【毛利元就解説】第十二話・吉田郡山城の戦い後編【豪族達と往く毛利元就の軌跡】
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- čas přidán 2. 06. 2023
- #毛利元就 #ゆっくり解説 #東方project
第十一話: • 【毛利元就解説】第十一話・吉田郡山城の戦い前...
第十三話: • 【毛利元就解説】第十三話・大合戦のあとしまつ...
※動画では尼子久幸を尼子経久の弟としましたが、実際には経久の弟・源次郎の子(経久の甥)である可能性があります(佐々木寅介氏所蔵・尼子氏系図)
初めましての人は初めまして、しかかくと申します。
今回は毛利元就の戦いとして有名な吉田郡山城の戦い、その戦いの経緯について解説します。この戦いは実際には大内vs尼子であることを知っていただけたら幸いです。
・参考文献
「毛利元就卿伝」「新裁軍記」「萩藩閥閲録」
「中世川本・石見小笠原氏関連史料集」
大内家歴史文化研究会編「大内氏の世界をさぐる」
毛利博物館『毛利 元就』
河合正治 『安芸毛利一族』
河村昭一 『安芸武田氏』
藤井崇 『大内義隆ー類葉武徳の家を称し、大名の器に載る』
岸田裕之 『毛利元就ー武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』
光成準治 『小早川隆景・秀秋ー消え候わんとて、光増すと申す』
長谷川博史『大内氏の興亡と西日本社会』
佐伯徳哉 『出雲の中世 地域と国家のはざま』
原慶三 「尼子氏の石見国進出をめぐって」
秋本哲治 「尼子晴久と安芸郡山合戦」(風土記の丘教室2月例会)
・使用楽曲
針の音楽: / @harimusic896
『音降る神霊廟』『やまとごはん』『音降る幻想郷』より
(アレンジ:白鷺ゆっきー 様)
唯道是真 「音降る神霊廟」より
不咲蕾未咲蕾 「音降る神霊廟」より
夜の腐踏会 「音降る神霊廟」より
再臨の儀 「音降る神霊廟」より
素敵な墓場でおどりましょ 「音降る神霊廟」より
大和に散らばる不思議な森 「やまとごはん」より
・使用サムネイル
『豪族達の神楽祭』(絵:友部キヌコ 様)
/ kinuk
・使用立ち絵
豊聡耳神子・物部布都・蘇我屠自古
(原作:東方project、 絵:真田源次郎ベル助 様)
/ berusuke_sanada
・地図:国土地理院
・他イラスト:イラストAC
・効果音:効果音ラボ
NicoNico; www.nicovideo.jp/mylist/69621...
Twitter; / squaredeerhorn
むしろこの詰みゲー状態になったところから、最盛期を作った尼子晴久はもっと評価されてほしいよ
大内の守護代3人派遣は籠城方も心強かったでしょうね
戦国時代は国衆のオセロゲームみたいですね。一気に盤面がひっくり返る。武田今川の滅亡時もこんな感じですし。
そういうのが信長の野望とかのゲームと違うところですよねー
ご本人からの質問にもちゃんと答えてるw
吉田郡山城の戦いは、ただの境目の小紛争ではなく、中央の細川晴元も注目するような重要な戦だったんですね
細川晴元視点だと、尼子家って幕府に味方すると言いつつ自分の敵対勢力の蜂起をけしかけまくっている西のヤバい奴ですからね。
晴元と義隆はそれほど仲は良くないですが、この時は反尼子で協力体制をとっていたようです。
やっと一か月経った❣️と通知のたびに思ってしまうな。ただし続けて下さる事に感謝も凄くあります。
アメリカで有意義な時間を過ごしていただきたいと応援してます。
大変だろうな、しかかくさん言葉は問題ないのかな?自分は国内だと普通に話せるけど海外だと閾値を超えて出てこなくなるときがありますね、まあ何にせよお元気であるように願ってます。
グーグルマップと睨めっこしながら見てると当時だと獣道に毛が生えた程度の道しかなさそうなとこに万単位の進軍・補給とか本当にできてたのか不思議に思っちゃうんだけどなぁ
近代戦以前なので、兵站の概念が違う気がする。動員した兵力数は尼子方で15000~20000程度(2:56)。欧州の戦史では、近代戦以前は、進出予定地に「倉庫」を設け、倉庫から3~4日の行程範囲で軍隊行動を行ったらしい。その概念をここで適用する。尼子方の倉庫として使われたはずの吉川氏の小倉山城~吉田郡山城まで、Google先生曰く徒歩で33㎞(6時間52分)。兵糧運搬の荷車の速度を1㎞/hとしても33時間で着く。1日あたり8㎞移動したと仮定しても、約4日で到着。落城した城から現地徴発もあっただろうし…
かなり大雑把な推測ですが、何とかなった気がする。
小競り合いで負け続けたのが決戦にも響いてそうですねぇ。城方に動き回られる展開じゃ辛い。
19:33
神「天罰は来る時に来るのじゃ。驕るものは久しからず。だか元就、まだ待つのじゃ。この後に絶体絶命のピンチが来るぞ。」
元就「神も厳しいのう、試練を課すとかは。」
14:36の播磨国英賀は英賀とかいて”あが”と読みます。かなりの難読ですよね。JFYI
なるほどなぁ・・、陶家の戦い方は戦略的な重要ポイントに大軍を一気に移動させ相手を追い込んで決戦を強いる、というやり方か。この戦い方を目の前で見て後に元就は利用したのか
こころん可愛い
この戦いとそっくりなのが第2次長州征伐。郡山合戦で尼子陣営が負けたのと同じような形で幕府軍も同じ毛利相手に負けている。歴史は繰り返すものだ。
やっぱり攻める側が後詰め決戦狙うのは厳しいですね…
かと言って抑えの軍を残して平賀武田救援に向かうのも兵力分散になりますし…
大軍だったとはいえ、尼子にとっても最初から厳しい戦だったのかもですね
そもそも同盟を組まずに従属した者たちだけだと、負けた時に逃げ出されるのは必定。同盟破棄どころか、あちこちにケンカを売った報いが来たとしか言いようがない。
元就は逆に可能な限り仲間を募ったからこそ強くなった。
14:37 播磨国英賀ははりまのくにあがですぞ
14:31 英賀(あが)だったはずです
申し訳ありません、発声タイプを間違っていました。仰る通り「あが」ですね。
厳島の戦いが有名だけどこの戦いも西日本のトップクラスの戦い
6月3日かぁ
武田家についてでも思うんだけど
国衆を傘下におさめて勢力圏を広げること自体は直接的な利益を産まない。なので当初の地盤に経済的な価値が低い尼子氏や武田家は
余程賢く戦略を立てて目的を明確にしないと大きな愚者の船が出来るだけになる。このタイミングではまだ銀山もそこまでの規模ではなかったようだし尼子軍の戦略目的が見えにくいな
先の当主経久の国人への扱いからして、武田や平賀興貞をいかなる形においても救わないと、たとえ陶隆房らを撃破しても吉田郡山城を落としても銀山城が落ちたら富田以外に勢力を失う羽目になりますから。
知るか😆