【井伊直政子孫解説】直政が残した井伊家!直孝を始めとする優秀な子孫たちが遺志を継ぐ!江戸時代後期には各地の大名に井伊家の子供たちが!
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- čas přidán 11. 11. 2023
- 井伊直政が残した
直政の子孫について紹介します!
徳川家臣団の頂点として天下に名を轟かせる井伊直政!
関ヶ原の戦いの直後の1602年に42歳という若さでこの世を去ることになりますが、
この井伊家は直政だけじゃない!
息子の直孝を始め、幕末の直弼など、
歴史に名を刻み、才能ある子孫たちが、
幕府を支えていくことになります!
そして今回は彦根藩井伊家だけではなく、
直政の長男・直勝の家系についても幕末まで紹介していきたいと思います!
直政長男・井伊直勝から始まる井伊兵部少輔家の流れ(安中藩、与板藩etc...)
直政次男・井伊直孝から始まる井伊掃部頭家の流れ(彦根藩)
この2つの家系を江戸時代初期から明治維新までお届けします!
#どうする家康
#徳川家康
#井伊直政
#関ヶ原の戦い
#彦根
●画像引用
どうする家康公式HP
ありがとうございます!
嬉しいです✨励みになります❗️
こちらこそありがとうございます❗️
ありがとうございます🙏
大河ドラマを見終わり、茶をすすりながら拝聴しております😊
コメントありがとうございます✨
嬉しいです☺️
ありがとうございます😊
43話の直政の戦闘シーンは一つだけ注文を付けるなら刀ではなく槍であってほしかったですね。
@@kotsubach 直政は 槍働きの関ヶ原と言われてますからね😅😅😅
今週、直政のセリフが 昔の懐かしいオイラ口調になってたから 来週あたり お別れかなと…
😭😭😭
@user-dg8nn3xq5f そうですね、1602年が
没年なので征夷大将軍就任前なので来週でしょうか、、、
凄すぎます!
コメントいただきありがとうございます!
嬉しいです!ありがとうございます!
与板町出身の者です。
「直政の遺品はほとんど安中に持ち去られ、彦根に残されたのは僅か」と、言い方は悪いのですが、「安中に持ち逃げされた」ようなニュアンスですが、私が聞いていたものと違います。
「計らずも庶子である自分が嫡子の兄から取り上げる形で家督を継いだ。せめて家宝(直政の遺品)は本来正当な跡継ぎである兄が持つべき、と、安中に持たせた」と美談として聞いております。
文献を調べた訳ではないのですが、何故分家にお宝(家康から賜った孔雀の陣羽織)が?と言う疑問に誰かが教えてくれたものです。
恐らく私の親か祖父。親であれば情報源は郷土の歴史研究家。祖父(明治末期生まれ)であれば町でそういう話として伝わっていた(教えられていた)可能性があります。
余談ですが、与板最後の殿様、直安公は与板の教育、文化発展に尽力された方で、与板を離れ、東京に移られる際に町の文化財として井伊家伝来の品を町に寄付された、と。また、東京に移られてからも町を気にかけられ、町の学校の成績優秀者に表彰をされており、私の祖父も旧制小学校卒業の際に直安公から文箱を賜った(実物あり)と聞いています。
祖父の時代はまだ「オラちの(自分達の)お殿様」が遠い昔の人ではない頃なので、井伊家家宝の情報源が祖父であれば町では常識の話だった可能性があります。
情報源に関してはあくまで推察ですが。
当事者がいない今となっては「家宝は安中(後に与板)に渡り、彦根にはほぼ残らなかった」事実があり、それぞれどの立場から見るかで見え方が変わる、という事だと思います。
恐らくコツバさんは「彦根側から見た話」をされたのでしょう。
ただ、別の方向からの話もある事だけお伝えしたく、初めてのコメントを書かせていただきました。
お目汚し、失礼しました。
このような貴重なコメントいただき、ありがとうございます。
与板御出身の方に、ご家族から直接伝わっているお話を聞く機会がないのでありがたいです。
おっしゃる通りだと思います。
自分自身も今のお話を聞き、この点については、伝え方、自分の捉え方に不足が多かったと気づくことができました。
先日、井伊家について少しでも学びになればと思い安中に行かせていただき、北野寺や唐梅院様、お岩の方のお墓を手を合わさせていただきました。
直接何か書物などを見る機会はこの旅ではありませんでしたが、良い時間を過ごすことが出来ました。
是非、1度与板に行きたいです!
貴重なコメントありがとうございました。
家康が1606年に内藤信成を駿府から近江長浜へ国替させたのも、豊臣秀頼が1605年に2代将軍秀忠への挨拶を拒んだことで天下の情勢が不透明になり、井伊直政亡き彦根では豊臣の抑えとして弱いと言うことで、補強の意味もあったかもしれません。
さすがの家康も、西の抑えとして彦根を与えて、頼みにしていた井伊直政が1602年に亡くなってしまうとは予想もできなかったことでしょう。
コメントいただきありがとうございます。
確かに直政が長く健在だった場合は、この移封はなかったかもしれないですね。
この場合の信成はうってつけだったのかもしれないですね。
後年、井伊直弼の曾孫、井伊直愛氏が彦根市長となり、「殿様市長」と呼ばれましたね。
コメントありがとうございます。
水戸市長の方とお話をされた方ですね!
そういうわけで長年の腹心の家臣が官軍へ寝返ったのですね。直政の先鋒の血が幕末でも甦り、幕府はどんなにか怖かったことでしょう。
今回も興味深く視聴させていただきました、ありがとうございます♪
近江彦根藩井伊掃部頭直弼三五万石の広大な屋敷跡が明治神宮となったようですが、関係あるのでしょうか、とずっと気になっています。
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいです!
自分も憲政記念館の横にある旧上屋敷、紀尾井町にある中屋敷、明治神宮が下屋敷と巡りましたが、明治神宮は明治政府が井伊家より買い上げたようです。明治神宮のHPでは、明治天皇、皇太后がゆかりの地が代々木とのことでした!
こんにちは。おもしろくて遡って観させていただいてます😊
母(70代)もハマってすごいすごいと食いついてます😂ただ藩の当主や大名の○代を番号①②③と打ってあったら見やすいねぇと言っていたので (たぶん途中で混乱)いつか家系図にどうか優しい数字?をお願いします(笑)無理にとは申しません😊
コメントいただきありがとうございます✨
お母様にも見ていただけてると✨非常に嬉しいです!ありがとうございます!
実際に数字あった方が見やすいので、次回以降入れます✨コメントいただきありがとうございました!
@@kotsubachさん、ご無理言ったようで😣申し訳ないです💦何だかんだで3代目位までしか覚えられないのですが、数字がふってあればその人に興味持てば検索したり調べたりするはずなので 本当に感謝します。
@user-po7dp2ri3b とんでもないです!自分もたまに混乱して収録間違い起こすくらいですw
ありがとうございます😊
武田信玄とも対峙した上野の名将・長野業正の子孫に、幕末の井伊直弼の側近として共に安政の大獄を主導した長野主膳が居たな。
コメントありがとうございます。
長野業正〜長野主膳の間の系図が気になります。
彦根藩家老長野家との繋がりとかもわかれば面白いです。
お疲れ様です。
個人的な意見ですが、幕末の彦根藩井伊家は、水戸徳川家との対立が争点かも知れませんね。
将軍後継問題から始まり、安政の大獄までは井伊家が優勢でしたが、桜田門外の変では水戸藩浪士に、京都守護を取っていたのも、、、
徳川宗家を見限った、と言うよりも、水戸藩一派が率いている徳川には付かないぞ、と。
そう思いたい自分がいます。
コメントありがとうございます。
水戸藩との確執ですね。確かに冷静に考えると自分がもし、彦根藩家老だったら幕末行動は同じ動きをするかもしれないです、、、
@@kotsubach
このコメントを書いてから気が付いたのですが、今回、井伊直政を演じた 板垣李光人さん。2年前の大河ドラマの「青天を衝け」で、
水戸藩第11代藩主となる 徳川昭武を演じているんですよね。
運命のいたずらですかね。
@hiyoyo11 確かに!自分も今思い出しました!
民部公子様ですね。
確かに配役で因縁ですね、、、
桜田門外で主君を守れず恥をかき幕末の混乱を直弼のせいにされて減封、汚名挽回のため頑張ったけど長州征伐で幕府不信に変わったのかね。長州征伐での大敗も装備や戦法が古いとか彦根藩のせいにされてるけど、本当におかしいのは他の藩が共同して攻め入ってないことよね。あんな地形で500程度の彦根藩だけで攻めたら装備関係なく負ける以外ないのに。
コメントありがとうございます。
同じ芸州口担当として、時を超えた高田藩榊原家との共闘とは行かなかったということですね、
血筋的には信之系だけど「関ヶ原の戦い」「大阪夏の陣」で敵対した真田家が井伊家と血筋が繋がるのはなんか赤備えの縁を感じます。😮
コメントありがとうございます!
そうですね、直孝vs信繁、信之の子孫の養子に幸専!真田家、井伊家のご縁ですね。
かつての徳川四天王の一角の子孫が官軍川に寝返るとは旧幕府側としては晴天の霹靂だったろうね直弼死後不遇な扱いにした旧幕府の自業自得もあるけとわ
コメントありがとうございます。
四天王、そして大老家の井伊家も最後の数年が、その200年にまさってしまったかもですね、、、
徳川家にとっては飼い犬に手を噛まれて後ろ足で砂をかけらた気分だけど井伊家にしてみれば見限った格好だよね。
@@user-pf6ry8dt8d 戦国時代から主家が不利になったらお家を守る為主家を裏切るのは武士のならいだからね武士道には反するけど