Velikost videa: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Zobrazit ovladače přehrávání
Automatické přehrávání
Přehrát
楽しみにしておりましたが、期待を上回る内容で興味深くはいけんいたしました。定子と障子の関係に殿上人にあるべき慈しみと情けをかんじました。政治はいての時代も冷徹ですね。二人の后の宮が幸せであったことを信じたいです。ありがとうございました。次も期待してますよ❗️
定子(クラスの中心的な人、美人だけど気さくで女子にも人気。男からはハードル高過ぎて眩しい。男女問わず誰とも仲が良い。)と彰子(眼鏡かけた大人しそう人。眼鏡を外すと美人。女子人気は余り高くなく、男からの人気は圧倒的。特定の女子とばかり一緒にいる。)クラスにいそうな感じ。彰子から定子は憧れもあったのでは?と。逆に定子から彰子に対しては立場や環境の変化から思う所はあっただろうけど、生来の気質から面倒みていたのでは?と。彰子から道長(父)に対しては憧れの定子に対する扱いもあるだろうけど、ずっと言いなりで生きてきたゆえの反発心もあったのでは?と思います。もちろん、動画内で言う母性や遺志もあったのは確かだとは思います。
大作お疲れ様でした。道長らの政治手腕や定子や彰子のこと、コンパクトながらしっかりまとめてあって尺以上に内容が濃かったです。
崇徳、後白河、後醍醐、正親町、光格、孝明、明治、昭和この辺りは長く成りそうですね。一時間越えるかも
院政した帝は長くなりそうです。白河、鳥羽、後鳥羽も多分、長いですね。
彰子には紫式部の他に和泉式部や赤染衛門も仕えていたんですよね、すごい面子だ
昔漫画で読んだ事あります和泉式部は実は清少納言のファンだったとか和泉式部は本名大江で歌人の家系清少納言は本名清原でこちらも歌人の家系紫式部は最初は藤式部と言われて本名藤原美人の順に並べると和泉式部>紫式部>清少納言でしょうね
光る君へ一条天皇定子を溺愛亡きあと定子を忍び泣き崩れ、定子さん悲願彰子に紫式部つける❤道長と深い絆関係ソウルメイト❤大石静さんバイタリティー脚本。期待。
うぽつです。今回は彰子様の印象の方が強く残りました・・・89歳って当時の宮廷で奇跡ですよね・・・(驚愕)動画30分でしたが、後の方に紹介する文の上司である日本第一の大・・・(以下略by頼朝)の天皇、上皇、法皇時代をすべて紹介したら30分では済まないと思います・・・(汗)
清少納言の推し柄は、牛柄。『猫は。表の限り黒くて、腹いと白き。』いわゆるタキシード柄…私も好き💕おとどちゃんは何柄だったのかな〜?
内容盛りだくさん、でもしっかりまとまっていて理解しやすかったです。小6の歴史で初めて知った頃から色々な情報が積み重なり、「あさきゆめみし」とごちゃ混ぜになっていたものがスッキリです。
一条天皇の結婚って二度とも従妹、まるでフェリペ2世みたいだ
お疲れ様でした。一条天皇と定子と彰子の微妙な関係が好きなので、面白かったです。ちなみに定子没後の彰子が皇子を産む前、天皇は定子の面影を求めて、宮仕えしていたその妹を寵愛したことも有りました。その妹も出産で子供共々亡くなりましたが、天皇の定子への思い、深いです。
彰子は一条帝に恋して、それが叶い、子が出来たとしたいのだろうが、定子も代用品の御匣殿も亡くなった。淋しい一条帝は源氏物語に吊られて据え膳彰子を頂いたということではないかな?種は弱くても畑彰子は頑強。ポンポンと二人の皇子を生んだ。が、それで打ち止め。相当体調不良だたのか?が、一条天皇にその気があればドスコイねーちゃんの彰子のもう少し何人か皇子か姫皇女が生まれていたはず。出来ないところをみれと。関係をむすぶのが、億劫になったものと思われる。
欠史八代の頃が懐かしい
いやぁ、楽しかったですよ。お話に引き込まれて時間を忘れて視聴してしまいました。これからも楽しみにしていますので、がんばってください。
これは他所の動画にも投稿した内容ですが、敢えてこの動画の時代をチョットだけ補足する意味で投稿します。紫式部(970? or 978?~1019?)による『源氏物語』の文献初出は西暦1008年(寛弘五年)だという。ところで、そのころ九州では一大事件が勃発していた。後世において、もう一つの元寇と呼ばれることになる「刀伊の入寇」(1019)である。それまで、文献でわかるだけでも数十回も対馬、壱岐、九州沿岸部は新羅、高麗から襲撃・略奪を受けていたという。刀伊は満州方面の女真族が母体の大規模な海賊集団であり、高麗のならず者を取り込みながら朝鮮半島の東海岸沿いを南下し、対馬、壱岐、九州北部を襲撃したそうだ。願いにより、出雲権守から大宰権帥に転任していた藤原隆家(979~1044)は九州地方の武士団を結集し、自らも最前線に立って奮戦し刀伊を撃退した。隆家は叔父・藤原道長(御堂関白、966~1028)に対して憚りなく嫌みを放言するほどの剛毅な気性であり、道長も隆家には一目も二目も置いていたという。隆家の子孫はその後も堂上公家(水無瀬流)として残り、女系だが九条関白家にもその血が流れている。大正天皇(1879~1926、在位:1912~1926)の后・貞明皇后(1884~1951、御成婚:1912)の御実家は九条関白家であることから、昭和天皇、上皇陛下、今上天皇陛下、秋篠宮様を始めとした宮様方もその子孫にあたられる。南米で隆盛を極めたインカ帝国は、フランシスコ・ピサロ(1470?~1541)率いる僅か180人ほどのスペイン人侵略者によって、実にあっけなく滅ぼされてしまった(1533)。「刀伊の入寇」という危急存亡の秋に藤原隆家が大宰府になくば、果たして日本はどうなってしまっていたであろうか・・・・・。『治に居て乱を忘れず』【易経 繁辞伝】は、人類社会において数少ない絶対真理の一つであることは間違いない。
九州において菊池家は隆家の子孫と称した。子孫と称されると言うことは隆家の偉大さを知っている人が多いからこそです。今まで武功を立てた人の中で摂関家に最も近い人です。この武功は日本の文化を守り、さらに成長させる時間を作ることができた。保元の乱や源平合戦のような内乱に比べるならば、より多く日本に貢献している点を考慮に入れなくてはいけません。本来はもっと評価されるべき人物だと思います。
過去最長、お疲れさまです!upありがとうございます!見応えありました!!
一条天皇のホンネは親政をやりたかったかもしれないあと死因はなんだったんだろう32才は早すぎるもしかしたら近親婚のせいかも?
一条天皇といえば定子は外せないですよね。ときたら彰子。さらに藤原一族。不比等あたりから始まる藤原の権力がまだ衰えてないですよね。
なかなかドラマのある内容だったなぁ。天皇、定子、彰子、道長、清少納言、紫式部と立派な人たちが揃っている(伊周から目を逸しつつ)し権力争いも健全な方(道長が汚い手で権力を手にしたわけではないし)だし。
紫式部が仕えた一条天皇の中宮彰子は藤原道長の娘で、清少納言が仕えた一条天皇の中宮定子は藤原道隆(藤原道長の兄)の娘です。
ゆっくりたちがかわいかったので、チャンネル登録しました😆
当時、歌合わせに出られるということは、プロ野球でオールスター戦に選ばれるほどのステータスだったんですね。それにしても、今回は長丁場でしたね。今後の天皇紹介も、長い傾向になりそうですね。特に近現代、明治と昭和辺り。
BISCUITGDII さんそれは無理でしょう。第二次大戦の戦争責任という触りがありますし、大正天皇は外遊や国賓として外国にはお出ましなさってません。理由は、言い難いです。
道長が藤原伊周・隆家兄弟の追放を決断したのは花山法王とのトラブルもさることながら、姉で皇太后の詮子を呪詛したのが発覚したからだったかと。田辺聖子さんの著作によれば、定子は天真爛漫な明るい陽気な女性、彰子は真面目な優等生タイプだったようです。もし清少納言と紫式部の主人が逆だったら、性格的に合わずにうまくいかなかっただろうと。 個人的には紫式部のほうが好き。清少納言の「枕草子」はなんだか押し付けがましく思える。「春は、あけぼのがいいのよーッ!!」って感じで。
枕草子って、女子会のおしゃべりをそのまま文字起こしした感じですよね。田辺聖子さんも「一個人の著作にしては感性の幅が広過ぎる。定子がお題を出して女房達が思い思いに答えるなんて遊びをしていたのかも」と仰ってますし。枕草子を読んだ時に感じたのが「あ、これ『くちびるから散弾銃』だ」です。漫画家岡崎京子さんが三人娘のたわいないお喋りを描いた作品。
ゆっくり(饅頭)の皆さん、解説お疲れ様でした!
コロナの影響で仕事以外は隠遁生活になりそうな週末なので、楽しみにしております。
30分超えの長編おつかれさまでした。誰もが知ってる政治史と文化史の超大物たちが、それぞれが天皇一人を介して関係が繋がっているのだから語ることも莫大になりますよね。よくぞまとめて下さいました。
平安時代の料理は今の和食に欠かせない出汁の技法がなかったので、美味しく無かったとそうですな。また当時の貴族たちの飲んでいた、お酒は糖度が30%以上と超甘口で、道長も10代の頃から飲んでいた為、晩年は糖尿病に酷く苦しめられましたね。文さん、飲み過ぎに気をつけてください(笑)今度は細かく藤原道長の解説や、王朝文化の名作、「源氏物語」の解説も是非お願い致します。
笑いの公爵 糖度30%ってもはやジャムなんじゃあ。。
平安時代の料理って味なくて、調味料つけて食べてたらしいですからね
matsu city 不味そ。出汁はいつからだろうね?
鎌倉時に中国から入ってきた禅宗のお寺が食事を良くするために旨味を出す技法が出汁の始まりで室町時代に普及したと言われてます。
13:26 女系だと一条天皇とも従兄弟なのか。
この時代で一人息子はめずらしい一条天皇って老け顔になっている
周辺の人々、事件を一つ一つやっていくと、それ自体で別動画作れるレベルの話が多くなってしまい、うp主過労死待ったなしレベルです。以前からの私生活、言動などを重点的に解説する姿勢崩さず、シリーズ完走することを祈ります。
ついに藤原道長登場
今週は饅頭大フィーバー週各チャンネル饅頭大大大大ボルケーノ週おめでとうございます!ここの方がまた凄いのをセリに上げてきた!!
平安時代の一番いい頃
この時代の酒ってどぶろくくらいしかないから糖分たっぷりで酒飲み貴族はあっという間に糖尿病になっちゃうんだよなあ。
へ~そうなんですか、濾過している現在の清酒とアルコール分、糖分は同じかと思っていました。自分も時々造るけど(勿論、酒税法の関係でアルコール分1%未満ですw)これが旨い!
左大臣源雅信は宇多天皇と藤原時平の孫で藤原道長の義父
源雅信の奥方が長生き家系なのか奥方、娘の倫子、孫の彰子、頼通は80歳越えましたよね。当時寿命考えると驚異的ですね。
清少納言の読みは❌せいしょうなごん ⭕せい しょうなごん
翁丸…犬飼ってるので本当可哀想だと思いました(・・;)
うぽつです。今回は一条天皇の紹介でしたが、内容的に定子・彰子のエピソードが大半を占めてしまいました。定子・彰子は別枠として製作した方が良かったのでは?一条天皇自体は特に大した活躍はなかった(?)と思われます。
バカラスは流石に草
定子の崩御は24才では?
一条天皇は、乳児期に、外祖父兼家の意向で、父・円融天皇と対面できずに過ごしてしまったから、随分お寂しい思いをされたのではないでしょうか? 兼家・詮子父子に正当な言い分はあった(←第一皇子を儲けた詮子を中宮に立后しなかった)んですが、あまりに不憫でしたね。 父天皇と一緒のお墓に入りたいと、一条天皇が思われたのも、当然だと思うのですが、道長、臣下として不敬でしたね。 永井路子氏の「この世をば」を読めば、兼家・詮子・道長父子のデリカシーの無さが、詳しく解ります。一条天皇が、血縁でも、母・詮子、叔父・道長との間で、難しい舵取りをされていたことも、描かれています。
2回もいとこと結婚するなんて俺と同じじゃん
別に分けて解説して欲しかった。
彰子の記録がほとんどないのは定子と違って魅力がなく帝にあまり愛されていなかったからだと思います
彰子は一条天皇の生きている間は大人しくしていて、たしかに一条天皇に好かれるような光る所はなかった。所詮女性として、定子には太刀打ち出来ませんでした。
まぁ一条帝に愛されなかったからこそ、その後の生き方を考え学び、決断して結果栄光の日々が、待ち受けている。
結論は、定子は道長に散々意地悪をされ、政治的には敗北者です。だが、一条帝は定子が亡くなって10年たっても彰子と夫婦関係を結んでも本気の愛情は定子の上にのみあった。
楽しみにしておりましたが、期待を上回る内容で興味深くはいけんいたしました。
定子と障子の関係に殿上人にあるべき慈しみと情けをかんじました。政治はいての時代も冷徹ですね。二人の后の宮が幸せであったことを信じたいです。
ありがとうございました。次も期待してますよ❗️
定子(クラスの中心的な人、美人だけど気さくで女子にも人気。男からはハードル高過ぎて眩しい。男女問わず誰とも仲が良い。)と彰子(眼鏡かけた大人しそう人。眼鏡を外すと美人。女子人気は余り高くなく、男からの人気は圧倒的。特定の女子とばかり一緒にいる。)クラスにいそうな感じ。
彰子から定子は憧れもあったのでは?と。逆に定子から彰子に対しては立場や環境の変化から思う所はあっただろうけど、生来の気質から面倒みていたのでは?と。
彰子から道長(父)に対しては憧れの定子に対する扱いもあるだろうけど、ずっと言いなりで生きてきたゆえの反発心もあったのでは?と思います。
もちろん、動画内で言う母性や遺志もあったのは確かだとは思います。
大作お疲れ様でした。
道長らの政治手腕や定子や彰子のこと、コンパクトながらしっかりまとめてあって尺以上に内容が濃かったです。
崇徳、後白河、後醍醐、正親町、光格、孝明、明治、昭和この辺りは長く成りそうですね。一時間越えるかも
院政した帝は長くなりそうです。白河、鳥羽、後鳥羽も多分、長いですね。
彰子には紫式部の他に和泉式部や赤染衛門も仕えていたんですよね、すごい面子だ
昔漫画で読んだ事あります
和泉式部は実は清少納言のファンだったとか
和泉式部は本名大江で歌人の家系
清少納言は本名清原でこちらも歌人の家系
紫式部は最初は藤式部と言われて本名藤原
美人の順に並べると和泉式部>紫式部>清少納言でしょうね
光る君へ一条天皇定子を溺愛亡きあと定子を忍び泣き崩れ、定子さん悲願彰子に紫式部つける❤道長と深い絆関係ソウルメイト❤大石静さんバイタリティー脚本。期待。
うぽつです。
今回は彰子様の印象の方が強く残りました・・・89歳って当時の宮廷で奇跡ですよね・・・(驚愕)
動画30分でしたが、後の方に紹介する文の上司である日本第一の大・・・(以下略by頼朝)の天皇、上皇、法皇時代をすべて紹介したら30分では済まないと思います・・・(汗)
清少納言の推し柄は、牛柄。
『猫は。表の限り黒くて、腹いと白き。』いわゆるタキシード柄…私も好き💕おとどちゃんは何柄だったのかな〜?
内容盛りだくさん、でもしっかりまとまっていて理解しやすかったです。
小6の歴史で初めて知った頃から色々な情報が積み重なり、「あさきゆめみし」とごちゃ混ぜになっていたものがスッキリです。
一条天皇の結婚って二度とも従妹、まるでフェリペ2世みたいだ
お疲れ様でした。一条天皇と定子と彰子の微妙な関係が好きなので、面白かったです。ちなみに定子没後の彰子が皇子を産む前、天皇は定子の面影を求めて、宮仕えしていたその妹を寵愛したことも有りました。その妹も出産で子供共々亡くなりましたが、天皇の定子への思い、深いです。
彰子は一条帝に恋して、それが叶い、子が出来たとしたいのだろうが、定子も代用品の
御匣殿も亡くなった。淋しい一条帝は源氏物語に吊られて
据え膳彰子を頂いたということではないかな?
種は弱くても畑彰子は頑強。
ポンポンと二人の皇子を生んだ。が、それで打ち止め。
相当体調不良だたのか?
が、一条天皇にその気があればドスコイねーちゃんの彰子のもう少し何人か皇子か姫皇女が生まれていたはず。
出来ないところをみれと。
関係をむすぶのが、億劫になったものと思われる。
欠史八代の頃が懐かしい
いやぁ、楽しかったですよ。お話に引き込まれて時間を忘れて視聴してしまいました。
これからも楽しみにしていますので、がんばってください。
これは他所の動画にも投稿した内容ですが、敢えてこの動画の時代をチョットだけ補足する意味で投稿します。
紫式部(970? or 978?~1019?)による『源氏物語』の文献初出は西暦1008年(寛弘五年)だという。
ところで、そのころ九州では一大事件が勃発していた。
後世において、もう一つの元寇と呼ばれることになる「刀伊の入寇」(1019)である。
それまで、文献でわかるだけでも数十回も対馬、壱岐、九州沿岸部は新羅、高麗から襲撃・略奪を受けていたという。
刀伊は満州方面の女真族が母体の大規模な海賊集団であり、高麗のならず者を取り込みながら朝鮮半島の東海岸沿いを南下し、対馬、壱岐、九州北部を襲撃したそうだ。
願いにより、出雲権守から大宰権帥に転任していた藤原隆家(979~1044)は九州地方の武士団を結集し、自らも最前線に立って奮戦し刀伊を撃退した。
隆家は叔父・藤原道長(御堂関白、966~1028)に対して憚りなく嫌みを放言するほどの剛毅な気性であり、道長も隆家には一目も二目も置いていたという。
隆家の子孫はその後も堂上公家(水無瀬流)として残り、女系だが九条関白家にもその血が流れている。大正天皇(1879~1926、在位:1912~1926)の后・貞明皇后(1884~1951、御成婚:1912)の御実家は九条関白家であることから、昭和天皇、上皇陛下、今上天皇陛下、秋篠宮様を始めとした宮様方もその子孫にあたられる。
南米で隆盛を極めたインカ帝国は、フランシスコ・ピサロ(1470?~1541)率いる僅か180人ほどのスペイン人侵略者によって、実にあっけなく滅ぼされてしまった(1533)。
「刀伊の入寇」という危急存亡の秋に藤原隆家が大宰府になくば、果たして日本はどうなってしまっていたであろうか・・・・・。
『治に居て乱を忘れず』【易経 繁辞伝】は、人類社会において数少ない絶対真理の一つであることは間違いない。
九州において菊池家は隆家の子孫と称した。子孫と称されると言うことは隆家の偉大さを知っている人が多いからこそです。今まで武功を立てた人の中で摂関家に最も近い人です。この武功は日本の文化を守り、さらに成長させる時間を作ることができた。保元の乱や源平合戦のような内乱に比べるならば、より多く日本に貢献している点を考慮に入れなくてはいけません。本来はもっと評価されるべき人物だと思います。
過去最長、お疲れさまです!upありがとうございます!見応えありました!!
一条天皇のホンネは親政をやりたかったかもしれない
あと死因はなんだったんだろう32才は早すぎる
もしかしたら近親婚のせいかも?
一条天皇といえば定子は外せないですよね。ときたら彰子。さらに藤原一族。不比等あたりから始まる藤原の権力がまだ衰えてないですよね。
なかなかドラマのある内容だったなぁ。
天皇、定子、彰子、道長、清少納言、紫式部と立派な人たちが揃っている(伊周から目を逸しつつ)し権力争いも健全な方(道長が汚い手で権力を手にしたわけではないし)だし。
紫式部が仕えた一条天皇の中宮彰子は藤原道長の娘で、清少納言が仕えた一条天皇の中宮定子は藤原道隆(藤原道長の兄)の娘です。
ゆっくりたちが
かわいかったので、
チャンネル登録しました😆
当時、歌合わせに出られるということは、
プロ野球でオールスター戦に選ばれるほどのステータスだったんですね。
それにしても、今回は長丁場でしたね。
今後の天皇紹介も、長い傾向になりそうですね。
特に近現代、明治と昭和辺り。
BISCUITGDII さん
それは無理でしょう。第二次大戦の戦争責任という触りがありますし、大正天皇は外遊や国賓として外国にはお出ましなさってません。理由は、言い難いです。
道長が藤原伊周・隆家兄弟の追放を決断したのは花山法王とのトラブルもさることながら、姉で皇太后の詮子を呪詛したのが発覚したからだったかと。
田辺聖子さんの著作によれば、定子は天真爛漫な明るい陽気な女性、彰子は真面目な優等生タイプだったようです。もし清少納言と紫式部の主人が逆だったら、性格的に合わずにうまくいかなかっただろうと。
個人的には紫式部のほうが好き。清少納言の「枕草子」はなんだか押し付けがましく思える。「春は、あけぼのがいいのよーッ!!」って感じで。
枕草子って、女子会のおしゃべりをそのまま文字起こしした感じですよね。田辺聖子さんも「一個人の著作にしては感性の幅が広過ぎる。定子がお題を出して女房達が思い思いに答えるなんて遊びをしていたのかも」と仰ってますし。
枕草子を読んだ時に感じたのが「あ、これ『くちびるから散弾銃』だ」です。漫画家岡崎京子さんが三人娘のたわいないお喋りを描いた作品。
ゆっくり(饅頭)の皆さん、解説お疲れ様でした!
コロナの影響で仕事以外は隠遁生活になりそうな週末なので、楽しみにしております。
30分超えの長編おつかれさまでした。
誰もが知ってる政治史と文化史の超大物たちが、それぞれが天皇一人を介して関係が繋がっているのだから語ることも莫大になりますよね。
よくぞまとめて下さいました。
平安時代の料理は今の和食に欠かせない出汁の技法がなかったので、美味しく無かったとそうですな。
また当時の貴族たちの飲んでいた、お酒は糖度が30%以上と超甘口で、道長も10代の頃から飲んでいた為、晩年は糖尿病に酷く苦しめられましたね。
文さん、飲み過ぎに気をつけてください(笑)
今度は細かく藤原道長の解説や、王朝文化の名作、「源氏物語」の解説も是非お願い致します。
笑いの公爵 糖度30%ってもはやジャムなんじゃあ。。
平安時代の料理って味なくて、調味料つけて食べてたらしいですからね
matsu city 不味そ。出汁はいつからだろうね?
鎌倉時に中国から入ってきた禅宗のお寺が食事を良くするために旨味を出す技法が出汁の始まりで室町時代に普及したと言われてます。
13:26 女系だと一条天皇とも
従兄弟なのか。
この時代で一人息子はめずらしい
一条天皇って老け顔になっている
周辺の人々、事件を一つ一つやっていくと、それ自体で別動画作れるレベルの話が多くなってしまい、うp主過労死待ったなしレベルです。以前からの私生活、言動などを重点的に解説する姿勢崩さず、シリーズ完走することを祈ります。
ついに藤原道長登場
今週は饅頭大フィーバー週
各チャンネル饅頭大大大大ボルケーノ週
おめでとうございます!
ここの方がまた凄いのをセリに上げてきた!!
平安時代の一番いい頃
この時代の酒ってどぶろくくらいしかないから糖分たっぷりで酒飲み貴族はあっという間に糖尿病になっちゃうんだよなあ。
へ~そうなんですか
、濾過している現在の清酒とアルコール分、糖分は同じかと思っていました。
自分も時々造るけど(勿論、酒税法の関係でアルコール分1%未満ですw)
これが旨い!
左大臣源雅信は宇多天皇と藤原時平の孫で藤原道長の義父
源雅信の奥方が長生き家系なのか奥方、娘の倫子、孫の彰子、頼通は80歳越えましたよね。
当時寿命考えると驚異的ですね。
清少納言の読みは❌せいしょうなごん ⭕せい しょうなごん
翁丸…犬飼ってるので本当可哀想だと思いました(・・;)
うぽつです。
今回は一条天皇の紹介でしたが、内容的に定子・彰子のエピソードが大半を占めてしまいました。定子・彰子は別枠として製作した方が良かったのでは?一条天皇自体は特に大した活躍はなかった(?)と思われます。
バカラスは流石に草
定子の崩御は24才では?
一条天皇は、乳児期に、外祖父兼家の意向で、父・円融天皇と対面できずに過ごしてしまったから、随分お寂しい思いをされたのではないでしょうか? 兼家・詮子父子に正当な言い分はあった(←第一皇子を儲けた詮子を中宮に立后しなかった)んですが、あまりに不憫でしたね。 父天皇と一緒のお墓に入りたいと、一条天皇が思われたのも、当然だと思うのですが、道長、臣下として不敬でしたね。 永井路子氏の「この世をば」を読めば、兼家・詮子・道長父子のデリカシーの無さが、詳しく解ります。一条天皇が、血縁でも、母・詮子、叔父・道長との間で、難しい舵取りをされていたことも、描かれています。
2回もいとこと結婚するなんて俺と同じじゃん
別に分けて解説して欲しかった。
彰子の記録がほとんどないのは定子と違って魅力がなく帝にあまり愛されていなかったからだと思います
彰子は一条天皇の生きている間は大人しくしていて、たしかに一条天皇に好かれるような光る所はなかった。所詮女性として、定子には太刀打ち出来ませんでした。
まぁ一条帝に愛されなかったからこそ、その後の生き方を
考え学び、決断して結果栄光の日々が、待ち受けている。
結論は、定子は道長に散々意地悪をされ、政治的には敗北者です。だが、一条帝は定子が亡くなって10年たっても
彰子と夫婦関係を結んでも
本気の愛情は定子の上にのみ
あった。