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わかりやすく、戦国歴史
Japan
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戦国時代を中心に、合戦の説明や合戦に至る経過、周辺の状況など分かりやすく、出来る限り史実に基づき解説していきます。
【常陸・佐竹氏(前編)】清和源氏の流れを汲む名門。源頼朝による討伐や「山入の乱」などの内紛を乗り越え、戦国大名へ
佐竹氏は「清和源氏」「河内源氏」の流れを汲む、名門の家系です。
佐竹氏は、源頼朝により領土没収や、一族の内紛である「山入の乱」などの苦難を乗り越え、戦国時代には、後北条氏や伊達氏などの勢力と争いながら、常陸国を統一しました。
豊臣秀吉からは水戸・54万石が安堵されましたが、「関ヶ原の戦い」では西軍に属したことから、秋田に転封となり20万石に減封されました。。
以後、佐竹氏は明治維新まで存続していき、維新後には侯爵に列せられました。
本動画(前編)では、佐竹氏の始まり」から、一族の内紛を終息させ、戦国大名に成長するまでを説明します。。。。
■目次
00:00 序
00:58 佐竹氏の始まり
02:38 鎌倉御家人
04:02 山入の乱
06:59 山入氏滅亡
09:32 戦国大名へ
■関連動画
・関東戦国時代(1)戦乱の始まり
czcams.com/video/au3vQZL-56w/video.html
・関東戦国時代(2)長享の乱
czcams.com/video/t3TtDyPZG_8/video.html
・関東戦国時代(3)永正の乱~上杉謙信、関東管領へ
czcams.com/video/eovpoi_UUJw/video.html
・最上氏と大崎氏(斯波氏分家)
czcams.com/video/bo4wzSNb4uY/video.html
#関東戦国 #戦国時代 #佐竹氏 #山入の乱 #清和源氏 #常陸
佐竹氏は、源頼朝により領土没収や、一族の内紛である「山入の乱」などの苦難を乗り越え、戦国時代には、後北条氏や伊達氏などの勢力と争いながら、常陸国を統一しました。
豊臣秀吉からは水戸・54万石が安堵されましたが、「関ヶ原の戦い」では西軍に属したことから、秋田に転封となり20万石に減封されました。。
以後、佐竹氏は明治維新まで存続していき、維新後には侯爵に列せられました。
本動画(前編)では、佐竹氏の始まり」から、一族の内紛を終息させ、戦国大名に成長するまでを説明します。。。。
■目次
00:00 序
00:58 佐竹氏の始まり
02:38 鎌倉御家人
04:02 山入の乱
06:59 山入氏滅亡
09:32 戦国大名へ
■関連動画
・関東戦国時代(1)戦乱の始まり
czcams.com/video/au3vQZL-56w/video.html
・関東戦国時代(2)長享の乱
czcams.com/video/t3TtDyPZG_8/video.html
・関東戦国時代(3)永正の乱~上杉謙信、関東管領へ
czcams.com/video/eovpoi_UUJw/video.html
・最上氏と大崎氏(斯波氏分家)
czcams.com/video/bo4wzSNb4uY/video.html
#関東戦国 #戦国時代 #佐竹氏 #山入の乱 #清和源氏 #常陸
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Video
【関東戦国時代(3)】永正の乱~関東享禄の内乱~河越城の戦い~上杉謙信、関東管領へ
zhlédnutí 868Před měsícem
関東管領・山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った「長享の乱」は、山内上杉氏の勝利に終わり、両家の同盟関係が復活し、関東地方は安定するかにみえました。 しかし、古河公方の内紛、越後上杉氏の内乱、山内上杉氏の内紛の3つの争いが合わさった「永正の乱」が直ぐに発生し、さらに伊勢宗瑞の関東侵攻により、関東地方は再び戦乱となっていきます。 ■目次 00:00 序 00:42 永正の乱 04:55 宗瑞、相模平定 06:36 関東享禄の内乱 07:58 河越城の戦い 09:40 最期の関東管領 ■関東地方の主な戦乱 上杉禅秀の乱(1416年)鎌倉公方・足利持氏 vs. 前関東管領・上杉禅秀(扇谷上杉氏) 永享の乱(1438年)鎌倉公方・足利持氏 vs. 関東管領・上杉憲実(山内上杉氏)+幕府 享徳の乱(1455年~1483年)鎌倉公方・足利成氏 vs. 山内上杉氏+扇谷上杉氏 長享の乱(1488年...
【関東戦国時代(2)】長享の乱(山内上杉 vs. 扇谷上杉)、伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭
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鎌倉公方と、山内上杉氏・扇谷上杉氏が戦った「享徳の乱」が和睦し終結しましたが、 今度は、山内上杉氏と、勢力を増してきた扇谷上杉氏が対立するようになり、「長享の乱」が勃発しました。 この乱により、伊勢宗瑞(北条早雲)の関東における勢力が増していきました。 ■目次 00:00 序 01:09 上杉氏の始まり 03:26 両上杉氏の戦い 06:22 伊豆討入り 08:49 乱、終結 ■関東地方の主な戦乱 上杉禅秀の乱(1416年)鎌倉公方・足利持氏 vs. 前関東管領・上杉禅秀(扇谷上杉氏) 永享の乱(1438年)鎌倉公方・足利持氏 vs. 関東管領・上杉憲実(山内上杉氏)+幕府 享徳の乱(1455年~1483年)鎌倉公方・足利成氏 vs. 山内上杉氏+扇谷上杉氏 長享の乱(1488年~1505年)山内上杉氏 vs. 扇谷上杉氏 永正の乱(1506年~1519年)越後の内乱、山内...
【北近江・京極氏】佐々木道誉の活躍で室町幕府の四職に。六角氏と争う。浅井氏に北近江を奪われる。蛍大名?として復活し国持大名となる。
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京極氏は、宇多源氏佐々木氏の流れで、佐々木信綱の四男・氏信が北近江などを相続したことから始まります。 佐々木道誉の活躍で室町幕府の四職の一つとなりますが、南近江の六角氏と争いの最中、家督争いである「京極騒乱」が起きると衰退していき、北近江などの領国を浅井氏に奪われます。 「本能寺の変」後、豊臣秀吉の側室になっていた京極竜子とお市の七光りにより、高次・高知兄弟は出世していき、それぞれ若狭と丹後一国が与えられます。 ■目次 00:00 序 00:14 京極氏の始まり 01:23 婆娑羅大名 04:42 京極騒乱 08:12 北近江を失う 10:49 ほたる大名 12:31 国持大名 ■関連動画 ・応仁の乱 czcams.com/video/m-6mqzclObQ/video.html ・足利尊氏 czcams.com/video/IqAI6hqLQCo/video.html ・足利義満 ...
【最上氏と大崎氏(斯波氏分家)】奥羽の戦国時代、伊達氏との戦い
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大崎氏と最上氏は、室町幕府・三管領の一つ、斯波氏の分家(庶家)にあたります。 室町幕府創立に貢献した、斯波高経の弟の斯波家兼が「奥州管領」となり、その子の直持と兼頼がそれぞれ「大崎」と「最上」を名乗り、「奥州探題」と「羽州探題」に 命されました。 戦国時代に突入し、伊達氏と戦いを繰り広げていきます。 大崎氏は、豊臣秀吉の「奥州仕置」により改易されました。 最上氏は「最上義光(よしあき)」の時代、最盛期を迎えますが、最上騒乱で改易されました。 ■目次 00:00 序 00:32 大崎氏・最上氏の始まり 02:17 戦国時代へ突入 04:30 天文の乱 06:28 天正最上の乱 08:17 大崎合戦 10:14 北奥羽の状況 11:45 奥州仕置 13:22 慶長出羽合戦 16:54 最上騒乱 ■関連動画 ・三管領・斯波氏 czcams.com/video/eSJATHMwQWg/vi...
【三管領・斯波氏】三ヶ国の守護となるが、朝倉氏に越前を、今川氏に遠江を、織田氏に尾張を奪われる
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斯波氏は足利氏一門のなかで足利氏に継ぐ家柄が高い家で、室町幕府では、細川氏・畠山氏と交替で管領を務めました。 室町幕府創立時などで武功を立て、越前と尾張・遠江などの守護職に じられました。 しかし、当主の早死や家督争いで次第に衰退していき、越前は朝倉孝景に、遠江は今川氏親に奪われ、尾張では織田信長に追放されて、全ての領国を失いました。 ■目次 00:00 序 00:30 斯波氏の始まり 02:28 三ヶ国の守護 05:45 越前を失う 09:23 遠江を失う 10:40 信長により追放 ■関連動画 ・応仁の乱 czcams.com/video/m-6mqzclObQ/video.html ・今川氏親 czcams.com/video/CKVJjyhNps8/video.html ・織田信長・尾張統一 czcams.com/video/vImRKA0YVhg/video.html ・...
【応仁の乱】戦国時代の始まりとなったゴタゴタな内戦「細川勝元 vs. 山名宗全」
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応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間にわたって起こった「応仁の乱」について説明します。 「応仁の乱」は、室町幕府8代将軍・足利義政の時代に、管領の畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで、幕府内で力を持っていた細川勝元と山名宗全の抗争となり、幕府内の勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展していきました。 ■目次 00:00 序 01:47 管領家の内紛 05:02 文正の政変 07:07 大乱の始まり 09:29 本格的戦乱へ 11:35 大乱終結 ■関連動画 ・足利尊氏 czcams.com/video/IqAI6hqLQCo/video.html ・足利義満 czcams.com/video/Iq8m5m_1osg/video.html ・足利政権崩壊と細川氏分裂 czcams.com/video/6n7gPMIl4Y0/vide...
【播磨・赤松氏の繁栄と衰退】赤松円心の活躍で播磨守護へ。満祐が「嘉吉の乱」で将軍・足利義教を殺害し滅亡。その後再興するが。
zhlédnutí 39KPřed 7 měsíci
室町時代から戦国時代にかけて、播磨を中心に勢力を誇った、赤松氏について説明します。 赤松氏が歴史に表舞台に登場するのは、鎌倉時代末期に活躍した、赤松家4代目当主・赤松則村(法名・円心)からです。 室町幕府では、京極氏・一色氏・山名氏と共に、四職家の1つとなりました。 ■目次 00:00 序 00:32 赤松円心 03:45 赤松氏滅亡(嘉吉の乱) 06:24 赤松氏再興 09:11 大物崩れ 12:07 播磨を失う ■関連動画 ・足利尊氏 czcams.com/video/IqAI6hqLQCo/video.html ・足利義満 czcams.com/video/Iq8m5m_1osg/video.html ・足利政権崩壊と細川氏分裂 czcams.com/video/6n7gPMIl4Y0/video.html ・関東戦国時代の始まり czcams.com/video/au3vQZ...
【賤ケ岳の七本槍】秀吉配下の若き武将(福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則)の生涯
zhlédnutí 2,8KPřed 9 měsíci
織田信長亡き後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で、秀吉の配下で活躍した「七人の若き武将」について解説します。 この七人は、福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則です。 「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれています。 追記) 石田三成襲撃メンバーに、脇坂安治が加わる説もあります。 ■目次 00:00 序 00:36 福島正則 03:35 加藤清正 06:36 片桐且元 10:27 脇坂安治 12:31 加藤嘉明 14:55 平野長泰 16:11 糟屋武則 18:00 まとめ ■関連動画 ・清洲会議と賤ケ岳の戦い czcams.com/video/PGQXpkLqNwY/video.html #賤ケ岳の七本槍 #豊臣秀吉 #福島正則 #加藤清正 #片桐且元 #脇坂安治 #加藤嘉明 #平野長泰 #糟屋武則
【豊臣秀吉 天下統一に向けての戦い】紀州征伐、四国攻め、富山の役、飛騨征伐
zhlédnutí 5KPřed 9 měsíci
秀吉が徳川家康・織田信長陣営と争った「小牧・長久手の戦い」で、紀州の雑賀衆と根来衆や、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政は、徳川・織田方に味方し、反秀吉勢力を形成していました。 秀吉は、それら反秀吉勢力を順次討伐していきます。 紀州征伐(vs. 雑賀衆・根来衆) 四国攻め(vs. 長宗我部元親) 富山の役(vs. 佐々成政) 飛騨征伐(vs. 姉小路頼綱) ■目次 00:00 序 00:49 根来攻め 03:10 太田城の水攻め 05:34 四国攻め 08:49 富山の役 11:47 家康臣従 ■関連動画(豊臣秀吉の戦い) ・羽柴秀吉の中国攻め czcams.com/video/7JDj_FbWRKc/video.html ・山崎の戦い(明智光秀(後編)) czcams.com/video/DY-VYIhQ9Ic/video.html ・清洲会議と賤ケ岳の戦い czcams.com/...
【小牧・長久手の戦い】羽柴秀吉 vs. 徳川家康、最初で最後の戦い
zhlédnutí 743Před 9 měsíci
1583年4月、羽柴秀吉は「賤ケ岳の戦い」で柴田勝家を破り、織田家内で事実上、最高実力者となりました。 織田信長の次男・織田信雄は、織田家の当主・三法師の後見として安土城へ入りましたが、すぐに秀吉に退去させられます。 信雄は、織田家を秀吉に乗っ取られると考え、それに対抗するため徳川家康と手を結びます。 そして「小牧・長久手の戦い」が始まります。。 ■目次 00:00 序 01:53 小牧の戦い 03:56 長久手の戦い 09:17 信雄、秀吉に屈す ■関連動画(豊臣秀吉の戦い) ・羽柴秀吉の中国攻め czcams.com/video/7JDj_FbWRKc/video.html ・山崎の戦い(明智光秀(後編)) czcams.com/video/DY-VYIhQ9Ic/video.html ・清洲会議と賤ケ岳の戦い czcams.com/video/PGQXpkLqNwY/video...
【清洲会議と賤ケ岳の戦い】羽柴秀吉、柴田勝家を破り、事実上の最高権力者へ
zhlédnutí 1,7KPřed 10 měsíci
1582年6月、明智光秀を「山崎の戦い」で討取った羽柴秀吉は、織田家の行く末を決める「清州会議」で、多くの所領を獲得しました。 その後、秀吉は信長の次男・織田信雄を支持し、信長の三男の信孝を支持する柴田勝家と対立するようになりました。 そして、賤ケ岳で両者は激突。秀吉は、柴田方の前田利家の戦線離脱もあり、柴田軍に勝利し、北の庄で勝家を自害させると、織田家内で事実上の最高権力者となりました。 追記 佐久間盛政は「賤ケ岳の戦い」で敗れ敗走後に、越前山中で捕らえられ処刑されました。 ■目次 00:00 序 00:43 清洲会議 04:46 織田家分裂 06:33 前哨戦 09:14 賤ケ岳 11:23 勝家敗走 ■関連動画 ・羽柴秀吉の中国攻め czcams.com/video/7JDj_FbWRKc/video.html ・山崎の戦い(明智光秀(後編)) czcams.com/video...
【キーウの戦い】ウクライナが首都・キーウをロシア軍から守り抜く。世界の歴史に残る戦い。
zhlédnutí 4,3KPřed 11 měsíci
今回は、日本の戦国時代の動画ではなく、ウクライナ戦争の動画です。。 2022年2月24日午前5時、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。 ロシア軍は、ウクライナ東部や南部へ侵攻、さらに首都・キーウ制圧を目指して、ベラルーシからも侵攻してきました。 本動画では、ウクライナが首都・キーウを、ロシア軍の侵攻から守り抜いた「キーウの戦い(キーウ攻防戦)」について説明します。 ■目次 00:04 ウクライナへの侵攻 04:12 ゼレンスキー大統領の決断 07:14 ロシア軍停滞 11:10 キーウを守り抜く ■参考とした資料 ・ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間 www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pP4VMweyj9/ ・キーウ攻防戦なぜ失敗?ロシア軍“誤算”とウクライナ軍の“滑走路・水門破壊”とは(...
【四国の戦国大名の勢力図変遷】乱世となった四国を、長宗我部元親が四国統一。しかし秀吉が四国を平定
zhlédnutí 200KPřed rokem
「応仁の乱」の頃、四国の讃岐と土佐では細川京兆家が、阿波では阿波細川家が、伊予では河野家が守護職についていました。 しかし、京都で細川京兆家の家督および管領職の争いである「永正の錯乱」が発生すると、京都は混乱していき、四国でも多くの勢力が乱立し群雄割拠となりました。 ■目次 00:00 序 00:38 京都の情勢 03:38 戦国時代の始まり 05:42 三好氏、勢力拡大 07:35 四国切取り次第 10:12 四国平定 ■関連動画 ・長宗我部元親 czcams.com/video/E-avxFsMZHI/video.html ・足利政権崩壊と細川氏分裂 czcams.com/video/6n7gPMIl4Y0/video.html ・三好長慶 czcams.com/video/Y6voxAny9rI/video.html ・大内義興 czcams.com/video/tbSe2xA...
【羽柴秀吉の中国攻め】播磨・但馬・因幡・淡路を平定。三木合戦と鳥取城の戦い
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1577年、羽柴秀吉は、織田信長から毛利輝元の勢力圏である山陽道・山陰道の攻略を命じられます。 秀吉は、三木城と鳥取城を兵糧攻めで陥落させ、わずか4年余りで播磨と但馬・因幡、淡路を平定しました。 さらに、備前・美作の宇喜多直家と、東伯耆の南条氏、阿波・讃岐の三好氏を、織田氏の味方に引き入れました。 中国大返し、山崎の戦いは、コチラ↓をご覧ください。 ・明智光秀(後編) czcams.com/video/DY-VYIhQ9Ic/video.html ■目次 00:00 序 01:38 播磨平定 03:31 三木合戦 08:03 鳥取城の攻略 ■関連動画(豊臣秀吉の戦い) ・山崎の戦い(明智光秀(後編)) czcams.com/video/DY-VYIhQ9Ic/video.html ・清洲会議と賤ケ岳の戦い czcams.com/video/PGQXpkLqNwY/video.html...
【明智光秀(後編)】山崎の戦い、中国大返しで戻った羽柴秀吉に討たれ最期を遂げる
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【木津川口の戦い】織田・九鬼水軍 vs. 毛利・村上水軍、鉄甲船で村上水軍を撃破?
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【水野信元と子孫】徳川家康の叔父。信長に武田氏との内通を疑われ、悲運の最期を遂げる
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【梟雄? 松永久秀】三好長慶の家臣~東大寺焼失~信長を2度裏切り「信貴山城の戦い」で自害
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【梟雄? 松永久秀】三好長慶の家臣~東大寺焼失~信長を2度裏切り「信貴山城の戦い」で自害
斯波と斯波、同じ斯波一族だから大崎に名前変えたのかな~
肥後の勢力図が少し抜けてるような。 菊池がないです。 相良の勢力は戦国初期から南肥後はほぼ成勢下では?
イントネーションが変ですよ どこの国の方?
개인적으로 모리 가문이 대 오다 전선에서 너무 소극적인 행보를 보였다고 생각했는데 규슈 상황을 보니 오토모 가문이나 시마즈 가문의 활동이 영향을 준 것 같습니다.
잘봤습니다. 한국에 전국시대 관련 자료가 적은데 규슈 쪽은 더 없어서 궁금했는데 좀 이해하겠네요
村上政宗と赤松晴政仲良いなw
某サイトで大河の毛利元就をほとんど全部、見ました。面白かったです。
みんな親戚かー!(゜o゜)w
奥羽諸将は皆親戚だからしばらく安定してたんだね
史実に基づいた丁寧で実直、中立な解説をいつもありがとうございます。地図、家系図、年表、どれも準備大変なので無理なさらないでほしいですが、やはりあると全体像の解像度が違いますね。
こういうシンプルかつ簡潔な解説が一番わかりやすく頭に残る。 ありがとうございます😊
大内義隆がやる気がなくなった話はもはや通説とは言えない誤った話しとなっているので、情報のアップデートをしていただきたいです
【修正】 2:08 誤)ハルキウは制圧されてた。 正)ハルキウ市や近郊で激しい戦闘は行われましたが、ウクライナ軍は守り抜きました。
地図と名札を動かしていただいて、とっっってもわかりやすいです。
結局、最上家は家臣がダメダメで衰退したってのが残念でならない……
2:08 ハルキウ制圧されていません
間違えました。ハルキウで激しい戦闘は行われましたが、ウクライナ軍は守り抜きました。
赤松氏滅亡!! 子孫はまだ生きてますよ 演歌を歌ってます
西園寺とか一条とか公家?
はい、両家とも公家です。
細川の子孫と長曽我部の子孫と蜂須賀の子孫は現在徳島にいます。 それぞれ穴吹に家がある人。自衛隊になった人。免許取消になった人。それぞれの人生を送っています。
今回もわかりやすいです
長宗我部が本能寺の変を裏で企んでいたという妄想をしてました
北白川の戦いの和議で、越前朝倉に関東足利が三好傅兵衛と改姓し足利氏の菩提寺浄妙寺を建て三好が足利より優位にたった時点で日本の半分を従わせていると思います。
切り取り次第を反故にさせるため讃岐の使者として上洛した佐藤家には長曾我部に統一されたという記録はございません。
>5:00、土佐の国の勢力図。 勢力の名前が現代も残る地名であることが多いよね。 >9:45、阿波白地城を攻略。 ここの位置は阿波池田だよな。徳島県西部でも徳島市方面でも長曾我部はどのルートで四国山地を超えて侵攻してきたのか気になる。
こんばんは
こんにちは😊(゚▽゚)/😊😊
一人だけ西軍に付いた人がいる
長宗我部氏に中央情勢に明るい外交官がいれば、豊臣秀吉と駆け引きして面従腹背?して四国を半分ずつ分割するとか交渉出来ただろうに。それ以前に一条氏を滅ぼさずに縁戚関係結べば一条ブランド手にして高い官位も得られた気もする。いずれにせよ家が残れば幕末雄藩として大活躍してただろう。
鮭さま最上義光の妻は大崎氏の娘で、娘は駒姫です。
伊達稙宗の父、伊達尚宗は大崎教兼の外孫で、伊達政宗は最上義守の外孫です。
乱暴に言えば、守護に任命される事で領国支配出来た時代から、実効支配してから守護に任命してもらう時代。(斯波氏の立場は、守護職は維持しているが実効支配出来ていない時代)守護職の価値がなくなる時代。へと移り変わる中で、すべてのパターンで領国を失った言える。
葛西氏の出自は?
なるほどー半農半兵総動員で4万人では、そもそも四国のパイが如何に小さかったかですね。秀吉軍は戦専門の兵士が10万ですから、勝負にはならなかったでしょう。
いやぁなかなかしぶとい一族だったんだなぁ 関ヶ原で判断間違えなかったらかなり歴史深い一族として現存してたかもなぁ 播磨じゃ赤松より別所の方が有名で赤松氏ってあんま出てこないしプッシュもされてないw ゆかりある地元民か戦国ゲーム経験者ぐらいしか印象ないんじゃない?
歴史好きではあったが、このことはあまり知らなかったので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
信長の言うことを聞いてれば本能寺も起きなかったかも。
侍戦隊シンケンジャーの殿は斯波氏だったな!
ワオ、故郷の英雄。ラジオ体操をする寺の中覗いたら、坐像があった。誰かいなと思っていた。
結局……奥州方面の一族も、高水寺斯波氏 - 大崎氏 - 最上氏の順で没落して逝きました……( ˇ人ˇ)†アーメン。
足利尾張守家も激動の家であるわな
私が働いていた会社に斯波さんがいました。 一族なんだろうか
子孫の一人則良が明治期に海軍高官となり、勲功により華族の男爵に叙せられた。
足利氏は、北条氏の滅亡に、何となく、似ている気がする。
没落のすすめ。コントかっ!? 没落のしかたが人間味溢れます。 だがそこに痺れる憧れる。 織田信安、信清の終わりトリオ。
最上氏がなんとかならんかったのか?
3カ国でも飛び地じゃなくて尾張美濃三河だったら行けたかもな
三河は無理でも越前で ただ土岐は邪魔なので 失脚して欲しいと考えたくなる
奥州斯波氏も、最上家改易で滅んじゃったんでしたっけ。
管領家筆頭の家柄だったのに最も崩れ方の酷い家だよね。
ほんとそれな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
朝倉氏の下剋上も管領細川家のバックアップがあったからですよねーー。朝倉家も恩を忘れず幕府に奉公してますしね。遠江は今川の隣でしたから仕方ないという気も(笑)
まあ何しろ義将(よしゆき)以降の当主の若死が痛恨でした。 宗家は断絶して大野家が宗家を継いだので家格・威信がガタっと落ちた感じ。 そもそも足利(斯波)高経は「管領(元は執事という役職名)などというものは足利の家臣(高一族や上杉)の役職、ワシが就くべきものじゃない」と。
陸奥の斯波氏とか最上、大崎なんかと連絡はあったのかな?