【四国の戦国大名の勢力図変遷】乱世となった四国を、長宗我部元親が四国統一。しかし秀吉が四国を平定
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- čas přidán 5. 07. 2023
- 「応仁の乱」の頃、四国の讃岐と土佐では細川京兆家が、阿波では阿波細川家が、伊予では河野家が守護職についていました。
しかし、京都で細川京兆家の家督および管領職の争いである「永正の錯乱」が発生すると、京都は混乱していき、四国でも多くの勢力が乱立し群雄割拠となりました。
■目次
00:00 序
00:38 京都の情勢
03:38 戦国時代の始まり
05:42 三好氏、勢力拡大
07:35 四国切取り次第
10:12 四国平定
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#戦国時代 #四国統一 #長曾我部元親 #三好氏 #細川氏 #土佐
【修正と追加】
シンプルでわかりやすかった
大変分かりやすかったです👍
歴史好きではあったが、このことはあまり知らなかったので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
これはとても分かりやすい解説ですね。
応仁の乱もそうだけど、最初の細川氏同士の混乱とか、この頃の複雑さこそが「下剋上」なんですかね。
四国をこんな風に色分けするとわかりづらいけど、内部は山ばかりで、人が住めるような場所ってごく狭い地域なんだよね。
とってもわかりやすかったです。ですが両細川の乱で勝利したのは澄元だと思います。
長宗我部は、信親の討ち死にがなければ幕末まで残っていたよな
我が 安富氏も出て来て嬉しいです。
長宗我部氏って最盛期には4万も動員力有ったのか
四国は京に近いこともあり、天下との関わりが密接ですね。
沿岸部の城のいくつかは織田の支援で反抗していたのが四国を統一していないという根拠ですね。
秀吉が唯一直言を聞き入れる秀長がいなければ、秀吉も大したことなかったと思う。それほどに秀長は優秀。
阿波って長宗我部侵攻まで分裂しなかったの?
長宗我部元親は四国を統一しても石高は80万石しかないよね。
なるほどー半農半兵総動員で4万人では、そもそも四国のパイが如何に小さかったかですね。秀吉軍は戦専門の兵士が10万ですから、勝負にはならなかったでしょう。
地元で最近長宗我部家の祀られてる秦神社(側に信親公墓あり)行ったけど、その後たまたま吉良親実公祀られてる神社や、津野親忠が朝鮮から帰ってきて植樹したといわれる木のある津野家ゆかり神社にも行けて御縁にビックリ。
1526年に国親に三男なんていたのか?三男の香宗我部親泰は1543年生まれだと思うけど、、、
仙石が引くほど無能すぎて信親が戦死したのが悔やまれる