実は隠された罠だった!「長篠の戦い」信長vs最強の武田軍 まるで城のような連合軍陣地
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- čas přidán 27. 12. 2021
- 合戦解説に使用している図【出典:国土地理院ウェブサイト加工作成】
1573年、武田信玄は遠州三方ヶ原で徳川家康と戦い、これを破ります。信玄に本拠浜松城近くまで攻め込まれ滅亡寸前となった家康ですが、間もなく信玄が急死し武田軍が本国へ引き上げたことにより、何とか息を吹き返します。
その後、家康は手薄となった武田領国に進出します。その中で(1573年8月)武田に味方していた奥三河の奥平貞昌(後の奥平信昌)から徳川方へ再属したいという申し出があり、喜んだ家康はこれを認め、貞昌を武田家より奪還したばかりの長篠城に入城させます。これによって再び武田に寝返ることができない貞昌は、長篠城を必死に守り抜くことになります。
信玄の死後、武田家の後継者となった勝頼は、再び遠江・三河を掌握するための反撃を開始。1575年4月に大軍を率いて三河に入り、奥平貞昌の守る長篠城を包囲します。
信玄の死から2年、徳川家康の同盟者である織田信長は畿内に勢力を伸ばし、もはや単独で対抗できる勢力はまわりにいない状態でした。この強大な力を持つ信長と敵対する武田勝頼は、時間が経てば経つほど織田と武田の国力に差がつくのは明らかで、毛利や本願寺など信長に敵対する勢力がいるうちに主力決戦を行い、その後の戦いを有利に進めたいと考えていたのかもしれません。
一方、畿内を掌握しつつある信長は、さらに勢力を拡大したのち武田領国に攻め込めばよく、この時点で勝頼と全力で戦う必要はありませんでした。同盟者家康の領国である長篠城に勝頼が攻め込んできても追い返せばそれでよく、また信長自身が出陣すれば家康に対する義理も果たすことができます。万が一武田軍と合戦することになっても負けなければいいわけで、勝頼が攻撃してくれば安全な方法で迎撃するつもりだったのでしょう。
武田・織田の大国に挟まれた徳川家康は、この機会に是非とも両者に合戦を起こさせ、信長の強大な力をもって武田軍に強烈なダメージを与えたいと思っていました。畿内を掌握しつつあるとはいえ、周りに多くの敵を抱えている信長が、大軍を率いて援軍に来てくれる機会はそうそうないと考えていたのでしょう。
この三者三様の思惑を抱えながら長篠合戦の幕は開けていきます。
長篠城で戦った者の末裔です。食糧庫を失って本当にギリギリだった事を知って良くぞ持ちこたえて下さったと、ご先祖に感謝。鳥居さんにも感謝。信長さんと家康さんにも感謝。
鉄砲もさることながら「土木」が勝敗を分けたんだね。
動画編集お疲れ様でした。陣形に地形が配置されていたので、戦略が良く理解出来ました。武田軍に極めて不利な地形だったのですね。
コメントありがとうございます。現地は思ったより狭い場所でした、ビックリです。
配信お疲れ様です武田の滅亡のきっかけの戦ですね分かり安い解説でした次回配信楽しみにしてます👍
ありがとうございます。設楽原に言ったら思ったより狭くてビックリしました。あれでは騎馬は走れなそうです。
いやぁ
心地よい声ですね!
眠くなっちゃいます
大作動画ですね。解りやすく纏められていて凄いです。勝頼は当時の作戦とはいえ突撃ばかりで残念ですね。押したり引いたりの駆け引きが出来ていないのは功を焦った結果でしょうか。撤退の進言に怖じ気づいたのかと反発したことからも、柔軟な思考が見て取れません。父の偉大さのトラウマと、国を疲弊させた信玄の負の遺産を継いだ勝頼は気の毒でもあります。
信長公の作戦勝ちと勝頼公の戦術ミスは変わらないですからねぇ。仮に鉄砲なくても軍団の配置もかなり悪かったので。信玄公が得意とした歩き巫女の情報で石橋を作って渡る戦略を信玄公時代の重臣と勝頼公がしくった結果ですね‼️
設楽原は旧新城市北部の割と広い平地ですが、北を山地、南を豊川、東を寒狭川に囲まれています。
豊川と寒狭川の河岸は切り立った崖になっており、設楽原は一旦侵入すれば退却することが難しい死地と言える場所です。
加えて設楽原には豊川の支流が作った狭いながら非常に深い河谷がいくつも有り、天然の堀となり部隊の前進を阻みます。
こんなところにおびき寄せられてしまい織田徳川の大軍から逃げようと退けば崖際で追い詰められて大損害を受けてしまうことは素人目にも明らかです。
こうした地形は中央構造線という大断層によって作られたものですね。
大軍での行動が難しい地形。死地だったのですね!
圃場整備事業や工場団地の造成によって大分、地形が変わっているでしょうが、高低差が激しい所だということはご理解いただけると思います。現在でも豊川の支流を渡河できるのは国道、県道など数ヵ所しかありません。非常に守り易く攻めにくい地形ですね。
@@kainosuke-rekishi いわゆる忌み地、地盤弱く地崩れ多い、一般的に人の住まない土地ですよ。当時はもっと沼地だったと思います。
なので、あんまり開発されていないキナ臭い土地。
雨雲が溜まりやすく気候の変わりやすい場所なので設楽原で晴れていても長篠では豪雨だったり、逆だったり。。
とにかく天候が読めない。
武田軍は非常に戦い難い場所だったかと。
山林に兵を隠し(静かなること林の如く)、
敵がやってくるのを待ち構える(動かざること山の如し)
これを武田がやられてしまうとは面白い
撤退はしたくてもできなかったのだと思います。
信長の援軍が来たことで万単位の援軍が来ている事は今までの戦いから武田側もわかっていたはずです。
ここで撤退をすると何が起こるかというと、地形的に山道になるので道に人が詰まって動けなくなるのです。
ここで追撃を受ければ大損害を受けるのは必定。この事から撤退できなかったのだと思います。
実際武田の戦死者の大半、武将も山県、土屋はじめ戦死した有名武将もみな撤退時に打ち取られています。
あと長篠の戦前日の両軍とも千人以上の軍を動員しての戦いで武田側が勝利し織田徳川側が陣を後退させ武田側を釣りだしたのも妙手だったと思います。
もし無事に撤退できたとしても、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するんじゃないかと思います。
甲斐や信濃の国衆達も、信玄の時代からの重税や、金山の枯渇などで困窮する中、わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞も貰えないし、城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や討ち取った兵の鎧兜や刀などを売り払って臨時収入を得て、遠征費分の出費(国衆達の自腹支払いであり、武田家から遠征費は出ない)を取り戻す事ができない。
その事を不満に思い、何をしでかすか分からないと思います。
構図としては第四次川中島合戦、勝頼は自身を謙信に見立て、織田信長を打ち破ろうとしてるようにしか見えない
しかし、問題なのは謙信は比較的に諜報活動を駆使し武田方の動きを掴んだうえで行動し結果、偶発的に合戦となったような流れなのに対し
勝頼は、織田方の情報戦に揺さぶられ織田方に真正面に突撃を仕掛けている。川中島では武田方は主力が迂回中であり本陣が行軍中
長篠の合戦では織田徳川勢は陣城で待ち構え、別動隊が鳶が巣砦などを一気に攻め落とし長篠城の救援に成功する
川中島では謙信は、Hit&Awayであったのが、勝頼は正面攻勢
これは両者の戦に向き合ってきた経験の差と、研究の結果でしょう
最近の研究ではもう騎馬の突進ではなく武田軍も少ない鉄砲を使った戦いで前に進んだとありますね。武田側の記録でも織田の鉄砲を防ぐための防御工夫をしてます。おそらくあの当時の世界最大の銃撃戦でしょう。
織田側の記録でも何回か陣を破られてます、ですので8時間ぐらい戦闘が続いてます。まあ兵数も弾薬量も少ないですから結果は変わりませんが。
有力武将が騎馬で突進して火縄銃に撃たれる方が絵になりますが、実際は追撃戦で討ち取られてるのも証明してます。
どこにでもあって、すぐに作れる竹束を武田が使ったようです。
映画やドラマのように、さすがに突進だけではみんなすぐに死んじゃいますから❗️
これって真の勝者は徳川家康だよなぁ・・・。
家康はどこまで知っていたのかきになるな。
普通に後方の敵を倒す場合、霧や丘で敵の様子が見れないのは信長徳川連合軍とて同じこと。
そこに重臣、酒井忠次を突っ込ませるのは普通に考えておかしい。
つまり、絶対に勝てる。とわかっていたことになる。
そしてなんなら敵の装備や数まで徳川家康にバレていたために簡単に砦を攻略されてしまった。
そしてその後の追撃戦。もしも勝頼が織田徳川連合軍に勝っていた場合、長篠城は再包囲されることになり、そこでもやはり酒井忠次らは包囲されたり逆に追撃される立場になる。
だが、あらかじめ長篠城を抑えていたことにより、武田は北から逃げるしかなく、逃げる方向が限られるという事は、追撃戦での亡くなる人が多数になる。またちりぢりになって逃げて再編成が出来ないようにされた。
つまり酒井忠次を使った作戦は、「絶対に勝つ」という前提、あるいは絶対に勝つように仕組んだうえでの戦闘であると思う。
まぁそもそも長篠城をダシに武田勝頼をおびき寄せて戦って勝つという計画をそもそも連合軍で立案していたため、それに合わせて武器調達と、布陣をすでに考えてあった。可能性もある。
@@WearstFaker
実のところ酒井忠次を背後に回させたのは信長の命令のようで、徳川からは酒井が、織田からは金森可近ら美濃衆の諸将に加え精鋭の馬廻衆まで出陣し総勢四千ほどの軍勢になっています。
名目上(もしくは太田牛一が徳川の世に阿ったか)は酒井が大将で、実質的には金森が命令系統のトップだったのではないでしょうかね。
金森は別動隊としての働きを認められ信長から「長」の一字を拝領し「長近」と改名しています。
@@nekono_mimikon おぉ本当ですね。「常山紀談」で作られた後世の話のようですね。これだと信長公記のほうが信頼性はあるかもしれませんね。ということは、情報戦ですでに信長が上回っていて自身の権威付けや神秘性を証明するために徳川の武将を付随させたのかもしれません。または、万が一敗戦したとしても徳川方の重要武将と精兵も使っているので、今後徳川が、織田方の脅威にならないようにしたのかもしれませんね。
当時の騎馬はポニーちゃんレベルで、
馬から降りて戦ってたという話も結構残ってるし、
どちらかと言うと「兵力・物量の差」「勝頼が織田・徳川連合軍を舐めてた」のが敗因、ぐらいに思える。
この頃の戦国時代が一番好きで興味あります。
勉強になります。
私もこの時代がいちばん興味あります!
@@kainosuke-rekishi さん、
返信ありがとうございます。
この時代のテレビドラマが多かった影響かもしれません。♪(´ε` )
アメリカ陸軍の映画とか観てたら、攻めながら野戦で陣地を構築して待ち構えるスタイルが多いような気がします。まさに長篠の三段撃ち
小説、三河雑兵心得を読んで気になっていた所に
わかりやすく理解出来るこの動画をとても面白く見られました 鳥居強右衛門のエピソードは何度聞いても泣けます
武田勝頼は罠にはまったと思います
現地に行くとわかりますが、織田の軍勢は後ろに隠れていて武田勝頼の本陣からは全く見えません
これは、徳川と織田の1部分の舞台を前面に出して勝頼を攻撃に誘い、その後追撃を行って武田の軍勢を全滅させる軍略です
武田は織田が3万軍勢を引き連れてきたことを察知できません
軍勢がどれだけの人数かは最高の軍事機密です。現在のパソコンのゲームのように一見してすぐわかったり、風評でわかると言うレベルの情報では無いはずです。
ですから武田が攻撃を始めるまで、織田徳川の軍勢は自分と同じ位としか見ていなかったのです
その意味で武田の攻撃は、勝頼の独断ではなく、三方原の合戦に続いて、武田の総意による攻撃だと思います
そうですね、合戦場には小さな丘がたくさんあり見通しはよくありませんでした。
武田勝頼は両翼突破からの包囲殲滅を狙ったというのがよくわかりました。
勝頼の戦略を無謀と捉えられる事が多いのですが、仮に重臣の進言に従って退却していても、その後は長篠城の防備が更に強化され今後の攻略が今以上に難しくなるのは明らか。また、当主だからこそ国力の差を痛感しており今決戦しないとジリ貧、今後の配下の離反が止まらない事は認識していたと思います。
部隊の配置や包囲殲滅を仕掛けた狙いは良かったと思います。
誤算は信長の「弾薬」の豊富さかと思われ。これだけの弾薬を戦場に用意できる輸送力、動員力は当時の規格外でこればかりは宿老はもちろんの事こと、勝頼も想定出来なかったのでしょうね。
逆に山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が積極的に決戦を主張し、武田家での立場が弱かった勝頼はそれを受けて決戦に挑んだだけという話もあるらしいです。
武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多いらしい。 そんな彼らが素性が怪しくまともに戦ってもいない織田や、同じく素性が怪しい上に三方ヶ原で破った徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか、当主の意見を通しやすい環境だった織田家などと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制、そんな中で勝頼が決戦を強行なんてできるのか、むしろ重臣達の総意で決戦が決まったんじゃないのかという話です。
マンガやドラマでは鉄砲三段に重視しても実際はいずれ破れてしまう。だから城の如き陣、陣城を敷いて馬防柵や空堀などの防衛物や弓・長柄槍などの援護による鉄砲主体の戦術によって信長・家康は武田に勝つことができたのです。
一説によると佐久間信盛あたりまで偽の内通をさせてたって話もある位ですから、もう何が何でも設楽原に引っ張り込んでコテンパンにしてやるっていう信長の念の入れようがすごいですよね・・。武将狙撃用に根来のスナイパーまで引っ張ってきて二つ弾をバンバンに撃たせたっていうね。真田兄弟なんかスプラッター遺体状態だったとかいう話もある位で・・。勝頼は馬場信房が最後の忠言をしに来るまでほぼ気づいてなかった(まあそりゃ武田の斥候が気づかないくらいに陣城も偽装されてましたし)と言われる始末で・・。
武田軍を戦場に引っ張り出した信長の計略がすごいと思いました。
解説ありがとうございます。よく解りました。織田信長が後に明智光秀に打たれて無かったらと思うと時代が変わっていたのでしょうね😅幼少からピンチばかりの徳川家康はやはり神がついていたのでは😅
鳶の巣山砦を落としたのが大きい。
これで武田方は退却すれば追撃されてはさみうちになるので
前方の強固な陣地に突撃するしかなくなった。
あの有名な、取ったり、取り返したりを何度も繰り返した奴ですね。
あのおかげで、武田軍は退路を潰され、突撃しかなくなりました。
ただ、それでも馬場信春や山県政景は、織田・徳川軍にそれなりに打撃を与えたのは、さすがだと思います。
支持します。
私は雑賀一族子孫。西本願寺に雑賀党の墓あり。浄土真宗は福井県、和歌山市、広島県が信者多い!信長は大阪の石山本願寺で雑賀党に手痛い目にあった。侍大将、雑賀孫市、雑賀党の鉄砲隊に大敗して教訓しました。彼は負けから反省し必ず再起してきました。
謙信「何で雨で鉄砲が使えない日に攻撃しなかったのだろうか?」
真田昌幸が上田で徳川と決戦した時、城内にこれと同じものを用意して引き込んで倒したって話があるよね。
丸太を立てて相手の動きを封じて矢鉄砲で仕留めたらしい。
そもそもこの戦国時代的に騎馬隊と呼べる様な人が乗馬して戦える馬が日本に何頭いたのか⁉︎
戦死者は織田・徳川連合軍の方が多いけど、
大将首は殆ど無くて武田軍は多くの宿将が討ち死にしたのだからどんな角度から見ても武田の完敗ですな
前日の戦闘は武田有利だったが夜が明けておもとったより近くで対陣する羽目となる。
織田がガチで増援が来た以上決戦の必要は無くなったが後退するにも一度突き放す必要があり、徳川の陣をメインに攻撃する。
織田の迂回部隊の攻撃が始まり、予備の親族衆をその対応に向かわせたが、前線で戦っている部隊にはそれが後退の始まりと見えてしまい。
攻撃を続ける部隊と後退の準備をする部隊でちぐはぐになり、戦線が崩れてしまう。
徳川織田連合が向かっている情報が入ったら力攻めで長篠城を落とせなかったのか?
500(鉄砲200)対1万5千、犠牲はそこそこ多いが落とせたはず。
有力武将と兵が温存されて武田家の行く末も違ったものになったと思う。
そうですね、どうして長篠城をそのままにしたのでしょうか・・
別の方の返信にも書きましたが馬場や山県はそうするように進言したそうです。でも勝頼はどうしても決戦がしたかったようです。結局長篠城を落とさなかったのは落としてしまうと信長が援軍の名目がなくなってしまうから引いてしまう事。別の方の意見として信長が来たと聞いて城に籠って決戦を避けたと思われるのが嫌だった。高天神城を力攻めで落として調子に乗り馬場や山県の意見を軽んじて信長を舐めていた。まぁどの道信玄のやらかし放題のせいで長篠城を落として本陣にして結果信長が引いても織田徳川(特に徳川)は武田を完全に敵認定していたので武田滅亡の運命は変えられなかったでしょう。
長篠の合戦で陣と鉄砲で織田家と徳川家康が勝ったので、小牧の合戦でも陣を構えて、犬山城の秀吉も陣を構えて、睨み合いが続いた。
後、奥平家は豊後に国替えとなったと記憶しています。
信長は設楽原の陣城で戦う決意だ。武田軍がそこへ来なければ長篠城は見捨てる気だな。
なんか英仏百年戦争でも似たような戦いが有ったような❓
他の多くの古戦場跡が都市化によって消滅した中で、近年の高速道路の建設で破壊された部分もあるがまだまだ見どころが沢山残っている場所です。何度も現地に足を運んでますが、設楽原の狭さに「こんな猫額の地で5万人以上の兵が戦ったのか」と驚きます。最近の研究では鉄砲3千丁の一斉三段射ちは否定されてますが、戦場の狭さと台地の裾が入り組んだ地形を実際に見ると個別射撃しか出来ないと感じます、また騎馬で攻めるのも狭隘な谷間の地形ではメリットが無く困難と感じます。織田方の決定的な勝因は武田方の倍以上の兵力で戦った事であると思います。
私も現地で感じたのは狭さと高低差でした。
私も現地を見てきましたが、勝頼側が兵力の過小評価をしたとしか考えられませんでした。突破できると思ったのでしょう。経済戦争に勝利した信長は見事ですね!
この戦い、どこか似たような戦いがあると思ったら英仏百年戦争のクレシーの戦いやアジャンクールの戦いに似ていますね。イギリス軍のロングボウと織田軍の火縄銃の差こそあれ泥と障害物で騎兵の動きを止めてアウトレンジ戦法で仕留めると言う点では。
もう大分前の記憶ですが江戸時代の何かの資料で双方の戦死者数はほぼ同じだったとの記述を見て意外に感じました。武田方のビッグネームが軒並みに倒されたのに対して織田方は柵外に出て釣り餌にされた為に雑兵の損害が目立ったのでしょうか?武田方の損害を顧みない一方的な猛攻撃だったそうで織田方にも被害が続出した為に追撃戦が不可能だったと記されていた様に記憶しています。最近では一方的に織田方が勝利とされている様ですが何か新資料が出たのでしょうか?
最近ネットでこのネタを見ましたが、侃々諤々はyoutuberさん達のものだったのかなぁ~と理解しました。動画の説には少々問題もあるようですね。
斬新に前日の豪雨ここに、上手く陣城を築くもし、武田が攻めきたらどうする
火計は、火薬
雨は馬、鉄砲に悪いが、傘で変わるし晴れても泥濘結果鉄砲の勝利
ここは迂回し柵の内側に回り込むか、火薬に火攻め、山のような所に潜伏、一気呵成に強襲
総司令官織田か、徳川の首を、取るが自分の策かな
雑賀衆による狙撃も暗殺手段を、講じるであろう北条に援軍要請背後の岡崎強襲し、退路を遮断
軍記物語において、信玄の時代は
常にニ万の動員がありました。
家康でいえば、三方ヶ原で七千
長篠で八千の動員しかない。
勝頼の代になってからの動員が
一万五千に落ち込んでいる。
領土が広くなっても、その分
守備兵が必要になる。
父、信玄の強引な駿河攻略は、
兵の動員、増員には結び付かなかった
のか。そこのところが知りたい。
勝頼は有能な者であった。…織田信長。
これは本当にそう言ったらしい。
勝頼の何が有能であったか?
長篠の戦い以前から、信長の近世化に近づこうとしていたのが、勝頼なのだ。
信玄は確かに強力であったが、それは信玄が各支配豪族の力のバランス、安定させていた。
謂わば連合、連邦のような存在が武田氏の特徴だった。
ところが信長はそれを否定して、支配力を強める方針を推し進めた。
畿内の石山本願寺や、各豪族を掃討した結果、強力な織田軍が形成される事になる。
代わって勝頼の武田は未だに旧くさい各豪族の力を結集させられないでいた。
信長は各豪族の影響力を弱める為に関所撤廃を実施。
撤廃により、各地の人々が信長の元に集まってくる。
勝頼もそれをしようとしたが、反対が強力で出来なかった。下手をすれば暗さつされかねない。
そして古参の部下達はこう口に出す。「先代(信玄)ではこのような事はなかったのに…」
信玄の古参重臣は近世化を理解出来ず、賛同しない「時代遅れ」な存在で勝頼としては、足を引っ張る存在になっていた。
そこで勝頼はある手を考える。
「時代遅れは信長に始末させよう…」
それが、長篠の戦いであった。
大量にいる時代遅れを勝頼は自国内で粛清させる事が出来なかったのである。
父信玄の葬儀を控えており、父を越えなければ、織田・徳川に勝たなくてはの思いが強かったのでは?その焦りから家臣の諫言を聞く余裕が無かったのかもしれませんね。
今も昔も同じ,いい時は寄って来る、落ち目になると人は離れる、人と言う者は我が身大事。今の政治屋小物ばかり。
信玄あと10年寿命あってもその時は信玄自身が滅んでたやろうね。細川幽斎の「武田は20年で2国、織田は10国」の評がすべてでしょう
いや、信長が勢力盛り返して武田を滅ぼしたのは、ちょうど信玄が急死して、
信長包囲網を崩してからだし、10年もあれば、そのまま信長はやられていたでしょうね。
(信玄は、信長との決戦を前に急死しています。あと、数か月から1年あれば、信長はやられていた可能性が高い。
家康なんか、ぼっこぼこにされ、うんこまで漏らしてるし(有名なしかみ図))
どうでしょうね 武田の信濃、駿河、甲斐は3ヶ国ですがしっかり統治され裏切りや一揆の心配もなかった 織田は領有してるけどいつ裏切るか判らない状況
それに安定した土台を築いた信玄は
一気に京都に登っただろうし
信長、家康は勝てないからね
まぁ全国制覇できるとは限らないけど
三段構えの鉄砲説を正とするなら、日本の戦術初という事だったが、
この馬防柵、これ世界初の塹壕戦じゃないか。
「日本万歳」
うんうん。
しかも三重の塹壕、鉄条網代わりの柵・・・おそらく三角に組んだ妨害設備。
これなら鉄砲隊を後方に配置し援護射撃、最前列は槍という戦術。
柵を引き倒しても、から壕に落ち前進を妨害という・・・
世界初かは知らんけど、イスラム教開祖のムハンマドが塹壕戦やってる。
金属製のスコップは、その際に発明されたらしい。
日付は旧暦なのか新暦なのか)どちらでしょう。
旧暦です。ちょうど梅雨が明けた7月20日頃と伝わっています。
最近知ったけど信長方の被害も相当だったみたいね 圧勝という感じで伝わってるけど
いつも思う
命令には絶対服従の難しさ
命令出す方の難しさ苦しさ
どんな命令にも強制的に従えの意味と思われているけども実はそうじゃないのです
部下が従える命令を出さねばならない苦労困難苦渋、管理職なら分かると思う
そんなときに強右衛門が来てくれたなら
三河武士、三河魂というけれど。
実際に三河武士が獲得したのは弱体化した武田家の一部なんですよね。
あとは政治力。
考えさせられます。
局地的にみれば長篠城を見殺しにしたら面目が立たないので織田徳川連合軍はいずれは長篠城救援に向かわざるをえない。武田軍はこれを前提に作戦を立てられなかったのだろうか。
救援に来た織田・徳川が数キロ手前で柵を作り出し、見える所に寡兵を置く。
これが勝頼に消極的に見えたのが全て。
実際は丘陵の奥に本隊を隠してあったと言う。
結局陣城に多数の鉄砲、3倍の兵力に突撃しなくてはならない武田に勝ち目は無かった。
実際に現地に行ったが丘の後ろに隠れた兵は正面からは見えない。
信長はしたたか。
奥平家の所有領を白地図でしか把握できてない時点で萎えた
美濃統一以降信長の戦いって、実は、用意周到、勝つべき備えをしてからの出陣てのが殆ど。
わずか500の長篠城を取るのに時間がかかりすぎよね それに信玄公なら信長の動向を逐一追って少なくとも史実の様な挟み撃ちにはなっていなかったはず 凡将ではないが勝頼公は偉大すぎた亡き父を追い、功を焦ったか またそれを利用して信長は揺動作戦に出た
武田軍が長篠城を落として将兵たちを皆殺しにして後方に撤退し、追ってきた織田徳川連合軍に対して山岳でゲリラ戦を展開するという作戦はどうですか?
でもこうしてみると三方ヶ原では家康出し抜いた信玄と長篠で勝頼を追い詰めた信長。どちらも戦上手だったのかなって気がする。歴史にifはないけどもし戦上手の2人が対決したらどうなったんだろな。
歴史のifを考えるのはとても楽しいですね
縦深防御戦術だね。相手に攻めさせて攻勢限界点が来たら相手に攻め掛かる
当時、西洋では、戦いの際には、兵士は防御に楯を用いていたな。じゃが、日本の戦国時代では、楯の概念は無かったので、信長は、三段撃ちとか、馬防柵を考案したのじゃろうが、一体誰に教えられたのか、疑問じゃのぅ? フロイスじゃろうか?
誰でしょうか、気になりますね!もしかしたら信長は設楽原に何度でも使えそうな砦を造ろうとしたのでしょうか?
普通なら3万7千VS1万5千なら、鉄砲とか関係なく3万7千の織田徳川軍が勝つに決まっている。 織田徳川軍も1万の兵が戦死したそうだけど、それでも2万7千いたわけだから。
武田側から伝えられている逸話によると、武田の重臣達は兵を退くべき、と進言したが勝頼は戦う事に拘った。
重臣達を突撃させて、「いなくさせる」のが目的であった、とすれば戦うのに拘ったのが、よく分かる。
援軍に行きたくてジリジリしてたろうよ
だけど家臣を説得するのは厳しい
そこに強右衛門が登場する、これで即決。誰も反対できない
帰ってからの段も事実なら、これで勝敗は決したも同然
武田も上杉も「城攻め」は、苦手なんだよなぁ・・・
信長はいち早く「兵農分離」して常備軍を持っていたから、長期戦で有利に立てた。
上京後に真っ先に「堺」を抑え、鉛や硝石を独占してしまった。
当時、信長の鉄砲の保有数は「圧倒的世界一」であり、極めて強かった。
他の田舎大名は戦略がなく、置かれている状況を解っていなかったのだろう。(´・ω・`)
相手をよく知り向こうの立場で考える~こんな当たり前のことができてないので戦をするなと進言されたのにね。全体的に、勝頼は焦りすぎを感じるな。逆に信長はそれを読み利用したか?滅んだとはいえ、勝頼は逆狂の中よくやった、精一杯やったと思う。最後は自刃、見事だよ。安らかに眠ってください。柴田勝家ではないが、武士として潔い死は美しい。信玄以上だよ。最後は人間性が出る、あなたならどうしますか?
人馬一隊(一体)になって敵兵が目前に殺到してくる状況だったでしょう。
火縄銃は装填に手間と時間が掛かります。
いくら、このような馬防柵
があるとは言え、冷静沈着に再装填→照準→射撃→再装填…を繰り返すのは大変だったと思います。
いや、最初は、三千丁の鉄砲はすべて実装され、それを三段に分けて発射したってことだからな。
考え方のポイントは、三千丁の鉄砲を同時に一斉に敵に撃ち放つことが良いか、三回に分けて撃つことが良いかということだ。
そんな長篠合戦を太鼓で表現したものが、こちらになります。
czcams.com/video/VBbVmBsQ0Xc/video.html
人数からしても2.5倍以上の兵力がある織田徳川連合軍が勝つことは必定
兵力の多寡は勝敗の条件とはならない。
信長はそれを理解していたからこそ、充分な準備をして決戦に臨んだ。
それと真逆な事を三方ヶ原でやられてるのもまた面白いところ
勝頼からすれば、連合軍の兵力隠蔽工作で二万位に見えたのかも。弱い尾張兵と武田恐怖の徳川兵でその程度なら、武田の精鋭一万二千で勝てると見たのでは。
結局武田は誘われた上、堅固な防御陣地によって消耗戦を強いられ、実際の兵力差によってすりつぶされたのだと思います。
そうですよね、勝てると思わなければ攻撃しないと思いました。
兵士の戦闘能力で劣る織田陣営は、百年戦争で兵士数で劣りながらフランス軍を打ち破ったダプリン戦術を導入したんだろうな。
個人的な意見ですが勝頼が「撤退しなかった」という点は「撤退できなかった」のではないかと思います。国力差の話が出ましたが勝頼は国力の限界を超えて出兵していました。その状態で出された遠征軍が何も成果なく撤退すればそれだけで家中は大混乱に陥って、大敗した史実以上に武田の衰亡は早かっただろうと思います。そしてそれを勝頼自身がよく知っていたはずで、撤退という選択はどれ程不利だと知っていても取れなかっただろうと思います。
そういった理由も大いにあると思われます。
後日、武田は重税を課したが故の反乱も多く発生しています。
それほどの状態まで国を追い詰めて、戦争負けました、など破滅への一直線です。
ただ、馬場や山県などの歴戦の武将たちの意見も聞き入れ、冷静に立ち回っていれば、長篠の敗戦は避けられた可能性もあると
考えています。
歴史にIFは禁物ですが、信玄が生きていれば、せめて勝頼に言うことを聞かせる教育係みたいなものを付けていれば、
武田の崩壊は防がれたのかもしれません。
@@maruten8387 でも勝頼は跡継ぎではなかったのですよ。正式な跡取りは勝頼の子供の予定だったので。信玄は勝頼を全く評価していなかったのです。だから勝頼は無茶をせざるを得なかったし、勝頼を責めるのは可哀想。信玄以来の年寄達が勝頼をひよっこ扱いしないように信玄が手を打っておくべきだった。馬場や山県は信長出陣を聞いて長篠城を力攻めして本陣にすれば良いと進言したそうです。少なくとも長篠を落とせれば出陣しただけの名目だけは立ったはず。長篠が落城すれば信長は援軍の意味がないのでおそらく引いたでしょう。しかし勝頼は決戦をしたかったので堅城で数百の鉄砲や20門の大砲で武装している長篠を力攻めしたら少なくとも1000名の被害が出るのが嫌で信長の正面に布陣したのです。
@@soleil-rk2bi 興味深い内容でしたので、調べてみました。
確かに信玄は勝頼を後継者として認めていません(甲陽軍鑑・信玄の遺言)
ただ、長篠城の500の鉄砲を恐れたのではなく、信長来訪に恐れをなしたとみられるのを嫌ったようです。
信玄も、勝頼の好戦・かつ獰猛な気質を心配しているような遺言の内容でした。
また、武田の崩壊のメインは、穴山梅雪ですが、この遺言を見ると、彼は心魂捧げた信玄の遺言通りにし、
勝頼が反発したようにも見えます。
ただ不思議なのは、諏訪の姫を母とし、諏訪と甲斐の絆を固めた勝頼は、
何故後継者としてみなされず、武田系統者としての名前 ”信” さえ与えられなかったのか、
それが不思議です。
@@maruten8387 勝頼が誕生した頃には嫡男がおり勝頼は諏訪家の跡取りになる予定だったので武田正当の子ではなく庶子(信玄の私生児)扱いで元々家督相続権はなかったのです。
それはあるね。桶狭間以後の今川陣営の弱体化による三国同盟崩壊以降武田陣営は毎年のように出兵を繰り返し信玄の西上作戦の頃には財政は破綻寸前に陥っていた武田陣営が何の成果もなく撤退となれば勝頼は父信玄によって粛清された兄や祖父と同じような目に遭っていた可能性すらある。そう考えれば尚更、絶対無敵の軍団をもって織田徳川連合を全滅させるか信長に無条件降伏を突きつけるしかない。それが武田陣営が撤退できなかった理由だと思います。
この説は割と説得力あるね。
それはさておき、
いまだに鉄砲の三段撃ちがあったと頑なに信じてる馬鹿がいるのは笑っちゃうね。
内容は面白いけど、イヤホンで聞いていたけどとても声が聞き取りにくいです
信玄は信長の忍者部隊に、毒殺または狙撃されて亡くなった可能性が高い。
病気していたとは思うが、それが直接の死因では無いようだ。
まあ、余り指摘されることは少ないが、
武田側は「鉄砲」の威力を過少評価していたことに尽きるな。
もし、織田方に鉄砲がなければ、武田騎馬軍団は簡単に織田・徳川連合軍を蹴散らかしていたろう。
しかし、鉄砲の威力が真に理解されたのは、もう350年後の第二次大戦からと言われてるぐらいだ。
それほど、数千年に亘って使われて来た「騎馬軍団」への絶対的信頼は不動のものであった。
第一次大戦までは、各国にある「騎馬隊」は重要な戦力であり、ヨーロッパでは登場したばかりの戦車にさえ、騎馬隊が突っ込んで行ったぐらいなのだ。
戦車に騎馬隊が突っ込むというのはすごいですね!
@@kainosuke-rekishi
「日本万歳」
驚く事では有りません、中世に数万の帝国軍に装甲馬車を作り
鉄砲で押し寄せる騎馬隊を含む大軍団を何度も撃退してました。
いわば集結してる戦車に騎馬や歩兵の突撃です・・・
装甲馬車戦術は約100倍の帝国軍隊を撤退に追い込んだ。
戦術の衰退は大量の鉄に使う資金で疲弊したと推測します。
鉄砲で勝利した!は何を示しているか?
それは「近世化」に拘った信長の政治思想が現れている。
武田の騎馬隊がただただ撃たれて役立たずだった事を示しているのは、「旧世・中世化」に拘った政治思想にある。
信長の支配地では、旧世しか知らない者には、全く見た事がない、経験もない、想像も出来ない世界になっていた。
どこに行っても過料(関所)なし、誰が商売しようと自由、職、耕す土地がなければ、織田軍に入れば戦時でなくても食べられる、と武田や毛利と全く違う世界が展開されていた。
噂でそのような別世界があると、人々は好奇心で行きたくなり、実際にそうなり織田の支配地は人口が爆発的に増加する事になる。
人口が増加すると、税収や動員力も自然に増加するのが当然である。
武田家毛利が頼っていた中世化の権化、「石山本願寺、一向宗」は信長を魔王と称したり、残忍な独裁者と噂を流して、人口増加を食い止めようとしたが全くのムダであった。
今のてれび、と同じように彼らは「ウソをついて、利権を独占している事に気付いた人々から見放されていた」のである。
武田もそうなっていたのだ。
「日本万歳」
武田に足らなかったのは陣地や城を攻める戦力。
信長は斜面に柵と空堀を3重に築いた野戦陣地。
武田軍は山に遮られて視認できず・・・
織田陣容を偵察してる間に後方の城が落城、
退路を断たれた・・・時を待てば前後同時攻撃受け敗北確定。時を要する城攻めよりは前方の織田本軍攻撃に活路有り・・・で突撃。
誘われ回り込んだ眼前に野戦陣地が数キロ続く。
以下は想像。
斜面を登ると柵と空堀、もたつく所に矢の攻撃。
武将に対し鉄砲の集中発砲で指揮官を倒した。
押し寄せても槍と矢で戦死続出・・・
鉄砲を大量に使用したとは思わない。
合理的な戦術ならムダ金使えば戦略の敗けだ。
武田を理由に鉄砲や弾薬を提供させ獲得。
武田を逃がしても織田は滅びない、だから陣地を築き槍と矢で足軽を殺す、武将は脅威だから鉄砲数十で殺す。戦場跡を発掘しても鉛玉はわずか。
武田は武将を失い織田は大量鉄砲を容易に確保。
武田の大損害には馬を多数失った点もある。
武田は戦略と戦術で織田に劣ってた・・・
武田にも大勝利の目は在った。
それは射程100m程度の小型カタパルト。
これを使えば織田陣地に火の玉攻撃、火薬誘爆。
織田は斜面の中腹だから炎からの逃げ場は無い。
戦を終えれば大量の鉄砲と玉を獲得できた。
織田は負けて借りた鉄砲を失う。
武田は勝って大量の鉄砲を得た。
と広まれば近在の武将は武田になびく・・・
@@mugakuninn
>戦場跡を発掘しても鉛玉はわずか。
戦場に落ちていた鉛玉は、戦いの後、回収されたと見られてる。それほど、鉛玉は、当時貴重であった。
勝頼の無能さが出た戦いだった。信玄の真似事した高天神城だけの功績だった。義信が居たら違った結果になったと思う。重鎮達の意見を聞いて居れば武田家は滅び無かったとifストーリがあったと思う。義信はかなりの切れ者だったとされているし。真田の知恵があれば両翼攻めも普通にしないよな。忍びもかなり居たはずだし。酒井の策も真田にかかれば読める手だし。
これって真の勝者は徳川家康だよなぁ・・・。
家康はどこまで知っていたのか気になるな。
普通に後方の敵を倒す場合、霧や丘で敵の様子が見れないのは信長徳川連合軍とて同じこと。
そこに重臣、酒井忠次を突っ込ませるのは普通に考えておかしい。
つまり、絶対に勝てる。とわかっていたことになる。
なんなら敵の装備や数まで徳川家康にバレていたために簡単に砦を攻略されてしまった。
その後の追撃戦。もしも武田勝頼が織田徳川連合軍に勝っていた場合、長篠城は再包囲されることになり、そこでもやはり酒井忠次らは包囲されたり逆に追撃される立場になる。
だが、あらかじめ長篠城を抑えていたことにより、武田は北から逃げるしかなく、逃げる方向が限られるという事は、追撃戦での亡くなる人が多数になる。またちりぢりになって逃げて再編成が出来ないようにされた。
つまり酒井忠次を使った作戦は、「絶対に勝つ」という前提、あるいは絶対に勝つように仕組んだうえでの戦闘であると思う。
まぁそもそも長篠城をダシに武田勝頼をおびき寄せて戦って勝つという計画をそもそも連合軍で立案していたため、それに合わせて武器調達と、布陣をすでに考えてあった。可能性もある。