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蟹江正則のイメージが強すぎて、福島正則=反三成の急先鋒感がどうしても出てきてしまう…
面白い企画有り難うございます。人の怨みは恐ろしい。
当時三成の事を最も評価していたであろう人間はよりにもよって三成最大の敵として関ヶ原で戦う事になったのが双方の立場の相違とは言えやるせないな。
自分が秀吉の後継者たらんと行動したのが大間違い。五奉行として家康を補佐していれば「豊臣家」を滅ぼす事はなかったろうに。
@@user-ng9ee2mt9k 後世の視点から豊臣家の護持を目的とするならそれが三成の行動として正着だったと思う。だがそれは同時に豊臣家の降格を意味する事である以上太閤御為で動く三成には出来ない相談だろうな。
@@user-il6zn3xq6e さんそうですね。これは後世の人間の「後出しじゃんけん」という卑怯技だと重々承知しています。ただ、秀吉の懐刀として活躍していただけに「なぜ信長から秀吉に引き継がれた『天下安寧への思い』に気付かなかったのか」という残念な気持ちもあります。他の方のコメントにも書きましたが、私自身、豊臣家を滅ぼした一番の原因は、秀吉の「秀頼の事お頼み申し候」だと思っています。
逆に、石田三成のことが大好きだった武将TOP5をやってほしいです。
嶋清興大谷吉継直江兼続小西行長真田信之。
大好きだった武将を教えて頂きありがとうございます☺️
@@kurita1201 佐竹義宣とかも
津軽為信も秀吉の臣下 前田、織田、などから疎われて、南部家から下剋上で反乱独立していた経緯を南部家からの陳情あり、関羽を崇拝していて関羽みたいな長髭に東北訛りのズーズー弁 危うく討伐対象になりかけたが三成はたぶん、臣下になろうと遠方から参ったんだから太閤殿下には臣従希望の諸侯が来たので許可してもよいと進言したみたいで所領安堵を認めてもらった恩があり大阪城落城時に三成の次男を領地の津軽に連れ帰り 杉山姓になり家老職家に三成の恩を三成の子を匿い厚遇で迎えた津軽為信も三成に好感持ってるかと
関ヶ原の戦いの数年後に福島正則が、大阪城内の無秩序乱癡気ぶりに「三成が居た頃はこのように乱れてはおらなんだ!」と嘆いたとか、徳川が権勢を振るうようにな豊富家を圧迫するようになると「わしが三成に味方しなかったのは間違っていたのか」と周りにこぼしたとも。福島正則は三成の才覚を評価していた
主語がないから言いたい事が伝わりにくい。誰が嘆いたの?誰がこぼしたの?
@@user-oq3pk9dr1r すいません。主語抜けてました。福島正則でした
え?普通に理解出来るけど?「三成が」言うわけないし、正則と三成以外出て来てないから第三者の訳もない。一々絡んでくる方が読解力に難があるでしょ。
@@pelseus >主語がないから言いたい事が伝わりにくい。こんなこという奴へのマジレスは控えたほうがいいと思います。
嘆いたのは浅野長政です。
三成にコミュ力があれば、関ヶ原の歴史は変わっていたかもしれない
三成「落ち着いたら、私がお茶会を開いて皆さんを慰労致そう!🍵」清正「某は朝鮮で七年戦い、酒や茶はおろか、米すらも満足に持たぬ、「ヒエがゆ」でよければ馳走致そう!🍚」バチバチバチバチ………⚡⚡⚡
その話を職場の人に話したら「なんで...? 言い掛かりじゃん。」と言ってました。
@@kurita1201 三成の名誉のために言うと、秀吉の命令を忠実に守り過ぎたんですね。💧清正も秀吉のために朝鮮を攻めていたわけですが、あまりにも迅速に進軍し過ぎて伝令が遅れてしまったんですね。💧そういったすれ違いから、豊臣の武将達に亀裂が入り、もっと言えば豊臣家滅亡の遠因になったのでしょう。🔥🏯🔥
@@user-wu6fm9hx5m 三成と清正の二人に共通してるのは、"豊臣家と秀吉に対する忠義進"ですね。
@@kurita1201 間違いないです。二人にも強い信念があったでしょうからね…。
福島正則は加藤清正と並んで反三成の筆頭みたいなイメージがあったので、そうでも無かったというのは意外でした。石田三成は嫌われ者というイメージはあるけど、直江兼続、大谷吉継、島清興などの名将が心服するような不思議な魅力も備えてる。
真田昌幸、信繁親子とか佐竹義宣も三成の事好きだったよね
知性派の武将からはめっちゃ信頼されてた…。現代でもそうだが、学のある人間と、そうで無い人間は、相容れないのよ。
@@user-yg9kw2pr6c 加藤清正も頭は良いけどね。徳川家康が恐れていたから
そーだそーだ!😆
朝鮮出兵さえ無ければ軋轢が起きなかった者もいるワケで…結局秀吉に責任があり、死後東西分裂を招く事になり更には豊臣滅亡へと繋がる。三成も吉継みたいな誰にでも細やかな配慮が出来る性格だったらまた違ったのだろうが基本的に彼は彼の役目を果たしただけで…気の毒。
福島正則は下手すると朝鮮出兵組と対立してたかもみたいな話を聞いたり
最後の言及は視聴者を良く分かってますな。
小早川秀秋に関しても「蔚山城の戦いでの小早川勢を指揮していたのは家臣の山口宗永」「筑前を直轄地とする政策のために越前へ転封された(減封については不明)」と三成の関与する度合いが減ってきているようです。
筆頭は大谷吉継これは決定
僕は石田三成はいい人だったと思います、ただこの人は空気を読まないし鼻っ柱が強く言うべきと思ったことは言わざるを得ない広岡達郎みたいなところがあったと思います。広岡さんもかなり好き嫌いが分かれる人でしょうが三成は義侠心がありかつ無駄な血を好まず意地悪いところもないです。先に挙げた部分はやはり嫌いな人は嫌います。そこが問題だったかと。
要するに、秀吉を慕ってて秀吉のために尽くすのは部下であれば当然の、ある意味で清廉潔白な人からすれば、秀吉より自分の利益を優先する人間が理解出来なかっただけなのではないか?
「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」 この言葉を言える人ですからね。
『信長の野望 覇王伝 武将FILE』(1993年・光栄刊)とかいう現代にまで続く石田三成大嫌いマンの系譜
本人になんかされたかのような紹介文ですよね
石田三成って好きな人と嫌いな人で評価が丸っきり別れますね!
秀吉に気に入られ島津家内では豊臣派だった島津義弘は寧ろ石田三成とは懇意な関係じゃないかと関ヶ原の件も俗説臭いですし義久はおそらく嫌いだったかもしれませんが
信長の野望では石田三成、発展途上の地域に派遣されてひたすら内政業務しておりました( *´艸`)
アレは武将ではなくて役人だから。
三成は嫌われても気づかない可能性も富岡義勇みたいに
アニメの男を持ち出されてもなぁ。
新潟の堀としては石田三成、直江兼続嫌い
石田三成ほど、評価が別れる戦国武将はいないよな。
天下取りが出来るほど優秀な武将ではなかったのは全会の一致
@@user-ng9ee2mt9k あの時代天下を取るとしたら、器量と運と国力ですかね。家康は全て持ち合わせてましたし。
@@user-wu6fm9hx5m あと武人としての実績。三成はその点が全く駄目だったのも痛い、その点家康はあの秀吉に土をつけたってアドバンテージが桁違い。
@@user-dr3ns6pk1i 忍城での失態は 戦下手を露呈 したがって軽々しく見られてたしかし忍城での戦は 秀吉が指示し それを行っただけという話もある
秘書役としては優秀だったと思う。ただ官僚気質が現場と掛け離れてて嫌われるのは納得。そう感じながら佐和山を眺める私
すぐ思い浮かぶのは加藤清正、福島正則、細川忠興ですか。本当は秀吉の方に問題があるのですが、直接本人に不満は言えないので奉行の三成に恨みの目が向けられた不運もあります。
あなたの周りに「上司が~」「先生が~」「親父が~」「先輩が~」とか言いながら、結局自分の思い通りに事を進めようとする人いません?それ、三成。(笑)
逆に佐吉の真面目さ誠実さを評価する人も沢山いたんだけどね。与六やけいまつは佐吉と仲良かったみたいだし。
@@user-ng9ee2mt9k 三成はそんな人ではないよ。それらは天下を奪ったことを正当化しようとする家康やそれに媚びた大名たちの都合による捏造。
@@user-gy4tn2sr5m 織田信長の天下取りの成果を、織田一族を弑逆して奪った秀吉。それを踏まえたうえで、家康の行動を「天下を奪うことを正当化」と言える感性に完敗しました。その秀吉に忠誠を尽くしていた三成。察してしかるべきでしょう。「太閤への大恩」という極めて個人的な感情で要らぬ大戦闘を起こして天下を騒乱させ、結果かえって秀頼の身を危なくするという非常に優れた策略家であり、細川ガラシャなどを人質にした挙げ句に死に追い込むというおおらかで親切心があり、親友の大谷吉継から「お前は大軍を率いて戦う器も人望もない。」と言われる大人物の三成。たしかに、三成の汚点の全ては、のちに天下を安寧に導くべく、非情な決断を多々してきた武将たちの捏造かも知れません。
@@user-ng9ee2mt9k 私は加藤清正たちが大嫌いだと書きましたが、家康のことは悪く思っていません。彼は秀吉から恩を受けていないのだから秀吉の死後天下を狙っても当然です。しかし清正たちは秀吉の恩を踏みにじって家康についたのです。秀吉が織田家に何をしたかは彼らの去就に何の関係もありません。そのことで責められるとしたら秀吉本人と、信長から恩を受けていた前田利家とか金森長近らであって秀吉子飼いの家臣ではありません。そういう筋違いの論理で三成の悪口を皮肉で言うあなたの感性に感心していますよ。
秀吉そして前田利家の没後おきた七将による三成襲撃事件その七将とは細川忠興(丹後宮津城主)蜂須賀家政(阿波徳島城主)福島正則(尾張清洲城主)藤堂高虎(伊予宇和島城主)加藤清正(肥後熊本城主)浅野幸長(甲斐甲府城主)黒田長政(豊前中津城主)福島正則も入っている
意外にも福島正則が居なかったかと思いきや…なるほど武断派の代表格くらいしか嫌いになる接点が無いんですな…
19:26そりゃあんたが兵站無視して突っ走るからです。
福島正則が東軍に付いたのは決して三成憎しからではないと私も思っています。
福島は単純だから家康に騙されてただけよ
@@user-co4uy9zu1s 結果的に騙されたと言うことにはなるかもだけどそんな単純な事かな?
三成襲撃には参加してなかったか?
・島津義弘について実は三成とは結構親しい関係。秀吉が九州征伐を起こした際に、三成が所領を安堵してもらえるように取り次ぎをしてもらった恩から西軍に加担していたという説もあります。夜襲案を断ったという話は有名ですが、それは二次資料にしか見られない話です。また、関ヶ原の際に兵を積極的に動かさなかったのは西軍全体の同意であり、二番備という予備兵力として参戦していたからであって、決して三成に対して不信感を抱いていたからでは無いという説もあります。
忠興さんは変態な程に玉ちゃん大好きだから
石田三成と坂上忍は好き嫌いがハッキリ別れますね。
好きな奴いるん?
@@user-ng9ee2mt9k 石田三成の事ですか?坂上忍の事ですか?
@@user-ng9ee2mt9k 三成公を私は大好きですし尊敬しています。逆に加藤清正らは大嫌いです。自分たちを正当化するために三成のことを悪く言っているのを真に受けて勝手に誤解している人は多いですが、三成は家臣や領民からの人望があり、大谷吉継、佐竹義宜、真田昌幸、直江兼続などの一流の人物が彼を認めていました。
@@user-gy4tn2sr5m 私も、石田三成のことは大好きですよ。
坂上好きな奴は、マゾヒストだろ。絶対無理な奴だよ。
島津義弘が三成のことを嫌っていたというのは大嘘。だいたい九州征伐以来、三成と義弘は仲が良かった。義弘が義久へ三成に協力するよう説得した手紙が残っている。秀吉に所領を減らされたのを義久が恨んでいたから義弘に援軍を送らず兵を退くよう伝えていたが、義弘は最後まで三成と一緒に戦おうとした。親豊臣の義弘、伊集院忠棟と反豊臣の義久、忠恒(後の家久)がいたというのが真相。義久も義弘も賢い人で兄弟仲は外交問題を除けば悪くなかったから決定的な兄弟の対立には至らなかったが、そのため伊集院忠棟が憎まれ役になって殺された。だから勝手に上洛して関ヶ原で戦った家臣たちに義久と家久は一切恩賞を与えなかったのだ。義弘と三成の仲が悪ければ鍋島勝茂のように戦線を離脱して帰国すればよかっただけの話。三成が義弘の献策をはねつけたとかは全部江戸時代になって創作された話だ。それらは徳川への島津の「三成に心ならずも協力した」という言い訳に過ぎない。
小早川も黒田も細川も加藤も福島も三成を恨むことは何一つない。三成は讒言などする人物ではない。要は家康に媚びて豊臣家を裏切った言い訳をすべて三成のせいだと言っているだけだ。忍城攻めで三成を戦下手とするのも間違い。水攻めは秀吉の強要によるものであることが書状で証明されている。だいたい戦下手なら、そんな人と組んで家康に逆らおうとする人間はいない。
@@user-gy4tn2sr5m 確かに、大谷吉継などから「お前と一緒に死のう」と言われるほどの徳川戦で必勝を期されるほどの戦上手だったようです。
@@user-gy4tn2sr5m 三成自体が関ヶ原のスケープゴート化されてますよね三成が毛利輝元を巻き込んで家康と対峙したが定説になってましたが実際には逆っぽくて
後年の幕藩体制下での琉球貿易・支配のノウハウは、秀吉政権下での、三成からのコンサルティングというか、アドバイスがあったらしいですね。
@@user-fl5lw5bn2s それはどうですかね。島津家の琉球や奄美大島への支配は相当厳しいですから、領民に心配りがされていた三成のやり方と同じとは思えません。島津家の琉球征服は三成と親しかった義弘の引退後で、伊集院家を滅ぼした家久の代ですし。
石田三成って、損な性格だなぁ!💧
何事にも真面目過ぎたんだろうと思いますね。
もし福島正則を味方に付けていたら、戦況は大きく変わっていたor かなりの長期戦に突入していたかもしれませんねでも映画やドラマなどでは、加藤清正並みに三成とは不仲で描かれていますが実はそうではなかった?とは意外でした。
福島正則西軍にいたら間違いなく勝ってだと思うよ。常に先鋒務めてあの勢いで攻めかかってたら徳川勢もさすがに痛手だし。
甲斐姫も嫌ってたでしょうね大軍と大枚はたいた挙句、敗軍の将と
大河ドラマ真田丸ではその仲の悪さを逆手にとって微妙な友情関係を演出してたよね。三成の遺言で清正が秀頼君をお守りする。ということになってたし。ただせっかくの加藤清正役があの新井浩文。民法では赦されて放映することもあるだろうが、NHKでは多分無理だろうな。
真田丸で三成を見ている限り口論の中にも「清正お前はわかってくれ」と感じるような演じかたが良かったです
豊臣一門の武将は、良くも悪くも、皆んな秀吉の子飼いだから、愛憎が紙一重なんだよな…。
石が三つなり。石田三成は人望がなかったのは、明智光秀の人望がなかったのと似ているのだ。
まあ七本槍の中心は中国毛利攻めの様な秀吉の関わる重要な戦に戦力として関わり武勲を上げてるが三成の仕事は兵站や道路整備で戦自体には殆ど参加してないからなあ。
ただその戦いも一番重要な兵站や道路整備が有ってこそだしね。
なるほど!一般社会でも嫌われる人がいると周りの連帯感が強くなるって事がある!まさにそれですね!
いや、でも徳川屋敷に逃げ込むことになる三成襲撃事件には福島正則がいたような気がするんですが。。。
この動画を見始めたときまでは、反石田派のNo.1が福島正則だと思っていました。意外でした!
官兵衛も内心嫌いだったかも
専門家の水野伍貴氏も言っているが福島正則が石田三成の事を憎む事になった出来事がないんだよね
ナレーターさんの声、いいですね!
玉が亡くなった原因だから忠興が許すわけないわね。
黒田長政のクソデカ対艦レーダーみたいな兜と、への字口を見るたんびにクスっと来る。黒田官兵衛のドラ息子w
ドラ息子ではないと思いますよ😅朝鮮出兵へ関ケ原では実績を挙げ、世渡り上手で政治にも長けてますから。
三成公は自身の人生のすべてを太閤殿下に捧げた、戦国随一の忠臣。己の毀誉褒貶すら意に介さないのではw
タヌキの思うつぼ(笑)
出来すぎた三成への恥ずかしい嫉妬とねたみ そもそも秀吉も持て余す馬鹿家臣達 もうちょっとおつむがよければ家康に手玉に取られなかったのに
石田三成の領地だった地域の人は不思議と三成の事を悪く言わない。これが何を意味するのか?
身内には本当に甘ちゃんだからな。島左近といい大谷吉継といい。「嫌われる武将」「好かれる武将」止まりなんだよね。「恐れられ敬われる武将」ではないんだよ。
@@user-ng9ee2mt9k 身内に甘いのではなくて、嫌っている奴程、「自分を良く評価して欲しい。その上で太閤殿下にも贔屓にしてもらえるように取り繕ってもらいたい」と思えてくるのです。ただ三成本人は「太閤殿下以外は特別では無いので平等に扱っただけ」それこそ、家の格の高低も関係無し。その上、毎日デスパレートな量の仕事を押し付けられ「そこまでかまってやれるか!ボケ!」な気がします。あれだけ能吏タイプで優秀な人間でありながら、文化面では逸話がそれ程聞かないのも武将クラスからは妬まれる要因だったかもしれない···。と勝手に思う次第です。
@@user-pp6oe7zr8f 「太閤殿下に取り成して欲しい」とされている本人が「知ったことか!」では恨まれて当然ですな。たぶん当時の仕事量(と質)では、遥かに家康、その配下の本田正信・正純親子の方が多かったはず。結局、能使以上の何者でもなかったのでしょう。それが秀吉の後釜(天下を差配する)を狙うなどという身の丈に合わない望みを持ってしまった。悲劇というか喜劇というか…徳川・毛利の二大老を支える五奉行として天下の安定を第一に考えていれば、豊臣家も滅ぶ事はなかったのではないか、と個人的には思っています。まあ、一番の豊臣家滅亡の要因は秀吉の「秀頼のことお頼み申し候」だと思いますけどね。(笑)
@@user-ng9ee2mt9k 三成を誤解するにも程があるよ。身内に甘ちゃんで他に意地悪な虎の威を借る狐みたいな人間に多くの大名が味方して天下分け目の戦いをするところまで持っていけるわけがない。当時家康相手にこんな大勝負を挑める人物は他にいないよ。それだけの人徳も能力も三成は持っていた。ただ単独で6万以上の兵力を持っている家康と6千がやっとの三成では元手に差があり過ぎた。
@@user-gy4tn2sr5m ほかでコメントした通り、確かに三成は天下を治める器量持ちで立派な人物であったようですね。「徳川憎し」で集まったわけではなく三成の人望ゆえ集まった武将で、「天下を奪おうとする」家康に対抗して「太閤の恩為」に戦った三成。さぞ立派な武将だったのでしょう。
「泥水をすすって来たと言うておる!💢」
豊臣政権武闘派と言われる武将達から嫌われて居ましたね。
逆に黒田親子が好きっていう人は福岡県民以外おる?
元福岡県民ですが、嫌いですよ。特に長政はね。
北政所に集まった「三河・尾張言葉」の武将が東軍になり、石田三成に集まった「近江言葉」の武将が西軍になった。と司馬遼太郎は言っていた。
それは嘘。たとえば尾張出身でも石川貞清、毛利勝信、小出吉政などは西軍だし、近江出身でも田中吉政、藤堂高虎などは東軍だ。そんな色分けは存在しない。また三成とねねは懇意で、三成の娘二人がねねの養女になっている。逆に淀殿は家康とお江、千姫を通じた二重の親戚で三成とは何のつながりもない。実際には、ねねと三成が家康を倒そうとしたのに対して淀殿は家康に内通していたから片桐且元は西軍に非協力で豊臣家の金を遣わせず、大野治長は家康の陣中にいた。淀殿が家康を憎むようになったのは関ヶ原の後だ。「私は(おそらくお江を通じて家康から依頼され)三成に協力しなかったのに天下を奪うとは!」と思ったからだ。
@@user-gy4tn2sr5m 様 確かにおっしゃる通りです。ただ今も昔も同じ系統の言葉を話す人には親近感がわくはずです。同郷の言葉をしゃべる人とに自然に共感はするはずです。そういう視点で眺めるのもあっていいことです。方言は、資料だけに頼る実証主義的な考察から、もっと広い視点で見るためのひとつの方法かもしれません。何が嘘だとか本当だとかいう話ではありません。真実はひとつではないし、だれにも分からないことです。まあ、司馬遼太郎は面白おかしく書いているだけだと思いますが。東軍の、福島正則、浅野長政、山内一豊、加藤嘉明 など尾張弁で、徳川家康、本多忠勝、など三河弁も尾張の親戚のような言葉です。それに対して西軍で五奉行の石田三成、長束正家、増田長森は近江できっと関西弁ですね。私は三河に近い出身で、名古屋・美濃・三河、そして岡崎、駿府までも、ある程度言葉に繋がりがあり親近感を感じます。しかし近江の関西弁はかなり言葉の断絶を感じます。ですから、小説「関ヶ原」〈上巻・31頁~40頁〉の考察は、たとえ小説の脚色が過ぎても、感覚として腑に落ちた着眼点でした。それは北政所が直接関わっていなくとも、もしかしたら家康得意の捏造で、意図せぬ歴史の作用の支点になったのかもと思えるのです。とにかく「尾張弁の人集まれ」、と東軍を作ったという話ではないですね。要は心を引き寄せるのに、言葉の音感は潜在意識に共鳴をするものだと、長年の広告宣伝業での体感です。「おみゃー様、何いうとりゃーす」などと尾張弁でしゃべっていたかもしれない人達は、たぶん三河弁をしゃべっていたかもしれない徳川家康に、引き寄せられたきっかけくらいになったかもしれない、という考察もあってもいいと思うのです。余談ですが、「たゎ~け、都の食い物、えっらいしゃびしゃびだでいかんわ(味が薄くてだめだ」)」などと尾張弁の信長が、都の人に嫌われたのは当然かもしれませんしね。
あれ?ルイス・フロイスの名前がないけど・・・。
小早川秀秋は気弱なイメージがついてるけど逸話や兜みるとガチもんのヤベー奴なのがわかる島津の夜襲は訛りに訛った薩摩弁が聴き取れなかった説加藤清正のは朝鮮の役で完全に仲が拗れた若いときには夜遅くまで飲み明かし叱られた逸話があったくらいに仲が良かったのに
晩年秀吉がボケ老人となってしでかした事が三成のせいになってる所も多い気がするわ
加藤清正 黒田長政 小早川秀秋が三成を恨むのは分かるのですが(見解の相違があったり、人間関係のトラブルがあったので。)福島正則は、彼ら三人と違い、朝鮮の役に参加したイメージがないのでもし仮に、恨んだり嫌ったりしたのは、日頃の三成の振る舞いや言動に対する憤りですかね?性格の不一致ですかね?に出兵に
福島正則殿は典型的な脳筋。石田三成殿は典型的な官僚。脳筋と官僚がそりが合わないのは世の常ですからね。
@@linn19991 一般的には脳筋なイメージですが正則40歳のとき、広島に移封されて安芸備後を合わせた両群22群に郡奉行を置きその上に6奉行を据える組織体制を敷きました。また年貢率を7公3民から5公5民に下げました。どうして下げられたというと、正則が20万石に加増されて経済的に余裕があった為です。商人とも積極的に付き合いを持ち産業開発を積極的に進めました。1601年の検地は49万8000石だったのを18年後の1619年には51万1000石に増加させているので行政面でも結果を残してます。なので脳筋ではありません。
世に言われる武断派.文治派て要するに武断派は尾張出身者 文治派は近江出身者 武断派のシンボルは北政所 文治派のシンボルは淀殿こう言う構図かな?
それは大間違い。出身者で分けられてもいないし、三成と北政所は極めて親密だった。むしろ淀殿と家康はお江、千姫を通じた二重の縁戚で非常に近い。だから淀殿は家康の方を信頼していた。だから関ヶ原に秀頼を出陣させなかったし、西軍に資金援助も全くしていない。おかげで西軍はかなり資金不足であったことが三成の手紙でわかっている。豊臣家の財宝を遣えたならそんなことにはなっていない。
葵徳川三代を見てると福島正則がトップと思ってたが違ってた
現代の会社で例えれば、武断派(営業)からすれば、戦も下手で秀吉(社長)の横でチョロチョロしている三成(経理事務)は、大嫌いでしょ。加えて何も知らないのに、営業に口を出す。仲良くなるには、お互いに仕事を把握し業務に就く事だろうけど、無理だろうね。起きるべきして起きた事。
山口組の山広のような存在❗
清廉潔白から程遠い身内贔屓な性格が後世まで忠臣と扱われるならある意味幸運なことだと思う
〜でしょう、〜だったはずっていう語り方が多くて何だかなぁ…
最近は石田三成を見直す意見も出ているようですが人心掌握がド下手としか思えないようなことを何度もやらかしているので官僚としては有能でも将の器とかカリスマ性を持っていなかった人物なんだと思いますでなければコレほど多くの同僚に嫌われなかったのでは?
秀吉の光成ような下級武士取り立て、大名の側近の引き抜き等、恩顧の大名は面白くない。秀吉亡き後に、鬱憤が爆発するのは当然だろう。その上朝鮮征伐末期での、光成の体たらくにも腹が立っただろう。
生真面目??彼は、人を思いやる事が全くできてないよなあ。上に立つ人間ではないよ。
石田三成は、人の心がわからない男。ただ秀吉の言うことのみが、すべてだったようだ。こんな人間は、いつかは、失敗する。そのいい例が関ヶ原の合戦、味方に裏切られ、哀れな末路を辿ったことだ。
人の心が分からないと言うより、理解する必要がないと思ってたふしがあるかと…育ちが良く頭も良かった様なんですけどね~(笑)カリスマ性も無く、人心掌握術も使えなかったのでは?リーダーとしての素質は無かったと聞きます。
@@user-ln7ur3lp6f まさに、その通りですよ👍リーダーには、なれない男ですね❗
運悪くなっちゃったタイプ?(笑)3番隊長位が丁度良い的な?
>ただ秀吉の言うことのみが、すべてだったようこれ加藤清正とかもそうだろw
武田信玄の息子なんて、父親のカリスマに飲まれてしまったんだから、悲惨だよね…(°°;)
蟹江正則のイメージが強すぎて、福島正則=反三成の急先鋒感がどうしても出てきてしまう…
面白い企画有り難うございます。人の怨みは恐ろしい。
当時三成の事を最も評価していたであろう人間はよりにもよって三成最大の敵として関ヶ原で戦う事になったのが双方の立場の相違とは言えやるせないな。
自分が秀吉の後継者たらんと行動したのが大間違い。
五奉行として家康を補佐していれば「豊臣家」を滅ぼす事はなかったろうに。
@@user-ng9ee2mt9k 後世の視点から豊臣家の護持を目的とするならそれが三成の行動として正着だったと思う。
だがそれは同時に豊臣家の降格を意味する事である以上太閤御為で動く三成には出来ない相談だろうな。
@@user-il6zn3xq6e さん
そうですね。これは後世の人間の「後出しじゃんけん」という卑怯技だと重々承知しています。
ただ、秀吉の懐刀として活躍していただけに「なぜ信長から秀吉に引き継がれた『天下安寧への思い』に気付かなかったのか」という残念な気持ちもあります。
他の方のコメントにも書きましたが、私自身、豊臣家を滅ぼした一番の原因は、秀吉の「秀頼の事お頼み申し候」だと思っています。
逆に、石田三成のことが大好きだった武将TOP5をやってほしいです。
嶋清興
大谷吉継
直江兼続
小西行長
真田信之。
大好きだった武将を教えて頂きありがとうございます☺️
@@kurita1201 佐竹義宣とかも
津軽為信も秀吉の臣下 前田、織田、などから
疎われて、南部家から下剋上で反乱独立していた経緯を南部家からの陳情あり、関羽を崇拝していて関羽みたいな長髭に東北訛りのズーズー弁 危うく討伐対象になりかけたが
三成はたぶん、臣下になろうと遠方から参ったんだから太閤殿下には臣従希望の諸侯が来たので許可してもよいと進言したみたいで
所領安堵を認めてもらった恩があり
大阪城落城時に三成の次男を領地の津軽に
連れ帰り 杉山姓になり家老職家に
三成の恩を三成の子を匿い厚遇で迎えた
津軽為信も三成に好感持ってるかと
関ヶ原の戦いの数年後に福島正則が、大阪城内の無秩序乱癡気ぶりに「三成が居た頃はこのように乱れてはおらなんだ!」と嘆いたとか、徳川が権勢を振るうようにな豊富家を圧迫するようになると
「わしが三成に味方しなかったのは間違っていたのか」と周りにこぼしたとも。福島正則は三成の才覚を評価していた
主語がないから言いたい事が伝わりにくい。
誰が嘆いたの?
誰がこぼしたの?
@@user-oq3pk9dr1r すいません。主語抜けてました。福島正則でした
え?普通に理解出来るけど?
「三成が」言うわけないし、正則と三成以外出て来てないから第三者の訳もない。
一々絡んでくる方が読解力に難があるでしょ。
@@pelseus
>主語がないから言いたい事が伝わりにくい。
こんなこという奴へのマジレスは控えたほうがいいと思います。
嘆いたのは浅野長政です。
三成にコミュ力があれば、関ヶ原の歴史は変わっていたかもしれない
三成「落ち着いたら、私がお茶会を開いて皆さんを慰労致そう!🍵」
清正「某は朝鮮で七年戦い、酒や茶はおろか、米すらも満足に持たぬ、「ヒエがゆ」でよければ馳走致そう!🍚」
バチバチバチバチ………⚡⚡⚡
その話を職場の人に話したら
「なんで...?
言い掛かりじゃん。」と言ってました。
@@kurita1201
三成の名誉のために言うと、秀吉の命令を忠実に守り過ぎたんですね。💧
清正も秀吉のために朝鮮を攻めていたわけですが、あまりにも迅速に進軍し過ぎて伝令が遅れてしまったんですね。💧
そういったすれ違いから、豊臣の武将達に亀裂が入り、もっと言えば豊臣家滅亡の遠因になったのでしょう。🔥🏯🔥
@@user-wu6fm9hx5m 三成と清正の二人に共通してるのは、"豊臣家と秀吉に対する忠義進"ですね。
@@kurita1201
間違いないです。
二人にも強い信念があったでしょうからね…。
福島正則は加藤清正と並んで反三成の筆頭みたいなイメージがあったので、そうでも無かったというのは意外でした。
石田三成は嫌われ者というイメージはあるけど、直江兼続、大谷吉継、島清興などの名将が心服するような不思議な魅力も備えてる。
真田昌幸、信繁親子とか佐竹義宣も三成の事好きだったよね
知性派の武将からはめっちゃ信頼されてた…。
現代でもそうだが、学のある人間と、そうで無い人間は、相容れないのよ。
@@user-yg9kw2pr6c 加藤清正も頭は良いけどね。徳川家康が恐れていたから
そーだそーだ!😆
朝鮮出兵さえ無ければ軋轢が起きなかった者もいるワケで…結局秀吉に責任があり、死後東西分裂を招く事になり更には豊臣滅亡へと繋がる。三成も吉継みたいな誰にでも細やかな配慮が出来る性格だったらまた違ったのだろうが基本的に彼は彼の役目を果たしただけで…気の毒。
福島正則は下手すると朝鮮出兵組と対立してたかもみたいな話を聞いたり
最後の言及は視聴者を良く分かってますな。
小早川秀秋に関しても
「蔚山城の戦いでの小早川勢を指揮していたのは家臣の山口宗永」
「筑前を直轄地とする政策のために越前へ転封された(減封については不明)」
と三成の関与する度合いが減ってきているようです。
筆頭は大谷吉継これは決定
僕は石田三成はいい人だったと思います、ただこの人は空気を読まないし鼻っ柱が強く言うべきと思ったことは言わざるを得ない広岡達郎みたいなところがあったと思います。広岡さんもかなり好き嫌いが分かれる人でしょうが三成は義侠心がありかつ無駄な血を好まず意地悪いところもないです。先に挙げた部分はやはり嫌いな人は嫌います。そこが問題だったかと。
要するに、秀吉を慕ってて秀吉のために尽くすのは部下であれば当然の、ある意味で清廉潔白な人からすれば、秀吉より自分の利益を優先する人間が理解出来なかっただけなのではないか?
「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」 この言葉を言える人ですからね。
『信長の野望 覇王伝 武将FILE』(1993年・光栄刊)とかいう現代にまで続く石田三成大嫌いマンの系譜
本人になんかされたかのような紹介文ですよね
石田三成って好きな人と嫌いな人で評価が丸っきり別れますね!
秀吉に気に入られ島津家内では豊臣派だった島津義弘は寧ろ石田三成とは懇意な関係じゃないかと
関ヶ原の件も俗説臭いですし
義久はおそらく嫌いだったかもしれませんが
信長の野望では石田三成、発展途上の地域に派遣されてひたすら内政業務しておりました( *´艸`)
アレは武将ではなくて役人だから。
三成は嫌われても気づかない可能性も
富岡義勇みたいに
アニメの男を持ち出されてもなぁ。
新潟の堀としては石田三成、直江兼続嫌い
石田三成ほど、評価が別れる戦国武将はいないよな。
天下取りが出来るほど優秀な武将ではなかったのは全会の一致
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あの時代天下を取るとしたら、器量と運と国力ですかね。
家康は全て持ち合わせてましたし。
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あと武人としての実績。
三成はその点が全く駄目だったのも痛い、その点家康はあの秀吉に土をつけたってアドバンテージが桁違い。
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忍城での失態は 戦下手を露呈 したがって軽々しく見られてた
しかし忍城での戦は 秀吉が指示し それを行っただけという話もある
秘書役としては優秀だったと思う。ただ官僚気質が現場と掛け離れてて嫌われるのは納得。
そう感じながら佐和山を眺める私
すぐ思い浮かぶのは加藤清正、福島正則、細川忠興ですか。
本当は秀吉の方に問題があるのですが、直接本人に不満は言えないので奉行の三成に恨みの目が向けられた不運もあります。
あなたの周りに「上司が~」「先生が~」「親父が~」「先輩が~」とか言いながら、結局自分の思い通りに事を進めようとする人いません?
それ、三成。(笑)
逆に佐吉の真面目さ誠実さを評価する人も沢山いたんだけどね。
与六やけいまつは佐吉と仲良かったみたいだし。
@@user-ng9ee2mt9k 三成はそんな人ではないよ。それらは天下を奪ったことを正当化しようとする家康やそれに媚びた大名たちの都合による捏造。
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織田信長の天下取りの成果を、織田一族を弑逆して奪った秀吉。それを踏まえたうえで、家康の行動を「天下を奪うことを正当化」と言える感性に完敗しました。
その秀吉に忠誠を尽くしていた三成。察してしかるべきでしょう。
「太閤への大恩」という極めて個人的な感情で要らぬ大戦闘を起こして天下を騒乱させ、結果かえって秀頼の身を危なくするという非常に優れた策略家であり、細川ガラシャなどを人質にした挙げ句に死に追い込むというおおらかで親切心があり、親友の大谷吉継から「お前は大軍を率いて戦う器も人望もない。」と言われる大人物の三成。
たしかに、三成の汚点の全ては、のちに天下を安寧に導くべく、非情な決断を多々してきた武将たちの捏造かも知れません。
@@user-ng9ee2mt9k 私は加藤清正たちが大嫌いだと書きましたが、家康のことは悪く思っていません。彼は秀吉から恩を受けていないのだから秀吉の死後天下を狙っても当然です。しかし清正たちは秀吉の恩を踏みにじって家康についたのです。秀吉が織田家に何をしたかは彼らの去就に何の関係もありません。そのことで責められるとしたら秀吉本人と、信長から恩を受けていた前田利家とか金森長近らであって秀吉子飼いの家臣ではありません。そういう筋違いの論理で三成の悪口を皮肉で言うあなたの感性に感心していますよ。
秀吉そして前田利家の没後おきた七将による三成襲撃事件その七将とは
細川忠興(丹後宮津城主)
蜂須賀家政(阿波徳島城主)
福島正則(尾張清洲城主)
藤堂高虎(伊予宇和島城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
黒田長政(豊前中津城主)
福島正則も入っている
意外にも福島正則が居なかったかと思いきや…
なるほど武断派の代表格くらいしか嫌いになる接点が無いんですな…
19:26
そりゃあんたが兵站無視して突っ走るからです。
福島正則が東軍に付いたのは決して三成憎しからではないと私も思っています。
福島は単純だから
家康に騙されてただけよ
@@user-co4uy9zu1s
結果的に騙されたと言うことにはなるかもだけどそんな単純な事かな?
三成襲撃には参加してなかったか?
・島津義弘について
実は三成とは結構親しい関係。秀吉が九州征伐を起こした際に、三成が所領を安堵してもらえるように取り次ぎをしてもらった恩から西軍に加担していたという説もあります。
夜襲案を断ったという話は有名ですが、それは二次資料にしか見られない話です。
また、関ヶ原の際に兵を積極的に動かさなかったのは西軍全体の同意であり、二番備という予備兵力として参戦していたからであって、決して三成に対して不信感を抱いていたからでは無いという説もあります。
忠興さんは変態な程に玉ちゃん大好きだから
石田三成と坂上忍は好き嫌いがハッキリ別れますね。
好きな奴いるん?
@@user-ng9ee2mt9k
石田三成の事ですか?
坂上忍の事ですか?
@@user-ng9ee2mt9k 三成公を私は大好きですし尊敬しています。逆に加藤清正らは大嫌いです。自分たちを正当化するために三成のことを悪く言っているのを真に受けて勝手に誤解している人は多いですが、三成は家臣や領民からの人望があり、大谷吉継、佐竹義宜、真田昌幸、直江兼続などの一流の人物が彼を認めていました。
@@user-gy4tn2sr5m
私も、石田三成のことは大好きですよ。
坂上好きな奴は、マゾヒストだろ。
絶対無理な奴だよ。
島津義弘が三成のことを嫌っていたというのは大嘘。だいたい九州征伐以来、三成と義弘は仲が良かった。義弘が義久へ三成に協力するよう説得した手紙が残っている。秀吉に所領を減らされたのを義久が恨んでいたから義弘に援軍を送らず兵を退くよう伝えていたが、義弘は最後まで三成と一緒に戦おうとした。親豊臣の義弘、伊集院忠棟と反豊臣の義久、忠恒(後の家久)がいたというのが真相。義久も義弘も賢い人で兄弟仲は外交問題を除けば悪くなかったから決定的な兄弟の対立には至らなかったが、そのため伊集院忠棟が憎まれ役になって殺された。だから勝手に上洛して関ヶ原で戦った家臣たちに義久と家久は一切恩賞を与えなかったのだ。義弘と三成の仲が悪ければ鍋島勝茂のように戦線を離脱して帰国すればよかっただけの話。三成が義弘の献策をはねつけたとかは全部江戸時代になって創作された話だ。それらは徳川への島津の「三成に心ならずも協力した」という言い訳に過ぎない。
小早川も黒田も細川も加藤も福島も三成を恨むことは何一つない。三成は讒言などする人物ではない。要は家康に媚びて豊臣家を裏切った言い訳をすべて三成のせいだと言っているだけだ。忍城攻めで三成を戦下手とするのも間違い。水攻めは秀吉の強要によるものであることが書状で証明されている。だいたい戦下手なら、そんな人と組んで家康に逆らおうとする人間はいない。
@@user-gy4tn2sr5m
確かに、大谷吉継などから「お前と一緒に死のう」と言われるほどの徳川戦で必勝を期されるほどの戦上手だったようです。
@@user-gy4tn2sr5m 三成自体が関ヶ原のスケープゴート化されてますよね
三成が毛利輝元を巻き込んで家康と対峙したが定説になってましたが実際には逆っぽくて
後年の幕藩体制下での琉球貿易・支配のノウハウは、秀吉政権下での、三成からのコンサルティングというか、アドバイスがあったらしいですね。
@@user-fl5lw5bn2s それはどうですかね。島津家の琉球や奄美大島への支配は相当厳しいですから、領民に心配りがされていた三成のやり方と同じとは思えません。島津家の琉球征服は三成と親しかった義弘の引退後で、伊集院家を滅ぼした家久の代ですし。
石田三成って、損な性格だなぁ!💧
何事にも真面目過ぎたんだろうと思いますね。
もし福島正則を味方に付けていたら、戦況は大きく変わっていたor かなりの長期戦に突入していたかもしれませんね
でも映画やドラマなどでは、加藤清正並みに三成とは不仲で描かれていますが
実はそうではなかった?とは意外でした。
福島正則西軍にいたら間違いなく勝ってだと思うよ。
常に先鋒務めてあの勢いで攻めかかってたら徳川勢もさすがに痛手だし。
甲斐姫も嫌ってたでしょうね
大軍と大枚はたいた挙句、敗軍の将と
大河ドラマ真田丸ではその仲の悪さを逆手にとって微妙な友情関係を演出してたよね。三成の遺言で清正が秀頼君をお守りする。ということになってたし。
ただせっかくの加藤清正役があの新井浩文。民法では赦されて放映することもあるだろうが、NHKでは多分無理だろうな。
真田丸で三成を見ている限り口論の中にも
「清正お前はわかってくれ」と感じるような
演じかたが良かったです
豊臣一門の武将は、良くも悪くも、皆んな秀吉の子飼いだから、愛憎が紙一重なんだよな…。
石が三つなり。石田三成は人望がなかったのは、明智光秀の人望がなかったのと似ているのだ。
まあ七本槍の中心は中国毛利攻めの様な秀吉の関わる重要な戦に戦力と
して関わり武勲を上げてるが三成の仕事は兵站や道路整備で戦自体には
殆ど参加してないからなあ。
ただその戦いも一番重要な兵站や道路整備が有ってこそだしね。
なるほど!
一般社会でも嫌われる人がいると周りの連帯感が強くなるって事がある!
まさにそれですね!
いや、でも徳川屋敷に逃げ込むことになる三成襲撃事件には福島正則がいたような気がするんですが。。。
この動画を見始めたときまでは、反石田派のNo.1が福島正則だと思っていました。意外でした!
官兵衛も内心嫌いだったかも
専門家の水野伍貴氏も言っているが福島正則が石田三成の事を憎む事になった出来事がないんだよね
ナレーターさんの声、いいですね!
玉が亡くなった原因だから忠興が許すわけないわね。
黒田長政のクソデカ対艦レーダーみたいな兜と、への字口を見るたんびにクスっと来る。黒田官兵衛のドラ息子w
ドラ息子ではないと思いますよ😅
朝鮮出兵へ関ケ原では実績を挙げ、世渡り上手で政治にも長けてますから。
三成公は自身の人生のすべてを太閤殿下に捧げた、戦国随一の忠臣。己の毀誉褒貶すら意に介さないのではw
タヌキの思うつぼ(笑)
出来すぎた三成への恥ずかしい嫉妬とねたみ そもそも秀吉も持て余す馬鹿家臣達 もうちょっとおつむがよければ
家康に手玉に取られなかったのに
石田三成の領地だった地域の人は不思議と三成の事を悪く言わない。これが何を意味するのか?
身内には本当に甘ちゃんだからな。
島左近といい大谷吉継といい。
「嫌われる武将」「好かれる武将」止まりなんだよね。
「恐れられ敬われる武将」ではないんだよ。
@@user-ng9ee2mt9k 身内に甘いのではなくて、嫌っている奴程、「自分を良く評価して欲しい。その上で太閤殿下にも贔屓にしてもらえるように取り繕ってもらいたい」と思えてくるのです。ただ三成本人は「太閤殿下以外は特別では無いので平等に扱っただけ」それこそ、家の格の高低も関係無し。その上、毎日デスパレートな量の仕事を押し付けられ「そこまでかまってやれるか!ボケ!」な気がします。
あれだけ能吏タイプで優秀な人間でありながら、文化面では逸話がそれ程聞かないのも武将クラスからは妬まれる要因だったかもしれない···。と勝手に思う次第です。
@@user-pp6oe7zr8f
「太閤殿下に取り成して欲しい」とされている本人が「知ったことか!」では恨まれて当然ですな。たぶん当時の仕事量(と質)では、遥かに家康、その配下の本田正信・正純親子の方が多かったはず。
結局、能使以上の何者でもなかったのでしょう。
それが秀吉の後釜(天下を差配する)を狙うなどという身の丈に合わない望みを持ってしまった。
悲劇というか喜劇というか…
徳川・毛利の二大老を支える五奉行として天下の安定を第一に考えていれば、豊臣家も滅ぶ事はなかったのではないか、と個人的には思っています。
まあ、一番の豊臣家滅亡の要因は秀吉の「秀頼のことお頼み申し候」だと思いますけどね。(笑)
@@user-ng9ee2mt9k 三成を誤解するにも程があるよ。身内に甘ちゃんで他に意地悪な虎の威を借る狐みたいな人間に多くの大名が味方して天下分け目の戦いをするところまで持っていけるわけがない。当時家康相手にこんな大勝負を挑める人物は他にいないよ。それだけの人徳も能力も三成は持っていた。ただ単独で6万以上の兵力を持っている家康と6千がやっとの三成では元手に差があり過ぎた。
@@user-gy4tn2sr5m
ほかでコメントした通り、確かに三成は天下を治める器量持ちで立派な人物であったようですね。
「徳川憎し」で集まったわけではなく三成の人望ゆえ集まった武将で、「天下を奪おうとする」家康に対抗して「太閤の恩為」に戦った三成。
さぞ立派な武将だったのでしょう。
「泥水をすすって来たと言うておる!💢」
豊臣政権武闘派と言われる武将達から嫌われて居ましたね。
逆に黒田親子が好きっていう人は福岡県民以外おる?
元福岡県民ですが、嫌いですよ。特に長政はね。
北政所に集まった「三河・尾張言葉」の武将が東軍になり、石田三成に集まった「近江言葉」の武将が西軍になった。
と司馬遼太郎は言っていた。
それは嘘。たとえば尾張出身でも石川貞清、毛利勝信、小出吉政などは西軍だし、近江出身でも田中吉政、藤堂高虎などは東軍だ。そんな色分けは存在しない。また三成とねねは懇意で、三成の娘二人がねねの養女になっている。逆に淀殿は家康とお江、千姫を通じた二重の親戚で三成とは何のつながりもない。実際には、ねねと三成が家康を倒そうとしたのに対して淀殿は家康に内通していたから片桐且元は西軍に非協力で豊臣家の金を遣わせず、大野治長は家康の陣中にいた。淀殿が家康を憎むようになったのは関ヶ原の後だ。「私は(おそらくお江を通じて家康から依頼され)三成に協力しなかったのに天下を奪うとは!」と思ったからだ。
@@user-gy4tn2sr5m 様 確かにおっしゃる通りです。
ただ今も昔も同じ系統の言葉を話す人には親近感がわくはずです。同郷の言葉をしゃべる人とに自然に共感はするはずです。そういう視点で眺めるのもあっていいことです。方言は、資料だけに頼る実証主義的な考察から、もっと広い視点で見るためのひとつの方法かもしれません。何が嘘だとか本当だとかいう話ではありません。真実はひとつではないし、だれにも分からないことです。まあ、司馬遼太郎は面白おかしく書いているだけだと思いますが。
東軍の、福島正則、浅野長政、山内一豊、加藤嘉明 など尾張弁で、徳川家康、本多忠勝、など三河弁も尾張の親戚のような言葉です。それに対して西軍で五奉行の石田三成、長束正家、増田長森は近江できっと関西弁ですね。私は三河に近い出身で、名古屋・美濃・三河、そして岡崎、駿府までも、ある程度言葉に繋がりがあり親近感を感じます。しかし近江の関西弁はかなり言葉の断絶を感じます。ですから、小説「関ヶ原」〈上巻・31頁~40頁〉の考察は、たとえ小説の脚色が過ぎても、感覚として腑に落ちた着眼点でした。それは北政所が直接関わっていなくとも、もしかしたら家康得意の捏造で、意図せぬ歴史の作用の支点になったのかもと思えるのです。
とにかく「尾張弁の人集まれ」、と東軍を作ったという話ではないですね。要は心を引き寄せるのに、言葉の音感は潜在意識に共鳴をするものだと、長年の広告宣伝業での体感です。「おみゃー様、何いうとりゃーす」などと尾張弁でしゃべっていたかもしれない人達は、たぶん三河弁をしゃべっていたかもしれない徳川家康に、引き寄せられたきっかけくらいになったかもしれない、という考察もあってもいいと思うのです。
余談ですが、「たゎ~け、都の食い物、えっらいしゃびしゃびだでいかんわ(味が薄くてだめだ」)」などと尾張弁の信長が、都の人に嫌われたのは当然かもしれませんしね。
あれ?ルイス・フロイスの名前がないけど・・・。
小早川秀秋は気弱なイメージがついてるけど
逸話や兜みるとガチもんのヤベー奴なのがわかる
島津の夜襲は訛りに訛った薩摩弁が聴き取れなかった説
加藤清正のは朝鮮の役で完全に仲が拗れた
若いときには夜遅くまで飲み明かし叱られた逸話があったくらいに仲が良かったのに
晩年秀吉がボケ老人となってしでかした事が三成のせいになってる所も多い気がするわ
加藤清正 黒田長政 小早川秀秋が
三成を恨むのは分かるのですが
(見解の相違があったり、人間関係のトラブルがあったので。)
福島正則は、彼ら三人と違い、朝鮮の役に参加したイメージがないので
もし仮に、恨んだり嫌ったりしたのは、日頃の三成の振る舞いや言動に対する憤りですかね?性格の不一致ですかね?
に出兵に
福島正則殿は典型的な脳筋。石田三成殿は典型的な官僚。脳筋と官僚がそりが合わないのは世の常ですからね。
@@linn19991
一般的には脳筋なイメージですが
正則40歳のとき、広島に移封されて
安芸備後を合わせた両群22群に郡奉行を置きその上に6奉行を据える組織体制を敷きました。また年貢率を7公3民から5公5民に下げました。
どうして下げられたというと、正則が20万石に加増されて経済的に余裕があった為です。商人とも積極的に付き合いを持ち産業開発を積極的に進めました。1601年の検地は49万8000石だったのを18年後の1619年には51万1000石に増加させているので行政面でも結果を残してます。なので脳筋ではありません。
世に言われる武断派.文治派て要するに武断派は尾張出身者 文治派は近江出身者 武断派のシンボルは北政所 文治派のシンボルは淀殿こう言う構図かな?
それは大間違い。出身者で分けられてもいないし、三成と北政所は極めて親密だった。むしろ淀殿と家康はお江、千姫を通じた二重の縁戚で非常に近い。だから淀殿は家康の方を信頼していた。だから関ヶ原に秀頼を出陣させなかったし、西軍に資金援助も全くしていない。おかげで西軍はかなり資金不足であったことが三成の手紙でわかっている。豊臣家の財宝を遣えたならそんなことにはなっていない。
葵徳川三代を見てると福島正則がトップと思ってたが違ってた
現代の会社で例えれば、
武断派(営業)からすれば、戦も下手で秀吉(社長)の横でチョロチョロしている三成(経理事務)は、大嫌いでしょ。
加えて何も知らないのに、営業に口を出す。
仲良くなるには、お互いに仕事を把握し業務に就く事だろうけど、
無理だろうね。
起きるべきして起きた事。
山口組の山広のような存在❗
清廉潔白から程遠い身内贔屓な性格が
後世まで忠臣と扱われるならある意味幸運なことだと思う
〜でしょう、〜だったはず
っていう語り方が多くて何だかなぁ…
最近は石田三成を見直す意見も出ているようですが
人心掌握がド下手としか思えないようなことを何度もやらかしているので
官僚としては有能でも将の器とかカリスマ性を持っていなかった人物なんだと思います
でなければコレほど多くの同僚に嫌われなかったのでは?
秀吉の光成ような下級武士取り立て、大名の側近の引き抜き等、恩顧の大名は面白くない。
秀吉亡き後に、鬱憤が爆発するのは当然だろう。
その上朝鮮征伐末期での、光成の体たらくにも腹が立っただろう。
生真面目??彼は、人を思いやる事が全くできてないよなあ。上に立つ人間ではないよ。
石田三成は、人の心がわからない男。ただ秀吉の言うことのみが、すべてだったようだ。こんな人間は、いつかは、失敗する。そのいい例が関ヶ原の合戦、味方に裏切られ、哀れな末路を辿ったことだ。
人の心が分からないと言うより、理解する必要がないと思ってたふしがあるかと…育ちが良く頭も良かった様なんですけどね~(笑)
カリスマ性も無く、人心掌握術も使えなかったのでは?リーダーとしての素質は無かったと聞きます。
@@user-ln7ur3lp6f まさに、その通りですよ👍リーダーには、なれない男ですね❗
運悪くなっちゃったタイプ?(笑)
3番隊長位が丁度良い的な?
>ただ秀吉の言うことのみが、すべてだったよう
これ加藤清正とかもそうだろw
武田信玄の息子なんて、父親のカリスマに飲まれてしまったんだから、悲惨だよね…(°°;)
専門家の水野伍貴氏も言っているが福島正則が石田三成の事を憎む事になった出来事がないんだよね