わずか2年しか続かなかった『五大老と五奉行』!その失敗の原因とは何だったのか?

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  • čas přidán 25. 07. 2024
  • わずか2年しか続かなかった『五大老と五奉行』!その失敗の原因とは何だったのか?について紹介しています。
    ~目次~
    ■秀次事件でクローズアップされた豊臣政権の脆弱さ
    ■五大老と五奉行、どっちが格上?
    ■家康と対立する大老・奉行たち
    ■前田家へ繰り出される家康の策略
    ■崩壊する五大老と五奉行
    ■まとめ
    ナレーション:真加藤沙織
    脚本・監修:歴史の細道
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Komentáře • 116

  • @user-jk7ui6zl4g
    @user-jk7ui6zl4g Před 4 lety +20

    当時の同時代資料では、石田三成と徳川家康の仲は非常に良く、伏見在住の家康が大坂表へ出るときは、必ず三成や三成の兄の屋敷を借りていた。また、守秘が決められていた秀吉の死を、禁を犯して家康に真っ先に知らせたのは三成だ。そんな仲の良さがあったから、三成が清正らと対立した際に家康は伏見屋敷に三成をかくまったわけだ。
    江戸時代に入ると死人に口なし。徳川家だけではなく、生き残った諸侯も、全ての悪を三成一人に擦り付けたことが全てだったと思われる。

  • @NasChannelBel
    @NasChannelBel Před 4 lety +11

    ちょうど、昔の大河ドラマの「秀吉」を観ていたので、背景知識としてとても役に立ちました!ありがとうございます。

  • @user-nx9cb5ql7z
    @user-nx9cb5ql7z Před 4 lety +8

    チャンネル登録しました!動画おもしろかったです。

  • @user-gz7ce4rv6o
    @user-gz7ce4rv6o Před 4 lety +22

    本能寺の変後に成人男子が何人もいた織田家を乗っ取った秀吉が「息子は6歳ですからよろしくお願いしますね」なんて遺言することの滑稽さを1番わかってたんじゃないかな。有力大名の相互監視のみを期待した五大老五奉行制度を最も信用出来なかったのは秀吉自身だろう🤔

    • @kimkimniyan2
      @kimkimniyan2 Před 3 lety +5

      明智光秀をに悪者に仕立て上げ、信長は残虐だった、そんな信長の忠臣と喧伝しておきながら、織田家の財産を簒奪して好き勝手してきたのだから、因果応報なだけだと思っています。

  • @user-ng4zs1lm8i
    @user-ng4zs1lm8i Před 4 lety +18

    豊臣家は確かに運が悪い家ですねぇ

  • @user-fl6im1lc7c
    @user-fl6im1lc7c Před 4 lety +48

    秀吉は天才だがワンマンだったからなあ。家康は将来を見据えて御三家を作ったり地味だが磐石な家作りをした

    • @user-md1he5wp7w
      @user-md1he5wp7w Před 4 lety +28

      今川や織田、豊臣や武田等のしくじりも成功も見て聞いて、観察·勉強を怠らず、チャンスを待つ事を忘れなかったから、徳川は勝者の椅子に座って、長期政権を維持出来たという事だろう。

    • @user-do8me9es5l
      @user-do8me9es5l Před 4 lety +14

      徳川家の仕組みはいろいろな失敗例をみて作った良い仕組み。
      全ての失敗と悲劇の上に成り立っている

    • @user-ot6cs2nt9j
      @user-ot6cs2nt9j Před 4 lety +6

      @@user-md1he5wp7w 室町幕府や鎌倉幕府にも学びましたからね

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před 4 lety +2

      信長の方がワンマン度は上だと思いますがw
      戦国武将は、程度の差こそあれ、皆ワンマンだったのでは?
      そうでなければ生き残れなかったと思うのですが。

    • @subuya428
      @subuya428 Před 4 lety +8

      豊臣の五大老・五奉行と徳川の老中、同じく合議制であるが決定的に違うのは豊臣の大老・奉行はそれぞれ全国でも有数の石高を持つ実力者だったということ。逆に徳川の老中は中堅以下の石高を持つ普代大名でした。
      権力と実力のバランスが重要だということが分かります。

  • @user-se6sg8ey4x
    @user-se6sg8ey4x Před 4 lety +9

    やはり、一門衆の存在は重要ですよね。実際、弟・秀長の健在時は、秀長が秀吉の分身のように各地で活躍し、秀吉の治世にも意見をして影響を及ぼしていたと考えられますが、秀長死後、秀吉は天下統一こそ成し遂げたものの、千利休の処刑、朝鮮出兵、秀次事件、小早川秀秋らの減封などの愚行を繰り返しています。恐らくは、舞い上がっていたのか、ボケていたのでしょう。
    そういう意味だと、単に秀吉が無能で家康が有能とは言えません。武家の出身でもなく、晩年は有能だった弟も失った上、ボケてしまったというのは、運がないとしか言いようがありません。
    一方家康は、武家の出身かつ、長生き、さらに晩年まで正常な状態で政治を行えていました(あるいは一門・家臣たちに支えられていた)。そして、「豊臣秀吉」という反面教師を参考できたのも、幸運そのものでしょう。
    つまり、秀吉は有能だったけど運がなかったのかな、なんて思ってます。もちろん家康も有能だと思いますけどね。

  • @Jdihdhipek
    @Jdihdhipek Před 4 lety +12

    結果論にすぎませんが、石田三成はあまりにも先走り過ぎましたね。葵徳川三代でも描かれていたように、年齢的な順番だけ考えれば先に死ぬのは家康なんだから、それこそ家康のようにじっと我慢強く待つべきでした。後に本多正信にも皮肉られたように、関ヶ原という不必要な無用の戦争を挑んだために、反徳川勢力は一気に根こそぎ潰されてしまったわけですから。
    そもそも、家康は今川氏真や織田信雄の面倒すら見ていたように義理堅い面もあるんだから、素直に従っていれば豊臣秀頼だって見捨てることは無かったでしょうに。つくづくプライドというのは判断を誤らせますね。

  • @user-zu4ov5vz6m
    @user-zu4ov5vz6m Před 3 lety +2

    さおりさんの分かりやすい丁寧な説明、とても良かったです。がんばってください✊😃✊。

  • @user-yn6rs7yv2f
    @user-yn6rs7yv2f Před 4 lety +10

    五大老と五奉行の合議制は秀吉死後に決められたことですよ

  • @iwgpventures
    @iwgpventures Před 4 lety +9

    徳川家康は、織田信長との清州同盟の実績が大きかったのでは?

  • @anewreturner1
    @anewreturner1 Před 4 lety +3

    前田利家が死んだ時家康君は「ばんじゃーい、やったぜえ」だったでしょうね。そして史実では豊臣家は1615年の大坂夏の陣でお終いになりましたがたとえ秀頼が家康君に臣従したとして豊臣家が幕藩体制で生き残れたかどうか。東北の果てに国替えされても我慢出来ればもしかしたら生き残れたかもしれませんねえ。その時大勢の家臣をリストラしなければならないだろうから不穏な空気が流れたことでしょう。

  • @oniwakamarukumano8328
    @oniwakamarukumano8328 Před 4 lety +5

    戦の才と政の才は別物の典型的な存在やね。
    尾張三英傑の中で家康は派手な武勲は無いけど、したたかに地盤固めに抜かりは無かった。
    家臣にも恵まれたし、計算高い性格だったので天下を取れたのかも知れない。

  • @inuinuchiichan
    @inuinuchiichan Před 4 lety +9

    家康は軍事的に秀吉に敗北したわけではなく(臣従せざるを得ない状況にはなったのだろうが)秀吉も家康を抑えきれなかった。
    秀吉亡き後が子どもとその女親である淀殿では、安定した世は望めない。
    家康が動くのは当然だったかも。
    秀吉は運が悪かったのではなく、出自、家柄からしてこれが限界だったのかもしれないなと思っています。

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před 4 lety

      何故、小牧・長久手の戦いで決着を付けておかなかったのかな?
      この時点でなら徳川を潰せたと思うのだが。

    • @user-se6sg8ey4x
      @user-se6sg8ey4x Před 4 lety +4

      小牧・長久手の戦いでは、大局的には織田信雄が秀吉に降伏して家康は不利になったものの、尾張の戦線では羽柴軍が圧倒的な数的有利を取っていながら膠着状態となっており、さらに羽柴秀次軍の敗退によって池田恒興、森長可という羽柴軍の主力武将が討死した。秀吉は当時西にも雑賀衆・長宗我部という敵を抱えていて、家康との不利な戦を続けるよりは和睦して西に進軍することを選んだ。
      という私の解釈です。長文失礼しました。

    • @jinhawk2009
      @jinhawk2009 Před 4 lety +3

      自分の姉さんを離婚させてまで家康に嫁がせて人質に出したんだから、負けたようなもんでしょ。

    • @user-ek7um8zz1m
      @user-ek7um8zz1m Před 4 lety +3

      野戦を得意とする家康。城攻めが得意な秀吉。
      家康は信長や秀吉の様な天才ではないと自覚していたから家臣団全体の組織力や結束力で勝負した。それが最大限に威力を発揮するのが野戦。野戦で家康は形成を冷静に見定めながら、強勢に逆らうことなく満を持して手を打ってくる。また秀吉も戦の天才だから引き際を知っている。

  • @xxtarkunxx
    @xxtarkunxx Před 4 lety +20

    そもそも
    秀次を切腹をし、その一族とも処刑しまくった時点で、豊臣家は終わり。

  • @badboytv2006
    @badboytv2006 Před 3 lety +4

    まあ、成り上がり者がトップに立った場合なかなか難しいものがあったと思うんだよなあ。
    つまり昔からの家柄の場合天下を取れたのは自分自身だけでなく家全体の成したことであり
    その場合本人だけでなく家全体がその恩恵を受けることに抵抗はなかった。
    だから家康などは自分は天下を預かっているのだからその平和な世が乱れないためならば
    結果的に徳川一門なら本家以外の分家から天下人が出てもいいじゃないかと大きな器を持てる。
    しかし秀吉のような完全な成り上がりの場合天下を取れたのは自分だけの功績であり
    そのことで自分の血族たちまでもが何のリスクも経ずして過大な恩恵を受けるのはオカシイ
    場合によっては、いつか自分の血族たちが本家である自分の直系に謀反を起こして
    乗っ取ってしまう危険性もあるんじゃないかという。
    結局天下は自分の私物という姑息な考えしかできなくなる。
    これが小国とはいえ生まれから大将だった家康と卑しい貧民上がりの秀吉との決定的な差であったと思う。
    つまり秀吉が織田から徳川への単なるつなぎにすぎなかった理由は天下人としての器の大きさの差にあった気がする。

  • @user-wv1ey2cs2t
    @user-wv1ey2cs2t Před 4 lety +10

    家康の実力を考えれば、豊臣家が天下人として生き残ることは無理なので、一大名として残ることを優先するべきだったはず。実際、織田家は、そのようにして残っていますよね。
    とは言っても、家康も薄氷の上を歩くようなものだったと思いますよ。自分の死後に伊達や島津が大人しくしているとは考えられなかったはずですから。

  • @kkcombipl
    @kkcombipl Před 4 lety +9

    秀吉の死の時点で最高官位を持っているのが家康で秀頼は利家よりも下、というのがそもそも
    終わってる。蔵入地を大量に持って入るものの、信長がなくなったあとの三法師と同じような立場なので、
    秀吉がしたことを家康が真似しても無理もない。大坂の陣の前に、秀頼が異封に同意して幕府に恭順
    していたら、多分織田家の時と同様に豊臣家も生き残れただろう。

    • @user-zz4tq5rh2p
      @user-zz4tq5rh2p Před 4 lety +3

      朝廷の官位に依存している豊臣政権が官位で家臣に負けたらそれだけで権威失墜ものというかなんというか。せめて関白秀次さえ生きていればまた別の道もあったのかも

  • @user-zu6tc9mb7s
    @user-zu6tc9mb7s Před 2 lety

    五大老 五奉行…。この連携があまりにも細過ぎました。家康が年をとるのを地味に待てば良かった。

  • @aya-ff1fl
    @aya-ff1fl Před 4 lety +8

    秀吉の晩年は猜疑心に苛まれ秀次を死に追いやったことで豊臣家の運命は決まってしまったようなものですよね。

  • @user-cl9lb3mw9o
    @user-cl9lb3mw9o Před 3 lety +1

    応仁文明の乱前後の室町幕府と同じ。トップの統制力が無く、有力大名の合議制では、派閥争いが起きるのは必至。秀吉健在時に大名統制を含めた内政をもう一段階進めておくべきだった。江戸幕府がやったような天下普請をやって、特に徳川の財力を削ぐのが、良かっただろう。そうしたことも併せ、徳川幕府初期の大名統制は、実に要領良く行われた。

  • @hiropon9
    @hiropon9 Před 4 lety +5

    毛利輝元がもう少ししっかりしていれば家康が付け入る隙はなかった気がする

    • @SiR-sz9lv
      @SiR-sz9lv Před 4 lety +5

      H N 毛利が一致団結してたら家康相手でもなんとかなった、全ては毛利のためとかいって毛利に所領を失わせた間抜けな吉川と大事な部分で裏切った小早川のせい

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Před 3 lety

      広家が毛利の所領安堵を取り付けていても、輝元が勝手に大坂城に入って総大将に収まった。
      輝元が自重していれば毛利の所領安堵は約束されていた。
      戦において広家は家康と戦っても勝ち目無しと見ていて、実際その通りになった。
      ただ前田家が安堵されているのを見れば毛利も安堵されるかもしれないが、その時になってみなければわからない。
      毛利は危険とみて、毛利の力を削ぎにかかるかもしれない。
      何が正解かはやってみないとわからない部分は多い。

    • @hiropon9
      @hiropon9 Před 3 lety

      @@gionsyouji5831 戦では毛利も吉川も背後にいるのに動かず、小早川が裏切ったんだからそりゃあ勝つでしょうね。
      逆に毛利両川が一枚岩で家康と対峙していたらどうだったんでしょうね?
      あと、戦後の論功行賞を考えたら上杉の120万石だけでは足りないので、毛利はいずれにせよ難癖をつけて減封は免れないような気がしますが。

  • @user-jt2kn8sr4q
    @user-jt2kn8sr4q Před 4 lety +1

    藤原家鎌倉室町幕府のから天皇家対応を、鎌倉室町幕府と豊臣からは大名統制をそれぞれの成功と失敗を参考にして、
    太政官制と中国から官僚制度を取り入れた感じかな。

  • @user-ek7um8zz1m
    @user-ek7um8zz1m Před 4 lety +1

    秀吉の天下統一により諸侯をはじめ家臣団に与えられる土地はもう無くなった。普通ならここでリストラするんだが、海の向こうの広大な土地に目をつけ、ここを切り取って諸侯の領土拡大を図ろうとした秀吉。些細な事でも問題視して諸侯をリストラ(改易)しておけば…

  • @fios1977
    @fios1977 Před rokem +1

    秀吉がやった事を家康が引き継いだんだな笑

  • @user-bi5hi4pj3c
    @user-bi5hi4pj3c Před 4 lety +8

    この制度事態に無理がある❗120万石、上杉、毛利、前田、250万石徳川、56万石宇喜多❗このアンバランス。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +5

      宇喜多は義理の息子やし、秀吉のお気に入りだったからね
      小早川隆景が死んじゃったのも大きい

    • @user-bi5hi4pj3c
      @user-bi5hi4pj3c Před 4 lety +3

      @@user-co4uy9zu1s 小早川も嫡子がいなかった為に養子を迎えたが❗関ヶ原の三年後は断絶して、明治維新の時に又小早川家を再興された。

    • @user-dg5kx3gd5p
      @user-dg5kx3gd5p Před 3 lety

      石高ではなく大老職の偉さは平等ですよ

  • @user-fp8fe7wz7z
    @user-fp8fe7wz7z Před 4 lety +6

    確かにイマイチようわからんかったな
    名前は知ってたが2年で消えたのか・・・

  • @user-ps5dk7pf9l
    @user-ps5dk7pf9l Před rokem

    秀吉公が明文化さえしていれば少しは豊臣政権が延命したかもね?でも三成公と家康公との軋轢がすぐに表面化してそうだなぁ

  • @DENSUKE029
    @DENSUKE029 Před 3 lety +1

    今のオーナー企業にも同じようなことが言えるね。
    後継者は無能でも自分の身内にするから(他社にびた一文たりとも渡したくない)
    オーナーが死んだら後はあっという間に傾く。
    自分の身内に後を継がせるにしても、脇を固める信頼できる人間を育て残せないと
    自分が築き上げた城も簡単に潰してしまうのは今も昔も変わらない。

  • @user-ol6lr4nc7b
    @user-ol6lr4nc7b Před 4 lety +2

    豊臣家は秀吉の代だけで運を使い果たしたよね

  • @himazinclub
    @himazinclub Před 4 lety +8

    因果応報‼️

  • @user-bi5hi4pj3c
    @user-bi5hi4pj3c Před 4 lety +9

    結局、秀吉は田舎上がりで昔からの家臣はいなかった。成り上がりの末路

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Před 3 lety +1

      成り上がろうが名門だろうが滅ぶ時は同じ。
      昔からの家臣や一族が敵になる事は日常茶飯事。
      親兄弟が争うのは歴史において必然。

  • @toramaru0506
    @toramaru0506 Před 4 lety +9

    木下&羽柴『豊臣ってアホなの?』

  • @user-se6sg8ey4x
    @user-se6sg8ey4x Před 4 lety +2

    前田利長は関ヶ原合戦には参加していないはずでは?大減封とは?

    • @user-nb8ms8jx6q
      @user-nb8ms8jx6q Před 4 lety +2

      実際は前田利長は関ヶ原で、徳川家康につき北陸で戦いました。その功績により前田利長は父利家時代の84万石から、124万石(119万石とも)に加増されました。加賀100万石はこれによって誕生しました。前田は勝ち組ですね。

    • @user-se6sg8ey4x
      @user-se6sg8ey4x Před 4 lety +1

      山梨県民 遅レスですが、その通りだと思います。加賀の大聖寺を始めとした西軍旗本の領地を掠め取ってた印象ですよね。無学なので、関ヶ原本線には前田家中の武将は参戦していないという認識で、関ヶ原には不参戦というのは語弊がありました。

    • @user-nb8ms8jx6q
      @user-nb8ms8jx6q Před 4 lety

      @@user-se6sg8ey4x まあ、関ヶ原で戦った戦ってないの区別は難しいですよね。

  • @tyukaman
    @tyukaman Před 4 lety +3

    家康の言葉一つでこの国が動く・・・この時に家康にそれほどの言葉を送るのはどうだろうか?

  • @user-fx7di3re6u
    @user-fx7di3re6u Před 4 lety +12

    さおりさん❤️青最高です。❤️❤️❤️

  • @user-vq2vx9wr5l
    @user-vq2vx9wr5l Před 3 lety +1

    せめて、秀長でも生きていれば・・・。

  • @user-si3ws3cg8z
    @user-si3ws3cg8z Před 4 lety +3

    家康を征伐しておくべきだったと、結果を見ると思えるのですが、家康征伐の計画は秀吉にあったのでしょうか…
    小牧・長久手の戦い以降、諦めていたという事なのでしょうか…

    • @toshis3972
      @toshis3972 Před 4 lety +4

      小牧長久手の翌年から秀吉は家康攻めの再号令をかけていますね。一年掛けて城や砦の拠点固めと兵糧の蓄積を行いさぁ家康討伐だ!って時に起こったのが、天正大地震。秀吉方は多くの拠点の物理的喪失と大垣城に溜め込んでいた兵糧を一挙に失いました
      勿論多少の無理をすれば戦えなくも無いですが、秀吉政権に取って当時の最重要航路である瀬戸内と重要な貿易港が多数ある九州確保の方が圧倒的に大事です
      結局家康とは講和を纏め四国・九州征伐を優先します。後知恵では”こうすれば”というのがいくらでも湧いて出ますが、豊臣政権より遥かに強固な江戸幕府でもたかが50万石程度の薩長を潰しませませんでした。キチンと法を守って恭順している大名をどうこうするのは現実的では有りません。足利義教という好例も有りますし、政権を守るためには自分も法に従わないと上手く行きませんね

  • @user-lb2cm2se3i
    @user-lb2cm2se3i Před 4 lety +13

    秀次一族を死罪にしたのも豊臣衰退の一因だろうな‼️

    • @user-qp1or3bw9q
      @user-qp1or3bw9q Před 4 lety

      我が子を殺される可能性があったし、可能性で滅ぼされてもおかしくない時代。一因かも知れんが、それがどのくらいのものかは誰もわからない。予想では殆ど影響がないレベルだと思うけど。

    • @user-yl1zd7dq1f
      @user-yl1zd7dq1f Před 2 lety

      @@user-qp1or3bw9q どこが殆ど影響がないレベルというのだろう

  • @norihoshiemon
    @norihoshiemon Před rokem

    秀吉が家康、利家らに事後を委ねた書状は「律義者」「竹馬の友」など情に訴えるものばかり。
    それでは動乱が起こる、そのぐらいのことは秀吉も分かっていたでしょう。
    だから「難波のことも夢のまた夢」と辞世を詠んだのでしょう。

  • @user-lw2oh5fs8h
    @user-lw2oh5fs8h Před 4 lety

    秀次が関白のままで健在ならまだ手を出しにくかったろうに。秀吉からすれば結局、秀次なんて実の息子でない赤の他人でしかなかったんだろうけど

  • @ehehe123456
    @ehehe123456 Před 4 lety +28

    秀吉は主家を横領したくせに、政権を継続させようなんて考えが甘すぎるねww

    • @user-nb8ms8jx6q
      @user-nb8ms8jx6q Před 4 lety +18

      やった事の報いをうけたのですよ。秀吉は

    • @user-og1hz5vr4q
      @user-og1hz5vr4q Před 4 lety +5

      一応、信長の敵討ちはしてるので、発言力が強まって当然ですよね。
      ところで、三法師は後年、織田秀信となり、関ヶ原の戦いでは西軍についていますが、心中は如何だっただろうと思うことがあります。

    • @user-ov3ol3cm2i
      @user-ov3ol3cm2i Před 4 lety +2

      でも信長もそうじゃない?

  • @hiue4042
    @hiue4042 Před 4 lety +3

    最後まで、さおりさんのワイプがあって欲しい

  • @user-rb3bh5ox7o
    @user-rb3bh5ox7o Před 4 lety +2

    子供が早逝したのも痛かったし
    前田利家 小早川隆景 だけでなく
    頼みの
    蒲生氏郷や堀秀政など 若手有能武将が早死し
    最も信頼出来た弟の秀長が 自分より早く亡くなり また 嫡男も 事故で早死にし 結果 改易にしてしまったのも痛かった
    五大老で言えば 前田家だけでなく
    宇喜多家も お家騒動があり 有能な人材が徳川側に入る事になった
    文治派と武闘派に分裂した豊富恩顧の武将の対立を巧みに利用し
    武闘派を味方にした事も大きい
    因みに 島津家が関ヶ原の戦いで僅かな軍しか出さなかったのは
    関ヶ原の戦いの直前に島津家の内紛があり 兵を出す余裕が無かったからと言われている
    その内紛にも 徳川家康が絡んでいたと言われている……
    秀吉は 唐入りしないで 徳川家康の勢力を減らすべきだった
    少なくとも関東八州ではなく
    武蔵 相模 伊豆程度に押えて置くべきだったと思う

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +3

    せめて弟の秀長に息子が居たらなぁ…
    秀保(秀次の弟)を養子にはしてたけど早死にしちゃったし
    秀吉一族の男子ってみんな呪われるのか?ってぐらい
    絶妙なタイミングで死ぬよね…

  • @user-uk6pp1nf3h
    @user-uk6pp1nf3h Před 4 lety +22

    そもそも、織田家との関係で秀吉のやり方から、豊臣政権の末路は当然だし、まさしく因果応報だわ。やっぱり最後は、一番力がある徳川家康が天下を取るのは普通の流れだわな‼️。

  • @user-xr7ro4wu7d
    @user-xr7ro4wu7d Před 3 lety

    家康っていつのまにか、大大名になったイメージなんですが、
    三方原で死んでたら、どうなってたんでしょう。

  • @user-og3eg9zu5m
    @user-og3eg9zu5m Před 3 lety

    そもそも豊臣政権が中央集権的で独裁政治を行なってきたのに、いわゆる五大老を設けて連合政権のようにした時点で崩壊してる。もし豊臣政権を存続させるなら秀次の子を三好姓に復姓させた上で五奉行を設けて秀次が秀頼に政権を譲渡するのを監視すればよかったと思う。

  • @user-fz8hq9gf9i
    @user-fz8hq9gf9i Před 3 lety +1

    秀吉の東国軽視もあるでしょうか?
    広い領土を家康に与えても、必ずしも稲作には向かない関東であれば、たいした経済力は持てないと判断したのかも?

  • @user-sd7gi8bx3j
    @user-sd7gi8bx3j Před 4 lety +10

    今日も、さおりは美しい~。

    • @user-yc9lh7no3k
      @user-yc9lh7no3k Před 3 lety

      話の論評をしてください?さおりさんばかりよいしよしてないで⁉️

  • @ERJ-170_NKM
    @ERJ-170_NKM Před 4 lety +12

    豊臣家唯一の勝ち組は秀勝(秀次の弟)やな。自身は朝鮮で病死したが、江との間に出来た娘の完子が九条家に嫁いで、その血が今の天皇家まで続いてる。同時に浅井や織田の血も入ってる。結局、秀頼も秀吉の子ではない可能性大だし。秀吉ざまー

  • @dxspex2292
    @dxspex2292 Před 3 lety +2

    そりゃそうだ
    渋々「従属」した大名に忠義心なんかある訳ない
    譜代が前田、宇喜多ぐらいで徳川、上杉、毛利なんて外様大名だろ

  • @user-qp1or3bw9q
    @user-qp1or3bw9q Před 4 lety +3

    秀吉は最後の最後で運が尽きたな。秀吉批判している人は、現代にモラルから物を言ってもしょうがないと思うけど。あの時代は武士道なんか無かったし、ガチで力こそ正義の時代やぞ。

  • @user-jn9wi4fu4c
    @user-jn9wi4fu4c Před 2 lety

    さおりスキェェ

  • @user-ke2wo3mt8e
    @user-ke2wo3mt8e Před 10 měsíci

    秀秋が「小早川家の家督を継いでいたため候補から外れていた」というのはおかしくないか?
    秀次も豊臣家の家督継承する前には三好家に養子に出されていて、三好家の家督を継いでいたんだから、別に他家の家督を継いでいたことは関白になれない理由にはならないと思う。

  • @user-ue5tc3mo1w
    @user-ue5tc3mo1w Před rokem

    五大老五奉行では、徳川家康の実力が突出していたし、頼みの前田利家が、死んだからだろうなあ!!
    大和大納言、豊臣秀長が健在であれば!!

  • @takakgw2634
    @takakgw2634 Před 3 lety +1

    織田がつき、豊臣がこね、徳川がくう!
    結局は絵に描いた餅(平和)が主。  
    今の政治家達は何を、つき、こね、くらっているのか?
    自分がこねている物が分からないと石田三成みたいに消えるだけ。

  • @kyonchannel6333
    @kyonchannel6333 Před 4 lety +2

    秀吉が死んだからな、前田利家も、そして、秀次など政権の地盤を支えた人を殺して、三成は嫌われてわかりやすい理由だね

  • @user-ks1nx8qx6y
    @user-ks1nx8qx6y Před 4 lety +4

    秀次を陥れた石田三成は秀吉死後、急に悲劇のヒーローになる無理筋が嫌い。

  • @Hayato_Takezawa
    @Hayato_Takezawa Před 3 lety

    五奉行 直属の部下
    五大老 外様の有力大名

  • @user-cd5qb6js1n
    @user-cd5qb6js1n Před 3 lety +1

    身内で殺し合いがいかんのや!
    仲良くせい!

  • @user-ws2rj6hj6i
    @user-ws2rj6hj6i Před rokem

    よく言われるのが 秀吉という社長が死んで会社をどうするかとなった時に
    家康と言う重役が下までに手を回したが
    反家康派は簡単にはいかないだろうと思っていた

  • @user-rt2tq7iq6x
    @user-rt2tq7iq6x Před 11 měsíci

    一番の原因は五奉行の石高が低すぎた事。
    石田三成がせめて50万石(できれば80万石)の
    大名なら全然違っただろう
    関ケ原では三成の不手際が目立ったがこれは
    自前の兵力が少ない事を考えればやむを得ない。

  • @user-lp9cf4gk2w
    @user-lp9cf4gk2w Před 2 lety

    秀頼をホントに秀吉の子供と思ってたのかな?みんな淀さんにだまされ…

  • @user-jo2pi9iv8m
    @user-jo2pi9iv8m Před 4 lety +2

    馬鹿その者秀吉笑

  • @user-jm2ze4ub9s
    @user-jm2ze4ub9s Před 4 lety +3

    結局、秀吉さんのいる間は、家康さんは何一つ出来なかったわけだし、家康さんは棚からぼた餅だっただけなのでは~?
    関ヶ原当時の世の中の気風自体が、秀吉さんの下で働いた武将の多くが、No.1のポスト秀吉、No.2のポスト家康、利家の座を狙って動いていた感じですし、戦働きのために多くの部下たちを雇い入れて準備万端の戦国武将は、一番リスクの低い家康さんに乗っかって戦争することで、領地の加増を狙っただけなのでは?と、思ってしまいます~
    その後の江戸幕府の仕組みについては、結構、秀吉政権の仕組みを受け継いでますし、そこは、後から補足したものの強みですよね~

  • @kazuyatoda1687
    @kazuyatoda1687 Před 4 lety

    最大の過ちは徳川家康を五奉行にしてしまった事…奴には江戸など与えず岡崎に閉じ込めておけばよかったのだ。

    • @user-nb8ms8jx6q
      @user-nb8ms8jx6q Před 4 lety +5

      徳川家康は五奉行ではなく五大老です。あと家康は先祖伝来の土地から超ど田舎の江戸に追いやられてます。つまり厚遇されるようで実は冷遇されてます。因みに江戸が発展したのは家康が10年がかりで街を作ったからです。そうやって金を使わせるのが秀吉の狙いだったそうです。江戸の急速な発展ぶりは秀吉にとっては想定外だったそうです

    • @kazuyatoda1687
      @kazuyatoda1687 Před 4 lety +3

      何で五奉行って書いたんやろ(笑)

  • @user-et8gn6ul6q
    @user-et8gn6ul6q Před rokem

    小早川隆景がもう少し長生きしていたら…唐入りが余計でしたね💧

  • @KARAOKE_BAKA
    @KARAOKE_BAKA Před 3 lety

    たぶん調子づき過ぎの秀吉は今のヒトが思うよりも世間の人気はなかったんしょなあ。家康は当時の常識派で当たり前。
    しいて豊臣家が勝つとすれば、秀吉の元気な内に石田三成と徳川家康との国替え!生きているうちにやれた!
    秀吉さんも甘いなあ〜。

  • @qzp01467
    @qzp01467 Před 2 lety

    五大老制度がそもそも間違いだろ秀吉の腕力で押さえいたが所詮は外様で、
    いつ背後から刺されるかもしれない人間を政権の運営に関わらせたのが間違い。
    徳川幕府の外様の扱いみたいに、権威だけはあるけど政権運営に関わらせなければ良かったんだよ。

  • @user-yuimin.0923
    @user-yuimin.0923 Před 4 lety +10

    豊臣の世が続かないのは
    自業自得でしょ
    主家を乗っ取り、天下を取ったら好き勝手しまくる
    直子孫もないし、ざまぁみろ
    私は関西人なんですが
    関西では秀吉を
    太閤はんと慕われてるけど
    私は秀吉嫌いです。
    そもそも、秀吉は尾張出身だから
    何故関西で太閤はんと慕う必要ある?

  • @user-hd3xs9kw6b
    @user-hd3xs9kw6b Před 4 lety +1

    なにがいけなかったのかってさあ。そんなの簡単に分かるだろう。俺の大嫌いな、徳川家康のタヌキがだまし取ったからだよ。