【鎌倉殿の13人】陰謀渦巻く鎌倉幕府の裏側〜源氏三代と北条政子の真実〜|小名木善行

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    #鎌倉幕府#源頼朝#北条政子

Komentáře • 28

  • @user-uf7pn4tj1e
    @user-uf7pn4tj1e Před 2 lety +20

    小名木先生の話は
    やっぱり面白いです。
    ありがとうございました!

  • @user-qn2kx8wf2q
    @user-qn2kx8wf2q Před 2 lety +7

    小名木先生が歴史を教えれば
    みんな自虐史観から払拭して
    誇りある日本を取り戻せる気がします。
    いつも勉強になります。

  • @user-dv6pg5pz6t
    @user-dv6pg5pz6t Před 2 lety +6

    小名木先生に聞くと何ですうーっと頭に入るんだろ。ありがとうございます‼️

  • @mariaanesan2
    @mariaanesan2 Před 2 lety +5

    まるでそこにいたかの様な小芝居、笑わせて貰ってます😀

  • @user-cr7ky6fw1z
    @user-cr7ky6fw1z Před 2 lety +7

    いつもありがとうございます おかげさまで いい勉強になります。

  • @user-me8zy1yf4x
    @user-me8zy1yf4x Před 2 lety +3

    大河ドラマ【鎌倉殿の13人】を見始めたので予習ができて良かったです。ちょっと家系図をみたりして鎌倉幕府は源氏が将軍なのにいつの間にか北条が仕切っている流れが分からなかったので勉強になりました。女性の北条政子が非情な決断で政治をやらざる得ないのは幸せとは言えなかったような

  • @0110to0710
    @0110to0710 Před 2 lety +10

    今回の大河の主人公義時は、そういう姉を前面に出して陰から支配しようとした人物として描かれるのか、それとも・・・
    ってところですよね。
    三谷幸喜は、真田丸の時も今後認められていきそうな新しい見方をふんだんにぶっこんでいたので、見たことのない政子&義時になるんじゃないかという期待をしています。

  • @user-pl4hq5mf6u
    @user-pl4hq5mf6u Před 2 lety +9

    小此木先生日本を格好よくといつも言っています。
    日本人が国家の日本国を愛せない?愛さない?を終わらせて自分達が構成している日本国を愛する事が出来、日本国を強くしよう、国益を守ろうと真っ当に考える国民を作り、国を愛するように考えを変える方法を教えて下さい。

  • @user-iu5zf5qu6y
    @user-iu5zf5qu6y Před 2 lety +8

    1:00 頼朝が流罪になったのは元服して朝廷に仕官した後、数えで13、4の頃です。「こんな小さい時」ではありませんよね?

  • @V802SE
    @V802SE Před 2 lety +15

    元落研ですか?喋りがキレッキレですね。面白かった(興味深かった)です。

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Před 2 lety +2

    ・源 頼家(みなもと の よりいえ)
    鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか、確認できていない。合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。
    ・公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))
    鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(『尊卑分脈』など)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』など)。母は『吾妻鏡』によれば足助重長(加茂重長)の娘の辻殿、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている。
    ・源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
    鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男[注釈 1]として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
    歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
    ・『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)は、鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で『金槐集』とも呼ばれる。成立は藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られ、定家所伝本の奥書がある建暦3年(1213年)12月18日(実朝22歳)までとする説が有力。全一巻、663首(貞亨本では719首)掲載されている。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名『鎌倉右大臣家集』といわれている。ただし、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年1218年である。昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は建暦3年12月18日の奥書があり、自撰・他撰(定家による撰)両説あるが、冒頭三句と掉尾三句に後鳥羽院への強い思慕が伺えることなどから、自撰が有力である。後者は、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかについて明確でなく、藤原頼経や一条兼良が想定されてきたところ、1968年に益田宗が足利義政と比定し、定説となった。これに対し、2013年に小川剛生は、義政の柳営亜槐時代に歌書収集活動が見られず、足利義尚の柳営亜槐時代に活発な歌集収集、部類(改編)活動が見られることなどから、義尚が文明15年(1483年)前後に編集したことを論証した。ただし、定説には至っていない。国学者賀茂真淵に称賛されて以来、「万葉調」の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際には万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。松尾芭蕉は、中頃の歌人は誰かと聞かれ、即座に「西行と鎌倉右大臣」と答えている。正岡子規、斎藤茂吉、小林秀雄からは最大級の賛辞を送られている。
    ・曾我兄弟の仇討ち
    (そがきょうだいのあだうち)
    建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの1つである。
    曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩の際に富士野神野にて発生した。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。6月1日には祐成の妾の虎を始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている[。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。
    ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我十郎祐成
    天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我五郎箱王丸
    夢ならで またも逢ふべき 身ならねば 見るおもかげに 袖朽ちぬべし ― 箱根の別当
    ・曽我梅林(そがばいりん)
    神奈川県小田原市北東部に広がる、食用の梅の産地、また観梅の名所である。JR御殿場線下曽我駅周辺に広がる別所・原・中川原の3つの梅林の総称で、白梅を中心に約35,000本が栽培されている。茨城県水戸市の偕楽園、埼玉県越生町の越生梅林とともに関東三大梅林に数えられることもある。小田原市は市章も梅の花を図案化しており、古くから梅との結びつきが強い。戦国時代に後北条氏が梅を植え始め[2]、江戸時代には小田原藩主の大久保忠真が奨励したことにより栽培が広まったとする説[3]が広く知られている。しかし、この定説には史料が乏しく、異論を唱える郷土史家もいる[4]。小田原から二宮町にかけてはかつては塩田が広がり、食塩が豊富に供給されたこと、さらに小田原宿を利用して箱根山を越える旅人が、弁当の傷みを防ぐために買い求めたことから小田原では梅干しの生産が発展した。江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』にも、小田原宿の名物として梅漬が紹介されている。
    ・松田桜祭り
    桜の開花状況に合わせて、次のとおり開催期間を変更いたします。
    旧 1月29日(土)から2月20日(日)まで
    新 2月11日(金・祝)から3月6日(日)まで
    感染症予防について次のとおり新型コロナウイルス感染症の対策を実施します。
    ・受付で検温を実施し、37.5℃以上の方は入場をお断りする場合がございます。
    ・咳エチケットにご配慮いただき、園内では原則マスクの着用をお願いいたします。
    ・密を避けるため、入場制限をさせていただく場合がございます。
    ・入園券の購入は、キャッシュレス対応もございます。
    ・地域において、感染症拡大の可能性が見込まれる場合は、開催期間の短縮や中止にする場合がございます。
    開催期間
    令和4年2月11日(金・祝)~3月6日(日)
    時間:午前9時~午後4時
    ※桜の開花状況により期間の変更有り

  • @user-hj9fz3zh9o
    @user-hj9fz3zh9o Před 2 lety +5

    お祖父ちゃんの小芝居👏うますぎ😂

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 2 lety +5

    政子も偉大だが鎌倉体制の基礎を構築した大江広元の偉大さも発信したいわね

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Před 2 lety +4

    ・比企尼(ひきのあま、生没年不詳)
    平安時代末期の女性。武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允の妻。源頼朝の乳母。実名・父母は不明。娘に丹後内侍、河越尼、比企尼の三女(実名通称不詳)、猶子は比企能員。
    生涯
    平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝が敗死し、14歳の嫡男・頼朝は伊豆国に流罪となる。頼朝の乳母であった比企尼は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、治承4年(1180年)の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けた(『吾妻鏡』寿永元年10月17日条)。
    娘が3人おり、源範頼の系譜である『吉見系図』によると、嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだとされ、その後に関東へ下って安達盛長に再嫁し、盛長は頼朝の側近となる。次女(河越尼)は武蔵国の有力豪族・河越重頼の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清に嫁ぎ、死別したのち源氏門葉である平賀義信の室となっている。比企尼は比企郡から頼朝に米を送り続け、3人の娘婿(盛長・重頼・祐清)に頼朝への奉仕を命じていたという。長女と次女の娘はそれぞれ頼朝の異母弟・源範頼、源義経に嫁いでいる。
    しかし男子に恵まれなかったため、比企氏の家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎えることで跡を継がせている。後に能員が頼朝の嫡男・頼家の乳母父となって権勢を握ったのは、この尼の存在におけるところが大きかった。なお、尼の次女と三女も頼家の乳母となっている。夫の掃部允は頼朝の旗揚げ前に死去している。
    文治2年(1186年)6月16日と文治3年(1187年)9月9日、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催している。その後の尼の動向や死没年は不明だが、『吉見系図』では孫娘の婿である源範頼が謀反の咎で誅殺された際、頼朝に曾孫の助命嘆願を行い、範頼の男子2人が出家する事で連座を逃れたとしている。
    ・北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政[1](たいらの ときまさ))
    平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。武将。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時兼の子。北条政子、北条義時の父。鎌倉幕府の初代執権。
    家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。
    亀の前事件
    治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。
    ・富士の巻狩り
    「富士の巻狩り」も参照
    建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国・那須野、次いで信濃国・三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。
    伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。
    ・政権争奪
    頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚、12月に鎌倉から追放された(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高い。正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となった。時政の幕府内における地位は大いに向上したが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した(比企能員の変)。
    久元年(1204年)3月6日には義時が相模守に任じられ[注 9]、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修禅寺で死去したが、『愚管抄』や『増鏡』によれば頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃されて殺されている。11月5日、実朝が坊門信子を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかり16歳で急死した。時政・牧の方鍾愛の子であり牧の方所生唯一の男子であった政範の死が、畠山重忠の乱から牧氏事件へと続く一族内紛のきっかけとなっていく。
    ・失脚
    時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠との間に軋轢を生じさせることになった。重忠は時政の娘婿であったが、元久2年(1205年)6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱)。
    閏7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。
    。畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される[注 10]。以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。
    建保3年(1215年)1月6日、腫物のため伊豆で死去した。享年78。
    人物・逸話
    時政が流人だった頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻したことは、時勢を察知しうる優れた先見性があったからである。名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、畠山重忠謀殺や実朝暗殺未遂で晩節を汚したためか、子孫からは初代を義時として祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物である。
    時政の孫で第3代執権の北条泰時は清廉で知られ、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事あるごとに参詣して歳末の年中行事も欠かさなかったが、時政のみは牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人であるとして仏事を行なわれずに存在を否定されている[10]。

  • @annieandpatches
    @annieandpatches Před 2 lety +7

    なかなか演技が素晴らしかったです😄

  • @777hydyy6
    @777hydyy6 Před 2 lety +3

    NHKのフィクションは観る気はないですが、13人の御家人の中に当然のことながら政子はいないですよね。しかしながら、現在にも語り継がれる存在感。ドラマにするなら雑魚13人より彼女でしょうよ。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Před 2 lety +1

      実際のところ大江広元なんだよなぁ…
      殺伐としまくってる鎌倉武士を雑魚と言ってはいけない
      割と害がないから牧の方と違って北条政子は生き残った説(まぁもっとも立場が違いますが

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Před 2 lety +3

    どうもイメージが悪い・・・当時ですら悋気が強く、静御前に嫌がらせばかりしてた女性というイメージが強い、孫も実子も見殺しにしたというような・・・まあ、権力者なら私情をいれないというのは分かる・・・しかし、現代の肩ひじ張ったキャリアウーマンみたいな感じがする・・・
    北条政子
    『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする「夢買い」をした。また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。
    頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。
    治承4年(1180年)、以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。
    頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。
    尼将軍
    実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。
    承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。
    三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。
    後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。
    貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。
    だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[16][要ページ番号]。
    泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。
    嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。
    後世の評価
    近世までの評価
    『吾妻鏡』は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。
    室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代の女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。
    江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石、頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。
    現代の評価
    しばしば中世における夫婦別姓(氏)の例[注 1]として挙げられるが、前述の高橋秀樹調査官は、「政子」「北条政子」という名の女性と頼朝が結婚した事実は無く[17]、思い込みや、近世あるいは近代の家族観を強引に当てはめた、ゆがんだ中世理解の最たるものであり[13]、姓と名字を混同した不正確な議論である[18]、と批判している。

  • @user-uv1vx6le3f
    @user-uv1vx6le3f Před 2 lety +4

    お、ご先祖の回
    俺も、自民党 討伐に行くかね(笑)
    藤原と源と、タケミカヅチにアマテラスと
    あと、他に どの系統が混ざってんだろな~
    源の最終兵器になれそうだ(笑)

    • @user-uv1vx6le3f
      @user-uv1vx6le3f Před 2 lety

      ただ、一つ 許せないのは
      牛若に始まり ウチの親族達
      みんな 仲良く やれたのにさ 北条家はさ

    • @user-uv1vx6le3f
      @user-uv1vx6le3f Před 2 lety

      やだね

  • @tadu.1340
    @tadu.1340 Před 2 lety +1

    上杉謙信も武田信玄も法名ですよね?いつから出家しても君主であり続けるようになったのでしょうか?山名宗全から?

  • @kazh2696
    @kazh2696 Před 2 lety +3

    流罪と言っても源頼朝は割と自由な生活だったと云うことらしいですけど...。
    あと、時政は頼朝を認めていたらしいですけど...。

  • @LandMark291
    @LandMark291 Před 2 lety +1

    2:30
    ???だとすると天照大神はやはり男性神じゃないと男系男子になりませんよね?
    それとも当時の天皇(大王)の配偶者が天照大神だったと言う事なのでしょうか?

  • @user-lc7ce5wh4p
    @user-lc7ce5wh4p Před 2 lety +1

    北条政子の行動が不合理に思える。

  • @chu-channel4355
    @chu-channel4355 Před 2 lety

    変な芝居はどうかな?