さんも参戦していたな
親に奉公構されて仙石の家来として参戦していたけど
仙石についていたので信親と違って運が良かったのか悪かったのか分からないが
仙石が逃亡したおかげで無事に生き残った。
その後仙石の家来を辞めて再び放浪生活を送った。
この後色々な大名に仕えたけど結局父親の元に帰参した。そして父親の死後家督を継ぎ、88歳まで生きた事を考えたら運は良かったと思う。
矢張長宗我部信親の話になると仙石秀久がディスられるのが定番かw。
秀久と親父もよ
仙石の糞馬鹿のせいで……仙石はその後小田原に参陣して見え見えのアピールして、この後ノコノコと戻ってくるのが気に食わないし、後世で逆転人生!みたいで持ち上げられてるのは本当に遺憾。
ホントだわ!なんで漫画の主人公なんだよ!
たまたま仙石の家来となってたおかげで助かった水野勝成さん
@@user-hk6ng6dk2f 仙石の本当に数少ない人の役にたった例ですね
そめいちそめに あれって仙石秀久が間抜け!って漫画って聞いたんだけど、、、違うのかな
@@SiR-sz9lv あ、そうなの?もともと、この一件で仙石嫌いになってたから、実はあの漫画も読んでないんだよね。どうせ主人公に据えるくらいだから良く見えるように書かれてるんだろうぐらいにしか思ってなかったわ。
名将となるべく長宗我部ラボで純粋培養されていた若獅子が糞馬鹿センゴクのせいで😭
仙石秀久はほんと嫌い
この後にちゃんと処分しなかったばかりに、徳川方になって豊臣は滅ぼされる
ある意味因果応報だよな
どっちにしても、子飼いの家臣 仙石に任せた秀吉が任命責任あると思うわ。
逃げた仙石も悪いが、部下の失敗は上司の責任でもあるから秀吉も悪い
というか、この大敗は秀吉による長宗我部潰しで仕組まれたものという話も一説にはあるらしいね
俺徳島の人間だから三好一族推しだから長曾我部はあれだけど信親が生きていれば自滅せずに土佐の領主として残ったかもな
三好長治はむしろ徳島人からもあれなはずだけどな。
@@user-ul8sk8cw7l
なんでわざわざ例外を出してきているんだ?
先祖が合戦に参加しました。昔から信親公は地元の方々が毎年供養しています。最近はお祭りになりましたよ。
お父ちゃんグレてしまうのもわかる…
。゚(゚´ω`゚)゚。
信親の娘を盛親に嫁がせて後継ぎにした事を家来に諌められた元親は、その家来を妻子を含める一族もろとも処刑。これが、七人みさきの祟りの由来です。
吉良七人ミサキもしくは比江山七人ミサキの話ですね
仙石秀久も問題やけど,四国勢に先に行かせたのもなぁ…
自分が制圧したいなら先に行くべきよなぁ秀吉…
もっと早く長宗我部が秀吉に従ってたら戸次川の戦いの先鋒隊になることはなかったのかしら?
当時の戦の基本は、軍門に降った大名家がその後の戦の先鋒を任じられる、という慣習であったから、そこはやむを得ないですね。
元は四国は切り取り次第だったのに、一方的に土佐一国のみ、と信長に言われて、
元親の四国統一覇業の中途、従うこともできなかった、これも致し方なかったと思うが…
土佐物語によると、「信親は、文武両道に秀で、和歌や漢詩、蹴鞠は師匠を凌ぐほど。長刀をはじめ武勇は家中でかなう者がいない。それでいて家臣の誰にも分け隔てなく気さくに接し、領民の百姓にも優しく声をかけていた。大げさに言えば国中(土佐国)の娘のあこがれであった。」(司馬遼太郎著「夏草の賦」から引用)
長宗我部信親、この人が天寿を全うするまで生きていたら、土佐の歴史ひいては日本の歴史も変わっていたかもしれない。
根拠①信親なら関ケ原の合戦では、それまでの諸将とのつながりから東軍に付いていたはず。仮に訳あって西軍で参戦していたとしても、盛親のように「観戦」してはいない。土佐兵6,000が信親下知のもと阿修羅のごとき働きをしていれば西軍の勝利もあり得た。②そうなると幕末まで土佐藩=長宗我部家となるので、史実の上士の山内家に差別され虐められ耐え忍んできた下士である郷士の憤怒が幕末に爆発することもないので、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山のような志士も出てこない。
龍馬や慎太郎の働きで幕末に手を結んだ薩摩と長州。この二人のような人物が居ないと仮定したら、幕末から明治維新はどのようになっていたのだろうか。
現在の大野川だねー
天命
内容には関係ないけど、再生速度1.25で丁度いい
大坂冬の陣で負けて逃げたけど捕らえられ首刎ねられた人と混同してしまった。なるほど、夭折しちゃったため親父が呆けてしまった方の方ですね。
大坂夏の陣ですよ。負けてというか自身は勝利してますし。真田幸村ばかりが取り上げられてますけど勝ったのは彼だけ
@@user-ul8sk8cw7l それは弟の盛親です。信親はその兄貴で戸次川で死んだ方ですね
@@user-yu6ok8gf5b 私は分かってますよ^^;
盛親の話にしてもCHAOS 2017さんのコメントで冬の陣と言ってたので訂正させていただいたのです^^;
@@user-ul8sk8cw7l なるほど、それは失礼しました。
メチャクチャカッコいい。
討ち死にしなければ歴史に大きく名を残したんじゃないかな。
すでにもうやってたんだ。おもしろかった。信親をはじめとした土佐兵700余人の死は戸次の地元民にとっては自分たちを島津から守ってくれたとの思いから、今日に至るまで弔いは続き、それが毎年11月に開催される大野川合戦祭に繋がっている。このときの土佐兵の強兵ぶりは昭和になって悲劇を招いた。それは大東亜戦争のとき、だれが(高級将校あるいは大臣クラスの人物?)だれに(田中光顕伯?、元老クラス)告げたのかは失念したが、あの戸次で勇猛果敢な戦いをした土佐兵の強者ぶりは語り草で、苦戦が予想されるニューギニア戦線への土佐兵(高知の駐屯地所属)派遣が推挙された。その後、さらに死地のインパールへと派遣された。歴史は人を通じて繋がっている。これを歴史は繰り返すと言う。県民にとっては悲劇であった。
仙石が大戦犯。
モシモ茶々と結婚サセタラお家安泰かモ知れないわよね!?