【浜松城と三方ヶ原の戦い】家康、信玄に三方ヶ原の戦いで大敗す
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- čas přidán 14. 04. 2023
- moka studio2020です。この動画は、三方ヶ原の戦いと浜松城について説明した動画です。
1569年、家康は遠江を統一すると、岡崎城が領国経営の上で西に寄り過ぎていたため、1570年に引間城に移り、引間城を取り込む形で浜松城を築城します。浜松は、複数の街道が交錯する陸上交通の要となる地でした。また、浜名湖を介した水運も発達し、港の管理と防衛を、浜名湖周辺に築いた諸城で行なっていました。
1572年10月、信玄は甲府を出立し、遠江に侵攻します。10月下旬には遠江の中心である府中を、11月末には二俣城を攻略します。12月22日、二俣城を攻略した武田軍は、複数の部隊に分かれて南下を始め、浜松城に迫ります。この時武田軍の兵力は2万、徳川軍は織田軍の援軍を含めても8千人だったとされています。ところが武田軍は、浜松城の手前で方向を変え、西に進み始めます。家康は、信玄が自分の領国を押し通っているのに、何の手出しもしなければ、遠江どころか三河衆の信頼も失い、存亡の危機に瀕するとして、家臣達の反対を押し切って決戦を決断します。なし崩し的に始まった戦闘は、徳川軍が押す場面もあったようですが、武田軍に中央を突破されると、後は各個個別に撃破されたようです。武田軍は徳川軍を執拗に追撃しますが、家康にとって幸運なことに、戦闘の終了には、既に辺りは真っ暗になっており、土地勘のない武田軍は、家康を取り逃がしてしまいます。信玄は、三河に侵攻すると、1573年2月には東三河の野田城も陥落させ、いよいよ家康は追い詰められます。ところが信玄は既に病のため進軍は不可能になっており、4月12日に陣中で没します。信長と家康は、最大の危機を脱することが出来たのです。
浜松城は、三方ヶ原台地の端部を利用して作られています。家康が築城した当時は石垣や天守はなく、土塁に囲まれた曲輪だったと考えられています。現在は開発が進み、主に残っているのは、天守曲輪と、本丸・引間城の一部です。天守曲輪の石垣は、家康の後に城主となった堀尾吉春によって築かれたと考えられ、野面積みの石垣は、天正期の雰囲気をよく残しています。
浜松城は、天正期の石垣を中心として、良好に残っています。中世以来連綿と続く城の在り方を一目で見られる城郭です。
【参考文献・サイト】
『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』 平山優 NHK出版新書2023年
浜松城の特徴 hamamatsu-ieyasu.com/column/c...
#どうする家康 #徳川家康 #武田信玄 #浜松城
布陣空撮は物凄い出来ですね。写真揃いも凄すぎます
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
初めてコメントします。
他の歴史動画と違う、
おちついた雰囲気で、分かりやすく、
好感をもちました。
特に、最後に協力した方の名前が出てきたのも、印象深かったです。
ありがとうございます。他の皆さんのように自信や知識がないので、こんな感じでやっています。お2人の助言がなければ、もっと内容の薄いものになっていますので、本当に助かっています。あと、考古学チャンネルというチャンネルもやっていますので、よかったら覗いてみてください。
Excellent video!
The satellite images of places around Hamamatsu and Mikatagahara greatly help viewers to understand and appreciate Takeda's and Tokugawa's tactics and strategies. Thank you!
三方ヶ原の戦いの 信玄の交戦ルートが分かり易く解説してくれて、よく分かりました。これからも、シリーズで視聴させていただきます。感謝感激雨アラレです。。。。。。笑い。。。
ご視聴ありがとうございます。少しでも理解が進んだのであれば良かったです。平山先生の説を取り上げて製作しましたが、あくまでも1つの説という事のようです。
丘陵端部の、街道を見下ろす位置に築城・・・。戦国築城あるあるですね😄。
本物の歴史は凄い⤴️⤴️ ありがと
う😉👍🎶
平山優先生の説に基づいて紹介させていただきました。先生は丹念に調べておられますね。
圧巻の内容でした。感服しました。mokaさんの歴史映像にはなかなか及ばないです。精進します。
いつもありがとうございます。恐縮です。お互い頑張りましょう!
@@yamajiro 平山先生の引用というところが、まさに時を得ていると思います。多くの人にまた見られる作品になると思います。モカさんの足元にも及ばないものですが、そのうちお会いしましょう!
@@horikiri 是非是非。その時が来るのを楽しみにしています。
@@yamajiro 昨日の大河をみましたが、改めてモカさんの動画がわかりやすい解説になっていますね。素晴らしい内容です。自分のは足元にも及ばんです…
@@horikiri いや、堀切凡夫さんの熱意は私よりずっとすごいですよ。いつか堀切凡夫さんの作品はどこかの然るべき機関がアーカイブすべきものだと思っています。
浜名湖水運の管理防衛は主に宇布見村の軍船兵糧奉行所の中村家が行っていたそうです。
そうなんですね。ご教示ありがとうございます。
写真付きでとても見やすかったです!
ほんとに信玄の亡くなったタイミングは信長・家康にとって神がかってますね。
今の浜松城は、天守台と復元天守のサイズが合ってなくて残念です😂
黄色や茶色に見える石垣は結構珍しいかなと思います(*´-`)
次回動画も待ってます
いつもありがとうございます。天守台の大きさと合わない天守も珍しいですよね。家康も信長も、生きた心地がしなかったんじゃないでしょうか。本当に家康は強運の持ち主ですね。だからこそ天下を取れたのでしょうね。
この後、悲劇が、待ってた。
当時サイズの浜松城を復元させたらどこの城と同じくらいの大きさになるのか気になる
松江城サイズですかね?
このときの、武田軍は、勘助、舎弟信繁既に、なく。戦死してた。😢
まんまと罠にはまっちゃだんだ、自分ちの前を素通りされたら、俺だって、怒って、反撃に出たかも、こてんぱんに、叩き潰されたかも、それだけ、信玄は、恐ろしい!
吉美はきび、うづやまは宇津山
ご教示ありがとうございます。参考にさせていただきます。
信長に、切り捨てられようと、してた。
堀尾吉春でなく義晴では?
ご教示ありがとうございます。吉晴ですかね?
@@yamajiro 様そうです、こちらも打ち込みミスでした。
三方ヶ原の戦いについて、信玄自身は勝ったとは思っていなかったかもしれない。信玄の目的は家康を討つか降伏させる事ですが、戦いでもその後にもどちらも果たせていないからです。戦場での大勝が目的の達成(利益)に繋がらないならば戦略としては未熟、或いは敵(家康)が上回っていると孫子の兵法の体現者である信玄にはわかったはずです。
その武田に、ぼろ負け。