【豊田副武の生涯】最後の軍令部総長。終戦間近、米内に激しく叱責されるも徹底抗戦に奔走。
Vložit
- čas přidán 17. 08. 2023
- こんにちは。『祖国日本』です。
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帝国海軍最期の軍令部総長になったにも関わらず、その海軍の代表としての後始末をつけることを拒否したのは酷いな。
梅津参謀総長がだれもが嫌がった連合国との降伏調印の役を引き受け帝国陸軍の後始末をつけたのと比べたら無責任。
いやいや引き受けたにしても、引き受けたからにはやることはやるべきでしたね。
戦後になって出版した自著をもって豊田を好意的に評価するのは疑問が残る。
「あの時はこうだった、止む得なかった」とは誰でも言える、当時どう身を処したかが問われるべき。
あと連合艦隊旗艦が軽巡大淀になった時、「軽巡ではなく、戦艦にしてくれと」と言ったとか。拘る所が違うだろうに。
その挙げ句はフネを下りて慶応日吉の防空壕に司令部を移したしね。
阿南さんのように敗戦の責任を取って切腹していれば評価が変わった。
結果的に自決で徹底抗戦派の暴発を食い止めた阿南さんならともかく、「やむを得なかった」なんて豊田さんが言ってもなぁ・・・
「戦後になって出版した自著をもって〜疑問が残る」
には同感。
ただ、それを上手くやり切って「海軍善玉論」のアリバイ作りに成功したのが井上成美・高木惣吉の徒輩だとオレは思っている。
結局「アンチ陸軍」のみ
自己中なキャリア志向
猛烈な他者批判と自己弁護
保身意識
乏しい軍才
「臭いものに蓋」的なバックレ
等々、この3人は戦前戦後の役人的な処世も酷似している。
海軍の辻政信と言われた神重徳参謀の立案で大和特攻のGOサインを出したイメージしかない提督です。
単なるご都合主義者という形容が相応しい。米内の唯一の人事失敗が豊田を左遷しなかった事だろう。
上海陸戦隊の大山中尉・斎藤一水射殺事件の頃は米内海相の軍務局長で、「馬糞がゴリ押しをするからとばっちりがきたんだ」と憤激したくらいなんだよね。
米内さん山本さんとの関係も悪いものではなかった。
それ故に抗戦主張を同調することはあるまいと踏んでいたのに、急に何をこの期に及んで…というのが偽らざる気持ちだったでしょう。
とはいえ軍令部総長は海相の部下ではないので、自ら辞意を表さない限り左遷的な交代もさせられないのですよ。
こういう人いるよね。
上司達は細かい事を指摘する人物を
仕事が出来ると勘違いするんだよな。
で、実際やらせてみると大して出来なくて
言い訳だけは上手い人。
同感。
井上成美なんぞも結局その手の人物。
要職を押し付けあう。末期も末期。
現代の政府も責任逃れ体質。
何も学んでいない。
米内海相にこっぴどく叱責された時は大西次長とともに呼び出され、抗弁できない総長を横目に海相と次長が激しい口論になったそうです。
呼び出しを取り次いだ保科善四郎軍務局長や実松譲秘書官らは、大西次長がいつ暴れだすかとものすごく緊張して身構えていたと。
大和の海上特攻に信念もなく裁可し、海軍で唯一徹底抗戦を訴えた男、GF、総長の要職にいたのに死刑免れる運だけはいいのが取り柄の軍人。
日本海軍人材いなかったんだなぁと思わせる男。小沢山本は毀誉褒貶あるけど有能な部分もあった。豊田は言うまでもない、島田杉山永野宇垣あたりの同類。古賀はどうだったんだろうね。
同感。
古賀については、聯合艦隊司令長官就任後、某参謀に
「おい、最近戦争の状況はどうなっとるか」
と尋ね、毎晩将棋の相手をしてもらいながら細かい戦況を進講されていた、
‥‥という話が吉田俊雄さんの著作に載っている。
福留参謀長が仕切り倒していたからだというのだが、戦時の現場指揮官として有能な人とはちょっと思えない。
(山本五十六は参謀長の宇垣をハブにしたらしいが、司令長官ならまだしもこの方が筋は通ると思う)
その福留も、海軍乙事件では作戦計画書をゲリラに奪われる失態を犯したが、米軍に渡るとは想致できなかったのか、ツラの皮が厚いのか
「米軍には渡っていない」
との強弁で逃げ切り、後に二航艦の司令官となって特攻作戦を指揮した。
(情報漏らした男が、である)
平時の評価は高かった古賀だが、亡くなった後に、
「さぞ不本意だったろう」
「あの人が生きていればこうしたろう」
という話もあまり聞かない。
軍令系が長かったとはいうが、豊田副武同様、序列によるピンチヒッター扱いだったのではないのか。
昭和ヒトケタ生まれの我が家の長老は、当時は国民学校の学童だったが、
「山本長官の戦死は、大戦争なんだからそのくらいあるだろうとは思っていた。次の古賀大将は、名前聞いたらすぐに戦死(実は殉職)した感じで、前線はどうなっちゃっているんだろうと不安になった」
と言っている。
大角人事が海軍の終焉でした!
大の陸軍嫌いのイメージしかないね。東條が彼の顔は見たくないと言ったのは有名😮
「馬糞」「陸助」「私はカーキが嫌いだから務まりませんよ」
結局「陸軍嫌い」が「能力」と見なされていたのが海軍という組織だったのだろう。
アンチ陸軍の理論武装要員。
似たような人物に、井上成美がいる。
豊田穣(海兵68期)の江田島生活描写を読むと、現場勤務の経験も持たぬ海兵生徒あたりでさえ、なにかと
「○○が出来ぬやつは陸軍へ行け」
と下級生を叱りつける場面が頻発する。
軍人は陛下の股肱なり、と教えこんだという陸士とは随分違うのだ。
陸軍に比べ小さな所帯で一人あたりでは多くの予算を取らねばならぬ必要もあったろうし、特殊技能集団としてのプライドもあったろうが、お国のためには相当な害を為した。
アンチ陸軍しかロジックを持たぬ井上成美による同類豊田副武への評価は、戦前戦後で180度転換している。
戦前には陸軍に楯突いているからエライ、戦後には陸軍に流されたからダメ、というものだが、井上成美自身も所詮その程度の論理基準で過ごした人だったということだろう。
相手を罵倒する言葉は辞書が作れる位豊富だったらしいですね。
「鉄砲人足」「三等大将」等が有名ですね。
🌴🌏🐎配信ありがとう✨御座います🐋🐳
厳しい時に長官に親補されたのは同情できますね。着任して一ヶ月くらいであ号作戦だし。総長になってからは微妙ですが。
軽巡洋艦大淀に一時的に聯合艦隊司令部を置いた長官。
そのあとは、慶應義塾大学日吉キャンパスに設けた地下壕に移す。
豊田副武海軍大将は、三田の防空壕に引き籠り、各作戦のそれぞれの艦隊司令官に督戦に務めていただけと言われていますね。
取り分け、あ号作戦では、連合艦隊司令官以下が率先して先頭に立たないと、作戦運営が不可能なのに、地下壕に引き籠りました。
結果、囮の小沢艦隊は自滅しながら目的を達したけど、作戦本旨の打撃部隊の栗田艦隊は引き返しました。
結果からも、統率を放棄した連合艦隊司令長官でした。
連合艦隊司令長官も、山本五十六を含め「任にあらず」という人がその地位を占めるに至っていたのは何が原因ったのでしょうか。連合艦隊司令長官は実戦部隊の最高指揮官であったはずです。
海軍そのものが官僚化していて、役人資質のものが上に行く様になっていたから。
@user-mu5xc5wc8b
各地に聯隊を置いて国民との繋がりが強い陸軍に比べ、小さい所帯で存在意義を主張していくという事情からか、実戦能力・艦隊運用能力云々よりも
「陸軍相手に張り合える理論武装ができる者」
が上に行っていたのが海軍という組織だと見受けられる。
現場の若手にマンリーナイスな者が多かったのは、確かに事実なんだろう。
そうした人々の奮戦は、これは永久に称えられるべきなのだ。
その一方で、そんな現場の連中から「赤レンガ」と揶揄された上層部(乃至出世コース)を見ると、結局
「いかに陸軍相手に理論武装できるか」
だけの人が多い印象は否めない。
井上成美の「○等大将」なる評価も、一等大将とやらの中に実戦の名将は一人もおらず、
「いかに海軍の省益確保に有能だったか」
的なメンバーが並んでいることは象徴的だと思う。
(さればこそ、陸軍嫌いで有名だったが終戦時には陸軍に引きずられた豊田副武への井上成美の評価は、絶賛→酷評と、180度回転している)
井上本人も結局「反陸」以外に大した成果も挙げられず、実戦ではしくじってばかりいたことも
「官僚軍人が上に行く組織」
であることを象徴するものだと思う。
実践派の草鹿任一(井上成美の同期。仲は悪かった)は、
「(軍人の本務は)忠節を尽すを本分とすべしであります」
と答えた部下に
「陸軍みたいな返事すんな。軍人の本分は、戦いに勝つことじゃ」
と答え、同じく実践派の黛治夫は
「俺は現役時代、部下にスマートであれと思ったことなぞ一度もない。勝てもしない奴らが屁理屈言ったって仕方ない」
と喝破した。
一つの国で陸海軍別々に仮想敵を策定して予算を取っているという状態が既にバグっているのだ。
「海軍は最悪の利権官庁だった」
と評したのは、兵頭二十八さんだった。
読んだ当初はひどい書き方だと思ったが、「官庁」に限ればかなり同感である。
飛車角落ちて金銀も一枚ずつ状態の末期に最後まで自身の立場を演じきるのはエリートならではか。
御聖断すら鈴木首相が一番年上だからぐらいしかないよなぁ。
開戦前に海軍大臣になり損ねたり、GF長官就任を嫌がったことなどの経緯を見れば、決して良識のない人物とは思えないが、山本や小沢と違って人望はホントになかったんでしょうね。超うるさ型だし。
あと草鹿とのコンビは、お互いに欠点を増幅するだけだったと思います(山本と黒島、古賀と福留も同じ)。小沢が「GF長官が陣頭指揮をとれ」と激怒したのも無理はない。
悪人でないが場当たり的な思考の方…という印象です。
ここでもさらりと伏見宮が出てくる…
陸軍大嫌いではあるが受諾反対は梅津と息を合わせている(苦笑)
これは軍令という立場からかあるいは強硬派将校に対するアリバイ作りか。
また「アメリカに負けて良かった陸軍じゃなくて」発言もあるとかないとか。
一つ言えるのは弱い者いじめは大嫌いだとかはある。
それにしても陛下の米内に対する信任は厚いね。
「日本の1番長い日」でも最高戦争指導会議のポツダム宣言受諾反対派の一人としか書かれておらず、自分の中では謎の人物だったが、この動画を見る限りでは、能力もあり、融通はきかずに、状況判断にも疑問は残るものの、国のために筋を通す人物のように見える。でなければ、戦争早期終結を唱えながら、あの状況で上司の米内に逆らってでも反対すると言うのは考えられない。本人の言う「海軍の若手将校を抑えるため」というのはそのまま受け取っていいのではないか。
その血気はやる若手将校を抑える事が出来ずに徹底抗戦派の陸軍に同調した地点で、どんな理屈を述べようとも筋を通すとか以前の問題だから“無能”と言えるだろうね。
@@tomonorifuruya967 ただ、阿南惟幾が徹底抗戦を主張していたのも結局部下に対するアピールで、それプラス「自らの死」を持ってようやく抑えることが出来た状況を考えれば、「国体の護持」だけでも確約したいと考えるのは、軍のトップとしては当然とも考えられます。ここは米内とは考え方は分かれるけど、それは個人の捉え方の問題かと。
@@meziro210
同感
豊田は連合艦隊司令長官としては終わってます。
司令長官の判断でないとできないことが多いレイテ作戦で指揮放棄ですから。
軍令部総長としてですが、あの海軍の状況では豊田の仕事は陸軍との主導権争いしかしてなかったと考えてます。
海軍は艦艇を失い、陸軍に事実上吸収という話も出てましたから。
本人としては、自分のいる海軍をなんとか組織として残したいとしか考えられない状況だったのではないでしょうか。
沖縄特攻に大和の出撃を参謀長を通さずに直接決裁した豊田なので、
あまり組織のプロセスは重視しないと思います。
「若手将校を抑えるため」とのことですが、
戦後の海軍が形を変えてでも残せるようにとの行動と思います。
よくも悪くも海軍の事しか見てない人のような印象を受けるので。
程度はありますが、豊田は海軍の利益だけを考えている度合いが強い気がします。
具体的な終戦工作の痕跡がないのも、
本人がしたと言っているのと矛盾してますが、
一部の海軍将校の話を傾聴した程度で、陸軍と話そうにもコネがなくそもそも何もできないとか。
@@user-wb2jg3is9b
強く同感。
・部下を前に押しやるが自分は陸上で事実上の責任放棄
・理屈は言うが極度に実行力欠乏
・自称はするが具体的な詳細が不明な「終戦工作」関与
・猛烈な反陸軍
・「よくも悪くも海軍のことしか考えていない」言動
・他者への毒舌とオノレへの言い訳上手
等々、井上成美と非常によく似ている人物なのだ。
井上成美による豊田副武への評価は、戦前の称揚から戦後の酷評へと、180°変わっている。
こんなところにも小役人的な根性が透けているのたが、酷似した人間2人のうち、戦後の言い訳に成功したのが井上成美、しくじったのが豊田副武だと思っている。
戦争を集結させるための高い志は感じますがそれを行動に反映せず…反対派とも実は別の考えを持っていたという部分も頂けない…。やはりイメージは悪いでしょう。
その時、その当事者ではないと語れない事、理解できない事はあると思う。しかし、個人的な感覚では終戦の海軍指導者としての資質は疑問が残るのではないだろうか。
実際に最後の連合艦隊司令長官である小沢治三郎と比較すると、胆力その他を比較しても見劣りしてしまう。
連合艦隊旗艦を戦艦にと言うのであれば、指揮官先頭でレイテ沖海戦に出撃し、陣頭指揮を取っても良かったのではないだろうか?安全な後方で無電を聞いて督戦するだけでなく、自ら陣頭指揮を取れば艦隊の士気も上がり大和以下の戦艦部隊もレイテ湾に突入したのでは?
そこで、仮に最後を迎えたとしても、それこそ自身望んだ武人らしい最後を迎えられたと考えてしまうのは私だけだろうか?
同感。
大和の水上特攻作戦の折に、聯合艦隊司令部から第二艦隊司令部に命令と作戦の詳細を伝達に行った参謀が、自分が安全地帯にいながら水上特攻作戦を命じる様なマネは出来ぬと思い、
「私もお供させていただきます」
と申し出たところ、2艦隊側からは即座に
「督戦なんぞされんでも、こちらはこちらでちゃんとやる! 帰れ!」
との凄まじい回答があり、追い返される様に退艦したのだとか。
安全地帯からイイ気な命令出しやがって、との現場の感覚は非常に強かったということなのだろう。
死ねばいいのだとは全く思わないが、安全地帯から部下に無意味な死を強要していると思われたなら、それは指揮官落第だろうとは強く思う。
アタマの良し悪しは関係ない。
大和特攻の時の神重徳参謀の話ですね。
当時の連合艦隊司令部は無責任とまで言いたくはないが、「なぜ、その状況でこんな事が言える?」と言う作戦が横行していたと思われる。
永野修身は天皇陛下に「航空特攻で全力を尽くします」と奏上し、「海軍にもう船は無いのか?」と質問されて大和の沖縄投入を決定。
連合艦隊司令部はロクに作戦も検討せず、護衛も付けず、ただ自分達の面子を保つような行動ばかりしていた様子がある。
その状況で「一億総玉砕の先駆けとして死んでくれ」の命令伝達。それでは、出撃する第二艦隊司令部から同行を断られて叩き出されるのは当たり前では?
現代でも部下に責任押し付けて現場の状況を全く理解せず、だた採算だけ弾いている人の心を失ったバカが指導者が居るが、そんな所に無責任指導者の遺伝子が残っているのは悲しい事だと思う。
私はこの人が大将になった時、同期のもう一人の豊田貞次郎という大将がいましたが、もう予備役に入って、海軍から去っていました。両方とも、あんまりいい性格の提督ではないので、これも大角人事の影響なんだなと思いました。大角岑生を今度取り上げてください。元ネタは阿川さんが書いた著作ですが、同期33期のうち、詳細なことを言うともっと有能な海軍省よりの提督候補者が、予備役に編入されているようです。
大角人事なんて昭和8年の話。
豊田貞次郎の予備役編入(いわば退職、しかも貞次郎は「自己都合」)は昭和16年の半ばだ。
(大角自身が昭和11年の二・二六事件の直後に海軍大臣を辞している)
これでナニが「大角人事の影響」なのか。
そもそも豊田貞次郎の退官自体、本人の意思によるものだ。
元々相当な機会主義者で「大将になりたい」が口癖だったり、猟官運動じみた手紙を山本五十六(次官)に送ったりと、同期以外の評判は悪かったが、
「大将になったってやれるのは海軍大臣だけだから」
とて、海軍大将昇任を条件に予備役編入/商工大臣就任を受けたものだ。
8年も昔の大角人事なんて、ナンも関係ないし、豊田貞次郎本人もむしろ伏見宮からは嫌われていたとも言われている。
この大将引き換え辞任で、お仲間意識の強い海軍部内で
「豊田貞次郎は海軍を踏み台にしやがった」
と悪評が決定的なものになった。
やれ「大角人事」のナンのと、何でもかんでも「悪役大角」やら自分が知っている事象やらに結びつけて解釈するのは、無知なヤカラのやることである。
阿川作品しかソースを持たぬ手合には、こういう者が多い。
追加
ところで「同級33期のうちもっと
優秀な海軍省よりの提督候補者が辞めさせられた」て誰のこと?(笑)
豊田貞次郎は33期のクラスヘッド(首席)ですぜ。
「オレは中学校以来一位を下りたことなし」
とか平気で言う者だった由。
いかにもそんな海軍エリートらしく、ツジツマ合わせの艦隊勤務以外、ほぼ省内勤務か留学が殆どの経歴なのだが。
なにも8年だけではないんですよ。9年から11年までやってるんですよ。何も人事問題は、その場限りの問題ではないんです。後まで影響してくるんですよ。結局、伏見宮さんは好戦的なことを言っておられたようでして、それを抑えるべき海軍のトップクラスの提督がどんどんいなくなっているという事に気が付かないんですか?次の席次は大角なんですよ。彼は2.26の時も腰抜けでしたが、要するに自分の地位にだけ固執するような小さい男なんです。彼が海軍大臣の時の行った条約派の人達の粛清人事についてどう思われているか分かりませんが、非常に大きな影響があったと思います。これは海軍部内におけるお家騒動の終末のようなものではないかと思います。なにも33期だけが、問題ではありませんけどね。豊田貞次郎という人は、いわゆる大臣病患者なんですよ。@@user-fo7ig9vh3m
@@user-jy4fc2pm3m
「8年だけじゃないんですよ。9年から11年までやってるんです」
には大笑いした。
アナタそもそも「大角人事」って知らないのか?
大角人事→昭和8年から翌年にかけての条約派追放人事
というのが概ねのコンセンサスだ。
そしてまた「11年まで(大角が)やっているんですよ」なんだそうだが、むしろ昭和10年以降には、
加藤寛治
中村良三
小林省三郎
枝原百合一
あたりの艦隊派重鎮が次々と引導渡されている。
(加藤は艦隊派の大親分、中村は戦術の大家、枝原は初期の海軍航空の管理者)
「人事はその場限りではない」とおっしゃるアナタ的には、大角のこういう人事はどういうことになるの?
こちらは影響なかったことになるのか?
ん?
条約派でなけりゃ(お前的には)影響ないことになるのか?
是非御見解をお聞かせ下さい。
8年も前の人事が「その場限りの問題でない」というのなら、それこそ何でもアリだろう。
8年間で何人の大将中将が出たと思ってるのか知らんけど、クラスヘッドをいいことに自分から
「大臣になりたいから大将にしてくれたらやめます」
と申し出た豊田貞次郎の昇任まで「大角人事の影響なんだ」というなら、それこそナンの実績も無い井上成美なんて者が同期で一人だけ大将に上がれたのはどうなるの?
「大角人事の影響だ、大将にアキができたからだ」
ということになるのかね(笑)
大角人事の真っ最中に伏見宮の不興を買ったとかで、外国帰りの少将進級したてで工廠長に吹っ飛ばされて冷や飯食わされた豊田貞次郎、そんなもんでさえ後に自薦で大将にはなれているわけだが、これがアナタ的には「大角人事の影響」なのだそうだから、実績皆無の井上成美の大将昇任なんぞも多分そう言うことになるんだろうね。
アナタ的には(笑)
伏見宮を止められる人材云々というのも斬新なご意見だが、百武源吾なんていう、アノ加藤寛治と大喧嘩する様な硬骨漢だって、とにかく残ってはいるのだ。
それでなお大角人事で辞めさせられた中で
「伏見宮を止められた?にも関わらず辞めさせられた」
人材というのは「何デモカンデモ大角ワルイ」なアナタ的には一体誰のことなのか、具体的な根拠つけて是非御教示願いたい。
「この人のこういう言動からして、伏見宮のコレコレの動きを阻止できたはずだ」
というロジックで。
阿川作品読んで名前だけ知ってる人を羅列する、なんてものは無しで、な。
聞いてあげるよ。
追加
「詳細いうと、33期の更に有能な提督候補が予備役編入させられた」
云々と言っていたクセに、
『豊田貞次郎は33期のクラスヘッド(経歴はほぼ海軍省オンリー)だが、更に優秀な海軍省よりの提督候補って誰のことだ』
と尋ねた途端に
「33期だけが問題ではありません」
と話をゴマカス。
そういうアナタのやり口というのも結構卑劣なもんだと、見ていてそう思いました。
で?
豊田貞次郎より有能で海軍省よりだが大角人事の影響で予備役にされた33期の提督候補者って、誰のことなんや?
@@user-fo7ig9vh3m 別にクラスヘッドでも、なれなかった人は多い。伏見宮に嫌われたのは、軍務局長を堀悌吉から引き継いだ時に失敗したからだし、そのおかげで数か月で軍局長を追われましたから、もうだめだと思われたこともあったとか。この人は大臣病になった人。あと一人いるんですけど、ここでは取り上げない。頭いい大将なら、ちゃんと仕切ってくださいよと言いたい。後彼は大将だけど、戦争から逃げた人というお話があります。あいつは海軍を踏み台にしたと同期からも見放されたらしい。本当は、海軍大臣になりたかったらしいから。その辺がおかしい。大角がこの後大臣を引いた理由は、次のターゲットに彼自身が上がっていたという噂があったから。次官だった長谷川清から言われたそうですけど、本当なんですかね。本当なら、33期の中で条約派と目されていた坂野常善中将なんかが彼の対抗馬になっているはずでしたね。ただ、ネックは海大を卒業していない事かな?
この動画を見て良かったです
日本の終戦には米内さんが重要な役目を果たされて、豊田さんは評価されていないと思うのですが、ここは日本人の美徳の中に自分の意見を言えなかったと思いました
豊田はレイテでまともに指揮しない時点で終わりでしょう。
沖縄特攻にも。
珊瑚海での井上成美と同じ。
うまく行かない現場には出ないがうまく行ったら手柄はオイラのもの、というキャリア思考。
大した実績もなしに「反陸軍」だけで上にあがった点も井上成美と同じ。
……というより、実戦上手な人材よりこういう者が上にあがるのが日本の海軍だったということなのだろう。
連合艦隊司令長官としてなぜ大和に座上して沖縄に突入しなかったのか。自分は日吉の防空壕に逼塞しておきながら、大和に出撃命令を出した。帝国海軍最後の艦隊出撃を長官として自ら指揮して討ち死にしなかったのか。戦死していった幾多の将兵に対して申し訳ないとは思わなかったのか。特別攻撃隊の隊員たちに申し訳ないとは思わなかったのか。生きて虜囚の辱めを受けずといって散っていった民間人さえ多数いる。
戦後もおめおめと生きながらえて恥ずかしくなかったのか。
同感。
結局、ガッコの成績がよくてアンチ陸軍の理論武装(海軍利権伸張)に有能ならば軍人として無能でも出世したのが昭和の海軍。
豊田副武、井上成美、高木惣吉、石川信吾らはこれなり。
山本五十六は謀殺ではないでしょう
戦地で敵司令官が搭乗した飛行機を撃墜することを謀殺とはいいません
言葉は慎重に選ぶべきです
苦しい解説 炎上を怖がってるのかな?
イチコメ
豊田さんのことを一方的に悪く言うのも、問題だと思うけど。