【空白の日本古代史】ここまでわかった!庶民のリアル【衣・食・住】

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  • čas přidán 20. 08. 2024

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  • @user-mv8lc5up2y
    @user-mv8lc5up2y Před měsícem +3

    空白の4世紀という話はよく聞きますが、中国に記録がないという点では、6世紀の日本も、600年に聖徳太子の遣隋使があるまでは中国側の記録はありません。その意味では空白の6世紀です。そして6世紀の大和朝廷は、それ以前の倭国とはかなり様変わりしています。すなわち、雄略天皇以後の大和朝廷は(倭王武が雄略天皇だと仮定します)、雄略天皇までと異なり、なぜか突如朝鮮半島の権益への関心を失い、その後も関心が薄いように感じます。だから、ほどなく任那を失い、朝鮮半島の権益を事実上失ってしまいます。それを取り戻そうと約100年後に出兵しますが、だったらなぜもっと早くしなかったのか不思議です。つまり、倭の五王と継体天皇の間で王権の対外政策が激変したように思うのです。
    仲哀天皇と神功皇后の話は、私の妄想では、第一大和朝廷と邪馬台国の連合王国の樹立を意味したのではないかと考えます。神功皇后は卑弥呼ではなく、恐らく邪馬台国の女王を象徴しているのだと思われます(邪馬台国は代々女王国だったと思われます)。邪馬台国は朝鮮半島に権益を持っており、この権益を守るため第一大和朝廷との連合を欲した一方で、第一大和朝廷側も、九州北部までを戦わずに勢力圏にできるということで、第一大和政権側を上位、邪馬台国側を下位とする連合王国が樹立されたのではないかと考えます(初代の大王は仲哀天皇となります)。そしてこの連合によって、邪馬台国の人々は北九州から大和地方に移住したのではないかと思われます。以後第一大和朝廷は、邪馬台国の朝鮮半島の権益確保のための戦いに巻き込まれることになりました。それが仲哀天皇の不可思議な死の話になったのではないかと思われます。つまり、それは、連合王国内の、対外政策を巡る主導権争いにおいて、第一大和朝廷側(九州征服の優先を主張)が、邪馬台国側(半島の権益確保を優先を主張)に敗れたことを神話化したものではないかと思うのです。そして邪馬台国は中国に朝貢していたので、連合王国内で主導権を握った邪馬台国系の主導で、連合王国の倭の五王も朝貢したものと思われます。
    しかし、連合王国内の主導権が邪馬台国側に握られ、自分たちとは無関係の邪馬台国の朝鮮半島南部の権益確保のための戦いに巻き込まれることに対して、第一大和朝廷の有力者らには不満がかなりあったのではないかと思われます。そして雄略天皇没後、それが連合王国内の権力闘争を生み、第一大和朝廷系の勢力が邪馬台国系の勢力との権力闘争に勝ち、迎えたのが継体天皇だったのではないでしょうか。こうして擁立された継体天皇は第二大和朝廷の祖となったと思われます。そしてここに今の日本につながる日本という国が生まれたと思われます。継体天皇が、応神天皇5世の孫とされていることは興味深いです。邪馬台国の王統の血も受け継いでいることで、邪馬台国系の人々の忠誠をつなぎ留めつつ、第一大和朝廷の王統から非常に遠いということで、連合王国の過去の対外政策(朝貢)からフリーハンドを得ることが可能になったのだ思われます。こうして隋に遣使するとき、朝貢しないという選択が可能となったのだ思われます。しかしその後も邪馬台国系の勢力の巻き返しがあり、日本は最終的に白村江の戦いまで、半島の問題に巻き込まれ続けることになったと思われます。

  • @user-tx5ge2nw7t
    @user-tx5ge2nw7t Před měsícem +2

    一コメです