【戦闘機解説】九七式戦闘機 日本陸軍で初の全金属製、低翼単葉戦闘機として開発されました。旋回性能に非常に優れ、格闘戦を得意とし、さらに射撃時の安定性から抜群の命中率を誇り空の狙撃兵とも呼ばれています。
Vložit
- čas přidán 5. 10. 2023
- 第2次世界大戦時、日本陸軍で運用された、九七式戦闘機
全金属製、低翼、単葉を採用した、日本陸軍初の、近代的な戦闘機として開発されました。
軽快な運動性と抜群の射撃命中率を誇った本機は、戦争初期において、格闘戦で敵を翻弄し多くの戦果を挙げました。
一方、その活躍と成功は、その後の日本の戦闘機開発において格闘戦偏重主義を強めるという、時代の変化に逆らう皮肉な結果も招いています。
しかし、九七式戦闘機は世界の航空機史上、非常に優秀な傑作機であったことを、疑う余地はありません
そんな本機のスペックや、誕生から終戦に至るまでを時系列に沿って解説した動画です。ぜひ最後までご覧ください。
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少しだけ追記させていただきます。 この中の中島飛行機の工場の写真ですが昭和27~30年頃の物です。昭和27年の航空写真に似ています。工場の後ろ側は空襲にて廃墟となっています。戦後米軍に工場を接収され Camp Bender となっていた時期です。 昭和33年に返還されました。 正門の前の中央に小さい哨舎が見えます。ここにMPが立っていました。 いろいろ調査ありがとうございました。大変素早しい史料です。今後にも期待しております。富士重工出身者より。
以前、開発を担当した糸川技師の話しをビデオで見たことが有りますが、格闘戦は九七戦、一撃離脱戦は鍾馗で十分だと思ってたそうです。実戦配備してすぐ大陸の部隊から欠陥品だと文句が出たので、そんな事あるか!と、大陸に行ったら、パイロット達が如何に小回り出来るかとめちゃめちゃな飛び方をして、余りの荷重にリベットが飛んでたそうです。糸川技師はそんな無茶な飛び方をしないでくれと、早速市内の薬局に行って、試験管とバネと重りを買い込んで試験管にペンキで線を引き、これ以上のGを掛けないでくれと即席のG計を作って操縦席に取り付けたとか。確か、最小旋回半径が70メートルを出したとかです。その頃のパイロットは来る者拒まず、さる者追わずだったそうです。余りに九七戦の格闘性能が良かった為に後の隼、疾風の開発に影響したそうです。特に疾風開発にあたっては、つまんねー飛行機だとぶーぶー言いながら開発したそうです。やはり、糸川技師は三菱の堀越技師の開発にも意識が有ったそうで、零戦と翼の形が違うのは設計思想が全然違ったからだそうで、零戦の翼の形はイギリスのゲッチンゲン大学の思想を取り入れてるみたいだと。当時はまだ翼の形、低翼単葉の翼の理論がまだまだでそれぞれ試行錯誤しながら開発してた。中島で開発してた糸川技師は翼の外側と内側で違った役目をもたせたので零戦の翼とは違う形になったそうですよ。
ウチの近所に陸軍の飛行場が在りました。97式戦闘機の事は少年期の父が見ており、ひらりひらりと小気味よく動く良い飛行機だったと聞かされてました😊
中島飛行機がフランスから招聘したアンドレ・マリー技師が小山悌技師に教えたのは「パイロット(搭乗員)の命を守る」事でした。
陸軍から胴体後部タンク増設の内示があった際もパイロットの生存性が担保出来ないと云う理由で固辞しています。当時軍の指示
に盾突くのは勇気のいる事だったでしょう。その後の一式戦闘機から四式戦闘機にも不充分とはいえ操縦席・燃料タンクには防弾
が施されています。パイロットが生還すれば戦訓を得ることができる。三菱との違いでしょうか。
9:00 日本陸軍戦闘機に対して赤軍は、損害無視での急降下と一撃離脱を徹底して数を削ってきた。丹精に育成していた人員を大量に失ったので、陸軍戦闘機は、防弾装備が徹底されるようになった。
" より速く より高く より遠くへ " いずれにも寄らず 旋回性能 (獲得戦) を突き詰めた結果得られた名機ですね✨
叔父(と言うより「お爺さん」って感じでした)が機乗していたそうです。「くるくる回る機体だった」と話てくれました。
美しい飛行機だ
エンジンの馬力が小さいのに軽快な運動性能を誇り、ノモンハン事件でソビエト戦闘機を圧倒し、太平洋戦争開戦時も陸軍主力戦闘機として南方戦線にまで進出した九七式戦闘機が大好きです。
余談ですが、ホンダのS660という車を初めて見た時に「あっ!九七式戦闘機みたいな車だ!」と思い、購入してしまいました🥰
本当は中島飛行機の血を引き継ぐスバルに出して欲しかったです🇯🇵
ホンダのくだりですが、実は中島飛行機とホンダは縁があり、離職した中島の人材の受け皿の一つがホンダだったり、1期ホンダF1チームの監督だった中村氏は中島飛行機でのエンジン開発部門だったり調べると自動車界に与えた中島飛行機の影響は面白いですよ。
@@rs.2764 なんとそうだったのですね!私は亡き父がスバル自動車に勤務していたので中島飛行機が前身だった事は知っていたのですが、ホンダにも中島飛行機の血が脈々と受け継がれていたのですね!
私は本田宗一郎先生も尊敬していますのでホンダも好きなのですよ☺️
色々と感動して涙が出てきてしまいます🥺
これで私のS660は九七戦のつもりで乗ります(笑)
97式戦闘機の格闘戦のビデオ見たことあるけど凄い旋回性能に驚いた、これ程当時旋回性能の良い戦闘機はいない
技術力、デザン、運動性能世界1の飛行機です。
97戦に関しては、96艦戦の後だしジャンケン、97重爆とのバーターって感じですが、戦争末期ではF6Fとの空中戦は泣けます。
昨日、太刀洗で
本物見て来たけど本当に洗練されたデザインやった
博多湾で引き揚げたやつですね。展示が始まったばかりの頃、屑になったアルミ破片をキーホルダーにして販売していましたが、今になって買っておけば良かったと後悔しました。
こんなにも強過ぎる格闘機で活躍しちゃ、後継機にも格闘能力を!って拘っちゃうのも無理ないよね😓名機だお。
糸川博士の事は連合軍もつかんでいて、終戦後研究室に米軍mpが頻繁に押しかけてチェックしてたそうだ。
「エンジンの音〜 轟と〜」って加藤隼戦闘隊の歌は、この九七戦のことを歌っているんですね。
高空の爆撃機を迎撃できなかったのは飛行性能だけでなく九七戦の酸素マスクが故障だらけで役に立たなかったという証言もあります
日本の航空技術の弱点として温度変化やオイルなどへの耐久性のあるパッキンの問題がよく言われますが早くも露呈してたようですね
ソ連がケミカル系素材が進んでたわけではないのですが鹵獲したI-16の酸素マスクを調べて出来の良さを褒めてたという記録もあります
この点や倍以上の火力や進んだ防弾装備など実際の戦果もメカとしても九七戦がI-16を圧倒してたかというと厳しいものがある
考えようによっては、陸軍と海軍競合分析で勝った方の機体を、陸軍海軍両用採用とすれば、部品互換性や弾薬共用性で極めて合理的ですが、そんな融通性は当時の陸軍、陸軍には望めないでしょうね😢
流石に艦上機、陸上機の違いがあるから機体の統一は困難だろうが、装備品、エンジンなんかは共同開発でも良かったと思うけどね。
いい航空機だ。
ゼロ戦と設計思想が真逆で驚きました。
見逃せないのはその稼働率と頑丈さだろう。中島は隼、疾風と開発したが、97式戦は一番快作だろう。
川崎は液冷でしたけど、主流にはならなかったですよね~。やはり当時の日本では既に限界だったんですかね~。
金属疲労で主翼が着陸時先端が、もげた事があると、搭乗者に聞きました、
低翼機の採用に当たり、陸軍上層部では「海軍のお下がりは採用出来ない」と言って、九六式1号艦戦(陸軍名キ13)を提出させて中島や川崎と共に不採用にし、改めて試作発注をして中島か川崎の機体を採用する方針にしました。この方針により不採用にされた三菱は、2回目の競争試作では九六式2号艦戦(陸軍名キ33)を提出した時に主翼の捻り下げ等の新機軸を盛り込んだ機体と何もしていない機体を持ち込んだ後は、三菱の設計陣は手を出さず経営関係者だけが窓口になるようにし、堀越技師を中心とした設計陣は以後陸軍の戦闘機試作依頼は受けないとし、経営陣に了承させたという闇深いエピソードがあります。
九七式戦闘機の採用後、陸軍明野飛行学校の幹部と話す機会があった堀越技師は「主翼の捻り下げだけでも秘密にしていたら、結果はどうなったか分からかった。とにかく面白い物を見せて貰えた」という話を聞き、現場では陸軍上層部を暗に批判した事がわかったそうです。
せめて、13mm機銃でホ103の弾を使えたら隼と一緒にもう少し戦えたのかもしれん
本当は97式戦闘機の時点で、5式戦闘機レベルでないとソ連やアメリカをひるませることは出来なかったんだよなぁ・・・
なことはないが、5式は、1943年には登場して欲しかった。3式戦の頃に。
97式戦でノモンハンで苦戦してたけど、ソ連が一撃離脱に切り替えてからは損害も出たらしい。
@@user-mz8fg1st3p 5式戦なら急降下攻撃も十分高速で可能だったからソ連を終始圧倒しまくっただろう。
@@user-mz8fg1st3p それも痛切に同感。
当時の大戦で英国はスピットファイアの発動機を液冷でも空冷でも選べるように機体設計したと聞いている。
日本もそうしたイギリス人の合理性を学んでいれば、飛燕の金星装備型で開発できたはずだった。
1943年までに太平洋戦線に5式戦が出ていたら、ヘルキャットには十分対抗できたはずだ。
@@tevalleyluckman8746 80年代のパソコンもあれだけ機種を開発せず、量産してコストダウンして欲しかった。ソフト開発者が混乱するよ。
97戦は陸軍と中島がメンツをかけて三菱96戦をパクって完成させた戦闘機で、異母兄弟。
中島にしても三菱にしてももう少し良いエンジンが作られたら防弾や重戦への選択肢もあったのだろうか?
真珠湾は97式99式がメインだった?ゼロはいたのかな?
@@whitepandajp ゼロ戦は護衛戦闘機で爆弾積んでた?97は爆弾99は魚雷?