【ゆっくり解説】大坂夏の陣・豊臣家滅亡の謎 -
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- čas přidán 15. 11. 2023
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
朝鮮出兵で心身ともに疲弊し大阪方からは恩賞もない時点で豊臣恩顧の武将達の心は大阪から離れていただろうし、平和への希求も強かったのかと思うわ
真田幸村、
「秀頼様、こんな事もあろうかと、
城に偽装して某戦艦を
開発しておきました。
試し?そんな暇ありません」
今回の動画の霊夢はちょっとおかしいな…
冬の陣に大阪方として参加して、夏の陣の前に逃げて生き残った人の話を聞いてみたいですね。
豊臣秀頼は2mで170kgだったといわれていたから
影武者仕立てるのに工夫したんじゃないかな?
名将の親と一緒にいても 何も学ばず暗愚に育った子はたくさんいる。今川氏真とか…
身の丈に見合わない夢(父の仇討ち、今川の躍進)を見ず現実を生き残ったのだし氏真は暗愚とまでは言えないのでは?本物の暗愚ってのは秀頼みたいな奴のことを言うのさ。
@@kvrg8582
確かに戦国武将としての能力は皆無だけど、和歌や蹴鞠に優れ 儀式作法に詳しいとか公家的な能力は持ってたから暗愚ではなかったかも🤔
@@woomin-troll 父や有力家臣戦死後の劣勢を覆すような器ではなく、凡庸だとは思いますが、「皆無」「暗愚」とまで言い切るほどダメなようには見えないです
中国でもそうですが、家を潰してしまった者はとかく後世悪く言われます
かつては北条氏政や武田勝頼もボロクソ言われました
その辺は少し差し引いて良いかと思いますx
しかし何故豊臣方の武将が大阪~名古屋付近の侍が前田家しかいなかった
大阪を捨て淡路島に逃げていれば助かったかも
後継ぎを秀頼に 秀次を貴族にする手もあった
淀殿が1番の戦犯かなぁ😂
正しくは 真田信繁 です
うーん、正直秀頼の出生が仮に10年早かったとしてもそれで大坂冬の陣を覆す要因にはちょっとなり得ないかなと
寧ろ秀吉が死ぬ前に家督を譲れる程に成長していれば関ケ原が起こらなかった可能性もあるし、家康が謀反するにしても状況は全く違っていたかと
関ケ原で徳川が勝った時点で反徳川の旗印になる豊臣は死の宣告を受けたようなもの
それは家康が裏で準備して難癖を理由に攻めなくても豊臣は百も承知だったはず
抗おうと降ろうと豊臣は間違いなく潰されるから抗ったまでのこと
実は豊臣秀頼公は徳川幕府の公式記録では行方不明になっていますし、豊臣国松君は日出藩木下家に匿われて後に旗本になっていると歴史群像豊臣秀吉公の書籍で日出藩木下家の藩主の子孫の方がおっしゃっていますけど。
流石にそれを真実って行くには積み上げる物が足りないんじゃない?
ルソンに逃げたんですよ(漫画)
「真田幸村」という名前は物語のものであり、実際には「信繁」と名乗っていたことはよく知られています
ですが、真田家の公式見解は「家を分けてから幸村と名乗った」です
江戸幕府の公式家譜集である「寛政重修諸家譜」にも「幸村」で載っていますし、幕府の問い合わせに対しても、真田家は上記のように答えています
「幸村」と名乗っている信用できる史料はありません
大坂の陣で発行した感状も「信繁」で出しているにも関わらず、です
物語の方が優先されるということはよくあることですので、木下家にそういう伝承があること自体は歴史的に意味がありますが、事実かというと…です
これ言い出すと、幕府公式の、家康の家系伝説そのものが…ですしね
長宗我部盛親は唯一の勝利なのに扱いがひどくないですか?
大坂の陣が起こる前、家康が幕府を開いた時点で諸大名は徳川に臣従していたので、秀頼も一大名として臣従していれば滅亡は避けられたかもしれません。
あるいは武家・豊臣氏としての立場を完全に放棄して、公家として生きれば秀吉・秀次同様に摂関家として関白になっていたと思います。
花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、のきものいたる加護島へ!
本当に豊臣家は滅びたのかな?🤔薩摩に秀頼の墓?讃岐に幸村が逃れた?
Up主さん「釣りタイトルを含めお疲れ様です
・“戦略的負け=豊臣”
・“戦術的負け=大阪冬の陣”
というだけの話で“謎?”なんて皆無ですよね?
例え豊臣が”戦術的勝利を大阪冬の陣“で得たとしても”戦略的に完全勝利して居る徳川“
を豊臣が崩せる訳が無い事は明白ですよね。
誰でも分かる話=豊臣家には10万の主力浪人を籠城状態も含め継続して養う資金兵糧が無い。
”要は篭城戦だから勝てたとしても
付城で包囲されれば立ち枯れるしか無い。“
ほんと その通り👍
有名な話ばかりで、見て損した💢😡
兵糧だけはあったそうです。
事前に福島から8万石。徳川から3万石。その他の大名から2万石接収して、商人からの買い占めと備蓄米と合わせると20万石程度あったとされています。
逆に徳川方の方が食料は自己負担だったので、すでにお米の磨ぎ汁を飲む始末でした。
家康も片桐や捕虜から備蓄具合を聞いていたので、兵糧攻めせずに、大筒や坑道で圧力を掛けて有利な和睦を勝ち取る方向へと変化していきます。
豊臣側も大坂の陣の前に堺で武器弾薬の調達に失敗してたので、(片桐と藤堂に邪魔された)兵糧以外は万全ではありませんでした。
大筒で淀殿の気鬱も再発したとも言われ、両者和睦へと傾いていくことになります。
相変わらずの花のようなる秀頼様解説でげんなりする
秀頼くん周りの側近は主戦派ばっかなんだから秀頼の意思もそういうこと
また二条城会見時の清正は紀州家の舅の立場で秀頼から距離をとっているし、家康が大坂城が出たことが無いようなおぼっちゃま秀頼くんに脅威を覚えるわけないやろ…
現代にもいる家康を滅ぼして欲しかったと主張する秀吉信者だとしたら無理もないけど、秀吉ですら単独で家康には勝てなかったことは、豊臣政権の懐に飛び込ませておかなければ脆弱で毛利に乗っ取られる可能性が非常に高かったことでも明らか。小早川家を毛利から引き離そうとあれこれ画策していたし。その秀吉亡き後の関ケ原でも"三成が反家康として決起し"家康が勝っていなければ淀と秀頼だけではどちらにしろ毛利に乗っ取られてジ・エンドだったと思われますね。大坂の陣は浪人狩りの遠足でしかなかったと。
@@user-ml5px7br2j 実際、秀吉にとって大毛利は脅威でありだからこそ大毛利解体のために養子縁組等の施策を行っているとも見えますね
だいたい197cm161kgってクッソ太い超絶デブ体型よね。これBMI換算は驚愕の41で肥満4度だ。
どこからどう見ても、どんなに間違っても『花のようなる』なんて形容できるような外見では無い。
「こんな立派な傑物はゆくゆく幕府の脅威となる」よりも「こんな愚物になってしまっては生かしておく値打ちすらもない」と判断した…という方がずっと妥当だと思うんだ。
どうする家康、で忠勝役の山田裕貴と
直政役の板垣李光人の線が細いのが
違和感半端ない。
ヘタにイケメンだと武将が合わないよねー。
ヒゲが合わないんだ!!(ToT)
体も細くてみっともなくなってたなー。
体作るくらいはして欲しかったな。
直政(板垣)は まったく同感👍 小柄·色白で 最初から違和感が強かったし、髭🧔が学芸会レベル🤭😄🤣 山田裕貴はドラケンや戦隊のイメージがあるから許せる😊
通説だけで「謎」は一つもないですね。織田や今川のように傘下に下るなら生き延びる道はあったのになぁ…
4分かけて何度も同じことを言っているんだからもう少し視聴者を考えなさい
チャプターごとに魔理沙がタイトルを読み上げて、同じ内容を霊夢が繰り返すもんだからテンポが悪い、悪いw
ゆっくり紅白のおうむ返しのようなやり取りが一々ウザく感じる
何時ものように解説の水準が10年は古いですね。一例として方広寺鐘銘事件は、確かに必要以上に徳川方が騒ぎ立てた面はあるものの、当時諱は本人と密接不可分という社会通念がある以上、豊臣方も事前に家康側に断りをいれるか、草案を見せなければいけなかったのそれを怠っているのは豊臣方の落ち度とする説が有力です(笠谷和比古 『戦争の日本史17 関ケ原合戦と大坂の陣』、呉座勇一『動乱の日本戦国史』)。
あと、家康が秀頼を危険視するようになったのは、秀頼が二条城会見後に家康へ出したの披露状が切っ掛けという説が興味深かったです(福田千鶴『豊臣秀頼』)。
もちろん方広寺再建は徳川と豊臣の共同事業でしたので、きっちりと事前に見せています。
7月26日に家康は鐘銘文が不快であるとして大仏殿供養の延期を命じていますが、
これは諱割りに気づいたわけではありません。
家康が簡素な鐘銘を求めたのに対して、長い文言と金文字を入れたことが気にくわなかったそうです。
あと棟札が鐘銘と同じく色々と書いてあることと、大工長の名がないことを非難しています。
8月になってようやく五山僧や林羅山に梵鐘の銘文を解読させて、ここで初めて「国家安康」「君臣豊楽」の2句が出てくることになります。
ただ個人的には、ひたすら難癖を付けて戦に持ち込もうとした従来の定説には疑問が残ります。
おそらく銘文を記した清韓が、祝意として諱を織り込んだけどしばらく誰も気づかなかった、というのが真実に近いのではないでしょうか。
これが家康の謀なら、最初から諱割りを避難するでしょう。