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生まれは北海道ですが大学時代信玄大好き過ぎて何度も山梨県と長野県に遊びに行きました。信玄が後3年長生きか、後継者を確実に選定出来ていたらどんな感じになっていたかなーってたまに思います。
あい
武田の赤備えにあやかって徳川の赤備え衆が自分の綺麗な赤い鎧を自慢していたが家康がそれを見て呆れ、元武田家に仕えていた者のボロボロの赤備えの鎧を見て、「あれこそが真の赤備えだ」って言ったエピソードが好き。
家康は本当の赤備の武田騎馬隊の恐ろしさを見に染みてわかっていたのでしょうね甲斐源氏の恐ろしさを!
@@tomoyaokano1081 馬印は、倒されるは、コテンパンだからね。
龍造寺氏の末裔のかたですか?
高家になるまで本当に波乱万丈な道辿っていたんですね、
🇯🇵🇯🇵🇯🇵いいですね
武田信廉の子は富山県の高岡に逃げてその屋敷跡が文化財として残ってる仕事でたまたま通らなかったら気がつかなかっただろうな
前田家
武田信正の正室の母親(内藤忠興室)は小山田信茂の孫娘なのですよね。不思議な縁です。
武田信玄の肖像画(太った姿のもの)は、上杉家臣になった武田氏が高野山からの返却を受け取らなかったため、その後は所在や肖像画の名前が曖昧になってたな。
あれだけの大大名なのに大変な道でしたね。
豊臣秀吉の家臣で、江戸時代も、大藩として、生き延び、支藩は、忠臣蔵で、有名になった「浅野家」も、子孫は様々なエピソードがあるとの事。取り上げていただけたら、幸いです。
最後の広島藩主は昭和まで生きて最後の大名と言われた。
武田家に限らず、どの名門の家柄も直系の血筋で残った家はないだろうね。必ず養子を挟むしかない。
そうですねなかなか直系は居ないかもですでも、武田家宗家と違い伊達氏、毛利氏、島津氏などは一族から養子を迎えていて男系で鎌倉時代から続いたりしてるので男系で考えれば、いくつかの名門は続いてるのを見ると凄いなとは思いますね南部氏のように皇族からの養子を迎えた家系もありますから、なかなか同じ血族だけで男系を保つのは至難の業でしょうね
武田勝頼が織田信長に滅ぼされたとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は土屋山城守高久に伴われて上州羽沢村(現、群馬県甘楽郡南牧村)に落ち延びている。武田信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする南牧村の羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査されたが正統と断定されるまでには至らなかった。
武田信玄の4男の子孫という医師から名刺を貰った事あります勝頼の子供?って長く疑問に思ってましたが嫡男は落ち延びたんですねモヤモヤが晴れました👍
信勝は天目山で勝頼と共に亡くなったんじゃないのか?
我家先祖は 血族一門衆で、御蔵番(勘定方奉行)をつとめていましたが、勝頼公時分に 軍資金の多くを盗まれ、責任をとって自害しました。その後、家族は水戸藩につかえ明治を迎えています。
武田 義信 が好きです。❤
そういえば甲斐源氏で上総守護になった武田氏がいたな。国人領主くらいの規模では存続してたはず。
いや〜!滅ぶに滅んだり!な武田家ですなぁ…現御当主の邦信さんが武田家と関係ない事にいささかショックを受けました。それにつけても水戸徳川家は武田に養子を送り込んだり喜連川氏に養子を送り込んだりと御三家なのに宗家ではなく他家に養子送り込みまくってるのが可笑しいな❕😆しかも名門名跡キラーというね。
水戸(とその連枝)はそれだけ男子に恵まれてたということでしょうね養子が必要な状況でも一門で事足りてたみたいだし
信吉は水戸に行く前に松戸の小金3万石の城主になってますが、地元としてはのせてほしかったです。
佐倉城主にもなっています。
高家没落で有名なのが今川家だな。明治に一応爵位をもらったが生活が困窮していて最後の当主もひっそりとなくなったんだよなぁ。
忠吉が甲府に封じられて武田の旧家臣団を取り込んでますよね。甲府藩の家臣として真田も旧家臣団を支えている。
御宿氏は、おいらの先祖をうらぎってるからなあ。でも、ご先祖は、主家である今川家を裏切ってるから人のことはいえない
今回も興味深い動画を有難うございました🙇上杉景勝に嫁いだ勝頼の妹の菊姫には子供は居なかったのでしょうか?景勝には忠勝という跡継ぎが居たと聞いてますが、この人物は菊姫の子供ではないのでしょうか?...確かに男系というか、直系ではありませんが、小田原の北条氏直は信玄の孫だと聞いてますから、河内狭山藩北条氏は武田信玄の血を受け継いでいる家と言う事になりますかね。
上杉景勝の子、上杉定勝は側室の子で菊姫の血は引いていません。北条氏直はたしかに武田信玄の娘、黄梅院の子ですから進言の血を引いていますが、氏直の跡を叔父の北条氏規の子が継いだため、ここにも信玄の血は残っていませんね。もしかしたらどこかのタイミングで入っていることはあるかも知れませんが…
まともな?清和源氏の血統で、現在も明確に存続している(男系)家系は現在の秋田県知事の佐竹氏の系統など少数になってるっぽい感じかな?しかし、厳密に武田信玄の血統がほぼ絶えてるってのはちょっと残念(一族に拡大すればそこそこいるみたいですが……)そういう意味で、まさに信長は歴史の破壊者と言えるのかも?(今風で言えば左翼寄り?皇室は尊重しているけど)
佐竹氏は、上杉家から養子が入りさらに養子による養子でもはやり源氏の子孫ですらない。
家系が続いても血統が続いているとは限らないんですよね。途中養子相続するなどで家名を残すのは大変なんですね
友人の学校の先輩で武田信玄さんっていたなあ、お父さんが信玄公のファンで命名されたとか、
親の趣味趣向で名前決められるとか子供の立場からすればたまったもんじゃないね…😅
信玄って出家後の名前だし笑
せめて晴信にしてやれよと思う話。諱だし。
油川武田氏もある
武田先生ですよね?名古屋の原子力の博士かなんかの。そんな人だったんですね。武田耕雲斎はペンネームかと思ってましたが、まあぎりぎり嘘ではないクラスですね。正当はしょうがないですよね。上杉もそうだし。島津と伊達と毛利くらいですかね?直系が続いてるのって
謙信公とさっさと同盟を組んで京にのぼればよかったモノを。
最終的には上杉家に完敗
全く武田信玄の血脈を継いでいない人が、武田旧恩外会長だとは?
八幡太郎義家と新羅三郎義光それぞれの子孫が武田と佐竹でしたっけ?名門中の名門で、受け継いてきた伝統を絶やしたくないという意志が働いた家康のために働いた武田旧臣もそうだけれどももっと上にいる人の意志もあったんだろうなあ僕らが生きている俗世間で子供に絶対に受け継いで欲しい伝統って馴染みが薄いです。なぜ戦国時代あれほど荒れ果てたのだろうかそうした時代で身に染みた教訓こそが伝統なのでは?
佐竹も武田も新羅三郎義光の家系です
佐竹が甲斐源氏、つまり武田の本流と言う説もありましね。武田の姓自体が茨城の地名ですし。
@@kzbangkok7596 義光の嫡男だったはずの義業が、義光の兄である加茂次郎義綱の養子になったらしいので三男の義清が後冷泉天皇から下賜された御旗と楯無鎧を相続(長男を養子に出し次男ではなく三男に継がせたのは謎)させたのでそれで武田が清和源氏新羅三郎義光流の本流というややこしい扱いなんですよね
武田家は勝頼の御世に駿河へ攻める際、上野村上条の富士大石寺を焼き討ちし、わざわざ遺戒置言たる書物を焼き払ったその報いによって、再興の機会があったにも関わらずその度に滅亡の憂き目に遭ったと聞き及ぶ。
生まれは北海道ですが大学時代信玄大好き過ぎて何度も山梨県と長野県に遊びに行きました。信玄が後3年長生きか、後継者を確実に選定出来ていたらどんな感じになっていたかなーってたまに思います。
あい
武田の赤備えにあやかって徳川の赤備え衆が自分の綺麗な赤い鎧を自慢していたが
家康がそれを見て呆れ、元武田家に仕えていた者のボロボロの赤備えの鎧を見て、「あれこそが真の赤備えだ」って言ったエピソードが好き。
家康は本当の赤備の武田騎馬隊の恐ろしさを見に染みてわかっていたのでしょうね甲斐源氏の恐ろしさを!
@@tomoyaokano1081 馬印は、倒されるは、コテンパンだからね。
龍造寺氏の末裔のかたですか?
高家になるまで本当に波乱万丈な道辿っていたんですね、
🇯🇵🇯🇵🇯🇵いいですね
武田信廉の子は富山県の高岡に逃げてその屋敷跡が文化財として残ってる
仕事でたまたま通らなかったら気がつかなかっただろうな
前田家
武田信正の正室の母親(内藤忠興室)は小山田信茂の孫娘なのですよね。不思議な縁です。
武田信玄の肖像画(太った姿のもの)は、上杉家臣になった武田氏が高野山からの返却を受け取らなかったため、その後は所在や肖像画の名前が曖昧になってたな。
あれだけの大大名なのに大変な道でしたね。
豊臣秀吉の家臣で、江戸時代も、大藩として、生き延び、支藩は、忠臣蔵で、有名になった「浅野家」も、子孫は様々なエピソードがあるとの事。取り上げていただけたら、幸いです。
最後の広島藩主は昭和まで生きて最後の大名と言われた。
武田家に限らず、どの名門の家柄も直系の血筋で残った家はないだろうね。必ず養子を挟むしかない。
そうですね
なかなか直系は居ないかもです
でも、武田家宗家と違い伊達氏、毛利氏、島津氏などは一族から養子を迎えていて男系で鎌倉時代から続いたりしてるので
男系で考えれば、いくつかの名門は続いてるのを見ると凄いなとは思いますね
南部氏のように皇族からの養子を迎えた家系もありますから、なかなか同じ血族だけで男系を保つのは至難の業でしょうね
武田勝頼が織田信長に滅ぼされたとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は土屋山城守高久に伴われて上州羽沢村(現、群馬県甘楽郡南牧村)に落ち延びている。武田信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする南牧村の羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。
なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査されたが正統と断定されるまでには至らなかった。
武田信玄の4男の子孫という医師から名刺を貰った事あります
勝頼の子供?って長く疑問に思ってましたが
嫡男は落ち延びたんですね
モヤモヤが晴れました👍
信勝は天目山で勝頼と共に亡くなったんじゃないのか?
我家先祖は 血族一門衆で、御蔵番(勘定方奉行)をつとめていましたが、勝頼公時分に 軍資金の多くを盗まれ、責任をとって自害しました。
その後、家族は水戸藩につかえ明治を迎えています。
武田 義信 が好きです。❤
そういえば甲斐源氏で上総守護になった武田氏がいたな。
国人領主くらいの規模では存続してたはず。
いや〜!滅ぶに滅んだり!な武田家ですなぁ…現御当主の邦信さんが武田家と関係ない事にいささかショックを受けました。
それにつけても水戸徳川家は武田に養子を送り込んだり喜連川氏に養子を送り込んだりと御三家なのに宗家ではなく他家に養子送り込みまくってるのが可笑しいな❕😆しかも名門名跡キラーというね。
水戸(とその連枝)はそれだけ男子に恵まれてたということでしょうね
養子が必要な状況でも一門で事足りてたみたいだし
信吉は水戸に行く前に松戸の小金3万石の城主になってますが、地元としてはのせてほしかったです。
佐倉城主にもなっています。
高家没落で有名なのが今川家だな。
明治に一応爵位をもらったが生活が困窮していて最後の当主もひっそりとなくなったんだよなぁ。
忠吉が甲府に封じられて武田の旧家臣団を取り込んでますよね。甲府藩の家臣として真田も旧家臣団を支えている。
御宿氏は、おいらの先祖をうらぎってるからなあ。でも、ご先祖は、主家である今川家を裏切ってるから人のことはいえない
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...確かに男系というか、直系ではありませんが、小田原の北条氏直は信玄の孫だと聞いてますから、河内狭山藩北条氏は武田信玄の血を受け継いでいる家と言う事になりますかね。
上杉景勝の子、上杉定勝は側室の子で菊姫の血は引いていません。
北条氏直はたしかに武田信玄の娘、黄梅院の子ですから進言の血を引いていますが、氏直の跡を叔父の北条氏規の子が継いだため、ここにも信玄の血は残っていませんね。
もしかしたらどこかのタイミングで入っていることはあるかも知れませんが…
まともな?清和源氏の血統で、現在も明確に存続している(男系)家系は現在の秋田県知事の佐竹氏の系統など少数になってるっぽい感じかな?
しかし、厳密に武田信玄の血統がほぼ絶えてるってのはちょっと残念(一族に拡大すればそこそこいるみたいですが……)
そういう意味で、まさに信長は歴史の破壊者と言えるのかも?(今風で言えば左翼寄り?皇室は尊重しているけど)
佐竹氏は、上杉家から養子が入りさらに養子による養子でもはやり源氏の子孫ですらない。
家系が続いても血統が続いているとは限らないんですよね。途中養子相続するなどで
家名を残すのは大変なんですね
友人の学校の先輩で武田信玄さんっていたなあ、お父さんが信玄公のファンで命名されたとか、
親の趣味趣向で名前決められるとか子供の立場からすればたまったもんじゃないね…😅
信玄って出家後の名前だし笑
せめて晴信にしてやれよと思う話。
諱だし。
油川武田氏もある
武田先生ですよね?名古屋の原子力の博士かなんかの。そんな人だったんですね。武田耕雲斎はペンネームかと思ってましたが、まあぎりぎり嘘ではないクラスですね。正当はしょうがないですよね。上杉もそうだし。島津と伊達と毛利くらいですかね?直系が続いてるのって
謙信公とさっさと同盟を組んで京にのぼればよかったモノを。
最終的には上杉家に完敗
全く武田信玄の血脈を継いでいない人が、武田旧恩外会長だとは?
八幡太郎義家と新羅三郎義光それぞれの子孫が武田と佐竹でしたっけ?
名門中の名門で、受け継いてきた伝統を絶やしたくないという意志が働いた
家康のために働いた武田旧臣もそうだけれどももっと上にいる人の意志もあったんだろうなあ
僕らが生きている俗世間で子供に絶対に受け継いで欲しい伝統って馴染みが薄いです。
なぜ戦国時代あれほど荒れ果てたのだろうか
そうした時代で身に染みた教訓こそが伝統なのでは?
佐竹も武田も新羅三郎義光の家系です
佐竹が甲斐源氏、つまり武田の本流と言う説もありましね。武田の姓自体が茨城の地名ですし。
@@kzbangkok7596 義光の嫡男だったはずの義業が、義光の兄である加茂次郎義綱の養子になったらしいので
三男の義清が後冷泉天皇から下賜された御旗と楯無鎧を相続(長男を養子に出し次男ではなく三男に継がせたのは謎)させたので
それで武田が清和源氏新羅三郎義光流の本流というややこしい扱いなんですよね
武田家は勝頼の御世に駿河へ攻める際、上野村上条の富士大石寺を焼き討ちし、わざわざ遺戒置言たる書物を焼き払ったその報いによって、再興の機会があったにも関わらずその度に滅亡の憂き目に遭ったと聞き及ぶ。