武田信玄はなぜ天下を取ることができなかったのか。【ゆっくり解説】
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- čas přidán 22. 01. 2024
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
そもそも最期まで上洛の意図も無いし天下を取るという発想すら持っていなかったのでは
「武田信玄はなぜ天下を取ることができなかったのか。」という設問自体がナンセンスな気がする
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あれは将軍の命に従ったものだと思っています。
第二次織田包囲網の一環での武田の尾張侵攻。
少なくとも室町時代において、天下を取ろうと考えて行動した武将は織田信長くらいでしょうね。
豊臣秀吉も織田信長の跡を継いだだけだし、三好長慶も細川京兆家から実権を奪っただけで天下を取ろうとはしていないからね。
周囲を強敵に囲まれているし、後10年生きていたとしても天下を獲るのは無理だったと思う。
滅亡しなかったとしても地方の一大勢力として残るのが精一杯ではなかったか。
そもそもの話が、甲斐が領地って時点で罰ゲームでしか無いでしょう。
幸い金山がありましたが、当時の感覚で言えば、
海がないから塩も取れない。
山間で米が取れない。
土地が痩せているから作物自体が取れない。
変な風土病が領内に蔓延っている。
ごめんm(_ _)m
オイラだったらこんな領地はさっさと捨てて逃げるわ😅
そもそも、『武田信玄は戦国最強』と言う話は、後に天下を取った徳川方が勝手に作った話じゃ無いですかね。
「神君・家康公」と合戦で唯一追い込んだ武将ですからね。
あと戦国時代、将軍家の権威がどん底にまで落ちていた居たとは言え、『足利将軍家を追い落として、自分が天下を取ろう』と考える武将は、「三好家」とか「信長」とか京に近いホンの一部の武将だけだったと思いますけど。
15代将軍の義昭が信長に京を追放させられた後なら有るでしょうけれど、それは信玄が死んだ後の事ですからね。
家康は信長と一緒に勝頼を滅ぼしたときに、できるだけ相手の部下を配下にしたみたいですね、あとは信玄の発言をどんなことでも部下に聞いてメモってたみたい
真剣に敗れたあとは人が変わったみたいに慎重になってない?
信玄を心では師みたいな扱いにしたふしがありますね
組織を除けば最強は何人かべつに上がりますが
三好長慶は細川京兆家から実権を奪っただけで、天下を取ろうとは考えてなかったと思うよ。
実際、足利義輝と何度も対立しても、一度も滅ぼそうとはせずに何度も和睦してるし。
まず父親をクーデターで追放ってところが謎なんだよな。父親は暗君どころか甲斐平定、甲府をゼロから開発など、一番難しい部分を1代でやってしまった名君で、信玄より長生きする活力まであったのに自分の築いた甲府に戻らなかったとか。。本当に謎。
信虎は内にも外にも豪腕過ぎて家臣団が着いて行けない当主だったから。
武田の家臣団は自立心みたいなものが旺盛で内に強い支配者を望んでいなかった。
嫡男で家督相続順的に問題無くて少し気が優しくて優秀、担ぎ易いとみなされていた晴信が担がれた。
晴信はその後、家臣が言う事を聞かないと拗ねて闇堕ちしているし、立ち直った後も評定の場では頭ごなしに結果を言わずに最後の決は下すけど、それまでは家臣団に好き勝手に議論はさせて家臣達の面目を立て、少しでも納得して貰える様にしている。
信虎は領民に嫌われてたらしいね
「牛馬までもが信虎を嫌っていた」と言われるほど
それに信虎は信玄(晴信)ではなく次男の信繁を跡継ぎにしようとしていた
今川家に追放された当初の信虎は武田に戻るつもりだったらしいが
今川義元に現実を見せられて自分の愚かさに気づいたみたい それで戻るのやめたみたいよ
@@user-co4uy9zu1s でも、結局信玄はほぼ父親の政策を継続しているし、弟や信虎の側近がそっくりそのまま無血で信玄側に付くって相当じゃない?
イエス・キリストみたいなカリスマでも離反はあったわけで。
@@user-jz7qd8bt9mにしても甲斐平定のカリスマ相手に無血クーデターってなんか不自然じゃないですか?いくら息子が優しくてカリスマ性があったとしても、統治も戦経験も圧倒的な人物をわざわざ蹴落として、誰も付き従わないほどヤバいヤツだったんかね?
もともと甲斐全部を支配できてなかったのを平定したってことは「国衆=豪族」が強烈な恨みや不満を持ってたわけで
国衆「こいつうぜーから 追放ね。息子(晴信=信玄)担いで好き勝手やるわー」っと 国衆が団結して駿河に追放しちゃった。
担がれた晴信は 国衆の言うがまま。外征を断れない。一門集は信用置けない・・・。
信玄が完全に力持ったのは駿河侵攻後 もう八方敵になってからじゃねーのかな。
信玄死後 勝頼は武田家当主として認めてもらえず 武力を示すしかなく最大版図を得るという武力をしめし認めさせ
「御旗盾無し」という反対することができない切り札だして 長篠で家臣団潰滅させてる。
その後の 織田・徳川による甲州征伐では 裏切り続出でみじめな最後になってる。
つまり信玄の親 信虎から3代 家臣団の信用を得られていない。
まぁ 家臣団(国衆)に納得できるだけの報酬を与えられていないからこそのクーデターであり 外征強要であり 見限りであり 裏切りであり 滅亡である。
当時の甲斐の貧しさがすべて。
だからこを武田24将とか 「人は城,人は石垣,人は堀, 情けは味方」とか家臣団に媚びを売る・家臣を持ち上げる言葉がいっぱいある。
そして言葉じゃつなぎ止めらない。報酬がすべて。
肖像画の歴史も面白いですね。
神護寺三像はそれぞれ本当は誰なのか?伝足利尊氏像は高師直なのか?
伝足利義政は本当は洞院実煕だったのでは?
いや、やっぱり伝の通りだという説もあるし面白すぎます!
いや最初から天下は無理だと思います
長尾、北条、今川と周りは強敵ばかりで
甲斐からは京都ヘは遠すぎます
国力も低いです。
天下を取れなかった理由
1.京から遠い
2.貧 乏
この2つが正反対(京から近い、裕福)の信長が天下取れたのだからデカ過ぎる差だった
大河ドラマ『武田信玄』で中井貴一が信玄役にキャスティングされた時、コレじゃないんだ感があったけど貴公子然とした信玄が本物だとしたらベストキャスティングだったって事か。
結局は三国志で言うところの
中央を抑えた織田は魏で甲斐信濃の武田は蜀な気がする
名前が知れた武将が多い武田が蜀というのも含めて
それなら呉のイメージが強い
蜀漢のたてまえは漢の復興をめざしていたわけだし
織田も徳川も生まれ落ちたところが最初から中央に近い
あとは年齢も若い
場所も大事、伊達も早く生まれてても中央から遠すぎるし、謙信や北条とぶつかってたかも
個人的には信濃が山間部で豪族がいっぱいいたので、撃破していくのに時間がかかった、そのわりには経済が特別良くなるわけでもなく謙信とぶつかることになった
三国志とは比べれないですよ~信長が魏というほど圧倒的な家臣団でもないでしょ
ちょっとずつ領土を増やして行きましたが、京が遠く無かったから良かった気がします
@@user-yd9rx2xo9r
結局は天下を取るのは
天の時
地の利
人の和
を持つ者。
信長と秀吉は最後で「人の和」で躓き、家康はその3つで250年の太平の世を作った。
大名としての総合的な能力は信長と遜色なかっただろうけど、生まれた場所が悪過ぎたとしか言いようがない>信玄
でも世の中そんなものだからな。本人が優れていても、親や出会う人間や生まれた場所のために埋もれていくってのはよくある話だ
長期プランとして、天下統一を目指してなかったかもね。目先の「戦国大名」として領国経営してただけのように見える。
それは、上杉謙信や北条氏康も一緒だわな。違うのは「三好長慶」くらいか。
織田信長のプランが徹底してたからこそ、後継者の秀吉がそのままプランを実行したように思うんだよね。
わたしもそう思う。
信玄が本当に天下を狙っていたなら北信濃を巡って謙信と長々と争ってない。あれで人生50年のうち10年も無駄にしてる。
自分の近場の領土しか興味がなかったんだろう。京都を取ったとしても、それで何かを為そうなんて理想はないのでは。
あれは日本海に出たかったから。東海道抑える今川義元がいる以上、信玄は木曽から日本海に出て北陸から上洛した木曽義仲の再現を狙ってた。
川中島ではそれまででも源平合戦や室町時代を含めて何度も大軍が激突している戦略的な要地。
信玄(1521-1573)の全盛時は1歳違いの三好長慶(1522-1564)と被っているので、畿内は比較的安定している。
長慶死後の足利義輝暗殺後、三好内部の三人衆派と三好義継・松永弾正の対立で畿内が混乱している時期に、織田信長は松永弾正と通じた上で足利義昭という旗頭を掲げて上洛したのであって、時代背景が全く違う。さすがの信長も三好長慶全盛時から三好を倒して上洛するとか考えているはずもない。
なお、信長上洛の際は、武田も毛利も信長の協力者。
信長青年は幕府再興の情熱はあったけど綿密なプランなんてないと思うんすよね
20:29 第四次川中島の戦いの不期遭遇戦は、仮にドラマで展開するならハラハラした感じで注目を集めそうと感じます。
もし武田信玄公・上杉謙信など第四次川中島の戦いに関わった人物の大河ドラマが放送・再び主人公になり放送されるなら一説として採用されるかもしれないですね。
今川氏真を愚将とみて力攻めで刈り取りにいったが、信玄らしく戦わずに傀儡にすれば
北条ともこじれず義信も死なず、もっと早く上洛できたのでは
とても面白く観させてもらいました。
10:57頃の部分なのですが、もしかして“風来が上がらない”ではなく“風采が上がらない”ではないでしょうか。
結果的に寿命が問題だった気がします
面白かったけど、一つだけ(重箱の隅をつつく様で申し訳ないけど)。風来が上がらないではなく風采の上がらないでは?
甲斐が山国ということもあろう。加えて上杉謙信の邪魔立てもあって😢
川中島の戦いは上杉側の資料もあるでしょうに。
川中島の戦いは何か引くに引けない理由があるのでしょう。
武田信玄の最大領土は近江じゃなくて、“遠江”だと思います。
美濃や尾張を平定せずに近江には侵出出来ないので…
信玄が父親を追い出したのは、追い出したと見せかけて実際は父親から京の情報を受けていたと言われてます。兄弟の一人が滋賀県甲賀市水口町に残り、明治時代に徳川も直轄地にだれていた甲斐にもどり、事業を始めました。それが、テンヨ武田醤油です。
国力がなさ過ぎたから
「天下を取る」と言う言葉は「織田信長のイメージ」で語られる事が多いが、そもそも織田信長は「天下を取る」つもりで動いていたわけではない。あくまでも室町幕府体制の再興であり、幕府の統治が直接及ぶ範囲内─近畿─を「静謐」させる為に動いていたに過ぎない。信長自身はその建前の範囲内で勢力拡大を企図したのは当然のこと。
武田信玄は、後世「西上作戦」と呼ばれる軍事行動で最終的な目標を何処に設定していたのか?信長立ち位置に自分が成り替わろうと目論むにしては、時間的に余裕が無さ過ぎ。上杉や北条などの強敵を背後に控えたまま甲斐の領国を何時まで留守にできるのか?不確定要素が大き過ぎる。先ずは徳川家康を討ち取るか屈服させるかした上で以後の活動方針を決定しようと考えていたと思う。
・・・ぶっちゃけ「情勢次第」というところ
まず都(今の京都)から本拠地の甲斐の国が遠いのと上杉謙信と何度も戦争してたし何より寿命(病)に勝てなかったのが一番の理由か。
サムネ、武田信玄じゃなくて畠山義継じゃね。
勝頼は結構頑張ったのに家臣団がバラバラになって武田が滅んだのを考えると立地と家臣団の問題だろうと思う…
勝頼は本当の後継者扱いではなかったのもあると思います
勝頼は一人で動きすぎではないかな?無駄な戦いもあったような
武田信玄の壮年期は三好政権の全盛時で、比較的畿内が安定しているのに、天下取りを目指して上洛はありえないと思う。
三好政権内部の対立で、畿内の情勢が不安定だった信長とは全く違う。
信長との比較で場所の話が多いが、時代背景が全く違う。
天下を取ることができなかった、とサムネの天下を取らなかった、はだいぶニュアンスが違うと思うけど
武田晴信はいなか大名やからなのだ。
山本勘助の書状は近所の特定郵便局の家で発見した筈。知らんけど。
偽文書の疑惑がある。
まあ、静岡県奪ってようやく水軍だし。新潟は謙信公が天才的で苦しかったし。
信玄が天下を考えたとしたら、それは一回り以上若い織田信長が入京してからだろう🤔 個の能力は上でも、天下人を目指すには 京に遠いし、家康のような健康体じゃないから 年齢的に遅過ぎる🐌💨😢😭
信長包囲網を形成してるし、信長をボコるところをみたかった😂
家康に信玄包囲網組まれて二進も三進も行かなくなったから加入した反信長包囲網がなんやって?
動画タイトルのアンサーはやっぱ立地が悪いって話やろね
そもそも天下を取ることが目的でなく
海までつながる領土を欲しかったのではないですか?
甲斐武田氏は周囲を他の大名に囲まれた居るから、だから今川北条家と三国同盟を結んだと思う。其の三国同盟を破棄してる時点で、駄目だと思う。信玄生きて居ても、条約同盟破るなら、当然他の大名から信用され無い。内陸部の国が京都を目指して、朝廷、室町幕府の将軍に謁見するには遠い。京都目指す遠征には兵士の食料の補給は必須です。其の感に甲斐の国内で反乱や、他の大名から甲斐を狙われる。
三国同盟破棄してる時点で、同盟破棄リスクを信玄本人もわかってると思う。破棄して無ければ反織田信長の勢力から援軍も有ったかも⁉︎
家康は信長亡き後も織田家との同盟条約を守った。この辺の違いだと思う。