片桐且元の生涯 大坂城追放後も豊臣家存続のために尽くした忠臣【どうする家康】
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- čas přidán 2. 12. 2023
- 参考文献
曽根勇二『片桐且元』
amzn.to/3NftF6L
黒田基樹『羽柴家崩壊 (中世から近世へ)』
amzn.to/48pzkA9
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片桐且元は関ヶ原の戦いで五大老 五奉行制が崩壊する中、豊臣家を代表して徳川家康の政に協力し、家康の天下取りに協力しました。
秀頼 茶々の信頼も厚かったものの、方広寺鐘銘事件に端を発する徳川家の圧力の前に2人の信頼関係は崩壊し、且元は大坂城を追い出されるに至ります。
大坂城退去後は徳川方として大坂の陣を戦いますが、退去後も豊臣家の財政の決算業務を行うなど豊臣家安泰のために尽くす姿勢は変わらず、豊臣家滅亡から程なくして自身も生涯を閉じました。
今回は、豊臣家の代表として家康だけでなく朝廷とも渡り合い、14年に渡って豊臣家を守り続けた忠臣 片桐且元の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/ieyasu/
#どうする家康 #日本史 #歴史
葵徳川三代で且元を演じてた小林稔侍さんのイメージが強いですね。
大河では殉死しましたが、津川家康は病死の届け出を認めました。「且元の心中、わからんでもない」との温情です。今回の解説通りなら、そうだったのかもしれませんね。
タイミングがタイミングなので字面通り受け取るのではなく殉死と考えた方が自然ではあるんですよね…
家康も「殉死じゃな…」って言ってたね
この当時追い腹(殉死)は家禄没収だけど
片桐家はお咎めなしだったんよね
「葵」のその場面はよく覚えてます。
家臣「片桐且元が切腹致しました😲!」
すると家康が即座に
「病死 にしてやれ!」
と言ったやり取りが記憶に強烈に残ってますね…🤔
片桐且元が殉死ではなく病死だったのは家康が且元を重んばっただけじゃなく殉死を認めれば豊臣恩顧大名がどう反応するか分からないというのもあったかも
もっと評価されてもよい武将ですなぁ
タフなネゴシエーターでもあり管理能力も抜群。今なら超一級のビジネスマンだね。
俺もそう思う
且元が浅井長政に縁があったとは、初耳でした。父の代からの浅井家との断ちがたい縁だったのですね。賤ヶ岳七本槍の一人としては、福島、加藤に比べて石高では見劣りがしますが、政権中枢を担っていたわけでかなりな重職です。動画内でも言われていましたが、まさに大名と奉行衆を結ぶ大切な役割を務め、さらに豊臣家から徳川家へ天下の実権を移す行為をしていたのですね。茶々と秀頼に全面的に信頼されていた且元が、疑いを向けられたきっかけも、今回の動画でよく分かりました。粘り強い交渉の末勝ち得た成果とその経緯を知らぬ大蔵卿局がもたらした報告と且元のそれとのくい違いが、彼の裏切りの証と思われてしまったのは辛いですね。そして、あの織田信雄から自身の襲撃の知らせを受けた時のショックは、想像に難くないです。最終的に追放されてもなお、決算作業まで行う律儀さは見上げたものです。未だ権威として君臨していると自負する豊臣方と実際には各大名と主従関係を結び次のステップへと着々と進みつつある徳川方の間に立ち、一番苦しい立場だったのは、この且元でしょう。だからこそ、大阪の陣で徳川方として戦い、大砲を打ち込んだ時の彼の心境を慮ると切なくなります。豊臣の滅亡と時を同じくして没した彼の人生は、後半生悔いや自責の念に駆られることはなかったのでしょうか?!彼のような立場の人はいつの世もいるのかもしれませんが、その辛さを類推すると悲壮感を持ちます。
織田信雄がこっそり活躍してて凄い、ナイスアシストで命の恩人になってるやん
必死の交渉で秀頼を二条城まで出向かせて家康に礼をさせたのに、その時引いたおみくじで大凶を引いちゃうのが片桐さんらしくて好き笑
(慌てて大凶を書き直すのも好きすぎる)
家康が正式に三か条を秀頼に突き付けていたら、この人はただ取り次ぎ役をこなしただけで追放されなかったと思う。
(大蔵卿との言い分との食い違いもなくなるし)
大野とは仲は良くはないが、お互い認めながら長年豊臣家を支えてきたので、家康の要求を伝えたぐらいで暗殺はしないと思う。
条件の一つである参勤は、すでに二条城まで出向いて頭を下げてるので、秀忠の官位を秀頼以上にすれば可能性はあったのではないでしょうか?
治長や秀忠を懐柔できたら、豊臣が存続する未来線もあったのだろうか
小林隆さんのとぼけた片桐且元が好きでした。
佞臣の讒言により趙の幽穆王が李牧を、
明の崇禎帝が袁崇煥を誅したように、
暗君が忠臣を廃して国を滅した事例から
豊臣家の末路が必然的だったとよく分かる
実務の出来る有能な家臣だったのですね。生かすも殺すも主君次第だったのが残念。いい奴だったしかの言葉しか残らない
徳川の天下が進み、諸大名は徳川の天下普請に動員され、徳川の判断で改易される大名も出る中で、豊臣はどういうポジションで徳川の天下を生きていくべきかという青写真を、片桐はどう描いていたのかが気になります。
片桐且元こそ 大河で演ってほしいな
この話見ても感じるのだが、
且元の働きや功績の割に待遇が低すぎる気がする。
且元に疑いをかけた連中は、なにか身に覚えがあったのかなと邪推。
10:00-15:00あたりの駿府での交渉は不幸としか言いようがない。大蔵卿への駿府側の歓待も大坂方を安心させるための駿府側の心配りと考えたなら善意が豊臣家の滅亡までのきっかけを作ったと言えるでしょう。
ただ、「天下に二日なく」という言葉がある通り、豊徳政権の両輪体制では長続きしなかったでしょう。
もし豊臣家が生き残れる道があったとしたら、中国でいうところの禅譲のみでしょうが、権威・遺産があり、石高も相応もあるのでは、
その道も険しすぎる道だったのだと考えます。
このあたりのことを「徳川家康」で描いた山岡荘八の本質を見抜く目はさすがだと思います。
忠臣と呼ばれる人物は多くいますが、命を狙われてまで主家に尽くせる人間はそういませんね。
俺もそう思う
片桐且元も、大野治長も、報われないなぁ………
まあ、茶々は政治向きでは無かったようですし、秀頼も若いから、こうなったのも致方ないのかなぁ………
城外に退去した後も、蔵米や金銀の収支決算作業をしていたのですか。。。
まじめと言うか、何というか。。。(;・∀・)
自分が想像していた以上に優秀だったのですね。
面白い動画ありがとうございます!
茨木城城主です…
貞孝の系譜が茶人大名なんですね
優秀な人物は、早い段階で寝返るか、ギリギリまで留まり鞍替えするかの2択が比較的最良な選択だが、後者は、あまり上手く行かない場合あり。上手く行って例は、立花宗茂と片桐且元くらいか?
秀頼の杜役だったせいで
不遇だったよな…賤ヶ岳七本槍なのに
18:07 大河ドラマでは自害した事にされたりしてますね。
賤ヶ岳の七本槍…。豊臣家の財務をつかさどり…。更に家康と折衝役として重要な立場にいながら評価低いですよね。葵三代の且元はまだ許せますが真田丸の且元はボロボロでしたよ…。
賤ヶ岳七本槍の名前が薄いあと2人の紹介もしてほしいです🥹
糟屋武則は関ヶ原では西軍の宇喜多隊に属し福島正則隊相手に奮戦したといわれてますね。
11:45 そもそも最初から片桐且元は、徳川家康に媚びてもいないし、媚びてるフリもしてない。
普通に、徳川家と豊臣家の実力の差を知って、徳川家と仲良くしようとしていた。ってのがしっくりくる。
14:26 「 徳川秀忠が、強い危機感を持っていた 」という証拠あるのかな? これ推測じゃねーかな。
且元が勝手にそう思っていた。とかならわかる。
そして、家康も秀忠も実際に、豊臣家とは融和的な関係を望んでいたと思うよ。だから大蔵卿局にも悪いように接しなかった。
片桐且元も、元々もっと悪い条件だったのを、よりよい条件を引き出したんじゃないかな。
そんで意気揚々と帰ったところ、豊臣家中では吞めるような案ではなかったために豊臣家は反乱を決意した。
おそらく大野 治長が、片桐且元がいない間に豊臣家の実権を握っていて、片桐且元だけを排除したかった・・・。
しかし排除した結果として、徳川幕府を怒らせた。って感じじゃないかな?
あなたの仰ることは推測ではないので?
秀忠が強い危機感を持っていたとするのは確かに推測ですが、その根拠は且元の駿府訪問と同時期に秀忠が土井利勝を大坂にも向かわせることを予定し駿府に向かわせたこととなっています(福原広俊書状より判明)
その後も秀忠は大坂の陣で家康に対し豊臣家への強硬姿勢を主張し続けており、この時期の豊臣家への接触=危機感から来る豊臣家への厳しい姿勢と捉えるのが妥当と考え採用しました。
且元の3条件は確かに秀忠が直接大坂に条件を突きつけるよりは軽いものだったと思われ、且元の功績と見ていいかと思います。
@@rekishock なるほど。土井利勝ですか。そのクラスだと。最重要案件である。ということはわかりますね。 しかしやはり、秀忠が、土井利勝を派遣するということは、のちに軽微(に見える)なルール違反で失脚した大名がいるように、他の大名と同じく公平に豊臣家を扱う。
つまり「豊臣家だから」という特権は与えないよ。と伝えたように思えますね・・・。
あくまで自分の感想ですが。秀忠としては「のちに豊臣家が徳川家に変わって政治を担うのでは?」というような危機感ではなく。
単純に豊臣家が家格も実力もあるからだと考えます。
片桐且元に対して、徳川幕府が将来的にどういう政策、法度にするか。その根拠はなにか。など伝えて、豊臣方にもしたがってもらおうとしたのではないか。と思います。
もう実力的には、関ヶ原と征夷大将軍で決着はついているので、秀忠の地位が危うくなる。という危機感を持つとは考えにくいんすよね。
@@user-xd9lx6qx6o レキショック様もそこの部分に関しては推測ですよ^^;
それに資料だけを純粋に乗せる動画の構成ではないはずです。
多くの研究者が資料を基にある程度歴史を推測する。その中で主流説と傍流説がでるだけです。
ちなみに、大体2000年ごろくらいまでの歴史は、ほぼ妄想みたいな歴史で。
近代の権力者の発言を基に、過去の歴史を無理やり当てはめるような歴史でした。
大野は最後に片桐さんに秀頼の命乞いをしてるし、あの3か条さえなければそこまで仲は悪くなかったんじゃないかな?
お互い認め合う関係だった頃もあるし、片桐さんは追放されて数日後には大野軍を攻めてるけど、結局豊臣は片桐さんが移り住んだ茨木には攻めてない。
まず秀頼も淀も片桐さん頼りまくってたし。
秀頼の現存する書状の7割以上が片桐宛て。
淀は片桐に「秀頼の親となってほしい」「忠節は命ある限り忘れることはない」とか言ってる笑
やはり片桐さん追放が、徳川と豊臣の決裂の決定打だったと思います。
こんばんは(゚▽゚)/
大野率いる主戦派が大勢を占めて、和議を進める且元を
追い出した形になったのがなぁ。織田有楽斎や信雄達も
あまり役に立たず結局秀頼方と離れ幕府についた悲しい武将でしたね。
長らく筆頭家老まで勤めながら、豊臣家出奔後すぐに豊臣家を攻撃しているのは頂けませんね。
追放の過程で命を狙われるなどの経験をし、秀頼や淀殿を含めた豊臣家中に余程恨みを持ったのかも知れません。
しかし昨日までの主家を大砲隊を指揮して積極的に攻撃するなど、名のある武将としてはやってはいけない事で、晩節を汚した武将と言われても仕方ないのではないでしょうか。
余程面子を傷つけられたのか、意外に激しい性格だったのか、或いは計算高いのか詳細は分かりませんが、不可解な行動だったと思います。
・筆頭家老なのに豊臣直轄地から年貢も取れずにずっと家康に頼ってる
・方広寺の最高責任者でありながら諱割りに気づかず家康にも秀頼にも報告できてない
・そもそも幕臣
・大蔵卿と言うことが違いすぎて家康の二重外交に引っ掛かった可能性がある
・最後に秀頼が片桐に命乞いしてきたとき速攻秀忠にチクってる
・特に秀頼や国松の助命嘆願をした記憶がない
片桐は忠臣だったとは思うけど、大阪の陣以降はむしろ憎しみすら感じます。
片桐からしたら自分の方が正しいと思ってただろうし、追放したことが許せなかったのかも?
大阪の陣が始まる1ヶ月前に自ら出陣して豊臣方を攻撃するのはどうかしてると思う。(家康にも怒られてる)
家族が堺に居たためとも言われてますが、片桐追放後も秀頼はまだ家康に使者を送って弁明してますし、最後まで片桐を攻めることはありませんでした。
石田三成のたった3歳年上なら、ドラマで三成が壮年で且元が年寄り・好々爺に描くのはおかしいですね