防波堤代わりに沈めた駆逐艦「柳」 建造100年の存在意義

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  • čas přidán 23. 12. 2017
  • 第1次大戦で地中海に派遣された旧日本海軍の駆逐艦「柳」が、北九州市若松区の港にその姿をとどめている。第2次大戦後、防波堤代わりに沈められたものだ。今年で建造から100年。その船体は今に何を伝えているのだろうか。
     二月十二日火曜 晴 暖 警戒航行中午後一時二十分 本艦左舷側に向ひ魚雷の航跡を認め(略)直に大砲を発射し攻撃し(略)敵艇も二隻程居たるもの如(ごと)く前后(ぜんご)潜望鏡を出し……
     第1次大戦終盤の1918年、地中海に遠征していた柳の船上で、海軍兵だった故・山川重成氏(1896~1983)が書いた日記。前年に造られた柳が連合国の船の警護にあたり、敵国ドイツのUボート(潜水艦)と戦った緊迫した日々がつづられている。
     2014年、福岡市の自宅で見つかり、娘の喜多十二枝(とじえ)さんが保管している。偶然にも日記が見つかった数カ月後、今度は「柳の設計図が発見」と新聞で報じられた。
     40年に除籍になり、練習船として使われていたが、第2次大戦後の48年、物資不足の折に洞海湾の浅瀬に据えられ、「軍艦防波堤」になっていたと初めて知った。現地も訪れた。「父も知らなかった。遠い昔の船がよく残ったものだと感慨深い」と喜多さんは言う。
     「戦争を考える具体的なきっかけが減っている中、貴重だと思う」と喜多さんの長男の沢雄さん。「柳の地中海派遣は日英同盟のためで『他国の船の警護』とか最近の話とリンクしている」と苦笑いした。
     53年の「若松市勢要覧」の産業観光案内図に既に「駆逐艦防波堤」として記されているが、地元でも認知度は高くない。ただ、関心のある人たちが現地に足を運んでいるようだ。
     郷土史家の若宮幸一さんが館長を務める若松区の旧古河鉱業若松ビルには「軍艦防波堤」の場所を尋ねる客が時折訪れる。「海外が戦場だった第1次大戦の国内の『戦跡』と言えるかもしれない」と指摘する。
     北九州市小倉南区の公務員松尾敏史さんは「軍艦防波堤」に興味を抱き、ネットで情報を発信し、毎年「語る会」を開いてきた

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