【ゆっくり解説】毛利輝元編その4ー対織田戦争(1)第一次木津川口合戦から荒木村重謀反まで

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  • čas přidán 4. 07. 2024
  • 今回は織田との同盟を破棄し、信長包囲網の実質的盟主となった輝元が開戦に当たって展開した広域外交戦略や、第一次木津川口合戦を開幕として四国・山陰・播磨方面の各戦局、別所長治や荒木村重の信長からの離反などで対織田戦の序盤を優位に進める展開を解説していきます。
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    【ゆっくり解説】毛利輝元~悩める後継者編その3ー信長との断交(後)周辺状況に翻弄された同盟破棄
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    【ゆっくり解説】毛利輝元~悩める後継者編その2ー信長との断交(前)毛利包囲網を打破するために織田と同盟するも…
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Komentáře • 42

  • @user-ii9wu7fn7p
    @user-ii9wu7fn7p  Před 20 dny +27

    次回の輝元編第5回は都合により来週は投稿できないかもしれません。そうなってしまいましたら申し訳ございません。

    • @user-sf4gh4ec5k
      @user-sf4gh4ec5k Před 20 dny +4

      自分のペースでええんやで

    • @user-yp9oo3qm4s
      @user-yp9oo3qm4s Před 17 dny +1

      輝元人生はムダに長いから、ゆっくりペースでお願いします!

  • @ryuji7162
    @ryuji7162 Před 20 dny +8

    結局、毛利は一度の勝利に慢心して、戦略上の愚策である戦力の逐次投入をやっているんだよね。優勢な時に叩き込む事が出来なかった。こういうのは織田とか豊臣とかは非常に得意だよね。

  • @wanibuchiwanibuchi8214
    @wanibuchiwanibuchi8214 Před 19 dny +6

    地図上の色だけで見るとこの時の毛利輝元は西国の大覇王に見えるけど
    大内義興や尼子経久が一時期そうだったように
    このへんの伯耆備中以東の国は大勢力が勢いに乗ってくると国衆がオセロのように裏返ってるだけだから
    結局それを意識してないと織田家との和睦の時に安芸出雲以西は全て譲歩するくらいの勢いだったのが理解しにくい

  • @user-zp2hk8xf5g
    @user-zp2hk8xf5g Před 20 dny +10

    14:32 小寺政職は本願寺門徒。その縁で官兵衛の姉は一向衆の自治都市の英賀の三木氏に嫁い
    でいるという関係。なお、一向宗が禁止されていた播磨で解禁されたのは(一時、赤松氏は加賀を領有していたから危険性を感じていた)、小寺政職の祖父の小寺政隆が播磨守護の赤松義村に働きかけたから。
    個人的には別所や荒木が織田から離反したのは、家臣・領民に本願寺門徒が多いためだと思う。

  • @samorou
    @samorou Před 19 dny +7

    主の動画をほぼ全て見ているが、本当にこの時期の国衆の面倒くささは異常。

  • @user-lp2uq1gl5g
    @user-lp2uq1gl5g Před 20 dny +3

    足利義昭って何気にコミュニケーション力は高い。

  • @saka_pinkticket
    @saka_pinkticket Před 19 dny +2

    阿波の重要性の変化って本能寺の変にまで絡んできそうな面白い話ですね〜

  • @user-nk6qy4ee8q
    @user-nk6qy4ee8q Před 19 dny +2

    長篠を体験してもはや消化試合だなと感づいた後の秀吉のオラオラムーブがまさにやりたい放題。
    柴田と対立して敵前逃亡はさすがの信長もブチギレだったが。
    とはいえ、圧倒的な戦術ロジックがあったから戦争で負ける気が無かったがゆえ、磔虐殺とかを行っても俺は大丈夫だ負けないからという確信があったんだろうな

  • @sotan-qz9yg
    @sotan-qz9yg Před 20 dny +2

    投稿お疲れ様です。木津川口の戦いにて、毛利軍大勝し、元亀2年以来2度目の讃岐出兵、いわゆる「元吉合戦」となりました。また、阿波細川真之が信長方についていたことには驚きました。何せ、大内氏の頃は氏之が義興の娘を嫁に迎えて今したので、この関係は毛利時代にも受け継がれていたのだと勝手に思っており、初耳です。
     あと、因幡国で私部城が登場していましたが、「きさべ」ではなく「きさいち」だったと思います。間違いでしたら申し訳ございません。
     動画の初めの方で、龍造寺や秋月・宗像ら筑前国国衆に大友家への牽制を頼んだとありましたが、彼らの相談窓口は、益田や吉見といった石見国国衆も担当しており、それほど、石見国衆が九州方面に力を持っていたことが分かります。
     次回、第二次木津川口以降、毛利氏は防衛立場となるのですが、ここで輝元はどのように戦っていくのか、楽しみです。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu Před 20 dny +2

    別所長春に関しては、どこの誰とも分からない成り上がりの秀吉を嫌った。なんて話もありますが
    荒木村重も成り上がりなんですよね。この辺りは秀吉のやらかしと、毛利の調略が有ったんですかね

    • @beeplus1891
      @beeplus1891 Před 18 dny

      荒木村重は、結婚によるものとはいえ摂津池田氏の一族衆だから成り上り方と出身が大分扱い違うかと。秀吉は、諸説あるけど農民や端柴売り出身で、大きな家にも入ってない成り上りだからなぁ、縁故社会でよく出世したもんだよ

  • @user-ic8kq8xe7j
    @user-ic8kq8xe7j Před 20 dny +2

    播磨で国衆が毛利に寝返ったあたりで上杉謙信が亡くなってて荒木村重の謀反のときには知れ渡ってたので、信長からしたらマジで意味不明だっただろうな。じつは信長に背いた人物で理由のハッキリしてる人物はほとんどいない。信長有利な状況で裏切ることで一時的に信長も苦境に立たされるが浅井長政も松永久秀も荒木村重も数年嫌がらせしたあと滅んでる。明智光秀が有名だが彼ら信長に重用され高位にあった謀反の原因は当時も現在も謎のまま。荒木村重は逃げのびた後で秀吉に再雇用されてるが、謀反の原因を語ることはなかった。
    俺が黒菅なら必ず聞き出して子孫に伝えるわ。

  • @user-zj1qv1yc2u
    @user-zj1qv1yc2u Před 20 dny +2

    前半戦総合的には毛利優勢なんだけど、他の戦線では織田が各勢力を圧迫して
    毛利以外で互角以上の戦いを見せているのが本願寺だけの状態
    包囲網と言っても全体で総攻撃をかけることが出来てるわけじゃないので、そろそろ綻びが出てくる・・・・・・・・と言う構図が出来て来てますね

  • @user-sv8hi9in8n
    @user-sv8hi9in8n Před 20 dny +2

    この時は長篠での手痛い敗戦があって武田は立て直しに必死、謙信は北条と睨み合いで戦える大勢力って毛利だけでしたね。その毛利家も尼子残党と大友家に挟まれていたわけで。包囲網築かれても跳ね返してしまう織田家(主に信長)はチートすぎますね。

  • @user-ln2jn6vk6f
    @user-ln2jn6vk6f Před 20 dny +1

    輝元時代の毛利って、この時も関ヶ原の時もだけど、大事なときでも自分の本隊での決戦的な戦闘は避け続けてるように見える。本人の性格なのか、家としての性格なのか。他の大大名と比べるとこの家は違和感感じる。

  • @user-yp9oo3qm4s
    @user-yp9oo3qm4s Před 17 dny

    楽しく動画拝見しました!輝元初期は国人連合政権ですから、どっちというと大森銀山の金や兵糧で雇っては嫌がらせる、という戦略なんですよね。だから一つずつ調略して、その代価として反抗する(この頃の信長はもう許してくれない)そもそも山中鹿之助と、別所とかってやってることはそんなに違わないしオセロと殲滅戦だと長い意味では根切りができれば殲滅戦が有利。ただ一度離反すれば殲滅するまで信長軍の動きが止まるから、利益を度外視して調略をするし、それが本願寺の籠城を伸ばす、ロシアへのウクライナ援助がイメージとしては近い感じですね。(足利将軍が国連的なイメージですね)

  • @user-np2qk4mu1p
    @user-np2qk4mu1p Před 20 dny

    織田も毛利も両方ともがベンチャー企業みたいなもんだから、一カ所崩れると全体の危機になったんだろうなぁ。

  • @user-wt8we2rn3z
    @user-wt8we2rn3z Před 3 dny

    こうみると吉川元春って大活躍してるね。ここで輝元が義昭を引き連れて一気に有岡城まで進出すれば中国方面軍撃破すること出来た気がする

  • @user-et8gn6ul6q
    @user-et8gn6ul6q Před 19 dny

    やっぱ宇喜多がキーマンだよねぇ、毛利にとって直家が信頼に値する人物であったなら…

  • @ST-qs2yb
    @ST-qs2yb Před 10 dny

    ここで輝元が大軍率いて秀吉打ちに行ってたら勝てそうな気がするけどそうもいかんのかな
    その点、重要な局面での信長はスピードがずば抜けて速いよね
    そこが天下人とそうでない人の差なのかもしれないけど

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 20 dny +3

    織田家最大の敵は毛利であったという視点は持ちたいね

  • @user-ep6gr3ns2z
    @user-ep6gr3ns2z Před 19 dny

    もしも反毛利の首魁山中幸盛が生き残っていた場合、高松城で毛利との和議がスンナリまとまったのだろうか?

  • @user-mq5gx3rh6y
    @user-mq5gx3rh6y Před 20 dny

    別所や荒木が寝返ったと言っても彼らは個別に織田に抵抗しているだけなんですよね。秀吉のやらかしはともかく、播磨の調略に重臣を直接派遣する織田との差が一見毛利が有利に見えるこの時点でも目についてしまいます。

  • @user-fk3dn3iz1p
    @user-fk3dn3iz1p Před 9 dny

    てるもとの人生って正直コンプレックスだらけの人生だと思います。だから彼の人生はうーん

  • @user-xm6kb4pz2p
    @user-xm6kb4pz2p Před 3 hodinami

    こんにちは

  • @user-ic8kq8xe7j
    @user-ic8kq8xe7j Před 20 dny +1

    山中鹿之助と主人の尼子は上月城で捨て駒扱いされたと言われるが実際は一万近い援軍を送られてる。鹿の子のこのこは織田家に寄寓してる間に織田信忠や明智光秀につけられ何度も大活躍していて上月城はその褒美にたまわったもの。毛利主力が攻め込む前には宇喜多などの敵を撃退してる。毛利は一説に三万(桶狭間の今川が2万以下)とも言われる大軍を千人も籠っていない上月城攻めだけに動員し、播磨の国衆の謀反の直後に攻め込み、さらに攻城戦も包囲しての持久戦を選ぶという毛利らしい嫌らしい攻めに徹する。4月中旬の攻城開始から二か月後の6月16日に秀吉が信長に直接面談して毛利との決戦可能な増員を要望するが播磨の国衆の謀反を解決してない状況で動員は却下され、秀吉は鹿の子一同に上月城からの撤退を指示するもこれを尼子衆が受け入れず籠城継続を選ぶ。25日に秀吉が陣代えの途中に毛利の襲撃を受けて敗北。7月1日に尼子勢は毛利に開城。なお開城時に切腹した尼子一門以外の逃げ延びた尼子勢は一門格の亀井のもと秀吉の部下としてこの後も活躍し、チャッカり関ケ原以降も大名として生き残り幕末まで存続してる。また鹿之助の子孫の鹿の子は鴻池財閥になって幸せに暮らしました。

    • @ryuji7162
      @ryuji7162 Před 20 dny +3

      こしたんたんと狙ってはいたんだね。反撃の機会を。

    • @user-ne2js3lg2b
      @user-ne2js3lg2b Před 20 dny +1

      秀吉の指示通りに撤退したら、完全に独立大名尼子家復活したし、山中も小大名にはなれたのでは?プライドとはいえ、もったいない死に方

    • @user-ic8kq8xe7j
      @user-ic8kq8xe7j Před 19 dny

      @@user-ne2js3lg2b それまで鹿の子のこのこ虎視眈々でずっと生きてた尼子勢が織田家と滅茶苦茶太いパイプを持った状態での毛利への降伏なので戦国の大きな謎の一つ。秀吉だけでなく信忠や光秀ともめちゃ太いパイプを持ってて信長とも謁見済み、鹿之助は信長から男伊達を直接褒められてるくらい好意を持たれてる。

    • @user-ic8kq8xe7j
      @user-ic8kq8xe7j Před 19 dny +1

      @@ryuji7162  月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と願って1569年から1578年まで負けても負けてもこしたんたん、鹿之助は鹿のこのこのここしたんたんだけど、尼子一族と尼子家臣団もいて数百人で9年間こしたんたん。毛利も嫌になっただろうなw しかも尼子勢、しつこいだけでなく滅茶苦茶強かった。

    • @ryuji7162
      @ryuji7162 Před 19 dny

      「ぬんっ!」

  • @user-wb7by1mq8l
    @user-wb7by1mq8l Před 20 dny +3

    織田軍の勢いは本能寺の変がなければ2、3年ほどで天下統一できたと言われてるしな(北陸は伊達家と友好関係があるし、北条とは同盟だし、九州では大友や長宗我部とも関係が強いから実際見ると織田軍の敵は毛利が最後とも言える)

  • @866083
    @866083 Před 20 dny

    しかのこたんたん?!

  • @pqkurona1783
    @pqkurona1783 Před 20 dny +3

    なんか照元の定説どうりのだらしないイメージが拭えないんだけど

    • @Hatomaru-l5s
      @Hatomaru-l5s Před 20 dny +1

      こういう動画で判断するのは危険

  • @user-sy9hu3um7t
    @user-sy9hu3um7t Před 20 dny +1

    「信長包囲網」という現代的、通俗的な表現はあんまり使わない方がいいと思うし、「包囲網」自体もっと検証されるべき。各勢力とも自己都合で反信長的な動きを見せている感じで、軍事的、外交的にどこまで連携が取れていたか微妙。それに毛利の背後には大友がいたし、上杉、武田の背後には北条、徳川がいた。上洛して京を押さえている信長に対し、反信長勢力が協力して信長を駆逐し上洛できる可能性は本当にあったのか?

    • @user-go4xw1mz6g
      @user-go4xw1mz6g Před 2 dny

      そういう通俗的な言い方を非難する人って大抵めんどくさいよね。当時言われてた言い方を全部適用なんてできるわけないし、各大名が連携して信長と敵対してた動きを信長包囲網と形容してるだけでしょ。

  • @user-ne2js3lg2b
    @user-ne2js3lg2b Před 20 dny

    別所が謀反しなければ、毛利家は滅んでましたよね。個人的には別所の謀反がもったいない。信長生存はしたとて、秀吉と官兵衛なら織田政権の重役になるから、別所にも悪い縁組じゃないよね。