なぜ家臣たちは豊臣家を裏切ったのか
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- čas přidán 16. 09. 2023
- すでに当チャンネルでは徳川家康と織田信長を
裏切った家臣についてご紹介していますが
戦国三英傑のもう一人、豊臣秀吉の豊臣家にも
お家を裏切った男たちがいました。
彼らはなぜ天下を取った豊臣家を裏切ったのか?
裏切った先に彼らが辿った末路はどのようなものだったのか?
今回はそんな裏切りをテーマに動画をまとめてみました。
※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます
※使用している背景映像はフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています
※BGM提供bgm.taiyakiojisan.com/
#どうする家康
#大河ドラマ
#豊臣秀吉
#裏切り
#小早川秀秋 - Zábava
『葵 徳川三代』では片桐且元を演じていた小林稔侍さんが豊臣家安泰のために豊臣家と徳川家の両方に奔走、努力するも願いかなわず・・というその苦悩する姿
を見事に演じられていてとてもすばらしかったです。このドラマでは且元は最後切腹という悲しい結末でした。
秀吉は天下取ったと言っても横取り天下だし。調子のり過ぎて色々やりたい放題だったから私でも秀吉裏切ってた😂
横取り天下の一部始終は秀吉の家臣始め周辺諸国が目にしている事である。
これが秀吉を裏切ったになるなら、福島正則とか加藤清正、黒田長政も裏切りじゃない?
そりゃそう
徳川家康からして裏切者になる
乖離ありすぎて、秀吉一切関係なくて草
今の「裏切り」と当時の「裏切り」は意味合いが違う。
もちろん根回し無しじゃダメだけど
御家存続を考えて上手く付き合わなきゃいけないからね
小早川秀秋の場合、秀吉に厳封された後で家康に加増されている。
これを新恩給付と言って秀秋としては新たに家康に恩が生じたのだから、関ヶ原で家康に合力するのは裏切りとは言い切れない。
秀頼が産まれなきゃ良かったし産まれても秀次挟んで秀頼にしとけばよかったのにと簡単に思うけど難しいんだろうな
秀頼産まれずに秀次が完全な跡取りとなって尚かつ秀長と前田利家が長生きだったらね…
たら話しなどしていたのでは、話しが膨らみ過ぎて訳がわからなくなる。
たら人間は信用出来ない。
@@user-tk5xc2fj4i歴史のひとつの楽しみ方否定してて草
関ヶ原の戦いの結果は豊臣家を裏切りと言うよりも、内政担当である五奉行筆頭石田治部と外政担当五大老筆頭徳川家康間での内部対立と言う視点で見たら、石田治部が嫌いだから合力出来ないという三成不人気説もあるかと…
動画内で「豊臣家の養子として出世したのに西軍を瓦解させた」と言っていますが、豊臣家内部の対立と考えるのであれば豊臣家への裏切りでも何でもないですよね
やはり悲しいかな...。
かの「秀次事件」での「後遺症」は、大きかったのでしょうね。
亡き関白.豊臣秀次と懇意の有力武将が、実務の多くを仕切っていた石田三成への不満の勢いのまま...。
徳川家康へ加勢する結果となってしまったからでしょう。
片桐且元は裏切り者とは言えないでしょう。彼は淀の方や大野治長達に追放された上、追手も差し向けられています。
でもやっぱり、、、正純の子供と且元さんの娘が結婚ってなったらそう考えてもおかしく無いと思います、、。
ただどの話しが先なのかは誰もが知り得ない事ですけどねwww
そもそもが家康の命令で傅役になったとも言われてますよね〜、、
そうですか・・・初めて知りました。ありがとうございます。
まず鐘で家康の名前を割った清韓を指名したのが且元なので責任は重大と言える。方広寺再建の責任者も且元。
「秀頼の親代わりとなってほしい」「(且元の忠節は)命ある限り忘れることはない」と淀に言われながら、言われてもいない厳しい条件を大阪に突き付け、これが秀頼が浪人を集めだす契機になった。
且元を追放したあとも秀頼は家康に敵意がないことを伝えるが、且元追放=戦争準備と受け取られ大阪の陣が勃発する。
大阪の陣では初期から大阪方との戦いに参加してる。主に海上からの補給潰しを担当。淀に和睦を決意させたとも言われる大筒撃ちをしたのも且元。
大阪夏の陣では秀頼は最後に且元に命乞いをするが、且元は即座に秀頼の隠れ家を秀忠に通報する。
@@user-wk5pq8fn3h様
そうなのですね・・・
片桐且元は、巡り会わせがトコトン迄に悪い人なのでしょう。
運が悪い・・・だけでは言い表せませんね。
戦国時代では珍しい善意の人ですが、腹芸ができなくて、裏切り者扱いされる所まで行ってしまったのかなぁ・・・
秀吉には譜代いないのが弱点だけど、鶴松が生まれた時点で織田一族を親藩として育てれば良かったのにと思う。
信雄、三法師、美濃と尾張の地盤。淀君の縁で浅井の遺臣も取り込めたのに。
それをいうならそもそも秀次を殺した時点で、秀吉の時代が短い事はよく囁かれていたしな……
豊臣家には代々の譜代の家臣というのはいない。
しがらみのない身軽な立場から出発したからこそ秀吉は天下を取れた。
しかし、秀吉が世を去れば、豊臣家に忠義を尽くす家臣も限定的だった。
なりふり構わず功を立てることができたのが強みでしたものね。まさにワンマン経営の初代のような人ですね
いや、秀吉と同じ時代に生きた人は秀吉の死後も豊臣に忠義を尽くしてましたよ
公家たちも大坂の陣も直前まで徳川より豊臣優先でしたしね
そういう人たちが死ぬまでは家康も江戸幕府を開きながらも豊臣の下の徳川という立場を崩しませんでした
加藤清正らが死ぬまで待ってから豊臣を潰す動きを始めます
そりゃ石田三成の人望の無さが原因だったのでは?それにしても小太りイメージの家康がマツジュンとはねぇ。ジャニ関係はしらなくパージされることを祈る。
ナンダカンダで東軍に参加してたら言い訳がましいかな。。。
今も昔も、信用第一、信用を守るためには苦労は、並大抵ではないよね。
信長、秀吉の生涯は勉強になります。中小企業でも2代目、3代目を育てるのは難しいです
ジャニーズ事務所もジャニー喜多川が世を去ればこうなるのだろう。
関ヶ原で東軍に付くことは豊臣家を裏切ったことになったらないですよね。なぜなら西軍=豊臣家ではない。徳川家康だって当時は豊臣家の家臣(もちろん野心はあったと思うけど)。
秀秋は最初から家康に付いていた。三成に画策により、領地削減されたのを家康に助けられている。
大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りを大方予想してたと思ういますけど、対策手は打てなかったでしょうか?
家康は秀秋の軍勢に対して催促で、大筒や鉄砲を撃ちかけたと
@@user-tu3wu3wx3n ちゃんと脇坂・赤座・小川(と朽木といわれるが彼は非参戦説もある)を配備していた
が、脇坂が黒田長政に「小早川が東軍になったら自分も裏切ります」と事前約束していたことは読み取れなかった
関ヶ原に関しては豊臣家臣同士の争いだから豊臣を裏切ったわけではないけどな
おっしゃる通り。
片桐も3か条を突きつけたのは豊臣を残したい気持ちだっただろうと思う。
むしろ大野に暗殺される前に淀が逃がしたとも言われてるし、誰も豊臣を裏切ってないかもしれないですね。
豊臣って大坂の陣でも基本誰も寝返ってないし、金だけはあったから羽振りは良かったんじゃないかな?
小早川秀秋は関ケ原以降に急に酒を飲み始めたように語られてるが、子供のころからかなり飲んでいたやで。
関ケ原の時もすでにアル中で、重臣たちが全部判断してやった説もあるぐらい。
秀吉の縁者ということでいろいろなところから接待されていたもよう。
片桐且元は裏切りじゃないでしょう。
大坂場内で孤立しただけでなく、襲撃を受けて殺されかけた。いわば裏切ったのではなく裏切られた。
片桐且元は豊臣家の家老であると同時に徳川家からも禄を得ている外交官でもあるのだから、且元を襲撃するのは徳川に宣戦布告をするのと同義。
方広寺の鐘は当時の常識に当てはめると確かに無礼だったが開戦するほどのことではなかった。
大坂から退去の際に且元が家康に救援を求めたのが大坂の陣の本当の発端。
おっしゃる通りだと思います。
なぜか大坂の陣の開戦の理由が、方広寺問題や国替えや人質拒否になってるんですよね。
家康は大坂の陣まで国替えも人質も正式要求してないし、方広寺問題は無礼だけど呪詛では無さそうだし、一応手打ちになっています。
(方広寺再建の責任者の片桐も処罰なし)
大坂の陣は間違いなく片桐追放が決定打だと思います。
内容とタイトルに乖離が有ると思うけど。正しくは『石田三成を裏切った者たちのその後』じゃないかな?あと最近の説では秀秋を見張らせる為に大谷軍が陣取ったと言うより、西軍の心の拠り所でもあった大谷吉継を確実に56すため秀秋軍が先に来て居座ったと言われてますね。実際吉継の戦タヒにより西軍の士気が一気に落ち、西軍敗北の原因になったと言われいますし
秀秋は豊臣家後継候補の頃から、豊家に媚を売る大名たちの接待(酒含む)攻めに遭い続け、
すっかりアルコール依存症になり、関ケ原が終わることには肝臓ボロボロだったみたいですね
それもちょっと可哀想
そもそも織田を裏切ったのが秀吉
皆秀吉には直接裏切ってないやないか!
12:18 ×徳川家を裏切ったことで → 〇豊臣家を裏切ったことで
小早川秀秋、脇坂安治は神君と契約を結んでいました
あとの三人は契約してないから扱いが違うのだ
勝手に寝返った奴は心証が悪い
徳川家康も豊臣秀吉を裏切ったこともある、戦国武将の裏切りの構図がそうなってる。
タイトル詐欺でしょ
関ヶ原の合戦当時はこの戦いを豊臣家内の内紛と位置づけていたので裏切ってないよ
関ヶ原の前哨戦のひとつである伏見城の戦いに西軍として参加している以上、「小早川秀秋は裏切っていない。初めから東軍」という主張は無理があるだろう。島津も宇喜多も大谷も参戦しているが関ヶ原で東軍として戦ったわけではない
「城側に入城の意思を示したが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わった」というのも江戸時代の二次資料に過ぎない
尾張派と近江派の派閥争いと捉えると尾張派の中心がねね、近江派の中心が淀殿。
小早川秀秋はねねが教育しており、家家もねねと懇意であった。
主家である毛利家が西軍の総大将であっても、
東軍につくのが自然な流れかもしれない。
裏切る人間はまた裏切る確率が高く信用マイナス。仲間にしてはけしていけない。
素朴な疑問なんだがまず、秀頼が本当に秀吉の子供なのかね??
秀吉と秀長が死んだ時点で豊臣家としては、終わった話しって感するよね
秀吉にしても信長死んだ時点で織田家裏切ってるし
戦国武将に忠誠心求めるってナンセンスだろう
小早川秀秋は家老の稲葉による毒殺説もありますよね
片桐且元以外の4人は、豊臣家というより、関ヶ原の西軍を裏切っただけではないかな。
【淀殿】には複数の「お気に入り家臣(直臣)」が居た事は判明して居ますが氏名は、今も、特定されて居ない様ですね??
朽木元綱がいない・・・
12:14解説字幕共に間違ってませんか?
「徳川に寝返った」と「豊臣を裏切った」が混ざったか
ご指摘ありがとうございます💦完全に間違ってました…今後はこのようなことがないよう気をつけてまいりますので、応援よろしくお願いします!
「一度裏切った奴は、必ずもう一度裏切る」と言うから、土壇場で裏切り劇を見せられると信用はされないんだろうな。それこそ根回しは大事という事か。
どうするでは小早川秀明は元来のイメージとは違う書き方をされているから、どうなるかは見もの。
淀と三成は近江出身、ねねが可愛がった福島、加藤、黒田長政は反三成となり
この二人の戦いであったともされている、ねねにずっと良くしてきた家康と本当に秀吉の子供かどうかわからない秀頼をかつぐ近江の旧浅井派はうまくいくはずもなく、家康は天下統一後
ねねに高台寺を建てて進呈している。
ねねと淀との戦いともいわれている、東軍についたからといっても反秀吉とも言えないのはこういう理由がある。
豊臣家を作った政所が関ヶ原の戦いから淀から離れて徳川家康と懇意にしてたから政所は淀率いる豊臣家を自分の代で終わらそうとしたんじゃないかな
昔「花の慶次」で秀吉に言わせてるけど、「わしについてくるものは皆利(領地の増加)だけを求めている。」だからその欲に応えられなくなった時点で豊家の先は見えていた。
もう分割する所領が頭打ちになれば,蓄財以外は茶の湯の茶器やら権威もたかが知れて朝鮮半島に行きたくなったんじゃないかなぁ
小早川秀秋、一時期秀吉の後継者にも名を連ねたが、秀頼が産まれると小早川家に養子に出され、秀吉から朝鮮出兵を命ぜられ、小早川家の家臣反対にあっても出兵を余儀なくされた。命からがら朝鮮出兵から帰国したのに、秀吉からロクに労も労わず豊臣家に愛想を尽かした。叔母の北政所の影響はあったと思う。北政所「福島正則、加藤清正も東軍につく事は内定している、関白になっても実権は毛利、三成に握られる、アンタも早く決めなさい」秀秋「・・・どうしよう⁉︎」
豊臣秀吉だって織田家を裏切ってると思う。
関ケ原の時点では家康と三成による豊臣家の主導権争いだったから前提条件として「豊臣」を裏切るとか裏切らないって話ではないのではないでしょうか
小早川は、別に豊臣家を裏切った意識はあるまいよ。 石田も徳川も豊臣の家臣なのだから、主導権争いの内部抗争に過ぎない。 一応は。
主家を乗っ取った秀吉にはお似合い。
「キングオブ裏切り者」、この表現は個人的にはまってしまった
徳川家を裏切った武将(石川数正)以外の人も紹介してください
貴重なご意見ありがとうございます。
動画のネタとして参考にさせて頂きますね。
徳川家は石川数正を筆頭に家臣には裏切られ続けてきましたね。
父親と祖父は家臣に殺され、三河一向一揆では多くの家臣が反乱に加わりました。
秀吉配下の武闘派が事実上豊臣家を仕切った三成には従いたくない…
ということだったと思うが、そのあたりを家康がうまく心情操作を図った
かな。
上記武闘派連中も高台院=ねねには従っていたと思うが、高台院自身が
豊臣家を見限っていたから、話は早かったと思う。
秀吉譜代の家臣はいなかったはずだが、蜂須賀正勝や杉原家次など、数少ない
同胞はおり、彼らが「本能寺の変」で暗躍した…という説もあり、まだ
明るみに出ていない事実もあるのだろうと思う。
そんな中宇喜田秀家は豊臣恩顧で最後まで尽くした忠義の武将。
宇喜多
大阪にも泳いで参戦してほしかった
部下の明石は関ケ原でも大坂の陣でも活躍したけど
中世の武士はご恩と奉公・一所懸命です
秀吉が死んで前田利家が死んで関ヶ原の前から豊臣政権の知行分配は家康は代行するようになってました。この時点で豊臣政権の武士たちの親分は家康です
秀吉も清須会議以後から織田領国を独断で分配して自分の派閥を広げていってましたからね。やってることは同じです
結局秀吉に心底臣従していたのは子飼いの石田三成を含めても本当に僅かだったと思う。あとは秀吉に付き従うことで得られる『利益』のみが目的だった奴等ばかりだよね。
藤堂高虎なんかそうですね。豊臣びいきの俺からみたら裏切り者。
@@user-rh5mb9ur8q
藤堂家は幕末でも裏切り
明治になって、素行不良、爵位剥奪
まあ、付き従うことで得られる利益のみが目的ってのは、秀吉のみならず誰でも同じでしょう
小田原征伐の後に東海道に置いた福島、池田、堀尾ら腹心の大名達が関ヶ原の戦いに際して裏切った方が程度が悪い。
小早川秀秋は最初に豊臣家側が裏切ったようなものだし、裏切られても自業自得。
片桐君は、家康君や、その他の、家臣の板挟みと言うか、痛バされ、出奔を余儀なく無くですね。
豊臣自体が織田を乗っ取ってるのだから、裏切りも糞もない。
立花宗茂もそう言ってたらしいですね。
織田家は信長・信忠まで死に崩壊状態だった事、織田家は天下を治める政権ではなく未だ相対的に強い大名家に過ぎなかった事、秀吉は織田家の本流とは戦っておらず織田一族をそれなりに大切にした事などの点で、豊臣→徳川の経緯とは違いがあったと思います。
家康が豊臣家に仕え続けたところで、豊臣家にとっては目の上のタンコブ。どうせいつの日か、難癖をつけられて潰されるのがオチ。それくらいならやられる前にやるのはむしろ当たり前。家康はそれをできる実力があったからできたし、天下人になった後はあの手この手で圧倒的な力の差をつけた後で、余計なことをやりそうなヤツは難癖つけて始末していく。非情に徹したからこそ、200年余りの平和な時代を築くことができた。
ほぼ自分がやった事が返って来た
おめのおかげでこの動画を見る気がなくなった。陰キャ友達0辛辣コメントありがとうw
赤座直保は改易後。加賀前田家に仕え、陪臣ながら7000石を知行する大身として残り、子供の代から永原と改姓しています。小川祐忠は改易されますが、長男若しくは次男である光氏が豊後日田2万石の大名に封ぜられましたが、後継ぎがおらず無嗣断絶していますね。脇坂、赤座、小川と共に裏切った朽木元綱は、一説では2万石から9590石に減封されたと言われますが、元々そのくらいの領地しかなかったという説もあります。朽木宗家は、子孫が分知により最終的には4770石と領地は減りましたが、参勤交代を許された交代寄合として続きました。
脇坂と小川やるなら赤座と朽木も取り上げてくだされ…
赤座はおるやん。朽木元綱がいない
加藤清正や福島正則とか、はじめから、徳川に味方した人たちは豊臣家の裏切りではないでしょうか?
検証おかしい
清正や正則は秀頼の家臣って言うてますよ‼️
大阪の陣には双方出陣してません、、、清正は死んでたかな、、
あとから思ったが朽木元網の解説が無かった。
赤座直保も所領こそ没収も加賀前田家に仕官も大坂冬の陣、夏の陣にはこの世を去っており、跡を継いた嫡男が本多i政重らと共に赤備えの真田幸村を相手に苦戦していました。
第4幕で豊臣家じゃなくて徳川家を裏切ってしまってるよ!www😂
徳川に着く事が「秀吉を裏切る」事とほぼイコールであるのは後世の人は分かりますが、当時の人はどの程度自覚していたのかですね。
大体の大名は漠然と分かっていた様な気がしますが、分かってはいるが勢いのある徳川家に着いた大名が多かったという事でしょうね。
なお、諸大名は秀頼に忠誠を尽くす事を誓約しているため、秀頼に反逆する事は秀吉に対する裏切りになる事は間違いないと思います。
福島正則など一部の東軍武将の行動は複雑で中々理解するのは難しいです。
関ヶ原の戦いは豊臣家同士の戦いですよ?
猿軍の弱点は、うまくいってる時は仲間意識も強くて仲良しなんだが、資金も口渇してうまくいかなくなってくると、仲間割れしやすいのかもしれない・・・
あれ?朽木 元綱は?
秀吉も織田家を裏切ったな。
豊臣家を裏切ってしまった理由は二つある(と思う)。ひとつめは、秀吉の血も涙もない人格、二つ目は秀頼やその血縁の無能ぶりに嫌気がさしたんじゃないだろうか。あくまでこれは私の
勝手な想像ですがね。ただ、豊臣家は裏切られてもしょうがないことやってたのかもしれない、くどいですが、あくまでこれは私的な想像ですが。
最近の猿軍の様子を見ていると、そんな気がしなくもないですね・・・
基本的に人当たりはいいのですが、いざ仲間になると、仲間に対して暴力性を発揮してたのかもなぁという気がしなくもない・・・
暴走族、暴力団、チンピラ、パワハラセクハラ・・・
もしかしたら・・・ですけどね🙄
勿論、穏やかないい人達もいますよ🙋
主君自体が成り上がりを具現化した存在。
人を惹きつけるカリスマ性はあったかもしれないが、
豊臣家自体には何のオーソリティも無い。
戦乱の時代なら実力社会なので何の意味も無いが、
平和になり新たな身分家格官位に基づく封建制度が再度確立されるとオーソリティは非常に大事。
室町時代には権威が地に落ちていた天皇家が、平和になった江戸時代を通じてオーソリティを再度確立した事例が最たるもの。
淀だけ秀吉の子を2度も産んだのは明らかに不自然で、しかも成人時には身長が2m近くあったとか。ちなみに秀吉は平均よりかなり小さかった。さらに淀の生い立ち等も考えれば秀頼は秀吉の子では無い、と考えるのが自然ですよね?
豊臣恩顧の武将達が多数家康に付いたのはこの事と無縁ではないとワタシは思いますね。
淀殿が一番裏切ってるかもね
怪しい托卵NTRか織田信雄 織田長益 辺りが怪しそうだ
@@tike2435
確かに、さらに親戚との子ならば、血統は完璧になりますな。
しかし私の支持する意見は、秀頼の身長が2m近かった事もあり、遺伝的に考えると同じくらい身長のあった清正?もあるのでは? まず当時はそんな身長の人間は今より全然少なかった筈ですし、秀頼が家康に会いに二条城に行く時に、清正が命に替えてお守りする、と決死の覚悟までしていたのは豊臣恩顧の大名としてだけではなく、秀頼が実は自分の子だったからなのではないか、と
長浜城時代、秀吉が妾との間に子供をもうけたという話しがある。
激務による出張で子供をつくる機会が少なかったのでは、浅井長政も大男だったとか。
天下人の嫁だから当然24時間体制で男の警護がいます。居ないと簡単に人質にされてしまいますから
なので情事は無理かと
ただ、乳母などが種だけ運ばせるとかは出来たでしょうね
小早川さんに関しては諸説有り過ぎてどれがホンマか解らん❓
関ケ原の東西両陣営は 徳川家以外は豊臣家への裏切りという認識はないともう。徳川以外すべて権力闘争と 大将の好き嫌いという認識でしかない。
なんせ 東軍(上杉征伐)へは豊臣家が命令だして送り出してるわけだし。
小早川が裏切ったのは豊臣に対してではなく西軍に対しての裏切りだな。
裏切り者は悪人ではない
そんなアホなことあるかいな
事情があるそれが裏切りの言い分また手のひら返すで
お家を残す為だから仕方ないよ。
条件が良い所に再就職とかするでしょう?
ただし家康は、そこまで甘くはない。裏切り者は排除した方にが安心だからね。秀吉のミスは家康を残したこと何でも良いから徳川を滅ぼせば良かったんだよ。
家康滅ぼせばって言うけどかなりきついと思います。家康を滅ぼす大義名分はなかったでしょうし、あったとしても小牧長久手であの負け方をしてたら家康と戦おうなんて思わないでしょう。勝てたとしても甚大な被害は避けられませんし豊臣家の弱体化にもつながりかねませんから。
秀秋は豊臣を裏切ったわけではなく、石田勢を裏切っただけ。
ゴッチャにしないように。
東軍西軍双方豊臣軍ですよ?
それに上杉討伐として豊臣からお金や兵糧を東軍はもらってますから豊臣正規軍ですね。
つまり正規軍へ鞍替えしたとも言えます。
それと秀秋は子供の頃から、接待漬けでお酒🍶の毎日。
天下人の親戚であり、後継ぎと目された人。
後に小早川へ養子へ出されますが、おそらくそこでも気の休まる時は無かったでしょう。
本当は毛利本家へねじ込もうとしたのを、小早川隆景が後継ぎを廃嫡してわざわざ養子に迎えた。
おそらく、精神的には安定せず、そのまま大人になってしまった少年。
当時の20ぐらいはもう大人ですからね。女性なら2~3人は子供を産んでる年齢で25越えると老女扱いになったそうです。
それな。東西両方豊臣なんだよなぁ。
秀吉の信任を得た(政権を取った)徳川家康を侮辱したのが上杉景勝。
それを討伐しようとしたところに、石田三成が「真の」豊臣方を自称し、秀頼らの信任も得ずに挙兵した。
そもそも石田三成は政治家としては3流。
大名の内部の調停ができなかったし、自分の嫌いな大名を減封したから、吉川家と小早川家から恨まれる。
石田三成が天下取ったらそれこそ天下騒乱で、日本の文化はなかったかもしれないし、外国勢力に付け込まれて、東西日本で別々の国になっていたかもしれない。
ご指摘ありがとうございます。
反省点として今後の動画に活かしてまいりますので
応援よろしくお願いします。
秀明の叔母で秀吉の正室の寧々が徳川方なので、石田勢を裏切ったとも見なせるし最初から敵だったとも見なせる。だから石田から警戒されてた。寧々は秀吉死後、大阪城を追出されてました。
表面的にしか物事見れないバカの典型
東軍が勝ったらその後豊臣がどうなるかなんて誰でも分かること
こういう物事の本質を見ることが出来ずに一応の建前やお題目をバカ正直に信じ込んでる薄っぺらいバカは戦国だとすぐ死んでただろうな
@@mitism889 ついでにいえばねねが東軍だった説も否定されているし、淀殿と不仲だった説もほぼ否定されています
裏切ったというかたんに落ち目だから徳川についただけでは
朽木・脇坂・吉川は根回ししていたからね。
最大の裏切り者は、家康でしょ。
戦国時代で20歳は若者と言えるのか?
関ケ原の段階ではも西軍から東軍を裏切ると言うのは豊臣を裏切るという行為にはならないのではと?
関ヶ原の戦いは豊臣政権内部の争いで、豊臣対徳川ではありませんよね!
会社で例えるなら先代が亡くなって専務と常務が対立した構図ですね!
豊臣家のただの内紛だよね
内紛?あんなけ大名集まってか?
誰も知らん豊臣家だけでやれよとは言わなかったのか
@@izzukaito7594
家康にも三成にも与しない、中立!と宣言したは良いものの「味方じゃないの?じゃあ敵だね」とばかりに西軍から全力で攻撃され、渋々西軍入りした人なら居る。
しかも西軍入りした途端に関ヶ原本戦で大勢が固まりそのまま改易という…不運にも程がある。
秀吉は安土からすぐに信長信忠の後継者を追放した。
秀頼も大阪からさっさと退出していれば済んだだけ。
まあ、秀吉の場合は豊臣家なんてものは最初から存在せずどこの馬の骨かわからないし
家臣たちも親族はごくわずかでしかもそいつらも卑しい出自、譜代の家臣なんかゼロだったから
裏切ることには別に大した当時のモラルや価値観的障害はなかったんだろう
今のネット長者たちが出る環境と違って、戦国時代とはいえ家柄は絶対的条件に近かった
その中でそうした法則を無視した秀吉などみたいなポッと出のやつが出てきて気持ちよく従える
というのは考えずらい
まして閉塞的で閉鎖的な日本社会においては(現代においても)敵を作らないことが最大の出世のスキル」のはずなのに
其れで成り上がった人たらしの秀吉が天下取った途端に強権主義になっちゃね
戦国時代ですから裏切りは自分の家を守るためには普通で悪いこととは思わなかったのでしょう。足利尊氏の時代など裏切りは大げさに言えば日常茶飯事だったようです。
@@ttzz-ic9yr さん
そうですね
ただ、これで徳川(松平)や織田のようにそれなりに長く続いてきた家で譜代の家臣がはっきりしているのなら、やはり主家への裏切りは
たとえ戦国の世であっても最大の秩序違反ということで、たとえ一時的に成功したとしても周囲の賛同や承認は受けずらいんじゃないかと思うんです
豊臣は元々どこの馬の骨かもわからない下賤の秀吉が成り上がってできた家ですし、秀吉自身が織田家を簒奪して天下を手に入れたわけですから
家臣間の信頼や奉公の意識もそれほど高くなく、秀吉一人の求心力でなんとかもっていたけど、次の世代にまでその権力を譲るほどの
体制ができていなかったんじゃないかと その点で徳川は3代かけて家康、秀忠がのり代となって体制を構築したので、そういう点は
豊臣政権の反省点を良く見ていたと思いますね
津軽三味線関係無いっしょ
小早川秀秋、裏切る可能性高いの分かってるのなら最初から関ヶ原に呼ばないほうが良かったのでは?
毛利が西軍の総大将である限り毛利三川の一つたる 吉川、小早川が参戦しないのは有り得ない。
吉川が弁当を食べているとして最大戦力の毛利本隊の参戦を妨げ、小早川が松尾山に強引に布陣し、山腹に布陣する諸将にプレッシャーを与え裏切る様に仕向けたとしても。
豊臣恩顧の家臣達はみな秀吉の家臣だったのであり
幼い秀頼とワガママ淀の家臣ではない
秀頼や淀には日本を今後どうするとかの展望やビジョンがない
豊臣恩顧の大名達をどうするのかというビジョンもない
己の保身のことしか頭にないんだからそんなリーダーについていくバカはいない
家康にはそのビジョンがしっかりとあった
もちろん北政所もわかってたから大阪城を家康に譲った
その差でしょ
ななほんやり…しちほんやりね。細かいけど。
片桐は追い出されたが正しいだろ
まず秀頼が実子じゃないし、その時点で忠義ぐらいついてるやつが多かったんだろう。完全に淀君近江派政権だし。尾張出身なら三河の家康のがつきあい長いからな
関ヶ原の戦い自体、古参の尾張派と新参の近江派との豊臣政権下での内紛。
豊臣臣下同士の戦い。
豊臣家に逆らった意識は双方共に無い。
そもそも東軍は会津征伐の豊臣軍だからな家康は秀頼の名代。
福島等からしたら三成は秀頼の側にいる君側の奸で豊臣を乗っ取ろうとしてる輩
関ケ原は豊臣家の内乱であり裏切りでもなんでもない。現に上杉討伐の際にはかなりの金銭と兵糧を下賜している。
その直後の関ケ原では、豊臣家はどちらにも加担していないスタンスでいた。
ここまで来るとあとは人柄かな?
関ヶ原の時の小早川等はあくまで西軍裏切っただけだぞ。
福島正則はいないのか
彼らは「豊臣」を裏切ったわけではない。関ケ原の当時の両軍の立場は、東軍が豊臣政権正規軍、西軍が豊臣政権クーデター軍であり、どちらも豊臣であることを間違えてはならない。ただその後、家康が堂々と豊臣を裏切ったにすぎない。話が根底から間違っている。
逆です。東軍が家康の指揮するクーデター軍、西軍が三成が指揮する豊臣軍です。
@@user-wk2tr4wk6z ちゃうで。家康の出陣は秀頼からお金や武器弾薬をもらって出てる。
家臣誰もいないやん😅
かろうじて片桐且元ぐらいやね
所詮乗取りの繰り返し
明治政府は、家康の祟りを怖れて東照宮に秀吉の輿を奉納。
家康「おのれ❗明治政府め‼️」
秀吉「おみゃ~も豊臣を滅ぼしたじゃにゃ~か❗」
何故、徳川時代が数百年と続いたのか、考える時期に来てる気がしますね😟
とりあえず、明治からこの島国に住み始めたという人達は、何故か、犯罪率高い気がします
小早川秀秋も上杉討伐の前には黒田長政、福島正則を通じて家康と根回ししてましたね。石田三成や大谷吉継もその事を知っていたものの、秀秋は曲がりなりにも豊臣の一門衆なので手が出せず、警戒するに留めたらしい。戦後捕えられた石田三成と口論したことで評判を落としましたが、それでも当時はそこまで後ろ指は刺されなかったようです。
早死し無嗣断絶になったのが惜しまれますね。
いつ何時も 強いものに 媚びる 今の 政治家派閥 同じだわ
石田三成せい軍大将じゃあ負けるよ
だから毛利輝元を担いだ
石川数正は徳川家の為に豊臣家へ出奔したのであって、結果家康が秀吉の懐に飛び込んで豊臣家の内部事情が徳川家に筒抜け状態になった。これは徳川政権の神格化にとって黒歴史に当たるので、徳川家の方が豊臣家にコントロールされてたと秀吉にヘイトが一方的に向くように隠蔽された事実です。今年の大河では暴露気味ですが。
豊臣家内部事情筒抜けで毛利輝元共々三成の撒いた内ゲバの世話をすることになったので、敵の事情が読めないこれまでの戦とは違って大軍同士なのに直ぐに決着付いたのは当然。バカを見たのは軍動かした立花宗茂だけ(これも宗茂は秀吉没した時点で徳川家に仕官を変える清算だった可能性が高いですが)。
関ケ原で西軍が負けた最大の要因は吉川にあるので、これ等の裏切りは大した事は無い。何せ毛利の3本の矢の一つが裏切ったのだから西軍が勝つわけが無い。
それが証拠に毛利軍は追軍を受けなかったが、その後方の薩摩軍は適中突破で大きなダメージを受けている。
淀殿は人質やってればまだ良かった
秀吉ってホントむちゃくちゃ!朝鮮出兵とか…
あの世で悔しがってるだろうな?自分の代で豊臣家が滅亡するとは……😅
朝鮮出兵(当時は唐入りと言っていた)の理由として、秀吉は宣教師ひいては世界帝国でもあるスペインを警戒していたという説があります。
だから先手を打って世界に出ていき対抗しようとしていたという話です。
また宣教師がフェリペ2世に関隊の派遣を要請し、無敵艦隊が出撃する可能性がありました。
当時の宣教師の手紙が残っています。
豊臣が滅びたのは秀吉公薨去から17年後のこと。その頃には秀頼君が家督を継いでるから。
@@user-jf9tf6pe1n さん
ありがとうございます
そうなんですね?
豊臣家は秀吉の代では滅亡していませんよ。
@@user-co8bj9vy3q さん
スミマセン😭
方広寺鐘銘事件は普通に無礼な行為だし、徳川方は当時の有識者を集めて意見も聞いているんだけどな。
裏切ったのではなく、自身の正義感に従ったのですよ。