会津在住です。
今も小学生は ならぬことはならぬ
と教えられています。
時代の流れがありますが間違いなく孝明天皇が崩御されるまでは会津は官軍です。
容保公は忠孝天地を貫く と言われてます。
誇りです。
会津松平は売国計画を企てていたのにw
ならぬことはならぬって建前だろ
会津兵がどれだけ蛮行三昧だったか知らないのか?
味方の民衆にまで蛮行三昧だったんだぞ
戒めアピるなら会津プロパガンダによる嘘やめなマジで
知っていますよ
戦争ですからね
どちらが正しい、悪いとは思いません。
私に言われても仕方ないですから会津若松市の教育委員会に問い合わせて存分にやってください。
ただ事実を書いたまでです。
孝明天皇のこと ならぬことはならぬ
なにか間違っていますか?
『白虎隊』の子供たちの話が悲しいです。自分がそうだったので思うのですが、中学生ぐらいの年齢って、正義とか勇気とか忠義とか誇りとか、そういう綺麗なものを一番純粋に信じ込みやすい年代だと思います。そんな子たちが次々切腹したなんて、なんとなくその場の空気感とかも目に浮かんできて、とても悲しいです。
あと、歴史的資料も、鵜呑みにはできない、立場によって物の見方が変わるのも勉強になりました。
市橋先生の白虎隊の解説、お城が燃えたと思って自刃したと言うのは、自刃から唯一蘇生した飯沼直吉の残した顛末記により完全に否定されています。
即ち、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができない」という一心で自刃の道を選んだことがわかっています。
唯一の生存者、飯沼は会津に帰ることを憚られたこともあり、真相がわからず、お城が燃えたと勘違いしたという話は会津観光に利用したい人たちの適当なつくり話だったのです。
会津はじめ東北の藩は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。
私は、そうした差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を美名で飾り立てるのは、昔から違和感を感じていました。
賊軍の藩は、明治になってから経済的に貧窮していていたそうです。だから賊軍の旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行ったのですね。(秋山兄弟や山本五十六さんなど...)
その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければならなかったようですね。
歴史は現代まで紡がれているのですね。
薩長が明治維新を行って大日本帝国を作って
賊軍が大日本帝国を潰した
長岡・山本五十六、盛岡・米内・板垣征四郎・及川古志郎、東条英機、仙台・井上成美、幕臣・嶋田繁太郎、庄内・石原莞爾・・・・・・
会津市民です。
恨んでるなんて一部の方々ですね
歴史の真相は誰にもわかりません
先祖を敬い、未来の為に
お互い わだかまりがとければいいですね!
仲良くするにはまず間違った情報を正すべきでしょうね。
幕末についてかなり詳しい者ですが
会津藩は恭順してたけど長州藩から恨みで攻撃された→×(完全に誤り)
慶喜は罪を認めて、恭順するも、会津藩は罪は認めず正当防衛だと言って恭順する姿勢は見せつつも会津領では軍編成や
武器を洋式化して戦に備えています。
会津藩関係者の山川健次郎が著者の記録にも会津藩が降伏せず抗戦を考えている一部の旧幕府軍の脱走に
手を貸している事が書かれています。
また新政府軍は仙台藩や米沢藩を通じて会津藩に今からでも謝罪する姿勢を
見せれば処分条件を軽くするという通達を出して、仙台藩も説得を試みるけど失敗しています。
東北14藩が嘆願書を出しても受け入れてもらえなかったのは会津藩が謝罪拒否したのが原因。
ちなみに会津藩が謝罪拒否したのは会津藩関係者の平石弁蔵の会津戊辰戦争でも語られています。
ただ、説得を試みた仙台藩は会津藩に「会津藩が今からでも許してもらうためには、城の明け渡し、会津藩主の切腹。
それくらいはやらないとこちらも新政府軍に取り次ぎはできない」と言ったので、会津戦争が起こった
原因の1つかもしれません。
10年前だったかな・・・武田鉄矢が言ってた
海援隊はデビューして40年経つけど未だに会津若松市でライブをやったことないと
海援隊は会津藩をフルボッコにした薩長を結び付けた存在なので、行けないのだそうな
当たり前
武田鉄矢だけでなく
秋田佐竹藩から来た若い根っこの会加藤日出男も海援隊贔屓で
口とは裏腹に依怙贔屓が激しい二重人格
あれはカルト宗教で加藤教ですよ
七日町の建物は残ってますが、飯森山から城が見えないくらいの大火災、城から北側は家一軒も残ってない廃墟ですよ。証拠の写真もあるはずです恨みはけして消えません。。それに二本松城でも同様の有様で殺した挙句死体を放置身ぐるみ剥いで金目の物略奪してます。見かねた領民が遺体を埋めたと記録・伝承があります。恨みが消えるわけありません。
証拠の写真を提示できていない上での話ですか?遺体を埋葬させなかったというのが会津観光の為の作り話だったことが判明した今、是非、写真を提示してくださいね。
ところで、戦術に詳しくない方が、勘違いされるのですが、城下を焼き払うのは攻城側とは限りません。焦土作戦と言う言葉をご存じですか?
防御側が、攻撃側に奪われる地域の利用価値のある建物・施設や食料を焼き払う常套手段で、ロシアがナポレオン軍に対して行ったことで有名ですが、会津の攻城戦で活躍した土佐の谷干城が後に西南戦争で熊本城に立てこもった際、西郷軍に対して行ったことが有名です。城の周りに建物や塀があったら、城から撃つ弓矢や鉄砲の効果も半減ですから、短期間で相手を追い返せる自信がなければ、会津藩兵が城下に火をつけるべきなのです。
実際に会津藩も母成峠を抜かれた後、猪苗代城代・高橋権大夫は猪苗代城と土津神社に火を放って若松へ撤退、伝習隊も諸所に火を放ち新政府軍の進撃を遅滞させています。ただ、痛恨だったのは、石づくりの頑丈な十六橋を佐川官兵衛が破壊できず、新政府軍による城下への突入を許してしまったこと。
少し冷酷に聞こえるかもしれませんが、敵が隠れたり、雨露しのげる七日町の家屋敷に火をつけることは、会津藩兵の本来なすべきことなのです。史実はどうなっていますかね?新政府が行ったと書いてあるのですか?
ついでに、二本松での官軍による蛮行は事実ですか?寧ろ、二本松藩領に兵を差し向け略奪・威嚇をし、二本松を自陣に引き入れた会津藩も褒められたものじゃない??
八重の桜のドラマ館を見に行きました、飯盛山に行って降りてきた駐車場で
車の外気温度計が43度でびっくりしました。裏磐梯の旅館に避暑にきたつもりが
クーラーをかけて寝ました。会津松平家の成り立ちも説明してほしかった。
なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節の ありとこそきけ
八重の桜でみた西郷千重子の辞世の句が忘れられません。
西郷頼母が落城時、行方不明(?)、その後生き延びて日光東照宮の容保の下、権禰宜等とは知りませんでした。一瞬荒木村重の事を思いました(理由諸説あり)。なぜかというと、彼の妻、子供等皆自決していたからです。悲劇ですよね、それを知ってか知らずか知りませんが、何故彼は生き延びたのか、容保を守ろうとしたのでしょうか? しかし、いつの時代も苦労するのは下っ腹で、上の者は生き延びる、江戸時代の忠臣教育が今も続いている。何とかなりませんか?
会津藩の中には交戦派も多かったと聞きますが、藩主たる容保や西郷頼母は何度も太政官に恭順の意を示していますよね。それを握りつぶしてまで攻め込んできた薩長及びそれに寝返った元徳川側の藩は何故そこまでして会津を攻めたのでしょうか。もはやテロリズムにしか思えません。そこに正当性が無いからこそ、すぐ瓦解はしたが奥羽越列藩同盟が成ったのだと思います。
容保が謹慎したと言うのは事実ですか?カネの為なら何でもアリの会津観光史学の適当な作り話かそれを読んで育った高齢者のお話がもとになっていませんか?
観光史学は第二次世界大戦後に地域の歴史において、観光資源として動員することを理由に創作された歴史観で、実際の史実と異なる例としては、「会津の長州への怨念」が挙げられます。 このような感情は戦後になって高揚したもので、戦前・戦中の会津では、長州人と同じ「勤皇精神」の持ち主だという思いが大勢を占めていたと指摘されています。しかし、戦後になって、「無垢な敗者」「近代日本の被害者」というアイデンティティを獲得する過程で、「長州への怨念」にあらためて司馬遼太郎による「悲劇の会津」という司馬史観に観光資源として人々が飛びついた際に発生したとされています。
実際、会津の民は罪に問われませんでしたし、会津藩体制側についても1928年に会津松平家の節子(勢津子)と秩父宮雍仁の縁組が実現することで当時完全に和合されていたとされています。会津の方ならご存じの方も多いのではないかと思いますが、会津の山鹿素行は「中朝事実」という本をお読みになってください。天皇を中心とした「和」の精神の素晴らしさがわかりますよ。
西郷頼母が財政難の中、京都守護職を辞退せいよとか、鳥羽伏見後の謝罪・恭順を説いたこと、さらに、白河城攻防戦敗退後、容保と家臣が切腹すべきと説いたというお話は知っていますが、松平容保が謝罪恭順をしたという実はないでしょう。何か根拠がありますか?捏造で有名な会津観光史学の小説はダメですよ。
ちなみに、鳥羽伏見は慶喜の意に反し大軍を動かした容保の独善だったかどうかは別にして、その後の上野、宇都宮にも会津藩は藩士や兵を送りしました。慶喜のような謹慎はしていません。
そして、朝廷から説得を仰せつかった仙台藩との協議(関宿での会談)が行なわれる四日前のこと、奥羽鎮撫総督府は仙台藩と米沢藩を通じて、会津藩に対して、次のような通達を行なっています。
「松平肥後守追々暴動ニ及候趣ニ候得共罪魁之義一等ヲ被宥候上ハ悔悟伏罪御仁慈ヲ仰ギ候ニ於テハ寛典ニ可被處候間心得違無之旨御沙汰事」(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)
(現代語訳)「松平肥後守容保。そちは今まで数々の暴動に及んでいるが、その罪科一等を減じて許されるためには、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰ぐ態度を見せるように。そうすれば、寛大な処分にする場合があるので、その旨を心得違いせぬように沙汰する」
仙台藩の但木土佐と会津藩の梶原平馬の両家老は関宿の会談で「首謀者の首級を差し出して、悔悟の実を表す嘆願書を持参する」との合意がなされましたが、会津藩は仙台藩との合意をちゃぶ台返ししたのです。
そして正式に会津藩はこの通達を20日間も無視した後、次のような回答書を総督府に対し送り返したのです。
「御沙汰ノ趣難有拝承仕候得共徳川家名成行不見届内ハ謝罪仕間敷覚悟ニ御座候間可然御沙汰奉願上候以上 陪臣松平肥後守」(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)
(現代語訳 )
「御沙汰の趣意はありがたく拝承いたしましたが、我々は徳川家の家名がどうなるかを見届けない内は、謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます。以上。 陪臣松平肥後守(容保)」
以上の通り、謝罪はせず、恭順どころか、会津は白河城を先制攻撃したのです。
理由は簡単で、特に鳥羽伏見以降、徳川慶喜が謹慎したのに、会津は恭順をしていなかったからです。
仙台藩家老の但木土佐は筋金入りの佐幕派であったが、それでも戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、容保がちゃぶ台返しをしました。
さらに、村松藩を脅し、二本松藩(少年隊の悲劇は会津と藩内の佐幕派が起こした)に武力侵攻をして自陣に引き込みました。長岡藩と新政府による小千谷会談を佐川官兵衛が邪魔をし、世良修蔵の手紙を捏造し、仙台藩を巻き込みました。
しかも東北戦争は会津藩による白河城攻撃から始まっています。
松平容保て孝明帝より「御宸翰」をいただいていましたよね、西郷や大久保は密勅を作っただけだけど。
松平容保に下されたご宸翰は、京都で狼藉を働く者へ取り締まりをする京都守護職・松平容保と藩士への感謝状です。1864年3月5日、将軍徳川家茂は在京諸侯とともに参内し、小御所において、諸侯の面前で、長州必罰、攘夷のための幕府・諸藩の武備充実、公武一和(幕府・諸藩と朝廷)による天下一新の宸翰を受け取りましたが、薩摩藩の起草によるものされています。
ついでに、錦旗は岩倉具視から委嘱され薩長がつくったと言われており、それを勝手に掲げたら偽造だが、朝廷は征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王にその錦旗と節刀を与えるなど正式な手続きを踏んでいる以上、御旗は正統なものです。徳川慶喜は錦旗に恐懼し、謝罪恭順、江戸城の無血開城を行い、水戸で謹慎しましたが、容保は徳川宗家の意向を無視し、上野や宇都宮他、北関東に兵を送り、長岡藩が新政府側につかないよう、佐川官兵衛が小千谷会談を妨害し、世良修蔵の手紙を捏造して、仙台藩を無用な戦いに引き込みました。それでも、寛大だった新政府に対して仙台藩が苦労して取り付けた仲介案を反故にし、結局、謝罪も恭順もせず、新政府側に戦いを仕掛けたのです。
ましてや、空前の贋金をつくったり、越後を中心に夥しい略奪暴行、さらに、北海道をプロイセンに売ろうとした容保は、慶喜や孝明天皇のお子様である明治天皇に対して忠節の心を持っていたのでしょうか???
もしも、戊辰戦争が終結して何年後であっても、新政府が、慰霊碑を立てたり、慰霊式典などをやっていれば、もう少しわだかまりはない現代だったかもですね
会津藩の上士への絶対服従と主君の為なら命を差し出した白虎隊はムッソリーニとナチスドイツに顕彰され、記念碑が残っています。また、会津にはヒトラーユーゲントというナチス政権下の若者たちが表敬訪問しました。
降伏式の時の板垣退助のエピソードを初めて知りました。小学生の時に年末時代劇スペシャル「白虎隊」を見た時に板垣退助が出ていて、小学生の歴史の教科書では自由民権運動の人のイメージでしたので、その時は理解が出来ませんでした。しかし、大人になって実は板垣退助は政治家よりも軍人の素質が抜群だったことを知りました。
そして、この降伏式に使用された泣血毯(赤い絨毯)は有名ですよね。会津士族がこの日の悔しさを忘れない為に、細かく分けて持っていたそうですね。今は非公開みたいですが、いつか機会があれば見てみたいです。
ありがとー
私の父方は毛利家の家臣でしたが、私が学生時代会津や東北地方に旅行に行った時鶴が城の近くの蕎麦屋で食事しお店の人と雑談し、山口出身とかの話しになると突然金はいらないから出ていってくれと追い出されました。やはり怨念は残っているのですね。
@@hongkongpunkrocker2591
そういう会津プロパガンダによる嘘が
今ブーメランになってます。
最後まで作られなかった事が冷遇だといはう資料はあんのかい?
@@hongkongpunkrocker2591 高知大学も佐賀大学も、福島大学と同じ年に出来たんですけど、冷遇されてたんですか?
全体で考えると、山口大学も後の方だったんですけど冷遇なんですか?
嘘ばっか言ってないで、現実見た方がいいですよ。
西郷家は元は肥後の菊池一族と言う謂れが有ります。菊池一族の内、現宮崎県米良・椎葉・高千穂に割拠した人達の一部が西郷氏を名乗りました。菊池氏は南北朝時代に北は東北から本拠地九州で戦いまくったので、全国に血族が散らばっています。西郷頼母も西郷隆盛もこの地域の西郷氏を出自としています。ちなみに肥後阿蘇氏の家老として有名な甲斐宗運もこの地域の菊池一族の出です
さて西郷頼母は明治維新後、図らずも日本の小説・映画史に影響を残しています。それが養子とした西郷四郎。必殺技『山嵐』を駆使し講道館柔道の名をたからしめた彼は、後に『姿三四郎』のモデルとしてその名を残しています
磐城平藩です。当方は新政府に恭順の流れでしたが、仙台の伊達が乗り込んで来て、抗戦に引きずり込んだと聞いています。新政府軍が大砲を撃って来るとその音で伊達の連中は真っ先に逃げ出したとも。しかるに会津藩。徳川御三家でさえ守ろうとしない幕府のために戦った心意気は、維新後の旧藩士の努力もあわせて見上げたものだと思います!
市橋先生は幕末維新のご専門ではないので、言及はされていないのでしょうが、二本松藩に対し、会津は武力介入まで行い、自陣に引きずり込んだことがわかっています。二本松少年隊の悲劇は、二本松兵を白河城に向かわせてことが最大の原因です。
ついでに徳川慶喜は鳥羽伏見以降、謝罪・恭順を決め込み、江戸城を開け渡し、水戸で謹慎しました。会津藩祖、保科正之は徳川将軍家を守れと言う家訓を残したのに、容保は慶喜に逆らい続け、上野や宇都宮他北関東に軍を送ったり、越後や福島中通りで略奪暴行を繰り返し、北海道を売却しようとした、売国奴です。そして、仙台藩が仲介した新政府の寛大な沙汰を握りつぶしまし、先に新政府に戦いを仕掛けました。
白虎隊記念館とか行きたいですよ!
会津武士のことをもっと知りたい!
信念があって、我慢強い!
会津へおいでください鶴ヶ城が中心ですが会津藩校日新舘 武家屋敷 白虎隊記念館 旧滝沢本陣 白虎隊伝承志学館 白虎隊自刀の地
その他一杯です 食べ物も 会津ラーメン わっぱ飯 馬肉 こづゆ
カレー焼そば ソースカツ丼 あわまんじゅう 天ぷらまんじゅう
味噌おでん 書ききれません 日本酒も美味しいし猪苗代町の地ビール最高
市橋先生、お疲れ様です!楽しく動画を見て聞いてとても勉強になりました!最後に日本人同士での殺し合いは最悪でしたねえ!白虎隊や板垣さんやとても良かったです!次も楽しみにして待ってますよ!
日本人同士の殺し合い、悲劇は否定しませんが、冷静な議論として、源平から戦国、さらに関ヶ原に比べ幕末はかなり抑えられたの言うのが実態でしょう。市橋先生はどう考えますか?徳川家康は頼朝をお手本にしたらしく、豊臣をほぼ根絶やしにしましたが、会津では家老がたった一人の自刃で許されました。
個人的には会津の二人の影響が大きかったと思っています。一人は言わずと知れた保科正之で彼の行ったことは戦国の命の軽視の風潮を制度として変えたこと。
もう一人は、山鹿素行、実は彼は保科正之に追放されていますが、後に、古学派の祖と言われ、「万世一系の天皇陛下を中心に、仁政と平和が続く本朝(日本)こそ中華(中国でなく、聖賢の国・理想の国の意)なり」と言う言のある『中朝事実』の著作や思想だと思います。
因みに第一長州征伐では長州藩は3人の家老を切腹させられましたが、鳥羽伏見の戦いを誘発し、上野や宇都宮に兵を送り、贋金はつくる、北海道を売る(未遂)、周辺藩の領民に対して略奪を繰り返すなど戊辰戦争最大の蛮行を繰り返し、最後の降伏まで謹慎も謝罪もしなかった松平容保が、一人の家老の首を差し出し、許されたくらい。薩長側の略奪も薩長には金があったこともありますが、会津の蛮行に比べ、圧倒的に少なくいように思えますが、『中朝事実』の天皇の存在が大きかったのではないでしょうか?因みに吉田松陰はもともと山鹿流兵法の先生で、会津を訪ねています。
昨日京都の金塊光明寺に参詣しましましたが、会津墓地に参った時入り口の傍らに松平容保公の像があり感激しました。写真の通り男前でした。
孝明天皇からの信任が厚かったので、京に居るときは度々御所に上っていました。
男前エピソードがここにもあって、会津中将さまが来られると知るや、御所の女官たちはそわそわしていたのだとか
越前福井藩主松平慶永(春嶽)は生真面目な性格の会津藩主松平容保に京都守護職(貧乏くじ)就任を要請、病弱であることや会津から遠いことを理由に容保は何度も固辞し続けていたが、春嶽は最後の切り札「会津家訓」を引き合いに出して容保が断れない状況に追い込んでまで無理やり京都守護職に就任させている。
この時、容保は「行も憂し行ぬも辛し如何せん君と親とをおもうこころを」と詠んでいる。ザックリ言うと「進むも地獄退くも地獄」という意味だ。
結果、会津白虎隊や二本松少年隊などの悲劇を作った元凶でもある。
春嶽の愚行がなければ会津戦争はおろか戊辰戦争すら起こることはなかっただろう。
会津は長州や薩摩を恨んでいるとはよく聞くが、会津が松平春嶽(越前)を恨んでいるという声はほとんど聞かない。
なぜなのだろうか?
そう思います。最近では地政学がネットで多く配信されていますが、どうしてこうなったかという原因を探さなくては解決しないということです。日本が真珠湾攻撃して世界大戦を始めたとのことも最近は過去の起因する動機が広まっています。そして、悲劇が始まる。結果の遺恨を語っても和解はできないと思います。
京都守護職は関係ないからw
禁門の変でも、会津と薩摩ばかりがドラマになるが福井も参加していて長州の久坂玄瑞などは福井藩兵に討ち取られている
京都守護職に就任したって如何様にでもやりようはあるし、守護職云々はかなりの結果論でしかない
市橋先生が、日本の歴史と心を教えて下さることに感謝致します。
司馬遼太郎氏が何かで書かれていましたが、日本の歴史の中に会津や長岡があったことは、強いものに寝返るばかりの日本史では無かったと後世の日本人に希望のようなものを残したのではないかと。武士道という美学を貫いたのも誇れるべきものだと思います。
司馬遼太郎は小説家ですから、面白く一気に読める作品に仕上がっており、司馬史観と呼ばれるほど、日本人の歴史認識に影響を与えましたが、司馬史観と言われる通り、あくまで、どうにでもつくれる小説の話です。彼の描く坂本龍馬はスーパーヒーローで、坂の上の雲の乃木大将は愚将であり、彼の書いたノモンハン事件に関するエッセイは史実とは大きくかけ離れています。
酷いのは、自身の戦車隊での原体験。もし、東京などに上陸した米国軍に対して戦車で立ち向かわない場面となった時、東京から逃げてくる住民が戦車の通り道を塞いでしまうがどうしたら良いかと大本営少佐に尋ねると、「ひっ殺してゆけ」と言ったことに憤ったから私は小説家になったと言っているが、別の場面では「その人、いい人なんですよ。その連隊(戦車第1連隊)のスターのような人でした。若い大尉で感じのいい...今でも感じのいい人ですが、大本営にしばらく出向されておられたんです」となる。
先生、ありがとうございます。楽しく観せて頂きました。私の父親が、40 年位前接待で、会津と山形に行った時の話を聞きました。当時は全国から人が来ていたそうですが、芸者さんは楽しそうに接待していたそうです。私の父の前に来た時、どこから来たかと聞かれて、岐阜の大垣から来た、というと、その芸者さんは、父に面と向かって『あ~、だめだめ、大垣は嫌い』といって別の人の接待に直ぐお酌をしに行ったそうです。先生の仰る通り、未だしこりは解けないのかもしれませんね。
私は桑名のものです。
友人が会津に出張に行くと歓待を受けてびっくりしたと言ってました。友人はそれほど歴史得意じゃないので幕末史を語ったら納得してました。
桑名から、大垣は近いし、三重には津もあります。名古屋(尾張藩)も…。共に車で1時間くらいかな…。裏切りや見捨てた奴らに対して思うところはありますが、今の人に言ってもね。
神保雪子の凌辱でしょうか?土佐藩士吉松速之助(のちに西南戦争で乃木希典の命を救ったと言うのは事実で正義の人なのだろう)を登場させ、長命寺で大垣藩兵が暴行したという小説が元になっていることが多いが本当に正しいのか?それを扱った阿達義雄氏や会津観光史学の中心的な小説家、中村彰彦氏の著作には本当に根拠があるのか?
一方では元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死したとしたとしています。
観光の為の捏造をした会津観光史学、しかも、福島出身でもない小説家と代々会津藩家老の出身で学者のトップオブトップとして活躍された山川氏の調査とどちらが正しいのだろう。
会津戦争………遺恨が残っているとか初めて知りました(残るのは当然とも思いました)
それなら、戦国時代は?
先生の最後のお言葉で思いが納得
近代化になろうとしている日本だったのに残念で複雑になる歴史です
うちも徳川の譜代だったけど神主に戻った関係で曽祖父は霊山神社の宮司やってました。
戦国時代の後遺症と言えば、今でも伊達姓の人は会津では商売出来ないそうですw
うちは、上杉の(若)流れで、多分、人質として愛知県にいます。住んでいる市には2%います。海外の力に屈しなかった2本の大木。松(徳川)と杉(上杉)って言葉がありますよ。毛利、薩摩?海外に泣き付いた売国奴。伊達も隠れて画策してましたからね。最後の将軍、慶喜公の言葉、梅(加賀)じゃ無かった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え100万石も与えて、狐(毛利)一匹押さえられない、情けないです。愛知県は、徳川と上杉が沢山居て健在です。
@@pontarou01 良く知っていますね。元々、伊達も、海外の力を借りて、倒幕しようとしていましたからね。あの大政奉還は、上杉が新政府軍に加担すると言ったら、上杉は駄目だと長州は蹴ってますよね。上杉は、天皇陛下のお気に入りなのを知っていて、薩長が戦が出来ないようにするのに気が付いて。織田包囲網、関ヶ原、上杉が動かな何もできない長州が。上杉は天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をして、卑怯なクーデターを起こす薩長に、錦の旗印を渡すなら、上杉は最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、何も罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?と進言し、天皇陛下も確かにその通りだ。慶喜公には申し訳無い事をしたと伝えて欲しい。ただ、薩長が力で絡まれすると聞かないから、少しだけ戦って、負けたフリをして欲しい。上杉からの要望は、慶喜公の命の保証と、新政府での重要なポストです。それを慶喜公に伝えたが、会津若松は最後まで戦った。上杉は最後まで幕府軍として戦って一緒に五稜郭に行った子孫が沢山います。これが、大政奉還の事実。何も知らない新政府軍は、会津若松を落とし、俺達は強い。侍に勝ったと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝。この清こそが本当の天の声。お前達は、海外の力を借りて、スパイ行為をして、卑怯なクーデターをしただけだ。幕府軍が本気ならお前達は皆殺しにされている。幕府軍を本気にさせるな。彼らは譲ってくれたんだ。と仰っしゃられ、新政府軍は皆、下向いて黙り込んだとか。芸人の、ハードゲーが、セイセイセイと言って出て来ると、あっちの方の大人しい事。笑笑 天の声を聞いたのかと、ビックリします。 上杉の若は、新潟と愛知、長崎に沢山いますよ。令和天皇の初の御公務で調べると、愛知県が出てきますよ。旧幕府軍の徳川の重臣や上杉の若が沢山います。何となく、報われた気がします。
西郷頼母は江戸家老の父とともに、少年時代は江戸で過ごした。五歳下の養子容保の守役を務めた。小柄で武術は苦手、そのため学問だけは負けたくないとして努力、同じ歳の長州吉田松陰とも交流、会津藩士から勝海舟補佐役になった麹町教授所塾頭林三郎から情報を得て天下の情勢に詳しい。松平容保は家訓にこだわり、会津藩は封建主義・幕府・藩の優等生なのですが、これが悲劇の始まりになった。頼母からみれば時勢の変化に疎く、まじめな容保は物足りなさがあった。薩長は下級武士が中心で、倒幕のためには手段を選らばない、大胆さがあった。明治になって、頼母が都々古別神社宮司、日光東照宮禰宜・宮司代理、霊山神社宮司になったのは勝海舟・林三郎の尽力があった。頼母と容保は日光東照宮で和解しています。容保が危篤になった時、頼母の元に電報の知らせがありました。
白虎隊の話は通説でないですか?飯沼一元さんの話が欲しかったな。少年の国に殉ずる悲劇だけではない話を。
会津戦争と日米開戦は、何となく追い込まれてやらざるを得なかった点で似ている
戊辰戦争も太平洋戦争も実はアメリカ南北戦争から多大な影響を受けている。
南北戦争で日本の黄金は香港との行き来流通で合衆国の莫大な軍資金に消え、使用された
武器や大砲は一方はフランス経由で幕府軍に、もう一方はイギリス経由で新政府軍に買収させ
戊辰戦争が勃発。太平洋戦争の日本攻略も南北戦争の南部攻略に因み日本は南軍の二の舞を踏む。
日米の開戦と終戦、本土決戦をするかしないかにも似ているかも。
会津は謹慎・謝罪もせず、仙台藩の調停も断り、日本が先に真珠湾を攻めたように、白河城を攻めた。
旧日本の軍部は負け戦にも本土決戦を主張が強かったが、停戦派は天皇の力を借りてポツダム宣言を受諾した。
会津は什の掟の一番目が「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」そして「ならぬものはならぬ」だから、容保の前に筆頭家老の西郷頼母の意見も通ることはなかった。
あの戦争は、長州の商売人が、覚醒剤ビジネスがお金になる事に気付き始めた戦争です。だから、国連を脱退してまで満州を傀儡国家にしました。満州には、覚醒剤を作る為に必要な麻黄草が生えていますから。世界で4箇所しか生えない薬草で、人体実験で朝鮮人が恨みを晴らしていたのをアメリカが知り、参戦。長州の目的は、金儲けと、アメリカ軍に旧幕府軍を殺させるのが目的でした。大日本帝国軍の上官に、旧幕府軍の大名の名前なんかないですよね。前田位でしょう?あの戦争は、豊田佐吉と長州が目の上のたん瘤の武士を殺させる為に仕組んだ戦争です。豊田佐吉は、元々、百姓ですからね。しかも眉唾です。
会津人と長州人の事は知りませんでしたが、薩摩人に対する会津人の毛嫌いようは聞いていました。
実際の仕事であった事ですが、ある案件の契約の成約後、担当者が鹿児島県出身と分かると、以後会話が無くなりました、、、
大久保利通の意向ではないかと考えますが、会津藩が敗戦後に斗南藩に国替えになった事、そして彼の地で辛酸をなめ多くの死者を出した事が、未だに薩摩藩に対する怨嗟の念が、解かれない要因ではないかと私は考えています。
会津人は薩摩藩より長州藩への恨みは強いです今でも長州の山口県とは友好都市にはなってません これから先も難しいと思います。青森へ追いやられ開墾して死人も多数出ているし会津が本来なら福島県の中心になるはずなのに福島市へ今では都市的には人口ではいわきへ発展では郡山市が中心として成り立っています京都へ行かなければ会津戦争は無かったはずです西郷頼母他 重心が反対したのに養子である為尚更 家訓に逆らえず幕府の為京都守護職を引き受けてしまう
戦争の最後の方は少年や婦女子が自刀して死んでいるし戦死して人の遺体も直ぐには埋葬されず
これらの会津人の想いは延々と言い伝え続けられるはずなので即友好都市は考えられない。
@@user-up7pe6fv1p さま
そうだったのですか。 戊辰戦争後の会津の街の事を聞きますと胸が痛みます。
早く心が安らかになる日が来る事を願っています。
@@user-tv7bw2py4s さんいつか分かり合える時が来るはずです会津人は先祖の思いを思う心は誰にもにも負けないはずです 頑固だから 後は 時が解決してくれる事を願うばかりです。
皮肉にも戊辰戦争のあとに起きた西南戦争で大活躍したのが元幕臣で新政府軍に入隊した人たちで、会津藩出身者もかなりいたこと。かつての官軍薩摩藩が賊軍になり、会津人は官軍になった。
(熊本県の西南戦争跡地を訪問し、戦死した会津藩出身者の慰霊碑に手を合わせた)
出向先で福島県出身の人に、九州生まれで雪に慣れてない私に雪かきのやり方やタイヤ交換などのアドバイスをしていただいたことに感謝してます。
各地で武士の内乱があり、薩摩は新政府に対して全国の士族の不遇を正さんとして起ちあがった。肥後を無視して急ぎ佐賀を過ぎていたら勢力は増して、西南の役は無かったろう。目先の敵に狂う者、大海を知らずして政治はできず。
慶喜が担ぎ出されることを恐れて幕臣は冷静さを求められてましたね。戦後、慶喜がひたすら趣味の道を歩んだのは、政府にも旧幕臣にも叛意のないことを知らしめるためだったのでしょうね。
会津藩がプロイセンに、北海道の領地あげる代わりに援助求めたけど、ビスマルクに断られたんですよ。
それ続きがあって
ビスマルクが突然考え変えて
会津の売国計画に乗っかったんだよ
当時は飛行機もなく船便だったのと
会津がすぐ負けたから助かった
ただ会津の残党が加わってる
蝦夷共和国がプロイセン人に
北海道の一部を譲渡した
これを明治政府が大金出して買い戻してる
私は生粋の会津の人間ですが色々とあったのはある程度理解していますが恨んだことなんて1度たりともありませんし身近にいる人から恨んでいるなんて聞いたことがありません
むしろ逆に会津若松市が山口県のどこの市かまでは忘れましたが友好関係を結ぼうと話を持ちかけられたときに若松市側が拒否したことに腹を立てたくらいですしメディアに煽られている節は拭えませんね薩長の人にも戦後処理に尽力してくれている人もいますがこのことはまず取り上げられません
それから白虎隊のことに関して間違ってます、よく落城と勘違いして自決したと言われますがそうではなく落城していないのは飯盛山からも見えていてそれでも入城するときに敵の捕虜となったらご先祖・主君に申し訳が立たないと意見が出たので隊士全員がこの意見に納得して自決したのですよ
その白虎隊の自刃の真実は、会津観光史学の適当な推測ではなく、唯一蘇生した飯沼貞吉が明らかにしたものです。会津だけでないかもしれませんが、山本七平流に言うと、日本特有の閉鎖性・村社会から生まれた「空気」でしょうか、貞吉は死にぞこない、不忠のそしりを受け、会津には戻れませんでしたが、長州藩士楢崎頼三が長州に連れ帰り、勉学に努めさせ、工部省の電線技師となります。当時の最先端の技術者として日本各地や朝鮮半島での電線敷設に活躍し、近代日本の発展に大きく貢献しました。
彼は生前、貞雄と改名し、会津には一度も足を踏み入れていないようだが、そもそも貞吉の墓は仙台市にあり、死後、四半世紀も経って遺髪と歯(生前抜け落ちたもの)のみ飯盛山に仙台の方々によって葬られたのですが、当時の会津の人達には疑問視する人もいて、他の白虎隊員と離れた場所にあるのが、少し物悲しい気がします。
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白虎隊の生存者が長州藩士に引き取られて、出世されたと言う話は初めて聞きました。
わたしは、萩市出身なんですが、子供の頃から長州が会津に恨まれているという話は聞かされてました。
長州は会津にどんだけ悪いことをしたんだと思って心を痛めていましたが、史実はちがう可能性もあるんですね。
ちなみに萩のローカルバスの名前は、松陰先生と晋作くんです。
@anpanchivさん、事実は全く異なり、長州は恨まれるようなことは皆無と言えるほどだと思います。
長州軍の規律の良さは教育水準の高さがベースで、寺子屋は全国の1割弱が長州にあり、郷校は2割もあり、下級武士の登用や諸隊の活躍の原点となりました。藩政改革の成功で幕末・維新期に最も戦争をした長州藩はそれでも多額の剰余金があり、周辺藩へのおびただしい略奪を行い、贋金をつくったり、北海道を売ろうとした会津藩(財政は実質破綻)とは対照的だったのです。
そもそも、長州藩は主力を北越戦争に置いており、会津で残虐なことをした記録がないのは当然なのですが、寧ろ、会津降伏後の長州藩の会津への配慮は具体的で、特筆すべきでしょう。飯盛山で蘇生した飯沼の他、山川健次郎や小川亮と言った若者も長州が支援したが、特に前原一誠と彼に近い奥平謙介などの長州藩士は多くの会津藩士を支えました。
会津藩の永岡久茂という若者は2人の人柄に感化され、前原と奥平が萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた永岡ら会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は、捕縛獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となり、逃走した中根米七も後日、喜多方町の寺院境内で切腹したが、長州が会津に非道なことをしたなら、元会津藩士の命を懸けた思案橋事件が起こるはずがないでしょう。
それだけではありません。日下義雄<日下(くさか)は久坂玄瑞からとった名前?>は飯盛山で自刃した石田和助の兄だが、長州の井上馨の知遇を得て海外留学、その後、長崎県知事や福島県知事を歴任する。悠仁親王にもつながる池上四郎(元大阪市長)も井上馨が支援した。柴五郎は山縣有朋の下で大活躍した軍人。
さらに、極めつけは、元会津藩主・松平容保の三男で、軍事参議官副官(長州出身の乃木希典陸軍大将附)となり、陸軍中佐に出世、山田梅子(日本大学の学祖でもある長州藩士の山田顕義の長女)を妻とし、山田伯爵家を継ぐこととなります。
会津による捏造の歴史は詳しく触れないけど、最後に、「八重の桜」の主人公である新島八重とその兄山本覚馬、夫の新島襄について。鳥羽伏見以降、目を患って動けない山本覚馬を庇護したのは薩摩藩だった。さらに、米国に密航した新島襄と米国で出会った長州の木戸孝允(岩倉使節団に参加)は新島襄に資金を手配し、さらに、長州の槇村正直京都府知事を紹介したのです。山本覚馬が京都で活躍できたのも、新島襄が同志社を設立できたのも、ついでに八重が新島と結婚(紹介)したのもこの槇村のおかげなのに、そこは、天下のNHK、「報道しない自由」を行使したのです笑。
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難しい漢字もありましたが、なんとか読みました💦
小学生のころ、萩の明倫小学校に通っていて、明倫小学校は藩校だと教わりました。学校自体も木造で古かったのですが、古い道場などが残っていて、校内をしょっちゅう観光客が出入りしていました。
1年生から、松陰先生の教えを毎日みんなで読み上げたり、松陰読本という本を配られたりしました。私はとくに学校が好きだったわけではないですが、松陰先生はとても身近に感じて育ちました。誕生地やお墓にいったことありますし、私の家には松陰先生の萩焼の置物があります。
萩市民はみんな身近に感じていると思います。
松陰先生は今でいうギフテッドのような人だったと思います。下級武士の生まれでしたが、頭の良さを認められて藩主に講義していたそうです。捕まって野山獄に入れられたときも、獄中で講義をしていたそうです。
やっぱり、長州藩は身分にかかわらず、教育を大切にする藩だったのですね。
そんな近代的な考えを持っている藩が、そのような残虐な行為をするわけがないと思いました。
教えてくださって、ありがとうございます。
日本男子物語って小説に中野竹子も出てきました。女性隊の旗指物
【もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身なれども】
先祖は斗南藩だったようです。会津戦争後、雪降る頃に青森の北の果てにとばされた何万人のことは忘れられてiいる。新潟から小舟で下北へ、大陸を歩いて三戸あたりへとルートがあり半数は途中で亡くなった。強かった平沼藩の家族たちは特に扱いがひどかったと聞いた・しかし恨みごとは聞いたことはない、じっと口にせず耐えている感じ。極寒の開拓生活があまりにも厳しいのでそれどころでなかったと思う。私もその近くで生きてきたので想像できます。うちの先祖は運よく生き延びたようです。会津にそのまま残れていたら良かったのにと思う。戦いの恨みというより亡くなった人に対するひどさ冷酷さ、逆恨みは長州の方、みしせしめで死骸を犬に食わせたり、やることが同じ日本人と思えない血が違うとしか思えない。今でも萩市と聞くだけで頭に血がのぼります。私だけの感情と思えないので当時悲惨に亡くなった方の霊の解放のために思うことを書きました。
あのさあ150年以上も前の事グダグダ何言ってんの(笑)あんたが長州人から何か直接されたわけでもないのに(笑)長州人の俺からするとあんたみたいな会津人みると気分悪いしわかり合いたいとは絶対に思いたくないね(笑)
知り合いの会津の爺様達はは長州より裏切った薩摩を殊更憎んでましたね
長州も憎いが奴等は一貫して倒幕だったが薩摩は会津に擦り寄っておいて裏切りなんて蛮行を犯したと憤ってましたねって
慶喜の無責任さに腹が立つ。
カゴマの西郷ドンも会津の西郷ドンもご先祖様は一緒だと初めて知りました、三河の御方だと言う事も!
西郷隆盛の由来は後醍醐天皇の南朝に所縁があり、菩提寺に云々と言う事を何処かで読んだような覚えが有ります。
会津人として、先生の深く深淵な知識と物言いは会津人の想いをわかっておられる。とても歴史の真実研究に参考になる。いつまでもお元気で。
肺癌治療は苦しいです。が、このチャンネルは楽しみです。やはり私は佐幕派です。佐幕派には「忠義」が有ると思います。会津は最たるもので新政府に足りない物を持っていたと感じます。
今回も楽しく見させて頂きました。新政府軍、旧幕府軍それぞれに言い分があって、先生も言っておられましたが、どちら側に立つかによって戊辰戦争の見方もずいぶん変わってきます。あえて会津を擁護すれば、幕府の命により京都守護職の任につき、忠実に職務を全うしただけなのに、慶喜は許され、一方で会津厳罰は解せなかったでしょう。それも朝敵だった長州が突然、官軍になるのですから。一説によると勝海舟が慶喜の助命を果たすために会津が暴走した事にしたという話もありますが。不祥事の責任を秘書のせいにする政治家みたい。東北各地の戦況は星亮一さんが書かれている「戊辰戦争裏切りの明治維新亅が面白いです。ぜひ。
星亮一さんは幕末維新史の専門でなく、根拠を出さなくて良い、小説家ですから、ほぼ、会津正義、薩長悪というロジックで書かれた『偽りの明治維新』もそうなんですが、会津観光史学バリバリの早乙女貢より、ちょっとだけ、公平に書いたところもありますが、新たな怨念の源泉を提供している方のイメージですかね。
さて、京都守護職の職を務めあげたのは容保ですが、鳥羽伏見の戦いをけしかけ、主君にあたる慶喜が恭順する中、上野にも宇都宮にも兵を送り、会津領民に重税を課し、越後や郡山で乱暴狼藉略奪を行い、他に例のない大規模な贋金をつくり、挙句の果てにプロイセンに北海道を売ろうとし、戦力にもならない婦女隊を戦場に出させ(志願と言う説もあるが止めなかった)、藩祖保科正之もお怒りでしょうが、それでも命を取られず生き永らえた松平容保、、、会津出身の陸軍大将の柴五郎は、太平洋戦争敗戦後、無謀な戦争ができなかったことに痛感し、自殺未遂ののちその傷が明かして死去した。いろいろ考えさせれれますね。
「ゴルゴ13」は現実にあったことをモチーフにそれらをうまく繋ぎ合わせてストーリーを展開しますが、あくまでもフィクションですので、素晴らしいと思うのですが、歴史小説家の星亮一さんの捏造の手口はこんな感じだとして批判されています。
孝明天皇が新政府側によって謀殺されたのではないかと本で書いているものの、あくまで石井孝氏が「孝明天皇暗殺説」を主張しているのを紹介しているだけで、自分の意見は何も述べていません。要は「言質を他者に押し付ける」やり方です。歴史小説と史実の区別が付かない人達からは未だに信じられている「孝明天皇暗殺説」ですけれども、今や学会では完全に俗説扱いされているのが現状です。かつては星と同じく東北贔屓の佐々木克氏も暗殺説を支持していましたけれども、原口清氏の暗殺説否定(丁寧に証拠に基づいて時間経過を追っています)を受けて、その考えを改めています。また現在は評判が悪い、マルクス史観の井上勝生氏でさえ病死説と暗殺説を併記していますし、学界的には暗殺説は相手にされていないのが現状でしょう。星さんは違うのかもしれませんが、小説家も生活が懸かっていますので、留飲を下げたい読者に忖度します。孝明天皇が元々病気だったと言うストーリーはカネになりませんね。
自分の主張したい都合の良い事実だけを集めたり、そういったストーリを喋ってくれそうな専門家を登場させるマスゴミの切り取り報道と似ていませんか?
白虎二番士中隊の自刃は城が炎上して居るのを見て自刃した訳ではありません 城下に降りて戦うか城を枕に戦うか意見が分かれ対立した為に潔く武士の本分を明らかにする為に自刃したのです
知的な上級藩士がなぜ、集団自決をしたのか?誰も見ていなかったのですから、城が炎上しているのを見て自刃したと言ったのは会津観光史学の適当な捏造。しかし、いくら何でも勘違いしたというのは酷い。
その後、唯一蘇生した飯沼貞吉の記録が捏造を覆し、仲間との議論の末の選択だったことが明らかになる。
飯沼の『顛末記』
「篠田儀三郎曰く、最早、暫くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀(はかりごと)、元より不可と云うにあらざれども、とても十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ、縄目の屈辱を受ける如き琴らば、上は君に対して何の面目やある。下は祖先に対し何の申し訳やある如かず。潔く茲に自刃し、武士の本分を明にするにありと、議論爰(ここ)に始めて定まり、(中略)慶応四年戊辰八月廿三日巳の刻過ぎなりき、一同列座し西方鶴ケ城に向え遥拝決別の意を表し、従容(しょうよう)として皆自刃したりき」
つまり、城が燃えていると見誤った後世の作り話とは異なり、「鶴ケ城に入ることはできようが、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができないという一心で自刃の道を選んだ」とある。
ついでに、若い白虎隊には当然、隊長がいた。即ち、白虎隊中二番隊中隊長、日向内記。
戸ノ口原の決戦前夜に食糧調達と打ち合わせを理由に隊長自ら戦場離脱(飯沼貞吉が後に食料はあった顛末記にある)、事実上、白虎隊を置き去りにした。その後、鶴ヶ城へ入り、籠城戦へ参加、白虎士中一番・二番隊士を一つにまとめ、白虎士中合同隊として西出丸の守備についている。理由は不明だが、鶴ヶ城に入ることもできなくはないが、城に逃げ込まなかった若い部下を上司が見捨ててしまったのが悲しい。
自分は中通り出身だけど山口も鹿児島もどうも思ってない
南 鶴ヶ城を望めば 砲煙あがる
痛哭 涙を飲で 且 彷徨す
宗社 亡びぬ 我事 終る
十有九人 屠腹して斃る
会津人てす。
会津人は日清かん の教育の元
人が よく あきれて 見ていた人も いたそうです。また 七日町には 新政府軍のお墓も
地元の人が 作ってあります。
会津の人は 人がいいかもしれません。
長州藩ってマジ過激過ぎてヤバい
八重の桜の鶴ケ城
由来を頭に吸収できました
佐幕が賊軍に変わり武士が農民に変わった野口父しらふの時には良いけれどお酒が入ると罵倒する
自刃の語りが多いけど十四 十五の白虎隊 会津愛が強すぎた 自然科学で落ちてない ほんとのところはわからない
22:45 錦絵だけでは真実は計り知れません 寧ろこの絵に限らず殆どが脚色ばかりで信用出来る物ではありません 絵では毛氈が敷かれて居ますが実際は茣蓙だったという話もあれば その時の毛氈を切り取り 泣血氈として持って居たとも言い真実か否かは存じませんが現存して居ます
後から言えることだけど、最初に仙台攻めてればたぶん大して戦争にならず降伏してただろうから、その後に会津攻めておけば孤立状態だから早く降伏してた可能性もあるよね。
今の福島県の東側を北進、二本松城を落とし、会津か仙台のどちらに進むべきかをと言う話ですね。長州軍の総帥の大村益次郎は恭順派も多く、それ程、戦意の高くない仙台を先に攻めると仙台藩は鉾を収める。会津は孤立して仕方なく降伏すると言うストーリー。
現場の指揮官である板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張、現場の意見が尊重されたが、板垣は北側の母成峠を一日で突破、分散していた会津藩兵に戻る時間を与えず一気に会津に突入した。これにより、会津によるプロイセンに対する北海道売却がとん挫したと言う説もあり、なかなか、判断が難しいですね。
私の知り合いの山縣さんは、転勤で会津に配属になり、つらい思いをしたそうです。皆さん、市橋先生の授業を聞いたら良いと思います。
庄内藩の鶴岡市や酒田市では西郷隆盛の肖像画や銅像、南洲神社があり鹿児島市とは兄弟都市と交流があります。
庄内藩も隣の新庄や秋田を攻めているのでどう思われているのか気になるところです。
西郷頼母の子孫に、姿三四郎のモデルが居ます!加納さん
地元鶴岡庄内藩なんですが、奥羽列藩同盟も諸藩の裏切りによって瓦解してしまった。鬼玄蕃と恐れられた第二大隊長は会津救済の為南下したものの裏切った久保田藩新庄藩に背後を突かれ結核に蝕まれながらも転戦を余儀なくされたとある。薩長土肥は版籍奉還で各藩の資金を奪い他国に匹敵する軍事力を得る目的があった為に強行に出たのが真実だと思う。そこに正義はあったのか、いや急ごしらえのこじつけに過ぎない戦いだった。西郷隆盛も新政府の存在と意義に悩みながら西南戦争にて幕を閉じたのが顛末です。西郷隆盛はこの時代で唯一血の通った人間と言える。追記、現政府も安倍菅岸田は新政府軍ゆかりの地出身であり、歴代を見ても金に忌まわしき人物は何故か新政府軍ゆかりの地が多い。
政府も金はありませんでしたので、敵対した諸藩の領地を一部接収したのですが、おっしゃられる「版籍奉還」は函館戦争が終わった後に制定されていますし、版籍奉還は中途半端で、的外れな議論では??ついでに中央集権体制をつくるうえで最大の山場は、明治4年の廃藩置県。西郷隆盛率いる御親兵による抑止力もあったが、殆どの知藩事(旧大名)は多額の借金が免除されるとして、むしろ歓迎した?
それから、菅総理はあなたの隣の秋田のご出身ですよ。ついでに満州事変を起こした石原莞爾は、鶴岡出身で、個人的には石原の頭脳は凄すぎると思いますが。A級戦犯で絞首刑となったのは、東条英機/岩手県、板垣征四郎/ 岩手、木村兵太郎/ 埼玉(東条側近)、土肥原賢二/ 岡山、広田弘毅/ 福岡、武藤章/ 熊本、松井石根 /愛知の7名
カネというと戦後は田中角栄(新潟)が最も有名だと思いますが、魅力的な政治家です。また、戦前では盛岡藩の原敬。「我田引水」でなく、「我田引鉄」と言われ、無理やり鉄道を蛇行させて公共事業をつくったことで批判もされていますが、長州藩の井上馨、陸奥宗光が見出し、伊藤博文の側近として活躍、私の好きな大政治家です。
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菅前首相は秋田久保田藩出身の奥羽列藩同盟の裏切り者です。
米沢藩救済に向かった折、背後を突かれ玄蕃もいきり立って角館まで攻め上がった歴史があります。
新政府軍は金と権力に取り憑かれた土地柄なのはある意味証明されている。
会津で終わらせないで最上川沿いの戦いもお願いしたいんですが。
彦根藩と水戸藩も、敵対は今でもあります。
5:56 白虎隊はピュアなロイヤリティーの側面で語られますが、ヒトラーユーゲントの教育にも悪用されたりといった過去もあります。やはり先生が思われる通り、死ななくてよい未来の人材が、状況判断の間違いから自刃した悲劇の側面を忘れてはならないですね。
先生 丁寧な説明ありがとうございます。大阪が今でも東京が嫌いなのは 大阪夏の陣の時に 徳川軍は 大阪場周辺の女子供を大量に拉致し、奴隷にし 盗難アジアにも大量に売りつけ 悪辣の限りを尽くした事実があるのが 圧倒的に強いと思います。 真田幸村は 軍司と言われ、知略の限りを尽くして家康本陣にまで迫ったと言われ 今でも尊敬の念を持たれています。 会津若松城は、戦後 福島県の観光資源を作る必要があると市民の要望もあり、若松城の一画を競馬場にして お金を稼ぎ その金を資金として 若松城を再建したそうです。 会津の方はいまでも長州には 恨みをもっていますが、会津戦の時 本当はもっと 破壊力のある 爆発する砲弾があったのに、大山巌の ”そこまでしたら 破壊力が強すぎる”との一言で 鉄の焼け砲弾を城に打ち込んだと 現地の方から伺いました。
破壊力のある砲弾はアームストロング砲のことですが、空砲にして撃ったと同砲を所有していた肥前藩の地元佐賀新聞が報じていますが、それによると、「破裂弾でない空弾が混じっていたので城内の女性や子どもの犠牲が少なくなり、城の損傷も最低限に抑えられた」と会津と佐賀の歴史研究者の研究者が報道しています。
今までのコメントをみると150年も経ってるというけれどアメリカも今だに南北戦争の遺恨が残ってるし、
先祖が南部藩である私も高校野球で仙台育英が下関国際を破って優勝旗がついに白河の関を越えた時、
仙台育英の創立者の加藤利吉先生が会津出身者で思わず「やりましたね!」と正直ほくそ笑んでしまった。
勿論、今の山口県の人々に恨みなんて抱かないけど。
現在も行われてるロシアとウクライナも同じスラブ民族でも残念ながら怨恨は残りそう。
会津の仇の薩長も、長州は大河「花燃ゆ」で描かれた通り蛤御門の変ともいわれる禁門の変で
辛酸を舐め、薩摩は言うまでもなく十年後の西南戦争で賊軍となり三つ巴で酷い目にあった。
しかし会津の場合、白虎隊と西郷頼母妻娘一族の自決の悲劇が会津の怨恨の永遠の語り草になった。
虎さん、薩摩が逆賊になったのではなく同じ薩摩藩のトップの人間である西郷隆盛と大久保の意見が合わなかった事で
対立したというのが正しいです。別に薩摩が敵になったわけではありません。
気の毒な日本の歴史です。どうかこの先の日本の歴史には、決して誤解や裏切りではなくとも日本を二分する戦いは起こさないでください。議員さん、政治家の先生達に会津のような重荷を背負わせない事を、約束してほしいです。会津の文化は高いです。誇り高い人々です。話し合いをして日本を二分しないように、先祖が同じなのに、歴史の変わり目には必ず間違って争いが起きる。この悲劇は繰り返してはならない。
先生イケメンですよね👨🏫
こんばんは。
福島県出身です。会津を取り上げていただき、ありがとうございます!
会津の生まれではないので長州には何も思ってはないのですが、
明治維新後、徳川慶喜は会津に行ったことはあるのでしょうかね?
それと、福島県に国立の医学部がないのはずっと政府に恨まれてたから、とか教えられました。
本当なのかどうか気にしてませんでしたが。
一県一医大方針から外れていません、県立医大があるではありませんか?
まぁ、今となれば、都市伝説のようなもの。それに会津からは、国官公庁に随分と人材が登用されてますよ。
福島第2原発は山口県出身の菅直人が悪いのは事実ですが、意図してやった訳ではありませんからね😅
長州の事を何も思わないのは当然ですよ。何しろ、福島県内で蛮行を働いていたのは、会津藩士ですから。
因みに会津戦争に長州は参加していません。会津世直し一揆からも分かるように、会津藩の領民は会津藩士怒っていました。
会津の人が長州を恨む理由なんてないんです。下北半島に行った会津藩士が、廃藩置県後に会津に戻ったのは約1万人です。
会津に住む人たちの大部分が、会津藩士に怒りを持っていた領民なんです。なのになぜその末裔が長州に?おかしくは無いですか?
長州への恨みは言いがかりである、とする声が年々強くなってきています。会津の暴走をやめさせる時が来たのかもしれませんね。
鶴ヶ城降伏の際、中村半次郎が号泣したというエピソードも好き
私も80歳になりますが、半次郎の隣村です。郷中教育の名残で、昔、私も公民館で小中生一緒に遊んでいました。目上の者が仕切り誘導する親の役です。喧嘩がひどいと兄者が「てげてげせんか」と𠮟ります。たいがいとか、いい加減にという意味です。追い込まず和解と言う事を理解していました。薩摩の先人『日新公』の教えです。西郷公も半次郎もその精神です。庄内藩もその教えを持ち帰り今も毎年交流があります。遺恨を残さない、とどめを刺さない。薩摩は全民、武と農合体で戦の時は男は村に皆無で、女子供だけ残る。生きて帰って来るのは二~三割と聞く、島津義弘公の無礼講と言うのがあります。一緒に飲んで殿に何でも言えとの事。薩摩では郷中教育は士農男女子同部屋で年長者が教える。今でも自分は士族だったと言う人はいません。それぞれの地域で生き方があったのですね。会津は士族と平民が厳しく定めがあったのでしょう。長くなりました。
佐川官兵衛は越後で略奪に走った多くの会津藩士の中で、珍しく、長岡藩を支え活躍をしたのですが、一方、会津城下防衛戦の要、長命寺の戦いでは、酒の飲み過ぎで指揮官自ら寝坊し、戦いにならなったポカをやるところが彼の欠点であり、愛すべきところですね。しかし、会津戦争では全般的には戦いのまずさが目立つ会津藩の唯一の勝利と言われるのが、官兵衛による住吉川原の戦い。
日光口の中村半次郎率いる西軍が本郷より若松に侵攻しようとしていることを知り、官兵衛はこれへの奇襲を企て、正午から夕刻まででありましたが、劣勢の会津戦争で唯一の勝利を導きました。中村半次郎にとってほろ苦い敗戦と言うことなのでしょうが、その半次郎が泣いたくらい、薩摩は会津に対し、敬意を表していたのでは??
花の白虎隊(市川雷蔵)と桐野利秋(黒川弥太郎)。
最後のほうで出たいまだに各県同士遺恨が残っているとおっしゃっていましたが、今は大阪と東京の対立なんかはケンミンショーなどのエンタメになっていますよね。昔は本気で憎みあっていたかもしれませんし、今もお互い好き嫌いはあるかもしれません。でも過去の憎しみを乗り越えて、程よく忘れて、お互いに楽しくいられたらそれが一番だと思いました。また情報社会になった事で、他県や他国のことを知ったり交流できるようになったお陰で、自分のコミュニティ以外の人にも親しみを覚えやすい社会になりました。本当に良い時代だと思います。こうやって少しずつでも悲しい争いが起こらなくなってくれたらいいと思いました。
韓国と日本みたいな関係と似ているような気がします。
令和になっても山口県出身であると隠して結婚する人もいます。
その場合だと両親は海外にいるとかあらゆる理由をつけて両親の顔合わせを回避する人もいますね。
追信:前にコメントを出した者ですが、11月に戊辰戦争時の新発田や庄内のエピソード映画があるようです😊
薩摩や長州、土佐が新政府側となり、会津その他が幕府側となって戦ったにしても、その後の西南戦争等では、薩摩が長州や土佐と戦って、会津その他も新政府側に加わった。もうめちゃくちゃやないか!アメリカの南北戦争も似たようなものかもしれないな…。
長州側の言い分としては、禁門の変に至るまでの幕府や会津の長州への扱いや、その後の朝敵となった長州への苛烈な攻撃、仕打ちなどがある。今でいえば長州は集団いじめにあったような感じである。禁門の変で西郷隆盛はこれは会津と長州の私戦であり、他が介入すべきでないと言って派兵を断ったが、京都御所を警備するという理由で任務に就いた(だから会津が長州にやられそうになってから加勢したのだ)。会津の受けたひどい扱いや戊辰戦争を語る以前に、そういった長州の受けた酷い扱いも同時に語らなければフェアではない。
四境戦争負けんでよかった(小並感)
「ならぬものはならぬ」と言う教えでは判断の自由がないから第二次世界大戦でも同じだったろう。
まぁ外国の脅威を察知して倒幕派に転身した薩長は、会津のように忠誠心はないがやはり先見の目があり賢いんだよなぁ…
海外と取引する海があったの大きいね
松平容保降服式は板垣退助では無く 桐野利秋だと習いました 私は会津若松出身です 尚 西郷頼母は養子を迎え 養子が柔道の道に入りました その方が姿三四郎のモデルと成った方と伝え聞いて降ります 私の先祖は下級武士でしたが 会津戦争で敗れトナミに移住 廃藩置県後会津若松に戻り 曽祖父の弟が警視庁に巡査として採用され 西南戦争に抜刀隊として参加し 田原坂で戦死して居ます 墓は田原坂近くに佐川官兵衛らと共に祀られております 会津人として長州人は大嫌い 彼奴らには絶対負けるなと言われて育った世代です
新政府は会津を弱らせるために福島を県都にして勢力を弱めました。
それと同じように新潟なども長岡を県都にせず新潟を県都になりました。
長岡と会津共に最後まで戦った仲間だったんだなと思うと今も友好都市なのもうなずけるし未だに長州(山口県の山口市)と会津(会津若松市)が会津若松市がかたくなに友好都市を拒み続ける事に納得できます。長岡藩は7.4万石から4万石へ会津藩は23万石から3万石しかも下北半島の斗南藩へ 会津藩だけ?
何をかいわんや、会津としては戦いは避けたかったわけで、何が何でも会津を潰したかったのは、新政府軍ですよね。なぜ恨むって、当ったり前でしょうに。
父親から聞いたのはとばされた北の果てで南の方角の星に向かい皆で誓ったという・自分たちは遠く離れてしまったが天皇の子どもである。そう言う心が斗南にこめられているのだといいいました。ひっそりいわれていて記されているわけではありませんが恨みを誓うのではなく当時の会津の人の謙ょ、実直さがなんとなく感じます。
約30年前、福島県の大学に通ってました。
「戦争」っていうと会津の高齢者は会津戦争の事を言ってて
いわゆる明治政府軍がひどいことをしたと言ってました。
うちの祖先はお堀の近くで遺体でずっと放置されました。会津藩の遺体も凄い数が放置され続けました。負けたからしょうがないと言われればその通りかもしれない。
会津市内、会津地方でも略奪、強姦、凌辱
が凄かったと祖母から聞かされていました。
そんな事を聞かされた祖母たちは新政府軍を許せるはずがない。
今は若い世代でそんな話も分からない人が多いから許すと言ってるが簡単な話だと思わない方がいい。都合の悪い歴史は消されるが現実は違う。実際の現場を自分たちは見てはいないが、いい聞かされた言葉は重みが違う。
負けた人間は動物以下の扱いです。
何年も経って日本人が日本人を傷つけない世の中になることがせめてもの償いだと思う。ならぬことはならぬものです。
会津藩のその「ならぬ事はならぬ」という言葉はあまり好きじゃありません。その会津藩も財政難のために偽金
を作ったり、脱藩した元水戸藩士を使って略奪行為をしていました。また幕府から開発管理を頼むぞと言って譲り受けた
蝦夷地の一部をこっそりドイツに売ろうとしていました。貴方の言う通り、会津藩側にとっての都合の悪い歴史も
消されますよね。
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ちょっと話を盛りすぎではないですか??
もうちょっと歴史を勉強するべきです。
偽金作りに関しては幕府の了解の元、行われてます。むしろ、全国幕府の許可なく横行していた中しっかり了承を得る辺りはさすがだと思いますが??
蝦夷地に関しては会津藩と庄内藩が売却ではなく、貸すと言う文書があり、その後一部を売る予定だったとドイツで見つかっています。
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話を盛っていませんよ。
幕府の了解を得ていても、偽金作りって本来は良い事ではありませんよね?ならぬものはならぬ精神の会津なのにそういう事をしてるなら他の藩と変わらないです。
99年貸すっていうのはほぼ売るようなものです。ドイツに99年貸して戻ってくると思っていますか?当時の事を考えればドイツがちゃんと返してくれるわけないです。ドイツも当時は日本を植民地にできないかと考え、その足掛かりとして蝦夷地を何度も訪れていました。
その後、政府がドイツに対して会津と庄内藩の交渉を解消するために多額のお金を支払って解消してもらっています。
@@anti--hero まあ幕府も幕府で悪いですが。会津戦争の戦準備として農民から凶作のための米を奪っています。また町人からも財産の没収をしています。こういうことをしておいて何が
「ならぬものはならぬ」なのかと疑問に思います。
白虎隊はじめ若くして戦死してしまった少年達は本当に哀れだったと思います(涙)
終戦後、藩主の松平容保は死罪にならなかったが、側近の萱野権兵衛が死罪になってしまいました(涙)
後に生き残った会津藩士の中で明治政府の役職に就いた方々も何人かいたみたいですね。
戦争での恨みはあっただろうが、今度は徳川幕府の為では無く日本の為に働ける事になったのはそれはそれで喜ばしい事だったと思います。
会津をはじめとるす幕府派閥を潰した薩長も後に派閥政治や内ゲバ・権力争い(西南戦争etc)してる皮肉
妬みというか、絶対に忘れてはいけない「意地」・・・戊辰戦争の場合も新政府軍の憎さというか容保の「意地」みたいなもの・・・一人の「意地」によって多くの死者が・・・人生で「意地」なんか何の得にもならない自分の立場を悪くし損をするだけ「意地」を無くす方法ってないものでしょうかね・・・
意地ねぇ
売国計画までして戦うのが意地?
民衆相手に蛮行三昧なのが意地?
忘れちゃいけないってのなら
会津の蛮行に加えて
会津プロパガンダによる嘘も忘れなくていいよねw
板垣氏が会津の方々から感銘されたのは、容保公が城を去る際に輿を用意した寛容な心に感銘を受けたそうです。
京にいた長州藩の幹部らはその対応にノーを突きつけたが、会津攻めの現場指揮官である板垣や薩摩藩の桐野、長州藩の前原の意見を支持した。
そのかわり、会津藩の家老萱野氏の切腹ということで容保公は謹慎で済んだ。
また、板垣氏は維新後会津の方々の名誉回復にも尽力されている。
その甲斐もあってか、自由民権運動を起こした際には福島県から支持する声が上がった。
会津若松市民です。山口県出身の安倍元総理が会津若松に演説に来た際に、会津若松市民に謝罪してました。何年か前に福島の県内ニュースで見ました。会津人は頑固な人が多いです。なかなか許してはくれませんよ、一筋縄にはいかないです。私も山口県とか鹿児島県と聞くと、やはりどうしても嫌悪感を抱いてしまいます。
ミーさん、安倍元総理には関係ないのに安倍さんがそれを代表として福島県にきて謝罪するってそれって立派だと思いませんか?あと安倍元総理は山口県出身ではありません。安倍元総理は
生まれも育ちも東京です。父親が山口県出身という関係で安倍元総理も山口にゆかりがあるだけです。
あと私は会津戦争について詳しく調べた事のある人間ですがなぜ山口県が恨まれるのかいまいちよくわかりません。
新政府軍は会津攻撃を決める前に会津藩に対して
謝罪すれば寛大な処置にする用意があるといったのにそれをNOといった回答をしたのは
会津藩ですよ。そして新政府軍の下参謀が暗殺された後に会津藩が新政府軍の領地である白河を攻めて
占領したのが会津戦争の始まりです。このあたりの歴史は理解されていますか?
白虎隊の動画で他県の方が、卑怯な長州が許せなくて山口県の市役所に抗議の電話をしたとコメントしていた方がいました。それを読んで会津の為に戦ってくれる他県の人がいる事に、ありがたくて涙が出ました。
ほとんどの方は会津藩の応援のコメントが多いです。
何で今の時代も白虎隊や新撰組のCZcamsが人気なのか、分かると思いますが。会津藩と新撰組は必死に長州と薩摩の暴挙から必死に京都を守ったのです。
@@8250h 新選組や白虎隊が人気になったのはドラマで火がついたからですよね。
ドラマが作られる前は新撰組を知らない人は多かったです。
会津藩や新選組が京都を守ったといいますが、会津藩や薩摩藩は幕府や新選組に協力的だった建物にも砲撃をしているのですが知っていますか?残党狩りで必要以上にあちこち火をつけて京都の大半を燃やしているのですが。館長さんもそれを指摘していました。ある大学の講師さんが新選組は迷惑な存在だったという京都の農民の歴史的史料を解読して発表しています。
友人は会津若松市に観光に行きましたが休日なのに人が殆どいなかったといってましたよ。
私からするとせっかく萩市と会津若松市が仲良くなれるチャンスだったのにそれを壊すその人のほうがどうかと思いますが。会津若松市も姉妹都市として結ぶつもりだったようですが、一部の老人が抗議したそうですね。
@8250hさん、ちょっとひどくないですか?150年前の時代のことを、山口県の市役所の抗議の電話をした不法行員をしでかした輩がいた方がいたことを、ありがたがって、涙を出しては。。。現在の山口の役所の方々に何の罪があるのですか??
しかも、戦後、会津観光史学と呼ばれる金儲けなら何でもアリの小説家や会津観光振興の役人たちのインチキな作り話をもとに、会津戦争後も何かと助けてもらったことが多かった山口や鹿児島に恨んでは、、、。
板垣退助は郷士の竜馬と違って掛川以来の家老の家柄。
容堂は当時暴れん坊だった板垣を軍司令官に抜擢した。
容堂は幕府の討伐には反対だったが
板垣は独断で土佐藩兵を率いて倒幕に参加した。
板垣は薩長藩閥から軍事的才能を警戒され維新後の人事で文民職に廻され自由民権運動を推進した。
岐阜城下に行くと板垣退助遭難碑がある。
大和西大寺にも安倍元総理の遭難碑が建つかもしれない。
伊達に潰された会津の芦名と水戸の佐竹。長州に潰された水戸の徳川慶喜と会津の松平容保。歴史は繰り返される。
京都守護職を引き受ける、財政状態では無い。容保公が桑名松平家からの養子だからだ。親藩の筆頭越前松平家が、地理的にも近く引き受けるべき。次席の会津は迷惑。士族以外農民の抵抗は、思ったほど少なかった?年貢軍資金の取り立てが過酷だったのか?
この時庄内藩は無敗の日本最強クラスの戦士軍団。だが同盟藩が全て負けてしまった為、最後降伏
動画はわかりやすく解説されていて面白かったのにコメント欄見ると過剰な地域ヘイトやら対立煽り的な発言をしている人が多くて残念な気持ちになる
松平容保という藩主が尾張藩の様に早く徳川を見切ってくれていれば
この様な悲劇は起こらなかったでしょうね、あと会津藩独特の教育方針もこの悲劇を生んだ要因かと思われます
長州の方はいつまで恨み続けるんやという感じだが会津はそうは、忘れない。日本と朝鮮の関係と同じ。
それがどうも腑に落ちない。
会津の人たちが恨むべき相手は薩摩でもなければ長州でもなく松平春嶽。
松平容保よりも徳川将軍家との血縁が濃いはずの松平春嶽が会津を戦乱に巻き込んでおきながらいとも簡単に徳川将軍家を裏切っている。
会津を巻き込んだ責任を取って武士らしい最期を遂げていればまだ救いようはあった。
まるで幕末の奸雄だ。
捏造の怨みは勿論いけないが、ただ一辺倒な被害意識を語るだけの愚か者も困ったものです。相手があって怨むものであって、相手の事を知ろうとしない限り、歴史を語ることをするべきでない。それこそ、隣国と何らかわらない、それも罪の一つではないですか?
もっと軍備を旧態依然の火縄とかから最新のにしとけば、会津は強いから戦争やめよってなったかも。先を見越す人物がいなかったのが不運やと思いますね。
先は見越していましたよ5連発式じゅうは少しは有りましたからただし財政難で買えなかった丈軍の体制もフランス式に変えつつありましたが時間とお金がありませんでした😅
会津人です。戊辰戦争はお互いの正義を掛けて戦った戦争だと思ってます。そこには遺恨はありません。遅かれ早かれ外圧で開国維新は避けられない状態になり幕府は存続出来なかったでしょう。会津もそれは分かっていたみたいですが、徳川に対する忠心を最後まで尽くす事で滅ぶ美学を選んだのでしょう。賊軍とされた事がその思いを強くしたのだと思う。今でも会津人は頑固者が多いです。戦争を美化するつもりはないのですが、会津人としての正義を貫いた先人達を誇りに思います
それは武家だけの思いでしょ
領民たちは冷めた目で見てたとか 田畑を荒らされ 牛馬、米など食料を挑発されて
負けて早々に下北半島に出て行ってくれてありがたいと思ったのが事実です、武士なんてなんにもできないお荷物
長岡藩もそうでしたね
@@asaichban9842 会津領民は、会津藩士の亡骸を罪人塚から寺院に移す作業すら手伝わないほど、毛嫌いしてたんですよね。
しかも薩長土でもやらなかった、会津領内や共に戦ってる長岡藩や二本松藩などの領地での、略奪虐殺放火。兵士や一般人を治療していた病院を襲撃して虐殺。
江戸開城し徳川家は降伏したのに、徳川家存亡をかけて首を差し出すとどころか命乞い。
挙句の果てに戦争を続けて負けても、責任を取らずまた生き延びる。忠誠心もなければ責任感もない。武士としての潔さもない。
一体何が誇らしいのか理解に苦しみますね。
ただし、サッカーと美祢市は除くらしい、ここをドキュメントを流して欲しいなあ、レノファ山口と福島ユナイテッドの時、お互いに移籍した選手は差別を感じなかったらしい、美祢市の白虎隊の話はとても泣けます。
それでも新政府軍を恨む。
会津藩を、執拗に京都守護職に就任するように言った、福井藩の松平しゅんがくが一番悪い。
【ならぬものはならぬ。
会津魂】って書いてあるTシャツ買っちゃいました。