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昭和15年に「携帯電話機」という言葉が出てくるとは。電話を持ち歩く必要性は昔からあったんだね。
昭和15年(1940)、江戸時代から70余年か。江戸に生まれこの鉄輪時代まで生きた人は、今どきのスマホやネットで便利になったとかとは比較にならない天変地異的な?、隔世の感を覚えたんだろうね。。
平沼騏一郎元首相「21世紀ノ日本ハ内外情勢トモニ複雑怪奇ナリ」。前年の昭和14(1939)年に首相だった平沼騏一郎さんが大政奉還前の江戸時代生まれ最後の首相ですね(明治改元前生まれの最後の首相は鈴木貫太郎さん)。
13:11 「道床突き固め音頭」ですね。これを歌ってツルハシの動きを揃えていたとか
国鉄の社歌の鉄道精神の歌にも鉄輪とゆう歌詞がありますね。
後半の機関庫は、新庄です。キマロキは、院内峠での撮影と思われます。それにしても、昔は雪が多かったです。
キマロキの動画って初めて見ました!ちゃんと運用されてる55もすごい!超貴重映像ありがとうございました!
この頃の鉄道映画は大好きです。ただ時代的な背景は日中戦争の真っ只中であり各地に工場が新設されましたが、空襲を避けるため分散して建設されたため、鉄道輸送がネックとなったのも事実です。途中、ダンピングの時我らの鉄道ーと歌っていますが、これは以前の歌詞が下品だったため新たに制定された物です。
昔交通科学博物館で視たなぁ。懐かしい。
(2022年8月31日投稿)米国との開戦が1941年(昭和16年)12月8日でしたから、開戦の前の年に作られた作品ということになるのでしょうか。作品の冒頭で、ラッシュアワーという言葉も使われていますね。
9:17 C53の汽笛ってこんな音なんだな。
ありがとうございます。感謝します。
石炭に水を掛けるなんて初めて知った。
これだけ蒸気機関車が走っていたらばい煙や粉塵はひどかったんだろうなぁ。やっぱり電化は必須だったんだよ。
車内のゴミ酷い…
いや、あれが当たり前だったんですよ。それは戦後も続いて徐々に改善する切っ掛けになったのは新幹線が走るようになった頃から始まった様に思います。だから、昭和30年代ぐらいの東京大阪間の夜行で行き来していた頃、所謂長距離を走る”旅客車”の場合は弁当空や、色々なゴミを車中に放置して客は下車していました。駅ホームにはゴミ箱もあったんですが、常に溢れてましたね。 そこまで、持って行って捨てる乗客は少なかった様に思います。
1:25 ですね。「弁当の空き容器は座席の下へ」と国鉄(と前身組織)は呼びかけていました。父も祖父からそう習って座席の下にゴミを置こうとしたので取り上げて捨てに行ったこともあります。座席の上や足元に放置すると、次の乗客が不快に感じるから、目に見えないところに置いてくださいということ。昔は乗車時間が長い割には車内のゴミ箱は無いか小さいものでした。
車内にゴミ箱を常設するようになったのはあの修学旅行電車だったんじゃないですかね?ゴミ箱だけでなくホウキとちりとりを用意してました。
昭和15年に「携帯電話機」という言葉が出てくるとは。電話を持ち歩く必要性は昔からあったんだね。
昭和15年(1940)、江戸時代から70余年か。江戸に生まれこの鉄輪時代まで生きた人は、今どきのスマホやネットで便利になったとかとは比較にならない天変地異的な?、隔世の感を覚えたんだろうね。。
平沼騏一郎元首相「21世紀ノ日本ハ内外情勢トモニ複雑怪奇ナリ」。前年の昭和14(1939)年に首相だった平沼騏一郎さんが大政奉還前の江戸時代生まれ最後の首相ですね(明治改元前生まれの最後の首相は鈴木貫太郎さん)。
13:11 「道床突き固め音頭」ですね。これを歌ってツルハシの動きを揃えていたとか
国鉄の社歌の鉄道精神の歌にも鉄輪とゆう歌詞がありますね。
後半の機関庫は、新庄です。キマロキは、院内峠での撮影と思われます。それにしても、昔は雪が多かったです。
キマロキの動画って初めて見ました!
ちゃんと運用されてる55もすごい!
超貴重映像ありがとうございました!
この頃の鉄道映画は大好きです。ただ時代的な背景は日中戦争の真っ只中であり各地に工場が新設されましたが、空襲を避けるため分散して建設されたため、鉄道輸送がネックとなったのも事実です。途中、ダンピングの時我らの鉄道ーと歌っていますが、これは以前の歌詞が下品だったため新たに制定された物です。
昔交通科学博物館で視たなぁ。懐かしい。
(2022年8月31日投稿)
米国との開戦が1941年(昭和16年)12月8日でしたから、開戦の前の年に作られた作品ということになるのでしょうか。
作品の冒頭で、ラッシュアワーという言葉も使われていますね。
9:17 C53の汽笛ってこんな音なんだな。
ありがとうございます。感謝します。
石炭に水を掛けるなんて初めて知った。
これだけ蒸気機関車が走っていたらばい煙や粉塵はひどかったんだろうなぁ。やっぱり電化は必須だったんだよ。
車内のゴミ酷い…
いや、あれが当たり前だったんですよ。
それは戦後も続いて徐々に改善する切っ掛けになったのは新幹線が走るようになった頃から始まった様に思います。
だから、昭和30年代ぐらいの東京大阪間の夜行で行き来していた頃、所謂長距離を走る”旅客車”の場合は弁当空や、色々なゴミを車中に放置して客は下車していました。
駅ホームにはゴミ箱もあったんですが、常に溢れてましたね。 そこまで、持って行って捨てる乗客は少なかった様に思います。
1:25 ですね。
「弁当の空き容器は座席の下へ」と国鉄(と前身組織)は呼びかけていました。
父も祖父からそう習って座席の下にゴミを置こうとしたので取り上げて捨てに行ったこともあります。
座席の上や足元に放置すると、次の乗客が不快に感じるから、目に見えないところに置いてくださいということ。
昔は乗車時間が長い割には車内のゴミ箱は無いか小さいものでした。
車内にゴミ箱を常設するようになったのはあの修学旅行電車だったんじゃないですかね?ゴミ箱だけでなくホウキとちりとりを用意してました。