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上杉謙信のファンです。私利私欲の為ではない。民の為に戦う。だったかなぁ~。カッコいい。
7:23 謙信紹介の動画なので仕方無いのでしょうが、村上義清は武田信玄からあっさり逃げたのではなく、 2度信玄を完全に破った後、進退窮まって謙信に助けを請うた点にも一言触れて頂きたかったです。 1548年、武田宿老・板垣信方、甘利虎泰らを討ち取った上田原の戦いと、 1550年、武田武辺者・横田高松らを討ち取った砥石崩れです。
謙信はかなり変わった武将で、自ら騎乗して自軍の部隊の間を駆け巡り、直接、適格な指示を各部隊にしていた。しかも自ら軍勢の先頭にたち戦うことも平気でやった。これでは嫌でも部下たちの士気はあがる。この戦法は、野戦では驚異的な力を発揮するが、城攻めや数万の大軍勢を率いた戦いでは不利になる。 彼は大酒飲みだったが、戦の前は御堂にこもり祈祷と断酒をし戦場にのぞんだが、ひとたび戦場にでると再び酒を飲みだしたという。最前線で自分を狙い鉄砲玉が飛んでくる中、悠々と酒杯を重ねたという有名な話がある。
悠々とお酒→小田原城の戦いにて衆人環視どころか北条方の資料に出てきますね。まさに毘沙門天の化身
上杉謙信は動員兵力が沢山有っても、自分直接指揮出来る4,000人ぐらいの兵力を好み戦場に配置しても使う兵力はやっぱり4,000〜6,000人ぐらい、無線の無い時代の直接指揮はこの人数が限界値で、上杉謙信は戦場を直接見て地形把握と的勢力を自分の眼で確認して戦うのを良しとする人間。
甲斐の虎武田晴信、越後の龍上杉景虎
50前に亡くなるのは辛いなぁ…猛将って何でこう、長生きしないのか残念💧ずる賢い家康が長生きとか納得いかんなぁ💧
厨房で初陣で攻城軍から城を守る任務ってキッツいな。
勝率が謙信ほど高くない信長の領土拡大と比べると効率が悪い。利で動くタイプだったら、かなり領土を拡大できたと思う。
戦国最強が信玄なら日本歴代最強の男上杉謙信。城攻めは苦手だけど(笑)
この第4次川中島の戦いは、両軍とも霧を利用して退却か移動していたところ、偶然かち合って普通ならにらみ合いとか小競り合いで終わるものが大乱戦になった?という説あり。どうもこれが真相臭いかな。
謙信・信玄の両雄は、もし長生きしていればっていうロマンをいつも駆り立てるのです😂
第4次川中島の戦いは、謙信が越後に引き上げた所、たまたま出くわした(霧のため)らしい、この当時の戦は総力戦はしない事が多い、その常識を破ったのは織田信長で、信長との戦で負けた場合、一国が消滅する場合がある・・浅井、朝倉等
江戸時代に作られた義のイメージで、多くの人が惑わされてる武将
7:43 長く戦うのは嫌だな〜第5回 川中島の戦い ←長っ!!
こんな憂鬱な人生、送りたくないな。悩ましすぎる。
第4回川中島のたたかいわたけだしんげんの死者が多く上杉謙信がかたんちゃう
戦の後の支配者は、信玄だけどね!まぁ何を以て勝利とするの??
死者数では少ない上杉の勝ち🏹だが川中島確保は武田。
アレクサンドロス大王、大スキピオ、スヴォーロフ元帥・・・勝率100%、無敗
最初のとこで越後の虎じゃなくて越後の龍じゃないですか。虎は信玄です。
越後の龍であり虎でありますね。景虎という名前であり、旗印はみだれ龍で‥との事でどちらも正解でありますね。名前が虎なので、他国では虎の方が印象強いかもしれませんね
@@buuuuuuyan 幼名から虎千代ですもんね。
林泉寺に預けられたんですね
上杉謙信の話に必ず付いてくる信濃の山猿にはウンザリw。
武田信玄は戦略の天才上杉謙信は戦術の天才戦略を戦術でカバーするのって基本的に無理!
甲斐は22万石
@@rokuemu114 甲斐だけだよね?なんで信州が入って無いの?
@@user-it8hq5pv3v甲斐国スタートだから。
私もそう思う。だったら戦略の天才は戦術の天才と戦ってはダメ。謙信と事を構えたのは信玄の大きな戦略ミス。むしろ、単純な謙信を政治的に利用、篭絡するのが上策だと思う。信玄は海への出口がほしかったのだろうが、むしろ武田軍団のパワーを南の今川、北条、三河、房総に向けるべきだったと思う。
越後の龍じゃないの?
武田信玄は上杉謙信を相手にたった2倍の兵力で引き分けたのだから凄いです!
いやむしろ逆、謙信が直接率いる越後の兵は7千が限界。何故なら直接、謙信が命令を各兵士に下すから。武田との戦いでも、常に謙信は寡兵で戦っていた。というか謙信は数万の大軍勢を率いて戦うことが苦手で下手だった。
第四次川中島合戦、上杉謙信は睨み合いも限界と見て妻女山から12段に別れて濃霧の中退却を開始した。殿に、2千を配して進軍した。すると濃霧の中で武田勢先鋒と出会した。武田勢は排除しても排除しても上杉勢の後続部隊が続々と到着してくる。これが上杉家車懸りの真相ではないでしょうか。後に武田家ではあれは濃霧の中の遭遇戦だったと伝えています。
「車懸かり」の戦法は後世のつくり話で、あれは謙信の独特の戦い方が武田方から、そう見えただけだと思う。謙信は戦場では常に騎乗して味方の隊列の間や、先陣をも走り回り戦況を常に把握、的確な指示を軍団に与え続けた。だから彼の軍団は常に流動的に無駄なく動き回る。野戦でそんな敵に出くわしたらこんな恐ろしいことはない。しかし武田軍団は、その脅威的な攻撃をよくしのいだ。他の武将だったら謙信に討ち取られていただろう。本気の武田軍団はやはり当時日本最強だったと思う。
私の勝手な考えですが、上杉謙信が10年長生きしたら、本能寺の変がなくても、織田信長は上杉謙信に滅ぼされたのではないでしょうか?手取川の合戦で織田信長本隊でなくても大勝利していましたし、何よりも、信長自身が謙信を恐れていましたので。
恐らく織田は謙信公の家臣になっていたでしょう…👍😾
49歳は若すぎるな〜さすがに国力差で無理だけど油断すれば信長も討ち死だな。
同盟国次第ではあるけど全然有り得ますよね!
信長は謙信が亡くなるのを10年待っていたと思います。上杉謙信が攻め混んできてら土下座して帰って貰う究極の戦法を取ったはずです。
@@wt7112謙信が織田に攻め込んだ時は怒り心頭だから甘か無いよ❤
越後の虎は初耳
輝虎、景虎だからね。
地元の英雄ですが、謎が多い人物でもありますね今気になることは、何故北条家と手切れしたときに三郎をそのまま手元に置いたのか。ですね。村上義清さんも強かったんですよ、強かったんですけど・・・・跡継ぎは道満丸で、陣代(後見役)を巡る争いが御館の乱だったようです。だからこそ、重臣たちも養子である景虎を支持し、上杉家が二分された。初期で優勢だったのは景虎でした。本能寺の変がなければ、上杉家は武田家と同じだったでしょうね。長文失礼しました。
越後の虎じゃなくて越後の龍だよ😅
どっちでも良いんだよ名前に虎が使われてたときそう言われてたこともあったそうなので
謙信の行軍は補給を同伴しない強行軍で略奪軍だったから敵の偵察が役に立たず車係の陣とはそういう突撃のような戦い方にあるのだろう😊決して人々を助けるヒーローという事はないよ、もう一つ上の段階で日本の秩序である将軍家を支えるという意味で義の人と言いたいけど、武田家は甲斐源氏で守護の座にあり統治する立場だし、今川家も、北条家も正当な勅命を受けての進行、長尾家は下剋上した家老の家だから何かよく分からんし、その通りなんか良くわからん事ばっかりしてたよくわからん人
厳しいことを言いますが、上杉謙信好きとして、一つ──よく分からないのは、上杉謙信への先入観から「この人はこういう人だ」と認識しているからではないでしょうか。
何勝しようが領地を奪えなければ意味ない。
開始直後の越後の虎にめっちゃ違和感・・・・・・。
まあ勝てる相手とだけ戦っていれば勝率は上がるよ。見様によれば謙信の周りは、凡人ばかりだったのだろう。ただ有能な武将は智将派、あるいはかなりのスタッフを持ち活用しているようだ。謙信はかなり頭が回り、何でもありの乱戦、混戦には強かったようだね。
戦国最強の信玄、関東の覇者の北条、さらに信長とも戦っているから「勝てる相手とだけ・・」とは真逆だと思う。ただ城攻めは苦手で、あちこちで失敗している。野戦には滅法強かった。なぜなら、常に騎乗して各部隊を駆け巡り直接指揮し、時には軍の先頭に立って戦うことも平気でやるちょっと変な武将だった。
よく調べられてますね。ただ戦国当時の戦法としては、通信手段がありませんので自分の足で回りマメに指示する 、特に野戦なら大正解とは思います。まあ相当頭の回転は速かったのでしょうな。
@@crowold3025 周りが勝てる相手だけの凡人ではないかと思うけど、こういう上杉謙信最強論が勃発すると、「家康を三方ヶ原合戦で打ちのめした最強の信玄」→「その信玄と互角以上に渡り合った軍神の謙信」→「その謙信の侵攻を防ぎ続けた関東の覇者・氏康」→「その氏康と渡り合った信玄」…(エンドレス)と、この3人だけで“最強”ぶりを決め合い、「最強」「軍神」「覇者」など勝手に武将のブランドを持ち上げようとしているように感じる。一方、信長に関しては「ヘタレ」「戦下手」という評価をつける人が一定数いるが、信長は時期によって異なるものの、浅井や朝倉、毛利、上杉、武田、本願寺など多数の大名家に包囲網を敷かれながらも天下統一まで近づいているから、ぶっちゃけ信長が最強じゃね?と思ってしまう。
上杉謙信のファンです。私利私欲の為ではない。民の為に戦う。だったかなぁ~。カッコいい。
7:23 謙信紹介の動画なので仕方無いのでしょうが、村上義清は武田信玄からあっさり逃げたのではなく、
2度信玄を完全に破った後、進退窮まって謙信に助けを請うた点にも一言触れて頂きたかったです。
1548年、武田宿老・板垣信方、甘利虎泰らを討ち取った上田原の戦いと、
1550年、武田武辺者・横田高松らを討ち取った砥石崩れです。
謙信はかなり変わった武将で、自ら騎乗して自軍の部隊の間を駆け巡り、直接、適格な指示を各部隊にしていた。しかも自ら軍勢の先頭にたち戦うことも平気でやった。これでは嫌でも部下たちの士気はあがる。この戦法は、野戦では驚異的な力を発揮するが、城攻めや数万の大軍勢を率いた戦いでは不利になる。 彼は大酒飲みだったが、戦の前は御堂にこもり祈祷と断酒をし戦場にのぞんだが、ひとたび戦場にでると再び酒を飲みだしたという。最前線で自分を狙い鉄砲玉が飛んでくる中、悠々と酒杯を重ねたという有名な話がある。
悠々とお酒
→小田原城の戦いにて衆人環視どころか北条方の資料に出てきますね。
まさに毘沙門天の化身
上杉謙信は動員兵力が沢山有っても、自分直接指揮出来る4,000人ぐらいの兵力を好み戦場に配置しても使う兵力はやっぱり4,000〜6,000人ぐらい、無線の無い時代の直接指揮はこの人数が限界値で、上杉謙信は戦場を直接見て地形把握と的勢力を自分の眼で確認して戦うのを良しとする人間。
甲斐の虎武田晴信、越後の龍上杉景虎
50前に亡くなるのは辛いなぁ…猛将って何でこう、長生きしないのか残念💧ずる賢い家康が長生きとか納得いかんなぁ💧
厨房で初陣で攻城軍から城を守る任務ってキッツいな。
勝率が謙信ほど高くない信長の領土拡大と比べると効率が悪い。
利で動くタイプだったら、かなり領土を拡大できたと思う。
戦国最強が信玄なら日本歴代最強の男上杉謙信。城攻めは苦手だけど(笑)
この第4次川中島の戦いは、両軍とも霧を利用して退却か移動していたところ、偶然かち合って普通ならにらみ合いとか小競り合いで終わるものが大乱戦になった?という説あり。どうもこれが真相臭いかな。
謙信・信玄の両雄は、もし長生きしていればっていうロマンをいつも駆り立てるのです😂
第4次川中島の戦いは、謙信が越後に引き上げた所、たまたま出くわした(霧のため)らしい、この当時の戦は総力戦はしない事が多い、その常識を破ったのは織田信長で、信長との戦で負けた場合、一国が消滅する場合がある・・浅井、朝倉等
江戸時代に作られた義のイメージで、多くの人が惑わされてる武将
7:43 長く戦うのは嫌だな
〜第5回 川中島の戦い ←長っ!!
こんな憂鬱な人生、送りたくないな。悩ましすぎる。
第4回川中島のたたかいわたけだしんげんの死者が多く上杉謙信がかたんちゃう
戦の後の支配者は、信玄だけどね!まぁ何を以て勝利とするの??
死者数では少ない上杉の勝ち🏹だが川中島確保は武田。
アレクサンドロス大王、大スキピオ、スヴォーロフ元帥・・・勝率100%、無敗
最初のとこで越後の虎じゃなくて越後の龍じゃないですか。
虎は信玄です。
越後の龍であり虎でありますね。景虎という名前であり、旗印はみだれ龍で‥との事でどちらも正解でありますね。
名前が虎なので、他国では虎の方が印象強いかもしれませんね
@@buuuuuuyan 幼名から虎千代ですもんね。
林泉寺に預けられたんですね
上杉謙信の話に必ず付いてくる信濃の山猿にはウンザリw。
武田信玄は戦略の天才
上杉謙信は戦術の天才
戦略を戦術でカバーするのって基本的に無理!
甲斐は22万石
@@rokuemu114
甲斐だけだよね?なんで信州が入って無いの?
@@user-it8hq5pv3v甲斐国スタートだから。
私もそう思う。だったら戦略の天才は戦術の天才と戦ってはダメ。謙信と事を構えたのは信玄の大きな戦略ミス。むしろ、単純な謙信を政治的に利用、篭絡するのが上策だと思う。信玄は海への出口がほしかったのだろうが、むしろ武田軍団のパワーを南の今川、北条、三河、房総に向けるべきだったと思う。
越後の龍じゃないの?
武田信玄は上杉謙信を相手にたった2倍の兵力で引き分けたのだから凄いです!
いやむしろ逆、謙信が直接率いる越後の兵は7千が限界。何故なら直接、謙信が命令を各兵士に下すから。武田との戦いでも、常に謙信は寡兵で戦っていた。というか謙信は数万の大軍勢を率いて戦うことが苦手で下手だった。
第四次川中島合戦、上杉謙信は睨み合いも限界と見て妻女山から12段に別れて濃霧の中退却を開始した。
殿に、2千を配して進軍した。すると濃霧の中で武田勢先鋒と出会した。
武田勢は排除しても排除しても上杉勢の後続部隊が続々と到着してくる。
これが上杉家車懸りの真相ではないでしょうか。後に武田家ではあれは濃霧の中の遭遇戦だったと伝えています。
「車懸かり」の戦法は後世のつくり話で、あれは謙信の独特の戦い方が武田方から、そう見えただけだと思う。謙信は戦場では常に騎乗して味方の隊列の間や、先陣をも走り回り戦況を常に把握、的確な指示を軍団に与え続けた。だから彼の軍団は常に流動的に無駄なく動き回る。野戦でそんな敵に出くわしたらこんな恐ろしいことはない。しかし武田軍団は、その脅威的な攻撃をよくしのいだ。他の武将だったら謙信に討ち取られていただろう。本気の武田軍団はやはり当時日本最強だったと思う。
私の勝手な考えですが、上杉謙信が10年長生きしたら、本能寺の変がなくても、織田信長は上杉謙信に滅ぼされたのではないでしょうか?手取川の合戦で織田信長本隊でなくても大勝利していましたし、何よりも、信長自身が謙信を恐れていましたので。
恐らく織田は謙信公の家臣になっていたでしょう…👍😾
49歳は若すぎるな〜さすがに国力差で無理だけど油断すれば信長も討ち死だな。
同盟国次第ではあるけど全然有り得ますよね!
信長は謙信が亡くなるのを10年待っていたと思います。
上杉謙信が攻め混んできてら土下座して帰って貰う究極の戦法を取ったはずです。
@@wt7112
謙信が織田に攻め込んだ時は怒り心頭だから甘か無いよ❤
越後の虎は初耳
輝虎、景虎だからね。
地元の英雄ですが、謎が多い人物でもありますね
今気になることは、何故北条家と手切れしたときに三郎をそのまま手元に置いたのか。ですね。
村上義清さんも強かったんですよ、強かったんですけど・・・・
跡継ぎは道満丸で、陣代(後見役)を巡る争いが御館の乱だったようです。だからこそ、重臣たちも養子である景虎を支持し、上杉家が二分された。初期で優勢だったのは景虎でした。
本能寺の変がなければ、上杉家は武田家と同じだったでしょうね。
長文失礼しました。
越後の虎じゃなくて越後の龍だよ😅
どっちでも良いんだよ
名前に虎が使われてたときそう言われてたこともあったそうなので
謙信の行軍は補給を同伴しない強行軍で略奪軍だったから敵の偵察が役に立たず車係の陣とはそういう突撃のような戦い方にあるのだろう😊決して人々を助けるヒーローという事はないよ、もう一つ上の段階で日本の秩序である将軍家を支えるという意味で義の人と言いたいけど、武田家は甲斐源氏で守護の座にあり統治する立場だし、今川家も、北条家も正当な勅命を受けての進行、長尾家は下剋上した家老の家だから何かよく分からんし、その通りなんか良くわからん事ばっかりしてたよくわからん人
厳しいことを言いますが、上杉謙信好きとして、一つ──よく分からないのは、上杉謙信への先入観から「この人はこういう人だ」と認識しているからではないでしょうか。
何勝しようが領地を奪えなければ意味ない。
開始直後の越後の虎にめっちゃ違和感・・・・・・。
まあ勝てる相手とだけ戦っていれば勝率は上がるよ。見様によれば謙信の周りは、凡人ばかりだったのだろう。ただ有能な武将は智将派、あるいはかなりのスタッフを持ち活用しているようだ。謙信はかなり頭が回り、何でもありの乱戦、混戦には強かったようだね。
戦国最強の信玄、関東の覇者の北条、さらに信長とも戦っているから「勝てる相手とだけ・・」とは真逆だと思う。ただ城攻めは苦手で、あちこちで失敗している。野戦には滅法強かった。なぜなら、常に騎乗して各部隊を駆け巡り直接指揮し、時には軍の先頭に立って戦うことも平気でやるちょっと変な武将だった。
よく調べられてますね。ただ戦国当時の戦法としては、通信手段がありませんので自分の足で回りマメに指示する 、特に野戦なら大正解とは思います。まあ相当頭の回転は速かったのでしょうな。
@@crowold3025
周りが勝てる相手だけの凡人ではないかと思うけど、こういう上杉謙信最強論が勃発すると、「家康を三方ヶ原合戦で打ちのめした最強の信玄」→「その信玄と互角以上に渡り合った軍神の謙信」→「その謙信の侵攻を防ぎ続けた関東の覇者・氏康」→「その氏康と渡り合った信玄」…(エンドレス)と、この3人だけで“最強”ぶりを決め合い、「最強」「軍神」「覇者」など勝手に武将のブランドを持ち上げようとしているように感じる。一方、信長に関しては「ヘタレ」「戦下手」という評価をつける人が一定数いるが、信長は時期によって異なるものの、浅井や朝倉、毛利、上杉、武田、本願寺など多数の大名家に包囲網を敷かれながらも天下統一まで近づいているから、ぶっちゃけ信長が最強じゃね?と思ってしまう。