『鬼義重』と呼ばれた猛将・佐竹義重、息子のせいで東北へ飛ばされた!?
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- čas přidán 7. 10. 2019
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#歴史の細道 #鬼義重
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~音源~
DOVA-SYNDROME 様
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島津もそうだけど、佐竹も兄弟が優秀だと歴史に名を残せる(笑)。
新羅三郎義光以来の名門やからね
甲斐武田とも同族で嫡流
5:03 荀彧がいれば絶対に引かせない状況
秋田から入れ替わりでやって来た「秋田氏」がその後、パッとしなかったんですよね…😒
佐竹は関ヶ原後減封されて良かったのかもしれませんね。佐竹氏は常陸、陸奥の赤館以南、下野 武茂に与力の岩城相馬 江戸崎の蘆名を合わせれば80〜90万石の大大名ですし、東軍に付いて家康に所領を安堵されても秀忠、家光の代で改易は免れなかったと思います。
それよく聞く話だね、徳川と佐竹では源氏としての格が佐竹の方が上だし、江戸の近く常陸の国に佐竹がいると邪魔だから東軍についていたら 潰されていたってね。
「徳川」につくか、「上杉」につくか…
兜の前立てに毛虫を飾って
いる人ですね。後ろに下がらないと言う意味でしたね。
秋田市を離れて長いけど、いまだに佐竹という名字に反応してしまうの。平民だから。
道理で茨城にはブ・・・おっと誰か来たようだ
この逸話を知った時「どうりで、、、」と思いました。
水戸と秋田の駅前での通行人を見比べた時、美人云々は眉唾と言えないんだよな。
秋田市では佐竹は未だにお殿様
家光に「生涯の大戦」といったのは政宗では?
そうですね。徳川家光に政宗と義宣が呼ばれ、人取り橋や摺上原の合戦話を家光に雄弁に話す政宗と、ただ黙っていた義宣。義宣の気持ちは如何ばかりか。
時折垣間見る語尾に『~よ』で草
ラブレター相手の芦名盛氏のお墓なら地元にあるっす。 近くには小さなスキー場にもなる丘があったりします。
因みに秋田県知事は、この佐竹氏の末裔です。
秋田のお殿様です‼️実家は佐竹 南家のお膝元、湯沢市で、家紋は本多立葵です😅
祖父、母は、佐竹姓。これから天下統一しますね!東北地方出身です。
私は 桓武平氏
三浦の血を引くものなり
宿敵北条を倒し
関東を制す
確かに義重が主君であれば・・・ま、歴史には「もしも」は無いけどねw
一つだけ言わせてもらうなら、減封されてきてみたら北は鉱山があり有名な秋田杉、南は米がとれるし「意外と悪くないじゃん」という話もあったとか。
そして何より私の先祖は代々佐竹の家臣なので秋田に来ないと私は生まれないのです。
源氏の中で佐竹家は名家になるから源氏の頭領言い張ってた徳川からみて常陸国に置いておくと 目の上のタンコブだから東軍についても色々理由つけて遠方へ飛ばされてただろうって言うね。
新羅三郎義光公の嫡流ですからね、、、
足利並みかもしれません。
ちなみに鳥取県にも佐竹を名乗る方がいらっしゃいますが日本海繋りと推測します😃
水戸で佐竹氏の展示会?やっています。
佐竹義重は18代から20代の解釈がある
あと家督継いだのは19歳
御主そのうち、空飛んだり手からビームだすのでは。
佐竹氏は江戸に近い常陸を本拠地としていたから、どの道理由をつけて何処かに飛ばされていた気がする。
関ヶ原の戦いの際、領地の場所が場所故、相当な手柄がない限り、国替減俸はさけられなかったかも知れません。また、新羅三郎源義光以来の名門中での名門故、少々反抗的態度を示しただけの佐竹を、「源氏長者」たる家康は、改易する気はなかったようです。
秋山繁樹 家康公は名家やいい家柄の大名には甘いからな
@@user-wp9jn8fg4l 家康以後の徳川幕府も、今川氏真の嫡男や品川氏初代となる次男を幕府の典礼を司る高家として、足利氏の鎌倉公方や武田信玄の次男の嗣子も、同じく高家として、取り立てたようです。
秋山繁樹 足利氏に至っては城主格ですからなあ
モッチー2643 喜連川「わし、わし、」
息子は家康負けた時に関東狙ってたと思ってたんだけど。
信長の野望で北条家にいがちな人
北条はああ見えて武将の質は氏康氏政の両手で数えれる程度の有能兄弟だけで 後は割と里見と佐竹の武将が主力となるのはあるある
佐竹氏の末裔(現秋田県知事)は龍角散のコマーシャルに好評出演中(^ω^)
むしろ、海があるところに転封してもらってよかった感じ。
そのまま太田城や水戸城にしがみついてもいいことはなかったと思う。
その辺りを、元茨城大学で教鞭をとっていた磯田先生に見解を伺いたいのだが。
田吾作佐竹は海を上手に使えない。城も土崎湊から久保田山に移した。
秋田はすっかり内向きの土地になってしまった。
@@shigesans1 ただし土崎だと膨大な家臣を全員城下町に住ます事ができない。
@@yh6146 そうかなあ。土崎港に若いころ住んでたけど結構町域は広かったよ。秋田みたいな寒冷地でコメ作りやるより海運に活路見出したほうが
面白かったのに。家臣は廻船問屋に転業w
よく分かった!
下さい
佐竹三代は真田三代に劣らない存在感があると思います
義重の父義昭も上杉憲政から関東管領の職を譲る話を辞退したというエピソードがあって
義昭が辞退したから長尾景虎に関東管領の話が舞い込んできたと戦国の流れに絡む縁がありました。
また武田信玄に対しても御旗楯無は本来俺らのもんだ、返せ!
といちゃもんをつけ続けた事もあって上杉武田北条の関東三国志にも間接的に関わってた所も興味深いです
義重も先陣を切りながら指揮を取るという桁違いの名将ぶりや伊達政宗との戦い
義宣は利よりも三成との友情を取るなど個性的な三代で大河ドラマで取り上げてほしいくらいです
佐竹知事、是非佐竹三代の大河ドラマ誘致を😁
佐竹義重が先祖で娘が高倉永慶に嫁ぎ繋がってます。蘆名盛隆は蘆名に養子になった二階堂盛義の嫡男で祖父母は伊達晴宗と岩城重隆の娘の絶世の美女と言われた久保姫(伊達政宗の祖父母)です。久保姫は佐竹義重の母の姉で2人の姉妹の父岩城重隆の母は佐竹義舜の娘で義舜は義重の曾祖父です。
又佐竹義舜の母は岩城親隆 (下総守)の娘です。
義重の正室は晴宗と久保姫の五女の宝寿院で蘆名盛隆の母の阿南姫の同母妹です。
複雑ですが、去年家系図から江戸時代の先祖が分かり先祖の岩城重隆と佐竹義昭と先祖では有りませんが伊達晴宗の繋がりが分かりました。
久保姫の血を引く蘆名盛隆は美男だったんでしょうね。盛隆と義重は縁が深いので身内としての好意かも知れませんね。
秋田市立佐竹史料館が今再建中で完成したら行く予定です。😊
義重は秀吉をうまく利用できていた
人物の1人
かな?と思います。
じゃないと思います、すいません。
氏治さんを虐めていたジャイアンというよりスネ夫の様な印象の人(笑)
久保田城、結構立派でしたよ。
関ヶ原で改易されたにせよ「出羽秋田23万石」は有能だろ
むしろ息子の義宣のおかけで取り潰されずに済んだと言うべき
律儀者だからな(  ̄▽ ̄)
義重が盛隆に戦場であって恋したと決めつけているのは何故なのか、、、。
味方同士ならまだしも敵同士なら総大将同士が会う機会があるなんてよっぽどの事がない限りありえない
この義重の息子、義宣を主人公にした漫画が
岩明均さんの「雪の峠・剣の舞」
あんまり知ってる人はいないかな???
印象的な作品でしたね
息子が西軍についたのは決して間違いではなかったんじゃないかという見立て
あのまま徳川の側に50万石もの大大名として残ってたら、その後の福島正則みたいに潰されていたんじゃないかっていう
元々豊臣とつながりが深かった佐竹としては十分説得力のある話でしたね
TAaKihiro へうげものもお忘れなく
この漫画が収録された単行本を持っています。
僕の先祖です。
鬼義重
常陸の守
常陸介ですね。
この鬼義重に何度も歯向かって不死鳥とまで言わしめた小田氏治をやってほきち
あちちあちち とんでもねえ奴と同じ時代に生まれちまった
あああああ 氏治とんでもない奴らばっかと戦ってボロ負けしまくってたから心の中でそれ思ってそうw
あちちあちち フェニックス小田
今の秋田県知事のご先祖さまですね
Tomas Souma 確か同じ家だけど系統が違ったはず、今の知事の方の先祖は佐竹北家なはず
あちちあちち さん
あ、そうなんですか…
もう、20年くらい帰ってないもので、すみません
ご指摘、ありがとうございます
Tomas Souma いえいえ
嘘かもとらえられるかもしれませんが自分実は佐竹家の子孫に当たります。
詳しいことはわからないのですがおばあちゃんが元々佐竹でなんか扇子?みたいな家紋で実は佐竹と一緒の家紋らしいです。だからなんか自分の祖先が動画にでてるの不思議な感覚がします
2:35🌸足⚡︎名5:35かわい⚡︎想認っも?🧼養子縁組3👁🗨Ⅳ🇷🇪❺
武田信玄と、どちらが源氏・義光流の正当か争ったとかいう逸話あり(^^;
そんな義重だから、家康が同じく源氏を名乗った(僭称した)ことに片腹痛かったのかもしれない。
何せ佐竹は紛れもなく源氏の末裔だから。ご先祖様は「同じ源氏」「たかが義朝の子」と、鎌倉の頼朝にも素直に従わなかったし…(^^;
動画では紹介されていませんが、伊達政宗の叔母が正妻なので姻戚の争いでもあったのですね(当時の関東以北ではよくあることらしいですね)。
さおりちゃん前面に出したほうが良いよ。
私の母親は、佐竹家、直系の大山家です。
東北は寒くて「稲作」に向かなかったのに、稲作に拘ったせいで餓死者が大量にでた。
特に日本海側は、大雪で冬はロクに活動できないし、日照量が少なくて冬季ウツになる。
東北は人口密度も薄く、経済が発展しなかった最悪の地域。
人が少ないから他の産業も発展しない。
現在でも秋田県は、日本最速で人口が減ってるでしょ?
だから、秋田は流刑地だったワケで。
そもそも秋田の語源は「悪田」
東北へ飛ばされた、とは、東北地方に対して、無礼な言い方である。
それな
関東人か中華人民かいうくらいの傲慢さだな
Katsuyuki Sakurai 歴史背景を勉強しましょう
この時代の東北地方に何の価値があると思ってるわけww
都会でバリバリ働いてるやつが
クソ田舎に飛ばされる感覚だろ
今でも東京→福島、宮城、岩手、秋田、山形、青森とかに飛ばされると嫌だろw
@@menn960 この時代の北関東も似たようなもんですが……
内容は、満点。
とても面白かったです。
ただし、それだからこそ、気になった言葉遣いが2点。
1.「自殺行為」
2.「ですよ」
あえて理由は書きませんが、おそらくこの脚本を書かれた方は、
ひじょうに聡明な方と存じますので、ご一考ください。
ごめんなさい解説お願いします。
@@neo-chinidone さま。
わたしのコメントが舌足らずだったようで、申し訳ございません。
まず簡単な方、2について。
これは他の方も指摘されてますね。丁寧な言葉遣いでずっと来たのに、いきなりくだけた感じになると違和感を覚えますよ(失礼、これが見本です)。
1について。
申し訳ありません、現在心臓を患い安静にしている必要があるので、本来すべきこと=このビデオを見直し、どういったニュアンスで「自殺行為」という言葉がプロの文筆家ならこのケースの場合使用しないかを説明すべきなのですが、体に負担がかかり、できません。重ねてお詫びを申し上げます。
最後にひとこと。
私は文筆業で生活しています。また、米国で学生たちにものごとを教える/プレゼンテーションの仕方を米国政府の一機関で教育を受けました。
ゆえに、言葉遣いには敏感かもしれません。
CZcams に「ニュースのあかり / News community」というチャンネルがあります。
シナリオがかなり礼儀正しく、冗談を言う際にも、馴れ馴れしい感じはありません。
もしかしたら、ご参考になるかもしれません。
では、失礼いたします。
@@totosuke68
早速の御回答、しかもこんなに詳しく、有り難うございます。そういう意味だったのですね。自分はむしろ『ですよ』に好感を持っていたので驚いたと言うか勉強になりました。それとは別に、東北を見下した論調に少しだけ腹が立ちましたが。
@@neo-chinidone いえいえ。
自分も上代のころからの「まつろわざる民」=エミシのころからの東北ファンです。『陸奥話記』(前九年・後三年の役)などを読んでも「王化」というところにひっかかるのです。
しかしながら、それは皇室を尊敬していないことを意味しません。
ちょっと脱線しましたが、戦後の復興を考えるとき、集団就職や出稼ぎといったある意味東北の人を使い捨てにしたような政策に、いまでも腹を立てています。
歴史的にも、現代においても、東北の方たちは我慢強く日本を支えてくれていると、いつも感謝しております。
ぐだぐだ書いて、失礼しました。
ご自愛くださいませ。
豊臣寄りの石田氏に恩義がたくさんあると息子も態度が意味不明になったことは小早川秀明みたいな状況ができたと考えれて仕方がないことです。
徳川は当時水戸は美人の塊で有名だった常陸国を下心丸出しで標的にしていたというのは義重から見て知っていたと思います。
秋田まで美女たちを1人残らず持って行き御三家徳川に美女を渡さない跡継ぎや子孫を残す攻防戦としては佐竹義重の勝ちです。
だから、秋田美女と
言われるのか
この時代の美人とは?
笑