徳川秀忠の生涯 関ヶ原遅参の劣等感から暴走するも次第に名君へ成長する【どうする家康】

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  • čas přidán 14. 10. 2023
  • 参考文献
    山本博文『徳川秀忠 人物叢書』
    amzn.to/3FeRzLo
    黒田基樹『徳川家康と今川氏真』
    amzn.to/46u7jpS
    大西泰正『前田利家・利長 (中世から近世へ)』
    amzn.to/46QttlW
    -----------------------------------
    関ヶ原の戦いで遅参した徳川秀忠(森崎ウィン)は遅参を気にし続けており、大坂の陣では汚名返上のために力攻めを主張するなど、生涯に渡って劣等感を抱くこととなりました。
    秀忠は福島正則や本多正純などをさしたる罪もなしに改易にするなど、劣等感を埋めるかの如き苛烈な処置を次々と行いましたが、結果的に諸大名を恐れさせ幕府の権威の上昇に繋げます。
    やがて、秀忠より年長の大名は次々といなくなり、秀忠は自信を持って政治を行い、江戸幕府の基礎を固めた名君として後世讃えられることとなりました。
    今回は、失敗を糧に成長し、200年以上に渡る平和の礎を築いた理想の二代目 徳川秀忠の生涯について紹介します。
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    【画像引用】
    大河ドラマどうする家康公式サイト
    www.nhk.or.jp/ieyasu/
    #どうする家康 #日本史 #歴史

Komentáře • 40

  • @WearstFaker
    @WearstFaker Před 8 měsíci +19

    関ヶ原の戦いはこんなものだろう。ってのが自分の感想だなぁ。
    二十歳そこそこで初陣で真田家と色々戦って学べたのがでかい。行軍も思い通りに行かないことを知っただろう。
    まぁそれを含めて佐渡守の戦略だろうな。
    家康だって、三方ヶ原では危うかったし、この苦しさが成長につながった。
    むしろ苦渋を嘗めない人間が破滅している。

    • @user-gm1td9ff9z
      @user-gm1td9ff9z Před 8 měsíci

      特に、その代表的なのが福島正則

  • @user-mp7xp7nb4y
    @user-mp7xp7nb4y Před 8 měsíci +23

    遅れたのがダメだったんじゃなく
    遅れると分かってたのに
    強行軍を強いて兵馬を疲弊させ
    脱落者を続出させた事が
    家康の怒りを買った

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 8 měsíci +5

      最近の研究だと遅参は家康の命令だったらしいよね
      西軍が関ヶ原を突破して中山道を東進した場合に備えて
      敢えて秀忠をゆっくり進軍させていたんだとか

    • @user-he7yk4oj2v
      @user-he7yk4oj2v Před 8 měsíci +9

      大河でも遅参で叱られる秀忠というのは、いい加減変えてほしい。

    • @user-mp7xp7nb4y
      @user-mp7xp7nb4y Před 8 měsíci +3

      @@user-co4uy9zu1s
      山岡荘八原作の
      滝田栄版の徳川家康では
      そっちの説を採用してたな

  • @vianeplus
    @vianeplus Před 8 měsíci +11

    豊臣恩顧同士の戦いにした関ケ原で家康が負けた場合の保険として
    敢えて遅参させたとみていたんですが、街道沿いの恭順も行軍に含まれてたんですね。

  • @osakakawachi
    @osakakawachi Před 8 měsíci +7

    「秀忠」という諱は豊臣秀吉に与えられた諱。だから豊臣滅亡後はそんな諱はさっさと捨てて「家○」という感じの諱に変える可能性も充分高かったはずなんです。
    しかし秀忠は死ぬまで「秀忠」の諱を使い続けた。だから秀忠は豊臣秀吉に対してそんなに悪い感情は持ってなく、むしろ慕ってたとも考えられるんです。
    その辺りに秀忠の人間的な部分が感じ取れる気がします。だからこそ秀忠が長い平和な時代を作れたのでは無いかと・・・

  • @user-gm1td9ff9z
    @user-gm1td9ff9z Před 8 měsíci +12

    秀忠は数少ない優秀な二代目

  • @user-zu6tc9mb7s
    @user-zu6tc9mb7s Před 8 měsíci +8

    政治家としては優秀な方だったのではと思います。

  • @user-xk7io9wv1z
    @user-xk7io9wv1z Před 8 měsíci +17

    江戸幕府と徳川家が長く続いたのは秀忠のおかげだと思う。

    • @user-gm1td9ff9z
      @user-gm1td9ff9z Před 8 měsíci +3

      俺もそう思う

    • @diavoli_neri
      @diavoli_neri Před 8 měsíci

      武功がモノをいう世で、影が薄いながらも内政・領国統治に秀でた武将に惹かれてしまいますw

  • @user-tu3wu3wx3n
    @user-tu3wu3wx3n Před 8 měsíci +4

    2代目将軍は徳川秀忠は優秀だと思うが、周りが偉大か癖の有る人物が多過ぎる。関ヶ原の戦いで遅刻して家康から叱責され、引退しても大御所として幕府の実権を握る家康、嫁は織田家の娘で勝気で嫉妬深い姉さん女房、次男忠長は何かと問題を起こす、次期将軍の選定もしなければならない。弟の御三家の義直、頼宣は次期将軍を狙う(映画の見過ぎかな⁉︎)娘は朝廷の嫁に差し出さなければならない。一歩間違えれば戦にもなる、大名の改易、国替もしなければならない。
    特に嫁さんは織田家の娘で姉さん女房だから頭が上がらない、幕府政務多すぎて、安らぎを求め女中のお静に求めたと思う。

  • @kojimaxmen
    @kojimaxmen Před 8 měsíci +19

    頼朝の事を考えると秀頼は助けるわけにはいかなかったよなぁ

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y Před 8 měsíci +1

      頼朝の場合は平家のスポンサーだった後白河法皇のお姉さんの統子内親王に仕えてた身で身柄も彼女持ち、熱田神宮の宮司の血筋(お母さん)という社会的基盤を持ってたから助命された(する以外清盛に選択肢はない)けど秀頼はそういうの無いですしねぇ…

  • @user-nv9qk4jh7n
    @user-nv9qk4jh7n Před 8 měsíci +8

    いわゆる武家政権による実質的日本の支配者の中で
    京都朝廷公家衆に対して
    最も巧みに駆け引きの政治力能力値が高かったのが
    この人だろうかと思われ。
    紫衣事件、後水尾天皇から明正天皇への俄の譲位事件での
    経緯やら事態収拾の手際からしても
    政治力センスは抜群。

  • @giantnioinoba2023
    @giantnioinoba2023 Před 8 měsíci +4

    レキショックさん、10万人突破&銀の盾獲得おめでとうございます🎊🎉🎇
    葵徳川三代を見てると、秀忠の心情がわかる気がしますね。CSチャンネル銀河で再放送中ですが、西田敏行さんの秀忠は最終回以外の全てに出演しています。

  • @rekishock
    @rekishock  Před 8 měsíci +20

    秀忠の大名への厳しい処置は後世評価されていますが、当時の状況を見れば秀忠が周りの意見を聞かず突っ走っただけと評価せざるを得ません。
    かと言っても秀忠が厳しくいったからこその江戸幕府の安定ともいえるので評価が難しいですね。
    家康の方針を遵守し発展させただけで充分すぎで、全体で見ればまさに理想の二代目と呼べますが。

    • @user-gb3lk1wm5l
      @user-gb3lk1wm5l Před 8 měsíci +3

      …に、してもなんだか危なっかしい人物だな😮

    • @user-wb8ij9kv6z
      @user-wb8ij9kv6z Před 8 měsíci +9

      まぁ劣等感を埋めるために厳しい処置をしたかは正直わからんよなw
      身内に厳しいのは良いし、歴戦の大名でも厳しくするのは良いことだよ。それは豊臣家への処置と同じ。
      あなたは特別な大名家だから。甘くしてあげようってわけにはいかない。
      将軍は、今でいう憲法と法律を握っているわけだからそれが狂ってたら誰も信用しなくなる。

    • @hamham3601
      @hamham3601 Před 8 měsíci +7

      最終的に3代目に引き継いだのだから
      トータル的に見て悪くはなかったのでは?

    • @user-qo1mc5ty6t
      @user-qo1mc5ty6t Před 8 měsíci +5

      ​@@user-wb8ij9kv6z
      秀忠に好意的に見れば、当時の状況だけ見れば厳しすぎるけど、結果的には政権の安定に繋がったというのは、ものすごく大局観を持っていたということのかも…?
      ある種、政治的に勘の鋭い人だったのかなぁ。

    • @user-tj1he2dl7d
      @user-tj1he2dl7d Před 2 měsíci

      信長も秀吉も一代で終わっちゃってるからな。
      ターニングポイントの二代目を無事に満了出来たという結果が大き過ぎる。

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Před 8 měsíci +5

    天海大僧正が家康以上に評価してたのが秀忠だった

  • @user-yv3ut1fg3n
    @user-yv3ut1fg3n Před 8 měsíci +5

    賛否両論ある人でしょう

    • @user-gm1td9ff9z
      @user-gm1td9ff9z Před 8 měsíci

      でも、幕府を盤石にしたのもたしか

  • @-msc
    @-msc Před 8 měsíci +4

    家康も見るに見かねて立花宗茂を夏の陣では参謀長に付けてるんだよな。
    共に関ケ原にいなかった者同士なのか宗茂の忠告には素直に従うんだよな。
    大野治房軍が前衛の前田軍を突破して秀忠本陣に迫った際、槍を持てってイキる秀忠に
    「狂い武者に構うと怪我します。後退しましょ」って言うと秀忠は素直に従い、慌てふためく
    土井利勝などが「危ないです。もっと下がりましょう」って進言に秀忠がうなずこうとしたら
    「狂い武者の力ももう尽きます。むしろ後退すると勢いづきます。ここで留まりましょう」って
    言うと素直に従う。このおかげで家康本陣崩壊で逃走、しかし大樹(秀忠)様の本陣は健在なり
    ってことで秀忠の軍事的評価が回復したってエピソードがあるな。

    • @theshowmustgoon5760
      @theshowmustgoon5760 Před 8 měsíci +2

      宗茂は徳川家に召し抱えられた際、秀忠付きになったのが、大きいと思います。
      兄貴分として馬が合ったのだと思います。
      ある小説で、大坂夏の陣の陣立てを見た家康が、これを考えたのはお主(秀忠)ではあるまい、さしずめ宗茂であろうという件がありました。

  • @theshowmustgoon5760
    @theshowmustgoon5760 Před 8 měsíci +1

    レキショック様
    他の方のコメントにもある通り、賛否両論ある人物ですね。
    秀忠といえば、葵徳川三代で西田敏行さんが好演していました。
    関ヶ原の遅参が終生傷として残り、それが舐められないようにとの力みに繋がり、その力みの犠牲者が福島正則や本多正純でしょう。一方で立花宗茂を旧領に復帰させるなんてこともしています。
    秀忠は余程宗茂がお気に入りだったようですね。
    しかし宗茂は関ヶ原では西軍につき、三成や行長のような斬首、真田父子のような流罪になってもおかしくないのに、浪人になるだけで済んだのはやはり能力の高さと人徳があったからでしょうか。

  • @jardins-du-cosmos
    @jardins-du-cosmos Před 7 měsíci

    水は方円の器に従う
    と言う感じか?
    家臣団が成熟した状態だったのかな

  • @cancan5892
    @cancan5892 Před 8 měsíci +5

    この人、かつては暗君の2代目とされていたのが、近年再評価で優秀な人物だったと言われてますよね。でも、正直判断が難しいとも感じます。偉大な父家康のプレッシャーで、何をやっても良くて当然、失敗すれば跡継ぎらしくないと断罪されてしまう辛い立場です。関ヶ原の戦いでの遅参は、天候不良と家康との連絡の不手際、経験不足と理由は多く、初陣では無理もないのかもしれませんが、家康の跡継ぎとなると余計にその失態を責められたのでしょう。家康が戦の長期化を織り込んで、別働隊として秀忠軍を配していたのかが、気になります。大坂の陣では、今度こそ!汚名返上をとはりきったのでしょうが、自分の娘の夫(義理の息子)の助命を聞き届けなかったのは、政局的見地からかどうか気にかかります。家康死後の福島正則の減封、最上氏、本多正純の改易など度重なる大名の勢力阻止との関わりがちらついてしまい、どこか恩義や家臣との繋がりに薄い人物と思ってしまいます。

  • @user-xm6kb4pz2p
    @user-xm6kb4pz2p Před 8 měsíci +1

    こんにちは。

  • @user-tj1he2dl7d
    @user-tj1he2dl7d Před 2 měsíci

    せがれが外様になるとこだったなw

  • @user-kx1ck8ur2t
    @user-kx1ck8ur2t Před 8 měsíci +1

    改易マシン秀忠

  • @ayayama2312
    @ayayama2312 Před 8 měsíci

    0:11: 👑 徳川秀たは江戸幕府の基礎を固めた名君として高成称えられることとなりました。
    4:37: 👫 豊臣秀吉の妹と結婚し、政権中枢に位置付けられた松平秀康の生涯
    9:09: 😮 真田市幸福後に精進する心づもりで切迫感もなかった様子が所場に残っています。
    13:32: 🗡 家康と秀たの対立により、関ヶ原の戦いが起こりました。
    17:56: 🏯 1923年、秀たが44歳で将軍職を譲り、政務に当たる。
    Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。

  • @kvrg8582
    @kvrg8582 Před 8 měsíci +4

    隆慶一郎作品ではまるでこの世一切の邪悪を凝縮したかのような存在にされた可哀想な人

  • @user-je1ln1is9v
    @user-je1ln1is9v Před 8 měsíci +1

    関ヶ原外堀は徳川本隊38000人の精鋭が家康の命令を待っていた。しかし家康は僅か半日で西軍に勝利、所詮、徳川家康の敵ではなかった。