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みなもと太郎の『風雲児たち』で平賀源内の功績を知り、香川の記念館に行ったり、東京のお墓に行ったりしました。様々な功績と謎に包まれた人生の最後に、様々な小説が書かれていますね。
壊れたエレキテルを、原理とかを知らずになおしてしまうのは、天才としか言いようがない👍👍👍
志度に友達が住んでいて、平賀源内資料館を案内してもらったけど、想像していたよりはるかに面白くて源内先生のファンになったンゴ
鰻の旬は冬なんだよね.夏は鰻屋は商売あがったり.なので販促キャンペーンとして土用の丑の日が考案された.11月から2月くらいが一番美味い.天然物で旬の鰻を白焼きで食うと最高である.後は美味い酒があれば文句なし
故郷の香川県志度には『平賀源内記念館』と『平賀源内生誕の地』があります。記念館には『お神酒天神』や『エレキテル』の実物と操作できるレプリカがあり、他にも色んな展示物がありますから、来県した際には訪問してみてくださいね。
このチャンネルのゆっくりの調声はいいですね静かなので寝るときにも聞けるというのがいいです江戸時代の歴史文化を隅々まで学ばせてもらいお礼をしたいくらいです
【11:30】霊夢「輸出されるのは、金、銀、銅など」↑実は幕府もこの問題(貴金属流出)には意外とわりと早く気付いていて(というか重商主義的な発想にこの段階で至っていたのかもしれない)銀は1668年、金も源内遊学数年後の1763年に輸出禁止としています(以降は銅・工芸品中心)
でも幕府大老、井伊直弼がアメリカと不平等条約を結んでしまった後幕府は 列強の外交圧力によって順次同等の条約を各国フランス、イギリス、ロシア、ポルトガル、ベルギー、イタリア、デンマーク、オランダ プロシアと締結。これらの条約は先例にならい、幕府大老の井伊直弼や幕府外国奉行がその職責のもとに調印。幕府は外国との金銀交換比率の違いがあるのに江戸の金銀交換比率 金1:銀5海外の金銀交換比率 金1:銀15海外の1/3の値で金取引できると欧米のカモにされた。
@@fivepointedstar196 そのお話は直接的な鉱物としての金・銀貿易の話ではなくあくまで”通貨交換(の体をなした日本駐留外国人のサイドビジネスなんだが笑)”のお話なんですがたしかにかつて指摘されたほど大げさな話ではないとはいえ一時的には幕末問題化されましたね 一応補足しておくとかつて教科書に載っていたような『鎖国政策のせいで国際感覚0の幕府が開国により欧米人にカモにされ金の流出を招いた>
輸出じゃないんだよなぁ
収益化復活したんですね。良かった、良かった。うp主さんのペースでゆっくりと続けてくださいね。
収益化復活おめでとうございます。これからも同じことで悩まされるかもしれませんが、うp主さんについていきますので、このまま素晴らしい動画を作ってくださいね。今回は季節に合わせたお題の動画をありがとうございました。
題材は平賀源内 関係のないコメントはご遠慮してください
思ってたよりまともな人でした。高校日本史だと洋画ぐらいでしか出てこないんですよね
収益化復活して良かったです。毎回楽しみにしてます。
我が郷土が生んだ傑物です☝️😊因みに源内さんは獄死したのではなく、長崎屋に匿われていたらしいですよ(爆笑)📺😆
何言ってんだ!?あんた駿河の藤枝宿の出身ってぇ設定だったろ?
実は獄死などしておらず、田沼意次の意向で獄医が手引き、牢から救出され意次の地元遠江へ逃れた…なんて伝説がありますが、義経並みに世間の人々に愛され惜しまれたという事でしょうね。軽ガス気球や熱気球の原理を理解していたというし、長生きして十分な支援があったらそれこそ空を飛んでいたかも…と思わせてくれます。
昔NHKで放送していた『天下御免』では、最終回で牢獄から死んだとして出され、気球に乗ってフランスのパリに逃亡するという、平賀源内らしい奇抜なラストが面白かったですね。江戸に来た時も、現代の銀座を闊歩するとかしていましたし。
みなもと太郎の風雲児たちで平賀源内の功績で歌舞伎は上方発祥なので全国で上演した場合上方言葉での台詞を使って居たが、平賀源内が歌舞伎の脚本で初めて江戸言葉を台詞を入れたのが最初たったのを知った時は驚いたし、狂歌で有名な太田蜀山人が青年時代の時に蜀山人の書く狂歌を評価して書く様に推薦したのが平賀源内だった。
尚歯会の面々もいつか取り上げてくれると嬉しい
うの付く物だけで無くて、黒い物も含んでいて両方が組み合っているのもありますね
みなもと太郎先生のご冥福を祈りつつ、動画を拝見させていただきます。
「お供え餅を描いて下さい」の伝説から秋田蘭画が生まれたかと思うと秋田出身者としては感謝しかないですねまぁ秋田蘭画自体が全然知られてないのが県庁の宣伝不足だろうけど
今は亡きみなもと太郎先生は、その著書である風雲児たちの中で平賀源内を現代で例えるなら「タモリ」と描いていた。
今は亡き、 と言うのが残念ですが。
色々な見方はありましょうが、もし彼の境遇だったならと思うと、ヒーローなんてなるもんじゃないな、という典型のような人生です。
知的好奇心の塊江戸時代にタイムスリップできるなら一番会ってみたい人物です
失礼します!毎回楽しみに拝見しています!うな次郎、新潟の企業の商品ですので主様素晴らしいですね!
リクエストです。江戸時代の名君ランキングをお願いします!!
「江戸三百藩」もボチボチ再開して欲しいところだよなw。
収益停止要件同様な動画の濫造
平賀源内は高松藩士を辞める時に藩から奉公構(ヤクザで言う破門扱いで幕府や他藩の仕官が出来無い)で生涯浪人に成ったが、もし奉公構に成らずに幕臣として仕官が出来たら田沼意次のブレーンとして役だったと思う。
日本創製寒熱昇降器の温度表記には華氏度(ファーレンハイト度)が使用されていたらしい。
土用の鰻と言うのは平賀源内が広めたからですね。
源内とダヴィンチはそこまで似てるのという所があるから
『お薬坊主』って、なんていうかすごい役職名だな笑😆
一服盛るのがお仕事です(´・ω・`)
お江戸の薬師如来か笑
小田野直武の出身地の近くが私の故郷なんですが、彼は秋田の田舎から江戸に上京して、源内や杉田玄白とどんな日々を過ごしていたんでしょう。ひょっとしたら源内が描いた春画のいつくかは、実は直武の作だったりして(笑)
「理系でありがながら、文系でもあった人。「土用は丑の日」を作り出した名コピーライター。今ならyoutuber、ラノベ作家、ネットアプリの実業家として大活躍していたかもね。「生き返った源内」とかいうタイトルで現代に転生した小説を書いたら面白そう。
生まれる時代が早かった。
こういうマルチな才能の人物が 江戸時代に生まれていたから 幕末の明治維新は才能豊かな人間がいっぱい いたんですね江戸時代の技術蓄積がないと明治維新後、すぐに 西洋列強に並ぶのは、無理だと思います
洋務運動に挫折した清国との差は何だっただろうかとは思いますね和時計より洋時計は機構的に単純だからと明治時代を通じて外国産を駆逐してしまったのが日本の時計職人
@@asakazefuji 陽明学の存在が大きな差→実践を重んじた 学問を実際に活かした だったと思います 王陽明 ひとり分の大差がありますね
@@user-tj5pn2tf2y 支配者である女真族と圧倒的大多数で被支配層の漢族の民族対立の影響が一番大きいと思う
発明家としては優秀だったけど経営者の才覚はなかったようだなぁ。よいマネージャーがいればもっと違った評価になったと思う
貧乏長屋は神田白壁町のことでしょうか?ここの差配(管理人)さんは動画内でも触れられていた鈴木春信です。この二人を中心に毎年絵暦交換会へ出品する大小絵暦を創作する中で錦絵(多色刷り浮世絵)の見当と呼ばれる発明がなされました。またこの縁で、春信の弟子鈴木春重(後の司馬江漢)にも小田野直武と同様に蘭画の基礎を教えたともされています。交流のある蘭学者では桂川甫周の弟の森島中良も扱ってほしかったかな?彼も内弟子をしたことがある人物で二代目風来山人を名乗った作品も出しています。
「風流志道軒伝」、SFMで横田順彌氏の紹介で知る。
人生は自分が一番欲しいものは手に入らない。
僕の家の近所には、平賀源内が実験を行った場所が、そして少し自転車を走らせると源内のお墓ありますよ。
我が四国出身者「平賀源内氏」を取り上げて下さりありがとうございますm(_ _)m「香川県志度」に資料館がございます♪
うむむ、、、面白い!!!
浪漫を感じる人生。
平賀原内、エレキテルだね
とても分かりやすく良い動画でした(人''▽`)ありがとう☆
平賀源内の顔 初めて知りました。西田敏行の源内像が 目に焼き付いています。こんなにスリムな人だったのですね。吃驚です。
酒脱じゃなく洒脱じゃない?そんな言葉があるのかと思った
平賀源内(ひらが-げんない)は江戸時代中期の発明家として知られますが、どのような生い立ちだったのでしょうか?出来る限り完結に記載したいと存じます。平賀源内は讃岐・高松藩の藩士・白石茂左衛門の3男として、現在の香川県さぬき市志度にて生まれました。白石家の先祖は、戦国時代に武田信虎に滅ぼされた信濃・佐久の平賀城主である平賀玄信(ひらが-げんしん)とされます。平賀源内は11歳のときに、お酒の徳利(とっくり)を置くと、掛け軸の天神様の顔が赤くなると言う「仕掛け」(からくり掛軸「おみき天神」)を作ったとされ、13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学も勉強しました。1748年に父が亡くなると21歳で家督を継いで高松藩の蔵番一人扶持、切米三石を務めたようですが、1752年頃(24歳頃)に長崎に遊学すると医学やオランダ語などを更に学びます。そして、更に勉強したいと思った平賀源内は、妹・里与に婿養子を迎えさせて、家督を譲り、大坂や京都など各地で、多岐多様に師から学びました。27歳の時には高松藩の重臣・木村季明の要請で磁針器(方位磁石)を作製しています。1756年には江戸にできると本草学(漢方医学)や漢学を取得。更に長崎ではヨーロッパ製の歩数計を改良した量程器(万歩計)を作ったほか、鉱山採掘技術を学ぶと、伊豆では1761年に鉱脈を見つけています。また、江戸では当時最大規模の物産展(博覧会)も主催すると、それを元に1300種の動植鉱物の中から厳選した360種を収録した図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し世人の注目を浴びました。やがて、高松藩から薬坊主格を受けて銀拾枚四人扶持と再雇用されています。そして、江戸幕府の老中・田沼意次にも知られるようになり、幕命により芒硝の採取も行い、平線儀(水平を出す道具)も作りました。このように薬草からの薬や、資源としての鉱物採掘も、秋田藩から招かれるなどもし、防火の燃えない布「火浣布」(かかんぷ・石綿)を幕府に献上するなど、やがて発明品が増えてきます。ただし、どこかに行くたびに、高松藩の許可が必要で不便な事から、平賀源内は脱藩して“天竺浪人”と名乗り各地を巡っています。高松藩は平賀源内を「仕官御構」(おかまい)と言う他藩への仕官禁止処分としました。1768年には、オランダ製の寒暖計を見て、原理は判ったから簡単に作れると、日本創製寒熱昇降記(気温計)も製造します。そして、1776年11月、平賀源内48歳のとき、日本初の発電器エレキテル(摩擦静電気・静電気発生装置)を完成させました。一般的には、平賀源内がエレキテルを作ったとして知られていますが、厳密に申し上げますと、初めて発明したと言う事ではありません。もともと、長崎で壊れたエレキテルを持ち帰って、7年掛けて復元(修理)したとされます。このエレキテルは、医療機器で静電気治療を行う機械でした。なお、単なる復元ではなく、蓄電装置・摩擦装置などの構造も、外国文献とも異なる点があることから、独自の新たな考えにて改善を図りつつ完成させたと言えるでしょう。鎖国で海外より多くの情報が入らない中、平賀源内は高価な外国製を取り寄せるのではなく、日本人でも安く作れることを証明したのです。多技多能で種々計画しましたが妨害などもあり、不平不満が募り、この頃には酒におぼれるようになっていたとされます。平賀源内は厳寒の小伝馬町の牢内に投獄され、約1ヶ月後に破傷風により獄死しました。葬儀は親交があった杉田玄白らが行おうとしましたが、幕府から許可が下りず、やむなく遺体も無い葬儀になったと言います。墓は総泉寺跡にあります。なお、土用の丑の日にウナギを食べると言う風習も、平賀源内が発明との説もあります。なんでも、夏の売り上げ不振に悩んだウナギ屋から相談された平賀源内が「今日は土用の丑の日」と書き、暑い時に食べると元気になると張り紙を出したら、ウナギが飛ぶように売れたと言います。お正月の初詣で目にする縁起物の「破魔矢」を考案したのも、才能、行動、発想、すべてが型破りな平賀源内とされ、約100もの発明品を残しました。
多動性のギフテッドだよね〜コミュニケーション様態は幼い時のまま
祝収益化復活。この人は本当に生まれる時代がずれていたんだろうな。100年早いか遅いかで、成功できたんじゃないかな。ただ、この人の切り開いた道は大きかったのは確かですね。
土用の丑の日は山東京伝という説も
平賀源内といえば、彼を主人公に、杉田玄白・前野良沢・田沼意次・稲葉小僧らが絡む大江戸痛快時代劇が印象深い
エピソードを聞いていると、佐久間象山と似た印象を受けました
当時は儒学が重んじられた武家道徳のアンチテーゼとして国学が勃興し、現代的な意味での「国体」が議論され始めた時代。特に高松松平家は水戸徳川家の御連枝であったため、水戸学の影響が強かった。なので彼の政治思想や国際感覚は、当時その場所に生まれた知識人としては特に珍しくはないのかと思います。また国益という言葉ですが、当時は専ら経済概念として使われていて現代で言うところ貿易黒字くらいの意味だということに留意したいですね。現代のように主権国家の外交、軍事、内政、経済もひっくるめた包括的な意味での利益を指す用法は、戦後になってから使われだしたようです。本業の本草学をはじめとする様々な分野での彼の業績の評価は私にはできませんが、少なくともこうして現代に至るまで語り継がれるくらいには人々に敬愛されたということですよね。
背景どこの街?
新潟県新潟市
和風ルネッサンス的人物だったのかな、と思いました。才能と言う物はどこで開花するのか、しかし、惜しい人生だったのですね。
半世紀ほど前に NHK のドラマで人気を博していた天下御免というのがあり、ユーモラスな番組だったのですが、残念ながら当時のTV番組は放送局でさえvideoの使いまわしだったので、殆ど現存しません。全く残念な限りです。
江戸時代にフリーランスで生きるのは大変だっただろう。今でも大変だが。
👏🏼👏🏼👏🏼😃
日本のダ・ヴィインチ平賀源内さん今で言うマルチタレント
天才奇才も人生の先々のまでは算段できず…いや天才的ヒラメキで瞬時に解決出来ないものはムリと判断し(時間の節約のタメと言えましょううか?)次に移る決断力の早さが他人には飽きっぽいと映っだのでしょうこれが祟って、人生を真綿でジワジワ首を締め、気付いた時には身動きができぬまでに詰んでしまう…まことに感慨深い方です
生まれた時代が明治以降だったら、もっと面白い発明をしてくれたのかもしれないですね。まぁ変わり者は日本では生きにくいでしょうけど。
酔ってガテン系2人を屠るって…どんだけ元気が有り余ってるの?それがエレキテルの効能なの?
うな○郎は新潟のメーカーですよね✨
自分わこの人以上に悲惨で浮かばれない人生で終わります😭😭
いろいろな肩書きがあるけど、最後は「凶悪犯罪者」になってしまった。
僕は趣味は果敢に源内さんのように何でも挑戦したいです。仕事は固定したいです。生きてたら、会いたいほど尊敬しています。
晩年、些細な事でイライラしたりかと思いきやニコニコされたりとあるけど…。平賀源内に何があったのだろう
稀代の天才とは彼のことだろう
解説で電気がエネルギーって・・・静電気のエネルギー化は難しい・・・。ダヴィンチというより南方熊楠と荒俣宏とかのような、いかにも本草学=博物学ですね。
日本は昔から能力ある者は出世していたんだよ
平賀源内は衆道好きで贔屓の陰間茶屋の*稚児が浮気したとヤキモチで刃傷事件を起こし獄死したと云う。*俗に云う《男の娘》
殺人者だったのか。しかも勘違いによる二人を殺害したマヌケとは思わなかった。
ダヴィンチとの共通点というと…同性愛者だった事かな。常識のとらわれない発想をするには、そういった要素が必要なのかも。
バカ殿やってよ!登録解除するよ
みなもと太郎の『風雲児たち』で平賀源内の功績を知り、香川の記念館に行ったり、東京のお墓に行ったりしました。
様々な功績と謎に包まれた人生の最後に、様々な小説が書かれていますね。
壊れたエレキテルを、原理とかを知らずになおしてしまうのは、天才としか言いようがない👍👍👍
志度に友達が住んでいて、平賀源内資料館を案内してもらったけど、想像していたよりはるかに面白くて源内先生のファンになったンゴ
鰻の旬は冬なんだよね.夏は鰻屋は商売あがったり.なので販促キャンペーンとして土用の丑の日が考案された.11月から2月くらいが一番美味い.天然物で旬の鰻を白焼きで食うと最高である.後は美味い酒があれば文句なし
故郷の香川県志度には『平賀源内記念館』と『平賀源内生誕の地』があります。
記念館には『お神酒天神』や『エレキテル』の実物と操作できるレプリカがあり、他にも色んな展示物がありますから、来県した際には訪問してみてくださいね。
このチャンネルのゆっくりの調声はいいですね
静かなので寝るときにも聞けるというのがいいです
江戸時代の歴史文化を隅々まで学ばせてもらいお礼をしたいくらいです
【11:30】霊夢「輸出されるのは、金、銀、銅など」
↑実は幕府もこの問題(貴金属流出)には意外とわりと早く気付いていて(というか重商主義的な発想にこの段階で至っていたのかもしれない)
銀は1668年、金も源内遊学数年後の1763年に輸出禁止としています(以降は銅・工芸品中心)
でも幕府大老、井伊直弼がアメリカと不平等条約を結んでしまった後
幕府は 列強の外交圧力によって順次同等の条約を各国
フランス、イギリス、ロシア、ポルトガル、ベルギー、イタリア、デンマーク、オランダ プロシアと締結。
これらの条約は先例にならい、幕府大老の井伊直弼や幕府外国奉行がその職責のもとに調印。
幕府は外国との金銀交換比率の違いがあるのに
江戸の金銀交換比率 金1:銀5
海外の金銀交換比率 金1:銀15
海外の1/3の値で金取引できると欧米のカモにされた。
@@fivepointedstar196 そのお話は直接的な鉱物としての金・銀貿易の話ではなくあくまで”通貨交換(の体をなした日本駐留外国人のサイドビジネスなんだが笑)”のお話なんですが
たしかにかつて指摘されたほど大げさな話ではないとはいえ一時的には幕末問題化されましたね
一応補足しておくとかつて教科書に載っていたような
『鎖国政策のせいで国際感覚0の幕府が開国により欧米人にカモにされ金の流出を招いた>
輸出じゃないんだよなぁ
収益化復活したんですね。良かった、良かった。
うp主さんのペースでゆっくりと続けてくださいね。
収益化復活おめでとうございます。これからも同じことで悩まされるかもしれませんが、うp主さんについていきますので、このまま素晴らしい動画を作ってくださいね。
今回は季節に合わせたお題の動画をありがとうございました。
題材は平賀源内 関係のないコメントはご遠慮してください
思ってたよりまともな人でした。高校日本史だと洋画ぐらいでしか出てこないんですよね
収益化復活して良かったです。毎回楽しみにしてます。
我が郷土が生んだ傑物です☝️😊
因みに源内さんは獄死したのではなく、長崎屋に匿われていたらしいですよ(爆笑)📺😆
何言ってんだ!?
あんた駿河の藤枝宿の出身ってぇ設定だったろ?
実は獄死などしておらず、田沼意次の意向で獄医が手引き、牢から救出され意次の地元遠江へ逃れた…なんて伝説がありますが、義経並みに世間の人々に愛され惜しまれたという事でしょうね。軽ガス気球や熱気球の原理を理解していたというし、長生きして十分な支援があったらそれこそ空を飛んでいたかも…と思わせてくれます。
昔NHKで放送していた『天下御免』では、最終回で牢獄から死んだとして出され、気球に乗ってフランスのパリに逃亡するという、平賀源内らしい奇抜なラストが面白かったですね。
江戸に来た時も、現代の銀座を闊歩するとかしていましたし。
みなもと太郎の風雲児たちで平賀源内の功績で歌舞伎は上方発祥なので全国で上演した場合上方言葉での台詞を使って居たが、平賀源内が歌舞伎の脚本で初めて江戸言葉を台詞を入れたのが最初たったのを知った時は驚いたし、狂歌で有名な太田蜀山人が青年時代の時に蜀山人の書く狂歌を評価して書く様に推薦したのが平賀源内だった。
尚歯会の面々もいつか取り上げてくれると嬉しい
うの付く物だけで無くて、黒い物も含んでいて
両方が組み合っているのもありますね
みなもと太郎先生のご冥福を祈りつつ、動画を拝見させていただきます。
「お供え餅を描いて下さい」
の伝説から秋田蘭画が生まれたかと思うと秋田出身者としては感謝しかないですね
まぁ秋田蘭画自体が全然知られてないのが県庁の宣伝不足だろうけど
今は亡きみなもと太郎先生は、その著書である風雲児たちの中で平賀源内を現代で例えるなら「タモリ」と描いていた。
今は亡き、
と言うのが残念ですが。
色々な見方はありましょうが、もし彼の境遇だったならと思うと、ヒーローなんてなるもんじゃないな、という典型のような人生です。
知的好奇心の塊
江戸時代にタイムスリップできるなら一番会ってみたい人物です
失礼します!毎回楽しみに拝見しています!うな次郎、新潟の企業の商品ですので主様素晴らしいですね!
リクエストです。
江戸時代の名君ランキングをお願いします!!
「江戸三百藩」もボチボチ再開して欲しいところだよなw。
収益停止要件
同様な動画の濫造
平賀源内は高松藩士を辞める時に藩から奉公構(ヤクザで言う破門扱いで幕府や他藩の仕官が出来無い)で生涯浪人に成ったが、もし奉公構に成らずに幕臣として仕官が出来たら田沼意次のブレーンとして役だったと思う。
日本創製寒熱昇降器の温度表記には華氏度(ファーレンハイト度)が使用されていたらしい。
土用の鰻と言うのは平賀源内が広めたからですね。
源内とダヴィンチはそこまで似てるのという所があるから
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一服盛るのがお仕事です(´・ω・`)
お江戸の薬師如来か笑
小田野直武の出身地の近くが私の故郷なんですが、彼は秋田の田舎から江戸に上京して、源内や杉田玄白とどんな日々を過ごしていたんでしょう。
ひょっとしたら源内が描いた春画のいつくかは、実は直武の作だったりして(笑)
「理系でありがながら、文系でもあった人。「土用は丑の日」を作り出した名コピーライター。今ならyoutuber、ラノベ作家、ネットアプリの実業家として大活躍していたかもね。「生き返った源内」とかいうタイトルで現代に転生した小説を書いたら面白そう。
生まれる時代が早かった。
こういうマルチな才能の人物が 江戸時代に生まれていたから 幕末の明治維新は才能豊かな人間がいっぱい いたんですね
江戸時代の技術蓄積がないと明治維新後、すぐに 西洋列強に並ぶのは、無理だと思います
洋務運動に挫折した清国との差は何だっただろうかとは思いますね
和時計より洋時計は機構的に単純だからと
明治時代を通じて外国産を駆逐してしまったのが日本の時計職人
@@asakazefuji 陽明学の存在が大きな差→実践を重んじた 学問を実際に活かした
だったと思います 王陽明 ひとり分の大差がありますね
@@user-tj5pn2tf2y 支配者である女真族と圧倒的大多数で被支配層の漢族の民族対立の影響が一番大きいと思う
発明家としては優秀だったけど経営者の才覚はなかったようだなぁ。
よいマネージャーがいればもっと違った評価になったと思う
貧乏長屋は神田白壁町のことでしょうか?
ここの差配(管理人)さんは動画内でも触れられていた鈴木春信です。
この二人を中心に毎年絵暦交換会へ出品する大小絵暦を創作する中で錦絵(多色刷り浮世絵)の見当と呼ばれる発明がなされました。
またこの縁で、春信の弟子鈴木春重(後の司馬江漢)にも小田野直武と同様に蘭画の基礎を教えたともされています。
交流のある蘭学者では桂川甫周の弟の森島中良も扱ってほしかったかな?
彼も内弟子をしたことがある人物で二代目風来山人を名乗った作品も出しています。
「風流志道軒伝」、SFMで横田順彌氏の紹介で知る。
人生は自分が一番欲しいものは手に入らない。
僕の家の近所には、平賀源内が実験を行った場所が、そして少し自転車を走らせると源内のお墓ありますよ。
我が四国出身者「平賀源内氏」を取り上げて下さりありがとうございますm(_ _)m「香川県志度」に資料館がございます♪
うむむ、、、面白い!!!
浪漫を感じる人生。
平賀原内、エレキテルだね
とても分かりやすく良い動画でした
(人''▽`)ありがとう☆
平賀源内の顔 初めて知りました。西田敏行の源内像が 目に焼き付いています。こんなにスリムな人だったのですね。吃驚です。
酒脱じゃなく洒脱じゃない?
そんな言葉があるのかと思った
平賀源内(ひらが-げんない)は江戸時代中期の発明家として知られますが、どのような生い立ちだったのでしょうか?
出来る限り完結に記載したいと存じます。平賀源内は讃岐・高松藩の藩士・白石茂左衛門の3男として、現在の香川県さぬき市志度にて生まれました。
白石家の先祖は、戦国時代に武田信虎に滅ぼされた信濃・佐久の平賀城主である平賀玄信(ひらが-げんしん)とされます。平賀源内は11歳のときに、お酒の徳利(とっくり)を置くと、掛け軸の天神様の顔が赤くなると言う「仕掛け」(からくり掛軸「おみき天神」)を作ったとされ、13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学も勉強しました。
1748年に父が亡くなると21歳で家督を継いで高松藩の蔵番一人扶持、切米三石を務めたようですが、1752年頃(24歳頃)に長崎に遊学すると医学やオランダ語などを更に学びます。そして、更に勉強したいと思った平賀源内は、妹・里与に婿養子を迎えさせて、家督を譲り、大坂や京都など各地で、多岐多様に師から学びました。27歳の時には高松藩の重臣・木村季明の要請で磁針器(方位磁石)を作製しています。
1756年には江戸にできると本草学(漢方医学)や漢学を取得。更に長崎ではヨーロッパ製の歩数計を改良した量程器(万歩計)を作ったほか、鉱山採掘技術を学ぶと、伊豆では1761年に鉱脈を見つけています。また、江戸では当時最大規模の物産展(博覧会)も主催すると、それを元に1300種の動植鉱物の中から厳選した360種を収録した図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し世人の注目を浴びました。
やがて、高松藩から薬坊主格を受けて銀拾枚四人扶持と再雇用されています。そして、江戸幕府の老中・田沼意次にも知られるようになり、幕命により芒硝の採取も行い、平線儀(水平を出す道具)も作りました。このように薬草からの薬や、資源としての鉱物採掘も、秋田藩から招かれるなどもし、防火の燃えない布「火浣布」(かかんぷ・石綿)を幕府に献上するなど、やがて発明品が増えてきます。ただし、どこかに行くたびに、高松藩の許可が必要で不便な事から、平賀源内は脱藩して“天竺浪人”と名乗り各地を巡っています。高松藩は平賀源内を「仕官御構」(おかまい)と言う他藩への仕官禁止処分としました。
1768年には、オランダ製の寒暖計を見て、原理は判ったから簡単に作れると、日本創製寒熱昇降記(気温計)も製造します。そして、1776年11月、平賀源内48歳のとき、日本初の発電器エレキテル(摩擦静電気・静電気発生装置)を完成させました。一般的には、平賀源内がエレキテルを作ったとして知られていますが、厳密に申し上げますと、初めて発明したと言う事ではありません。
もともと、長崎で壊れたエレキテルを持ち帰って、7年掛けて復元(修理)したとされます。このエレキテルは、医療機器で静電気治療を行う機械でした。なお、単なる復元ではなく、蓄電装置・摩擦装置などの構造も、外国文献とも異なる点があることから、独自の新たな考えにて改善を図りつつ完成させたと言えるでしょう。
鎖国で海外より多くの情報が入らない中、平賀源内は高価な外国製を取り寄せるのではなく、日本人でも安く作れることを証明したのです。多技多能で種々計画しましたが妨害などもあり、不平不満が募り、この頃には酒におぼれるようになっていたとされます。平賀源内は厳寒の小伝馬町の牢内に投獄され、約1ヶ月後に破傷風により獄死しました。
葬儀は親交があった杉田玄白らが行おうとしましたが、幕府から許可が下りず、やむなく遺体も無い葬儀になったと言います。墓は総泉寺跡にあります。
なお、土用の丑の日にウナギを食べると言う風習も、平賀源内が発明との説もあります。なんでも、夏の売り上げ不振に悩んだウナギ屋から相談された平賀源内が「今日は土用の丑の日」と書き、暑い時に食べると元気になると張り紙を出したら、ウナギが飛ぶように売れたと言います。お正月の初詣で目にする縁起物の「破魔矢」を考案したのも、才能、行動、発想、すべてが型破りな平賀源内とされ、約100もの発明品を残しました。
多動性のギフテッドだよね〜
コミュニケーション様態は幼い時のまま
祝収益化復活。この人は本当に生まれる時代がずれていたんだろうな。100年早いか遅いかで、成功できたんじゃないかな。ただ、この人の切り開いた道は大きかったのは確かですね。
土用の丑の日は山東京伝という説も
平賀源内といえば、彼を主人公に、杉田玄白・前野良沢・田沼意次・稲葉小僧らが絡む大江戸痛快時代劇が印象深い
エピソードを聞いていると、佐久間象山と似た印象を受けました
当時は儒学が重んじられた武家道徳のアンチテーゼとして国学が勃興し、現代的な意味での「国体」が議論され始めた時代。特に高松松平家は水戸徳川家の御連枝であったため、水戸学の影響が強かった。なので彼の政治思想や国際感覚は、当時その場所に生まれた知識人としては特に珍しくはないのかと思います。
また国益という言葉ですが、当時は専ら経済概念として使われていて現代で言うところ貿易黒字くらいの意味だということに留意したいですね。現代のように主権国家の外交、軍事、内政、経済もひっくるめた包括的な意味での利益を指す用法は、戦後になってから使われだしたようです。
本業の本草学をはじめとする様々な分野での彼の業績の評価は私にはできませんが、少なくともこうして現代に至るまで語り継がれるくらいには人々に敬愛されたということですよね。
背景どこの街?
新潟県新潟市
和風ルネッサンス的人物だったのかな、と思いました。才能と言う物はどこで開花するのか、しかし、惜しい人生だったのですね。
半世紀ほど前に NHK のドラマで
人気を博していた天下御免というのがあり、ユーモラスな番組だったのですが、残念ながら当時のTV番組は放送局でさえvideoの使いまわしだったので、殆ど現存しません。
全く残念な限りです。
江戸時代にフリーランスで生きるのは大変だっただろう。今でも大変だが。
👏🏼👏🏼👏🏼😃
日本のダ・ヴィインチ平賀源内さん今で言うマルチタレント
天才奇才も人生の先々のまでは算段できず…
いや天才的ヒラメキで瞬時に解決出来ないものはムリと判断し(時間の節約のタメと言えましょううか?)次に移る決断力の早さが他人には飽きっぽいと映っだのでしょう
これが祟って、人生を真綿でジワジワ首を締め、気付いた時には身動きができぬまでに詰んでしまう…
まことに感慨深い方です
生まれた時代が明治以降だったら、もっと面白い発明をしてくれたのかもしれないですね。まぁ変わり者は日本では生きにくいでしょうけど。
酔ってガテン系2人を屠るって…どんだけ元気が有り余ってるの?それがエレキテルの効能なの?
うな○郎は新潟のメーカーですよね✨
自分わこの人以上に悲惨で浮かばれない人生で終わります😭😭
いろいろな肩書きがあるけど、
最後は「凶悪犯罪者」になってしまった。
僕は趣味は果敢に源内さんのように何でも挑戦したいです。仕事は固定したいです。生きてたら、会いたいほど尊敬しています。
晩年、些細な事でイライラしたりかと思いきやニコニコされたりとあるけど…。
平賀源内に何があったのだろう
稀代の天才とは彼のことだろう
解説で電気がエネルギーって・・・静電気のエネルギー化は難しい・・・。ダヴィンチというより南方熊楠と荒俣宏とかのような、いかにも本草学=博物学ですね。
日本は昔から能力ある者は出世していたんだよ
平賀源内は衆道好きで贔屓の陰間茶屋の*稚児が浮気したとヤキモチで刃傷事件を起こし獄死したと云う。
*俗に云う《男の娘》
殺人者だったのか。しかも勘違いによる二人を殺害したマヌケとは思わなかった。
ダヴィンチとの共通点というと…同性愛者だった事かな。
常識のとらわれない発想をするには、そういった要素が必要なのかも。
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