会津戦争(戊辰戦争)会津城籠城戦 会津城下を襲った数々の悲劇【日本史歴史解説】

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  • čas přidán 9. 10. 2023
  • 今回は会津戊辰戦争、会津若松城籠城戦を中心に解説します。
    また、照姫、中野竹子、山本八重など、会津女性の活躍、中級士族で編成された寄合白虎隊の奮戦、会津城下を襲った数々の悲劇を解説します。
    このチャンネルではマップ上のアニメーションで時代の英雄たちの動きを分かり易く解説することを目指しています。
    これまでは、歴史書や歴史ドラマをみても、いまいち具体的な行動が把握できませんでしたが、GoogleMapや、GoogleEarthの地図上で、起こった場所を特性することで、先人たちが実際にどこでどのように行動したのかを把握できることを目的にこのチャンネルを開設しました。
    当方は歴史に関しては、まだ素人ですので、間違いなどありましたらご指摘いただければ修正を検討します。
    時間配分上、ざっくりとした解説になってしまうこともありますが、ご容赦ください。機会があれば詳細版を作りたいと思います。
    史跡情報:cocoico.link/
    地図:GoogleEarth GoogleMap
    ナレーション:VOICEVOX No7
    素材:イラストAC 写真AC いらすとや いらすと本舗
    国立国会図書館「会津戊辰戦史」 ( dl.ndl.go.jp/)(資料のサイズ変更有)
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    Corrections:
    14:17 修正:現在の日新館は当時とは違う場所で復元されたものであり、当時は城の西側にあったとのことです。
    #明治維新 #戊辰戦争 #歴史解説 #日本史 #歴史 #白虎隊::

Komentáře • 44

  • @JimuniGakira
    @JimuniGakira Před 9 měsíci +7

    もう少し 伝令が会津に早く届いていれば、無敵の庄内藩が会津に合流してたのに・・
    でも数少ない江戸初期の建立である城での近代戦争、大いに防御性を発揮したと思う。
    特に二の丸、対三の丸攻防戦 新政府軍は突破出来なかったし 損害も大きかった。
    ただ 象徴である天守閣が崩壊すると、心が折れちゃうんだろうな・・

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci +1

      自分の土地も守らないといけないし、東北は広いし、いくら兵隊がいても手が届かないですよね。会津城はもう少し長引いていたら倒壊したかもしれませんね。

  • @johnsmiths819
    @johnsmiths819 Před 9 měsíci +3

    日新館は城下西にあり再現・日新館は位置が異なります

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci +1

      ご指摘ありがとうございます。
      どおりで遠いと思ってました。
      修正します。

  • @user-ln2jn6vk6f
    @user-ln2jn6vk6f Před 9 měsíci +4

    会津は越後口守ってた部隊は他と比べると善戦していた感じですね。期間的には江戸無血開城からここまで5ヵ月程度みたいですから、1ヵ月も籠城して戦闘してたここの戦いは異常というか特別ですよね。

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci +3

      そうですね、越後口の兵士はかなり善戦してたと思いますね。
      新政府軍が南側をはやく固めてればもっと早く城が落ちたはずだけど、越後口の兵隊を入れなかったからそれができなかったようですね。

  • @masao750
    @masao750 Před 9 měsíci +6

    會津は武士が威張り散らしていたので平民の協力が得られず、狭い城内に籠城するしか無かった。
    これに対して隣の庄内藩では本間を登用して藩政改革を行い本間も農民に対して善政をしたので武士町人農民は一体だった。いざとなればこれら全体でのゲリラ戦も可能だった。
    この様な庄内藩には西郷ドンも攻撃はためらい寛大な処置をとるしか無かった。

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci +3

      会津は領民から嫌われてますね。
      年貢が高かったのもあるかもしれませんが、やはり武士と農民などの階級意識がそうさせているのでしょうね。

    • @user-px9xz6bv5k
      @user-px9xz6bv5k Před 7 měsíci +6

      会津は指揮官の人選もお国の存亡の危機なのに家柄重視。例えば、兵力約3000人白河城の戦いでは総督の西郷頼母を初め、若年寄の横山主税が副総督そして軍事奉行の海老名衛門など、指揮官は家格で決まり、案の定、実戦指揮の経験がなく、たった一日で兵力約3000人のうち700人を失う大敗北、村医者上がりの村田蔵六を軍のトップに置いた長州藩と対比すると興味深い。この緒戦の戦いではそもそも、政府軍より優位だったのに、戦力を失うばかりで、以降は苦しい戦いを強いられた。
       さらにスピードも政府軍が勝り、藩境の母成峠を僅か一日で突破され、さらに城下に通じる十六橋の通過を許してしまった。新式の装備を持つ主力はに戻ることもできず、城と分断され、白虎隊に旧式のゲベール銃を持たせ防衛を任せるしかない状況に追い詰めれられ、白虎隊の悲劇を生んだ。
       期待の佐川官兵衛(家老)も、おいおいと言いたくなる。精鋭1,000名を率いての出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した(長命寺の戦い)。
       一方、庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民(農兵2,031名、鶴岡商兵184名)が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦した。
      これは庄内藩が財政改革を豪商の本間光丘に任せたことが大きく、何から何まで家柄・門地優先の硬直した組織を持つ会津藩と異なる。また、戦闘を若き酒井玄蕃に指揮を委ねたことも大きく、鬼玄蕃もその期待に大いに応えた。

    • @yamatanooroshi
      @yamatanooroshi Před 16 dny

      会津正規兵4000、農民町人徴募兵4000人が参加してますが。

  • @user-sanae1221
    @user-sanae1221 Před 17 dny

    山本覚馬は、山本八重の兄だったと記憶していますが?

  • @sionsankan
    @sionsankan Před 7 měsíci +2

    4:57 射程3000キロメートル!?

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 7 měsíci

      ご指摘ありがとうございます😊
      全く気づきませんでした。
      訂正します!

  • @user-it6pw1mm8g
    @user-it6pw1mm8g Před měsícem +1

    射程3000kmって事は現代の準中距離弾道ミサイルくらいの射程があったんですな。北海道から台湾を攻撃出来るくらいの。。。

  • @user-kb1dc7no6n
    @user-kb1dc7no6n Před 9 měsíci +3

    動画制作お疲れ様です。😆
    会津城下で起きた女子供の暴行、自殺は民家の略奪は母成峠の奇襲を防げなかったことによりまだ戦争の準備できていない会津城下に敵がなだれ込んだことにあります。(つまり会津の悲劇の新政府側の犯人は白河口の軍である)悲劇が起きた日は8月25~27日に集中。
    越後口の軍は会津藩家老の一ノ瀬要人が指揮をしており、自らが最前線に立ち防衛戦を展開していました。一ノ瀬家老は会津藩の家老の中で唯一、戦場で命を落としました。
    越後口の軍はなかなか注目されることがなく、会津の中ですら影が薄いです。
    寄合白虎隊の死者や一ノ瀬家老の墓はさびれてしまっており、整備があまり進んでいません。
    少しでも越後口の軍の勇敢さが伝わって欲しいです。

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci

      いつもコメントありがとうございます。
      そうです。城下を包囲したのは白川口の軍ですね。宇都宮から白河口を攻めた板垣の軍が主体ですね。
      今市で、山川隊と戦った新政府軍の動きがイマイチよくわかりません(笑)もしご存じであれば教えてください。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 Před 9 měsíci

      作者様、板垣は宇都宮城の戦いの援軍として江戸から出立しましたが間に合わなかったようです。なので、宇都宮の戦いでの新政府軍には、間に合った援軍と、間に合わなかった援軍の両方がいたと理解すると、次の今市の戦いに繋がる気がします。ネット資料でも確認が出来ます。先の小山の戦いで敗北したのを受け、東山道総督府は18日に河田佐久馬(景与)率いる救援軍の鳥取藩兵と土佐藩兵計500人を宇都宮に向けて派兵、河田隊は20日に壬生城に入った。また河田隊に先立ち、18日には伊地知正治率いる救援軍の薩摩・長州・大垣藩兵計550人、20日には大山弥助(後の巌)率いる救援軍薩摩・長州藩兵を派兵、さらに3日後の23日(5月15日)には総督府参謀板垣退助自ら迅衝隊および土佐藩兵を派兵する。安塚の戦いが起きた22日午後、有馬藤太、大山弥助および野津七次(後の道貫)が率いる東山道総督府救援軍(薩摩藩兵、長州藩兵、大垣藩兵)約250人が壬生城に入り、救援軍先遣隊の河田隊と共に、翌朝の宇都宮城奪還戦(第二次宇都宮城の戦い)を決定する。23日早暁、前日の旧幕府軍勢との戦闘で全約550人の手勢の内60名近い死傷者を出し、 雨中の戦闘で疲労困憊していた河田隊を残し、有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍した。一方の旧幕府軍も前日の戦闘で極めて多くの死傷者を出しながらも、早朝から壬生道の要所要所に歩兵小隊を配し、宇都宮城下では二荒山神社に歩兵第七連隊、西の丸には伝習隊を配すなど、壬生道から攻め上がって来る新政府軍を要撃する準備を着々と整えていた。その際、旧幕府軍に呼応する会津藩兵や岩井の戦いで敗れ日光廟に向けて北上してきた歩兵隊も要撃隊に加えた。●●なので、板垣率いる迅衝隊は、第二次の宇都宮の戦いに間に合ってないようです。この当時は、同じ藩でも部隊ごとに行動が違いますね。会津藩も複数の部隊がいますね。●第二次の宇都宮の戦いが23日なので、板垣は物理的には、最初から間に合わないけど、行軍はしていますね

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 Před 9 měsíci

      作者様、甲州勝沼の戦いの後も、ネットに情報が多少あります。板垣の心理戦により、甲州の領民は、甲州勝沼の戦いで旧幕府軍に対し鮮やかに勝利した迅衝隊に驚喜した。さらにその総督・板垣退助が、板垣信方の子孫であると知れると「流石名将板垣駿河守の名に恥じぬ戦いぶりだ」と感心し「武田家旧臣の武田家遺臣が甲府に帰ってきた」と大歓迎した。さらに甲斐国内の武田家遺臣の子孫で帰農した長百姓、浪人、神主らが、板垣ら率いる官軍への協力を志願。これらの諸士を集め「断金隊」や「護国隊」が結成される。結成式は武田信玄の墓前で恭しく行われ、迅衝隊の進軍を追いかけた。このように板垣の復姓は、甲斐国民心の懐柔に絶大な効力を発揮したばかりではなく、迅衝隊が江戸に進軍する際、武田遺臣が多く召抱えられた八王子(八王子千人同心)を通過する際も同様に絶大な効力を発揮し]。新政府軍の戦略は銃器の新旧や練兵度など以前に心理戦としても巧みであったと評されている。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 Před 9 měsíci

      さくしゃさま、今市の戦いの時の新政府軍は、上野の山の彰義隊も気にしていたのと、宇都宮の守備にも兵力を置いたので、最初は分散していたようですね。しかし、今市の戦いが(旧暦)慶応4年閏4月20日から 5月6日までと長期化したことで、江戸や宇都宮の兵も、途中から、今市に急行させたようですね。特に、新政府軍は予備兵力や、土佐藩の本国から呼び寄せた兵まで間に合ったのが大きいですね。今市の戦いでは、土佐藩兵は、1番隊から15番隊まで、すべて機動力を発揮したのも大きいですね。「山地元治指揮」土佐藩の七番隊とか、土佐藩の四番隊隊長であった「谷重喜」とか、土佐藩の三番隊隊長「小笠原謙吉」とかも活躍したので、名前が残っていますね。

    • @user-px9xz6bv5k
      @user-px9xz6bv5k Před 7 měsíci

      善戦した一ノ瀬と違い、期待の佐川官兵衛(家老)にも呆れる。精鋭1,000名を率いての出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した(長命寺の戦い)。わずかに住吉河原の小競り合いで一矢を報いたが、一番大事な戦いで取り返しのつかない失態を演じてしまったね。

  • @kazukazujcc
    @kazukazujcc Před 9 měsíci +1

    合図戦争の影響で、福島県民と、特に長州の人とは仲が険悪と言われています。
    水戸浪士に藩主であり大老の井伊直弼を桜田門外で殺害された彦根市の人々は、
    水戸市と友好都市になっています。この辺が合図戦争で亡くなった人々が合図の
    方に多かったことによるのでしょう。

    • @HyenaDecky
      @HyenaDecky  Před 9 měsíci

      長州藩と会津藩は因縁ですね。
      庄内藩と薩摩藩は仲が良くなったらしいです。
      庄内藩には西郷が寛大な処分をするようにしたので、戦後の処遇も関係あるのかも。

    • @user-px9xz6bv5k
      @user-px9xz6bv5k Před 8 měsíci

      長州への遺恨が語られているが、これは「会津観光史学」という日本最大級の歴史捏造の結果である。長州の残虐行為の裏付けるものはない。
      よく言われる世良修蔵が東北を蔑んだと言われる手紙も、後に、会津が作成した偽物のであることをが「仙台戊辰史」ほかの資料から明らかになっている。長州軍のトップ、大村益次郎は戦意の無い仙台藩を叩く方が合理的だと主張したが、薩摩と土佐の会津攻撃(※)が通り、大山巌をトップに板垣退助、伊地知正治が指揮を執ったのだが、長州藩の主力は北越、特に長岡で戦っており、会津に合流する頃には、会津の降伏間近(山縣有朋が会津に入ったのは降伏の4日前)であった。会津戦争後、長州藩士の奥平謙輔は会津の秋月悌次郎に素晴らしい手紙を送り、秋月もそんな奥平に、後に東大総長になる山川健次郎他、会津の若者を託した。さらに、最近になって白虎隊の唯一の生き残り飯沼定吉が故郷に入ることを憚られ、長州藩に匿われ養育を受けたことが判明している。さらに、会津藩士永岡久茂は、先述の奥平謙輔が盟友、前原一誠と萩の乱を起こしたとき、それに呼応、千葉県庁を襲撃しようとして捕縛され獄死した。会津と長州は今よりも近かったのである。
      ※会津攻撃は結果論から言えば、会津と庄内藩が画策した、プロイセンへの北海道の譲渡を止めた(会津の早期降伏)と言う意味で正解だった?勿論、会津が戦場となり悲劇を生んだのだが、、、。

    • @user-ko2ib1hg7s
      @user-ko2ib1hg7s Před 3 měsíci

      女性や、若者我、己の意志で、戦闘に゙、参加を仕手、居たとと、想います❢

    • @user-ko2ib1hg7s
      @user-ko2ib1hg7s Před 3 měsíci

      私必要以上に会津ヲ、責経てた事が、今に至る軋轢の、要因と、想います❢

  • @user-mh4qy4uq9l
    @user-mh4qy4uq9l Před 9 měsíci +2

    ご冥福をお祈りします。

  • @user-dt3xe3gz4x
    @user-dt3xe3gz4x Před 3 měsíci

    会津の藩主の徳川家康は豊臣を崩したその怨念が出来たのだ。俺は嬉しいですよ

  • @user-qm7me1ie4n
    @user-qm7me1ie4n Před 17 dny

    殿様は籠城しててもエッチするとは

  • @user-ko2ib1hg7s
    @user-ko2ib1hg7s Před 5 měsíci +2

    鹿児島山口県で、災害が、起こっても、募金を、摺る気持ちわ、有りませんと、想います❢

    • @boise399
      @boise399 Před 3 měsíci +3

      お前それでも人間か。情けないのう

    • @user-cs3yu3jj6j
      @user-cs3yu3jj6j Před měsícem

      やはり日本の敵だな

  • @tita9603
    @tita9603 Před 3 měsíci +1

    まるで大東亜戦争の日本軍の様ですね。
    しょーもないプライドから戦争をおこし、非合理な采配。
    若い人や女性に犠牲を強いる点もそっくりです。

  • @user-du8hz7ex8t
    @user-du8hz7ex8t Před 9 měsíci +1

    薩長にチェレンコフ光をお見舞いし、帰還困難区域にして殺れ。

  • @user-du8hz7ex8t
    @user-du8hz7ex8t Před 8 měsíci

    薩長へ戦術核を撃ち込め。チェレンコフ光で生皮を剥がせ。