平家最大の誤算 平清盛が源頼朝を殺さなかった理由とは?【鎌倉殿の13人】

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  • čas přidán 14. 01. 2022
  • 平清盛は平治の乱に敗れ捕らえられていた源頼朝を殺さずに、命を助けて流刑としました。
    それから20年後、33歳になった頼朝は以仁王の令旨に従い平家打倒のため挙兵、平家はかつて命を助けた頼朝によって滅亡させられてしまうこととなります。
    清盛も決して油断していたわけではなく、当時の常識としては頼朝の命を助けることは至って普通の判断だったのです。
    清盛も想定外だった頼朝の快進撃。なぜ清盛は頼朝を生かしてしまったのかについて解説しています。
    #大河ドラマ #鎌倉殿の13人 解説動画です。
    〜鎌倉時代をもっと深く知りたい方におすすめの本9選〜
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Komentáře • 98

  • @Sugiura_Kenji
    @Sugiura_Kenji Před 2 lety +27

    通説では、池禅尼が… で済まされていますが、この説明を聞いて、納得しました。ありがとうございました。

  • @user-ki8dh4og2u
    @user-ki8dh4og2u Před 2 lety +30

    助けたライバルの子供から、仇討ちを受けたと言う現実・・・。
    これ以後日本では・・敵の大将の血筋は「全て根絶やし」が主流となりました。

  • @bibik3274
    @bibik3274 Před 2 lety +3

    とても勉強になりました。

  • @takeozz6347
    @takeozz6347 Před 2 lety +4

    なるほど全て繋がるな。家康の非情さ。よく分かりましたありがとう御座います。

  • @torapeziumintheorion
    @torapeziumintheorion Před 2 lety +32

    信長は浅井氏を滅ぼした時にお市の娘三人は助けたが、男子は殺している。
    戦国期としては常識になっていたんでしょう。

    • @kinnginnrimeiku
      @kinnginnrimeiku Před 2 lety +4

      織田信行(弟)の子供は助けていますよ

    • @73moto
      @73moto Před 2 lety +1

      @@kinnginnrimeiku 信長は身内や家臣に甘かったが義弟の浅井長政の裏切りが堪えた様で浅井攻め以降は裏切りに対しては徹底的な報復をした。

  • @user-bz3gl2ed4k
    @user-bz3gl2ed4k Před 2 lety +1

    深掘り
    ありがとう ございます

  • @pontarou01
    @pontarou01 Před 2 lety +9

    新鮮でした。
    私の母方の祖先は、以仁王の随臣でした。

  • @tyama1224
    @tyama1224 Před 2 lety +55

    徳川も関ヶ原の戦いで西軍であった島津を潰さず外様として残したばかりに270年後に島津の力で滅亡したとも言える。徳川も島津を潰せなかった事情があったとか。

    • @user-jf9tf6pe1n
      @user-jf9tf6pe1n Před 2 lety +20

      徳川にとって島津は『屈服させるには高くつく相手』だったということ。
      まぁ、世界の合戦史にも例の無い『敵真正面への退却』を敢行するクレイジーとまともにやり合おうなんて誰も思わんわな。

    • @user-pf6ry8dt8d
      @user-pf6ry8dt8d Před 2 lety +12

      あと、長州も。

    • @user-iw4gi7og6d
      @user-iw4gi7og6d Před 2 lety +14

      後世の我々からは江戸幕府は磐石な政権だったと評価できても家康本人は豊臣家を滅ぼしても徳川家に恨みを持つ元西軍の大名たちの反乱や伊達政宗等が幕府を乗っ取ることを恐れたまま亡くなったと思います。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Před 2 lety +17

      島津まで潰すとなると家康は立場的に無理しなきゃならないからねぇ

    • @73moto
      @73moto Před 2 lety +5

      島津の本拠地が九州最南端だったのも幸いだったと思うし関ケ原の西軍で戦後に領土を減らされたり移転されたが、島津は外交手腕と元から遠方だったので、西軍参戦の大名では唯一、領土安堵を勝ち取った。

  • @73moto
    @73moto Před 2 lety +6

    史実では頼朝の同母弟で希義が流された四国に頼朝が送られて希義が伊豆に流されて居たら歴史は変わったと思う。

  • @user-zd5ki9dn5t
    @user-zd5ki9dn5t Před 2 lety +3

    まあシンプルに第一嫡流を生存させる事で二番手三番手の傍流による源氏嫡流名乗りを封じたが妥当でしょうね。二番手三番手が勝手に立った場合には征討軍の大将に頼朝(勿論御飾り)を据える手まで考えてあった事でしょう。

  • @Lippe-uy7vz
    @Lippe-uy7vz Před 7 měsíci

    池禅尼 この人がいなかったらと考えると
    頼朝は感謝でいっぱいだったんだろうな

  • @user-ly4qu4yu2v
    @user-ly4qu4yu2v Před 2 lety +10

    いろんな徳川家康のドラマを見ると本当は秀頼を生かしたかったみたいに表現するのが多々ありますがフィクションなんですね?

    • @hanahusa3545
      @hanahusa3545 Před 2 lety +9

      なんせ秀忠の娘婿ですからねぇ。豊臣は摂家であり、関白になれる家柄の公家です。家康から右大臣を引き継いだとも言われてるし、ある時期までは徳川と近い親戚扱いだったとは思う

  • @user-eq8tv1fz9v
    @user-eq8tv1fz9v Před 2 lety +2

    4:18 ~ 5:18 この 1分間の部分が 一番重要やね。

  • @user-jz3zq8qz6g
    @user-jz3zq8qz6g Před 2 lety +8

    清盛が母親の常盤御前を欲しかったからと聞いてたけど…
    子供達の命を助ける条件で 。

  • @lees4020
    @lees4020 Před 2 lety +7

    御三家の創設の経緯も知れて勉強になりました‼︎

  • @user-pg1oi1nb2q
    @user-pg1oi1nb2q Před 2 lety +5

    人に未来は見えない
    この憂いを残してこそが歴史だろうて
    アレキサンダー大王然り、チンギス・ハーン然り
    覇王であれ帝王であれ結末は変わらないのだよ

  • @user-tf3tj2xx9z
    @user-tf3tj2xx9z Před 2 lety +3

    頼朝の母親の実家の熱田大宮司家への配慮もあったのでは?中世の寺社の影響力はかなりのもんですよ。

  • @user-kn6om8zd9k
    @user-kn6om8zd9k Před 2 lety +13

    平清盛はなぜ源頼朝を殺さなかった理由が良く分かりました。昨日1/16の【鎌倉殿の13人】の番組の中ではきちんと説明していなかったことが残念でした。なお、NHKも高額な受信料を取っているので、番組最後の解説でも説明すべきだと思います。

    • @user-vo9bw7pm7b
      @user-vo9bw7pm7b Před 2 lety +1

      これはあくまでも個人的な解説で、真実かどうかは不明、こんな内容をNHKで放映は無理です。更に源氏を敵対視しないと言うが保元の乱では、清盛は源氏方、同族の平氏方も成敗しています(禍根を残さないのは古代の天皇家の争いでも死に追いやっています、頼朝が初めてではありません)清盛が頼朝を殺さなかったのは、甘かった、情に負けただけ、流罪なら俊寛の様に、九州の喜界が島でもするべきだったと思います。

    • @user-kn6om8zd9k
      @user-kn6om8zd9k Před 2 lety

      @@user-vo9bw7pm7b さん、確かに動画に引用文献がないので、真偽は不明ですね。

    • @user-ki8dh4og2u
      @user-ki8dh4og2u Před 2 lety +5

      NHKの大河ドラマは、あくまでドラマ・・つまり史実に沿いながらも、大部分が「創作」な訳。
      イチイチ、それについての説明は不要です。
      このドラマを見て、源平時代に興味が湧いたら・・あたぁ、ご自分で調べなさいな。

  • @user-by5fi9dy3n
    @user-by5fi9dy3n Před 2 lety +13

    当時の武家は貴族から別れた氏族の意識がまだ強く、高い教養を持っていた。
    様々な中国の故事を知っていたので根絶やしにするメリットデメリットも生かして恩を売るメリットデメリットも当然認識していた。
    時代による流行りとしか言いようがない。
    理由は後付けに過ぎない部分もある。

  • @tw1957
    @tw1957 Před 2 lety +1

    鎌倉から江戸時代まで、、、
    結構繋がるもんですね…笑

  • @user-zl4eq2be1k
    @user-zl4eq2be1k Před 2 lety +1

    清盛は平治の乱後。
    1160ー1181 
    20年あったんですね。
    ドラマではこの辺り、カットですか?
    私の思い込みかも知れませんが、ドラマでは清盛は
    平治の乱前は着ている衣装も、そのあたりの○○。
    乱の直後から大貴族。
    実際は乱の後ーーー。
    どうやって、誰に味方して、誰と争って出世していったのですか?
    その時々の官位は?
    藤原氏は?
    後白河法皇の権力闘争に巻き込まれ?
    出世?
    平家も源氏も藤原氏もそれに巻き込まれ?
    最後、誰に味方して誰と争って追討された?のですか。
    ドラマでは清盛が主人公。
    後白河法皇を主人公にして、
    その視点から見つめ直すとどうなるのか?
    まあーーー私の単なる思い込みです。

  • @rainbow-iz9ws
    @rainbow-iz9ws Před 2 lety +1

    なぜ生かしたのかでもないですよね・・・。なにせ坂東は義朝のシンパで埋まってる状況でしたし、平治の乱で戦ったのは源氏の在京勢力(摂津源氏は頼政が平家方についた以外は沈黙してましたし)だけだったですもん・・・。元々平家に対して源氏は圧倒的な武力があったから、政治力で歓心を買おうとしたのかもしれないですね。それもある程度は上手くいってたのが頼朝挙兵の直前だったわけで

  • @nakag-eo9cw
    @nakag-eo9cw Před 2 lety +1

    もし家康が吾妻鏡や鎌倉幕府のその後をよく検討していなければ、また徳川もすぐ瓦解したかもしれない。その点、信長、秀吉は頼朝の事績をよく知らなかったのだろうか。

  • @kinnginnrimeiku
    @kinnginnrimeiku Před 2 lety +7

    ❌殺さなかった
    ⭕️殺せなかった

  • @ame-kirai-kamo
    @ame-kirai-kamo Před 2 lety +2

    貴族だから殺せなかった説が一番かなぁ…

  • @nekochankawaiine
    @nekochankawaiine Před 2 lety +2

    伊豆大島ならまだしも熱海なんて河内源氏ゆかりの鎌倉に近すぎるわ。東国なんて将門や忠常の件もあるしフラグ立ててるようなもんじゃん。隠れ義家ファンもいそうだし。

  • @wa33785
    @wa33785 Před 2 lety

    頼朝が討たれていたら歴史上僅かに記録に残っている人物が教科書に載ったかも。同母弟義門と希義がいる。更には異母弟範頼がいる。更には義経同母兄阿野全成と源義圓も。畿内西国は平氏が強く多田行綱や源頼政は台頭しにくい、矢張り木曾義仲かも。個人的には源爲朝か源義平が生き残って活躍というのが面白い。あと義朝末弟新宮行家もいたか。

  • @user-dg9ul1wg1m
    @user-dg9ul1wg1m Před 2 lety

    05:45 源氏と平家では?

  • @user-hk6cc5fp1n
    @user-hk6cc5fp1n Před 2 lety +3

    まあ、殺さなかった本人にしかわかりえんことだなぁ

  • @user-zl4eq2be1k
    @user-zl4eq2be1k Před 2 lety

    国史大系 第9巻 公卿補任(国会図書館)を見ると。
    平治の乱が終わっても
    清盛の名がーーー。
    参議になったのが
    平治2年ということらしい?です。

  • @user-ux6ol6vh3e
    @user-ux6ol6vh3e Před 2 lety +11

    何故流刑地が伊豆だったのでしょうか。関東に近い伊豆よりも西国に送っていれば歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。

    • @rekishock
      @rekishock  Před 2 lety +17

      伊豆に流刑になった正確な理由は分かりませんが、東北には奥州藤原氏がいるなど、平家の目の届く範囲でしか流刑地を決められなかったこと、また土佐には頼朝の兄弟の源希義が流されていることから、東西で分散させる必要があったこと、伊豆大島には源為朝が流されており、不用意に近づけられなかったことから、残る候補地の中で比較的罪の重い伊豆が選ばれたのではないかと考えています。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 2 lety +2

      伊豆には北条が居るからじゃない?
      北条は平家の一族で監視の目が届くからでは?

  • @esp934
    @esp934 Před 2 lety +4

    結果論だが伊豆に流刑ではなく、あえて自分の手元に幽閉しておくべきだったと思う。
    それでも清盛死後に木曾義仲が挙兵するから平家が京都から逃げ出すのは確定。
    問題は義経がどう動くのか?奥州藤原氏が後見人で挙兵するのか、義仲に合流?

    • @jardins-du-cosmos
      @jardins-du-cosmos Před 2 lety +1

      手元では無いが、出家させた義経も流れ流れて軍を率いて前線で平家を追い詰めた事を思えば、なるようになった歴史かなぁと
      一休さんだって謀叛の種にならなかっただけで生き残る事で旗印と担がれれば何かが起こっていたかも知れない。
      歴史にもしもが無いからこそ楽しめますね。

    • @Lippe-uy7vz
      @Lippe-uy7vz Před 7 měsíci

      東国は内紛起きずに鎮静化されて終わるのかなぁ
      源氏、坂東武士たち結束力なくバラバラになって終わりそうな気がする

  • @user-ub8jh8bp3s
    @user-ub8jh8bp3s Před 2 lety +9

    甘い、幼少期の頼朝の殺したと来ても、信濃の木曽に源義仲、甲斐に武田信義、下野に足利義兼がいたから、この3人の誰かが河内源氏の大将として、平家に対抗していた。

    • @user-ef1ds9fw5y
      @user-ef1ds9fw5y Před 2 lety +5

      私もそう思います

    • @rekishock
      @rekishock  Před 2 lety +6

      確かに各地に有力な源氏勢力がおり、平家への対抗勢力となることは考えられますが、頼朝のように、武士の世、鎌倉幕府を作るというビジョンを武士に示し、武士を束ねることができる大政治家であったかといわれると、せいぜい地方で平家に対抗できる一勢力にとどまっていたのではないかなと思います。

    • @user-ub8jh8bp3s
      @user-ub8jh8bp3s Před 2 lety +3

      @@rekishock
      木曽の義仲は、
      かなり勢力拡大していたと思いますよ。
      叔父の源行家や志田義広も、おそらく義仲軍で。

  • @user-zl4eq2be1k
    @user-zl4eq2be1k Před 2 lety +1

    平治の乱が終わった時点で清盛にそんなに力があったのですか?
    よくドラマ等では平治の乱後、頼朝をどうするかで清盛は主導的立場になっていますが。
    実際、どの程度の立ち位置だったのでしょうか?
    平治の乱直前の立ち位置は?
    ドラマを見ると乱の前と後とでは
    清盛の着ている衣装がーーー。
    そのあたりの○○風のものが
    急に貴族のように。
    私の思い込みでしょうか?
    乱後の戦後処理は朝廷のどの部署で行われたのでしょうか?
    その時のメンバーは?
    それにドラマでは平治の乱は清盛勢と義朝勢の一騎討ちのように描かれていますが、実際はどうだったのでしょうか?
    まさか清盛、義朝共に、その他大勢の中の一人ということはないでしょうが。
    藤原氏にしても昔から同族同士、親類縁者同士で争っているのでしょうし。
    連座制はーーー。
    それを適用すると。
    そしてーーー乱の後は助命合戦。
    ということですか?
    保元の乱の時の義朝は親兄弟の助命嘆願が通らずーーーと言う事ですか。
    やはり有力貴族でなければ通らないのでしょうか?
    まさか勝った方のトップがエンピツ舐め舐め。
    味方した者たちの意見を聞きつつ。
    藤原氏にしても、他の氏にしても、敵味方に別れたにしろ親類縁者同士。
    どういう理由で敵方に。
    連座制はーーーどうなりますか?
    とられたのもあるのですか?
    その辺りもお願いします。

  • @user-rz1sc1nb1v
    @user-rz1sc1nb1v Před 2 lety +1

    のちに秀吉も家康も根絶やしにしている

  • @user-ji5uc2ee5o
    @user-ji5uc2ee5o Před 2 lety +1

    始めまして、お疲れ様です、こんにちは、私は、小学校以来歴史が好きですね。で、今回は参考になりましたね。又、哲学者では無いですが、これからも謎を勉強をしようと思いますね。でわこの辺で、失礼致します。令和四年1月(21日、筆記。😞🤔😚🥳🍉😞🏵️☘️🌸🌈🧀🌺🧙🎉🍀🚴🌼💐🛹🤹😻💓👯🥰👼😚🍍💓👨‍👨‍👧🍍🥳🍉✌️🙋❗

  • @user-dohdemo.e
    @user-dohdemo.e Před 2 lety

    頼朝こそ日本史上最大の逆転劇を起こした人間だとよくわかった。秀吉は信長に仕えたから道が開けたけど、実力で上がれる環境には居たと言えるが、頼朝は単なる罪人からの復活なので振り幅は頼朝の方が上だと思う。

  • @user-bz3gl2ed4k
    @user-bz3gl2ed4k Před 2 lety

    今日 の 敵 は
    明日 の 友

  • @zenmeio5589
    @zenmeio5589 Před 2 lety +1

    よく分かりました ありがとうございました😊

  • @abarthcheetah9912
    @abarthcheetah9912 Před 2 lety +1

    保元は”ほげん”と読む。

  • @hiro-xh7mp
    @hiro-xh7mp Před 2 lety +1

    伊豆は凄く居心地が良かったんじゃないかしら。?🍃歴史は繰り返す…。”盛者必衰の理をあらわす"ですね笑。でも、徳川家康は良く勉強してますね。"奢れるものは久しがらず”早く平氏の世を終わらせたいですね…。➰👊🏻

  • @user-bz3gl2ed4k
    @user-bz3gl2ed4k Před 2 lety

    人 動植物 を 傷つけると
    因果 応報 自分 に 返って くる
    やられた 方 は 覚えてる

  • @takashishimizu7450
    @takashishimizu7450 Před 2 lety +3

    頼朝が、従五位下右兵衛権佐という位階と官職についていたから、当時の刑法では最高刑が流刑だったんじゃないか?貴族は死刑にできなかったというのが真相

    • @rekishock
      @rekishock  Před 2 lety +5

      首謀者の藤原信頼は正三位、中納言であるにも関わらず斬首されているため、必ずしも貴族だからといって死刑にできなかったわけではないと考えています。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 2 lety

    池殿の方面からの助命って話を最近見ましたね
    そもそも清盛自体に権限ないし…ね

  • @netdm21
    @netdm21 Před 2 lety

    でも家康も清盛と同じ失敗を犯す。
    生き残った島津家と毛利家に徳川幕府が倒されるのだから。

  • @user-ok5id4ng9b
    @user-ok5id4ng9b Před 2 lety +1

    私に言わせれば平家はやりっぱなし❕源氏は見苦しい❕の一言です。歴史が物語っていますね。

  • @kurita1201
    @kurita1201 Před 2 lety +3

    頼朝を生かしたのが
    清盛の最大のしくじりですね。

  • @user-gp8el6tw2t
    @user-gp8el6tw2t Před 2 lety +1

    元々、両者は遠い親戚、権力争いだから、武家としての争、本家、朝廷に裁量は任すだろう。

  • @cheeko-sensei
    @cheeko-sensei Před 2 lety

    チャンネル名おっさん臭すぎだけど面白い内容でした!

  • @user-tp9hn4mp5h
    @user-tp9hn4mp5h Před 2 lety +3

    一族同士のエゴ丸出しの時代!

  • @user-bz3gl2ed4k
    @user-bz3gl2ed4k Před 2 lety

    ふじわらー が どこ デモ
    出てくる
    源氏 平氏 同じ 天皇
    の 出 ナノ に なぜか
    争う

  • @user-jn9wi4fu4c
    @user-jn9wi4fu4c Před 2 lety +1

    頼朝スキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェスキェェ

  • @user-bz3gl2ed4k
    @user-bz3gl2ed4k Před 2 lety

    お家 騒動⁉️

  • @lixsed1691
    @lixsed1691 Před 2 lety +10

    頼朝は、流刑先で親しくなった伊藤祐親の娘八重姫との間で男子をなした。驚愕した祐親は、清盛の怒りを恐れ幼い男子を殺害した。
    悲観した八重姫は、頼朝のもとに奔ったが、そこには政子が妻としていた。世をはかなんだ八重姫は自害したとも言われている。ひょっとして、政子が殺したのかもね。
    頼朝は、反平家で挙兵し、関東の平家側武士団を次々に滅ぼした。更に、同じ源氏一門の関東有力武士たちも屠った。上洛して源氏の木曽義仲を滅ぼし、平家一門をジェノサイド。更には平家の血が入る幼少の安徳天皇まで殺した。
    頼朝は天皇まで殺した史上希に見る悪党である。
    魔王といわれるあの信長でもそこまでしていないよね。
    更には、弟の義経と生まれたばかりの赤子を殺し、弟の範頼も殺した。
    源氏と平家の一門一族をことごとく殺し尽くした。ついでに、挙兵時の功臣たちも邪魔奴は次々に殺し始める。最後は自分も殺されたのかも。
    頼朝は、戦争はからっきしだったが、策謀と暗殺は大得意。どっかの国の独裁者ににているよね。
    そして、その妻北条政子と北条氏一門は、なんとか生き残った頼朝の子供と孫を全て殺した。政子自身が産んだ息子と血を分けた孫ですよね。
    政子も頼朝に勝るとも劣らない鬼畜ですよね。
    頼朝と政子は、まさに鬼畜夫婦ですね。日本史上でもこれほどの鬼畜はいないと思います。
    日本人の恥です。

    • @kinnginnrimeiku
      @kinnginnrimeiku Před 2 lety +8

      源氏本家は3代で絶え北条氏も最終的に滅びました
      因果応報でしょう

    • @user-pg1oi1nb2q
      @user-pg1oi1nb2q Před 2 lety +1

      逆に鬼畜ではない為政者がいるかね?
      キリスト教会にしろアメリカ大統領にしろ腹黒い一面はあるよ
      栄えあるものの暗黒あってこそ歴史ではないかね

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Před 2 lety

      安徳帝を弑い奉ったのは義経の独断専行っぽいんだよなぁ…という説もあるよとだけ