■半世紀前のドキュメンタリー(老人と鷹)

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  • čas přidán 23. 11. 2021
  • これも古いビデオで制作は確か1962年、まだTV番組は黎明期で映画とは異なったアプローチをとる番組は少なく、いろいろな意味で脚光を浴びた。カンヌ国際映画祭テレビ映画部門でグランプリ受賞、民放大会賞番組部門でも最優秀賞を獲得している。現在の高性能な撮影・編集機器の無い時代、こうした厳寒の厳しい環境で撮影をすること自体、大変な苦労だったと思われるが、それにも増して撮影対象が「鷹」という意思の通じない相手であり、それを兎にも角にもここまで(制作者の意図に沿う構図で)作品としてまとめあげた手腕はたいしたものだと思う。
    ただこの作品が「動物と人間の心の触れ合いを描いた…」とか「老人の鷹に対する愛情が…」などとセンチメンタルな感情に捕らわれて感傷的に理解されてしまうとすれば、それは多分、制作者の意図としたものではない。雪深い厳寒の山中に独居してほとんど自給自足の生活をおくる老人と、彼がその生活を支えるために必要としている道具(としての鷹)、そのお互いに厳しい環境にある両者がどんな形で、どういった経緯で接点を共有し、共生の手段を確立したのか、そのプロセスを記録した作品(ドキュメンタリー)と見る方が近いと思う。
    この時代(昭和)にはそうした厳しい環境に直面して日常をおくる人達が全国にまだまだ多かった。はやい話、例えばもしこの老人が風邪をこじらせて肺炎を発症したら(電話どころか電気も通じてない)雪深い山中の一軒家、どんな対処法があっただろうか。あるいはある日この鷹が誤ってアライグマなどを捕獲しようとしてその強烈な反撃に合い、深手を負って(狩猟の道具どころか)飛ぶことすらままならない状態に陥ったなら、老人は鷹を治療し、その(飛べない鷹の)世話をし続けるだろうか。この両者の関係がそういった(ペットを飼うような)ものでないことは誰にでも想像出来るだろう。鷹は野生の生き物だがこの老人(人間)も又、それと同等、否、それ以上に「野生的に生きている…」ということだ。
    朱に交われば何とやら、人は環境の動物、人類は環境に適応できるからこそ繁栄した。で、あれば野生に接する人達がその影響を受けない訳がない。古代ローマ人は辺境の民を「バーバリアン(野蛮人)」と記述し、英国紳士は北米植民地の開拓住民を「ヤンキー(野生動物のように騒ぐ人)」と呼んだ。この作品のとおり、そうせざるを得ない環境は(生きるために)人間を変える。この事実こそドキュメンタリーが語るもの。現在の私達が忘れてしまった「何か…」だと個人的には思っている。
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