関ケ原以降存在感がなくなったけど、上杉ってどうなった?
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- čas přidán 12. 11. 2019
- 関ケ原以降存在感がなくなったけど、上杉ってどうなった?
について紹介しています。
ナレーション:真加藤沙織
脚本・監修:歴史の細道
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~音源~
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お疲れさまでした。今回の上杉家ってある意味歴史上に於いて重要だと思います。
江戸期を通して屈指の名君と言われた上杉鷹山
長い不遇の時代を耐えた米沢は、観光地として上杉の遺産を享受している。
会津若松と米沢を結ぶ道は、歴史の街道百選に選ばれ観光客を引きつけている。
この地の人々は上杉の残した遺産を大切にしている。
歴史と米沢牛と豊富な果物を訪れた人に提供してもてなしている。
魚沼から会津へ会津から米沢へ電車で行けるのがいいよね。遠いけどw
この藩だったからこそ、鷹山が登場できたんだよなぁ
30万石になった米沢藩もその後新田開発を進めて50万石まで収入は増加してる。
ん〜?一時期は15万石の時もありましたよねぇ…!?
齊藤泰彦 それはもっと後の話
毛利のリストラ政策は今のと考えると全然ちがうな
毛利のはリストラはするもののその人の後のことを考えてやりそれが最終的に藩のためになっている、これって今でも大事な事だよなぁ
Nick Jone 巡り巡って毛利に帰ってくるしね、それに主家が後のことも考えてくれてるから安心してたと思うわ
上杉氏の場合、色々な質素倹約や農産業推奨に加えて禄の分配について、もう一工夫ありました。禄を厚くもらってた者は4分の1に減らされても何とか食いつなげますが、元々、禄が薄かった者が4分の1に減らされては生活が成り立ちません。そこで上杉氏(兼続)は元々薄かった者についてはなるべく元の禄を。厚かった者については大幅に削ったそうな。
直江兼続自身なんか30分の1(それも自分で決定)やからな~(>_
毛利・長州藩との比較はあまり意味が無いのでは?もともと長州は、南方ということも手伝い、二毛作や開墾が容易で石高増は難しくなかったこと、長門という商業都市を持っていた為、交易が盛んだったこと、当然その流れで下関戦争を経て特にイギリスと提携したことも大きく起因していると思われる。また、内陸という面では確かに似たような長岡藩と比較すると幕末での存在感は薄いが、豪雪地帯でありかつ、山間部が多く開墾・農業にあまり適してはおらず(今は考えられないが、当時は冷害など東北地方は農業中心にも関わらず、貧しかった、東北の娘売りとか、近年では集団就職とか出てきたのもその様な背景があったのであろう)、かつ、内陸部であり、交易的にも東北では栄えた方だが、でも仙台とか庄内とか酒井と比較すると見劣りする部分も多い気がする。また情報元は忘れちゃったけど、確か上杉は30万石の時か15万石に減封された時に、見栄を張って申告したものの、実質石高はそれよりかなり低かったという話も聞く。江戸時代中期や幕末に存在感が無いと言われるが、吉良家という「高家」から養子をもらうなんて並みの大名ではありえないし、後ろ向きながらも奥羽列藩同盟の盟主だったりもしたのだ。まあ、ただ、外様で小藩(でも10万石越えって実は日本では結構すごいんだけどね)に落ちたという部分では確かに地味かも知れない。
それでも上杉家に仕え続けた家臣達に敬意を表します。
素晴らしいです。とても勉強になりました
真田藩では、困窮した財政をたて直すべく、質素倹約を注進した恩田木工という忠臣がいたと、信州では、語り伝えられておりますが、戦国時代、小大名ながら、あれほどの勇名を馳せた真田藩も徳川時代、上杉藩と同様に、財政の困窮に腐心したようです。「何処も同じ」でしたのですね。
上杉家は謙信のカリスマ性が強すぎたから後継者の景勝の先から名前が思い浮かばない
景勝が有能だから生き残れたからね
以降は忠臣蔵や明治維新時のイメージが強い
一番割を食ったのは米沢地域の農民でしょうね通常の4倍もの武士を食わせなきゃいけなかったんだから
鷹山さんの進めた倹約精神はいまだに根付いてて、食べれる生垣を植え、食べるための鯉を飼い、山に入って山菜を獲り尽くす、外食なんてほぼいかない
金が回らないのでとにかく厳しい地域ですし人口は多いのに新政府に逆らったということで会津と共に県庁所在地からもはずれ現在は過疎が進む
秀吉の転封政策が無く伊達家支配が続いてれば違った現在になってるのかもしれませんね
ナレーションの言い回しの細かい部分が「違う」という感じで気になる。
米沢は豪雪地帯だから…伸び代が限られていたのも原因かも。
改易って言葉は厳密にはどういう意味で使えば正しいのか?
領地をすべて無くすことを除封、領地を削減することを減封、領地替えをすることを転封。
これらをまとめて改易という処分でも良いのかな?教えて詳しい人。
Traffics520712 改易は領地と城と陣屋を没収して武士身分を剥奪することじゃないかな?
@@user-wp9jn8fg4l というのが一般的な解釈ですが、減封に対して除封という言葉もありますので、改易の意味する範囲を確認したかったのです。
Traffics520712 wikiには江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。と書いてある
改易処分はかなり重い
減封処分は重いけど許されている
上杉も毛利も改易じゃなくて減封だし、前田利家は豊臣時代は84万石程度です。関ヶ原の戦いの後で100万石超えたんです。
kazu Kazu それ
上杉と毛利が改易って…
義に関しては上杉だけではない、会津の保科然り・・・西がリベラル党に対し北東は強固な保守党・・・
長尾影虎の戦国時代の戦績は 戦国時代ナンバーワンでしたが 関東管領に就任したころ(1561)野望をもっていれば 天下平定も狙えた筈
1577年 手取川の戦いで織田信長に大勝し 上洛するときには 10万を越える兵が集まったとか
残念ながら その時 脳梗塞でなくなっています(48)
後 10年長生きしたら 多分徳川の時代はなかったように思います。従って改易になることも無かったのにと思うと残念です
改易じゃないし、景勝は五大老入りしてるし
一人の大名に縋った末路なら信長でお腹いっぱいだろ
上杉鷹山……。
上杉家に飛び領にされて山を3つも越えての納めはキツかったって。まぁ、上杉家の飛び領にされて良かったのかも。
耐え難きを耐え忍びがたきを忍びというものを実践して江戸を生きたんですね!こういう経営者に現れて欲しいものよ!
考えさせられる内容ですね。
しかしだ、鷹山の前の藩主などは浪費家で
藩財政なんてお構いなしに浪費していた。
ちょっとこの回は色々雑すぎる。
上杉鷹山なんてこれじゃあただのコストカッターのリストラ野郎じゃん。
そもそも動画の当初では家臣を抱え続けたか否かで毛利との幕末の差が出たと言いながら、最後には15万石ではなにもできなかったって、言ってることがずれてるじゃん。
そもそも江戸時代ってのが財政難にして幕府に反抗させないようにしてたからな・・・・・・少しでも豊かな藩は公共事業にお金を出させてわざと貧乏にさせたぐらいだからな。
最初に改易って言ってますが、減封では?
だよね、改易されて滅亡したら明治維新が倒幕派圧勝で新選組もいない
そういえば、福島正則も減封なのに何故か改易と書かれていたりする。
@@yh6146 ワシの持ってる教科書には福島正則改易って書いてあったし、授業でも改易って習ったんやが違うん?
@@user-kq1yc2bk2t 普通なら領地を没収が改易で領地を減らされるのは減封。それなのに、福島は改易で上杉は減封という扱い。
義を通すことが良いか悪いかは別として
代々義を通しぬいた家であることは受け継がれたようです。茂憲の子は明治高官がマラリアで行きたがらない沖縄に県令として着任しています。
血筋は途絶えたが、幕末まで生き延びたのは立派。
母系ですが、本来の関東管領上杉家の血筋は残ってます。
30万石から15万石に減俸した時に半分の家臣は、領地受け継ぎの大名や旗本に引き取って貰えばもう少しだけ楽だったと思うけど。全員雇うの無理て分かるだろう急に大名に成った旗本は、家臣足りないからそちらに引き取って貰うとか領地増えた旗本や大名も家臣不足するとか有るから家臣の生活考えるとそうした家に引き取って貰うも義の一種だよね‼️
人間性の違いではなく、地理的条件の違いではないですかね?😅
宝暦年間には重商主義による改革が行われるも、買収・専横による藩政腐敗が起こり、
黒幕惨殺事件が起きる。加賀騒動もそんな時期。
自分達は、安全な所にいて、ごちゃごちゃ言う物は、うっぷんを晴らすとはいえ、いつの時代でもいる。
やっぱり江戸期の上杉家は善政を敷いたという印象しか無いですね。強いて言えば上杉鷹山くらいが思いつくかな?
上杉が財政危機を迎えるのは、15万石に減俸されてから。
江戸期初期、30万石だった時代は新田開発の結果、実高50万石まで増えてましたよ。
キラキラカンパニー それまでは結構豊かだったんですね、知らなかった
上杉鷹山のおかげでもあるんですよね
@@user-po6rd6ps4l 生け垣だって食材にしてしまうくらいwww
幕末の頃の長州藩は実高100万石。
akakkkkkk 大藩
上杉家って減封でしょ?改易って長宗我部でしょ、なんか急にクオリティ下がったな
豊臣政権下では、前田家は、86万石位だったと思うが
関ヶ原時点で利家は死んでるから、息子の利長だろw
ここはちょいちょい言葉が違うことあるよね。
利長が80万石余りの他、弟の利政が能登七尾に20万石領していたので、合わせて考えたとするなら100万石にはなりますね。
外様大名としてはかなり勢力保ってる
生かさず殺さずの徳川の大名の締め付け政策はうまく機能してたんだね
家康生誕の県にある超大手自動車メーカーは同じ手腕で
確実に利益を増大させてます。
江戸時代、平和の代償は経済と文化の大停滞。
改易?毛利家が…。それでは長州藩主は毛利家でなくて吉川?小早川?
長州藩の本筋は毛利、吉川、小早川は分家筋でしかない
中村健次郎 このチャンネルが間違ってるだけや
@@user-wp9jn8fg4l 毛利家から養子に吉川と小早川に行ったから有名な三本の矢の三兄弟は、長男が毛利次男が小早川三男が吉川だけど。
小山義一 だから何?
小山義一
家が違うでしょ
新政府はやらなくていい戦いをやってるよね。
まあ、世良修蔵が伊達家を馬鹿に
したり、長岡では岩村精一郎も
河井継之助を怒らせたからね。
西郷どんでそう言ったのは
描かれてないという。
あーきー 悪いとこはやらないで良い面だけやるって言い方悪いけどセコいと思ったわ
王政復古の大号令後、徳川慶喜は主戦派(会津・桑名・幕閣など)の暴走を懸念して、彼らに軽挙妄動を慎むように命じて二条城から大坂城へ退去した。
当時の新政府は一枚岩ではなく、徳川慶喜を政府に参加させるべきという勢力(大名・公家など)が強く、徳川排除を目指す薩長は政府内部で追い詰められていた。
徳川幕府は終焉を迎えたものの、未だ影響力・400万石・日本最大の軍事力はそのままなので、徳川慶喜は大阪城で戦わずして薩長を屈服させられる状態だったのにも関わらず、主戦派に押され派兵を許可してしまい、討薩表を発し薩摩勢討滅を掲げ兵を京に送ってしまった。そして鳥羽・伏見で薩長と衝突し戊辰戦争が始まる。
その後、徳川慶喜と、その意を受けた陸軍総裁の勝海舟が恭順を示し、江戸城は平和的に開城されたのにも関わらず、幕府艦隊を掌握していた海軍副総裁の榎本武揚が、無血開城の条件である、武器・軍艦の引き渡しを拒否して逃走。さらに幕臣(彰義隊など)が武装し江戸でテロを働いたり、東国の旧幕府支持勢力が交戦姿勢を崩さなかったので、戊辰戦争はやむを得ないですね。
あくまで一説だけどイギリスが薩長に金を供出し自分たちの兵を使わずに日本を自分たちのいいように操ろうとしていた可能性もあるけどな。
事実上西軍なんじゃなくて、関ヶ原では間違いなく豊臣についたんです。歴史をもうちょっと調べましょうね。
だよね、直江状知らないんだろ?
上杉は西軍についたという確証はなく、家康が討伐したのを好機ととらえた三成が挙兵したということだったと記憶している。連携している証拠があれば敗戦後改易されてるだろうからあるわけないけどそのため証拠もないので西軍というわけでもない。関ヶ原で戦ってたら絶対負けてないと思うんだがなあ。
関ケ原は豊臣VS徳川ではなくて、あくまでも豊臣家臣団の内部構想です。なので騒ぎを起こした西軍諸将を改易したり、東軍諸将に加増したのも豊臣政権がしたという体になっています。
家臣を減らして殖産興業政策をやらかしたりするべきだったな?、治則君の代迄、何もしなかったか、つけが回ってきたんですよね。らしいとらしいんだけどさ、一時は大名を辞めようかって話しも出てた様ですね。
毛利家では新年の挨拶で家臣が「そろそろいかがでございましょう」
と問うと藩主が「まだ早い」と答えるのが慣例となっていたという。関ヶ原以後減封された悔しさを忘れず幕府を転覆させることを常に念頭に置いていたといわれる話だが上杉家ではどう考えていたんでしょうかね
基本、保守派なので自分がとって変わってどうのこうのとはしない・・・自分の懐で判断するのでやれるんだったらやる。できないなら始めからしない・・・リベラルは革命だーーーーーーって先走る。
徳川への恨みは当然あったと思いますし、毛利家は毛利元就の時代からの朝臣でありますから、天皇の臣下であるという思いが強いし、幕府からも例外として許されていた。まさに尊王倒幕。
モーツアルトの生まれかわり 新年の挨拶をする人間は決まってたのでしょうか、それと通例だったんですかね
@@user-wp9jn8fg4l どうなんでしょうね。でも後に倒幕へつながってゆくことになるので有言実行したことになるのでは。幕府が終わりを迎えた年の挨拶は
「そろそろじゃな」
とでも言ったんですかね。(笑)
打倒徳川ばかり見ていてまさか?
打倒徳川を果たした時に先祖代々の領地まで没収されるなんて
夢にも思わなかったでしょうね、
言葉の用法の違いについては置いといて、
米沢藩藩主それぞれに財政についてのとらえた方が違い過ぎる。
綱勝、鷹山の義父など浪費癖の強い連中も藩主として君臨してた。
幕府からのご普請や命令があるのは最初からわかってるんだから、そこら辺を考慮できる藩主が必要。
家臣団たちも派閥闘争があったと聞く。
でも、最後の藩主、上杉茂憲は最後まで、家茂の名前を捨てなかった。
これは素晴らしいことだと思う。外様では蜂須賀くらいじゃなかったかな、新政府を憚って茂の名を捨てなかったのは。
是こそ義なのかな。
…関ヶ原惨敗で満身創痍なボロボロとなった上杉家。でも日本を貪るような大きなひどい事は無かったみたいで、『醜い勝ち組』になるよりは救いがあり謙信などに恥ずかしくない結果だったかもしれません。ありがとうございました!
書き込みを見ると、なんか、間違いが多いんですね。訂正しないの?それとも、書き込んでいる人が間違い? せっかく面白いのに残念です。 他の動画はどうなんだろ。同じ感じだったら嫌だな。
長州藩士の末裔である自分にとって、毛利の殿様がリストラをしながらも幕末まで家を守り徳川にリベンジを
果たしたことにグッとこみ上げるものを感じる。
家康が西国大名を後々まで恐れていたのは、
個人的感想ですが、理不尽なこじ付けで領土削減したからだと思います。
息の根を止め切れていないですから。現実的な学問も無形の要素の学問も丹念に研究していた家康は
多分、歴史のシーソーゲームを理解していたんでしょうね。
倒すなら、西国大名のいずれか?もしくは群雄だと思っていたけれど、
引き延ばしには成功したのだと思います。
その法則から則って、日本が再び勃興するなら東北、特に会津から勃興すると感じてます。
明治維新は大成功だったけど、会津への必要以上の戦争は、
昭和の敗戦までの日本と重なります。
ハルノートの天皇差し出し要求と容保公の首差し出し要求。
白虎隊と学徒動員
会津が焦土と化したものと日本が焦土となったもの。
青森の僻地転封とシベリア抑留。その他諸々。
やり過ぎた事が後々の広島原爆投下に目に見えない因果を感じます。
広島の方々には失礼かも知れませんが。
私は家康推し人間ですが、
全ての遠因は家康の毛利をペテンに掛けた事だと思います。
@@user-xp2qb8vf3h 王政復古の大号令後、徳川慶喜は主戦派(会津・桑名・幕閣など)の暴走を懸念して、彼らに軽挙妄動を慎むように命じて二条城から大坂城へ退去した。
当時の新政府は一枚岩ではなく、徳川慶喜を政府に参加させるべきという勢力(大名・公家など)が強く、徳川排除を目指す薩長は政府内部で追い詰められていた。
徳川幕府は終焉を迎えたものの、未だ影響力・400万石・日本最大の軍事力はそのままなので、徳川慶喜は大阪城で戦わずして薩長を屈服させられる状態だったのにも関わらず、主戦派に押され派兵を許可してしまい、討薩表を発し薩摩勢討滅を掲げ兵を京に送ってしまった。そして鳥羽・伏見で薩長と衝突し戊辰戦争が始まる。
戊辰戦争の口火を切ったのは会津なのでやむを得ないかと思います。
どの時代も優柔不断な指導者と大局観を持たない主戦派は身を滅ぼしますね。
akakkkkkk 会津?庄内じゃなくて?
上杉の流れですが、長州は旧幕府軍が、何故負けたのか知らないんですね。大政奉還の時に、上杉が天皇陛下と謁見して、海外の力を借りて、クーデターの様な卑怯な奴に、錦の旗印を渡すなら、上杉は幕府軍として最後の1人になる迄戦う。そうなれば、何の罪の無い民が沢山死ぬぞ。それでも良いなら、とことんやるぞ、と天皇陛下を諭し、天皇陛下から、慶喜公に申し訳無いと伝えてくれ。ただ長州が力で、幕府を倒したいと聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをしてくれと、上杉の条件は、慶喜公の命の保証、新政府での枢密院に入れるです。薩長閥が仕切る、慶喜公は辞めましたよね。長州は、減封され商売人が主力で、俺達は侍に勝った、俺達は強いと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下が、清と一喝。セイと言うんですが。お前達は、海外の力を借りて、クーデターみたいな卑怯な事をしただけだ。幕府軍を本気にさせるな。もし本気になったら、お前ら何か、皆殺しにされる。と言われ、皆、下向いて静まり返ったのが事実です。清と言うのは、天の声と言われています。ハードゲーが、セイセイセイって言ったら、御半島出身者のが芸能人は、下向いて苦笑いするでしょう?第二次世界大戦も、長州は、今の中国なら、俺達と百姓で勝てるから、お金を貸してくれと、旧幕府軍に頼み、お前ら裏切り者は信用無いから貸さないと言ったら、豊田佐吉が保証するから貸してくれ言うて、日中戦争。又、長州が中国でおかしな事やってるから、旧幕府軍は参戦していません。人体実験ですね。長州が主導で豊田佐吉と始めた戦争で、戦況悪化したら、旧幕府軍に頼むから、手伝ってくれ。商売人は、特攻行くの嫌だから、最後は、日本が経済で世界一強い国にするから、頼むから死んでくれですからね。笑笑 上杉と徳川の中堅以下の武士が特攻に行ったんですよ。薩摩の海軍副総司令官の孫に、お前ら薩長が弱い癖にアメリカに戦争なんかふっかけたお陰で、俺達はエライ迷惑してるわ。言うたら、確かに弱い。すいませんでした。言ってましたよ。これが、大政奉還の真実です。天の声知りませんか?
前田家みたいね。
長州藩にリストラされたお陰で
我が家は貧乏しているわけで
とても毛利家を評価する気になれん
後、江戸時代は
一応、中世ではなく近世ね
清水直人 自分の先祖が能力なかったからリストラされたんでしょ?
で?
@@user-wp9jn8fg4l 確か毛利輝元は家臣の名簿帳みたいなのに適当に開いてそのページに書いてあった家臣をリストラしたのを聞いたことがあります。間違ってたらすみません
幕末まで生き延びた上杉家って、謙信の長尾家の血筋とは切れてるんじゃなかったけ?
綱勝で長尾上杉の血筋切れてたと思って調べたら、綱勝の後継いだ吉良上野介の息子の綱憲って定勝の娘(綱勝の妹)の子なんだな。他家から来た鷹山を除けば一応女系で長尾上杉の血は繋がってるっぽい。と思ったら鷹山も祖母が綱憲の娘だからこっちも女系で血が繋がってるのか
上杉景勝は、上杉謙信の養子だから、そこで既に切れているのでは?
@@user-pc7el1jt7d 景勝は謙信の姉の子だよ。
幕末に吉田松陰が上杉家にはいなかったからでは?
レオン、 いや当たり前じゃん一人しかいないんだから
吉田松陰みたいな人だよ (笑)
レオン、 なるほの、汲み取れなくてすまん
レオン、
上杉家には雲井龍雄がいました
活躍する前に処刑されましたけど
改易じゃなく転封ね、、、米沢に、、改易はお家取り潰しの事です
山本茂樹 減封ね、、、改易は所領全て没収して武士身分を剥奪することですw
現代はリベンジ豊臣の世。
日本の国紋は豊臣紋となっている。
官房長官が記者会見するときの映像をよくみて欲しい。
たしかに・・・いまの政権トップも豊臣五大老の毛利いや長州・・・昭和の中期は上杉の新潟だったのに・・・ただなにやら水面下では大宏池会結成の噂が・・・
藤原北家の動きも気になります。
@@user-vi9ls9md3k 藤原と秦以外から総理あまり出ないよね。源氏家でも秦や藤原の血筋だったりするから。
豊臣家の家紋五七桐は元々天皇家の副紋ですよ。菊紋が正紋ね。桐花紋は功績のあった家臣に下賜されることもあり、豊臣秀吉にも下賜されたわけです。元々羽柴や木下時代の家紋は違う物ですからね。ちなみに調べたら足利尊氏や織田信長、徳川家康にも下賜されてるようです。そして明治、菊紋は皇室関係に制限された結果、次に格のある五七桐が日本政府の紋章として使われるようになったそうです。
T K さん、ありがとうございます。
とても勉強になります。
やだな,これ。
上杉の武士に生まれなくて良かった。
武士は食わねど高楊枝。
3代綱勝の妹が吉良上野介に嫁いでた事は言及してるけど、彼女と吉良の間の子が末期養子で上杉に入ったのだから実の甥であるって事を語っておいて欲しかった
また保科正之の仲介でお家断絶を回避出来た事も、正之が2代将軍秀忠の隠し子で3代家光の義母弟だった事で重用され幼少の4代家綱の補佐役を務めてたから上杉家の取り成しが出来たって言及が欲しかった
その正之が家臣のリストラをしない事を条件にしてた事も、その時代に島原の乱や由比正雪の乱が起きた原因が幕府の武断政治で取り潰された大名家が多く浪人が大量に発生した事が一因だったから、家綱時代に文治政治に移行しつつあり浪人を出さない様にさせた結果、上杉家にもリストラ禁止が厳命されたという説明が欲しかったかな
nazca091 義母弟じゃなくて異母弟じゃ
@@user-wp9jn8fg4l 本当だ。義母弟になってたw
@@user-wp9jn8fg4l 義母弟じゃなくて異母弟です。義母弟でも合っているのも事実です。愛人は、義理母です。側室の子正室が義理母正室の子側室が義理母ですから。
@@user-wp9jn8fg4l 義理母の弟が義母弟です。もう少し勉強してくださいね。学校終えると勉強しない人居ますが。学校で苦手な勉強は、社会人でもするだろう。
@@user-wp9jn8fg4l 御家断絶する大名は、一番近い親戚探して家だけ継がせますが家臣は、領地受け継ぎました大名や旗本に引き取って貰うのが一般的だったけど。5万石の大名が跡継ぎ居ない場合は、5千石の旗本にしていたから。上杉てラッキーチャンス自分たちで潰した君主と家臣団です。
弱国二藩っすからね
歴史の知識が無くて草
北越戦争で健闘した河合継之助は米沢だけはアテにするなと言い残して死んだ。長岡藩決死の反攻も米沢のバックレで決定的ポイントあげられず、新潟港防衛では格好ばかりつけてあっさり取られ、終始奥羽越列藩同盟の足引っ張った。米沢に庄内藩の十分の一の戦闘力があり河井がもう少し生きていれば戦いは冬を越しどうなったかわからない、戦争を早く終わらせたと言う意味では功労者とは言える。戦争大好きの謙信公はお怒りだろうが。
景勝、直江同郷コンビより、景虎が勝っていれば、、、さらに新発田重家が勝っていれば、と思う😠
景虎が勝っていれば上杉領は北条領に併合されていたことでしょう。
薩摩や長州も財政難は同じで、改革に成功し雄藩になったのです。。上杉には人材がいなかったと言うことでしょう。
上杉家って義ばかり言いますが、他国に攻め入っても冬には帰国、また領地を奪われるの繰り返しでしたよね。
家臣に土地を当然あげられない訳で裏切られの繰り返し。
結局、綺麗事ばかりでダメな当主が代々続いただけだと思います。
関ヶ原の前哨戦、大阪の陣でも結果を出せないダメとの様(笑)
とても残念な一族ですね💦