蜂須賀家政の生涯 秀吉の重臣ゆえに家康には一筋縄では従わなかった男【どうする家康】
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- čas přidán 1. 12. 2023
- 参考文献
牛田義文『史伝 蜂須賀小六正勝』
amzn.to/4a4aXZK
津野倫明『豊臣政権の「取次」蜂須賀家政』
(戦国史研究会編『戦国史研究 』 (41) 2001)
根津寿夫『「阿波の古狸」と評された徳島藩祖 蜂須賀家政』
(『潮』 777号 2023)
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蜂須賀小六の嫡男 蜂須賀家政は、戦場だけでなく毛利氏や長宗我部氏の取次を務めるなど外交面でも活躍しましたが、石田三成らの台頭により政権内での地位を低下させます。
やがて奉行衆と対立し、家康に接近しますが、関ヶ原の戦いでは息子に僅かな兵をつけて従軍させただけで、自身は領地を返上し秀頼 家康双方に義理立てるという行動を取り、蜂須賀家を存続させました。
大坂の陣でも直前に秀吉を祀る豊国神社を創建するなど豊臣家を尊重する行動を続けるも、自ら江戸に人質に赴くなど、決して家康に媚を売るわけではないものの要所で重要な役割を演じ、戦後は数少ない加増を勝ち取りました。
今回は、不可解な行動が多いながらも蜂須賀家を存続させ、豊臣秀吉への義理も貫き通した老獪な大名 蜂須賀家政の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/ieyasu/
#どうする家康 #日本史 #歴史
蜂須賀家政はもっと評価されるべき
でもイマイチ地味に知名度が低くて…
家政公の秀吉に対する義理堅さは父小六正勝公譲りだと思います。天晴れです!大好きな武将です!
個人的な感情と天下の状況を分けて考えられるバランスの良い判断ができる人だったんですね。関係者の信頼が厚そうです。
徳川家康の曾孫の敬台院(家康の長男信康と織田信長の長女五徳の間に、1576年に生まれた登久姫の娘に当たる)は1592年に生まれ、1600年に蜂須賀至鎮と結婚し、1603年に満11歳になる年齢で長女の三保姫を出産。三保姫は徳川家康の初の玄孫で、登久姫は満27歳になる年齢で祖母になりました。
絶妙な立ち回りで蜂須賀家を存続させた蜂須賀家政が蜂須賀家の家督を担っていた期間が活躍期間の1570年代中盤〜1620年代終盤の約半世紀以上の内20年に満たないのが意外な所です。
それは父の正勝の存在感の大きさ・家政が豊臣方に近く嫡男の義鎮が徳川に近い事による早期の家督譲渡が影響していたと推測します。
蜂須賀家政が仮に大河ドラマ化される場合の構成はこうなると推測します。
1章信長時代〜家督相続
2章毛利氏取次〜政権実力者交代
3章奉行衆との対立〜家督譲渡
4章隠居生活開始〜蜂須賀家政退場
なお豊国神社を場内に密かに建てていた模様
徳川幕府への明確な恭順を示しつつ
豊臣氏との繋がりを隠さずに保ち続ける
蜂須賀家政の見事な政治手腕は、
公私混同甚だしい政治家が見習うべきですね
なかなか複雑な立ち位置の人ですね。蜂須賀小六の嫡男で、時代の移り変わりの時期に遭遇しているので、首尾一貫した行動が取りづらかったのでしょう。毛利輝元に対し、反三成の立場で書状を送るなどかなりユニークな動きをしていますが、圧巻なのは、大阪の陣で阿波の国を返上し大阪を出て出家、高野山に入ることにより、秀頼への服従と共に家康への中立の意志を示したことですね。本来中立が許されない状況下、ここまで徹底して行動すれば、異を唱える者も黙らせることができたでしょう!蜂須賀軍は、結局東軍と戦わずに済んでいるのも、ポイント高いです。婚姻をめぐり黒田家と絶縁状態になったり、その婚姻が別の局面では息子と家康の養女の関係性のため所領が戻って来てお家が存続するなど、まさに戦国あるあるです。豊国神社を創建したことからも、豊臣家への思いは他の家臣らよりずっと強かったのでしょうが、それを大っぴらにできない時代的制約の中では、彼としては最大限の行為だったと感じます。だからこそ、大阪の陣では自ら徳川方に人質に赴いたのだと思います。息子の早世を受け、孫の後見をしながらの81歳での大往生は、まさに戦国の長老と呼ばれるにふさわしい人生ですね。阿波踊りの起源も知れて、良かったです。
阿波踊りは今に続く風習。スーパーおじいちゃんだったんだな!
魅力的な人物ですね
阿波徳島藩蜂須賀家そして紀州徳川家は領民から搾り取ることが多かったので、明治維新後に旧領内の商人、富農から援助が得られなかったと聞く。
その点尾張徳川家は対照的だったようだ。
もしも蜂須賀家が大河になるような事があれば御先祖様の名前が出る可能性があると考えたら…って家老ぐらいじゃ微妙だろな…
筆頭家老で稲田騒動を維新後に起こした稲田氏ぐらいじゃないと難しいだろなぁ〜
蜂須賀家も近江閥台頭によって豊臣政権では冷遇されていく
大河でキャスティングされた時にはテンション上がりましたが、悲しいほど出番少なかったですね…
ほんとそれな
愛知県には蜂須賀という地名まだあるよな。
愛知県あま市蜂須賀ですね。
織田信秀の居城であった勝幡にかなり近く(電車で一駅)蜂須賀正勝が幼少期に信秀に土地を奪われた話が納得できる距離です
豊臣に近い立場にありながら中枢から排除されたり、徳川との間を上手く立ち回ったり、子の早世やら難局を乗り切った名君であると思います😺
そうまでして御家を守ってたのに
徳川の血が入っていくだな。
蜂須賀家盗賊説があったからが明治天皇が先祖の生まれを言ったら実は明治天皇の祖先に蜂須賀家の血が入ってた話好き。
と思ったけど盗賊説って創作なのね。
釈由美子の御先祖様らしい
蜂須賀家政、阿波徳島藩でござるな、後の子孫は、北の国に、明治政府に、移されたでござる、北の国、北海道での、開拓は、蜂須賀家の家臣たちも、大変苦労したでござる
誰だよ、蜂須賀家の墓石破壊した罰当たりは
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